un capodoglio d'avorio
2004年06月30日(水) |
愛し君へ(〜最終話) |
悪くないけど、平凡かなあ、でもまあ、 月9のラストシーンだもんなあ、平凡が一番なのかなあ。 さだまさし原作だもんな、このあたりが限界なのかなあ。 などと言いつつも、一応一瞬ウルッと来たことは告白しなくちゃかな、 あの、四季が路面電車を止めて降りて俊介のところへ走ってくるとこね。
役者芝居として割り切って見たときに、 やはり泉谷しげるは圧巻である、ハマッてたなあ、最後まで。 俊介への土下座のシーンはとくに良かった、 あからさまにそのシーンだけ、テンションが違ったもん、 他のこのドラマのカットと比べて。
でもやっぱり、主題歌、ごめん、ナオタロウはやっぱダメだ。 分からん、まったく分かんない、これがイイというのが。 うーん、うーん、うーん。
♪ ぼくはそんなー にんげんじゃーないー
というフレーズで、なぜかしらどかの耳には、
♪ にんげんじゃーないー
という部分のみがクローズアップされて聞こえてしまい、
そうだよ、そんな声出すお前は人間じゃねえよ・・・
などと毒づいてしまうのだ、うーん。 まあ、いいや、それは。
久しぶりに観た菅野美穂サンは、あまりにも痩せすぎていて、 とっても心配だったけれど、難しい役どころをきちんと演じて素晴らしい。 演技、上手いと思うんだけどなあ、どうも一般的な評価が辛い気がする。 だって、絶対、大竹しのぶの後継者だよ、 あれ系の、いわゆる憑きもの系女優、もしくは神懸かり女優。
藤木直人サンはイマイチかなあ、最後のほう。 うーん『高校教師'03』のときは、もっと自分を追いつめ感が出てたのに。 ちょっと緩い気がする。
最後まで観て、まあ良かったのかなあとは思うけど。。。 さっき書いた『仔犬のワルツ』の感想文と比べて、 あまりにもテンションが違うなあ、私も (^_^;)
まあ、いいか。 月9を2クール続けて観たけど、もう次は観ない。 仲間由紀恵は好きだけど、でもあまりにもテーマの持ってきかたが、 あざとくていやしくて志が低すぎて、やだ、気持ち悪いもん。 仲間サン、かわいそう。
2004年06月29日(火) |
企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜最終話 4 |
(続き)
もいちど、野島サンのこの作品におけるテーマをどか風にパラフレーズするとこうなる。
いままで、ずっと自分の課題として持ってきた、 <情緒レベルによる選民思想>という緩やかな袋小路を、 再度明確に自分の中で意識すること。 そしてこの<情緒>という概念を<芸術>という、 ある種極めつけの<尺度>でもって検証すること
ラストシーンで、仮に芯也が虚空に向けて銃を放ったとなると<芸術=♪グロリア>が二人を安易にハッピーエンドに導いたことになってしまう。
違う。そうじゃないんだ。
葉音を殺すという最低のバッドエンドを回避することができても、最高のハッピーエンドにまで昇華させるほどの力は、<芸術>には無い。少なくとも、野島サンはその力が無いということを、間違ってもその力があると誤解してはならないということを、この脚本の執筆を通じて知ったはずなのだ。ましてや、、、「真実の愛」がどこかにあるとして、それはこの世では実現できないということは、『高校教師'03』や『スワンレイク』で実証済みである。
故に、芯也は、ここで死ななければならない。ましてや、芯也は「芸術(=感受性)」の名の下に殺人に殺人を重ねてきたのだ。鍵二とともに<選民思想>をもっとも良く体現してきた芯也はいまここで、救われても良いことは認めるが、生き延びることは断じてできないはずである。
もちろん、これはどか個人の仮説だけど。『仔犬のワルツ』のテーマが<愛>ではなく<芸術>だったという前提の上でのね。まあ、二人とも助かったという結末でも、もちろん構わないんだけど、でもそう採ったときには、このドラマの評価というのは、これまでの野島ドラマと比べて低いモノにとどまらざるを得なくなるのは間違いない。それこそ、そういう<愛>のもっと先の地点を、野島サンは10年前に『この世の果て』で描いているわけだし。
緩やかで曖昧な袋小路を、はっきりと屹立した袋小路として認識することからしか、私たちは次の風景を想像することすらできない。野島サンは今回の作品で自分の袋小路を明確な限界を見定めることに成功した。しかし、まだ希望は無い。恐らく来年の1月、もしくは4月にまた、野島ドラマが始まるだろう。そのドラマで彼が、どういう世界を展開してくれるのか、どかは本当にドキドキしながら心待ちにする。
そしてそのとき、今回の視聴率、野島サンが関わったドラマとしては過去最低を記録した視聴率が、野島サンの足枷にならなければいいなあと切に希望する。あまりにモダニストで、あまりにペダンティックだけれど、でも彼自身が、自分の理想、自分のモダニスムを破砕して分解してバラバラにしたのちに、幼稚園児が積み木で遊ぶときのようにもう一度組み立てようと必死になる姿というのは、現代においてそれなりに普遍的な意義を持つと思うからである。
野島伸司には、アクチュアリティがある。少なくとも、いま現在ドラマの脚本を書いている人間のなかでは随一のアクチュアリティがある。どかは、そう思っているのです。
2004年06月28日(月) |
企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜最終話 3 |
(続き)
自分の正体を明かした鍵二は、教会で世の人間たちを激しく糾弾する。
鍵二 愚かにも勘違いしやすい人間は、時に自分が神に近づいたと、 悪魔に愛されていると錯覚する そうして他人を攻撃する 一方でテロを起こし、一方で侵略戦争を起こす もううんざりだ、ツマラン人間ども・・・ (野島伸司「仔犬のワルツ」最終話より)
そして圧倒的にすぐれた芸術で、この愚かな人間たちを一気に教化してひれ伏させようと試みる。
鍵二 そうだ、圧倒的な力の差で思い知らせてやるんだ お前たちは、ただ静かに暮らしていればいいと それこそが芸術家の使命 音楽家の最高到達点だ (同上)
これまでの展開の中で、ショパンやモーツァルトやバッハに引き寄せて常に芸術の至高性・絶対性を確認してきたシナリオにあって、最終話のこの鍵二のセリフは意外でも飛躍でもなんでもない。そう「アート」を崇め奉っている人間の帰着するところは、ここしかないんだよね。つまり、野島サンはここで、<情緒レベルの選民思想>ではなく、<情緒レベルの帝国主義>を打ち出したと言っていいと思う。でも、前提は同じ。「感受性の低い奴らがより良い世界を疎外している」という点に立っているんだなあ。
しかし、野島サンのなかの、もうひとりの野島サンは、葉音に憑依してこう語る。
葉音 間違ってる あなたは間違ってる、それは音楽の役目じゃない あなたの言っているのは洗脳であって 酷いことをする人たちと変わらない (同上)
では、もうひとりの野島サンにとって、芸術とは何なのか。
葉音 そして教わったの 憎むよりも、愛することを・・・ (同上)
結局、ここに持ってくるしかできないのだ。不義の子供として生まれた、その報いかのように生まれつき目が見えない葉音。その彼女の感受性はなによりも愛することに向けられたという。一見、究極の宗教的境地に到達してメデタシメデタシのように思えるかもしれないが、これは堂々巡りにすぎない。そもそも、野島サンは「じゃあ本当に愛することっていうのは何?」という地点から出発してきたんだもん。
もちろん野島サンがモダニストであるかぎり、堂々巡りは敗北である。モダニストは何かを追求して前進することに自己の存在意義を見いだす人種であるからだ。このことを認識できない野島サンではない。ここが、どかが、このラストシーンは芯也の自殺であるととる根拠である。野島サンがこの最終話でたどりついた葉音の「愛」とは、すでに彼自身がこれまでの作品のなかで否定してきたものだからだ。
けれど、誤解しないで欲しい。どかはだからといって「仔犬のワルツ」が駄作だとは思わない。この最終話に限って言えばむしろ、これまでの野島サンのキャリアの代表作としてもいいくらいだとすら思っている。なぜなら、いま現在の彼のテーマ<選民思想>を、これ以上ないほど自身に苛酷につきつけて、それと向かい合ったリアリティがみなぎっているからである。
ラストシーン、銃を葉音に突きつける芯也。芸術の至高性に懸けて殺人を繰り返してきた芯也だから、葉音に愛着はあっても、彼のポリシーに従えばここで躊躇無く引き金を引けたはずである。
葉音 あたしを愛してると言って 芯也 僕は・・・ 葉音 言葉に出して言って 芯也 助けてくれ、僕は・・・ 葉音 私の目を見て (車のスピーカーから♪グロリアが流れてくる) 芯也 クソッ、なんてことだ 葉音 芯也 芯也 葉音 葉音 そう・・・ 芯也 君を・・・愛してる (同上)
しかしそうはならない。鍵二が崩れ落ちる炎の教会で死んだ時点で、<情緒レベルの帝国主義>は朽ち果て、そして♪グロリアを聴いた芯也がここで銃を下ろして葉音に背を向けた時点で、<感受性の選民思想>も底が割れた。このドラマが寓意的な性格を強く宿しているという意味において、野島サンがモダニストとしての脚本家であるという点において、だからこそ、芯也はこのあと、必然として、死ななければならないのだ。どかはそう思う。
(もすこしだけ、続く)
2004年06月27日(日) |
企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜最終話 2 |
(続き)
野島伸司という脚本家は、極めてモダニスム的な側面を持っている。つまり彼個人には一貫して追求しているメッセージがあり、表現として提示される作品にそれを反映させようとする点のことである。作品ごと、その場ごとに、自分をリセットして執筆できるほどに、彼は器用ではないとどかは思う。
そして、ここ2年くらいの野島サンのテーマは、常に一貫している。それは<情緒レベルの選民思想の妥当性と限界>である。とくに自身初の小説『スワンレイク』でそれは明確に提示されたのである。
生粋のロマンチストである野島サンは、本当の愛や、真実の信頼関係というものを、これまでのドラマのなかでつきつめて追求してきた。その結果、真摯にその「本当」だとか「真実」を追い求めていくことで、自身がどんどん袋小路に追いつめられていくのを、自分の醒めた目が認識してしまったのだろう。つまり、「感受性」が低い人間や「情緒レベル」に劣る人間が、よりよき世界の成立を疎外しているというアイデアに、彼自身が囚われてしまったのである。
こういう風に書くと、大げさな思想のように聞こえるけれど、でも実はいま現在、この手の選民思想に「軽く」犯されていないヒトを探そうとするとそっちのほうが難しい。J-POPのオリコンチャートを批判するヒトや、美術を鑑賞しに美術館に足を運ぶヒト、古い名作の映画を鑑賞するヒト、小劇場系の舞台を褒めそやすヒトは、多かれ少なかれ、この思想に犯されていると言っても過言ではない(もちろん誰よりもまず、この文章を書いているヤツこそ)。
そして野島サンは他の誰よりも、この「本当」と「真実」を欲してしまった結果たどりついた、緩やかな袋小路にあって、それをいかに克服できるかを舞台を変え、設定を変え、テレビ局を変え、問い続けている。野島ファンのあいだでは評判の悪い『プライド』でさえ、そうだったとどかは考えている。そして『プライド』で野島サンは、敗北した。かろうじて「古き良き時代」というイデオロギーを粉砕することはできても、別の情緒レベルを設定せざるを得なかった。フジのドラマ班の要求するハッピーエンドを実現するために。
そして『仔犬のワルツ』である。『プライド』で敗北した野島サンは、二度と同じ轍を踏むわけにはいかない。だから、この桎梏に挑戦するために、あまりにも、あまりにも直接的なプロットを設定したのである。つまりまさに情緒レベル・感受性という<伝説>と直結する、「芸術」というテーマである。
(さらに続く)
2004年06月26日(土) |
企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜最終話 1 |
いままで企画にとどまっていた野島サンが、自ら書き下ろした最終話。各シーンの緊密さ、ひとつ一つのセリフのテンションなど、それまでとはまったく違うドラマになっていた。
でもこのことは、これまで脚本を担当した若手作家の力量不足のみに帰せられるべきではない。それよりもきっと、野島サンが企画に向いてないのだ。いっさいの弛みを排除したところに辛うじて成立するその理想的世界観は、野島サン自身が全ての細部を監督することによって初めて具現可能なのでしょう。
さて、某ファンサイトでも喧々囂々の議論が尽くされていることからも明らかなように、この最終話はいくつもの「ツッコミどころ」を含んだ重層的なものだった。放送終了直後にはかなり錯綜していた議論の結論も、某管理人サンのこれ以上ないすばらしい「まとめ」のおかげで極めてスッキリ示されている。
つまり、教会に火を放ったのは唱吾だが、一連の殺人事件の犯人は芯也以外にありえないし、葉音は譜三郎と律子のあいだに生まれた「不義」の子供であり、ノッティは鍵二とダンサーのあいだに生まれた「幸福」の子供。
しかし、それでも謎は残る。ラストシーン、葉音と芯也はどうなったのか?一発だけ響いた銃声はどこに向けられたものだったのか。芯也は自殺したのか、葉音が殺されたのか、二人は心中したのか、それとも虚空に向けて撃ったのか。
この視聴者に完全に委ねられたラストシーンのつくりかたは、まさしく'03と'93のふたつの『高校教師』のそれに類似するものである。とくにかつて、かまびすしくも話題になった'93のラストシーン、真田広之と桜井幸子のふたりは電車の中で心中していたのか、それとも眠っていただけなのか、視聴者がどちらの結末を支持するかでその視聴者の根本的な世界観が透けて見えてくるという構造。今回のラストシーンも、構造としてはまったく同じである。
某ファンサイトの掲示板や、管理人サンのレビューの感じだと「虚空に向けて撃った」という結末を支持するヒトが多いみたい。このドラマが<真実の愛>というものをテーマにしているのであれば、確かにこの結末が妥当だとどかも思う。罪も絶望も悪もすべて、包みこむほどに愛が深いという点において、例えば『この世の果て』のまりあのように、理性や感情をも超えたところに愛があるという点において、この結末を支持したいというのであれば、その感想には一定の合理性があるとどかも思う。
でも、どかはこの結末を支持しない。なぜなら、今回のドラマのテーマは、決して<真実の愛>ではないからだ。そうではなく『仔犬のワルツ』というドラマの本当のテーマは<情緒レベルによる選民思想の破綻>である。
(続く)
2004年06月19日(土) |
企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜第10話 |
例によって大時代的な演出によるチープなメロドラマは進行する。けれども忍成クンの演技が、だんだんすごくなってきた。ひとりだけちょっとレベルが違うところで、ひとつ上のレイヤーで演技をしているとすら思える。
忍成クン演じるところの知樹が覆面の幸子に入れ替わっていたというオチで、そのプロット自体には見るべきものは何もないけれど、でも、彼の演技にはグーッと目を奪われる。そう、ちょっと『リップスティック』のときの窪塚クンの演技に近い感じ。浅薄な思わせぶりな表情の翳りではなく、遠くを見つめる瞳から内面への距離感を出せるという反比例の法則。ともかく第10話の忍成クンは、ベストだった。
それに比べてうーん、「リリィシュシュ」コンビの相棒、ノッティ役の市原クンはオコチャマだなあ。セリフはたくさん回してもらってるし、ピアノバトルでもついに最終戦まで残してもらってるし、葉音の「悪魔」に対して「神」という<忌み名>までもらってるんだから、頑張って欲しいなあ。まあ市原クンという役者個人の射程からはおおよそかけ離れすぎてる役どころだというハンデはあるんだけどなー(忍成クンははまり過ぎか)。
あの人の心は私にはない 何をどう努力しても、このピアノを弾き続けても、 あの人の心は私には来ない それならばなぜ、あの人の側に私を? 後でがっかりさせて、それをどこかで見ていて、喜んでいるの? そうだとしたら、あなたは神様じゃない・・・ 神様なんかいない、私は認めない (「仔犬のワルツ」第9話より)
ピアノバトルのさなか、葉音のモノローグ。幼少時代から葉音がずーっと思い続けてきて、そしてついに心を通わせることができたと信じていた芯也には、実は別に本当の想い人がいたことが分かったという状況。パッと見、普通のセリフなんだけれど、どかはやっぱりこのドラマのモノローグは、野島サンだなーと思う。だって、葉音は決してここで、芯也自身にではなく、その矛先を神に向けるんだもの。この距離感。グーッとでずれていくパースペクティヴ。
野島サンの作品は、不必要にむごくて辛すぎるという批評があるとすれば、それはあたらない。なぜなら、それは「必要」だから。つまり、登場人物が神とサシで向かい合えてしまう場面やセリフを生み出すためには、それほどに救いのない悲しいシチュエーションが必要だからだ。そうでなければ「日常」のパースペクティヴは動かすことなんかできない。
誤解の無いように言うけれど、このドラマではけっしてその試みは成功していない。なぜなら、なっちはかわいいしきれいだなーと思うけど、演技に切迫感は無いし、西島サンも整った顔をしていてきれいだなーと思うけど、やはり演技に切迫感が足りない。観ている人は頭で「かわいそう」とは思えてもそれを心に持ってきにくいんだなあ。でもどかは、野島サンという脚本家への絶対の信用にかけて、このモノローグをきちんと受け止めたいと祈る思い。
報われなくてもいい、そう思ったこともあった だけど本当は違う 傷つかないために、先回りしてそう言ってただけ そんなこともわからないなんて わかっていて、そんな現実を突きつけるなんて・・・ あなたは神様じゃない 絶対に違う・・・違う・・・ (同上)
先の引用の続き。でもね。。。イタイなあとは思う。「そんなこともわからないなんて」というフレーズは、すばらしい。うーん・・・。
野島サンはクリスチャン。そして常に第一に考えるのが「フェアネス」だ。公正さ、というよりもフェアネス。これが崩されていく風景、そして崩されてしまったそれをどう補填することができるのかということを常に創作のモチベーションに据えてきた。この葉音のセリフは、あるすさまじい決意に裏付けられている。
何が何でも、芯也を責めない。なぜかと言うと、そうしてしまうと、自分を哀れんでしまうからだ。葉音はぜったい、自分自身を哀れむことをしない。だから、この一見、普通の悲しいモノローグなのに、どこか他の脚本家が書くセリフと違う色合いになってくるのだ。けっして自分自身を哀れまない。そしてまっすぐ「フェアネス」の在りかを問うこと。そこで踏みとどまること。どれだけ負けても、そこで、踏みとどまること。
あとは、もう観る人の個人的経験や思い出にかかってくるのだと思う。どかは「そんなこともわからないなんて」というフレーズに、一気にもっていかれてしまった。それは別の言い方をすれば、一気に過去のある瞬間に自分の一部が引き裂かれてしまったと言えるかもしれない。
ううん、ちがうな。
引き裂かれていた自分の一部が、このいまの自分を、呼んだんだよな。「大切なものは、何だったんだい」って。
さて、来週は、最終回だ。
どかは江國香織を続けて読んでたときがあった、 あれは3年前になるんかな、もう。 きっかけはサークルの後輩の子から勧められたことだったんだけど、 その後、続けて読んでいった理由とは、 自分が自分で「江國ワールド」のことを好きなのか苦手なのか、 判然とつかなかったから。 何かしらの手応えがあって、柔らかいショックはあるんだけど、 それがどっちの転ぶのかがよく分からないから、 じゃあ、はっきりするまで読みましょうと思ってた。
その後、・・・はっきりした。 どかは江國サンは、苦手だ。 苦手な理由を挙げていくのはキリが無い。 一番大きかったのは文体かなあ。 最近発見した自分の法則のひとつに「文体フェチ」というのがある。 どかは江國サンの文体に、 常に途絶えることのないあまり好ましくない刺激を受けてしまうのだ。
でも・・・、好きな部分もある。
少し、自分が変わったなーと思う部分もある、江國サンに触発されて。 というか、自分のなかで思ってたことを、上手に言葉にされてるのを見て、 悔しい想いをした・・・というほうが正確かも知れない。
それは、恋心における大人とガキという話。 もしくは、恋心における独占欲という話。
相手を独占したい、と思わないようなのは恋とは呼ばない 相手を独占したい、と思ってはじめて恋である けれども、それを本当に独占し切ることができると思いつつ、 だから相手を拘束しようとやっきになるのはガキ そして、それを本当に独占することなど不可能なのだと分かっていて、 それでも相手を拘束しようとジタバタするのが大人 あと、独占したいくせにそれを隠すのは、中途半端ななれの果て
これは引用じゃなく、どかが「江國ワールド」原則を勘案して書いただけ。 でも、これに関しては、いささかも反論することが出来ず、 そしてどかが何となく思ってたことをさらに突き進めたような結論に、 ちょっと、ほんの少しだけどね、脱帽した。
恋愛の野蛮さ、凶暴性、無秩序さ、そんなのを認識しつつ、 それを押さえるのではなくソッと野に離す感覚。 その芝生の行き着く先は切りたった崖になっていて、 結局、その崖の向こうにいる獲物にはたどり着かないんだけど、 それを分かっていて、ソッと野に離す感覚。
ガキでもなくなれの果てでもなく、 そんな大人ってカッコいいなあとは思う。
きっと、今週読んだバタイユもそういうことを言っていたんだなーと、 ふと、自分の中で結びつくことがあったので、 ちょっと口はばったさ極まれるテーマだけど書いてみた。
2004年06月12日(土) |
楳図かずおのポストモダン |
人間社会基礎論のリレー講義で、映画論の加藤教授が来た。門外漢のどかでも知ってる「有名」教授。で、講義のテーマはご専門の映画ではなく、マンガ。ふむ。日本マンガにおける三つのピリオドを設定し、かつコマワリやアングルの設定などの細部を分析することで、大きな流れをとらえていくというオーソドックスなカルスタの手法。
1:primitivism (40s〜) 初期の楳図かずお
2:modernism (60s〜) 石森章太郎(手塚治虫・ちばてつや)
3:mannerism (80s〜) 荒木飛呂彦・花輪和一(後期の楳図かずお)
じつはこの講義の裏の主人公は、どかも吉祥寺で幾度と無くすれ違いざまに目があった(にらまれた?)楳図サンだった。プリミティヴィズムから出発した楳図サンだったけれど、そのキャリアの初期からすべからく「ポストモダン」な徴候を織り込んでいたという議論はうなずける。
また、楳図サンの「ポストモダン」を説明するときに、キャラの瞳の描き方に注目して<お星さまの目>に対して<太陽の目>と名付けたところも、ちょっと脱帽。というか、素晴らしいレトリックの力を持ってるな、このヒト。というか、その言葉のセンスに、どか、久しぶりに嫉妬した。むう、上手い。
楳図の破砕された瞳から放射されるのは、 太陽のプロミネンスであり、フレアなのだ
上手すぎ。くう。
また、モダニスムの症例として、手塚ではなく石森を持ってきたところも「マンガ読み」としてのセンスを感じさせるところ。すばらしい。
一気呵成に日本マンガの流れを描ききってしまう手法はあざやかで、マンガをアカデミックに語れるのは、日本では夏目房之介サンのみだと思ってたどかは、軽くショック。
でも、無い物ねだりだけど、文句もある。マニエリスムに触れるのであれば、荒木・花輪も重要だけれど、松本大洋は避けて通れない参照点ではないのかしら。もしくはモダニスムにおいて、萩尾サンや大島サン、山岸サンなどの少女マンガの系譜を無視しているのも、ちょっと居心地が悪い。
でもとにかく、加藤先生の言葉のセンスには、嫉妬。
ジェラジェラ 笑
2004年06月11日(金) |
'04 Rd.4 ITALIA / Mugello |
雨が降って2ヒート制になったらしいこのレース。 どかはまたしても録画に失敗して、2ndヒートのみ、観る。
どかも8年前、行ったことのあるサーキット、ムジェロ。 スペインと並んでGP熱の高いこの国の英雄、ヴァレンティーノ・ロッシは、 やはり、速かった。
観ていて、もう、なにかおかしいもの。 明らかにマシンのポテンシャルを、ライダーのそれが追い越しちゃってる。 最強マシンのHONDA/RC211Vを駆るトップライダー達が、 ロッシのYZRM1に追いすがるけれど、でも追いつけない。 その絵は、どこかしらこっけいにすら見えてしまう。 だって、おかしいジャン、マンガだよ。 それほどに、YZRM1は遅く見えたし、けれどもロッシは勝ってしまう。
むう。
ほんとに、なんだか、こう、テンションが感じられないんだよね。 だってさあ、マンガじゃん、こんなの。 ビアッジにしろジベルナウにしろカピにしろバロスにしろ。 どうしてみんな、追いつけないのさ。 雨が降らないと、勝てないなんてさあ、遅いマシンに乗ってる奴が言うんだよ。 反対やん、それってさあ。
・・・とっても危険な状況にあると思う、いまのGP。 このままだと、全てが「道化」になってしまう恐れがある。 もしくは「茶番」に堕してしまいそう、このままロッシが独走になったら。 だからどかは言ったんだよう、 ロッシ、あなたはモチベーション維持するの大変だろうけれど、 それでもスピードをただただ、ストイックに追求すべきだー、って。 スピードだけを、全てにおいて優先する姿勢でいなくちゃだー、って。
やばいよ、GP。
・・・古き良き時代を思い出して、 シャンパンシャワーを見てもなんだか拍手する気になれないどか。 レイニーが独走を続けてたときでも、あまりに強すぎるときでも、 でも、レースシーンからテンションはみなぎってた。 ローソンのときだって、そうだよ。 速いことそれ自体は、無条件で、最大限賞賛されてたんだもん。 ドゥーハンだって、そうだ。 きっと、キングケニーやファーストフレディーだってそうだったんだよ。
ロッシが自分のスピードに足枷付けて、 それでも勝ちきってしまういまのGPは、 なんだか、とっても後味が悪い気が、どかはするのです。
さしあたって、ビアッジだ。 根性見せなさい、ほら。
一週間前なんだけどね・・・。
火曜日の授業終わってから、こころ的な悪しき流れを、 何とか変えたくてそれで、気になってたサークルをのぞきに行く。 「能楽部・観世会」。
ボックスと呼ばれてる古い2階建てのアパートみたいな建物の、 2階部分をぶち抜いて、スペースを取ってあり、 驚いたことにちゃんと3間四方弱の敷き舞台があった。 いいなー、専門の練習場。
部員さんに自己紹介して、ちょろっと話をしていたら、 平安神宮で開催される薪能に誘われる。
ちょうどチケット、余ってるんですよー
ま、マジッすか
と、節操なく飛びつくどか。 やー、でもねー、どかもちょっとしんどかったんだよー。 なんか、そういう「運命」を信じてみたかったのね。 自分の力ではない何かで流されていく、その浮遊感に賭けてみたかった (それほどに、日本ダービーはショッキングだった)。
気持ちの良く晴れ渡った夕方の京都の街をポテポテ歩く。 部員さんのひとりと話ながら、ひんやり冷たい風が頬をなぜていく。 気付いたら、平安神宮の前にどかはいた。
人生はふしぎだと思った。 肩の力が抜けていく。 抜けて初めて、肩に力が入っていたことに気付く。 いつの間にか大きな流れがこんなところにどかを運んでくれた。
感謝するのは、忘れないようにしよう。
▲ 夕闇迫る屋外舞台、正面の良い席・・・
どかが観た演目は「安宅」、迫力満点のトライアングルフォーメーション、 マイケル・ジャクソンの『スリラー』みたいだった (やっぱちょっとおかしい、どか?)。
義経役の子供の声が清々しく響き渡る。 ちょっと、涙がこぼれそう。
まるで別の馬だと思った。
怒りすらわかない。 それを通り越して、ただ空しさだけが残る。
5ヶ月半休養後の緒戦、馬体重-16kgって、なに?
万全の仕上がりを施してたまたま時期が良かったのが、 安田記念だったんやね・・・
って、どこが「万全の仕上がり」?
何を書いても空しい。
調教師は馬を選べるかも知れないけれど、 馬は調教師を選ぶことなんかできない。
ここに来て、ディンヒルの血統が顕在化して・・・
世界的に見てもディンヒルはマイル路線で・・・
秋華賞やエリ女杯を5馬身8馬身ちぎって勝った彼女の、 どこを見てマイル適正があるというのか。 あんなに大きな跳びを持った彼女の、 どこを見てマイル適正があるというのか。 それは「かかり気味」な性格をしてそういうのか?
アホか、マイルだろうが1,200mだろうが、 あんなにかかっていたら、レースになるわけがない。
「かかり気味」な性格を矯正して調教師はなんぼと違うん?
背に乗せた名手・武豊が半分立ち上がっていた向こう正面、 どかは、もう痛ましくて痛ましくて。
哀れな。 一昨年に見せた、 あれほどの才能が、 あれほどの気品が、 あれほどの栄光が。
それでもファインに罪は無い。
だから、どかはファインをこれからも絶対支持します。
追伸
でも、ツルマルボーイが勝ってくれてすごい嬉しい。 いま、2番目に好きな馬だもんね。 良かったね、ボーイ。 きっと、妹も天国でよろこんでるよー。 ほんとうに、おめでとう。
2004年06月04日(金) |
ハイロウズナンバーのちから |
かつて政治家「大」田中角栄はみずからの派閥の子分を評してこう言った。 平時の羽田・乱世の小沢・大乱世の梶山
そして漫画家「鬼才」いしいひさいちは現代思想家を評してこう言った。 平時のガダマー・乱世のハーバーマス・大乱世のデリダ
そして不肖「ドロップアウター」どかは、三つのバンドを評してこう言いたい。 平時のポラリス・乱世のナンバーガール・大乱世のハイロウズ
・・・お遊びである。でも、最近、ハイロウズナンバーのちからが身に沁みてるので、ちょびっとだけ書きたいなと思う。どかにとって、ハイロウズに対する新たな発見などもはや何も無いと思っていたのだけれど。
ハイロウズのメロディはよれよれである。演奏や歌がよれているのではなく、メロディ自体がよれよれなのだ、エレファントカシマシと同じくらい、よれている。それはアシッドマンやくるり、もしくはレミオロメンなど、優れたメロディメーカーがいるバンドのナンバーと比べたらすぐ分かる。ハイロウズナンバーのコード進行それ自体はオーソドックスを通り越してもはや古典的でしかなく、新たな発明はもはや、無い。リズムも、そんな変拍子も無く凝ってもいない。極めてオーソドックスで速いことは速いけれど、珍しいリズムでもない。
そういう意味で2004年という時代をキャッチアップしていないから、どうしてもマスコミの取り上げ方、ラジオでのオンエアのされ方などは、少しずつデプレッションな印象がある。もちろん、これはいまに始まったわけではなく、ハイロウズは結成した瞬間から「そう言う意味」ではデプレッションだった。しかし、そのよれよれなメロディの時代遅れなバンドのナンバーが、かなりくたびれてヘロヘロなどかに対して、こんなにも強い「作用」を及ぼしているのは、事実。このちからはどこから来るのだろう。
ハイロウズには「♪千年メダル」という代表的なナンバーがある。3rdアルバムに収録されて、ハイロウズにしては珍しくメディアの露出が展開されたナンバーで、HEY!HEY!HEY!などにも出演した曲。ちょっと聴いて、明るくアップテンポで、いかにも「脳天気」な「ロックバカ」というハイロウズのパブリックイメージに合致する曲でもあった。
けれども、どれだけのヒトが、この曲の歌詞をきちんと聴いているのだろう。これは、 「絶望的な片思い、おそらくはストーカーの心理、欲動の地下水脈」 が織り込まれている歌であり、どれだけのヒトがそのことに気づけたのだろう。
例えば、この「♪千年メダル」での<私>は「この恋が表彰されることがあったならば、君がメダルを受けて欲しい」と歌う。でも、ここですでに決定的に<私>はねじれている。なぜなら<私>自身が一緒に表彰台に登ろうとは決して言わずに、<君>だけが表彰されて欲しいと歌うのである。ふたりで幸せになることは、暗に、しかし強固に拒絶し、君だけがこの恋で幸せになって欲しいと歌うのである。
またその他のフレーズにおいても、<私>が<彼女>に対してコミュニケーションを望む様子は一切見られない。これは決して「たまたま」なのではなく、<私>はつねに<私>の世界で完結していて、そしてどんどんその内圧を高めていくベクトルを保持しつづけるのである。つまり、もはや、<私>は<彼女>を見ておらず、<私>しか見ようとしていない。そして、自分ではない誰かに「運命的」に惹かれたことを経験したヒトであれば、こういう「風景」というのは身近なものだとどかは、思う。
こんな詞を持つ、よれよれのメロディと平凡なリズムのナンバーを、ハイロウズは、鉄壁の演奏力とテンションで、ナンバー自体が瓦解するかと思うほどの加速度を与えていく(単純に曲が速くなるという意味ではもちろん無い)。そして、その加速度に負けないエネルギーを、ボーカルの甲本ヒロトがこの詞に与えることで、「♪千年メダル」は成立する。
よれよれのメロディと、ふらふらのストーカー。甲本ヒロトはしかし、これらに祝福を与えているわけでは決してない。かつてブルーハーツ時代の彼は、これらふたつを後押しするかのように「応援」したものだったが、ハイロウズになってからの彼は決して「応援」することはしない。かといって、そのまま「祝福」もしていない。そんなのは既にミスチルで間に合っているのであって、いまさらヒロトがやる必要もない。
じゃあ、ヒロトは何をしているのか。ただ、彼は、そこに「温度」を与えようとしているのだと、どかは思う。空虚な妄想の世界とチープなメロディにおけるアナロジー(類似性)をふまえて、それぞれを倍加した挙げ句、そこに自らの命を削ってただ、「温度」を与えようとしているのだと、思うのだ。自分の声帯を震わせて発語の波動をメロディと詞にぶつけ、そこに生まれる摩擦熱をただ、欲しているのだと思う。そこには、水平方向のコミュニケーションは、無い。お互いに交わる視線も、無い。幸せに満ちた双方の合意も、無い。あるのは、ほのあたたかい「温度」が、フッと頬を触るだけ。聴覚でも視覚でも論理でも感情でも知性でも品性でもなく、ただ「温度」がそこにあるのだ。
ストーカーの暗い欲動は、「温度」を得て初めて、永久凍土から融けて流れ出し、地下水脈を巡回しはじめる。わたしたちは、自らの中をも通過している深い深いその地下水脈と、ハイロウズのナンバーを通じてリンクする。自分自身の暗い欲動を「無視」したときにこそ悲劇は起きる。永久凍土に包まれたままでそれが窒息しそうになった瞬間にこそ、悲劇は、起きる。ならば、自らの中をも通過していく地下水脈にリンクし、そこに<私>をひたし、沈め、くみ上げるという儀礼でもって、繰り返し繰り返し、<私>を破壊しなくちゃなのではないか。生産的という言葉だけが、通行パスとなるような世界では、もはやないのではないか。
「生産的」なポップやロックが蔓延する2004年にあって、どかはハイロウズの「時代的」ロックが持つ価値を声を大にして言いたい。はげしくよれていくメロディ、実はエキセントリックな詞の内容、そこに、鉄壁のリズム隊の演奏に、最強のボーカリスト・ヒロトが布置されたときに起こる、淫靡で華麗な破壊と横溢。例えば「♪千年メダル」とは、そういうちからを持ったナンバーである。
2004年06月01日(火) |
愛し君へ(〜第7話) |
キャストはいい、演出もわるくない。 でも脚本がイマイチ、緩い気がする、 というかちょっと違うでしょ。 さだまさしの原作を読んでないから、 どこにどかがズレを感じているのか、 原作自体なのか、脚本化したときなのか、 分かんないけれど。
ある女性がつき合っている男が失明します、 ということを知ったときに、その女性の友人や弟が、 「ごめんなさい、わかれてください」、 ってその男に言いに行くという流れが、 いまいちしっくりこない。 とくに第7話なんてそれだけの回だったんだけど。 これだけ劇的な設定を敷いているのに、 プロットがその設定の激しさに耐え切られていない感。
でも、キャストは、いい。
菅野美穂、いいっす、うんやっぱり演技やらせると無敵だ。 「静止画だといいけど、動くと・・・」という女の子が多い昨今、 それが反対な彼女は(暴言多謝)女優としては素晴らしいと思う。 にしても、ちょっとやせすぎじゃないかしらん。 菅野さんもどかに言われたくは無いだろうけれど、 でも、二の腕とか足首、すっごい細いなあ。 ドラマの設定上、むしろ痩せなくちゃなのは藤木さんの方なんだけど。
そして、実は、どか、分かっちゃった。 というか、分かるの遅すぎ。 このドラマの主人公は、藤木サンでも菅野サンでも、 もちろん伊東美咲サンでもなく・・・、 泉谷しげるサマだったのだー。
いやー、泉谷サン最高、上手いよ、上手い。 同じフォークシンガーでも「あんたが大将」氏の百倍上手い。 下町の下品だけど上品な親父、というありがちなキャラクターなんだけど、 ちゃーんと、その役に入っているということが、 どれだけ安心感を与えてくれるか。
天下の<フジ月9>において、 いま、主役を張っているのは泉谷しげるサン・・・、 なんか嬉しくなるよね、うふふ。
追伸:あいかわらずナオタロウの歌は、きつい (>_<)
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