un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2004年05月31日(月) せきのやま

天気予報を無視したくなって、かさを持たずに家を出て、で、さっきキャンパスを出た瞬間に雨がザーッ。真性雨男な自分がきらい。というか、きょうは一日、調子悪い。

いっしょにボスの講義のサポートをしたNサンも心配してくれたらしく、優しかった、どかに。

理由はわかってる、昨日の「不慮の事故」だ。夕方になってようやく気づいた。あれが、ずっと胸を圧迫しているんだわ。

馬券を買う人は全国に何百万人といて、みんな、こういうことをどうやって処理しているんだろう?どかは自分が見ているレースで悲劇が起きたのは今回がはじめて。こんなに自分の中の回路がふさがって苦しい。だって、昨日、じっさいに府中のスタンドにいた人はまさに目の前だったわけじゃない?みんな、どうやって心の整理をつけているの?

馬券を買わない人には、たかが競走馬の一頭や二頭と思われてもしかたないかも。そんなのより、イラクで犠牲になった二人を思えよ。と、言われるかもしれない。

でもそしたらどかは言う。ならイラクで誤爆で亡くなった母子はどうなるんだ。

悲しいけれど、どかには異国の地の二人よりもマイネルブルックのほうが悲しい、だってより近しい存在だったから、そしてブルックを担当していた厩務員サンの昨日のレースのあとの作業を思うと、ほんとうに、たまらない。

そしてどかのいまの想像力なんてこんなところが限界だ、隠してもしかたない、その程度だ。二人の無念や誤爆に散った母子の痛みを想像する余力はどかはもてない、いまは。

でもここからしか、始められないでしょう?

少なくともどかは、ブルックやサンビームの自己責任などと言うつもりはない。さらに、人間にはそういう議論を適用できるとする、欺慢を許せない。

いまはとりあえず、ボスの授業でフロイトのミケランジェロ論の解説をノートにとりながら、きさらぎ賞で聞いた蹄の音を思い出すくらいがどかの関の山。

(※某所にアップしたケータイ日記の再録です・・・)


2004年05月30日(日) G1日本ダービー(東京優駿)

<光と影 〜第71回日本ダービー>

NHKマイルカップを制した、松田国厩舎のキングカメハメハがレコードを2秒も縮める圧勝劇で、ダービーを制した。マイルとチャンピオンディスタンスというかけ離れた距離のGIをそれぞれ勝ったキングカメハメハの栄光を、どかは精いっぱいたたえるものである。つおいよ、たしかに。もちろん宝塚記念は見送るにせよ、秋天を目指すにせよ、菊を目指すにせよ、JCを目指すにせよ、この馬が中心にいるのは間違いないように思われる、凱旋門すら行けるかも、鞍上もアンカツだし。

でもね。どかはちょっと悲しい。それは以下の三つの理由。

1:コスモバルク、惨敗

パドックからかなり入れ込んでたし、返し馬で口を割ってたし、入れ込み気味なのは明らかだった。北海道から出てきて、いきなり季節はずれの気温30℃。暑さもバルクには不利だったろう。スタートは絶好だったけれど、後藤騎乗のマイネルマクロスが暴走に近い大逃げ。跳ね上がるペース。向こう正面はずーっとかかり気味。押さえかねた鞍上・五十嵐サンが3角からロングスパートを開始、4角で先頭に立ってしまう。坂下ですでにカメハメハにかわされるも、ダイワメジャーと馬体を合わせて必死に追う五十嵐クン。でも坂上で完全に脚が上がって力尽き、馬群に飲み込まれていく。8着。

ゴール後、勝ったアンカツサンから声をかけられた、バルクの背の五十嵐サンはうなだれていた。どか、もう、涙をこらえるのでいっぱい。自分に悔しいんだろうな。その後のインタビューでも自分を責めてた。北海道の星、いや、地方競馬の彗星として中央競馬・大JRAに挑んだ馬と騎手。彼の手綱にかかっていたプレッシャーの大きさは推して知るべし。でも・・・。がんばったよ、五十嵐サン。折り合いをつけるために精いっぱいやってたよ、ベストじゃないにせよ、ベターを模索してがんばってたよ。

バルクも、本当におつかれさま。いまはゆっくり休んでください。涼しい北海道で、疲れを取ってね。そんで秋、また大きいところに挑めるといいね。

2:コスモサンビーム、骨折

皐月賞後、陣営が距離適正を考えてダービーではなくNHKマイルカップを目指すことにしたコスモサンビーム、2歳チャンピオン。そのマイルカップでは、実力を発揮して凛々しい抜け出しを見せて直線を駆けるも、キングカメハメハのあの伝説に残る鬼の末脚に完敗の2着。その後は休養して秋に向かうかと思いきや、一転ダービー出走を宣言。どか、激怒。明らかに距離適正を無視して、かつ皐月・NHKマイル・ダービーと苛酷すぎるG1三連戦。馬をつぶそうとしてるとしか思えない。よくよく聴いてみると、佐々木調教師は、休ませるべきと進言するも、馬主サイドが強固にダービー出走を主張したらしい。その結果、これだよ。

断じて言うが、競走馬は馬主だけのものじゃない。その馬を応援してきた、そして応援しているみんなの夢をのせて走ってるんじゃないか。サンビームは、まだ経過観察中で、最悪の事態になる可能性も残ってる。どかは祈る。NHKマイルでは、どかはサンビームを軸にした。あのスマートで凛々しい走り方は好きだ。がんばれ、サンビーム。

そして・・・、最悪の事態は、別に起きてしまった。

3:マイネルブルック、予後不良

キングカメハメハの勝利に沸くスタンドを映すテレビ。フッと直線にいる馬影にピントが合う。ヒョコ、ヒョコッと歩く一頭の馬、そしてその場にへたりこむジョッキーひとり。それは、左第一指関節脱臼を発症した、マイネルブルックだった。パッと見ただけで、もう、嫌な雰囲気が漂っている。そう、去年の鈴鹿のカシオトライアングルのように。どかの予感は的中、その後、予後不良と診断される。予後不良とは「もう治る見込みが無いから死なせてあげる」という処置である。安楽死、だ。

もう既に、天国に行っちゃったんだろうな、ブルック。いやー、ブルックは強烈な印象をどかに植え付けた馬だった。去年の暮れからずーっとどかが応援してたブラックタイドが満を持して出走した、きさらぎ賞。どかは京都競馬場に行って、ちゃんと生でタイドを応援しに行った。しかし、タイドとぴったり馬体を合わせて、最速の上がりで1着をもぎ取ったのはマイネルブルックだった。パドックでもじつはどかの目を引いていたのはブルックだった。タイドほどではないにせよ、雄大で柔軟な歩様。スケールの大きさは一目瞭然だった。

そして、あの雄大な歩様は、もう見られない。二度と、見ることはできない。

騎乗していた藤田サンの談話、どかもちょっとどうかと思う。まるで人ごとのように、自分とは関係ない話のように、冷た過ぎる気が、する。まあでも、それは文字でしかどかは読んでないし、じっさいの彼のニュアンスは分からないけれど。でも、どかはちょっと憤ってる。

なぜどかは、憤るのか。それは上記3点それぞれに、共通して関わってきているひとつの因子が見えるからだ。つまり、あの短く刈り込んだ「芝」である。

NHKマイルとダービー、圧倒的なキングカメハメハのふたつの勝利には、ふたつの大レコードタイムが添えられている。これはカメハメハ自身のスピードとスタミナ、そしてレースの展開によって達成されたものであると同時に、この極めて固く、タイムの出やすい「芝」がとても大きかったことは誰も否めないだろう。

あまりにも速すぎるターフだったので、後藤騎乗のマイネルマクロスは暴走気味の大逃げに入ってどんどん加速し、かかり気味だったバルクはそれにつられて引っ張られた展開となって、結果はさっき述べたとおり。これは、マクロスの厩舎の調教師が「バルクに悪いことをした」と言ってることからも明らかである。その原因のひとつが高速馬場だ。

そして当然、固い高速馬場は馬の脚に負担をかけていく。陸上競技でもそうだ。土のトラックと、オールウェザーのトラックだと、後者のほうがタイムは出るけれど、足の疲労度合いもハンパ無い(経験者は語る)。レコードタイム決着に直結するような固い「芝」は、キングカメハメハが颯爽とゴール板を駆け抜けたはるか後方に、ふたつの(みっつの)不幸を残していったのだ。そしてそのうちのひとつは、もはや取り返しのつかない結果になったのだ。

もちろん、結果論。今月の府中のすべてのレースで、予後不良や骨折が出ているわけでは無い。でも、どかはとても、手放しでキングカメハメハのレコードタイムをほめたたえる気にはなれない。テレビ中継では、あまりにも強い馬っぷりのキングカメハメハにうかれまくって、そういう報道しかしてないししないのだろうけれど、それで見過ごしてしまうものもきっとたくさんある。別にカメハメハの勝利をくさしたいわけでも無い。これが競馬。

そう、これが競馬なのだろうと思う。スターがスターとして君臨するということは、その影に無数の不幸が不幸として支えるということに他ならない。ハルウララも、その影の一部であったはずだ。そしてバルクは地方競馬という影の場所から、必死に光を目指して駆け上がろうとした馬だった。だからどかは、ハルウララよりもコスモバルクの存在にココロを奪われた。影はすでにそこにあって、それが競馬なのだから。

でもね。今回の骨折と予後不良は、どかは納得いかない。競馬のせい、、、というよりも、人間のせい、という気がするから。心ない馬主と、心ないJRAという気がするから。キングカメハメハはきっとレコードタイムで無くてもスターでいたでしょう。無理に光を作ろうとすることはない。無理に作った光によって生まれた影は、おぞましくていとわしいものなのだから。


<補足>

・・・などと考えながら、どかはボーっと自分の部屋で終わったレースの出走表を見ていた。ふと、コンポのスイッチを入れたら、ラジオでfm802だった。DJの山添まりがかけた曲が流れてきた。

  ♪ローズ by ベッド・ミドラー

最初の涙は無意識だった。なんで涙があふれるのか分からなかった。でも止まらなくて、止められなくて、どかは堰を切ったように泣いてしまう。そして泣きながらコスモサンビームや、コスモバルク、そしてマイネルブルックのことを思った。そして、ちゃんと、このことは日記に書こうと思ったのだった。


2004年05月29日(土) 日本総合悲劇協会「ドライブイン カリフォルニア」

大人計画の松尾スズキサンが劇団外の役者サンをさそって作品を作っていくプロジェクト「にっそーひ」の第4回公演。ちなみに第3回公演「業音」はどかも観劇してる。「ドライブイン カリフォルニア」は、実は「にっそーひ」の旗揚げ公演の作品で、これが再演となる、8年ぶりらしい。そしてどかはこの初演のVTRをNHK-BSの録画で観たことがあり、あらかたのプロットは知っていた。その、脚本の出来の良さも。

プロットは松尾作品の例にもれず、けっこう入り組んでいるから文にしにくいなあ。寂れたドライブインを経営する兄妹と、その異母兄という3人を中心にして、「痛み」や「不幸」をトッピングしつつ「笑い」の鉄串でメッタ刺しという、いつもの松尾サン(テレビでしか彼を知らないヒトはちょっとイメージしにくいのでは)。でも、第3回公演の「業音」と比べると、その「痛み」や「不幸」の度合い、また「笑い」のかき混ぜ方も少しずつ緩くなってる。言い方をかえると「ふつーの舞台」に近くなってるから、インターフェースはかなりとっつきやすいのではないかと思った。大人計画本公演を含めても、これは松尾サンの「毒」未経験者には絶好の入門ソフトではないかしら。

印象その1。入門ソフトと言っても、しっかり<大人計画エッセンス>はふまえているのがすばらしいところ。例えば、身体障害者への差別とか、身体障害者からの逆差別とか、不幸や怨嗟がズドンと垂直に突き刺さって沈むのではなく、水平にどんどんチェーンリアクションのように伝播していくのとか、月並みな良識やモラルへの徹底的かつ組織的な破壊とか。ひとつのチャンとしたストーリーが珍しく設定されているにもかかわらず、セリフの発語レベルのひとつ下の層でちゃんとそういう地下水脈が流しているところがすごいなーって。

印象その2。ちょっと「古いかな」と感じてしまったどか。それは「戯曲」に対してではなく、「演出」に対して。こう、ギャグでたたみかける感とか、立ち止まらないで駆け抜ける感とかが、90年代だねーという印象だったなー。いや、疾走感自体がすでに古いというわけじゃなくて、こう、んーと、エラ呼吸続けるためにも泳がなくっちゃっす、水槽に水流を作らなくっちゃっす、的な(たとえ話になってないな・・・)?でも、そのせいかな、どかはいままでかつて無いくらい、松尾サンにエールを送りたくなった。時代の最先端切って走ってた数年前よりも、いまのほうが。

印象その3。「古い」印象はやっぱりあるんだけど、それでもこの時代になって、つまり初演の8年前よりも確実に「滅び」への距離と時間が縮まった気がする2004年において、タペストリーのように織り込まれた松尾サンの「いらだち」はとっても有効に機能しているように、思った(けれどもどかのこの実感は、終演後すぐ裏切られる)。「バカになりたーい」と、上半身裸になってマジックでお互い<バカ>と書きつけていく田口トモロヲサンと片桐はいりサンのエロシーンや、そのあと「バカにすらなれない」と自らのふがいなさを嘆く仲村トオルのボケシーンは、沁みるなあと思う。いまだからこそ。

印象その4。そのエロだのボケだのグロだのを、いつものように極限まで推し進めないこの作品は、さいしょどかはちょっと物足りないと思ってたかも、前半とか。でもね、極限まで推し進めてしまったら、それはあとは<消費>されちゃうだけなんだよね。いままで大人計画という劇団は極限まで走りきることで、エロだのグロだの差別だの暴力だのをぎりぎりまで追いかけてどんどん評価されてきた。そして、宮藤官九郎サンや荒川良々サン、阿部サダヲサンなど、そうそうたるメディアの寵児を抱える人気劇団にのし上がった。けれども、それと同時に、すでに<消費>は進んでいることを松尾サンはいたいほど分かっていたに違いない。その狂気の「ポイ捨てレース」に挑み続けてきた松尾サンの凄みも、それが松尾サン個人に拠っている以上、有限で如かなく、このプチナショナリズムうずまく日本の<消費欲>はほぼ無限に等しく(イラクの悲劇をも消費するほどに?)、勝ち目がないことを悟ったのだろう。だからこそ、今回の再演だったのだ。少しでもその「ポイ捨てレース」の周回スピードを遅らせるための、戦略としての「緩さ」だったのだろう。

松尾作品史上類を見ない「感動的」な(あくまで「」付きだけどね)ラストシーンに思わず涙するどか。しかしカーテンコールが終わった後、どかの周りに座っていた女の子チャンの会話が聞こえてきて、いっきに正気にもどされる。「良々クンかわいいー♪」「ふつうにしゃべる荒川サンもええやんなー♪」などなど、満面の笑みな女の子チャンに囲まれて、けっこう涙が止まらないどかは明らかに浮いていて恥ずかしかった。というか、松尾サンの「ヒトとヒトは分かりあえないよね、ケッ」というメッセージは、舞台上で展開されるだけではなく、劇場全体を巻き込むものだったのだ。

舞台上の「毒」を押さえることで、さらなる大きな「毒」が劇場を包むという結果を、松尾サンはどこまで計算していたのだろう。でも、たしかに、どかは少し怖くなった。自分だけ泣いていて、ひとり宇宙人としてここにまぎれているのではないかって思った。大人計画の役者が、本当にいま人気爆発してるのは知っていたけれど。。。かつて一世を風靡した第三舞台も、役者の人気が爆発して、鴻上さんの筆のスピードがその役者の「消費」され具合に追いつけなくなって、ついに活動休止に追い込まれた。松尾サンはそれにあらがってる。再演という形までとってあらがってる。

がんばれ松尾サン。がんばれ。


印象その5(おまけ)。初演と比べて、田口トモロヲサンは少し厳しかった。さすがに初演はあの手塚とおるサンだったしなー、エログロをひとりで背負う役だからもすこし欲しかったなー。どかが不安だった仲村トオルと小池栄子は好演。やー、栄子さん、すごいなー、でへ(なにがだ・・・)。荒川良々サンは、ちょっとどかにとっては期待はずれ。小技の引き出しが尽きている気がする。小日向文世サンは、さすが。最初、声が通らなくて不安だったけど、むずかしいシスコンの役どころ、完璧にこなす。猫背サン、田村サン、村杉サンは危なげなく。片桐はいりサンは既に松尾職人(?)。そしてMVPはやっぱり、秋山菜津子サン。女の色気を自在に出し入れできるところや、エログロをしっかり引き受けられるだけの度量があるところ。いま、演劇界で彼女以上の女優は、そうはいないのではないかしらん。


2004年05月26日(水) 昼の光に夜の闇の深さがわかるものか

きょうは朝からずーっと部屋でゼミの予習。

15世紀フィレンツェの聖史劇を読んでいて、
[ヨハネによる福音書・11.09-10]を引用しているだろう
弟子を説得するイエスのセリフにさしかかって。

 昼に歩けばそのひとはつまづかない。
 そのヒトの中に光があるからである。
 しかし夜、歩けばそのひとはつまづく。
 そのヒトの中の闇にとらわれるからである。

という有名な一節。
ふむふむと思いつつ訳出していて、
ふと、顔を上げてiBookクンの液晶を見ると、
マック用スクリーンセイバー「20世紀ボヤージ」が起動中。
そこに浮かび上がったニーチェの言葉。

これは、、、シンクロニシティ?

にしても、怖かったあ。
なぜか、自分のココロが見透かされて恫喝されたような気になった。

ニーチェ、おそるべし。


2004年05月23日(日) G1オークス(優駿牝馬)

東京11R、芝2,400m、三歳牝馬限定、GI優駿牝馬。

またの名を「オークス」と言う。

どか予想は今朝、掲示板に書き込んだとおり。迷ったあげく本命はダンスインザムードにした。血統面でも断然の、大本命。牝馬クラシックでここまで人気を一頭で独占した例は、ここ数十年の歴史でも無いらしい。桜花賞のときの、常軌を逸した強さはたしかに鮮烈だった。血統的に距離への不安が無いのであれば、むりに抗う理由は無いと思った。

対抗は、古い牝系の血統を持つヤマニンアラバスタの距離適正に期待。あとどかはあの美しい芦毛の馬体にも惹かれた。そして押さえはヤマニンシュクル。トウカイテイオー産駒、そこにあるのは期待ではなくドラマ。あとはグローリアスデイズにギミーシェルター、フレンチアイディアなど。

買い目はダンスとアラバスタ、ダンスとシュクル、ダンスとグローリアスを固定して残りの2頭へ流す三連複。若干、金額には傾斜を付けた。

レース。

いやー、やっぱクラシックを含む8大競争の発走前は独特の緊張感がある。こういうのを「格」というのだろう、なのにどかがそれに浸るまもなく、いらだたせたのは府中のスタンドの連中。目の前にゲートがあるというのに、なぜに手拍子や歓声をあげるのか。まじでキレそう、しかもパドックであんなにダンスが入れ込んでいるのに、なおさら追い込むというのはどういう了見なのか。パドックでもフラッシュ焚いてた大バカヤロウもいたし。

相手(この場合サラブレッド)の立場への想像力こそが教養なのだ。無教養のバカヤロウが世の中、多すぎる。

で、レース。

予想通りスロー。馬場は「稍重」。いやーな予感がビシビシ。向こう正面で、ダンスがややかかっている気がした。鞍上武豊、細心の優しさでなだめて乗っている。3角過ぎて、福永駆るダイワエルシエーロが押っつけ気味にスパート・・・、結果、この勇気ある早めの仕掛けが功を奏した。直線入り口、ダンスは6番手くらい、前が開くのを待って豊サンそろりと手綱をしごく。坂下からするすると動くダンス、しかし。坂の途中で、早くも脚色にぶり、豊サン鞭を入れる、、、なんと、よれてしまう!この瞬間、ダンスのオークスは終了。内にササるのにあわてた豊サンは、左手に鞭を入れ替えなんとか立て直しに必死。逃げるダイワ。追うのは、、、美しい芦毛が内から来る、アラバスタ!けれども外から、一頭異次元の脚を使って追い込んできたのは・・・、スイープトウショウ!逃げるダイワ。追うスイープ。けれども3/4馬身届かず、ダイワ1着でゴールイン!3着アラバスタ、ハナ差で4着ダンス、5着には意地を見せたシュクル。

3着4着5着は買っていたけど、1着2着はどかが予想で一番最初に切った馬。惨敗。でも・・・、皐月賞や春天と比べたらずーっときょうのがすがすがしい。負けたけど、福永クンナイス騎乗っ、て思えるしスイープの末脚も堪能したし。ダンスは、、、秋華賞とエリ女杯に期待する。1度の敗戦くらいで、あの桜花賞のすごさは消されないよ。がんばれ、ダンスたん。

何が理由かは断定できないけど、ダンスたんがあれほどゲート入り前に入れ込んでいた理由に、スタンドの心ない連中の「虐待」が含まれない、とは誰も言えないだろう。府中のスタンドにいた手拍子を叩いたヤツ、フラッシュ焚いたヤツ、歓声を挙げたヤツ、猛省しろ今すぐ。

・・・

あとは雑感。

最近の中央GIレースは特に、「前残り」のレースが多い気がする。多分、レコードタイムが出やすい「速いターフ」を作ることにやっきになっているからじゃないのかしら。そのせいで、皐月賞やら春天やら、まあきょうもだけどこういうレースが頻発することになるのじゃないかしら。杉本清氏がNHKマイルカップを評して「久しぶりに競馬を見た気がする」と言ったのは、意訳すると「久しぶりに前残りではない追い込みが決まる盛り上がるレースを見た気がする」ということだよね、明らかに。世界に対して日本競馬のレベルをアピールするためのタイム至上主義を掲げてるのであれば、それは少し間違ってる。少なくともファンが期待するのは、レコードタイムじゃなくて、良いレースなのだ。相変わらずファンを置き去りにしているその体質は、いいかげん改めて欲しいと思う。ファンを置き去りにするのは伊藤雄二厩舎だけでじゅうぶんである。


2004年05月22日(土) 企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜第6話

どか自身の感情移入するときの跳躍力が落ちたのかと思ったの。野島ドラマなのに、なぜこう、グッと巻き込まれないのかと。どかの中でチューニングが少しくるっちゃってるのかと。で、先日、少しだけ「高校教師'03」と「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」のVTRを観直してみたら・・・、そっこう号泣(笑)。良かった、アンテナが折れた訳では無いらしい。

さて、それをふまえつつ、第6話などをぼんやり見ていたのだけれど・・・、ひとつ、気付いたことがある。これは、入れ子構造になってるのではないだろうか。つまり、野島サンの本気のメッセージを、チープで浅薄なサスペンス仕立てのメロドラマでくるむという構造。そして、このメッセージとメロドラマとの間の連関は、かぎりなく薄くて無いも同然である。

メロドラマとは、もちろん例の、東都音大の学長をめぐって実施されている特待ピアノ生徒選抜試験の「ガラスの仮面的展開」や、それに絡む殺人事件を描くサスペンス色の強い「火サス的冗長演出」などのなんやかや。登場人物を演じる役者の、半ば冗談のように信じがたいほどの大根ぶりも手伝って、もはや感情移入などというレベルの鑑賞は不可能である。寓話っぷりにもほどがあると、どかはここに宣言したい。繰り返すけど、どかが言ってるのはストーリーの中の俗物なキャラクターたちの俗物さではなく、ストーリーそれ自体が箸にも棒にもかからないのだということ。

しかし、この一方の極の内容が漸近線を取ってどんどん「無」に近づいていくほどに、もう一方の極である野島サンのメッセージの「重さ・真剣さ」が際だつというアイロニー。CMを除いた、およそ50分弱のドラマのなかで、その45分までを捨てて残り3分ほどの葉音のセリフのみを生かそうという極めてラディカルな演出プランとして見ることも可能では無いかと(制作側が意識してそんなことするわきゃないけどさ当然)。

  
 葉音 怖がらないで、暗闇を、怖がらないで
    大丈夫、暗闇はあなたの友達
    哀しい時、寂しい時、苦しい時、逃げ出したい時、
    暗闇はやさしいマント、あなたをかくまってくれるやさしいマント
    ここに居れば大丈夫、誰にも見つからないよ
    哀しくて悔しくて、涙が溢れても、誰にも見つからない
    私は、暗闇、生まれながらの暗闇
    むしろ怖いのは、光
    どうかお願いです、私を怖がらないでください
    私を怖いと思い、ひとりぼっちにさせないでください
    そして、同情もしないでください、私も、誰かを愛したいのです
   (「仔犬のワルツ」第4話より)


これは「選抜試験」の行きがかり上、真っ暗な小さいハコの中に入れられた葉音のモノローグ。そして次のモノローグは、同じく「選抜試験」の途中、ピアノの上に置かれたバラのつぼみに向かって話しかける葉音・・・、


 葉音 水をくれて、朝にはおはよう、夜にはおやすみって
    そうやさしく笑いかけてくれる
    キレイに咲いたら喜んでくれる
    喜んでもらえるから、キレイに咲こうとする
    それは、本当にあの人じゃなければいけないということなの?
    あの人のたくさんの花の中から、あなたを選んでくれたとでも言えるの?
    それはただの偶然なのに、あなたは運命だと信じているの?  
      <中略>  
    自分が信じたんだから仕方がないと、諦めて散っていけるの?
    その後であの人がまた、新しいバラの花に、いとしそうに水をあげてる
    そんな風に想像したりはしないの?
    ねぇ、どうして黙ってるの?
    誰かに打ち明けたいとは思わないの?
    どうして信じられるの?
    どうして愛されてると・・・
   (「仔犬のワルツ」第6話より)


じつはどちらのモノローグも、この前後にさらに長く続いている。もはや明らかなように、それぞれの葉音のセリフはもはや、単なる暗いハコに閉じ込められた友人をなぐさめるためであったり、なかなか咲かないバラの花への単純な随想では無い。もっと大きな流れ、深い断絶、愛や永遠、孤独といった抽象的な概念への純粋思考である。それはやっぱり、浮いちゃうよ、このモノローグは。それまでのメロドラマとも、そのあとのメロドラマとも、まったく繋がりが見いだせないんだもん。設定では葉音は自分の庇護者である芯也に慕情を抱いているということになってるけど・・・、芯也はこんな深く強い流れを受け止める度量は皆無だし、葉音自身もこんな深く強い流れを抱いていられるような度量は皆無に見える。つまり、、、言葉(ロゴス)だけがぽっかり空中に浮いているのだ。

そう言う意味では、なんてアヴァンギャルドなドラマなのだろうと舌を巻くどか。そうなのだ、この「仔犬のワルツ」というドラマは、なんとドラマではなく、野島伸司の詩集朗読番組だったのだ(笑)。

そして、それだけで、この番組は存在価値がある。少なくともこのクールでやってるほとんどのドラマよりも存在価値がある、とどかは考える。いや、冷静にそう思います。野島サンの詞(詩)は、その理想主義が両立する過剰さと繊細さによって、高度消費社会の消費サイクルから紙一重でまぬがれているから。

逆に言うと、このサイクルからまぬがれるためには、45分というドラマの他の部分のほとんどを、そしてなっち含む登場人物のほとんど全てを人身御供に差し出すことが必要だったのかもしれない。ふむふむ。

あ、でも岡本健一サンと忍成修吾クンの演技だけは、救われている気がする。45分の側にいる限り、彼らにとって勝ち目のない戦いなのだけれど、それでも彼らの演技は、見ていてクッと引き込まれる。


2004年05月21日(金) 青年団リンク・地点「三人姉妹」

「何故にそれが有効かは分からないけれど、如何にそれが有効かは分かるということ」。きっとそういうことを先人たちは「洞察」と呼んだのだろう。現代を生きる私たちにもっとも要求される能力のひとつである。

・・・

ソワレ@アトリエ劇研、授業終わってルネの前からバスに乗って下鴨へ。キャンセル待ちでちょっとびっくりしたけど、何とか入れた。というか、青年団のブランド力の強さに感心。というか、東京以外でこの「たぐい」の舞台がここまでの集客力を発揮する京都という土地がらに感心。さすが学生劇団密度日本一の街。

地点、とは青年団演出部に所属している三浦基サンが演出する作品を上演するプロジェクトのこと。平田オリザ氏はあくまで総合プロデューサーという裏方にまわる。どかが今回この芝居に反応したのは、青年団というブランド名というよりは、その役者。だって、、、山内サン、安部サン、兵藤サン、太田サン、島田サンなどなど、青年団の1軍が集結。しかもどかのお気に入りの大庭裕介サンを久しぶりに見られるとあっては。

しかし、どかのその期待値は、予想だにしない形で破砕される。三浦サンの演出は、神がかっていた!その奇抜で特異なスタイルは、噂には聞いていたけれど、そして案の定たしかに奇抜で特異なんだけど、思っていたよりもはるかにそれが効果的、効果的というよりもこれは、、、なんというリアリティだろう。

青年団の舞台の特徴に、客入れの段階から、すでに舞台上の世界で時間が流れているということがあるけれど、この「三人姉妹」では、完全に時間は止まっていた。オリガ、マーシャ、イリーナの三人が、きゅうくつそうな台車だかサイドテーブルだかにコンパクトに足を折りたたんで「不自然」に凍結されている。その三人の向こうには左右に大きな綱が渡されていて、その綱に無数の外套や衣類がハンガーでぶら下げられており「壁」となっている。席に着いたどかは、この一幅の「絵画」と相対するわけだけれど、すでになにかしらのアウラがビシビシ感じられる。芝居が始まる前から、すでに感動してしまっている。そしてどかは不安になった。ここまで「掛け金」をレイズしてしまって、大丈夫なのかしら、、、と。

全然大丈夫なんだなーそれが。その「絵画」で開演前に客席をあおるだけあおった三浦サンは、その後の舞台でさらに「掛け金」をつり上げてどんどんどかと観客をその三浦ワールドへと引き込んでいく。

さて、その演出法は、、、いちばん大きな特徴はセリフ回しにあるだろう。解体、切断、分離、停止、滞留、という言い方で伝わるかなあ。例えばね、


 いー、つっ、になったらわた、し、、、たちはもす、くー、ヴァっ、、
 にいけるのかしー、らー


という風にセリフを解体して、句点読点をいったんぜんぶ御破算にするのである。解説するとしたらこんな解説しかできないのだけれど、でもきっと、これを読んであの演劇的効果のすさまじさは想像できないだろう。さいしょはビックリするけど、観客のなかで心のざわめきが納まってしまえば、あとの1時間はワンダーワールドへ沈潜していくことの快楽に浸ってしまえる。

この演出が、何を目指しているのかは、分からない。分からないけど、この演出でどかが何を感じたかはおぼろげながら言葉にできる。それはただ、ひたすら「テクスト」の強度を増す効果があった。句点や読点に潜んでいる、いわゆる普通の意味での演劇的なコンテクスト、それは感情の流れであったり、身振り手振りだったり、視線や沈黙だったりするのだけれど、この演出はそんななんやかやを「無かったこと」にしてしまう。そして残るのは、チェーホフというひとりの劇作家がかつて書き記した言葉、音だ(もちろんこれは戯曲なのだから、発話されることを前提に書かれている)。

どんなに分断し、スピードの抑揚が「突飛」で、ときにメロディの節が「関係なく」着いたり、怒鳴った次の瞬間にすぐ小声で同じセリフの続きを発声したり、、、そんなことでセリフがセリフであることを辞めたりはしないのだ、これがさあ。逆に、そこに当たり前にあると思いこんでいた「余計なもの」が、そぎ落とされていくこと、19世紀末の帝政ロシアの片田舎「っぽさ」などという予定調和や、翻訳劇につきまとう新劇「チック」な予断が入り込まないほど純化されて、結晶化に向かうことで、セリフのセリフであるということが浮き彫りにされていくのだ。

うーん、伝わらないと思う。これはでも、たしかに映画にはできない、もちろんテレビドラマにもできない、演劇にしか許されない可能性の追求のかたちだ。

もすこし、比較対照とぶつけてみてこの「三人姉妹」のスペシャルさ具合をあぶり出すとすれば、そう、先日おなじアトリエ劇研で観たマレビトの会「島式振動器官」の松田正隆サンも、三浦サンと同じベクトルを志向しているのはまちがいない。予定調和という名の腐食性の粘液に沈んで、窒息しそうになっている「透明な天使たち」を救いたいという志は、同じくしていると思うの。でも、実際にできあがった舞台の出来は、かなり差がついてしまっている。それは、松田サンが自前の戯曲で勝負して、三浦サンは演劇界に燦然と輝くチェーホフの代表作のひとつを選んでいる時点で、フェアな比較とは言えないかもだけど、そんなことない。松田サンも戯曲内に流れるコンテクストを、切断、遮断、破砕を試みるのだけれど、それを、あくまでコンテクストの中でやっちゃう。セリフの特権性を擁護したまま、コンテクストを乱すために別のコンテクストを換置しようとするんだねー。それに比べると、三浦サンは真の意味で「聖域無き改革(笑)」路線でいく。腐蝕性の粘液の発生源ともなるある種の流れを乱すために、セリフからがんがん切り刻んでいく。どっちがラディカルな効果を発揮するかはいわずもがな。

まあ、野田秀樹みたいにじぶんで作・演出・出演と、全部やっちゃうオールマイティな舞台上の「神」になるヒトや、つかこうへい、鴻上尚史、平田オリザなど作・演出までやってしまう「教皇」になるヒトもいて、でも三浦サンは蜷川幸雄氏みたいく演出のみで戦うヒトは、現場の「部隊長」にならざるをえないのだから、かなりの<強度>というものを身につけないと、この世界でやってけない。という切実な事情もあるのだろう。そして見事にそのハードルをクリアしきっている・・・。どかも、そりゃあ「演劇好き」を自認する男の子なわけで、だからチェーホフくらいは知ってるし、「三人姉妹」や「櫻の園」のあらすじや登場人物は頭に入ってる。それらが、どれくらい傑作な戯曲なのか、シェークスピアと比べてもまったく見劣りしないクオリティがあることとかも知ってる。けれども、そんなどかにとっての「予定調和」も、ことごとく砕ききってくれた。感動、、、というよりも戦慄とともに。

アフタートークで、松田正隆氏と三浦サンが話してたけど、だいたいどかの想像通りのヒトだった。自分が見つけたこの特徴的な演出という「鉱脈」の、生成原因(演出の理由)についてはあまり明確に理論化できていないけれど、この「鉱脈」の、利用価値(演出の効果)についての確信はゆるぎないものであるみたい。ちょうど、平田オリザが90年ごろに同時多発会話という、当時の小劇場界を全て転覆させてしまった「鉱脈」を探し当てたとき、何故にそれが有効なのかは分からないけれど、如何にそれが有効かについては揺るぎない確信を抱いたように。

青年団の1軍役者サンたちも、三浦サンの高すぎるくらい高い演出要求によく応え、自分の身体を解放するのではなく、拘束していく方向によく「調教」できていた(もちろん、拘束は解放をふまえないと実現できない、体験としてちょっとセリフを読んだことがあれば、いかにあのセリフを言うことがむずかしいかが分かると思う、どかも・・・分かる)。

もしかしたら、2004年のどかレビューを代表する舞台はこれになるかもしれない。とにかく、身震いがとまらないほどに、戦慄した舞台だった。


(追記)

そう、言い忘れてた。セリフをどれだけ切り刻み、四肢をどれだけ拘束し、他者とのコミュニケーションを分断されたとしても、発話される音、それ自体の尊厳はついに奪われなかった。そして、何よりも、、、マーシャの頬を伝う涙だけは、遮断切断分断が吹き荒れる三浦サンの「暴力」も止められなかった。あの涙には、完全に白旗降参でした、むじゃうけ、んこう、ふーっ、、く。


2004年05月17日(月) 最近、ちょっと

最近、ちょっと嬉しかったこと。

通学で乗る京阪電車の特急で寝るのが上手くなったこと。
左京区の町並みが、今までとは違う角度でどかに迫ってきて、
それが案外かっこよくて好きになれそうなこと。
8年前にパリのポンピドゥーで観た、
「フランシス・ベーコン」の大回顧展の記憶が、
ゼミでたまたま役に立って、ボスの質問に答えられたこと。

最近、ちょっと嫌だったこと。

土曜日「仔犬のワルツ」を忘れてて見逃した。
日曜日、Moto-GPの予約セットがずれていて録れなかった。
月曜日「愛し君へ」の予約を忘れていて、
あわてて親に電話して頼んだけど、後半30分しか観られなかった。
火曜日、ゼミのコピーカードをポケットに入れたのを忘れたまま、
出町柳の駅まで来てしまい、気付いて慌ててそれを返しに校舎に戻って、
ロスした時間、40分なり。

最近、ちょっと気にかかること。

あおいタン、成長期かしらん、少しほっぺたが。。。がんばれっ(?)
ろーさタン、抜群にかわいい、発音はイマイチだけど。。。がんばれっ。

最近、ちょっとドキドキすること。

別の2人の友人から別々のソーシャル・ネットワーキングサイトに誘われ、
それでそれぞれのサイトに参加してみたら、これがとっても楽しい。

・・・

どかが利用してるエンピツ(このサーバー)のシステム自体、
既に古びてきてるのだろうなあ。
いまはただの日記サービスでは賞味期限が切れつつあって、
最低でもブログ、そしてもっともベストなのは、
こういうソーシャル・ネットワーキングサイトなのだと思った。
開かれ具合と閉ざされ具合の割合が絶妙すぎて唸らされる。

例えば鳥取砂丘のひとつの丘の上に立って、
360度視界が開けきったときに感じる爽快感と。
例えば熊野古道のうっそうとした森の中を歩いていて、
ふと木々が途絶えた日差しが降り注ぐ草地にたどり着いたときのそれと。

そんなイメージなんだな、比較として、なんとなく、ね。


2004年05月13日(木) 富樫ヨーコ・佐藤洋美(編)「加藤大治郎」

一周忌を迎えて、加藤大治郎を追悼する図書が講談社から出版された。カラーの写真がたくさん載って、それを挟んでかつて彼を知った様々な関係者の短いモノローグが並べられているという構成。実際は取材で得られたテクストもあるのだろうけれど、編者がそれをモノローグという体裁にしていると思われる。でも、どかはこの構成は、好感を持った。シンプルで淡泊な編集には、かえって大ちゃんへの誠実な思いや敬虔な態度がにじんでいると、どかは思った。

で、実際、どかはまだ最後まで読めてなくて。だって、泣いてしまうんだもん、どうしても。

・・・

ここに収録されてるモノローグは、ふたつの性格に分かれていると思う。ひとつは、彼の「速さ」について。もうひとつは、彼の「人柄」について。たしかに大ちゃんは、誰からも愛される本当に優しくてジェントルマンだったみたい。でも、、、どかは、彼の「人柄」について賞揚する資格を持たないと思うから、それは触れない。そういうのは、ここにも収録されてるけど、遺された家族の方や、チームのメカニックさん、個人的なつきあいがあった方だけにのみ許された領域だと思うから。

だからどかには、彼の「速さ」について語った言葉こそ、胸に刺さる。「速さ」とは客観的な結果である。時計的なラップタイムにしろ、鮮やかなパッシングにしろ、それは絶対的な尺度である。スピードは完全な価値であるからだ。そして、だからこそ、ここには切なさがある。

例えばMOTO-GPの主要なライダーは大体、寄稿している。そして全員が(ほんとうに全員が!)彼は、いずれMOTO-GPのチャンピオンになっただろうと語っている。日本人ライダーのみならず、スピードに身を捧げてきた全てのリアリストがそう語っているのだ。グレシーニ、メランドリ、ビアッジ、バロス、カピロッシ、ジベルナウ、もちろんロッシも。そして、ドゥーハンやロバーツSr.といったスーパースターまでもが、加藤大治郎という才能を1流以上のものだと認識していた。もちろん、坂田和人や上田登、青木兄弟、中野真矢そしてなんと、平忠彦も、彼の速さの証言者だ。

また、上記寄稿者の何人かは、加藤大治郎はイージーミスが少なかった実に堅実なライダーだったと証言している。彼のミス以外のなにかしらの原因がアクシデントの主因では無いのか、という意味でである。

  大治郎はアクシデントからは一番遠いところにいるライダーという印象
  (武石伸也・元全日本スーパーバイク・ライダー)

  自分の能力以上のことをやるライダーではなかった
  (遠藤智・GPジャーナリスト)

  いくら改修されたといっても、
  大治郎がもっとも得意としていたコーナーで何が起きたのか
  (宗和孝宏・元全日本ライダー)

彼らの無念さが伝わってくる。1年という節目に発行されたこの本は、あのアクシデントの幕引きになることだけはあってはならない。

そして、、、大ちゃんのスピードには、涙も追いつくことなんてできやしない。そう思ってたどかを、完全にうちのめしてくれたのはノリックと原田哲也のふたりの文章だった。

ノリックは、幼い頃から親友の大ちゃんの死は、いま走り続けている自分にとってもすぐそこにあるものなのだと「体感」し、そしてそこに踏みとどまることへのリアリティを自分の言葉で語ろうとしてくれている。どかはそこに、GPライダーの誇り高き勇気があると思った。どんなに辛い痛みも、それを麻痺することで逃れるのではなく、痛みそれ自体を、身体に受ける風として感じ続けて走ることなのだ。それを麻痺して逃れてしまったら、ただの暴走族に如かない。GPライダーの美しさとは、その痛みに耐えながらアクセルを開ける、その勇気だ。

そして、原田哲也。どかは、大ちゃんが逝去した後に大ちゃんのあとを継いでRC211Vで走ってたライダーのことはキライじゃないけど(好きでもないけど)、どうして原田サンを走らせないんだってかなり憤ってた。大ちゃんの才能に匹敵するのは、原田哲也だけだ。コースクリア時の大ちゃんのラップタイムと、ドッグファイトの混戦における原田サンの凄みこそ、日本が世界に誇れる「スピード」だとどかは信じていたからだ。でもあとから聴いた話、やっぱり原田サンにオファーはいったらしい。何で、受けなかったんだろ?そう思ってたどかに、彼のモノローグは応えてくれた。どかは・・・。涙があふれた。そして、自分の不明を心から恥じた。どかは何もわかってなかった。何もわかって、なかったんだな・・・

  絶対に乗ろうとは思わなかった。
  僕は自分のマシンに他のライダーが乗るのが嫌でした。
  大治郎も同じ気持ちだろうと思ったからです。
  (原田哲也・元250cc世界チャンピオン)

どかはまた、GPを観ようと思った。観なくちゃいけないと、思った。


2004年05月12日(水) '04 Rd.2 SPAIN / Jerez

かなり久しぶりにMOTO-GPのレースを観た。世界で一番オートバイレースの人気が高い国、スペイン・へレスでのレース。緒戦南アフリカGPのあと、いきなり第2戦にしてコンチネンタル・サーカス(ヨーロッパラウンドのこと)が始まるというのも違和感。つまり、今年から、日本・鈴鹿ラウンドがカレンダーから消えたということ。

大事なのは、鈴鹿でレースをしないことじゃなく、事故の原因を徹底的に追求することなんじゃないの?臭いものにふたをする的事態収拾に終わらせないで欲しいな。

ともかく。

どしゃぶりの雨のなか、行われた第2戦。ことしのGPの最大のニュースはご存知の通り、常勝ヴァレンティーノ・ロッシのヤマハ移籍。最強マシンRC211Vを駆ってホンダで連覇を続けたロッシは、戦闘力の劣るヤマハのYZR-M1へと乗り換えることとなる。理由はおそらく、これまで通りの体勢だとロッシ自身がモチベーションを維持するのがむずかしくなってきたからだと言われている。つまり・・・

  いつも楽勝じゃつまんないし、敵になりそうなヤツもおらんから、
  自分のバイク、ちょっと遅いのんに乗り換えてみよーかなっ
  (ボクんこと、バイクがいいから勝てるんだとかぬかすアホもいるしね)

と、いうことらしい。どかの知る限り、その時点での最強のチャンピオンが敢えて弱いファクトリーに移籍するというケースはこれまで無かったと思う、GPにおいて。エディ・ローソンがイタリアのカジバに移籍したけど、あのときすでにローソンの時代は終わりっていて、レイニー帝国が形成されてたしね。というか、どかとしては、このロッシの移籍、あんまし嬉しくない、というか評価したくない。

モチベーションを維持するのがしんどくなってきた。それは分かる。分かるけど、それがだって、帝国に君臨する王者の孤独じゃん。ローソンだって、レイニーだって、ドゥーハンだって、もっと言えば、キングケニー(Sr.のほうね、もちろん)だって、連覇を続けながら戦っていたのは自分自身なんだよ。どかはワンサイドのレースになっちゃって、王者が逃げ切りを決めちゃったりすると「つまんねー」とか言っちゃうけど、それはそれで、やっぱり至高のパフォーマンスを見られることこそが幸せなのだから、ラップタイムアーティストの凄みというのは満喫することができるわけで。そしてその誰よりも速いラップを見ながら、すさまじい自分自身との戦いを想像することができるわけで。実際、ロッシは500ccで初めてチャンピオンを取って以降、ほぼ全てのレースにおいて、一番のライバルは自分自身という状況のなかで戦ってきて、それに勝利を収めてきて、そんなロッシをどかは、認めざるを得なかったわけで、やっぱり好きなライダーだったよ。

だからV5でもV10でも行けるところまで、RC211Vで行って欲しかったなあと思う。だって・・・、速さこそが、全て、でしょ?

  君たちには分かるまい。
  あらゆるものの中で最も美しいものはスピードであることが。
  知力も体力も精神力も芸術性も狂気もまた全ての最高峰は
  スピードであるということが。
  (野島伸司「スワンレイク」より)

勝つことよりもスピードを。こんな神に背を向けるようなおぞましい欲望に身を委ねることを、許される人間はほんの一握りなのだから、ロッシはそのほんの一握りのヒトなのだから、どかはだからちょっと、悔しい。きっとロッシはYZR-M1でもチャンピオン争いをするだろうけれど。

でも、一方でまた、どかが思うことは、きっと大ちゃんが今シーズンのグリッドにいたらば、きっとロッシはまだ、RC211Vに乗っているだろう。同じマシンでないと、大ちゃんには勝てないと、覚悟したに違いないから。

で、第2戦なんだけど・・・、ほんとは第2戦のレポートをちゃんと書こうと思ってたんだけど、雨だし、ヘビーウェットのレースはあんまし好きくないので、どうせ久しぶりにGPについて書くなら、たまっていた「思ったこと」を並べちゃおうと思ってこうなった。ちなみに緒戦を劇的な接戦でものにしたロッシ、さすがに雨の日のセッティングまでは詰め切れないらしく、本当に久しぶりに表彰台を逃す。

見所はビアッジとジベルナウの「ホンダエース争奪戦」。ドッグファイトは終盤までもつれ込む。雨が得意なジベルナウが堅実にラップタイムをキープし、ビアッジはやっぱりミスが出て2着。3着にロッシと入れ違いにホンダに復帰したバロス。改めて思ったのは、どかはイタリアントリオが好きだと言うこと。いまのGPのメンバーで、まず応援するのは、王子真矢クン。次にノリック。その次はイタリアントリオ(その序列はカピ>ビアッジ>ロッシ)。あとは応援しない。ビアッジはきょうはジベルナウに負けたけど、相変わらず綺麗なライディングフォームだなーと見とれました。それくらいかな。

全レースは無理かもだけど、今年はちゃんとGPも見ようと思う。なんでそう思ったかというと、先日、本屋で買った一冊の本が理由。講談社から出版された・・・

  富樫ヨーコ・佐藤洋美(編)「加藤大治郎」

が、あまりに2004年5月のどかの胸をうったからである。


2004年05月10日(月) 愛し君へ(〜第4話)

 なーんだ、見てんじゃんよー、どかったらー

 ・・・はい、すみません、見てましゅ

というわけで(何がだ)、今クールのフジ月9ドラマ。原作は映画化もされた、さだまさしの「解夏」。主演は菅野美穂と藤木直人。藤木直人は、カメラマン俊介役。そして俊介は、ベーチェット病という難病によって、3ヶ月後までに失明することを宣告される。

・・・、符合、だよね。

思い出すな、一年前の野島ドラマ「高校教師」。あの時の、藤木直人も不治の病で余命幾ばくもない設定。やー、つくづく病に伏せってしまうお方だ(?)。どうしてこういう特徴あるキャスティングになるのだろう。あの「見目麗しい整った顔立ちが苦痛に歪むのを見たいっ」、というプロデューサーのサディスティックな欲望なのか(最近疲れ気味でうがちまくりなどか、反省)。

まあ、それはともかく、藤木サンの顔は改めて、美しいなーと思う、どかの周りでは人気、無いけど(どうも女の子ウケがイマイチ?)。たしかに演技、それほど上手いわけじゃないし、表現のスパンもかなり限定されてるんだけど、この顔があれば、全部オッケーじゃないかなあ。声もいいし、うん。たしかにこの顔が苦痛に歪むのを見るとドキドキする(・・・)。

でも、どかが幾つかのマイナス点をふまえても、このドラマを見てる理由はただ一つ。菅野美穂嬢だ。この世代では、もう断トツの演技派だと思う。というか、ドラマと言うより舞台派だよね。そう、第3話までは何だか、イマイチこの作品にしっくり来ないなって思ってたの。

でもそれは、他のドラマで主演張ってるような10代そこそこの、演技の「え」も知らないガキタレが作品から浮きまくってるのを、かろうじて編集でごまかしてるような感じの後味の悪さではなく、こう、フレームにおさまりきらない感じの違和感だ。「生」の舞台で爆発するような、観客を打ちのめすほどのエネルギーは、そうそうフジテレビ流の「オシャレ」なフレーミングには納まらない。まあ、役どころ自体も、ガリガリ押してくるようなヒロイン像ではないことも、菅野嬢のほとんど野獣のような演技にかけるエネルギーを上手くとどめおかれない要素の一つなんだろう。

それでも、第4話は違った。なんかようやくヒロインの女医のたまご、四季チャンが四季チャンとして動き始めた気がする。ラストシーン、切なかったなあ。


  あなたのことを、好きなのかも、知れない


潔い断定口調が似合う菅野嬢の、この歯切れの悪い告白はちょっとグッと来たりする少女趣味どか。毎回ラストに流れる、さだまさしっぽいモノローグは、野島伸司のモノローグに慣れてしまったどかには甘ったるくて仕方ないけど、でも、菅野嬢の演技を見てたら、赦せてしまいそう。最後まで見ていけるかな。

あ、ひとつだけ。主題歌は、最低。どか、あの声は生理的に受けつけない。ほんとに、一番良いシーンで、あの声はちょっとかんべん。


2004年05月09日(日) G1NHKマイルカップ

◆予想

◎:コスモサンビーム
○:メイショウボーラー
▲:キングカメハメハ
△:フリーダムホーク

1枠1番を引いた2歳王者が有利とみる。ザグレブ産駒は連戦にもタフに対応できると思うし。ボーラーは連戦がちょっと心配だけど、距離適正はマイルがベスト。スピードなら誰にも負けないだろう。カメハメハは鞍上のアンカツを信頼、フリーダムは鞍上の横山典を信頼。買い目はサンビームからボーラー、カメハメハへ馬単で流し、かつ馬連も流す。馬連は少額、フリーダムへも流す。


◆レース

ボーラー先行、その後タイキバカラがかかりまくって暴走、サンビームは内ラチ沿いの省エネコースを好位置に、カメハメハは外目を好位置に。直線、鋭く反応したサンビームがスパッと先頭に立つ、うん、予定通り!と思ったら外から不穏な鹿毛(影)!カメハメハだー!グイグイグイグイ、鬼のような脚で追い込む追い込む。・・・。いや、すごかった、これはすごい。サンビームは2着に粘るけど、もはや他のウマは止まったかのよう。キングカメハメハ、スケールが違いすぎ、これは強すぎる!サンビームを5馬身ちぎって、レコード決着。

キングカメハメハは、あのクロフネや、タニノギムレットで有名な松田国厩舎。しかもカメハメハ自身が、その2頭の先輩のように、かなりのハンサムくん(グッドルッキング)。鞍上が例えアンカツでなくても、この子の華は素晴らしいすぎる。どか、ノックダウン寸前。ブラックタイドが戦線離脱で、どかのダービーは終わったかもと思ってたけど、幸運にもスターは降臨する。

皐月賞、天皇賞と、どかにとってだけではなく、気持ちの良くないレースが続いていたけど、どかはたとえ馬券がとれなくても、こういうレースが観られたら満足。そう、素晴らしい好レースだった。


◆結果

馬連でひとつ、的中! しかも、結構ついたので、前二戦の負けは帳消し。来週の重賞は見送る予定、次はいよいよ、オークスだー。


2004年05月08日(土) マレビトの会「島式振動器官」

どか、かなり久しぶりの観劇、マチネ@アトリエ劇研。この京都下鴨にある劇場は、観客席100弱の小さな劇場。今後の上演スケジュールを観てたら、青年団等が来るみたい、うん、いかにもそれ系な雰囲気の劇場。ちょっと交通が不便なのが残念。

何と言っても、松田正隆サンの作・演出というのが惹かれた理由。どかが以前に紀伊國屋ホールで観た「月の岬(レビュー未収録)」は、かなり面白かった。あの舞台は作・松田の演出・オリザで、普段の青年団の舞台とはまた違った艶っぽい「狂気」が徐々に舞台を占めていく展開の妙に戦慄したのだった。「雲母坂」は観られなかったけど。マレビトの会とは、松田サンが自身の作品を上演するために今回立ち上げたプロデュースグループ。アトリエ劇研をフランチャイズとするみたい。

で、どかが松田戯曲に抱いていたイメージとは「月の岬」のそれであり、つまり少しオリザ戯曲に似ているけれど、≪パッと見「平温」のような、緻密かつ透過度の高い再現性≫だった。でも今回の「島式振動器官」はのっけから違って、≪一見して「熱病」のような、緻密かつ飛躍のある乖離性≫を印象として受けたどか。つづめて言えば、明らかな「不条理劇」だった。

腑に落ちない論理、つじつまの合わない会話、風景のない窓、内容のない手紙、聞こえない耳、飛べない鳥。そんなモチーフが、意図的な違和感をふくみ込んだ役者のセリフから浮かび上がっては消えていく。どかは途中から笑い出したくなったんだけど、周りは誰も笑ってないから笑わない

キャラクターやストーリーの解体というベケット風な不条理、ラカンやバルトを匂わせるキーワードの羅列、全ての表象を「記号」として、その意味する内容を推理しなくちゃな気分にさせる展開。一瞬、どかもその「パズルゲーム」に参加しようかなと思ったけど、とちゅうで辞めた。21世紀のこの時代、そんな20年も前のムーブメントと同じことを作家が観客に要請しているとは思えなかったから。

そう、どかはでも、「月の岬」のような精緻な結晶を紡ぎ上げた松田サンが、こういうストーリーの解体のベクトルを目指したかった理由は、なんとなく分かる気がする。遊園地再生事業団の宮沢章夫サンが活動休止後の復帰作「TOKYO BODY」を作っていったときと、きっと同じ気持ちだったのだろう。それはどかなりに言葉にすれば「予定調和への憎悪」である。

分かりやすい「めでたしめでたしシャンシャンシャン」系の作品やドラマばかりになってしまった現状、それは鴻上尚史が先日言っていたように≪観客の側にこれっぽっちも想像力への根気が残っていない≫ということが原因である。ちょっとでも飛躍があったりズレがあったりしただけで「分からないもの」として自らのなかで決着を付けてしまい、そっぽを向く。こんな観客が増えてきてしまったから、作家の側でも、観客を甘やかさざるを得ない。自分の表現欲を制限してでも、ハードルを下げていかざるを得ない(ちなみに、この「めでたしめでたしシャンシャンシャン」系と、つかこうへいが語る「ハッピーエンド」とは似ても似つかない天と地の差があることは言うまでもない)。

「分からないことを分からないまま、宙づりに自分の中で蓄えていく」ような見方が大切なんじゃないかなとどかは思う。安易に「記号」に答えを照合していくのではなく、安易にカタログ化へと進むのではなく、不条理な宙づり感覚にちょっと耐えてみたりすること。これはこれで、かなり度量を要する大変な作業なんだけど、でも、どかはそう自分のチャンネルを変更したとき、かなりこの舞台が楽しめる気がした(だからそこかしこのプロットに笑いたくなったんだけどな)。

耳を切り落としてそれを牛乳瓶に入れて手紙にする、など、とっても奇妙でかつそれが美しく詩的なイメージを付与されて舞台に在ることにどかは素直に感動した。奇妙な「記号」だけなら、現代思想や哲学をかじれば誰だって生み出せる。それをきちんと舞台の上に載せて、かつ美しいということが、演劇が演劇である意味だ。最後のラストシーン、机の上に載せたたくさんの牛乳瓶がカチャカチャ振動でふれ合う音が余韻として残る暗転、どかは素直にカタルシスを感じた。例えば、ダリやマグリットの絵のなかを進む自分だ。たくさんの暗示にまかれつつも、その青空や星空の澄んだ色は色として心を打つ。宙づりだからこその、引き裂かれている感性だからこその、浸透圧がそこにはあるのだ。

そして、観客は劇場を出てからゆっくり時間をかけて、宙づりになった心を着地させていけばいいし、引き裂かれている感性をもういちど結び直せばいいんだよね。いそがなくても、それを意図さえしなくても、きっと、スッとなるんだから。

(と、どかは思っていたけれど、一緒に観たオッチー氏はかなり厳密な読み込みを試みていた。バルトについて、どかとは比べものにならないくらいちゃんと知識を持ってる彼には、かなりの部分が理解できたらしい。うん、それもまた正解なんだろうなと思ったり。鑑賞の多用さはそのまま、その作品の価値なのかも知れない)


2004年05月07日(金) やっぱりなあ

ぱちぱちネットサーフィンしてたら、ショックな記事。

  ブラックタイド、左前浅屈腱炎発症・・・

げしょーん、ま、まじっすか。
うーん、新馬戦から応援してた馬だったのになー。
皐月賞の惨敗は、あまりに納得がいかなかったけど、
うーん、そうかあー、ちょっとおかしかったのかなあ、
やっぱりなあ。

でも、ショック。

すごいカッコイイ馬だったのにな、まさに「グッドルッキングホース」。
スプリングCでテン乗りの横山典サンとのコンビのレース、
シンガリ待機からの直線一気、
2歳チャンプのコスモサンビームを置き去りにした末脚は、
スパッと切れる感じじゃないけれど、ぐいーんと伸びる感じ。
皐月はダメでも、府中向きだと思ってたからな。
ダービーでは、単勝勝負と思ってたのにな。

なんとか、復帰して欲しい。
浅屈腱炎は、いままで何頭もの名馬を引退に追い込んできた難病。

あのキレイな馬体がもういちどターフで見られますように。

がんばれ、タイド。


2004年05月06日(木) やっぱりね

昨日は朝から晩まで、きょうのゼミの準備。
階段を降りられないほどの
(いや、たとえじゃなくてホントに降りられないんだよねこれが)、
筋肉痛に苛まれていたけれど、
勉強机に向かって辞書を引く分には平気。
苦戦しつつ、8割の出来できょうは臨む。

早めに着いたので、ルネ(大学生協)の本屋で立ち読み。
びっくりして思わず声をあげそうになったことは、
映画雑誌のHを開いて、今月はあおいタンが表紙でうれしーなー♪
と思いつつ、対談の記事を読んでたとき。
あおいタンが吉祥寺の高校に通ってたという事実発覚!

ま、まじっすか!

「東京で好きな街はどこですか」という問いに、
吉祥寺です、と答えたあとの理由で話してたんだけど。
いやー、やっぱりねー、そうかー、むふー。
そだよねー、吉祥寺だよねー、どかも好きー。
やっぱり通じるところがあるんだよなー、
楳図かずおや西原理恵子やいしかわじゅんが住んでるだけじゃないんだよー。
うんうん
(にしてもどかが会えたのは楳図氏だけ・・・、なぜあおいタンとは)。

と、あまりに嬉しくてスキップしたい気持ちでルネを出て、
ボスのTA(ティーチングアシスタント)のために教室に向かう途中、
ふと、気付く。

あ、あの雑誌、買うの忘れた・・・


2004年05月04日(火) 続・白州町にて

でも、何が一番かと言って、昼間のなんやかやよりも、
夜、ダラダラ飲んでダベってたのが心地よかった。
完全にスイッチオフ状態で、グデーって溶け溶けな感じで。
くりはらサンが作ってくれた肴をつまみつつ、
ネオユニヴァース単勝馬券を紙吹雪にしたりしてると、
何というか、やっと身体が気持ちに追いついた気がした。
4月からこっち、とりあえず気持ちは先へ先へ、
前倒しで進めなくちゃだったから進んでいたけど、
どっかでこう、引き裂かれた感が拭えなくて、
でもそんな引き裂かれた感をとりあえず「カッコ」に入れておけるくらいには、
どかも大人になっちゃったから、日常は流れるのだけれど、
その引き裂かれた隙間に吹き込む風は、得も言えぬヒリヒリするような。

いろんなことを「カッコ」に入れてしまえる要領だの気合いだの、
それはそれで大切なことだしどかは半分無意識にそのような手練手管を、
修得してきたような気持ちもあるけれど、でもそれだけじゃ、ヤダ。
「カッコ」に入れっぱなしな人間が世の中、多すぎる。
「カッコ」に入れられなくてパンクする人間も、多すぎる。
最近のニュースなんてみんな、そうじゃないか。
前者はズル過ぎるし、後者はだらしなさ過ぎる。
自戒を込めて、そう思うな。

なーんて言うことを、ぼけらーっと考えていたような考えてないような。

でも、ネパールから来た女の子チャンは、衝撃的だった
(なにが「でも」なんだ)。
宗教的舞踊にしろ世俗的舞踊にしろ
(もちろん厳密的な意味で区別はできないけど)、
とーっても肉感的なんだなー。
やっぱりインドに近いからだろうか。
中国というフィルターを通していないのも大きいのだろう。
彼の地の信仰の感触の「柔らかさ」というものは、
からみつくようにトドメを差しにくるなーと思う
(いやー、あの腰つき・・・でへ)。
世界観としてのカーストを実感できたのも、良かったしね。

踊りの練習
▲みんなは練習中、それを眺めるくりぽん、とよぷく、どか

師匠夫妻ととよぷく氏、くりぽん氏以外にも、
どら、ハル、惣一郎、くま、ぶう等と会えたし、
現役の子たちとも話が出来たし、
良いタイミングで入ったくさびだったことは間違いない。

帰りはくりぽん氏とヒロエちゃんが同乗して、この日の朝10時過ぎに出る。
途中、名阪で若干渋滞に巻き込まれるも、ロスは1時間弱で済む。
ヒロエちゃん家に寄るために京都で降りて、
あまりにもベタすぎると思いつつ「天下一品」でラーメンを食し、
夕方6時頃、どかん家着、くりぽん氏はそこでツデーに乗り換えて、
岡山県久米郡目指してすぐ、発った。
彼の道中の無事を祈りつつ、どかはばたんきぅ。


2004年05月02日(日) G1天皇賞(春)

この日の深夜3時に大阪を出発して、山梨県白州町の師匠宅を目指す。
くりぽん氏、とよぷく氏、同乗で、父のあうでーを借りる。
サスガにこの時間だと名神も中央も空きまくり。
5時間弱で到着、ついてお茶だけもらって、午前中は爆睡。
昼下がり、ぼちぼち踊りの練習でも、となってから、
どかはそわそわ。
だって、もうすぐ、発走・・・。


◆予想

4強のなかでも去年の2冠馬・ネオユニヴァースを本線に。
先週のダイワメジャーの皐月賞で、改めてデムーロの凄さに感服。
ネオとデムーロのコンビは、いま、
競馬界でもっともしっくりくる名コンビ。

ネオの3冠の夢を打ち砕いたザッツザプレンティとアンカツだけど、
昨年の菊花賞の勝利はひとえにアンカツの超・名騎乗
(おそらく2003年のベスト騎乗だと思われる)によるもの。
けれどもザッツには、あの超ロングスパートの一手しかなく、
既に、菊花賞で出し抜けを食らったデムーロは二度も同じ轍はふまない。

リンカーン、怖いのはこの馬。
明確に切る理由はあまり無いかな、切られない理由は素晴らしい血統と、
もちろん鞍上・武豊。
でも、ネオのが応援したいもの、やっぱり。

4強の最後、ゼンノロブロイ。
日本最強厩舎である、チーム・フジサワのエースだけど、
距離がどうか。
血統的に、この距離は長すぎるだろう、2000mまでの馬と見る。


◆結果

愕然。
全国の競馬ファンが唖然としたであろう。
10番人気のイングランディーレの逃げ切り勝ち。

いや、別に穴馬が来ても、良いレースなら良いレースと言うけど。
今回は・・・、イマイチなレースだろう。
気持ちよく自分のペースでディーレが逃げて、
遙か20馬身後方で、他の馬がお互い牽制し合って動くに動けず。
たしかに、テン乗りの横山典騎手は素晴らしい騎乗だった。
フルゲート18頭のなかで、馬のポテンシャルを引き出せたのは彼だけ。
ヨコテンさまの栄光は、賛美されなくてはならない。

ダメなのは、他の騎手。
ダメだよー、あんなのー。

みんなは踊りの練習していて、で、どかはテレビが無いから、
ラジオを耳に当てて必死に中継を聴いていて、
もはやレースの映像を、思い浮かべられなかったもん。
あまりに常軌を逸してる。
イマイチレース、だめだめ、あんなのー。

アンカツ、武豊、デムーロくんは、ちょっと反省しなくちゃ。

春天はだって、日本一の格のレース。
古馬G1の最高峰。
長距離レースがマイルなどに押されつつあるとは言え、
それでも、春の天皇賞は特別なのに。
今年はいいメンバーが揃って日本中で4強のたたき合いを楽しみにしてたのに。


と、中継が終わって鳥舞を踊ったんだけど、
このショックを引きずった私でした。


2004年05月01日(土) 企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜第3話

第1話、のっけから「野島節」が炸裂した。

  芸術家は本来、人間の進化と逆行していると言える
  なぜなら、遺伝子は戦略的に長く生きることを目的としているからだ
  つまり、苦悩や争いを避け、傍観者として長く生きながらえる方が、
  その目的にかなっていると言える
  すなわち、平凡に生まれ、平凡に生きるということだ
  だが愚かにも、芸術家はまるでその逆だ
  しかし、だからこそ美しい
  神々に逆らい、川の流れに逆行し、自らの身体を傷つけ、
  磨かれる小石はやがてダイヤモンドになる
  平凡な人々は、そのダイヤモンドに絶望的な憧憬を見せるのだ
  それが芸術家だ
  (「仔犬のワルツ」第1話より)

「プライド」とは異なり「仔犬のワルツ」で野島サンは、
自ら脚本を手がけるのではなく、企画に留まった。
そして実際に書いていくのは吉野万里子という新人脚本家。
けれども、この冒頭のシーンを見る限り、
企画・野島伸司の影響力はかなり強いことがうかがい知れる。
自ら書き下ろせないという今回の「しばり」は、
それでも前回のフジ月9という「しばり」よりも緩いのだろう。
だからこそ、この「野島イデオロギー」がこれほど端的に炸裂したのだろう。
イデオロギーが薄まってしまった「プライド」よりも、
手応えがあるかも知れないと、どかは思った。

ストーリー。
盲目の孤児院あがりの女の子・葉音には、
「パーフェクト・ピッチ」という才能があった。
身よりのない彼女を苛酷な境遇から救ったのは水無月芯也。
芯也は葉音にピアノを弾いてくれと頼むが、そのことはすなわち、
葉音が、有名音楽大学の後継者争いに巻き込まれていくことを意味していた。
欲望渦巻く激流の最中、イノセントの結晶・葉音の運命は?
という感じかな、ちょっと引いてしまうくらい少女マンガチックなプロット。
でもそれを言ったら「プライド」は笑っちゃうくらい、
少年マンガチックなプロットだったから、
きっと最近の野島サンは現実からメタ的に距離をとった、
寓話的な作劇法を志向しているように思える。
第1話では、葉音に対するイジメが描かれていたのだけれど、
この寓話性・隔世感ゆえに、観ていてもあまり辛くならない
(cf.90年代野島ドラマ「人間失格」や「聖者の行進」のイジメシーン)。

けれども、図らずも寓話性を高める要素として、
機能しているように思われることは「役者の拙さ」だ。
あんまし言いにくいことだけど、ヘタクソすぎる。
安倍なつみは、演技というほどの演技を要求されない役だから、
別段、気にならない、きれいな顔だし、いまのところ無難かな。
水無月譜三郎役の岡本健一、学長役の竜雷太はまだいい。
でも、安倍なつみの相手役・芯也の西島秀俊をはじめ、
杉浦幸、塚地武男(ドランクドラゴン)、風間トオル、小柳ルミ子など、
メインの顔ぶれが全てうまくないのはどういうことだろう。
まさか、このキャスティングは視聴者の感情移入を妨げて、
寓話性を高めることを意図していたというのだろうか?
まさか。
だって、これは日本テレビ開局50周年記念ドラマでしょ?
45周年記念ドラマは同じく野島ドラマ「世紀末の詩」で、
あれは良かったのに、キャストも脚本も・・・。
そして、某フジテレビの記念ドラマ「白い巨塔」と比べてしまうと。。。

さりげなく市原隼人と忍成修吾の「リリィシュシュ・コンビ」が、
そのまま配役されていたりと、どかの心をくすぐってくれてるだけに、
このミスキャストっぷりには、、、批判を通り越して興味深い(^_^;)
とりあえず、このコンビに注目かなあ、にしても市原くん。
「リリィ」から随分成長したんだなーと嬉しくなってしまう。
もう、少年じゃなくて、男性だねー。

ストーリーの展開は、まだそんなに激しく展開してないから、
まあ、これから注目という感じ。
キャスティングの難ということにさえ目をつむれば、
かなり、いろいろどか的に楽しめそうな要素は多そう、
それこそ「プライド」よりも。
期待きたい。

あ、もひとつだけ、難。
主題歌<つんく&安倍なつみ>だけはいただけないっす。
これだけ寓話性、隔世感を強く出しているんだから、
そんな有り体なナンバーを持ってきてもしかたないやん。
日テレさーん、お金の使い方、へたくそだよー。。。

(次回からはグチはなるべく、おさえます。。。)


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