un capodoglio d'avorio
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2004年03月31日(水) 野島伸司「プライド」最終話(まとめ3:予定調和と違和感)

(続き)

野島ドラマおなじみの「方程式」、最終回の長いモノローグ。「人間失格」「未成年」「リップスティック」「SOS」などなど、その作品のテーマの核心に迫る印象的な語りを最後に挿入するというのが、野島サンの得意とする定型。どかは特に「SOS」の最終回、卒業式のシーンの「僕たちは、愛するために生まれました」から始まる哲也(窪塚洋介)の答辞が大好きだった。そして「プライド」では、そんなモノローグを突っ込んでくるかなーと思いながら見てたら、それっぽいタイミングでハルのモノローグが入る。帰国後のインタビューに答える言葉だ。でも・・・、期待は裏切られた。かなり、凡庸。けっきょく「ひとりよりもふたりのほうが強いですよね」的なありがちなまとめ方で、テーマの広がりも深まりもまったく表現していないから、引用する必要も感じない。

でも。。。ラストシーン手前。ハルには新しい恋人が出来たんだと思いこんで、ひとり、アイススケートをする亜紀の姿は、良かったと思う。ああ、ここでこのドラマが終わってくれたら良かったのに。しかしそのあと、どかが考え得る限り、最低の予定調和の展開に入っていく。マリアナに沈んでいくような絶望を感じながらラストシーンを見ていたら、一瞬、かすかな違和感がサブリミナル効果のように。ん?2度目、3度目は少し注意しながらセリフを聴いてみると・・・、うん、やっぱり、ここがおかしい!

 ハル 「四季の歌」って知ってる?
 亜紀 うん
 ハル アキを愛する人は、心深きヒト

 (野島伸司「プライド」最終話より)

花火をバックにしたキスシーンの大ラス手前。ハルが亜紀にもいちど告白するんだけれど、何回見ても、やっぱりこのハルの問いかけと答えは、前後のセリフの流れから完全に浮いてる、全然繋がらない。だって、この「質問」の前の会話は、ハルがいつも持ち歩いてた亜紀の写真について。で、この「質問」の後に続く会話は「オレに合う女は亜紀だけ」と来るから、やっぱり普通のストーリーのレベルではどうしたって不自然。野島サンは現在のドラマ業界のなかでいかにオリジナルな作風であるからと言っても、プロの脚本家である。推敲くらいはやっているよ。・・・ならば、この不自然さの理由は、ひとつだけ。野島サンはこの一瞬に、野島サンは全11話に及ぶこのドラマのテーマを、凝集したのだ。「心深きヒト」というのは当然どかがすでに述べたように、「氷の女神」との邂逅を暗示している。リンクの氷の底へのダイブ、そして自分の意識下レベルへの沈降を、暗示しているのだ。

これはあくまでどかの仮定だけど。でも、そう考えればどかの中で全てが繋がる。フジ月9キムタク主演という日本一厳しい「シバリ」のなかで、脚本家が自分の作家としてのテーマ性に筋を通すために、ほぼ完全に世間の予定調和に敗北しつつそれでも自分の「プライド」にかけて挟み込んだ不自然さ。この仮定は、それほど大きく外れてはいないと思う。

この不自然さを「必然」と捉えるならば、当然「四季の歌」の「ハルを愛する人は、心清きヒト」という歌詞についてはすでに第10話で触れられていたこととリンクさせて考えるのは自然な流れとなる。つまり、

【心清きヒト・古き良き時代の女 ≪ 心深きヒト・氷の女神】

という構図こそ、野島サンがこのぐちゃぐちゃぶーなラストシーン、ひいてはこのドラマ全体で提示したかったことなのだとどかは思う。

はっきり言って、ラストシーンはこのセリフ以外、すべて要らない。この構図をぼやけさせるだけだもん。別に花火を打ち上げて、それをバックにハルと亜紀をキスさせなくても、野島サンのテーマから言えば、ハルは既にハッピーエンドを迎えていたんだから。ハルは、亜紀と結ばれなくても、究極、幸せだったのだから。

さっき軽く触れたけど、どかが演出ならば、ラストはアイスホッケー場でひとりスケートをしながら軽く微笑む亜紀の姿で編集を終えるだろう。ここで切れば、その後の現世的な幸せを感じさせつつも、お互いが精神的な世界で既に満ち足りているというもっとも大切なことが明らかに提示できたのだから。そう。このリンクで、ひとり淡々とスケートをする亜紀の姿は、意識下レベルへの深化を感じさせるほどに凛々しさを見せていたよ。それだけで、もう、充分だったのに。ハルは、もういらなかった。ああでも、それは野島サンがいちばん分かっていたのだ。この不条理。このやるせなさ。不自然さという後ろ向きなコミュニケーションで切なくやりとりされる、一番大切なテーマ。

ドラマなんて観た人が楽しければそれでいいのよ。という意見が、某プライドサイトの掲示板でも多数。まあ、そういう書き込みを喚起してるのが、たぶん某主演役者サンのアンチクンたちの、感情的なだけの攻撃的否定書き込みだからなー。別に、どかはそういうの見て「ダメだよ」とは思わない。ヒトとして最低限の礼節をわきまえて、かつ表現者への最低限の敬意を持っていれば、何を書いても何を感じても別に構わない。

ただ、どかはドラマ「プライド」の受けとられ方には、何かうすら寒いものを感じた。高度消費社会のどう猛な消費性が、ついに野島伸司という脚本家を取り込んで葬り去ろうとしていると感じたのだ。某役者サンの熱烈な激賞と、他のほぼ無関心に等しい冷笑という二極化は、まさに消費社会の典型的な反応だ。

どかは・・・、どかは野島サンには「借り」がある。どかは、大好きな表現者はけっこうたくさんいるけれど、「借り」があると感じるヒトは3人だけ。甲本ヒロトと、つかこうへいと、野島伸司。この3人は、命に代えても絶対に支持したいと覚悟を決めているどかである。野島サンの厳しすぎるほど荒涼としていて、かつ新雪ほどにデリケートな理想主義的世界は、いまだフォロワーがまったく追いつけないほどにオリジナルでかつ孤高の位置にある。でもどかがその世界について、感情的にただただ崇め奉ってしまったら、それは某掲示板の二極化のひとつに飲み込まれてしまうだけ。だから、どかはありったけの危機感をかきあつめつつ、理性と感性のアンテナの感度を最大限まで引き上げてから「プライド」を毎回見続けた。どかのアンテナなんてホントは錆び付いてるんだけど、それでも磨かなくちゃと思った、それが危機感。

こんなにどかがくたびれてしまった理由とは「プライド」自身に、消費社会に迎合するような因子が色濃く組み込まれていたことであり、それでもどかがいまちょびっとだけ嬉しい理由とは「プライド」に、やっぱり野島サンの脚本家としての「現在形の」テーマが織り込まれていたことである。「清らかさ」よりも「深さ」をただ、求めるというベクトルには強烈なアクチュアリティがあると思うところ。

はあ、やれやれ、やっとこのレビュー、終わりだよ。つかれたー。

付記1:木村拓哉サン、最終的にどか、否定はしない。ちょっとあのセリフは、彼には不向きだったということなのだと思う。どかは・・・、実は告白すると、途中からハルを、いしだ壱成が演っていたらと想像して差し替えて見てました。壱成クンなら「メイビー」その他、あのセリフはちゃんと言えたと思う。どかのなかで木村サンは「あすなろ白書」がベストだった、たしかにあの時はすばらしかった。でも、あれから彼は、変わっていない。

付記2:竹内結子サン、ラスト3話はハルから主人公を完全に奪うくらいの熱演。振り返ってみれば、もともといかにも野島サンが好きそうな女優サンだからいままで野島ドラマに出たことなかったのが不思議なくらい。第10話のラストの亜紀の顔が忘れられない。名演だった。

付記3:佐藤浩市サマ、さすがだった。もう文字通り「役者が違う」。自分の「芸の浅さ」を、自分の「芸風」だと誤解しているヒトへの、強烈なカウンター。佐藤サマはどんな役をやっても「佐藤サマ」だけど、その説得力が違う。それはいつもちゃんと挑戦してるからだ。

付記4:でも、佐藤サマが演じた兵頭が、最後失明するのって、次期月9ドラマの「解夏」への布石?あまりにもあからさまじゃないかのか、それは?


2004年03月30日(火) 野島伸司「プライド」最終話(まとめ2:氷の女神)

(続き)

「氷の女神」というのはドラマ終盤で提示される、「古き良き時代の女」と対照的な理想のイメージである。真のアイスマンのみが出会えるリンクの底に住むという「氷の女神」。半ば伝説のような扱われかたである。しかし、ハルはライバル・グリーンモンスターとのリーグ最終戦で、そのイメージと邂逅する。

脳しんとうを起こしてリンクにつっぷして倒れたハル。もうろうとする意識の中、白濁色のリンクがどんどん透過され、彼の視線は底の底へとどんどん沈降していき・・・出会った女神の素顔はなんと、亜紀であった。銘記すべきは、「氷の女神」を<縦>への深化に見いだしたということである。明らかなように、リンクの氷の底の底へと降りていくイメージはそのまま、自分の意識下の深層へと降りていくイメージである。「氷の女神」はだから、ハルが彼自身のなかに見いだしたイメージであっという言い方が出来るのだろう。「古き良き時代の女」は相手との信頼関係という<横>への連関、水平方向の運動に生まれるイメージであったのとは対照的である。「真実の愛」を<横>の連関ではなく<縦>の深化に見いだすということ・・・。

 亜紀 ハル・・・?ハルッ!
 ハル (ママ・・・)

 (野島伸司「プライド」最終話より)

フラフラしながら立ち上がったハルはスタンドに駆けつけた亜紀の姿を見、口を微かに動かした。セリフは音声に入っていないが、その唇の動きは「ママ」と呟いたように見える。この時のBGMは満を持して投入された「♪ボヘミアンラプソディ」だし「ママ」でなおさら間違いないと思われる。いままでのハルは、母性を求める故に「古き良き時代の女」を求め、そしてそれが適わないことを知り自らの殻に再び戻っていった。意識上では既に母性を欲してはいなかった。けれども最終戦のなかで彼は、意識下のレベルで母性と邂逅することに成功する。どれだけ求めても得られなかったものが、すでに自らの内にあったことを知るのである。このあとグリーンモンスターのディフェンス陣をことごとく抜き去っていくハルの姿は、意識上から生まれる動きの「クセ」が消えたことを意味しており、彼が意識下と強く繋がっている状況の、記号として理解できる。

しかし<横>の連関ではなく<縦>の深化に真実を見極めようとする姿勢は、ともすると「自己愛」に落ち着いてしまいそうにも思える。そしてどかは、ここがこのドラマのテーマの、かなり危うい点であり、かつ最もアクチュアリティが発揮される場所じゃないかと思う。たとえば、以下の大和とハルの会話。夏川との結婚が破談になった亜紀に対して、「待っていてくれ」と何で言わないのかと問いつめる大和・・・、

 ハル いや自由でいいんだって
    で、ひょっとしたらオレもさ、
    むこうで金髪の彼女ができるかもしんねえでしょ
 大和 亜紀さんにも?
 ハル ・・・それならそれでいいよ
 大和 それは強がりだよ
 ハル ううん、そうじゃない
    そうじゃない

 (野島伸司「プライド」最終話より)

自分がカナダでNHLのトライアウトに参加しているあいだ、日本で亜紀に「変なムシ(かつてのハル自身のように?)」がついたらどうするのかと問いつめる大和に対するハルの返答は、どう理解すればいいのだろう。もし未だハルが「古き良き時代の女」という理想を持っているのであれば大和の「亜紀サンにも?」という問いかけに対して「・・・いや、それはないよ」という返答になったハズである、絶対の信頼関係がそのセリフを用意したことだろう。しかし、ハルは「それならそれでいい」と答える。そして「強がりじゃない」と。ここが、この「プライド」というドラマのもっとも際どいポイントだ。

どかは結局、本当に「それならそれでいい」という意味でハルは言ったのだと理解する。なぜなら彼は、「古き良き時代の女」に惚れているのではなく、「氷の女神」に惚れているからだ。そしてそれは一見、いままでの「孤独主義者ハル」と何ら変わっていないかのようにも見えるし、実際大和はそう思ったからこそハルを責めた。しかし、第10話のハルの孤独と、最終話のハルの孤独は、別物である。克己を究極まで推し進めることで初めて到達できる意識下のミニマムな世界で(それはアイスマンにおいてはリンクの氷の底という場所になるのだろうけれど)、既にハルはひとりじゃないからだ。そう、例えば、アイスホッケーを続ける限り、リンクの上に立ち続ける限り、現実に優しい言葉や安らぐ温もりが得られなくても、彼はひとりじゃないのだ。このドラマのストーリーをちゃんと追っていくと、ハルはこういう境地にいると理解することしかできないのではないか、どかはそう思う。

「結局、自己愛じゃないか」という批判もあたるだろう。たしかに境界線はかなり曖昧であるとどかも思う。けれども「自己愛」ではない、現実世界に蔓延している数ある「愛」のうち、欺瞞や虚偽に冒されないものが一体あるのだろうか。現実の母親が子供に注ぐ愛情ですら、遺伝子の利己的な戦略であると野島サンは書いた(もちろん「高校教師'93」である)。ノスタルジックな感傷とともに過去を振り返ってみても、そこにはやはり欺瞞があった(「古き良き時代の女」)。また、現実の刹那主義的な恋愛の流れのなかにも、虚偽をはぎ取っていった後には何も残らなかった(「プライド」第4話)。荒唐無稽のご都合主義に思えた野島サンのストーリーは、実はこのように、様々な「愛」を否定し続ける道行でもあったんじゃないだろうか。そうして、ハルは「愛」に絶望した。亜紀に第10話で「あなたは誰も愛さないんじゃない!」と責められても、でもハルにはどうすることもできなかった。

どんどん欺瞞や虚偽を切り落としていくことで、最後に残った塁土としてのミニマムな場所とは「氷の女神」であった。それは他の「愛」を信じることのできるヒトや、「愛」に絶望しているだけのヒトには、単なる「自己愛」に如かないと断定されても仕方のない場所である。そして、現実断定されてももはや、それを見てしまったヒトにとってはどうでもいいことなのである。「それならそれでいいよ」とは、本当に「それでいい」のだ。ハルは母性を希求するけれど、それを亜紀に押しつけることはもはやしない。<信じる>ことは押しつけの緩やかな裏返しに他ならない。八方ふさがりの孤独主義者のように見えるけれど、それは水平方向の<横>の連関については八方ふさがりでも、厳しい克己の道を進むことで垂直方向の<縦>の深化を求めることが出来たとき、彼は既に孤独ではない。その克己を支えられるのが「プライド」なのだろう。

どかはこんないびつな結論にたどり着かざるを得ない野島サンの作家としての限界が、とても大好きだ。大好きなのだけれど、このドラマは、ここから捩れてしまう。いびつなりに真っ直ぐ芯の通った世界観が、ラストシーンでゆがめられてしまう。

(続く)


2004年03月29日(月) 野島伸司「プライド」最終話(まとめ1:古き良き時代の女)

ごく一部の固定票による賞賛・激賞と、その他大多数による批判・冷笑でもって幕を閉じた「プライド」の最終話。脚本家としての野島サンを従来から支持してきたファンたちにとっても、あの予定調和に見えるラストは戸惑いをもって迎えられた。どかも最初見たときは、ちょっとびっくりして途方に暮れちゃったけれど、次作への期待も込めて野島サンのテーマとは何だったのかを考えたい。

で、例によってのっけから話はそれるわけだけど、どかの母校の大学から「ジェンダー研究センター」発足のレターが届いた。それを読んでたらコラムのなかで、具体的な名称は伏せつつも「人気俳優のセリフには時代劇かと思うようなジェンダー差別が埋め込まれており」とか「ナルシスト的な男性論理」などという評価が、匿名のドラマについて示されている。言うまでもなく前者は<「古き良き時代の女・・・」>などのセリフであり、後者は<野島伸司の作風>を指しているのだろう。

「大学研究者をしても、しょせんこの程度の知見でしかない」などとは、どかは言わない。ただ、このコラムの筆者はレターを発送したタイミング的にも「プライド」の最終話までちゃんと見たうえで書いたわけではないことだけははっきり指摘できる。まあ、こう書かれても仕方ないのかなとも思う。テーマの核心がそこにあるわけでは無いのに、それが全てであるかのようなとらえ方をされちゃうことへの違和感はさておき、仕方ないかなって。別にジェンダーを研究するヒトが、毎週毎週ドラマを録画して何回も見直して「このシーンの意味は」などと検証しなくちゃいけないなんてどかも言えないし。でも・・・、筒井康隆も言っていたけど、表現を読み込んでいくことに伴う想像力と忍耐は、もっと大切に鍛えるべきなんじゃないのかしら。想像力とは亜紀の表情の微妙な揺れを感じること、そして忍耐とは最終話まできちんとフォローすること。字面だけとりあげてその是非を問うというやり方では、すぐに「言葉狩り」に直結しちゃうじゃない・・・、ここまでが今回の「まとめ」のプロローグ。

さて、どかはこの「まとめ」を2つのパートに分けてみたい。まず、くだんの「古き良き時代の女」というテーゼの後先。そして「氷の女神」という現象についてだ。

1.「古き良き時代の女」というテーゼの後先

野島サンが四苦八苦しながら第10話まで引っ張ってきた「古き良き時代の女」というコンテナの中身は何だったかというと、男が好き勝手動き回っていても、女はジッと動かず定点としていつも存在する的な、太陽系的イメージ。つまりは「信用して待ち続けることができる女」ということに尽きる、逆に言えば「信用して待たせ続けることができる男」ということ。これまでハルが「古き・・・」と言うとき、力点は上記の<待つ・待たせる>という点ではなく<信用し・信用される>という点に力点があった。たしかにこのままだと「我らがハル様」の主張ったら、欺瞞どころのさわぎじゃ無くなっちゃう。しかし最終話、野島サンは毅然としてこの欺瞞の転覆作戦を発動していく。そこでまず注目すべきなのは、つまり野島サンは、この<待つ・待たせる>という欺瞞を正面から突くのではなく、そもそもこのテーゼの拠り所である<信用し・信用される>ことのアクチュアリティについて揺さぶりをかけたことである。

 友則 彼女のことをそれだけ放っておけたってことは、
    よっぽど自分に自信があるか
    ・・・さもなければ、もうひとつしか理由はないと思って
    彼女のこと、大してイイオンナだと思っちゃいなかった
 夏川 そんなことないですよ、結婚の約束までしたんですよ
 友則 心配にはならなかった、誰にもさらわれるわきゃないと
 夏川 信じていたんです
 友則 タカくくってただけじゃないのか
    ところが彼女にはヘンな虫がついていた
    自分とは正反対の人間だ
    信じられないと同時に今度は猛烈な執着心がわき起こる
    渡したくない・・・

 (野島伸司「プライド」最終話)

<待たせる>立場にある者が、<待つ>立場にある者を<信用する>と言ったときの欺瞞。別に「相手を信じること」の可能性自体をまったく否定するものではないけれど、でも「相手を信じること(無垢な愛情)」というのは往々にして「自分への軽い過信と相手への軽い蔑視(自己愛)」に転換することがあるということ。「愛」という絶対的な価値に殉じているつもりが、いつの間にか「優劣」という相対的な価値にまかれていること。あっさりテンポ良く進む会話に、うっかり聞き流してしまいそうになりつつ、でも、どかは最終話の最重要ポイントはこの初っぱなの会話だったのだと思う。<信用し・信用される>という行為が内包する欺瞞が暴かれた瞬間、<待つ・待たせる>という行為の輝きは一瞬であせてしまう。かつて野島サンは98年に日テレ系列で放送したドラマ「世紀末の詩」でこんなセリフを書いた。

 百瀬 今思うとしかし、
    愛ってのは信じることですらないのかもしれん
    愛ってのはただ、疑わないことだ

 (野島伸司「世紀末の詩」第6話より)

信じる信じないを云々している時点で、それはすでに「愛」ではないという過激なメッセージ。「疑わない」ということは、しかし、それを意識した時点ですでに不可能。つまり、野島サンが考えてきた本当の「愛」というのは、意識レベルには成立することができないという結論が導かれる。本当の本当に信じていたならば、意識に「信じる」という概念が上ることすら有り得ない。例えば、朝がきて、太陽が東の空から昇ってくることをいちいち「信じる」ことなんてしないのと同じように。夏川は亜紀のことを「信じていたんです」と言った。しかし、野島サンの<真実の愛>の前では、それは一枚の免罪符の役目すら、果たせない。

以下は、後の、別の場面・・・。アメリカに留学中、別の恋人がいたということを夏川が亜紀に告白し、それに続くシーン。

 夏川 分かったかい、君を責める資格なんてまったくないのに、
    あたかも裏切られたかのように、君を信じていたと
    信じていたのではなく、タカをくくっていたんだ
    君が動くはずがないと
    ・・・ところが現実その事実を知るや
    ぼくは君を失うことを拒んでしまった
    愛ではなく、執着によってだ
 亜紀 そんなことないわよ
 夏川 僕はきみのことをほとんど理解もしていなかった
 亜紀 そんなことない
 夏川 愛していない
    結婚はできない

 (野島伸司「プライド」最終話より)

そう、野島サンは酷にも、夏川自身に「愛ではなかった」ことを言挙げさせてしまう。「愛」と「執着」の相克も、野島サンの作品の中では定番のテーマ。でもきっと、ここも何気なく聞き流してしまうヒトは多いだろう、「あらあら、夏川、そんなあっさり別れちゃうんかい?」などとツッコミながら。事実、どかも最初に見たときはそうだった。でも「愛」とか「執着」をあくまで切り分けて考えていこうとする野島サンのスタンスである理想主義が明確に出ているセリフだから、ちゃんと受け止めなくちゃ。このセリフに対して「愛には執着も含まれるよ、生きた感情なんだもん、清濁混ぜ合わせた感情なんだよ、愛ってば」などというツッコミはあたらない。野島サンの「愛」はそんな脇の甘い曖昧という名の妥協ではなく、もっともっと純粋である。執着は意識上のもの、愛は意識下のもの、というくくりも可能だろう。さらにこのシーンでは「愛」と「理解」の相克という焦点も浮上。夏川は亜紀のことを寂しさでハルと繋がったと思いこんでいたという、先のセリフを受けている箇所。これも去年の野島ドラマのあるセリフと照合したい。

 湖賀 愛?
 石倉 そうよ、愛しているわ
    それが・・・
 湖賀 愛とは理解力だ
    僕の行動を理解できなかった、君の発言は適当じゃない
    結婚相手としては適当だったということだろう
    それに対する執着さ、いずれ消える

 (野島伸司「高校教師'03」第2話より)

ひたすら荒涼とした厳しい世界観である。モノに対する執着は、対象物の理解に向かわず所有に向かうのみ。それに対してヒトに対する愛は、対象物の所有に向かわず理解に向かう。そのどちらをも望むことは、野島サンが設定する「真実の愛」が成立する場所、ミニマムな世界、スワンレイクでは許されない。・・・にしても、そう、去年の「高校教師」では、こんなに野島サンの思想はクリアーなのだ。それに比べると「プライド」はどうしても戯作傾向が強くて「入り口」がぼやけてしまう。おそらく「プライド」の最終回のみ見てみましたというイチゲンさんには、「入り口」はおろか「のれん」すら見つけることはできないだろう。

さてこのようにして「古き良き時代の女」というテーゼは、微分に微分を重ねられて灰燼に帰していく。欺瞞の核心は<待つ・待たせる>にではなく<信じる・信じられる>にあったのだ。もちろん、いわゆるテーマへ向けてのインターフェースとしてのストーリーを見たときに、いろいろ問題点は山積みで、その最大のものはやはり「夏川の離別へ向けての決意が唐突に過ぎる」ということだろう。でもどかとしては、このシーンでの野島サンはストーリーでは敗北しても、テーマでは勝利していると考える。アナクロニズムなテーゼを否定していくなかで浮かび上がったシルエットとしての「真実の愛」を、野島サンはよりリアルなカタチで把握していこうとする。それが次のポイントである、「氷の女神」という現象だ。

(続く)


2004年03月28日(日) G1高松宮記念

4歳上・国際・定量・芝1200m・中京11R、
「電撃の6ハロン」GI高松宮記念。

去年はビリーヴが勝った、どかには良いイメージのスプリントレース。
今年も、好メンバーが揃う。
どかは3番人気・シーイズトウショウを軸にする。
中京との相性の良さ、ここ数戦の充実度、
去年の桜花賞でのちの3冠馬スティルを苦しめた才能が開花したと見る。

1番人気でGI2勝のデュランダルを軸にしない理由は展開。
かれの追い込み時の末脚は、間違いなく現役ナンバーワンだけれど、
その末脚を生かすには、中京の直線はどうにも短すぎる。
また、芝の状態がかなり良いらしく、前残りなレースが多いらしい。
だから、デュランダルは2着までと見る。
4番人気の逃げ馬・ギャラントアローは怖い。
でも、アタゴタイショウの調教師が「ギャラント潰し」を公言。
向こう正面で絡まれると、間違いなくギャラントは壊れる。。。
まあ逃げのこりはあるかも、3着までにはくるか。
5番人気のテンシノキセキ、中京レコードホルダー。
鞍上は典サマ、良いねえ。
ただ、シーイズと比べると安定感に欠ける、流す先に留める。
そして2番人気サニングデール。
吉田サンの「馬なり」でも可愛いキャラクターで描かれてて、
愛着は湧いちゃうけれど・・・、決め手に欠ける気が。
たしかに、不安要素と言えるほどの不安要素は無いけれど、
何となく、危険な人気馬という感じが(ああ、アホな私)。

というわけで買い目は、シーイズトウショウから、
デュランダル・ギャラントアロー・テンシノキセキへ、
馬単や馬連ではなくワイド(!)で流す、今回は、獲りにいくどか。

レース。
ギャラント快調に逃げるも、4角出口で馬群に飲まれる。
大外からデュランダル突っ込む。
コース中央からサニングが抜け出す。
先行馬をこの2頭がごぼう抜き、
ただやはりゴール板が近く、サニングがそのまま抑える。
3着は写真判定になったけど、シーイズは5着どまり
(これが3着だったらなあ)。
にしても、これは情けない負け方だ、どか。
サニングデール、愛着のままに賭けてみれば良かったなあ。

というかさすがのデュランダル、負けて強しな内容。
恐るべき末脚の切れ、直線がもすこし長かったら、
サニングはひとたまりもなかった。
うーー、デュランダル、怖いなあ。
安田記念に向けて調整してくるんだろうなあ。
そしたら・・・、ファインモーションとぶつかるよね。
去年のマイルチャンピオンシップでは、
ファイン、デュランダルにあっさりかわされての2着。
でもやっぱり強いよ、この馬。
ファインは・・・、マイルの切れ味勝負になったら。。。

だーかーらー!
どか、言ってるジャン。
ファインはぜったい、2000m〜2400mで使うべきだーって!
マイルでデュランダルに対するよりも、
JCでタップダンスシチーと競ったほうがよっぽどしっくり来るもん。
あの跳びの大きいスケールの大きい走りが、
あのピッチ走法の鬼、デュランダルと短距離で競らなくちゃな状況、
おかしい。
デュランダルの末脚は、ちょっと常軌を逸してるよあまりにも。

伊藤雄二師、ぜひ、考えを改めていただきたいです。
これは逃げじゃないです、チャンピオンディスタンスへのこだわりです。
適材適所というイデアの保持でもあります。
最強牝馬、復権はマイル路線ではなく、
チャンピオンディスタンスにて達成されなくてはならないのです。

どうかどうか、お願いいたしまするる。


2004年03月27日(土) 飛鳥散歩

思うところがあって、フラッと散歩に行くことにした、飛鳥へ。
高校ン時の「百粁徒歩」以来だったのかも知れない、ここは。
「山の辺の道」や「柳生の里」は結構何やかや行く機会があったんだけど、
「飛鳥」は、本当に10年ぶりかも知れない、10年ぶり。

遠く岡寺の塔を望む

でも・・・、大阪の実家に戻ってきたときにも、
どかはそんなこと思わなかったけど、飛鳥駅降りて、
高松塚古墳についたときは自然に口をついて出たのが「ただいま」。
恥さらしのどかが、恥さらしのどかの人生のなかで、
いちばんどかっぽく恥をさらしまくった高校2年、
何回この道を下見したのだろう。
場所には記憶がしみつくものであり、
時間は流れるものではなく降り積もるものだということを体感する。
変わらない景色だけじゃなく、変わらない匂い、変わらない坂のキツサ、
変わらない汗をかき始めるポイント、そして何も変われない、自分。
コースは、第20回百粁徒歩とまったく同じコースをたどった。
実はかなり記憶はあいまいで自信が無かったので、
「歩く地図S」を持って行ったんだけど、
いったんコースを歩いてみれば、いったん分岐点に来てみれば、
頭よりも先に足がそっちのほうを向いていく、不思議な感覚。

蘇我馬子とかいうオッツァンの墓

つまり高松塚古墳→亀石→橘寺→石舞台古墳→岡寺→酒船石→甘樫丘、
というコース、なにげに飛鳥寺が外れていたりするのだけれど、
歩くコースとしては風景・起伏・味わい・あらゆる観点から見て、
これを超えるコースを飛鳥の里にとることは不可能、と断言してしまう。
土に宿る魂というのはたしかにあるよなーと思うのは、
その場に行ってみて初めて思い出せる記憶というのは、
思うよりも遙かに豊穣であるからだ。
石舞台の隣の公園でマーくんとフリスビーで遊んだよなーとか、
水田の真ん中のあぜ道で甘樫丘を見ながら歩いて足首ひねったよなーとか。

急坂を登り切って岡寺の入り口

京都に通うようになってなおさら思うのだけれど、
どかは京都よりも、奈良が好き。
この奈良のスカッて感じの「抜け」の良さと、
それと同時に全ての色に少しずつ混ざる「哀感」がすばらしい。
タイムリーだけど、大島弓子のマンガみたいだ。
きょうのハイライト、甘樫丘へと登る。
飛鳥の水田の真ん中にポコッと残る、150m弱の小高い丘。
そこから眺める飛鳥の里と、大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)は、
奈良を撮らしたら世界一の写真家・入江泰吉の作品を例に引くまでもなく、
ベストだと思う。
「抜け」と「哀感」のあいだで1600年間揺れ続ける飛鳥の姿が、
いちばんはっきりしたカタチで見ることができるから。

天香具山を望む、甘樫丘からの眺め

いまでも百粁徒歩って、続いてるんだろうか?
携帯電話な時代になって、特別隊の定時通信ってどうやってるんだろ
(マニアックな疑問だ・・・)?
また「第20回」の特別隊メンバーと一緒に歩きたいなあと心の底から思う。
何やってるんだろ、某P隊副隊長とか、某M1隊隊長とか、某A隊副隊長とか。
S隊のみんなとはまた、そのうち結婚式で会えそうだけど・・・。

10年、だもん。
ちょっとくらい、昔のこと思い出しても、バチはあたんないよね。
いまだけ、いまだけ。

と思いながら、甘樫丘の頂上で春霞の三山を眺めながら、
腕時計の針を忘れた。


2004年03月25日(木) 入学手続き

時計台のある建物の一室でまず、
入学金を収めることになっていた。
その入り口には、有象無象のサークル勧誘ソルジャーたち。
どかはHD25(ヘッドホンね)でZAZENBOYSを聴きつつ入ったのだけど、
なぜかソルジャーたち、どかにはチラシを渡さない。
なぜだろー。

理由その1:「こいつは老けてる、新入生じゃあるまい」
理由その2:「ヘッドホンで自分の世界に入ってる、アブナイかも知れぬ」
理由その3:「華奢すぎる、わがアメフト部の戦力にはならん」
理由その4:「・・・ほ、惚れたわ」

さあ、どれでしょう。

ともかく入ってみると列が長く伸びてる。
最後尾について、係のヒトから名前を記入する用紙をもらう。
すると、どかの後ろでなんかがちゃがちゃ。
HD25を外して振り向くと、中東風の顔立ちの男性と係のヒト。

「No, English ? No? Why?」
「カタカナでお願いします、カ・タ・カ・ナ!」

なるほど、わかりやすい状況だなあと思いつつ、
係のヒトがいつちゃんと説明できるのか見てたら、
このヒト、意地でも日本語以外は話したくないらしい。
ま、京大だし、学生誰か助けるでしょ。
とか思ってたらそれを遠巻きに見て、誰も助けない。
おいおい、と思いつつ、ま、どかもちょっと様子見してたので、
それもいけないか、と消費税分くらい反省しつつ助け船を出す。

「ああああ、すいません、ちょっとお手伝い下さい!」

と、係のヒト、どかに深々と頭を下げて、自分の仕事にさっさと戻る。
京都大学・・・それでいいのか?

で、まだカタカナやひらがなも書けない彼のも、
用紙を埋めてあげるために、名前を聴く。
やっぱりちょっと聞き慣れない響き、どこの国だろう?
行きがかり上、列に並びながら少し話すことになったので聴いてみたら、
その見かけ30代半ばな感じの彼は、イラン人だった。
何と医学部の大学院へ入学するらしい。
国費留学生なのかな、もうすっごい賢いんだろうなあ。
どかも自己紹介したら、イランに面白い画家が居るんですよ。
とか、いろいろ教えてくれる。

どかは為替で、彼はキャッシュで支払いを済ませ、
その建物の前で別れる。
e-mailアドレス教えてくださいと言われたので、
「もちろん」と紙に書いて渡して、笑顔で握手。
その後、どかは「人環」のオフィスで残りの手続きを済ませる。

ふむ・・・。
わりとスムーズに言葉が出てきて安心した。
この前、M先生と飲み会で話したときは、
英語、あまりの錆び付き具合に愕然だったけど、
きょうは結構普通だった、やれやれ。

でも、良い出会いだったと思う。


2004年03月24日(水) 大島弓子「秋日子かく語りき」

今年の1月からNHKで放送されたドラマ「ちょっと待って、神様」の原作マンガ。初出は1987年「ASUKA」1月号。ディープな読み込みと鋭い分析で話題になった「BSマンガ夜話」。この100回を数えるこの番組のラインナップのなかでも、伝説となっている「第一期クール(96年8月放送)」で選ばれた8人のマンガ家。大島弓子はそのなかのひとりであり、そのときに取り上げられた作品がまさに「秋日子かく語りき」であった。とくに「ちょっと待って、神様」と比較するねらいで読んでみた。

じつは原作は短編。ドラマは第20話まで続くそれなりのボリュームをもったストーリーだったのだけれど、原作をつき合わせてみるとちゃんと照合できるのは第4話まで、つまりフランクリン(という名のベンジャミン)を秋日子が竜子の夫に返すというシーンまでである。つまりあとの16回のストーリーは、脚本担当の浅野妙子サンの創作となる。が、じつはそれほど話は単純ではない。ドラマが原作のストーリーの後日談をシンプルに追っていったのかと言えば、そうとは言えない。原作とドラマでは明らかに基本テーマと、世界設定と、そして主人公(!)が異なるからだ。

例えば女子高生・天城秋日子の設定だけれど、ドラマではいまひとつ生きることのリアリティを掴めない女の子としてあり、それには両親の不和などが背景にあることも示される。そして入れ替わりの相手であるおばさん・久留竜子の、目の前の生活へのバイタリティと家族への尽きない愛情が対比され、そのギャップにドラマツルギーが生まれるという構造だった。けれども原作の秋日子は、とくに鬱傾向も示さなければ、両親の存在さえ物語には出てこない。ふわふわしていてたしかに現実感は薄いことが暗示されるけれど、それは自分のことよりも周りのことを気にしすぎる少しズれた女の子としてである(ネガティブ感は無い)。そして竜子の性格設定はドラマに共通している。そして何より重要なのが、原作の構造は、この2人のギャップではなく、共通点にあるということだ。秋日子はもともと少しずれてる女の子であり、竜子が入れ替わってそれが助長されるけれど、周りはそれをすんなり受け入れようとするのである。

ではそんな原作の、どこにドラマツルギーがあるのか。ギャップをフッと世界に落とし込むというものがたりのひとつの型を、それでも大島弓子はここで導入する。それはひとりの観察者を設定すること。つまり、ドラマにも出てきた秋日子の友人・薬子である。薬子と秋日子とのあいだにあるギャップ、それは入れ替わりの前からすでに存在するギャップなんだけど、そう!この薬子こそ「秋日子かく語りき」の主人公である(それも道理で、このタイトルは明らかにニーチェの「ツァラツストラかく語りき」のパロディ、語られる言葉の記述者が要るのだ)。

じゃあその薬子をまんなかに置いたこの原作のテーマはそもそも何だったのか・・・?これがむずかしい。大島弓子「さすが」なのだ。ドラマよりもずーっと短いストーリーだけど、テーマはドラマよりもずーっと深淵だと思われる、どかには。

もちろん、薬子と秋日子とのあいだの友情の「カタチ」はひとつだと思う。

 薬子 ええそうよ たしかにあんたはわたしの王女様よ
    わたしはそれを認めたくなかった
    成績に比例して いつも上に立っていたかったのよ

 (大島弓子「秋日子かく語りき」より)

ちなみに薬子は、秋日子のなかに竜子が入ったことを最後まで信じない。入れ替わりを信じないでいても、薬子のなかでストーリーは全て繋がっていくのだ。それはつまり、秋日子とのあいだにある「友情」がひとつの綱であり、もうひとつは、将来への漠然とした「不安と希望」の共有である。竜子と入れ替わっていた間に神様のお使いから教えてもらった話として、秋日子は最後に死後の転生は本当にあることを皆に話す。それを聴いた薬子の、でもそんな先のことでなくとも私たちは自分の夢を叶えられると信じているという独白でこの短いマンガは終幕する。そのラストのコマに描かれているのは、真っ暗に塗りつぶされたベタに浮き上がる、蓮の葉とそれに乗るひとしずくの水の粒。

寒気がするほど、上手いと思う。なんというか、大人だなーと思う。構成や手法や演出、なんやかや全てが。

秋日子の生と死にまたがるスケールの大きな世界観と、薬子のささやかな現実的悩みと喜びの世界観の対比。それを蓮の水玉でまとめてしまうというのは、たしかに、ニーチェもびっくりな才覚だ。告白すると、どかは初めてこれを読んだとき、イマイチくんだなーと思ってしまった。イマイチ、というか、ヨクわかんないクンだなーと思ってしまって、どかの胸のなかのヨクわかんないクン箱に入れてしまいそうになってた。でも、ふと、寝る前に気になることが何回かあって読み返すたびに、グイグイ、惹きつけられる。初めて読んだときは少しあざといく突拍子にも思えたラストの「蓮」も、いまならすばらしいエンディングだと思える。ドラマと比べて全体的に軽快なテイストが物足りなく思えたりしたけれど、いまなら、その軽快さも「大人」のカッコ良さだなーと思える。死や虚無なんて、すぐそこにある、当たり前のものなのだ、大島サンにとっては。ことさら言い立てなくても、それは普通に世界観に織り込まれていくのだ。クールだなあ。

萩尾望都が「少女マンガ世界を超えた」と言われるのに対し、大島弓子は「少女マンガの到達点を示した」と評される。

どかもやっぱり、それは合ってるなーと思うのは、ふわふわした絵柄と細かいコマ割りはいわゆる「少女マンガ」ちっくな読み方の文法を要求してくる。だから、サンデーやスピリッツを読んでるヒトにはちょっと最初は入っていきづらい違和感を感じると思う。でも、そこに踏みとどまって、この世界へ入っていく文法をサラッとマスターしてしまえば、なぜこのヒトが「到達点」とまで言われるヒトなのか、すぐに分かる。あのふわふわした柔らかく可愛らしい絵柄の底に潜む、ビックリするほどクールで冷めた感性、その「ギャップ」こそが、いちばん面白いところなのかも知れない。そう言えば、サファイア嬢から借りた大島サンの代表作「綿の国星」もそうだったな。と思い出すどかだった。

ドラマはドラマで別物。原作は原作で別物。あらためて、ドラマ製作スタッフの勇気に敬意を表したい。あそこまで原作から離れて冒険しつつ、きちんとものがたりをリアリティあるカタチにまとめ上げられたことはすごいことだ。原作へのリスペクトという命綱が生きた。ということなんだろうなー。


2004年03月23日(火) ミッション#551

というわけで、上本町から関空行きのバスに乗る。
UAEから帰国してくるネコバス氏とRサンが、
成田への飛行機の乗り継ぎのために関空でいったん時間が空くので、
「じゃあせっかくだしお茶でも」という流れに。
ところが、三鷹のYネーサンが蓬莱の豚まんが食べたいのっ。
とダダをこねだしたために、きゅうきょ、ミッションが組まれる。

関空1階の吹き抜け

関西国際空港の1階南側フロアで、待ち人を待つ。
・・・出てきた、案の定ばかでかい荷物といっしょに。
とりあえず乗り継ぎの手続きだけ済ませてしまい、お茶することに。
UAEはともかく、トルコに足を伸ばしたときの話がうらやましい。
カッパドキア、行ってみたいなあ。
ビザンチンのモザイクも見てみたいし、
トルココーヒーも飲んでみたい、ああ。

ちゃんと「ブツ」を引き渡す、あとは2人に託すのみ。
そして素敵なおみやげをもらう。
いいなー、キリム(トルコの織物)、
どうしてこうシンプルで品があるんだろう。
ご飯を食べた後、搭乗前の時間に、
それ以外にもコレクションとして購入してきた、
すっごい大きいキリムを見せてもらう。
うーん、統一感がありつつ多彩な色遣い、
伝統的だけど可愛らしい図案、
目の詰まった細かい仕事、
素敵だわー、いいなー。

2人を見送って、バスの時間まで時間があるから、
ベンチでロンギの「イタリア絵画史」を読む。
これがかなり面白くて没頭する、
参考書ではなく読み物としてエキサイティング。
翻訳の仕事としても、かなり優れているんじゃないだろうか。
危うくバスを乗り過ごしそうになって、
駆け込んだ車内で、さらに読み進める。

パッと窓のそとが光ったので、目を上げると、
港湾地域のコンビナートが暗闇の海を背景に、
キラキラその照明を輝かせていた。
水の近くの明かりというのは、ちょっと扇情的な光りかたをする、
湿度が高いせいだろうか、白いのもオレンジも、みんな揺れている。

コンビナート

何となく、いろいろ納得して、本を閉じることにした。


2004年03月22日(月) (高知)YSダービージョッキー特別

高知競馬10R・ダート1300m・5枠5番、
宗石大厩舎所属・鞍上武豊(中央)・ハルウララ号。

競馬がここまで衆目を集めたのは、
90年のオグリキャップ以来では無いだろうか。
オグリというスーパースターの登場によって、
13年前にこの国に空前の競馬ブームが訪れた。
当時中学3年生だったどかは、いつものニュースで流れた、
いつもと違う映像に、それはもちろんあの、
オグリキャップの伝説のラストラン・有馬記念だったのだけれど、
それを観て「ごっつい人やなあ…」とボーっと思ったのを覚えている。
社会現象とまで言われる馬が登場したのは、あれ以来だ。

どかは、ハルウララ、あまり好きくなかった。
別に競馬新聞を買ったことも無い女子高生とかが、
ハルウララの小さいぬいぐるみを鞄につけているのが、
違和感がある、とか言うことではない。
ディープにはまって人生棒に振った競馬マニアも、
血統に詳しい予想マニアも、パドックに強い馬体マニアも、
みんな最初はにわかファンだったのだから、
それをやいのやいの言うつもりはない
(でも実はある、後述)。
どかがヤだったのは、2つ。
その1、連敗し続けてもがんばって走り続けている馬は、
ハルウララだけではないし、100連敗した馬なんて他にもいる。
スターでもない彼女だけに、スポットライトを当てることへの違和感。
その2、いわゆる「負け組」讃歌みたいな持ち上げ方、
こう社会状況とある程度リンクさせる動きというのは、
ある程度仕方ないけど、
何かこう「プロジェクトX」や「♪地上の星」にどかが感じる嫌悪感と、
同じ臭いをかぎ取ってしまうから。
紙一重だけど、どうも安い自己憐憫の側に堕ちてる気がする。

でもそう、これは全部ハルウララを取り巻く状況への違和感であり嫌悪感。
馬に、罪は無い。

と思って、BS-iで実況を観ることにする。
ゲート入りはスムーズに見えたけど入ってから「イヤイヤ」する。
ああ、やっぱり気が小さい仔なんだなあと思う。
出自体はそんなに悪くなかった、先行馬がダーッと先を走り、
スタンド前の直線で既に、豊サンの桜色の勝負服は泥まみれ。
軽く手綱で気合いを入れるそぶりを一定間隔で入れている。
いつもよりもずーっと慎重に乗ってる気がする。
気持ちよく気持ちよく走らせてあげたいという鞍上の気遣いが、
動き続ける鞍上の手に見える。
小さいダートトラック、きついコーナーを回る、
3角ぐらいで、すでに脚が上がっているように見え、ズルズル後退。
4角、一瞬、後退を止めて踏ん張りを見せるも、ブービーまで。
2回ほど、鞭を入れたかな、でもそれでも見せ鞭の使い方や、
手綱での気合いも含めて、鞍上は優しく、かつベストを尽くしていた。
…、豊サンの誠実な乗り方に、心が動くどか。

さっき、豊サンの公式サイトの日記を読んで、また感動する。
以前からジョッキーはあんまり気乗りがしないということを告白していた。
勝つことが目的である競馬の世界で、負け続けることを賛美する風潮は、
どうかと思う、ということも以前書いていた。
それでも騎乗依頼を受けたのは、
彼のトップジョッキーとしての社会的立場の自覚からだ。
低迷する競馬人気、とくに地方競馬場は次々と閉鎖に追い込まれ、
厩舎や馬産地も日々追いつめられているとき、
例え不本意であっても競馬人気再燃のキッカケになるかもなのであれば、
と、いう責任感からである。

豊サンの高知競馬の感想記には、
ともかくもこの「特別」な1日を終えられたことへの安堵と共に、
この異常な盛り上がりへの冷静な感想と、
本当に真摯に競馬界を思う心から来た提言が記されている。

「この日本中が注目したレースの1着賞金の金額を、
みなさんはご存知なのだろうか」ということだ。
あまりにも、あまりにも低いその金額を知ったなら、
きっとみんな、唖然だろう。
どかも、もしハルウララが紛れもないスターなら、
それはスポットライトが生む光と影も致し方ないし、
そこにのみ、真実があるとも思う。
でも、ハルウララは、スターではない。
それはきっと調教師もジョッキーもみんなが思ってる。
ハルウララのみにスポットライトが当たっているこの状況を、
次のフェーズへと押し出すために視野を広げて行かなくちゃ。

それ以外にも、この日の豊サンの日記はいろいろ感じ入るポイントしきり
(勝つことこそ美しいとか、正直な馬の印象とか)。

ともかく。

きょうの高知競馬、第10Rは決して名レースではなく、
凡レースでもなく、普通の競馬だった。
走る馬は美しいから、泥まみれでも美しいから、
ハルウララも含めて、出走馬みんなちゃんと、美しいという、
普通の競馬の当たり前なレースだった。
かつてオグリキャップがラストラン・有馬で見せた奇跡の復活劇、
そしてトウカイテイオーがラストラン・有馬で見せた奇跡の復活劇。
勝つことこそ美しい、そこにある美には残酷がふくみ込まれている。
そんなことは百も承知だからこそ、オグリやテイオーはスターだったし、
90年や93年の有馬記念は普通じゃない、特別なレースになったのだ。
どかは、力を信仰するし、光を信仰する、スターがかっこいいし、好き。
どかは最後まで、ハルウララには魅せられなかった。

でもきょう、それにまたがったヒトには魅せられた。
文句なしに感動した、そんな1日だった。

(おまけ)

にわかファンでむかついたこと、ある。
スタンドやパドックでのマナー悪すぎ。
馬に向かって、フラッシュ焚いたやつ、もう頼むから○んで欲しい。
ほんっとに最低だ、以上。


2004年03月21日(日) G2スプリングS(G2阪神大賞典)

サラ系3歳・牡牝混走・オープン・別定・芝1800m、
中山競馬場・第11R…、フジテレビ賞スプリングステークス(GII)。
皐月賞トライアル、3着までに優先出走権。

どかの3歳牡馬イチオシくんのブラックタイドが出走する。
本当はどかも淀に観に行ったきさらぎ賞
本当はここでカッチリ勝って賞金を加算できていたら、
このトライアルレースはパスできたかもだった。
でも、ラスト直線、トップに立ってからふわふわしてしまって差される。

ともかくも前評判は断トツだった。
良血場、なにより偉大な父サンデーサイレンスにそっくりだと語る識者。
天才武豊の激賞、そしてあの歩様の柔らかさとスケール感、毛づやの良さ。
どかも、京都のパドックで彼をちゃんと観て、もう大好きになった、
格好いいよう、かっこいい。
だから、ここで3着に入るだけじゃもう、ダメだ。
クラシックを獲らなくちゃな馬なんだから、
これまでのレースで指摘された幼さを払拭した成長を見せてくれなくちゃ。
だから、勝たなくちゃ。

2歳チャンピオン・コスモサンビームと、
サンデー産駒のミスティックエイジがライバル。
人気はこの3頭で分け合う、タイドは2番人気。
どかは、単勝一本、ブラックタイド!
今回鞍上は、横山典弘。
豊サンが阪神大賞典でリンカーンに騎乗するためテン乗りとなる。
典サマっ、お願い、隠されたもうひとつのギアに繋げてくだたい!

発走前、こんなに入れ込んでドキドキするレースは、
ことし、初めてだ(どかがね)。

スタート!
ふわっと出る、ちょい出負け、最後尾からの追走。
でも典サマは焦らない、そう、彼の代名詞、シンガリ待機。
4角に入るころから少しずつ進出、でも4角出口でまだ後方。
そこから!
キョウワスプレンダとがっちり馬体を併せて追い始める典サマ。
大きく雄大な跳びが、少しずつストライドを伸ばす。
スパッとキレる脚ではないけれど、ぐいーんと伸びる感じの脚
(ちょっと、ファインの使う脚っぽい?)。
伸びる、伸びる、スプレンダと併せたまま、外を伸びてくる!
なかなかのものだと思う。
いや、勝った事じゃなくて、あの走るフォーム。
キレイだよ、美しい、やっぱり、かっこいい。
GIでは、シンガリ待機策は通用しないかも知れない。
でもこのスプリングSで見えたことは、
彼にシンガリ待機が向いてることじゃなく、
彼にちゃんと最後のもうひとつのギアを気付かせたこと。
少年から、青年へと彼が成長したことだ。
ひとえに、テン乗り典サマのおかげ、ありがとうー!

さて、興奮さめやらぬまま、阪神のメーンが発走、GII阪神大賞典!
春の古馬レース最高峰、天皇賞(春)をにらんだステップレース。
人気は断トツ2頭に集中する。
菊花賞馬ザッツザプレンティに、菊花・有馬ともに2着のリンカーンだ。
そしてザッツにはもちろんアンカツが。
リンカーンにはタイドの騎乗を見送ってでも乗りにきた武豊。
これは盛り上がるでしょう、否が応でも。
関西の人馬の才能がこの2極に集中したかのような様相。

どかは馬連一本、ザッツとリンカーン・・・。
ごめんなさい、恥ずかしい馬券だけど、
でもだって、好きなんだもん、ザッツもリンカーンもアンカツも豊サンも。

レースは、これも、盛り上がる。
最大の見せ場は3角入り口。
快調に折り合いを見せるザッツをマークしていたリンカーンの豊サンが、
後ろから少し仕掛けていくそぶりを見せた瞬間!
アンカツは少し焦って、ザッツに軽く気合いをつけて、
この瞬間が、ゴール手前の伸びの差に繋がったと思われる。
競馬はあくまで人馬の芸術だ、ふだんは馬ばかり目立つけど、
よくよく目をこらせば、騎手の手腕がバチっとスパークする瞬間が見える。
菊花賞はアンカツの歴史に残る名騎乗、あのロングスパート。
そしてきょうは豊サンのさりげないけどすごすぎるゆさぶり。

かっこいいなあ、どっちも。

レースはリンカーンが危なげなく差しきって勝利。
ザッツもちゃんと2着に粘り、馬連ゲット。

そして、すばらしい!
どか、きょうは馬券、2本しか買ってないけど、
2本とも、的中!


2004年03月20日(土) G3フラワーC

サラ系3歳・牝馬・オープン・別定・芝1800m、
中山競馬場・第11R…、時事通信杯フラワーカップ(GIII)。
トライアルではないために優先出走権のおまけはつかないけれど、
開催時期と加算賞金額により桜花賞に向けての重要なレース。

牝馬クラシック戦線はこれまで西高東低の傾向がとても強かったけれど、
今年は東の期待のアイドルが登場した。
オークス馬ダンスパートナーを全姉に、
菊花賞馬ダンスインザダークを全兄に持つ超良血場、
ダンスインザムードだ。
厩舎は日本競馬界のヤンキースこと、藤沢和厩舎。
これまで騎乗してきたのはペリエに岡部。
そして2戦2勝無敗のまま、今回は武豊を鞍上に迎える。
もうこの条件だけで、既に単勝オッズは1倍前半が確定したようなもの。

しかし・・・!

ふたを開けてみると、発走時刻直前まで、なんと単勝1.0倍!
ほんっとに元返しやんか、おいおい、すごー。
販売締め切りをむかえて結局オッズは1.2倍に落ち着いたけど、
ホントに最後まで1.0倍で行くのかと思ったな。
やっぱり、大衆はアイドルをもとめるものなのだ。

さて。

しかしどかは今回、つむじを曲げることにする。
白羽の矢は8枠14番フォトジェニー。
あのスペシャルウィークの初仔、血統が面白いし、
あと名前が、楽しいから、そのまんまっていう。
これを1着固定にして馬単総流し、少額だけどね。

発走、グリーンチャンネルで観た。
雨が降りしきる主馬場の中山の芝。
2番手から3番手、好位置をキープする武豊。
ああ、もう横綱相撲に撤するのか、なんだか3角入ったあたりでもう、
勝負が決した感じ、4角出口、持ったままでスルスル進出。
役者が違うな、ムードちゃん。

なんかこう、とりつく島も無いくらいの完勝劇。
フォトジェニーは3角くらいでもうバルジュー騎手の手が動いてたから、
お話にならなかった、こう、直線で盛り上がることすら出来ないという。

ムードちゃんはつおい。
つおいけど・・・、オーラみたいなのが感じられないなあ。
例えばファインモーションや、スティルインラヴみたいな。
スティルは桜花賞の時点ですでにどこか芯の強さを歩様に感じたけどな。
キャリアを積んで発現する華というのも、あるのかも知れないけれど。

さあこれで桜花賞のメンツが固まった。
4月11日、阪神競馬場、芝1600m、クラシックレース緒戦。
どかは…、やっぱりそれでも、シュクルちゃんを応援するのかな。
3週間、ゆっくりぜいたくに悩むことにしましょう。


2004年03月19日(金) たんじゅんたんじゅん

レビューにしたいことはやまほどあって、
マンガで言うと「万祝」や「自虐の詩」、
「秋日子かく語りき」「ラヴァーズ・キス」などなど。
音楽で言うとまず ZAZEN BOYS。
それからブッチャーズやくるり。
洋楽ではまってる、古いけどTHE PIXIES。
あ、CCCDについてもまだ書いてないか。
演劇も昔観たやつを振り返って書きたいのだけれど。

レビューはやっぱり、一瞬、グッと集中しないと言葉が出ないし、
でもその、一瞬の集中のための力が、どーにもわかない。
なんでかなあ?
いや、理由は分かってるんだけど。

むう。

と思いつつ、夜、Hサンに電話かける。
おしゃべりにつき合ってもらう。
久しぶりにまとまった話をした気がするなあ、
ちょっと、すっきりした、たんじゅんたんじゅん。
テーマは馬、桜花賞いっしょに観戦ツアーは頓挫したけど、
また、オークスかダービーを是非!
というところで話がまとまる。
いやーでも少し、楽になった。
どうもでした、Hサン。

ふう。

そう言えば、昨日、チラと「白い巨塔」の最終回を観た。
最終回だけ観るのって、どうしてこう、後ろめたいのだろう。
だからなぜか「ごめんなさい、財前」とつぶやきつつ。
あらためて、キャストの豪華さに圧倒される。
すごいなー、あのキャストを分散させれば、
5本くらいは楽にドラマ作れる。
主役級をあれだけ集めちゃうんだもんなあ。
「後ろめたい」どかの印象だけど、俳優、
江口サンはちょっとスランプかなと思った。
唐沢サマは、ちょっと良かった。
コクーンで観た「カノン」を思い出した、あの青ざめた顔。
矢田サンはどんどん上手くなるなあ、良かった。
伊藤サンは相変わらず、もったりもっさり。
あとカメラワーク、演出は、ちょっと狙いすぎてる気が。
もう少しあっさりしたほうがテーマが際だってくると思うのは、
しろうと考えなのだろうか。

いずれにしても「プライド」と比べてチャンとしてるなーという印象。
このご時世であの数字は奇跡と言ってもいいのではないかしら。

でもどかはそれでも「プライド」を応援したい。

内容的にも(野島ドラマとしてもフジ月9ドラマとしても厳しい)、
数字的にも(30%オーバーが使命だったことを忘れてはいけない)、
「矢尽き刀折れ」という状況だけど、
どかはそれでも野島サンの脚本家としてのひらめきと、
フジテレビドラマ演出部のふんばりと、
木村サンと竹内サンの役者の華に期待したい。

そう、多分、どかの調子が悪かったのも、
これからグッと上がってくるかもなことも、
ぜんぶぜんぶ、「プライド」にかかってたんだなー。
表層的な意味ではなく、複合的な深い意味で。
どかの「プライド」をあまり楽しめてない度というのは、
「プライド」のキャストやスタッフの成績だけじゃなくて、
たぶん、どか自身のある種のバロメーターでもあるんだなあ。

「プライド」をあまり楽しめてない度が上向いたら、
きっと、なんだかんだ言って、ぜんぶ変わってくる気がする。
そうだよ、そうそう、たんじゅんたんじゅん。

よし、来週の月曜日に向けて、ウォーミングアップしていこう。
がんばろう、どか。

ん。


2004年03月18日(木) 余談その4

さっき「プライド」の第10話のレビューをアップしたんだけど…、
ふと、妙な符合に気がついた。

 1.彼女から「あなたは誰のことも好きにならないのよ」と、別れ際
 2.その後すぐ、その彼女は元カレと結婚する
 3.自分は自分のやりたいことに邁進する(ってかしなくちゃ)

って、ど…こかで聴いた気がするな、そんな話(苦笑)。
ねえ、誰のことだっけ(苦笑)。
ねえ、ねえ…(苦…)。

まあね、まだ亜紀と夏川は結婚するかどうかわかんないけどさ。
でも、ホントに結婚しちゃうんだもんな。

そっか「カレ」もとうとう、キムタクさまと同等の人生なんだあ
(←既に意味不明)。
そうかそうか、そうだよねー「プライド」だよねー人間。
ふーん、へーえ、ほーお、はあ…、めい…

じゃなくて、えと、あの、なんだっけ?
イタリア語で言うとすれば…、ああ。

FORSE?

なんちて、テヘッ、ハハハハ、ハハハ、ハ…

と、ここまで書いてたら携帯にメール。
高校ン時の陸上部の友人が結婚するから披露宴来い、と(実話)。
…フォルセ。

ハハハ…


2004年03月17日(水) 平田オリザ「『リアル』だけが生き延びる」

That's Japanというブックレットのシリーズの1冊。どかはこのシリーズを買うのは2冊目、最初に買ったのは姜尚中の「アジアの孤児でいいのか」。くしくも両方、某大学にゆかりのヒトたちだった。

これまで平田サンの著作を、どかは大体読んでいて、こんかいは聞き手がいる対談形式なのだけれど、主だった論点は知っていることだった。ただ、いままでの著作と比べて、言葉や論旨がかなり平易でクリアーになっているなとは感じた。とにかく、語り口がどこまでも明快で論理的。さすが演劇界随一の理論派。聞き手が投げかける質問に、スパッと答えていく姿が行間から浮かび上がってくるほど。

それで内容はというと、前半は、平田サンの演劇論について。後半は、アートマネジメント全般への語りとなっている。でも、いつもこのヒトの著作を読んで思うのだけれど、このヒトの演劇論って、単なる演劇に終始しているとは思えない。もっと、こう、大きなことを語っているように聞こえる。物事の本質とは、やはりそこまですべからく汎用性を持つということなのだろうか。思わず、我が身を振り返って反省してしまうような箇所、多数。

純粋に演劇論的ポイントに絞ってみると、新劇、唐や寺山、つか、野田、鴻上、劇団四季やキャラメルなどを語って、鋭くスパッと本質を言い当ててしまうくだりが面白くて仕方がない。そのときに持ち出される「近代性」や「西洋性」という概念も、とても適切だと思う。どかは四季、キャラメル、いま現在の鴻上はあまり好きじゃなくて、つかと野田は大好きだけれど、平田サンが彼らの中に見る「ねじれの構造」というのは正しい指摘だと思う。そしてきっと、つかを好きでキャラメルを嫌いというどかの嗜好の分水嶺は、そのねじれを批判的に演じているか、無批判に溺れているかというところなのだと思う。

話がずれたけれど、ずれたついでにもすこし。演劇評論家の長谷部浩サンの対談集「盗まれたリアル〜90年代演劇は語る」の中で、野田秀樹が「静かな演劇」という潮流を(というより、まさに平田オリザの作風を)痛烈に批判してこう語る…

  人間的っていうのはダイナミズムだし、
  「誰が静かなものを見たいか」って俺は思うけどね

  (中略)
  つまり、間をあけることがなぜいけないかという話になると、
  結局リズムがないものは退屈だろうという…

  (野田秀樹「もう少し語り部を」…上記対談集より)

そこまで言うかー、という感じでピリピリ反応する野田サン。でも…、ここまで激しい言葉があふれてしまうということは、ある意味、平田サンのテーマとポジションが、野田サンの主義主張に対して、正しく痛い部分をついているということでもあるんじゃないかなあ。つまり上記引用に、まるで呼応するかのように、平田サンはこのエッセイのなかでこう述べている。

  >人間的っていうのはダイナミズムだし、
  「そんなに偉いのか、人間は」と思いますよ
  (平田オリザ「『リアル』だけが生き延びる」より)

  >結局リズムがないものは退屈だろうという…
  「私たちはこういうとき黙っちゃいますよね」ということ…
  それが非常に日本人のメンタリティに合っていたということ

  (同上)

かなりテキストを恣意的につきあわせたのでフェアーじゃないけれど、でもかなり互いの立場が鮮明になる比較ではあると思う。

やっぱり、それぞれの突き詰め方がハンパ無かったことが、大切なんじゃないだろうか。野田サンの初期の「夢の遊眠社」の言葉遊びのすさまじさと、平田サンが「青年団」のスタイルを確立していったころの静かな退屈さと、それぞれを躊躇なくしがらみを断ち切って突き詰められたからこそ、それぞれの名前がいまも残っている。ただ、野田サンはファンタジーを志向していたけれど、平田サンはリアルを志向した。

いまは少し違う。NODA MAPになってからの野田サンはファンタジーからリアルへと少しずつ重心を移している。またそれがとてつもなく高い2つの位置に張られたロープの上の綱渡りになっているからこそ、どかは「オイル」などを見てると本当に息を呑んでしまう。ただ。この路線に沿うならば、平田サンのスタイルに若干の利があるとどかは思う。

野田サンはあくまで銀幕のスクリーン。平田サンはプレパラートをのぞき込む顕微鏡。その差だもんね。もしくはこうも言える。野田サンの舞台に出てくるヒトは、どれもこれも、みんな野田サンっぽい。でも平田サンの舞台に出てくるヒトは、どれもこれも、みんなちがう。同質性と異質性。うん、ちがうね。

あと、蛇足だけれど、1962年生まれには劇作家と犯罪者が多いというくだりは、びっくりだった(びっくり)。な、なるほどー。

ともかく。

このブックレットは、平田サンの本を読んだこと無いヒトにはとくにお薦め、かなり読みやすい。あと、青年団の舞台に興味があるヒトにもお薦め。これを読んでから舞台を観てもいいし、舞台を観てからこれを読んでもいいし。青年団の舞台には、主宰自身が言うように「見方」がある。それは事実。でもそれはネガティブに聞こえるけれど、実はどんな劇団の舞台にも「見方」というのはあって、平田サンはそれを徹底的にオープンにして提示してくれているわけで。そしてそのある種の「技術」を少しずつ体得していけることこそ、その実感こそ、青年団の舞台を観続ける最大の悦びなんじゃないだろうかって、マジで思う、どかだったり。うん。そんな感じ。


2004年03月16日(火) その機転!

「4月からの」学生証の作成用と、
「やったぜゴールド」免許証の更新用と、
きゅうに証明写真を撮らなくちゃなこととなり、
図書館へ行く前に小阪の駅前の写真屋で撮ってくことに。
それで、まあ写真の不出来はお顔の不出来だからいたしかたなく
(書いてて悲しいだろ、ワタシよ)、
チェ、と思いつつ、メールだけ infobarで確認してチャリこぐ。

しかし、本当の「チェ」は20分後だった。

iPodクンでくるりを聴きながらかなり飛ばして、
荒本のTSUTAYAの前をたどり着くころ、ふと、嫌な予感。
ジャケットのポケットをさぐってみたら、違和感な欠如感。

・・・無い、携帯!

こう、忘れ物や落とし物に気付いた瞬間、
ヒトはどうして「正確な事態」を把握することを拒むのだろう。
そしてどうして、鼻の奥のほうが、こう、あつーくなるのだろう。
でもその鼻の奥のほうのじわーっと熱くなる感覚に、
たゆたってる場合じゃない。
電話番号やメアドのメモリ!
どーすんだどかっ。

と、泣きそうになりながらいま来た道をそのまま元にとって返す。
めちゃくちゃチャリ飛ばしながら、目は皿のようにしながら。
無い、無い、無い・・・と、気付いたらもう、さっきの写真屋の前。
はあー、どうしよう、ひーん。
とココロのなかで泣きじゃくりながら駅前の auショップへかけこむ。
とりあえず、止めなくちゃ、携帯機能だけわっ。

・・・したらさあ。
やっぱりいるのかな、神様って。

  さっき、女性の方に取りに来ていただきましたよ、
  お渡ししました、infobar・・・

  (どか注:「女性の方」とは「おかん」のことらしい)

とある警備員のかたが、拾って持ってきてくれたらしい。
そんで auショップの兄さんが携帯番号から自宅を調べて、
連絡してくれたらしい。
それでおかんが慌てて取りに行ってくれたらしい。
ああ、顔も知らないその警備員の方、どうもありがとう。
交番ではなく、そして auの隣のボーダフォンのショップや、
手前のドコモショップでもなく、
ちゃんと auショップへ持って行かれたその機転!
不肖このどか、最大限に讃えさせていただきますっ \(T T\)

ってか、忘れ物とか落とし物、多すぎだよワタシ
(と、これを読んでる某同好会のヒトたちも呆れてるだろう)。

はあ。

このあと、家でおかんから携帯を受け取り、さんざん馬鹿にされ、
ホッとココロが安心したら、カラダがドッと疲れてるのが分かって、
でも、天気いいし、気を取り直して図書館へ向かう。

・・・今度は、落とさなかった。


きょう借りたビデオ:

青年団「さよならだけが人生か」
青年団「上野動物園再々々襲撃」

きょう買った本:

望月峯太郎「万祝」(2)


2004年03月15日(月) 野島伸司「プライド」第10話

第9話で登場人物たちが突き落とされた奈落というのは、案外、深くなかったらしい。いや、もちろん深いも深くないも、視てるヒトの想像力いかんにかかってくるのは理解できる。でも、どかは、野島ドラママニアのどかは、第10話ではい上がろうとしているヒトたちを見ている限り「あ、そんなもん?」という印象がぬぐいきれない。

ハルはとてもとてもマジメで一生懸命な強さを持っているヒトで、だからひとつのことにしか集中出来ない。という、野島サンの意図する個性付けは理解できる。だから8話から9話にかけてハルは、アイスホッケーを見限るような形で亜紀に対する思いを募らせていく。そして今回、ハルは亜紀を見限るような形でホッケーへと帰っていく。でもね、どかにはハルのそういう揺れ動きから受けたのは、若干「軽薄」な印象だった。なぜかというと、きっとハルのなかのホッケーという世界にせよ、ハルのなかの亜紀への気持ちにせよ、イマイチ、グッと真に迫る感じにならないから。そして「ホッケーという世界」に説得力が無いのは野島サンのせい。「亜紀への気持ち」に説得力が無いのは木村サンのせいだとどかは思う。

ブルースコーピオンズというホッケーチームのメンバーとの「体育会系友情」なシーンは、もはやこのドラマの名物と化している。この高度消費社会である日本に対して、意識的に違和感を醸し出すシーンの作り方を狙う野島サンの意図は痛いほどよく分かる。その視聴者の違和感を逆手にとってテーマの浸透を狙うというのは、とても高等なドラマの作劇技法だと思う。けれども、この違和感は視聴者の中で到底こなし得ないほどの異物感と化してしまうほどに、これら名物シーンは「浮いて」しまっている。例えば「体育会系」だから「禊ぎは殴り合い」って…、ねえ。野島サンの意図は買うけれど、手法に関しては断罪せざるをえない「これは、有り得ない」。

「亜紀への気持ち」が薄っぺらく感じられたのは、既に第9話のレビューで述べたので繰り返さない。これは彼の演技プランの問題だと思う。小手先感を漂わせてしまう定型的なマンネリ。彼の限られた「引き出し」から出し入れされる小物としての表現。その「引き出し」に対して盲目的な愛着を持っているヒトならいざ知らず、出し入れされる「内容」に期待しているヒトにとっては、その「内容」に自分の想像力を重ねていきたいと祈っているヒトにとっては、もはやその出し入れという行為じたいに肯定的な評価を下すのはむずかしい。

反面、亜紀はがんばってる。容子が亜紀を問いただした時に「私はそんなに自己犠牲にばかり生きてる人間じゃないですよ」と答えたときの表情を見れば、決してその言葉が虚勢や自己憐憫から出てきた言葉ではないことは明らか。かつ、亜紀は夏川との結婚を決断したときの理由を語るとき、自分が子供の時に両親がケンカばかりしていて、そういう家族にはなりたくない、と、家族的価値観を前面に押し出してきたことも重要である。そうだ、母性とは家族的価値観と強く結びついていくものだし、母性とは自己犠牲を意識することすらしない自己犠牲だから。第8話までの亜紀とは明らかにちがう表情を見せていて、セリフのトーンも、迷いを乗り越えた落ち着きが宿っている。顕現していく母性という一貫したイメージを、竹内サンはきちんと予断無く演技で表現している。だから亜紀は、ハルとは存在の重みが、違ってくる。夏川に対して告訴を取り下げて欲しいと頼むシーン、あまり目立たないシーンだけど、あのときの亜紀の落ち着き方はとても印象的だ。そして夏川の動揺や疑心も、とてもグッと迫るものがある。コーヒーカップに淀みなくミルクを入れ、それをスプーンでかき混ぜ、口に運ぶ。その一連の動作を行う指が、震えることは無い。言葉ではなく映像で、亜紀の母性の定着の強さを表現し、それを見て夏川は、亜紀を信用していく。うん、良いシーン。ハルが絡まないシーンは、自然にスッと引き込まれる。

そして問題の、第10話のラストシーン、亜紀のセリフ。

 亜紀 ハルに会う女の子なんてどこにもいないと思う
    …だってハルはズルいから
    ハルはズルい
    自分は誰も愛そうとしないんじゃない
    ねぇ…、愛そうとしないんじゃない

 (野島伸司「プライド」第10話より)

ハルが大和に対して「自分に似合う女は世界中どこ探してもいない」って話すのを聴いてしまった亜紀が、聴かれたことに気付いたハルへ言う台詞。このときの竹内サンの表情。こぼれる涙、ゆがむ表情、定まる視線、すべて完璧。何に完璧かって、母性感情と恋愛感情のはざまで引き裂かれた亜紀の心の痛みを表現しきって余すところが無い。ここの涙は「自分が夏川と結婚することで初めてあなたは釈放されたのに、それに気付かないで何を勝手な」という涙ではない。母性とは、特に野島サンのなかでの母性とは、見返りを期待しない自己犠牲の、しかも自己犠牲だと自分で認識しない感情のことである。ハルに対して、だからそこで憤りを見せているのではない。第8話からこっち、母性の底へずーっとおしこめてきた自分の恋愛感情が、たまらず爆発したのがこのシーン。もちろん、恋愛感情は見返りを期待する。自己犠牲になった場合でも、自ら犠牲になっていることを強烈に意識する。それが、恋愛感情の定義と言ってもいい。その自分のなかの2つの極の間でブレながら引き裂かれていく課程こそ、あの涙がこぼれるスピードだ。竹内サンは、ここに来て女優の意地だなあ。うーん、あの表情の流れ、うーん。

あと、第10話で格好良かったのは、石田ゆかりサンの容子。兵頭に向かって「たかが女とは言わせないわ」というセリフは良かったなあ。ここで言う「女」は亜紀のことだけでもなく、自分のことだけでもなく、女性全体の尊厳を込めて言っているから、スッとパースペクティブがずれて見ていてハッとする。調子のいい野島サンなら、こういうさりげないけど凄い瞬間がたくさんたくさんあるんだけどなあ。

余談その1。でもそう言えば、このドラマ。「男の都合と女の意地」みたいな世俗的な対立軸で読むこともできてしまいそう。そしてそう言えば、野島サンの最新小説「ウサニ」も「男の攻撃的な性と女の守備的な性」みたいな言い方がでてきて、たしかに継続したテーマを設定してきているのかも知れない。「男と女も無いっ」という立場に対して「男と女は違うよ」という姿勢を強調する野島サン、誰か、フェミニズム的な見地から分析してくれないかな。きっと、刺激的な結果になりそう(怖い)。

余談その2。某野島ドラマファンサイトの「プライド掲示板」、何で、ああなっちゃうのだろう。いつもの雰囲気じゃなくて、こう、盲目的で主観的で短絡的でカルト的な書き込みが多くて辟易する。どかは木村サンの評価できるところはしたいと思うし、そのためにはある程度距離をとらないと見えてこないところもあるからそうしているけれど、べったりべったり防衛軍が手厚くて何も出来ないなあ、あそこでは(怖い)。

余談その3。そしてその掲示板でも、恒例の最終回予想スレッドが花盛り。どかも一応、じゃあ、予想するー。グリーンモンスターとの試合、大和は意表をついて復帰できない(でも応援する)。もちろん勝つ。ハルはNHLのトライアウトへ向かう。亜紀と夏川は、結婚、しない。夏川が結局、亜紀のことを手放すのだと思う。そして時間は少し空く(1年後、かな?)。夏川はニューヨークに仕事場を移していて、亜紀は出張でニューヨークへ来ていた。それで街角で「やあ久しぶり」と挨拶、もう「良い友人」であることが暗示される。季節は冬から、雪解けの春の日差しの季節。亜紀はNHLのリンクへと足を運ぶ。センターにはもちろんハル・サトナカ。セピア色の思い出の中で一枚だけ色づく写真。客席に亜紀を見つけたハルは、ユニフォームの左胸をグッと掴んで、ニッと笑う(…怖い)。

…ぐらいかな。でも、本当にこうなったら激しくがっかりするどか。ぜったいこんな予定調和、ヤダー。


2004年03月14日(日) G2フィリーズレビュー

3歳オープン・混走・指定・阪神・芝1400m…
「桜花賞トライアル」G2・フィリーズレビュー。
これが「桜」への最後の切符、ただし3着までに入らなくちゃいけない。
今年のクラシック牝馬戦線は、まれに見る充実度らしい。
たしかに、東のスーパー少女・ダンスインザムードを筆頭に、
西のスイープトウショウ、ヤマニンシュクル、アズマサンダースなど、
水際だった走りを見せる少女がたくさんいる。
そのなかでも特にファンの大勢は、
ダンスインザムードへの期待値が大きいのだけれど、
それに匹敵する少女が、西にも現れる、か?
というのが、このレースの焦点。
中心にいるのは、4枠7番ムーヴオブサンデー。
いわずもがなの、サンデーサイレンス産駒。

…だと思っていたのだけれど。

そしてどかはムーヴを軸にはちょっとできないなあ、
この人気は危ない人気だよなーと思って外し、
軸をもう一頭の素質馬3枠2番マルターズヒートにした。
ヒートは2番人気になるだろう、武豊が1番人気のときは、
じつはかなり危ないけれど、彼が2番人気のときは、
ぜったい強い…というどかの思いこみが理由。
ちなみにムーヴの鞍上はアンカツ殿下、むむ。

…だと思っていたのだけれど。

なんと、1番人気はヒートになりムーヴは2番…!
むう。
やばいなあ。
1番人気の武豊は、よくとんじゃうんだよなあ。
むう。
でももう遅い、手元にはもう、馬券があるのだもの。
ヒートを軸にムーヴ、ベルディマンシェ、
そしてロイヤルセランガーの三頭に馬連で流した馬券。
こうなったら行けっ、ヒートっ。

ヒートは先行、ムーヴは好位置からの競馬。
だと、思っていたのだけれど、なんと、ムーヴは3番手の絶好、
けれどヒートは、シンガリからの追走となる、ああ。
じゃっかんかかり気味のムーヴに対して、
ヒートはうまく折り合っているようには見える。
1400mなんてあっという間、4角、馬なりでムーヴ進出、
もう、気配が段違いに余裕に満ちていて…。
ヒートは大外からだ、た、たけーっ。

そこから、でも、ヒート、のびるのびる!

武豊お得意の大外ぶん回し、でも脚色は悪くない、
阪神の短い登り坂をグングン駆け上がって2番手へ進出。
しかし、ムーヴ、さらにその前をのびる。
アンカツがちらと気合いをつけただけで、ゴール前、
さらにグンと加速!
ヒートは、及ばず、2着、まで。

そっかあ、危険な人気馬じゃ無かったんだあ、ムーヴオブサンデー。
やっぱ強いなあ、SS産駒は、もう帝国だなあこれは。
サンデーサイレンス帝国。
マルターズヒートはでも、しっかり2着で優先出走権ゲット。
3着にはこれもサンデー産駒のフィーユドゥレーヴが滑り込む。
なんか、勝負的に、むう。
と思うけれど、でも…、そう、ともかく馬券獲った!

ことし、どか初勝利。
危うく「取り損」になりそうなほど、低いオッズだったけれど、
でもともかく勝ちは勝ち。
はあー、良かったあ、馬連にしといてー。


「桜」は、かなり楽しみだ。
ムーヴとムード、スイープにシュクル、ヒート、サンダース。
どれを応援しようかなあ…?
「フレーフレー・シュ・ク・ル!」で貫きたいけれど、さて。


2004年03月13日(土) 夜の鴨川…

年度末Oゼミ発表会2日目、きょうは必死に朝、起きた。
きょうの発表者は、ドクターのすごい方々がみっちり。
発表が大体ひとりあたり70分になる。
その後、ボスの講評と質疑応答などで30分。
それがきょうは6人分だから…、ひえー。
濃ゆいよ、濃いい。

どか的にグッと引き込まれたのは、
カミーユ・ピサロについてのIサンの発表、
ディドロの美学的比喩(?)についてのKサンの発表、
そしてサン・ピエトロ設計図の変遷についてのSサンの発表。
やっぱり博士課程の方々になると、
フォーカスの定まり方と、覚悟の強さがとてつもない。
迫力、あるなあ。

ゼミの発表会の後、M先生一家との夕食会のお誘いを断り、
夕方6時過ぎ、七条に向かう。
きょうは惣一郎が京大宇治キャンパスでのゼミに参加するために、
こちらに来ていたのだ。
七条駅前で落ち合う、ひさしぶりーってゆうか、でも一ヶ月ぶり。
それで惣一郎がきょう泊まるという、
智積院の宿泊施設へとポチポチ歩く。
お寺の泊まるとこってどんなトコよ?
と思って、チェックアウト後、彼女の荷物を持って部屋を見せてもらう。

すごいキレイやんか…、何より、広いっ。
これで相場よりも若干割安ならいいなあ。
と思っていたら、朝のお勤めのために6時過ぎに起きなくちゃらしい。
むう…、そ、それはちょっと。
門限が10時と早くてのんびりしてられない。
あわてて外に出る。

ご飯食べるところを探したのだけれど、案の定、
七条あたりには何もない。
五条まで行けばあるだろか、と思いつつポチポチ鴨川沿いに歩き。
国道1号から少し脇道を入った、中華料理屋サンに入る。
カウンターしかない、こじんまりとした店。
ビールでカンパイ、もう、美味しくて卒倒しそう。
餃子二枚とエビの天ぷらとカニ玉と焼きそばを食べる、お腹いっぱい。

それでまた、暗闇に映える鴨川のキラキラを見ながら、
七条までポチポチ歩く。
シチュエーションはとーってもロマンチックだ…。
でも、話題はとーってもコメディだった。
ってかあの話題がコミカルじゃいかんだろー、惣!
もっとちゃんと、ドキドキ路線にしないとお。
メッ (^へ^*)

…でも、ま、健闘を祈ります。
いろいろね、いろいろ(笑)。

まあ「ドキドキ半歩手前」トピックはおいとくとして、
惣一郎は京都に来て良かったを連発してた、
東京で鬱屈していた何かしらのムードから解放されたみたい。
解放されてみて、初めてそのムードに気がついたというか。
あるある、そういうこと。
ホントいいことだ…、わたしはあくまで吉祥寺が懐かしいのだけれど、
鴨川よりも玉川上水のが大好きなんだけれど、でも京都という異国の地で、
目の前で凄い勢いでグイグイ癒されていく友人を目の当たりにすることは、
確かに気持ちのいいことだ。

帰りはけっこう遅くなって、家に着いたらバタンキゥ。
あした、朝またバイトで早いし、うー、いきなり健康的な生活だわ。
起きられるか、な、あ


2004年03月12日(金) ほーぷふりー?

きょうはゼミの研究発表会、午後から総人A号館で…。
と思っていたのだけれど、どうも着いてみたら様子がおかしい。
誰も、いない。
日時を間違えたのか、きょうとちがうのか。
場所を間違えたのか、こことちがうのか。
などと、不安になりつつ、フラフラしてたらSサンと遭遇。

   え、きょうは朝の10時からですよ、
   いま中断で昼ご飯ですみんな

へこむ。
反省しつつ午後からの部は参加、幸い、
どかがどうしても聴きたかったどかのイッコ上の、
M1の2人の発表はまだだった。
Kサンのティツィアーノの絵画論についての発表も、
Oサンのマグリットとシュルレアリスム運動についての発表も、
とても興味深く面白い。
まず何よりも1次資料を徹底的に読みこんでいることから生まれる説得力。
ドキドキしつつも、へこむ。
大丈夫か、私(めいびー?)。

でも、発表後の質疑応答が活発で、そっちのにより圧倒。
こう、ボスのドライヴィングフォースというか、
この素材としての資料と学生を、いかに「調理」すれば、
より「美味しく」なるのか、ということに向ける集中力の度合いに驚く。
グーッと集中して悩んだあとに出てくる言葉が、重くて鋭い。
もちろんゼミの先輩諸氏のアドバイスも、的確かつ堂に入っていて。
こう、弱いところを指摘はするけど、ポジティブな流れでホッとする。
…大丈夫か、私(…ほーぷふりー?)。

その後、誘われて7人ほどでキャンパス南側の小さな食堂で食事。
ちょっとビールの入ったボスが「白い巨塔」について熱っぽく語るのが、
かわいい、笑った。

「白い巨塔」→ 財前→ 外科医
→ 医療界のヒエラルキー→ 視界至上主義→ ミシェル・フーコー

と来て最後に、 →美術史 へと繋げる、こうなんというか、
ドライヴィングフォース?に感心しつつ、笑う。

笑いつつ、小心者のどかはまだ言えなかったなー。

  大事なのは医療界のヒエラルキーじゃなくて、
  アイスマンと氷の女神なんです!!

って。
…よし、今度、言ってみよう、いひ。
帰り、K特急の中で爆睡。
フラフラになりつつ「あーあしたも行かなくちゃ」と思いつつ、
家に着いたら「なんか届いてるで」と、おかん。
んー?と思いながら見たら、
UAEのアブダビを旅する女の子からの絵はがきと、
イングランド・ヨークを旅する女の子からの絵はがき。
ちょっと、嬉しい。


2004年03月11日(木) 春の雨

雨。

どかは春が季節としてはいちばん苦手で、
しかも雨が降っていたりしたら本当にヤダになってしまう。
春が苦手な理由は、春がいちばん「暴力」に満ちた季節だから。
春が好きと言うヒトの気持ちももちろん理解できるけれど、
それは「暴力」のポジティブな面に惹かれてるのだと思う。
どかは、だめ。

で、雨男な訳だな、どかは。
高校ン時の百粁徒歩の時から言われてるもんな。
図書館に向かう前はまだ降ってなかったのに、
自転車にまたがった瞬間シトシト。
図書館についたら、止む。
で、さあ帰りましょうと思った瞬間、またシトシト。
ゴアテックスのジャケットのフードかぶって帰ってきたさ、私は。
でも、ヘッドホンしながらフードかぶって夜、自転車こぐの、
危ないよね、気を付けなくちゃ。

夕食後、前に借りていた青年団「ソウル市民1919」を観る。
そしてシアタートラムで観た記憶を拾い出して、
レビューをアップする。
うーん、やっぱり上手く書けないなあ。
どかの中ではつかの「飛龍伝」に唯一匹敵する演劇体験だったわけで、
でも、つかのソレほど分かりやすいものでも無いし。

今年からはいままでみたいに舞台、たくさん見られないから、
レビュー、そんなにアップできないなと思ってた。
でも、いままでに観た舞台はたくさんあるわけで、
そういうのを文字に落としていくことはできるから、
上手く機会をつくってやっていきたいなと思う。

というわけで、きょうも図書館で一本借りた。
記憶を洗い出すために、また観よう。


きょう借りた本とビデオ:

「イタリア絵画史」ロベルト・ロンギ
「ピエロ・デッラ・フランチェスカ」アンリ・フォション

「贋作・桜の森の満開の下」劇団夢の遊眠社


2004年03月10日(水) 「ハイロウズに拍手だ!!」

大阪府立中央図書館から帰りのチャリ、
iPodクンはナンバガのライヴ盤にセットする。
「♪I don't know」のイントロのギターにしびれる。
いいなあ、ナンバーガール。

それで、さっき「プライド」のレビューをアップし終えて、
少しネットサーフィン。
元ナンバーガール、現ザゼンボーイズの向井(無戒)サンの日記を、
ホームページで観てたのね。

したら2月の日記で映画「ゼブラーマン」を観てきたって。
フムフムって読んでたらその中で、

  哀川・三池・宮藤三氏に、そしてハイロウズに拍手だ!!
 (向井秀徳日記 2月分より)

って書いてて、ちょっと嬉しかった。
自分が心の底から感心してしまうヒトが、
自分が心の底から敬愛しているヒトのことを、
まっとうに褒めてるのを観ると無性に嬉しい。

「ゼブラーマン」の主題歌に選ばれている「♪日曜日よりの使者」は、
決してハイロウズのナンバーのなかでは、
ベストチューンで無いと思ってるどか。
「♪リンダリンダ」や「♪TRAIN-TRAIN」が決して、
ブルーハーツのナンバーのなかでベストでは無いのと同じに。

まあでも。
どかのなかでロックンロールって「そう」だよねえ。
っていうことを新たにすることができて。
やっぱり、ちょっと、嬉しかった。

(ZAZEN BOYSについてはそのうち書ければいいな)


2004年03月09日(火) The 5th Renewal Cut Off!

doka's homepageの通史…

02.02.21 OPEN
02.07.25 RENEWAL
02.12.07 JOIN IN ENPITU
03.01.15 THE 2ND RENEWAL
03.02.04 BBS OPEN
03.03.18 JOIN IN ONWAR PROJECT
03.05.05 THE 3RD RENEWAL
04.01.27 THE 4TH RENEWAL

そして、きょう…

04.03.09 THE 5TH RENEWAL

でも、いままでのリニューアルと比べると、ちょっと、うつむきかげんでのリリースかな。4回目のとき、あれだけ大見得切って「やったで!」とのたまうたのにもかかわらず、わずか40日ほどしか持たなかったんだものね、前回バージョン。いやー、ちょっと、反省…、いや反省っていうわけでもないけど、何か、うー、かっこわるいなあ。

とりあえず、変更点を挙げると以下の通りになる。

1.<リンクタイル>のサイズ縮小とそれに伴うレイアウト変更
2.「はじめに」などコンテンツの構成を若干変更
3.トップページのカウンターを以前のフラッシュカウンターへ
4.配色変更
5.フォント縮小

4と5に関しては5日前にすでに実施済みだったのだけれど。リニューアルの理由は配色変更の段で書いたことと同じ。アンチエイリアスが効かないOSでブラウジングしたときに、フォントが小さすぎると読みにくいとどかは思いこんでいたのだけれど、どうも WinXPの利用者はかなりの比率にのぼってるらしいことが判明。またそもそも、フォントが大きすぎると1ページあたりの情報量が制限されてしまい、ブラウジングにかかる労力がかえって増してしまいそうなことも。

…ハイ、どかの読みが甘かったと思うところであります。そこのところをふまえつつ、バランスをとりながら作業したので、以前より読みにくくなったところは無いかと思われる、けれど。

動作確認については、例によってしっかりやった。

Win:IE、Firefox、NN、Opera
Mac:Safari、Firefox、NN、Mozilla、Camino、Omniweb

上記ブラウザに関しては、ほぼ、問題無いレベルに調整済み。

ただ…[Mac:IE]に関しては、どうしても、フラッシュカウンターを表示させることが出来なかった。おそらく biglobeのcgi用サーバーと MacIEとの相性や兼ね合いが問題かと思われるけれど、どれだけ調整を尽くしても(数十時間)いかんともしがたく、忸怩たる思いであきらめることとする(ああ、どかはマックユーザーの風上にも置かれないなあ、ごめんなさい)。

[Win:Opera]では若干レイアウトが崩れるところがあるけれど、オペラユーザーの方は、きっと、パーフェクトなレイアウトよりも、利便性と速度を求めてそれを使っていると思われるので、許してもらえるレベルだと判断。反面やはり、Winにしろ Macにしろ、Firefoxや Mozillaの描画の信頼性がずば抜けて高かった。

リニューアルの作業をしながら思うことはいつも同じで、それは5日前の日記に書いちゃったからもう、繰り返さない。とりあえず、このバージョンは半年以上は持たせるつもり。ってかきっと4月以降、リニューアル作業どころか日記の更新すらままならないタイムスケジュールになりそう。うう。

最後に。Winで IEを使ってらっしゃる大多数の方々へ。Macへスイッチしましょうとは言わないから、でも一度、IEを手放して、Mozilla系のオープンソースのブラウザーを試してみて下さい。きっともう IEには戻れなくなるくらい、快適だと思われます。


2004年03月08日(月) 野島伸司「プライド」第9話

亜樹がいきなり独走態勢に入った。もともと潜在していた母性がここにきて強力に顕在化。すべてを拒み、すべてを受け入れて、すべてを背負い、すべての犠牲になる…、という「すべて感」こそが、ムンクが語ったグレートマザーのひとつの側面だとすれば、第9話の亜樹はまさにそんな感じ。

 亜樹 人を好きになる時って、
    誰もが自分のいいとこ伸ばそうって努力する
 知佳 最初、欠点隠したりするもんね
 亜樹 でも剥き出しに自分の欠点、さらけ出す人もいるわ
 知佳 誰のこと?
 亜樹 それでね、もし逆にその欠点がいいなって思えたら
    かわいいな、愛しいなって思いあえたら…すごく安心だよね
 知佳 でもそれって、恋じゃないよね
    どっか不安だったりするのが、恋のエネルギーじゃない?
    亜樹が言っているのは、もう恋じゃない
 (野島伸司「プライド」第9話より)

母性感情と恋愛感情はちがう。どっちが良い悪いの話ではなく。野島ドラマの世界へグッと入っていくためには、この認識をくぐる必要がある。どかはこの上記のシーン、一度観たときは「ハルのこと?」と思ったのだけれど、観直してやっぱ違うなって。亜樹が話しているのは夏川のこと。ハルとの関係を知り取り乱してしまった夏川のことだ。奇しくも第8話で、同じコインランドリーで大和相手に亜樹は、ハルとの関係について語っていたから、同じコインランドリーでのこの会話は、きれいに対称を成しているんだね。

そして、それらのさりげないシーンから浮かび上がるのは、亜樹のなかで恋愛に対して母性がグッと盛り上がる流れだ。ハルに対しては、自分は結局待ち人を待ちきれなかった「古き良き時代の女」のなり損ないだから、ふさわしくないという。そして夏川に対しては、自分は結局待ち人を待ちきれなかった裏切り者だから、ふさわしくないという。自分の幸せになれる可能性をすべて自ら断ち切ってそれでそれぞれに対してもっと引いた視点で包みこんでいきたいという姿勢、これが亜樹の母性だ。

ハルが拘置されている警察署の前で、亜樹が雨にずぶ濡れになりながら「ハルが泣いてるの」とうわごとのように呟きながら狂っていくシーン。あれはまさに象徴的だったと思う。ただ、なぜか、このシーンはやっぱり、唐突かなあと思う。それはきっと、どかのなかで亜樹の母性とまりあの母性を比べているからだと思う。まりあとはもちろん野島ドラマの名作「この世の果て」の主人公・砂田まりあだ。

鈴木保奈美演じるまりあの「すべて感」は、すさまじかった。彼女にはもともと「恋愛」が紛れ込む余地が無かった。

 佐々木 愛などいつか…
 まりあ 愛?
     違う、そんな陳腐なもんじゃない
 (野島伸司「この世の果て」第9話より)

こう言い切ってしまってそれがちゃんと説得力のあるキャラクターだった。亜樹の母性には、まだどこか、ちょっと無理してる、自分が犠牲になるのっ、という踏ん切りが見える気がする。もちろん、普通の人間ならその程度の弱さを内包して当然と言えるけれど、どかのなかで既にまりあが刷り込まれてしまっているので、亜樹のこの「踏ん切り」に向かおうとする切ない頑張りが、気になったりする。無理して選択する母性には、おのずと限界が生まれる。まりあの母性には、限界が、無かった。

とは言え。今回は、久しぶりにちょっと涙ぐんだどか。ハルが拘置されてから、この亜樹のずぶ濡れ姿と、大和の病室に這いつくばる姿をたたみかけるように繋いだカットは、やられた。

でもなあ。その肝心のハル。どかはあんまし感情移入できないんだよなー。亜樹が独走に見えたのは、ハルの恋愛感情が、まったく説得力をもって見えてこないから。何で夏川を殴りに行かなくちゃだったのかが、見えない。見えないよー木村さーん。

第9話は、確かに加速はしたけれども、何だかギッコンバッタン、やっぱりリズムは良くない。こう、フアーッと気持ちよく吹け上がるNSR500のような迫力ある感じじゃなくて。やっぱり第8話までの不出来が効いてるのなあ(爆)。ただ、復調の兆しは見えた。今回の亜樹には、野島ドラマらしい霊性が備わっていたとは思う。夏川の錯乱っぷりも、どかは好きだった。そうそう、あの正視に耐えない弱さだよ、野島サンと言えば。次の回の展開はもう、読めてしまうけれど(きっと亜樹が夏川に「結婚するから告訴取り下げて」とか言うんだろう)、その先で予定調和を崩してくれることをどかは切に期待する。


2004年03月07日(日) G2弥生賞

3歳オープン・混走・指定・中山・芝2000m…
「皐月賞トライアル」G2・弥生賞。
ついに、2004年度クラシックのプレリュードが奏でられる。

人気は6枠6番フォーカルポイント。
それに続いて5枠5番コスモバルク。
8枠9番メイショウポーラ、2枠2番ハイアーゲーム。
そして7枠7番グレイトジャーニー。

どかは牡馬クラシック戦線はブラックタイドくん絶対支持なのだけど、
タイドくん、弥生賞は回避したので、馬券はかなり悩む。
昨日までは武豊騎乗グレイトジャーニーで行こうかと思ったけど、
線が細い印象が否めず、けさ、まず切る。
メイショウポーラ、スピードは断トツだけれど距離が厳しいと思う。
続いて、切る。
そもそも、この5頭はかなり抜けていると確信してたから、
残った3頭で、馬連ボックスで勝負することにした。

レース、なんと大方の予想を覆してスローペースとなる。
引っ張ったのはもちろんメイショウポーラ、福永クン。
2番手でコスモバルクがそれをマークする展開。
おっかしいな、馬場も良いしきょうはハイペースになると思ったのに。
たまらず、3角あたりから武サンのジャーニーが動き出す。
馬群は詰まるも、先行馬群、余力残して4角出口。

どかはもう、勝った!と確信したのだけれど。
でも、、、メイショウポーラ、粘る、すごい粘る。
コスモバルク、ゴール前余裕の差しきりも、他馬は追いつけず・・・
「ヨーイドン!」な展開では、
フォーカルやハイアーの差し脚は発揮できなかったのだろう、むう。
というわけでコスモバルクは貫禄の1着。
2着メイショウポーラ、3着はアンカツ騎乗メテオバースト。
フォーカルは5着に沈む。

コスモバルク、格好良かったなあ。
何と言っても道営競馬所属というのがかっこいい、
地方出身の馬の制限のために、いくら賞金を持っていようとも、
トライアルレースで入選しない限りクラシックには進めなかったらしい。
中央所属の良血馬をそのシバリとともに蹴散らしての出走権獲得。
ステキだ…。
彼は強いぞ、ブラックタイドくん。
大丈夫かい?

さて、昨日は「桜花賞トライアル」G3チューリップ賞。
どかは京都に行かなくちゃだったために、阪神競馬場に行かれなかった。
馬券も買わなかったけどでも、レースはちゃんとチェックした。
愛しのヤマニンシュクルちゃんは、
実力馬スイープトウショウの圧倒的末脚の前に3着。
むむ、でも、3着入選でかっちりクラシック出走権を獲ったのだから、
良しとしよう、予選は、予選だい。

…にしても、馬券、獲れない。
だんだん深刻になってきたな、何連敗だらう (ノ_<。)


2004年03月06日(土) 熊谷守一展@京都高島屋

某画廊@銀座の友人、すうクンからいただいたチケット。すうクンの画廊は、このヒトの墨絵淡彩画の鑑定を務めてるらしい。恥ずかしながら、どかはこのヒトの名前、いままで知らなかった。でも、送ってもらったハガキの絵は、確かに観たことあった。小雪がちらつく四条河原町、高島屋7階のグランドホールにて。

ほとんどこの画家に馴染みが無い観衆にも、容易な導入イメージ。晩年の30年間はほとんど自宅の外に出なかったらしく、作品のモチーフもごくごく限られた範囲のものだけ。そして「完成期」の作風はほぼ一貫している「ように見える」ことから、導き出されたコピーは、「超俗」「画仙」「孤独な画家」などなど。その画一的なイメージの打ち出しは、一般に広く流布する<芸術家>というもののステロタイプなイメージにかなり沿うものであり、アピール度も高いと思われる。

そしてこの場合、画家自身もそうした「超俗」な自らのイメージを創り上げていこうとする意図が見え隠れする。もちろん良い悪いの問題では無く。自らがあるイメージで他人に認められていきたいと思い、自らをプロデュースしていくことは、悪いことなんかじゃない。誰だって多かれ少なかれ、そういう戦略は保持し、日時遂行しているのだから。

どかがまずこの展覧会に感じたのは、画家が打ち出したかった神秘的なイメージを、展覧会主催者がそれを受けてさらに増幅し、そして会場に足を運んだ観客はそのイメージを嬉々として受け入れていったという、んー、あえて言葉に置き換えてしまうと「大政翼賛」的な雰囲気だった。そして、この雰囲気じたい、良い悪いという尺度で測られるべきではもちろんない(主催者側の見識は、ちょっと、疑問だけど)。

そして自分だけ良い子チャンしてても仕方ないから告白してしまうと、どかも、ちょっと前までなら。そう、1年くらい前までなら、こういう楽天的なイメージの打ち出し、例えば「画仙」なんてコピーに接すると、作品はさておいてもドキドキしてしまっただろうなと思う。なんかいいなーって。特別っぽいし。全ての条件を不問にした絶対的価値が天から降ってくるかのような。そういうの、いいよねーって。まだそこまで知名度が高くないのも、通っぽいし、芸術って感じのハイなイメージ、うんうん、みたいな。

でも、いまのどかの印象はちょっと異なる。

熊谷守一は、どか、とても大好きな画家。ちょっと、いままで知らないでいたことを不幸に思うくらい。日本人にもああいう造形感覚を持てた人間がいたんだなーと感心する。でも。だからと言って、熊谷が「超俗」であったとは露とも思わない。まして「画仙」なんていう神秘的に思考をストップして全てを止揚してしまうコピーには、彼の芸術の本質は無いと思う。どかは、彼のいわゆる「熊谷スタイル的」晩年の作品ではなく、むしろ初期から中期の作品が楽しかったし。江戸時代後期からダーッと「輸入」された西洋美術史の全部を、一身に背負って次々ハードルをクリアしていくかのようなヴァイタリティ、柔軟さ、独自性ではなく対話性。そこに、魅力を感じたし、その対話性は「熊谷スタイル的」晩年の作品のなかにも、通して常に息づいてると思えた。画家が臨むと臨まざるとに関わらず、それは作品のなかにあらわれてしまっているように思えた。

重ねて言うと、とーっても面白かった、久しぶりにこう、ズシッと手応えのある感触が残る展覧会をみた気がする。あの造形感覚はすばらしい。良い目を持ってたんだなあと思う。だからこそ。その感覚を磨いていく細かな研鑽と課程をある種の「全体主義」っぽい神秘的イメージで覆い隠してしまうことに、どかは違和感を感じていた。作品にではなく、展覧会に。まーでも、そういう分かりやすいイメージの打ち出しのほうが、アピールしやすいしなー、仕方ないのかなとも思うけど(…でもさ「画仙」なんてストックフレーズじゃ、あの中期の風景画の魅惑的な移り変わりの「質量」は、すくい上げられないよね)。

とにかく、個人的にとても、タイムリーだった。ちょうど「モランディ」を読了したところで、その筆者が、ジョルジョ・モランディという画家のリアリティを「画僧」という硬直したストックフレーズからすくいあげようと苦心していた作業が、生々しく残ってたからね。そう、きっと「日本のモランディ」って誰かが言い出してもおかしくないヒトだよね、熊谷サンは。その、神秘的なパブリックイメージ。「大政翼賛」的な受け入れ状況…。

あとは雑多な感想。付けられたキャプションの内容はともかくとして、出品された作品の質と量のすばらしさに比べて、あまりに展示スペースが貧相でもったいなかった。あの、作品を架ける壁の汚れや痛みは、作品を鑑賞するために集中するのを妨げるレベルだったと思う。もったいなし。このあとなんば高島屋でも開かれるようなので、なんばはちゃんとキレイだと聞いたので、もう一度行こうかなと思っている。

作品<水滴>が良かったなあ。


2004年03月05日(金) 資格、取得!

玉川大学から、第8回科目試験の合否を知らせるハガキ。
この最後の試験で受けたのは考古学と民俗学。
ドキドキしながら確認すると「合格」の二文字。

うーん、うれしい、やっぱり。

これで学芸員資格に要求される単位を全て取得したことになる。
だから(きっと)、これで大丈夫なんだわ、やったあ。

2番目に大変だったのは、去年の夏のスクーリング
日記でも書いたけど毎朝起きることが、まず大変だったし、
町田まで通うのも、眠くて眠くて…、一回乗り過ごしたし、小田急で。
しかも大学院の受験直前だったこともあって、
2週間以上、全日潰れてしまうことはかなりストレスだった。
いやー、結果オーライ、やれやれ。

でも、何と言っても、1番大変だったのは、
「西洋美術史」のレポートだった。
どかは2冊の初回提出分を、両方、Dの「再提出」をつけられた。
レポートがDだったのって…、いま中学から大学まで振り返ってみて、
無いな、記憶のなかには。
あ、あるか、レポートじゃないけど、浪人はしてるから。
まあでも、レポートでは初めて、はあ、焦ったあ。

で、スクーリングでおなじクラスだったTサンMサンSクンに、
SOSを打診して、ちょっと助けていただいた。
その節はもう、本当にお世話になって、ありがとござます。

でも…、科目試験の出題もそうだけど、
「西洋美術史」担当の講師は、少し、どうかと思ってるどかではある。

さておき。

高校生のときのZ会以来、再び通信教育なるものを1年間やったのは、
なかなか楽しい経験だったと思う。
スクーリングは大変だったけど、いろんなヒトと知り合えたし、
どかの時間のなかで、絶妙のタイミングで、絶妙のアクセントだった。
また、あのヒトたちと飲みたいなと思っているどかでした。


2004年03月04日(木) マックでサイトを作成するということ

というわけできょう、doka's homepageはマイナーリニューアルした。
いちおう、半月くらい前から、少しずつ計画してた。

2004年01月27日の The 4th Renewalは、
私としてはかなり満足のいく結果だった、特に、構成。
ただ、あの時は、構成をかっちりまとめるのに精一杯で、
配色をちゃんと吟味しきれなかったなーという感想もあって。

色選びというのは、かなり奥が深くて、
実は当初の計画からかなり脱線して、
「カラーコーディネーターって楽しそう♪」とか何とか、
いろんな深みにはまってたゆたっていたりした。
色の3属性「色相・明度・彩度」とか、
彩度対比、明度対比、色相対比、それらの組み合わせ、とか。
そしてそこから生まれる心理効果とか。
けっこう複雑で、でもだから知り出すと楽しくって仕方がない。

しかし、どかはある地点でちょっとけつまずく。
マックとウィンドウズの差だ。

ウィンドウズユーザーは現在95%を占めており、
残りの僅かがマックを含むマイノリティである。
まあ統計の母集団から、パソコンのヘビーユーザーを抽出すると、
かなりマックユーザーの比率は高くなるらしいけれど、
それでもまあ、10%はいかないだろう。

そして、どかは普段は自分がマイノリティであるということを、
ほとんど意識しないまま生きていかれる。
ところが、サイトを作成していて、
特に配色などに凝りだすと急に壁が出現する。
モニタに出力できる「RGBカラー」はおよそ1670万色。
しかし、マックとウィンドウズで確実に同じな出力を保証される、
「WEBセーフカラー」となると、なんと僅か216色まで激減する。
このことは実に、実に、暗示的である、現実の世界に広く存在する、
様々な齟齬の縮図がここに見えるといっても良い。

異なる立場にたっているお互いが、
誤解無く相手に自分のメッセージを届けるための手段とは、
言葉も含めて、実は自分が思っているほど完全でもないし、
無限でもないし、確実でもないのだ。
何と言っても、1670万の可能性が216に目減りするのだ。
もちろん、自分が95%の枠に生きていれば、
こんな「目減り」、気にしないで生きていかれる。
5%の枠に生きるマイノリティも、自らをその狭い枠におさめていれば、
こんな「目減り」、気にしないで生きていかれる。
しかし、おそらく、マイノリティは先にこのことに、気付く。
そして、気付くとすぐ、その齟齬の果てしなさに、軽く絶望する。

いや、世界の実際では、これが「軽く」で済んでいないから、
きっと毎晩毎晩、ニュースを見るのが憂鬱な日々になってしまう。

ことは単なる、色目の違い、では無いと思うの。
ことは単なる、マックユーザーの悲哀、では無いと思うの。

今回、どかは色、かなりいろんな冒険と挑戦を楽しんだ。
そしてマジョリティの人たちとの齟齬のないコミュニケーションを目指して、
「WEBセーフカラー」の足枷を自らはめることも、した。
そしてギリギリのところで、少しだけ、その足枷を外し、
自由に空を眺めて深呼吸するために、
「WEBセーフカラー」から外れる色を、ちょびっとだけ、使った。
でも、悩んだよ、悩んだんです。

そしていまは、あの悩んだ時間って、
存外、重たい大切な時間だったんだなーと思う。
ことは単なる、…、では無いと、思うの。

それはさておき、ご意見、ご感想、求むです m(_ _)m


2004年03月03日(水) つごう46回目

きょうはM先生公開ゼミの後半の日、
総人A棟に着いてササッと椅子を運び、机を拭く。
先週の教訓が生きてて、手際のいいみんなどか含む。
きょうは東京からもイタリア美学専門の教授や、
京大でも文学部所属の先生がいらしたりして、盛況。

内容は相変わらず、難しい、きょうは厳しかったな。
通して理解は出来ないんだけど、ときどき、部分ぶぶんで、
一瞬回路が繋がって「あ」というのがあるのだけれど、
それが、すぐ次の章に移ったときに切れてしまう。
問題意識としてとてもコンテンポラリーな話題なことは、
そこはかとなく感じられるのだけれど。
質疑応答は、伊語・仏語が飛び交う異世界となり、
いや、あくまでエイリアンはそれを解しないどかなのだと気づき、
へこむ、これでつごう46回目…。

そのあと、例によって夕食会、きょうはどか、参加する。
後期の入試で合格されて、この4月から、
どかと一緒にOゼミに入る同級生Nサンがいらしてたから。
店に向かってポチポチ歩きながら、すこし、話す。
どかと同じく、東京で社会人をされてたと聞き驚く。
東京の大学出身ということも同じで、へえ、と思う。
ちゃんと学部の専攻でイタリアをやってきているところは、
当然、どかと違うのだけれど。
Oゼミはかくも異質なメンバーが集まる場らしい。
良い意味で異質性の高い場になってるなあ。
それはともかく、Nサン。
お顔が整っていて美しいヒトだ ヾ(-_-;) …ヲイ。

まあともかく(ナニガだ)。

きょうは、M先生ともがんばって話して、
もちろん英語でだけれど、英語がサビサビで悲しくなる。
ちょっと、こっちもブラッシュアップしなくちゃあ。

くるりを聴きながら、帰る。
そう言えば、ブッチャーズとくるり、新譜が出たんだよね。
買いたいけど…、むう。
ともかく「はっぴーひなまつり」。


2004年03月02日(火) 諦める X 3

夕方、東梅田に、バイトの勤務報告書を出しに行く。
one toneのライヴを一緒に行ってくれたかークンと、
おととい、パスタを食べながら話したんだけれど、
家庭教師を、どこかの派遣でやるのなんてバカげてると。
自分で広告出してでも自前でやったほうがいいよーって、
ふむー、ま、確かにそうだわな。
と、どかの担当との素っ気ない会話が終わってから思う。

その後、梅田駅前のヨドバシカメラに向かう、初めて。
とりあえず、マックの液晶クリーナーが欲しくて、
それを探しつつ、最近欲しいなーと思ってる
トラックボールをいくつか物色、でも、高価いのね。
ずいぶんするんだなー、マウスはあんなに安くなってんのにさ。
とりあえず、それは諦める。
あとデジカメ。
いま欲しいなーと思ってるのは、COOLPIX5400。
5メガピクセルに光学4倍、広角もカバー、いいなー…。
とりあえず、それも諦める。
そして、やっぱりiPodは、惹かれる。
どかのは最初期形、バッテリーへたってきたしなー。
iPod-miniには惹かれない、でも20メガ、欲しい。
とりあえず、やはり諦める。

それから紀伊国屋書店に行って、
イタリア語の問題集を購入、すごすご帰る。
iPodは、きょうは、行きしはマイブラ、
梅田にいるあいだはソニックス、
帰りはブラッドサースティブッチャーズだった。
でも…、マイブラ、いいなあ。


きょう買った本

白水社「イタリア語練習問題集」


2004年03月01日(月) 野島伸司「プライド」(第8話)

うーん、ここまでずーっと観てきて思っている事なんだけど、どうにも、一貫してリズムが悪い。何だか最近のドラマのひとつの流行である、宮藤官九郎に代表される「軽快なテンポ」を目指してるのは分かる。でもそれが失敗していて、ちょっと「軽快」とはほど遠いものになってしまって、なおさらテンポを悪くしてる。ハルとチームメイトとの会話はいつもスピードはあるんだけど、言葉のひとつ一つがクドカンのそれと違ってざらついて質量がたっぷりあるから、どうしてもごつごつしてしまう。

野島サンの良さはそのざらつきと質量感にあるのだから、無理して流行を追いかけなくても良いのに。それこそ伝説の「TBS野島3部作(高校教師・人間失格・未成年)」が、伝説となったのは、じっくり腰を据えて、入魂の剛速球を投げ込んだからだ。先発完投型の本格右腕投手が、いきなりブレイクビーツでダンスステップを踏んでも、うまくいくわきゃない。

「プライド」がいまいち、リズムが悪いひとつの徴候として「説明ゼリフ」が多すぎることが挙げられる。そしてその「説明ゼリフ」の代表選手が、コーチの未亡人、容子サン(石田ゆかり)。どかはこのドラマの登場人物のなかで容子サンがいちばん、野島エッセンスを体現していると思っているのだけれど、その使い方がただの「狂言回し」になっちゃっている。要するに、野島サンのテーマはいつも、良い意味でも悪い意味でも抽象度の高い理想的な概念であり、野島ドラマフリークはともかく、ただ「月9」を気軽に観ている視聴者を想定するとどうしても、その概念とお茶の間を繋ぐハシゴが必要になる。このハシゴが「説明ゼリフ」なのだろう。

容子サンに限らず、全てのシーンにおいてこの傾向が認められる。どかは前にも書いたけど、野島ドラマの肝はスピードにあるはずなのだ。いろんな難解で理想主義的なテーマをふまえつつ、前半に用意周到に伏線を重ねていき、7話から9話にかけて一気呵成に物語を奈落に「落とす」。視聴者はスピードに巻き込まれつつも、それぞれが自らの中で「ハシゴ」を何とか繋いで、野島サンが設定したテーマへと肉迫していく、していかざるを得ない。視聴者はかなり感情を揺さぶられ理性を刺激されつつ、主体的かつ自発的にドラマの世界へと参加していく。このかなり大変な課程にこそ、野島ドラマの本質は浮かび上がる。いまの、軽く薄くさっぱりさわやかに、というドラマの潮流とは正反対の脚本家なのだ(いや、どかはクドカンは大好きなの、でも、亜流はだいっっきらい)。

そんなこんなで、第8話。どかが「オッ」と思った興味深い点が2つと、ガックシきた点が1つ。

ひとつは、亜樹がハルと別れることを決断した理由を、大和に語ったセリフ。曰く、ハルは魅力的で「眩暈がしそうなくらいドキドキする」けど、だからいつも不安だったと。自分は平凡な女で、ハルは特別、ハルに「つまんない」って思われる前に別れられて良かったと。そしてこのセリフは、別のシーンの容子サンから、「結局、里中クンは彼女に信用されてなかったのよ」と裏付けられることになる。…ってか、ごめんなさい。大変恥ずかしいのですが、この亜樹のセリフと全く同じセリフを言われたことのあるどかだったりする。ぐふ(まあ、それはいいや、それは、いいのよ…しぅん)。でも、この視点は、とっても大切だと思う。いまのどかなら、この容子サンのセリフも普通に受け止められる。

ふたつ目、亜樹の彼氏である夏川が、ハルを訪ねて亜樹との関係を問いただすシーン。テンションをあげて偽悪的に振る舞うのは、ハル自身がかなり不安定になっているあらわれ。なぜ、不安定になるのか。もちろん恋敵と対面するということもあるのだろうけれど、その恋敵のなかに、ハルが自分と似た資質を認めていたことがあるのだと思う。簡単に言うと、自分が夏川の立場だったら、待たせている亜樹にはやはり連絡しなかっただろうと。自分の世界を打ち立てることが全てのことに最優先し、その課程で要求される「強さ」は全てこれを満たし、その課程で直面する「寂しさ」は全てこれを認めない、そういう種類の「誇り高き」人間として夏川を認めていたからこそ、いつもの余裕たっぷりのハルでいられなかったのだ。ここは、面白かったな、なるほどと思ったどかだった。

さて、ガックシ来た点。これは簡単。あっけなく、夏川のメッキが剥がれて、小者になっちゃったこと。かなり、つまんない。なんだ。これじゃ亜樹がハルに戻って、メデタシの予定調和じゃないか。このドラマの存在理由は、ハルが最後にひとりぼっちになることなんだよ(勝手に決めるどか)。はー、どっちらけ。まだ、この先、何かひっくり返してくれるのかな。いつもの野島サンならそれを期待するのだけれど、「フジ月9の野島サン」はどかの知ってる脚本家じゃないから、とっても怖い。

こんなところです。かなり、キツいトーンの文章が続きますが、一応野島作品レビューに関しては、どかは必ず2回は観なおしてじっくり考えてから書くようにしてるので、許してください。それほどの敬意を払うべき脚本家なのだと思うのです。それは、確か。

…、木村サン、もっとがんばれ。


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