un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2004年02月29日(日) one tone@cafe detaj

ちなつ嬢とゆーやクンのユニット、one toneが関西ツアーに来た。京都、神戸とまわって今夜、大阪・北浜のカフェデタイユにてライヴ。vo.のちなつ嬢は、中学・高校・大学を通して全部、どかと同じガッコ出身という極めてまれな後輩筋にあたるヒト(ちなみに職場まで同じというオチもつく)。だから今夜も、彼女の同級の友人サンがたくさん来てたみたいで、つまりはどかにとっても後輩にあたる人たちなんだけど、学年が4つ離れてるから知った顔は見えない。今回、どかはかークンをさそって2人で行った。

のっけから話は変わるが、どかが美術史をやろうと決めたのは高校3年のとき。センターで喜劇的惨敗を喫し、花の浪人時代の到来に向けて着々と図書室で昼寝してたとき。目が覚めて椅子に座ったまま後ろにもたれて背伸びをしたとき、手にかかった本をそのまま抜いて机に置いてみたら、それはゴッホの画集だった。何の気無しに、ページをめくったら一枚の作品がいきなりどかの目の前でうねりだした。後から作品名を調べてみたら<アルルの跳ね橋>という幾つかヴァリエーションのある作品のひとつだった。映画やアニメと比べて、動かないイメージなんて見てもつまんない。と思っていた18歳にその体験は衝撃的だった。

ヒトはついうっかりと、無限とか永遠とか完全を求めてしまう。例えば、寂しいからつき合うのと、好きだからつき合うのとは違うわけだけれど、一見その2つの顛末は似ているからタチが悪い。強い気持ちで無限とか永遠を追い求めていたつもりが、いつの間にか自分の弱さにまかれていることも多い。自分が走っているつもりだったのに、いつのまにか自分の足は止まっていて、風景だけがどんどん後ろに流れていくこと。無限とか永遠は、それこそ幻のなかではずっと、そのままでいてくれるのだけれど。

例えば「モナリザには永遠の美がある」と言うときの、事実と希望の混同。もしくは「無限性」のたたき売り。自省をこめつつも翻って見てみると、どかはゴッホに、無限を見て引き込まれたのではなく、一瞬を見て引き込まれたのだ。動かないオーロラはつまらない。ブレークアップがすさまじいのは、ただ、その、猛スピードの急旋回によるのだ。そしてあとには、寂しさが残る。

どかは前回のライヴの感想文(one tone@南青山MANDALA)で「時間性」ということを書いて、でも読み返してみて、あまりに言葉足らずだなーと痛感したから、振り返ってみた。つまり、ポチポチ歩いてきた「私」がふと、途方に暮れて立ち止まったときに、スッとずれる周囲の世界との位相。「私」が立ち止まろうと走り出そうと、それとはまったく関係のない速度で、地球が回っているということ。「コリオリの力」が怖くて、次の一歩が出ないと言うこと。one toneの音楽は、こんな風景のスケッチなんだと思う。


  寂しいから、誰かとつき合いたいということ、
  そんなの何だか違う気がする、でも…


この「でも」の余韻に淡彩をほどこしたのが、one toneの曲なんだと、どかはあえて断言してしまう。だからただの「寂しい寂しい」としか言わないオコチャマには響かない音だし、だからただの「オレ様オレ様」としか言わないオッツアンには響かない音だ。どんどん生まれては消えていく余韻にしか映らない風景だから、受け皿は必然的に、小さい。パッと聞く耳に優しい柔らかい響きには、one toneの本質は無い。

だから、どかは、one toneが好きなんだと思う。薄っぺらい安心を拒絶するという前提の上に立つ、はかなげなモビールに似た佇まいが好きなんだと、思うのな。

1曲目、ちょっと、いろんな要素がぶれている気がした。緊張したのかな(でも、1曲目はいつも、one toneはそんな感じかも)。でも2曲目の終わりくらいから、だんだん、ハコに馴染んでくる。超満員のフロア、人混みの隙間の二酸化炭素を、いちいち淡彩の冷たい酸素に置き換えていく感じ。そして、名曲「♪君のところへ」。ひこうき雲に仮託していくというのは、使い古された常套手段かも知れないけれど、両極の間で揺れ動く不安定さへフォーカスするという意識が詞・音ともに通底しているから浅薄さは全く感じられない。サビで引っ張ろうとしてないことが、いいのかも知れない。盛り上がりを作れば分かりやすいポップスになるのだけれど、あえてそこにはいかない。

正直に言うと、まだ曲によってそのフォーカスの正確さにばらつきがあって、時々、その持ち前の淡彩の風景のトーンが重くなったりハレーションがおきたりしてしまうことがある。けれども「あえてそこにはいかない」という誠実さにかけて、どかは one toneに1票を入れたい。なんてことは、恥ずかしくてとても言えなかったな。ライヴのあと、ゆーやクンと少しだけおしゃべり。いやー、久しぶりに会えて嬉しかったです。何か印象に残るんだよね、多分、音抜きでも、このヒトは。ウンウン。上京するときは連絡するので、また飯でも食いましょう。

で、演奏後も大忙しのちなつサンだったけれど、別れ際「また三鷹に引っ越したんです」って、それは羨ましいくていいなーだけど、ふ、復帰の件はっ… (^_^;)


2004年02月28日(土) なにげにセレクション

早起きしてバイトの家庭教師に出かける。
小学校5年生のNクン、来年、ちうがくじゅけん。
「受験算数」の経験を見込まれて採用されたらしい。
つまり、その昔のちうがくじゅけんの経験の先の、
その昔のどかの成績は問われなかったというわけで。
当たり前だ、どかの小学校6年の算数の偏差値知ったら、
よもやカテキョーになんて思わんだろう。
明日のG2中山記念でエイシンチャンプに10万つっこむようなものだ
(分かったよーな、分からんよーな)。

さいしょはプレッシャーでヤだったけれど、
最近、受験算数見るのも慣れてきた。
もちろんパッとわかんないことはしょっちゅうなのだけれど、
グッと集中して考える時間が心地よくなってきた。
Nクン、1●年前のどかよりずっと頭良いから、大変だけど。
星光とか東大寺とか、行っちゃうのかしら、すごいなー。

昼過ぎに家に戻ってきて、すぐ父親に連れ出される。
さるクルマのディーラーに、愛車あうでーのバンパーの不具合点検。
どかはあうでーやその他舶来のクルマよりも、
道路を挟んでディーラーの向かいにあるドンキホーテの建物にびっくり。
と、とてつもなく、アールデコ。
デコっつうか、むしろ、パンク。
いや、パンクっつうか、むしろ、キッチュ。
いやいや、やっぱり、ドンキとしか言えないな、このスタイル。



↑コンテナを積み上げたかのような外装・・・おいおい


夜は、両親と3人で千日前に餃子を食べに行く。
食後、いかにも大阪ねーという雑踏のなか、
どかは別行動でジュンク堂を目指す
(関係ないけど、雑踏にも音色があるのね、大阪っぽい不協和音)。
まず、店員に聞く、やはり、予想通り。

「あー<自虐の詩>は売り切れなんですよー」

BSマンガ夜話、すごい影響力だ。
どんな広告よりも、ピーアル度、高かったもんな、あれは。
で、仕方ないのであと、めぼしい物をあらっていく。
よくよく探せばちゃんとあるじゃん、大島弓子。
「使えない」呼ばわりして、ごめんよ、ジュンク堂。
きょう発売の雑誌Hに、あおいタンが出てると知って、
チェック入れるけど、いまいち冴えない特集なので却下。
やっぱ、アンアンとか買わなくちゃかな、でも、男子にはちょっと。
でも、どっちにしても、きょう買った本はなにげに、
「あおいタン」セレクションとなった。


きょう買った御本

大島弓子「秋日子かく語りき」
吉田秋生「ラヴァーズ・キス」
よしだみほ「馬なり1ハロン劇場(19)」
MacPeople 3/15.4/1号


2004年02月27日(金) 落ちるブレーカー

朝起きて痛くない、偏頭痛は過ぎ去ったらしい。
週に2回のペースで泳いでるのだけれど、
きょうは、東大阪アリーナの駐輪場まできたところで、
いつもの法人会員の券を部屋に忘れてきたことに気付く。
部屋まで取りに戻るのもめんどくさいし、
きょうはそのままスルーして図書館へ向かうことにする。

けっこう、混んでる。
閲覧席、向かいにすわった高校生のカップルがうるさい。
何度か、全身で電気を発してみたのだけれど、
まったく堪えてないみたい、ちぇ。
私の発電量が落ちたのか、彼と彼女のブレーカーが落ちてるのか。
あとから来た隣にすわる男性も、なんだかぶつぶつうるさい。
30分ほど我慢して、コーヒー飲みがてら席を立つ。

向かいのカルフールのレストランブースをうろついてたら、
無性にマクドの赤と黄が心をくすぐる。
仕方ないから気になってた「たまごダブルチーズバーガー」、
セットで頼む。
席に着いて5秒で後悔、もう頼まない。
っていうか、この新メニュー、マクドの首脳陣は試食したのか。
どかはダブルバーガーもエッグマックマフィンも好きだけど、
これはとってもいただけない気分。
やっぱりフィレオフィッシュに限るな、マクドは。

戻って、「マザッチオ」の続きを読む・・・が、
彼と彼女はさらに傍若無人にふるまっている。
ああ、プルトニウムが欲しい。
もちろん平和利用するからさあ、発電用にぃ。
仕方なく、空いてる他の席を探す。
運良く、ひとり掛けの自習席がひとつだけ空いていたので、
すかさず引越。
そこから3時間半、読む、読む。

7時の閉館前に、出て、帰路へ。
途中、荒本のTSUTAYAに寄る。
もしや、と思ってたけどやっぱり、なかなかのもの。
特にレンタルCDが、むちゃくちゃ充実してて「東大阪で一番」と
(本当に比較したのかはもちろん問われない)。
以下のCDを借りて、右手にはチャリ用ランプを点灯させて、
iPodクンは久しぶりにAcidmanにセットして、帰る。

借りたCD

サニーデイ・サービス「Best Sky」
bloodthirsty butchers「荒野ニオケル bloodthirsty butchers」
MO'SOME TONEBENDER「LIGHT,SLIDE,DUMMY」
SONIC YOUTH「DIRTY」
MY BLOODY VALENTINE「LOVENESS」


2004年02月26日(木) 結局、ミーハー

玄関を出たときは雨が降りそうだったけれど、
出町柳の駅を出たら、日差しがちゃんとしてて気持ちいい。
歩きながら頬に当たる風も、ちょうど良い冷たさでスッとする。
総人A棟の研究室について、みなさんにあいさつ、
きょうの準備を手伝う。
椅子を運んだり机を拭いたりレジュメをコピったり。
イタリアより来日中のM先生による公開ゼミナール。

「現代イタリアにおける美学思想の潮流」、
・・・サブタイトルが「美学と政治の閾」。

4時間に及ぶ講義のあいだ、レジュメは日本語だったにも関わらず、
どかの頭のなかは、クエスチョンマークが馬なり3ハロン、
ぶっとばしてたのは言うまでもない(というかもはや意味不明)。

それでもかろうじて理解できたのが、ウンベルト・エーコのくだり。
M先生にとって、あのエーコは兄弟子にあたるらしい。
それを知っただけで、ミーハーなどかはびっくりして嬉しくなってしまう。
きゃー「薔薇の名前」(って言ってもこれしか知らなかったり)!!
で、記号論の応用やファジー美学、「作品の意図」など、
代表的なコンセプトについての流れを説明されたあとで、
M先生がおっしゃったのは、


  実は、今回のゼミの原稿のエーコに関する部分は、
  エーコ自身に見てもらって、OKをもらってきたんです・・・


もうミーハーなどかはそれだけで、きゃー、すごーっ!!
またしても映画「薔薇の名前」が頭のなかで再生される。
っていっても、昔に一度観ただけであんまし覚えてないんだけど、
でも、あの幻想的な雰囲気はとても印象的、修道院が舞台だったよね
(・・・って、もいちど、観直すべきだろ、どか)。
M先生は鷹揚というイメージだったのだけれど、
話すと立て板に水という感じの切れ味を見せる人。
なんとなく、ボスの基本的な姿勢に共通する箇所が感じられた、
作者ではなく、読者ではなく、作品の意図を追求するとことか。

きょうは、みんなで軽く飲みましょうのお誘いを丁重に断る。
偏頭痛はきょうは少しましだったけれど。
昨日借りた「マザッチオ」をK特急のなかで読む。
iPodクンを、number girlからクラムボンへとスイッチする。
アヒトサンのドラムやチャコチャンサンのギターを聴きながら、
美術史の本を読むのは、不可能だもの。


2004年02月25日(水) ネオバロックとレゴブロック

目覚めた瞬間憂鬱、あ、きょうは偏頭痛な日だと思ったから。
止まない痛み、でももだえのたうつほどの痛みでも無いし、
仕方ないなあと諦めつつ、天気が良かったからチャリをこぐ。
行き先は、大阪府立中央図書館。
夕陽丘図書館や中之島図書館を併合して、
スケールアップした国内随一の公立図書館はいま、
東大阪市にあったらしい、荒本新都心地区に。

八戸ノ里の駅前を通過し、小学生の頃塾通いに使った橋を渡り、
若江岩田に住んでたころの近くをかすめて着いた荒本は、
どかの記憶とは180度、正反対の、
とってもこぎれいなスペースになっていた。
中央図書館以外にも、新市庁舎、外資のスーパー「カルフール」、
新築の高層公営マンションなど、およそ東大阪のくすんだイメージからは、
想像もつかないくらいに、お金がつぎ込まれてて驚く。
軽い、めまい。



↑モダニズム、ってかLEGOブロックを積み上げた感じの図書館の建物

とにかくでかくて、新しい。
どかが中学生や高校生の頃に通った夕陽丘や中之島の図書館と比べると、
まあ、何と明るくて使いやすくてちゃんとした施設なのだろう。
広大な敷地面積に、4階まであるフロア。
ゆったりとしたスペーシングに、充分な数の閲覧席。
居心地いいなあと思いつつ、美術史関連の蔵書を見てみる。
思っていたよりも、まともにあって安心。
日本語の著作で言えば、ICUの図書館よりもあるかも。
もちろん英語の著作は全然無いし、ましてやイタリア語の著作は(略)。
でも、贅沢言っちゃいかんね、充分じゅうぶん。

それでも偏頭痛は止まず、休憩して外に出て、
向かいの「カルフール」へ向かう、これもデカいなあ。
どかの割と好みなブランドが入ってて、
ちょっと服とか見て嬉しくなってでも、お金無いの思い出して、
しょぼんとしつつ、スタバでラテのトールを頼んで、
芝生の広場で持ってきたパンを出して食事。
戻って、CDやDVD、ビデオのフロアを散策。
閲覧席に戻って、また読み進める。

司書サンのホスピタリティも高かったし、
とりあえず、どかは気持ちよくて嬉しかった。

でも。

中之島図書館のあの、明治時代のネオバロック建築の風情を思い出して、
ちょっと寂しくなった。
美術史をひととおりやったいまなら、あの建築の意義が痛いほど分かる。
実際に使ってた高校ン時は、古くさいし狭いし何だよう。
とかのたまってた自分が、やおら恥ずかしい。
過去の歴史が現在の生活と渾然としてそこにある風情が、美しかったな。
まあ、中之島が無くなったわけでは無いのだけれど。

本日、ボス・O先生の「モランディ」を読了。

そして借りたのは以下の本3冊、ビデオ2本。

佐々木英也「マザッチオ」
ジョン・ポープ=ヘネシー「ルネサンスの肖像画」
アビ・ヴァールブルク著作集1
「サンドロ・ボッティチェッリの≪ウェヌスの誕生≫と≪春≫」

青年団「ソウル市民1919」
維新派「ヂャンヂャン☆オペラ水街」


2004年02月23日(月) 野島伸司「プライド」(第7話)

急にチェンジするギア、跳ね上がる回転数。既にそのシートに身を埋めてしまっている視聴者は、ドアから飛び降りることもできず、襲いかかる強烈な縦Gによって逆に、シートに押しつけられて身動きできない。

野島伸司のドラマに共通するポイントはいくつもあるけれど、どかは、このふいに訪れる圧倒的なスピード感はそのひとつだと思う。名作「高校教師'93」や「未成年」しかり。「聖者の行進」や「リップスティック」しかり。これまで丁寧に織り上げてきたドラマを構成する要素のひとつ一つを破砕していくハリケーンは、視聴者のなかにある、常識やモラルに囚われた幻想すらも吹き飛ばす。その果てに残るのは、荒涼とした寒々しい、けれども同時にすがすがしさを感じるミニマムなムーア。

「プライド」における、シフトのチェンジポイントがこの7話だった。いや、だったはずなのだ。だって、唯一無二絶対的主人公・里中ハルの価値観が崩れ去り、そして自分の世界も、恋人との場所も、全てを失う回なんだもん。けれども、いまいちスピード感にかける。まるで、視聴者にショックを与えることを恐れるかのごとく。細心の注意を払ってクラッチを繋いでいるかのごとく。

ホッケーを取るか、亜樹を取るか。そんなシンプルな二者択一なんて馬鹿げているけれど、仮に構造としてそう見るとすれば、ハルは前回第6話で、ホッケーよりも亜樹をとることを選ぶ。だから、ハルの崩壊は既に始まっていたのだけれど、それが進んでいくと言うことだ。ホッケーのために総てを捨てて、自分の肉体を極限まで追い込んで「氷の女神」と出会ってみろ。そう、ハルに語る兵頭に対して、


 ハル でも最近のおれ、どうかしちゃったみたいで
    生身の、すげえ温かい女にはまっちゃったみたいで
    ほんとこんな自分全然想像できなかったんですけど、
    これが案外居心地がいいんです

 (野島伸司「プライド」第7話より)


鉄壁の自己完結度を誇り、究極のニヒリズムを見せてきたハルの世界が、完全に崩れたことを示すセリフである。もちろん「崩れた」というネガティブな言葉ではなく、成長とか、進化とか、そういう形容も可能なんだけれど。でも、これまでの自己完結を破棄する代償は小さくないんだなー。このセリフは兵頭がハルについて感じていた親近感を裏切るものであり、安西コーチ亡きあとのハルの指導者・兵頭から見限られる原因となる。ホッケーが、ハルにそっぽを向くのだ。

さらにあろうことか、亜樹はやっぱり、古き良き時代の女であり、ハルが見込んだ女だっただけに、夏夫のもとに去ってしまうんだなー。これで、ハルは、これまでの自己完結の安定を捨てて選ぼうとした新しい希望も失うこととなる。亜樹(アキ)はやっぱり夏夫(ナツ)とは繋がるけれどハル(ハル)とは繋がらないのだ。

さて、あっさり書くとこうなるけれど、でも実際はこのドラマの起承転結があるとすれば、転、しかも急転直下の転であるはずの第7話、しかし、スピードは上がらない。

映像から、それだけの悲しみが、切なさが、果たして伝わってきただろうか?だめ、どかは、ちょっと、だめでした。そりゃ、ジーンとは来る。でも、この重要なギアチェンジだったら、もっと破滅的な切なさが爆発してもいいのに、全然、おとなしい印象。何より、スピード感が、皆無なのが、どかは残念やら腹立たしいやら、まったくもう。演出のせいか?

それもある。でもでかいのはやっぱり、木村拓哉サンの演技だとどかは思う。フレームアップすれば、顔を大きく抜けば、そりゃ、それなりに細かい目線の上げ下げで間は持つだろう。でも、目線を上げ下げしようとしていると視聴者に読み取られちゃったら、いくら切ないシーンでも、だめじゃん。キムタク節とでも言うべき、あの特徴的なせりふ回しは、確かに印象的だけど、今回はあんまりセリフも多くなかった。だから、キムタク節にも頼れないで、ハルという役どころの切なさよりも、キムタクという役者の手詰まり感のみがクローズアップされてしまったのではないか。

まー、あれだな、どかは「プライド」というドラマを過去のキムタク主演のドラマと比較することはしないで、ひたすら過去の野島ドラマと比較して言いたいことを言ってるだけ。野島ファンとしては今回、ちょっと辛い思いをしなくちゃなわけだけど、木村ファンはどうなのだろう。

これからクライマックスに向けて、あと3話。野島ファンも、木村ファンも置き去りにしたまま、誰を納得させようというのか。それとも、どちらかのファンを拾うのだろうか。もしくは、パット見さわやかその実ボロボロ路線を突き進むのか。どかはフジテレビドラマ部の覚悟を見定めたいと思う。

あとはおまけ。依然、ハルは亜樹と結ばれないに1票。あと意外にも、容子が終盤の鍵を握っていると思われる。予言。


2004年02月22日(日) 日本一有名なキツネ

きょうは朝から、両親とクルマで愛知県半田市へ向かう。
ウチを出る前にI-PATで馬券は購入、スーパー競馬の録画をセット。
G1フェブラリーステークス短評へ
なぜまた愛知かと言うとどかのいとこのY姉チャンに
二人目の子供が生まれたので、そのお祝いがてら。
というか、どかは一人目の女の子にも会ったことが無かった。
東京にいてほとんど大阪に戻らなかったし、
そもそもY姉ちゃんとご主人はずっと愛知県にいたから仕方ないけど。

ホントはどかが運転したかったのだけれど、
保険の関係でどかはハンドルを握られない、ちぇ。
まあそんなわけで後ろの席でずっと寝てたのだけれど、
親父はその間、かなりすっ飛ばしていたらしい。
どかが乗っていたマーチくんには、
ひっくり返しても出せない速度で(おかん談)。
さすがと言うべきか、あうでークン…。

半田市に着いてうな丼を3人で食べた、普通に美味い。
そして、先方のお宅に到着。
叔父叔母と、Y姉ちゃん夫婦と、その娘であるところの、
Kチャンと、まだ赤ん坊のSチャンにご対面。
Kチャンとも初対面などか、Y姉ちゃんとそっくりで、
思わず笑ってしまう、いいなあ、血だなあ。

おかんが、私も孫の顔がはやく見たいわーなどと、
弱酸性のイヤミをこれみよがしにぶつけてくるので、
すかさず、Kチャンとにらめっこして遊んで窮地を脱する。
まだ1歳と10ヶ月、この子はきょう、どか「兄さん」と遊んだこと、
覚えてないんだろうな、将来、ちぇ。
また、ベッドで寝てるSチャンの小さい手、
その指、その爪の精密さに驚嘆する、すごいなあ。
こんなに、か弱い存在なんだあ。

その後、そのお宅から3kmほどの距離にある新美南吉記念館へ向かう。
「ごんぎつね」「手ぶくろを買いに」の2つは、
小学生の国語の教科書で読んだこと、当然覚えてる、懐かしすぎる。


↑「新美南吉記念館」地面に埋まってる建築、うねる芝生な、屋根

こじんまりとした展示内容だったけれど、
でも、すっごい良かった、というか、感動したどか。
こういう作家の記念館って良くありがちだけど、
でも直筆の原稿とか見ても、何だかなーっていままで思ってたけど、
ここは、良かった。
ビデオシアター、スライド、ジオラマなど、
よく吟味されたメディアを駆使して、
対象来館者の子供と、その保護者のどちらをもカバーできる展示方針、
そしてそれらが全て、成功しているとどかは見る。

特に良かったのが、童話の代表作のジオラマ。
それぞれ6つ程度の場面に区切って、
それぞれを小さなセットと人形で再現。
キャプションで童話の各シーンのあらすじをつけるという手法。
思わず、ひきこまれたもんな。

ってか、きっと「ごんぎつね」とか「手ぶくろを買いに」という名作が、
小学生のころに刷り込まれているのが絶対大きい。
ってか、どかも見ながら、また、涙がこぼれる。
あのストーリーは、やばい、切なすぎる。
切なすぎて、小学生には、まだ、早いんじゃないの?
とか思うくらい。

ともかくも、この「博物館」は素で素晴らしい、ヒットだ。
いかに日曜日とは言え、小雨煙る2月の寒空の下、
かなり不便な立地条件にもかかわらず親子連れ、
そして老夫婦など、幅広い来館者で結構混んでたもん。
偉いと思う、学芸員、いい仕事してると思う。

新美南吉は結核を患い29歳で死んだらしい。
ちょ、ちょっと、ちゃんとどかもがんばろうと心に刻むことにする。
刻みつつ、刻みつつ、帰宅してVTRをチェックするどか…テヘ。


G1フェブラリーステークス

大本命アドマイヤドンは単勝オッズ1.4倍。
このレースのあと、3月にドバイワールドカップへの出走が決まっている。
きょう実況が彼につけた枕詞は「日本代表」、なるほど。
鞍上アンカツも含めて、どかはドンは鉄板と見る。
馬連でドンから、3頭に流す。
シャドウスケイプ、タイムパラドックス、スターリングローズ。

レースはスローペース、馬群はかなりごちゃつく展開。
府中の長い直線、ヨーイドンなラスト3ハロン。
ドンがなかなか抜け出さない、ぎりぎりまでアンカツ我慢。
ひとりになるとソラを使うクセを考えたらしい、さすがだ。
見ていても、あんまりドキドキしなかった、着差以上の圧勝だ。
2着は最後追い込んできた、サイレントディール。
3着がスターリングローズ・・・惜しかった。
でも、アドマイヤドン、格好良かった、
横綱相撲で、見応えのあるレースだったかと思われ。


↑「…おい、テヘじゃないだろ、どかっ」(byごんぎつね広場の彫刻)


2004年02月21日(土) 入れ替わりなヒト

バイトから帰ってきて、ちょっと気を抜いてうたた寝。
起きて、もう時間無いっ。
と焦って家を飛び出したら、まだ空気は暖かくてホッとした5時。
待ち合わせまでに、タワレコとジュンク堂に行きたかった。
難波のジュンク堂に着いて、
大島弓子の「秋日子かく語りき」を探すけど、見つからない。
CDショップにはクラシックコーナーがあるのに、
本屋のマンガブースに普及の名作コーナーがないのはなぜ。
それがサブカルの悲しさなのだろうか。

大島弓子を諦めタワレコに行く時間も無く、
そのまま近鉄の改札まで戻って、Mクンと落ち合う。
彼は15分遅刻、どかは待つことに慣れている。
違うな、待つことが宿命づけられている。
Mクンは以前日記にもつけたけど、ヨークに一緒に留学してた、
大学ン時の友人、いま博士論文を提出して就職も決まって、
ちょうど、どかと入れ替わりなタイミングのヒト。

なんばパークスに行きたい。
と、どかがまず希望を言い(何かデートみたいだ、どかが女の子役で)、
ああいいよ、そうしようとMクンはナビしてくれる。
旧大阪球場跡地、懐かしいなあ、もう、球場ってばどこにも無いの?
前にここにあって良く来た、あのボーリング場は?

着いてみると確かにこじゃれてる。
うそっぽーい、自然と、うそっぽーい、空間。
全部が一様にうそっぽーいから、それはそれで均一性や一貫性を感じる。
六本木ヒルズと比べて、どうよ?
とか思ってたけど、さすがに六本木とはスケールが違いすぎ。
向こうが「都市」規模だとすると、こっちは「集落」規模ね。

ブラッとして、食べ物屋を探すけど、イマイチどれも。
それでMクンが鞄から難波食い物マップを取り出し、
チェックを入れてくれてたページを一緒に見る
(ホントにマメだなあ、いい彼氏になりそう、このヒト)。
ブラジル料理店は?と奨められて、
いやーちょっとここで勇気は使いたくないかも。
と、弱気保守的末っ子どか。

で、強気挑戦的長男なMの性格とどかの性格の対比について、
ダイアローグしながら代わりに見つけた心斎橋の洋食屋さんを目指す。
戎橋などを通り、人混みにうんざりしつつ、
人混み感で新宿を思い出す。
着いたのは「ばらの木」という、カウンターしかないけど、
イイ感じで古くささがある、馴染みのお店という感じ。
どかはドライカレー(大盛り)と本日のスープ。
Mクンはハッシュドビーフと本日のスープ。

ご飯を待ちながら、彼のデジカメの中の画像を見せてもらう。
いまは広島にいる、Tクンの画像が少し。
ヨークに行った連中って、社会適合率、低いよねーって。
指折りしつつ笑いながらスープを飲んだ。

美味しかった。
うん、いい店だ。

そこを出たあと心斎橋のタワレコに行き、
どかはブラッドサースティ・ブッチャーズのライヴ盤を買うかどうか迷い、
試聴したいなーと思いながらそれもかなわないので、
ちょっと、諦める、社会人時代なら迷わず買ったけど。
チャラの新譜(昔の名曲を再度録りなおしたやつ)が店内でかかっていて、
かなりクラッと来た、すごい、良かった。
でも、買わない。
なぜなら、それが、CCCDだから。

そのあと、御堂筋沿いのタリーズに入って、コーヒーをのみつつ、
まったり、彼の家捜しとか、どかの家捜しについて話す。
久しぶりに会うけど、まったく変わらない空気。
そんなもんだ、友達って。


2004年02月20日(金) ルサンチマンとアンセム

陸上部で一緒だった友人Oから、夕方、電話。
いま天王寺に来たけど、飯でも食わへん?
食事の準備を始めてるおかんに確認してから、
ああ、ええよ、出るわ。
iPodクンだけ装備して、
ヒロミチのジャケットはおって向かうは鶴橋。

改札で落ち合って、さて。
どかの提案で風月でお好み焼きを食すという方向に。
ふむ、それで、どっちだっけ?
ま、見つかるやろ。
と、2人で鶴橋の路地を行ったり来たり。
そして例によって分かる人には分かる、
あの、焼き肉のすっごい煙と匂い。

この匂い、懐かしいよなあ。
ああ、懐かしなあ、何というか…。
何?
いや、もう高校ン時のルサンチマンというか。
えー、ルサンチマンかなあ、オレ的には、
ン?
んーと、青春のアンセムって感じ?

と、訳が分かるようで全然わかんないんだけど、
実は、結構、分かるでしょ、的会話をしながら、
行ったり来たり。
焼き肉とか串焼きの匂いが、どんどん空っぽの胃を刺激し、
辛いなあと思ってたら、あ、発見。

鶴橋風月本店の2階で、ビールと酎ハイでカンパイ。
豚玉と、エビ玉と、ゲソの塩焼きと、
塩そば(塩味の焼きそば)を頼む。
女の子の友達紹介するとどかに言っといて、
まったくなしのつぶてのKの話題が出て、
速攻その場、彼奴にメールで攻撃。
あとは、何となく、京大の彼のゼミの話や、
彼がいま取りかかってる西表島の訴訟の話や、
お互いのホームページの話や、なんやかや。

…お腹、いっぱい。
食べ過ぎた。
Oはそのまま、環状線に乗って京都へ帰る。
どかはそのまま、近鉄に乗って実家へ、帰る。


業務連絡:某研修医のKクン、至急どかへ連絡されたし (>_<)q


2004年02月19日(木) よしもとばなな「デッドエンドの思い出」

手元にレシートが残っていて、これを買ったのが[2003年09月12日]だから、半年近くかけて読んだことになる。新大阪の駅の書店のレシート。確か、入試のために帰阪してそれでまた東京に戻るときに買ったんだ。

短編が5つ、収められていて、一応帯などには「ラブストーリー」と記されている。でもどかは「ラブストーリー」とは思わなかった。いや、もちろん出発点は恋愛なんだろうけれど、作家が書きたかったのは、それが終わったあとのことや、それの先に突き抜けたときのことであって。つまりそれは「奇跡」と言うこともできる瞬間だ。5編の短編の共通項は「ラブストーリー」と言うよりも「奇跡」と言ったほうが通りがいいものだ。

「奇跡なんて起きっこない」という言い方は、「奇跡はかならず起きる」という言い方と同じくらい、ホントで、ウソだ。それで、ちゃんと言えることを探すとすれば、こうなる。「奇跡」とは、


  ただ、予測することだけが、できないのだ

  (よしもとばなな「デッドエンドの思い出」より)


触れたら壊れそうな、けれども確かに質量を持って存在する、このデリケートな時間の淡い色彩を再現することのみに、作家の才能と努力は傾けられていると言っていい。これまで、このテーマは一貫して変わらなかった。けれども「キッチン」でドラマチックに始まった作家のキャリアを通じて、長いスランプを経験しつつも、より確実にこの色彩の再現を達成できるようになってきているとどかは思う。

そして、鳥かごの中に留まっているだけの鳥よりも、多分、そこから飛び出してしまった鳥にこそ、この瞬間が訪れるチャンスが少しだけ多く割り当てられているらしい。そしてどかが信頼しているこの作家の誠実さとは、この「チャンス」を「幸福」と決して混同しない点だ。鳥かごから出ることが決して「幸福」に繋がるわけではない、というラインをあくまで固持し続ける誠実さこそ、どかが一番、好きな点。<誠実さ=冷酷さ>なのかも知れないけれど、ならば、その一貫して変わらない、彼女の作品のヒンヤリ感が、どかは大好きなんだと思う。

鳥かごの中と、外。このイメージを、グッと心理的内面の世界へと押し出して描ききったことが、今作の、特に本のタイトルにもなってる5つ目の短編「デッドエンドの思い出」の大きな成果だとどかは思う。抽象的な言葉遊びに陥らず、表層世界の軽薄さに堕すことなく。「自分に眠るそうした恐ろしいほうの色彩」というフレーズはすごい正しさだなあとどかは感心した。正しさとは、善悪の善という意味ではもちろん無く、真実の真という意味でも無く、正確の正という意味で。

そうなのだ。この宇宙の広がりよりも広い空間が自分の中にはあって、それをスッと下の下まで眺めていくことの何と怖いことなのだろう。できれば誰しもそんな深さに気付かないで済ませられる人生を選びたい。なぜって、それに気付くことの、何と寂しいことなのだろう。でもでも、ある種の人はそうせざるを得なくなってしまう。むりやり、底なし井戸の淵に立たされる。吸い込まれそうな漆黒の闇の、ソリッド感に打ちのめされてしまう。でも、それに気付くと、日々のスペースが、グッと広がる、奥行きが、得られる。フラットな2次元の世界が、パースペクティブのある3次元の世界に変わる。そのダイナミズムが、フッと身体を軽くする。

この「フッ」が、どか的に言えば「奇跡」なんだろうなと思う。これまでのよしもとサンの短編集は、出来にばらつきが激しかったけれど、これはどれも「正しい」な筆致で素晴らしい。2つ目の「おかあさーん!」は、よしもと作品で一番、どかが号泣した作品。そして「デッドエンドの思い出」は、確かに作家自身の愛着も頷けるほどの、キャリア中ベストの作品だと思う。

蛇足だけれど「デッドエンドの思い出」に出てくる西山くんにはかなり驚いた。どかがずーっと目標にしてた架空の人格が、そのまま、具現化して目の前に表れたような焦燥感(笑)。そう、こんな男の子に、どかはなりたいんだよなあ。こういう<モデル>を提示することって、大江健三郎が前に言ってたけど、小説の重要な役目のひとつだと思う。

かつて野島伸司が自ら陥り、そして突き抜けていった「情緒レベルによる選民思想」が、最も穏やかな感触で敷き詰められてはいても、どかは先に述べた「誠実さ」と「ヒンヤリ感」にかけて、よしもとばななを支持するものである。


  自分がとらえたいものが、その人の世界なんだ、きっと

  (よしもとばなな「デッドエンドの思い出」より)


2004年02月18日(水) テクテクテク、テク

近鉄西大寺まわりで、地下鉄烏丸線今出川駅に朝10時前に到着。
烏丸今出川の交差点のモスバーガーでカヘラテを飲み、
ひと心地ついてからゼミの先輩Sサンに電話、
堀川中立売の交差点までナビしてもらい落ち合う。
そこから、紹介していただく大家さん家までポチポチ10分。

大家さんはとても気さくな言葉の多い方。
鍵を貸してもらってSサンと2人で部屋を拝見。
きょうは4階の北側の部屋を見せてもらったけど、
じっさいどかが入居する(としたらだけど)ころには、
3階南側の部屋が空くとのこと。
新品とはいかないまでも、そこそこな部屋の佇まい。
京間6畳にキッチン別、ユニットバス、エアコン付き。
とても静かな環境、近くにスーパーもある、
吉田キャンパスまではチャリで15分ちょい。
大家さん宅に戻る、Sサンは来週のM先生のゼミのレジュメ作成で、
けっこうテンパッてるらしく、ここでいったんお帰りに。
大家さんと、具体的な条件を話す。
外国人留学生もたくさんいるアパートで、
彼ら彼女らとのトラブルや思い出あれやこれ。

先週まではほぼ下宿はあきらめていたけど、
少しだけ悩むことにする。
やっぱ経済的に大変。
そう正直に伝えると、とてもディスカウントしてくれる。
悩むなあ、どうしよう。

それから再度Sサンと落ち合って近くの中華料理屋サンで昼食。
ゼミの近況や、これからの生活リズムの確立についてなど、
本当に親切にいろいろ教えてくれて、ありがたい。
Sサンは研究のためにも下宿すべきだと主張、むむ。

それからひとりで堀川中立売から、堀川今出川、烏丸今出川と歩いて、
途中でバスに乗ろうかとも思ったけれど、
ごっつい天気が良くて風も心地よかったし、
iPodクンからはくるりの「♪ハイウェイ」が流れてくるし、
どこまでも歩いていけそうな気がしたから御所とか同志社大学を横目に、
テクテク歩く、テクテクテク、キャンパスまで、テク。
鴨川まで歩いて、ちょっと、きうけい。


↑キラキラ川面の鴨川と、どか


2004年02月17日(火) 松本大洋「ナンバー吾(5)」

しかし、松本大洋はどこまで行くのだろう。大洋作品について考えるとき、どかはいつも、こんなとまどいを覚えてしまう。既に批評とか感想とかそんな付随的なテキストを受けつけないほどに、強度を持った表現スタイル。サブカル万歳だなんて、言うつもりは毛頭無いけれど、いま例えば文学で、大洋の作品ほどに革新的かつ完成度の高い作品があるだろうか?

5巻は、虹組メンバーきっての武闘派、ナンバー参(No.3)とナンバー吾(No.5)のバトルがメインプロットである。この筆致が、またおそろしい。もはや表現主義の領域に入っている。溶けていく輪郭、混ざり合う光と影、この世の形象はすべて崩れていき、代わりに浮かび出てくる感情や意志、形にならない、大切なこと。写実を超えた写実、というのか、太いペン(もはや筆を使っていると思う)で感覚的に撫で付けられた線に、無造作に隣に置かれるハイライトのホワイト。丸の内風な無菌っぽいキレイさは皆無だけれど、熊野古道を取り囲む原生林の混沌とした荘厳さが感じられる。それこそ、表現主義。

そして整理されて研ぎ澄まされた淡泊なネーム。余計な説明的セリフは皆無。けれども確実に世界観が展開していく。その世界観、もしくは展開するプロットについて、どかは語る言葉を持たない。持てない、とても。きゅうりの味について説明してくださいと言われて「…きゅうりです」としか言えないのと同じ。それは、それなのだもの。

例えば、ストーリーの背景を説明すると…。いまからずっと先の話。傍若無人の限りを尽くした人類は、地球上の生態系を崩壊させた。軍はその混乱の中秘密裏に研究を進め、創り上げた完璧な存在に人類の進むべく指針を仰ぐ。しかしその建前とは別に、研究者は自らの興味本位に研究を続け、そうして作り出された人間で構成されたのが平和隊。その上位9人のメンバーを虹組と名付け、メンバーはお互いをそのNo.で呼び合うことを好んだ。そして時のナンバー吾はナンバー王(No.1)に反抗して、女をさらって逃亡する。…ということになるのだけれど。

うーん、難しいけれど、テーマを敢えて言うたれば「さらなるアドバンス」として生きる虹組メンバーの悲哀、「アドバンス」なんて決していいことじゃない、狭い小さい古い不便な、そういうものが全ていいわけじゃないけれど、「アドバンス」の強さは辛さと裏表。と、いうことなのかな。そう理解すれば、なるほど、これまでの大洋作品、例えば「ピンポン」や「鉄コン筋クリート」などと重なってくるかな。5巻まできてようやくイメージを持つことができてきた。

それはそれとして。ともかく、この巻はナンバー参とのバトルシーンの筆致のすさまじさにつきる。もともとすさまじく意志的主観的線の強さを宿した画風だったのだけれど、一段階、完全に進んだレベルに達している。きっと、この絵は「乱れすぎだ」と拒否る読者も出てくるかも知れない。印象派に慣れた20世紀初めのヨーロッパの人たちが、表現主義を揶揄ったように。優れた才能と新しい表現は、大衆に究極は受けない。大衆を安心させることができないからだ…。

こんなふうに才能の話になると、いつも息苦しくなる。それはつまるところ自分に、才能がないから。けれども、本当に辛いのは、才能が、本当の才能を持っているヒトが、本当に、辛いのだ。


  ヤギドリが草をはむ所まで下ると、春が来たことを感じる
  ハチはどうして花に蜜があることを知っているのかしら
  鳥は誰に飛び方を教わるのかしら
  あの山の向こうには何があるのかしら?

  (松本大洋「ナンバー吾」5巻より)


うーん、いいよね。こうやって、何気なく抜き出したネームすら、それだけで読者を震撼させる響きを宿している。そして松本大洋はきっと「山の向こう」を見てしまったことをいま、後悔して、そして後戻りできない自分の運命を嘆き、そしてその悲しみを勇気を持ってマンガにしているのだと、どかは思う。

どかはいつか、ちゃんと、本当にちゃんと、大洋作品についてきちんとしたレビューが書けるようになりたいなあと心底思うのであります。


2004年02月16日(月) 野島伸司「プライド」(第6話)

今回はできるだけあっさりと、どか、書く。

第6話、ようやく持ち直したね。やれやれ、良かった。面白かったと思います。

ってか、第5話のゲストが風間杜夫で第6話が松坂慶子…。か、蒲田(映画)ですか?と、びっくりぎょうてんぱーなどか。その伝でいけば第7話は絶対、平田満だ(爆)。ま、それはおいといて。

テーマは母性だ。ついに登場する、ハルの母親(松坂慶子)。姿をあらわした彼女は、しかし決定的に母性を欠いている。薄っぺらい演技だなーと思ってたら、そういう設定なのだ、狙った薄っぺらさはさすがな演技だ松坂慶子。で、その母を巡って、ちょっと、キレイな場面、2つ。

ひとつ。ハルに「もうあのヒトに会わない方がイイ」って亜樹が言って、ハルがキレるシーン。ハルが出てったあとの、亜樹の涙。良かった。竹内サン、いままででベストだ。泣くの下手だった前回の坂口クンとは雲泥。別にハルに冷たく突き放されたから辛かっただけではない。ハルの母親には勝てないという空しさだけでもない。結局、ハルがかわいそうで、かわいそうで哀れでならなかったのだ、あの涙に、自分は入っていない。この時点で視聴者はまだ「真相」を知らないのだけれど、でも、あの涙の美しさに、悲劇の予感は漂っていた。演出も、良い。

ふたつめ。ハルが母親を見送るシーン。ついに自分は「母親」を得られなかったという絶望にまみれながら、何とか、母親に買ってもらったマフラーを彼女にかざして、微笑むシーン。木村サン、これまででベスト。良かった。確かに、格好良かった。カッコいいのは、こういうことだ。第5話までのハルじゃあ、無い。

そして、ハルは亜樹こそが自分を包む「母性」を持っていたと知る。


 亜樹 かわいそう、ハル
    きっと男の子はママで泣き言聞いてもらう練習するのに
    ハルは、それができなかったのね
    私がハルのママだったら、いつでも聞いてあげたのに
    そしてあなたを悲しませる、
    ありとあらゆるものから守ってあげたのに
    かたときも目を離さず

 (野島伸司「プライド」第6話より)


ハルは亜樹にしがみついて「初めて」泣く。そして、愛していると告げるのだけれど。でも、ここにあるのは恋愛感情ではないのも明らか。ここには、亜樹からハルへの母性の発動と、ハルから亜樹への母性の欲求があるのね。別にだからといって、悪い訳じゃない。いや、むしろこのリアリティと説得力を、野島サンはライフワークで大切にしてきた。「高校教師'03」で出た結論とは、

 [ I Love You ≦ I Need You ]

つまり、恋愛感情よりももっと別の感情をこそ、大切にすることへの希求だ。容子がハルに語って聞かせた「優しさを求める女はダメよ」発言も、全て、結局、母性へと集約されていく。惜しみなく自分を犠牲にしていく精神、つまりイコール古き良き時代の女ということになる。

さて、これからが大変。亜樹の彼氏がアメリカから戻ってきそう。つまりハルと亜樹を繋ぐ「母性」に対して、亜樹と彼氏の間の「恋愛」が攻勢に出る。より、展開をスピードアップしてくれることを、期待したい。

そしてどかは、やっぱり、ハルと亜樹は結ばれないと思う。だって、春と秋は、繋がらない季節なんだもん。その2つは似ているけれど、でも、時間的にも、そして本質的にも、結ばれることは無い。と、思う。これが野島ドラマならきっと、そうなる。一応、予言。


2004年02月15日(日) G3きさらぎ賞

朝から玉川大の通信教育部の科目試験。大阪会場は、大阪城北詰駅からすぐの大阪私学会館。これがどかの最後の科目試験(でなくちゃいけないの、お願い…)で、「民俗学」と「考古学」。去年の夏のスクーリングで同じクラスだったMサンから、今回の予想問題を伺い、その周辺を割合重点的に対策準備して臨む。

…したら、ドンピシャ!…か、神なのか、Mサン?いやー、データは扱うべきヒトが扱って初めて有効なのですね。勉強になります。

そんなおかげで、わりあいスムーズに書き進められたし、おそらく、試験で落とされることは無いかと思われ。ただ、レポートがなー。実は、先週はそれで、かなり痛い目を見ているどか。うう、思い出したくない。ってかさあ、大体さ(略)。

ともかくも試験が終わった。この、開放感!何歳になっても、テストが終わったあとの深呼吸はいいものだ。空気が少し甘い感じがする、この懐かしいトリップ感。さて、というわけでどか、初めて京都競馬場、通称ビッグスワンへ向かう!きょうはG3きさらぎ賞!これまでスペシャルウィークやナリタトップロード、そして去年の2冠馬・ネオユニヴァースが勝ったレース、クラシックへ確実に続く大切な重賞レース。そして今年の主役は、3歳牡馬最高の血統と名高いブラックタイド!競馬場の雰囲気、世界の果てみたいな行き止まりの、でもぐるぐる渦巻くバイタリティが感じられて、嬉しかった「そうそう、これこれ」。


↑京都競馬場は馬場内に入れない、そこには白鳥が羽を休める湖があるから

で、どかは京都6Rから参戦したのだけれど、ダメダメだった。もう、全くダメ。有馬以来、一月半のブランクで勘が鈍っているのかしらん。うん、きっとそうだわ。京都1ORの北山Sはサンデー産駒、幸サン騎乗のクワイエットデイから武豊騎乗のクラクエンリーグへの馬単で勝負するも、きれーいにクワイエットディをクラクエンリーグが差しきって1着2着、反対で負け。武豊、恐るべし。でもね、ちょっと違和感を持ったんだよね。メインレース前での武の好騎乗は、メインでのポカの前兆…って。

北山Sのショックを振り切って、パドックへ走る。ブラックタイドを生で観るために来たんだもん。今年の3歳牡馬の中で、断トツの支持率。言うたれば競馬界の「横浜高校松坂くん」。で、ヒトが鈴なりのパドックで、彼を見た。

すごいと思った。素直に圧倒された。しなやかで力強い歩様。毛並みの色つやも良い。落ち着き払った穏やかな気配。そしてそれらの特徴がまとまって醸し出すムードは「大物感」としか言えないものだった。歩様がさあ、かっこいいんだよう。柔らかくて、でもふにゃふにゃしてるわけではなくて、ミケランジェロのダヴィデみたいく、こう、静かな雰囲気から放射される圧倒的な躍動が、あるの。流星も形が良くてかっこいいなあ。あとはマイネルブルックも力感を感じた、でもちょっともったりしてるかな、と切る。


↑返し馬でのブラックタイド、鞍上は年間200勝男・武豊

京都11R・3歳混走・芝1,800M・G3きさらぎ賞…

馬券はブラックタイドとアンカツ騎乗のタマモホットプレイの2頭を固定の、3連複4点流しで、ハーツクライ・カンパニー・シルヴァーゼット・オレンジワールドへ流す。自信あり。きょうはこれまで勝ってないし、そろそろ獲ってもいいころだ。ブラックタイドは単勝1.4倍の圧倒的一番人気。むしろどかの気がかりは2着3着・・・、発走!

わりかし速い流れになる、タイドは6番手あたりの好位に着け3角の坂の頂点辺りから徐々に進出、4角出口で芝状態の良い外に持ち出して4番手ほど。絶好、良しそこからっ!期待を背負った武豊、鞭を入れるっ。

タイドはするすると伸び始める、が、後ろをずっとマークしていた藤田騎乗のマイネルブルックがすかさず内から馬体を合わせる、鞍上、追う。するとブルックはタイドに半馬身先行、武も負けずに追う、追う…。どかはこの時点でも全く安心しきっていた。2頭が、加速を続けて、後続が遅れて…。どかはゴールまで150Mほどのところで見ていたのだけれど、目の前を駆け抜けるときも、まだタイドは追いつけない。

差せ、タイドー!差せ差せーっ!!

とどか渾身の力で叫ぶも、ついに、追いつけず、タイド…2着。ああああ、あっと言う間に紙くずになる、手元の馬券。

評論家諸氏は、今回でタイドを見放したような論調を展開。曰く「クラシックを勝ち負けできるレベルでは無いだろう」。でも武豊は自身のWEB日記で「ブルックは強かったけど、タイドはまだギアをひとつ使っていない」。と書いた。どかは…、パドックで自分の目で確かめた彼の華を信じたいから、確かにあのとき、他の馬には無いムードが彼にはあったから、後者の論調を支持したい。

どかは、2004年度牡馬クラシック戦線、ブラックタイドを応援します(牝馬は…、ダンスインザムードかヤマニンシュクル、かな?)。


2004年02月14日(土) バレンタインデーに

朝は明日の試験勉強を少しやって、昼から、
京都の烏丸御池に向かう。

もちろん、女の子とスタバで待ち合わせをして、
美味しいチョコレートをもらって、
冬の京都の町を散歩しながら手を繋いで「温かいね」。
と言葉を交わし合うためなどでは決して無く、
ボスの講演会を聴くためね、あくまで。

ジョルジョ・モランディについての著作が刊行されたばかりで
(吉田秀和賞を取ったんだって、すごい)、
その著作の内容に則った講演@某文化会館。
イタリア語のクラスを受講しているのだろうなと思われる、
中年の上品な女性が客席に多数、ときおり、学生風の若い人。

去年の関西学院大学で参加した学会のときは、
立て板に水で、ダーッと猛スピードで論旨を述べるというイメージなボス。
でも、今回は、けっこうゆったりゆっくり。
ときに、詰まったり、間を取りながら。
最初、あれ? と思ったけど、でも客席が違うもんな。
美術史の研究者相手と違って当たり前だ。
ユーモアも交えながら上手に聴衆との距離をコントロール。
上手いなあ。

言葉は、努めて平易に分かりやすくしてたけど、
内容はけっこう難度高かった気が。
フォルマリスム批評やモダニズムの言説などが下敷きになっていて、
その前提の説明に心を砕いていたボスだけれど、
みんな、普通に理解しているのかしらん。
ってか、どかは普通に刺激的でおもしろいと思ったのだけれど、
そのレベル…って。

スライドの取捨もさすがに洗練されていて、
しかもいま、どかが読み終えようとしている著作に載っとった講演だから、
記憶も新鮮なまま、すごい興味深く聴くことができた。
「マッチョなモダニズム」に対する、
「ささやかなモダニズム」という概念には共感せざるを得ない。
ボスの一貫した姿勢には、どかに一番欠けている「開示性」があり、
いろんな話を聴いたり本を読むにつけ、どかは落ち込んでいたりする。
でも、だからがんばらなくちゃとも思えるので…がんばろう
(なんだそりゃ)。

ちなみに、ゼミの先輩のSサンが、来日中のM先生に対して、
日本語でなされたボスの講演をイタリア語に同時通訳していて、
度肝を抜かれた。
あ、あれって、もすこししたら、どかの役目?

ありえないから、そんなの!
だって英語でも大変なのにい。


2004年02月09日(月) 野島伸司「プライド」(第5話)

野島伸司という脚本家の存在意義って何だろう。それはやっぱり「とことんまで突き詰める」ということだと思う。生活の実際を覆っている皮相的な局面を突き抜けて、ギリギリの本質を、まぬがれない対立を、露わにしていくスピードと鋭さにこそ、野島サンの脚本家としてのアイデンティティは求められるはずだ。

それはきっと「洗練」という形容ではなく、むしろ「朴訥」がふさわしい。「陽光に包まれた野原」という風景ではなく、むしろ「荒涼と寒々しいムーア」がふさわしい。そして、「温かい羽毛布団」のイメージではなく、「冷気漂う刀身の影」がふさわしい。これまでの彼の代表作を見てみても、いくら涙に濡れる感動シーンがあったとしても、それは心を締め付けるような残酷な事実が、単純に生きるの死ぬのを超えた、観念的レベルにおける残酷な事実が、観客の心に織り込まれているからこそ成立したのである。「とことん感」が野島ドラマの肝であり、「深度」こそがアイデンティティなのだ。

翻ってこの月9を見てみると、「とことん感」も「深度」も、ほとんど感じられない。はじめの2話ほどは、まだ仕方ないかなあと思いつつ見てきたけれど、ちょっとしんどいなあ。のっぺりした平板な現実世界に、ハーケンのような真実を打ち込むスピードや切れ味が、全く書けている。言葉の上滑りが止まらない。

木村拓哉の拙い(暴言多謝)セリフ術のせいだけでは、ないかも知れないもはや。TBSの「高校教師'03」は、野島ファンのあいだでも賛否両論あったけれど、どかは傑作だったと思う。野島サンの打ち込んだハーケンは、確かに余人の手の届かない高みにあるのかも知れないが、目をこらせばちゃんと視界に入るものだった。その絶望の岩壁に打ち込まれた、角度とシルエットは、視聴率には測れない美しさがあった。

でも、「プライド」は美しくない。美しい俳優と女優を集めていても、美しい特殊効果を入れても、美しくない。ハーケンが、刺さらないからだ。すべて、底知れぬ谷底へと、落ちていくばかりだからだ。セリフに込めた野島サンの志が、弱いからだ。かほどに月9の縛りは厳しいのか。フジから厳命された視聴率とは、そこまで絶対の至上命題なのか。

第5話は、おそらくこれまでで最もシリアスなテーマだったはず。故意ではないにせよヒトは罪人となること、それにどう向かい合うのか、生きる道は自己の内にあるのか、それを他人へと求めていくしかないのか。救いとは、何なのか。主観の欺瞞と客観の非情。そんな良い意味で野島的なテーマなのに、それを持ってくるときの設定があまりに突飛で、つまり坂口クン演じる大和の過去のエピソードが浮きすぎてちょっと、距離感がありすぎる。ドラマの脚本に関する最も初歩的なレベルで、これはお粗末とすら言えるのではないだろうか。

唯一、脚本家がこの回に煌めきを見せたのが、「プライド」というドラマの隔世感と、木村拓哉という俳優の演技の隔世感を、逆手にとってメタ的に上記テーマへとうっちゃりを決めた点だ。むかし自分がバイクではねて死なせた少年のことで苦しむ大和を、ハルはジョギングに誘い、最後に事故現場へ来る。取り乱し錯乱する大和に向かってハルは、それでいいんだよ、と言う。弱音吐けよ、人間ってそんなもんだろ、自分を生きろよ。このチープなストックフレーズは、しかし効果が無い。大和は「ダメだよ、ハルさん」と言いその場を立ち去る。うーん、ずるい。恥ずかしさを逆手に取るんだもんな。「ダメだよ、ハルさん」はまさに視聴者の心の声(そしてキムタクへのダメだしの声だ)。

その後、風間杜夫が登場!死んだ少年の父親役として出演、大和を許してやってくれと訪ねたハルの前で、未だわだかまりを持っている妻を諭すシーン。どかは、不覚にも泣いちゃったけど、敢えて、断言したい。私は野島サンの脚本に泣いたのではなく、かつての「つか十勇士」のひとり、木村伝兵衛や倉岡銀四郎を務めあげた、生粋のつか役者・風間さんの演技に泣いたのだ。


  父  細かいことつべこべ言うつもりは無いし、
     いままでもこいつにそんなこと言ったことはない
     だけどな、お前に一度だけ言っとく
     ゆるしてやりなさい
     
  母  お父さん…

  父  これは亭主として最初で最後の命令だ
     古き良き時代の亭主としてのね
     君の決めゼリフ、使っても良いかな?

  ハル え…あ、どうぞ

  父  めいびー!

  ハル ... May be...

  (野島伸司「プライド」第5話より)


ここは、確かに恥ずかしいのだけれど、でも風間サンの演技で奇跡的に救われていたとどかは思う。特に「ゆるしてやりなさい」の響かせ方は、本当にすごい。「めいびー!」も良かった。木村サン、あの風間サンと一緒に演技して何も思わないのかな。

第6話から、ようやく物語は動くらしい。ここまでの話は、いったいなんだったんだ、まったく…。あの野島サン特有のスピード感が、戻るのだろうか?不安のが大きいどかだった。


2004年02月08日(日) 大阪城梅林

どかがバイトから戻った日曜日の昼下がり。


 父親 おい、ちょっと大阪城行こか
 どか えー、おかんと2人で行ってきいや、ボクええわ
 父親 そんなこと言わんと来いや、ええから
 どか 何? 何しに行くねんな?
 父親 うめ、梅や


と、言うわけで両親のデートになぜかくっついていく出戻り息子約一名。
大阪城は久しぶり、空いてたし気持ちは良かったなあ。
鉄筋コンクリートの上物は大したこと無いけれど、
大阪城は礎石、石垣は大したものだなと再認識。
桃山の息吹を感じるどか。



↑とにかく大きい、かっこいい







↑早咲きの梅 X 3、もう一度今月末に来たいなあ

中国人のガイドさんが張り上げる中国語が、
冬の乾いた空気にキンキン響いて、
大道芸人のアメリカ人のおっちゃんが、
一輪車のりながらキャアキャア叫んで、
全て世は事も無し。


2004年02月07日(土) ちょっと待って、神様(〜最終話)

果たして、人間は成仏できるものなのだろうか。毎日悔いがないように生きよう。いつ死んでもいいように毎日一生懸命生きよう。そう思っていて、真っ直ぐそれを実行して。さて、いざ京本政樹風な神様が「お迎えに来ました」と側に立っていたら、自分は躊躇せず「はい」と言えるだろうか?

自分は大丈夫!って思っていても、きっと、難しいことだよ。悟りを開いているといないとに関わらず、きっと、大変だと思うの。

例えば「自分がいま消えてもこの世界は何ひとつ変わらない」とやさぐれること。

例えば「自分が死んでもきっとあのヒトの心の中に私はいる」と祈りすがること。

いまわの際でのこの2つの結論は、それぞれとても有効のように思えるけれど、でもそれぞれの結論に全身全霊を委ねていけるほどに、ヒトは強いのだろうか?ううん。違う。きっと、もっと、ヒトは弱い。弱い、というのとも、きっとまた違うのだろうけれど、言い方として「弱い」というのはきっと正しい。弱いから、ちっぽけな自分がそれでも愛おしいのだし、弱いから、愛しいヒトをひとり残してしまうなんて辛すぎる。

最終週、竜子の家族と<竜子@秋日子>の海辺での家族旅行のプロットが淡々と進む。自分の正体を夫に明かした竜子にとって今生の別れの一夜。自分が死んだ当初はあんなに冷淡に見えた家族のそれぞれの心に、かつてちゃんと自分がいたことをひとつ一つ知っていく竜子。そうして最後のいまわの際、タイムリミットが迫ったとき、愛しい夫から「行くな」と抱きしめられる。それでも夫の手をほどいて竜子は、波打ち際に歩いていく。

子どもたちからの敬愛の情に満たされたから?

これから先のある優しい秋日子に未来をあげたいから?

大切な夫からの誠実な愛に胸打たれたから?

きっと、違う。それもあるけど、かなり近いけどでも、違う。竜子が波打ち際、自らの意志で成仏しようと決心できたのは、最後についに自らの人生を全肯定できたからでありさらに、自分がこの世界を、そのままに祝福することを「承諾」したからだ。日の出の水平線に向かってカウントダウンをする竜子に扮する泉ピン子の、あの表情の深さとはそこに存していると思うの、どかは。朝日をバックに逆光に振り向いた秋日子に扮する宮崎あおいの、あの表情の凛々しさとは、そこに存しているとどかは思うの。

ヒトはひとりで完結してはゆかれないし、ふたりで輪を閉じていくのも大変だ。だってヒトは弱いし、愛もはかない。でも答えはきっと逆だったんだね。辛いから区切るのではなく、辛いからこそ逆に開いていかなくちゃなのだ。自分の輪郭を世界に向かって溶かしていかなくちゃなのだ。生の孤独を背負い込み、愛の脆弱を抱きしめて、顔を上げて視線を朝日に向けなくちゃなのだ。

「孤独」「家族」などがテーマとしてクローズアップされてきたけれど、きっと本当のテーマはもっともっと大きい。だって「生と死」の物語だから、やっぱり宗教的な重たいものがずーっと基底音として響き渡る。これをそのままドラマにしたら、きっと視聴者はついていけない。でもこのドラマの秀逸な点は<竜子@秋日子>を見守っていく<秋日子幽体ver.>の視点を設定したことだ。この突飛な設定は、でもすっごい上手いよね。だってつまり、知らず知らずに視聴者は<秋日子幽体ver.>が<竜子@秋日子>を見守る視点に自らのそれを重ねていけるのだもの。そして人生に虚無感を抱いていた秋日子がネガティヴスパイラルから抜け出すとき、視聴者もスゥッと身体と心が軽くなっていくのを感じられる。うんうん、素晴らしいなあ、これこそドラマだよね。


  竜子 でも、それでも上手く言えないんだけど
     ヒトって、人生って、いろんな可能性にあふれてるんだよね
     このひと月で新しい目で人生見直したら
     人生って素晴らしい
     あたしが思ってたよりずっとずっと人生は素晴らしいって
     …だからお父さん、私のために人生狭くしないで

  (「ちょっと待って、神様」最終話より)



最後の抱擁をしている2人を、後ろから眺めている<秋日子幽体ver.>の、あの目。

それでも人生は素晴らしい。

それでも、人生は、素晴らしい。

自分のことを、誰も見守っていないけれど、いろんな事に負けまくって辛くて死にたくなっても神様ですら助けてはくれないけれど、でももっともっとカメラを引いて自分をフレームに収めてみたら、きっと、何かが、自分を見てくれてる。そう信じてみたいなと、ちょびっとだけ、思ったどかだった。


2004年02月06日(金) 修論公聴会

これは実は昨日のことなんだけど。大阪に4日に帰ってこなくちゃな理由は、5日に学科の修論公聴会があったからだった。ホントは水曜日の夕方までいて芸能研の練習に出たかったんだけど。この前ゼミに出たときにボスから「来てもいいですよ」と言ってもらったし、やっぱり、聴きたかった。

…またも圧倒される。

修士の学生が自分の論文の論旨を説明したあとで、主査と副査の教授から繰り出される質問の弾幕、その激しさ。きゃー。容赦無いんだよなあ。確かに頷ける内容ばかりではあるんだけれど、以前、サルタ氏に聞いた通りのすさまじさだった。

ま、どかはまだ2年後2年後、と意気地無く守りに入りつつしょぼくれてたら、しおりサンから飲み会があるからと誘われる。ボスがイタリアから招聘しているM.P先生の歓迎会とのこと。はい、是非参加します。

で、百万遍のすぐ近くにある和食屋さんで、ボス、M.P先生とその奥さん、そしてゼミの先輩諸氏に混じってどかも参加して飲み会。例によってイタリア語、フランス語が飛び交う宴席。まあゼミの先輩とは日本語で話せたけれど。さばえサンからいろいろ親切に情報をいただく。下宿、できるかなあ?でも、しんどいなあ。でも…。

解散したのが22時前。急いで出町柳駅に向かって、特急に飛び乗る。多分、昨日までの疲れもあるのだろうけれど…、京橋まで、爆睡。


2004年02月05日(木) 中央道昼特急大阪号・フォトアルバム2

(続き)


 ← 湖面が凍り付く諏訪湖
   「御渡り」と呼ぶらしい
   時間が無いのかと思う
   それくらい美しい


 ← 日本で2番目に長い
   恵那山トンネル
   通過に20分ほどかかる



 ← トンネルを抜けて驚く
   吹雪いてる
   あの晴天はどこ?


 ← 滋賀県に入る辺り
   「天使のはしご」が降りて
   無慈悲にきれいすぎる


 ← おなじみ「太陽の塔」
   ああ、もうすぐ旅が終わる
   高速を降りて一般道へ


 ← JR大阪駅へ到着!!
   奥に見えるのは有名な、
   「浪速の凱旋門」
   梅田スカイビルです。
   8時間のバスの旅でした
   おっつー

行きしはそんなに疲れなかったのだけれど、帰りはけっこうキたなあ。年かしら。いやいや。でも、楽しかったなー。ヘタな国内ツアーよりもずっとエキサイティングな気がするのはどかだけかな。時間はべらぼうにかかるけど、でも、それだけの価値はあるとどかは宣言したいのです。次に東京行くのはいつかなあ。


2004年02月04日(水) 中央道昼特急大阪号・フォトアルバム1

どかの2004年最初の上京日程も終わりを迎え、朝9時40分新宿発の中央道昼特急にて帰途につく・・・のだけれど、バスの発車前に新宿でエモタンと待ち合わせ。スタバでモーニングコーヒーを飲みながら少し話す。結構、朝、疲れてたし眠かったけど、でもでも会えて良かったー。もちろん会いたかったヒトはもっといて、5泊6日の日程はタイトを極めたのに会えなかったヒトもいて、でもエモタンとは会えて良かったことだよ。

さて、では天候にも恵まれた2004年2月4日、中央道昼特急大阪号のフォトアルバム・前編です。


 ← 新宿南口から甲州街道へ
   眠いけどすごい良い天気!


 ← 中央道調布付近から富士山
   きれいだったあ


 ← かつてのホームグラウンド
   愛しの府中競馬場を、
   右手に見送って…


 ← 最初の休憩・双葉SAにて、
   記念写真パチリ
   最前列向かって左の席が、
   どかの席、…ベストだ!


 ← 甲府の辺りを走行中
   まどろみながら


 ← 「昼特急3種の神器」
   ポカリ・本・iPodクン
   どかは昼特急には絶対、
   iPodが似合うと思うのね


(続く)


2004年02月03日(火) シービスケット(映画)

昨日は夜、新婚かまぽん夫妻からお誘いがあって、吉祥寺で3人、串揚げを食す。で、今朝、どかは有楽町を目指して中央線で東へひた走る。「シービスケット」@日比谷スカラ座 withねこばすクン。「観たいの観たいのお」とダダをこねてむりやりつき合ってもらったの。

何と言っても JRAが肝いりでスポンサーに入っているほどに生粋の<おうまさんむーびー>!聞こえてくる評判も割と好意的なのが多かったし、楽しみにしてた。

ストーリーは大恐慌時代のアメリカ。全ての努力が水泡に帰す時代、失意のどん底にあえぐ人々に希望の明かりをともしたのは、大統領でも銀幕のスターでもなく、一頭のサラブレッドだった…という感じ。人生の蹉跌を知った、ひとりの馬主、ひとりの調教師、ひとりのジョッキー。そしてデビュー以来、全く冴えないまま引退を目前に控えた一頭の競走馬。この三人と一頭が、お互いをしかりとばし、支え合いながら少しずつ、志を遂げていくという展開。で、つけられたコピーが…、

  一度や二度のつまづきは、誰にでもある

というちょっと恥ずかしいものなのだけれど。でもこれは、実際に存在した競走馬とそれを支えたチームのエピソードをかなり忠実にプロットに生かしているらしい。

で、印象。うん、面白かったよう、かなりね。

例の「感動的」なストーリーは、こんな言い方するとなんだけど、それほどでもなかった気がする、大筋の流れとしてね。つまり、やっぱり作り話ではなく実話に基づいている以上、あまりに有り体なハリウッド流「ご都合主義」のドラマチックなクライマックスになるわけではないんだよな。あと緩急の付け方が少しもったいない気もして、難しいとは思うけど、当時の空気の再現と、物語のうねりの描出とのバランスが、前者にかなり片寄っていて、それでとても誠実で清々しい印象を生むことになっているのだけれど、やっぱり観終わったあとで淡泊な印象も禁じ得ないわけで。

ストーリー的に、どかが最もグッと来たのは「友情」かな?「努力」とか「信頼」とか「希望」ではなく、「友情」。シービスケットの主戦騎手のレッドが怪我をしたときに代わりに手綱を取ったウルフ。レッドはウルフに対して、その件で微妙な距離を互いに感じてしまうのだけれど、でもウルフは自分がテン乗りしたときにレッドが細やかにシービスケットのクセなどをアドバイスしてくれたことや、何より、テン乗り候補として自分を推してくれたことを忘れてなかったのな。でもレッドは、それで大成功を収めたウルフに対してもやもや思う。で、最後のレース。鞍上も馬も怪我からのカムバック戦、ウルフが先行する自分の馬を、遅れ始めたシービスケットと馬体を合わせるために、わざと押さえるんだよね。前フリが、ある。先のアドバイスの中で馬体を併せさえすればシービスケットの闘争心に火がつくと、レッドがウルフに教授した内容を、ここでどかは思い出す。シービスケットに乗ったことのあるジョッキーにしか分からない真実。

どかはもうね、シンガリで遅れて一頭走るシービスケットという状況で、先行する馬群から一頭だけ、ウルフの駆る馬が遅れ始めた瞬間、号泣。やられたーって感じ。よくよく考えたら、ウルフは自分がわざと負けるような騎乗をしているわけだから「や、八百長?」とか思うんだけど、でも観ているときはどか、そんなこと気にできない。うん、主人公のレッドよりも、ウルフのが、ずっとかっこよかったなあ、最後のあのシーンは、本当に良かった。

というよりね、もうまず、レースシーンがすごいわけだ。全てのレースシーンの迫力が、もう圧倒的。「マトリクスリローディド」のカーチェイスのシーンの300%増しですごいのだ。ジョッキーの視点からの映像や、ちょい後方上空からの映像、足下から抜く映像、とにかくそのスピード感という言葉を凌駕するリアリティは、絶対必見である。スタッフは絶対、このレースシーンを撮りたかったがために、この映画を企画したんだと思う。そう確信するほどに、この映像は素晴らしい。あと、音響も。レース中にジョッキー同士が会話をする声や、遠くで鳴る歓声、そして何より蹄の音や馬体がぶつかる音。そんななんやかやも全て完璧。どかはあの「ベンハー」の有名な馬車戦車のレースシーンもすごいなーと思ってたけど、ようやく、あれを超えるシーンが生まれたんだなーと思った。さらに言えば「エピソード1」の宇宙船のレースシーンよりも、このアメリカの競馬場のダートコースのレースシーンは素晴らしい。

っていうかね。どかだけかな?もう、サラブレッドは、やっぱり美しい。無条件に。馬がいっせいにダーッと駆け出すだけで涙腺弛むもの。馬がグーッと内ラチ沿いにコーナリングするだけで涙腺弛むもの。コーナーから立ち上がってグッと首が沈むだけで涙腺、弛むもの。そして一生懸命走ってる馬が、怪我をするシーンにいたっては、もう。映画としてはずるいと言えばずるいのだけれど、どかとしてはストーリーそっちのけでも充分楽しめるほどの映像だった。それがストーリーとかみ合って、実際のホースレーシングの臨場感がたたみかけてくるのだから、やっぱ、すごい。

で、武豊が日記で書いてたけど、製作スタッフにかなり競馬界のヒトが入っているらしく、アメリカの1流ジョッキーもキャストで出ているらしい。それを読んで、どかはレースシーンの迫力に合点がいったんだけど、じゃあ、どれがその現役ジョッキーなんだ?と思ってよくよく観てみると、あ。ウルフ役なんだって!まじ?普通の役者みたいにたくさんセリフしゃべってた、というか、この映画で一番格好良い役じゃん!!その名をゲイリー・スティーヴンスという。ケンタッキーダービーを3回勝つほどの超1流ジョッキー。しかもハリウッド俳優顔負けのハンサムくん。はあ、すごすぎる(武さん、いっちょ、やっとこっか?サイレンススズカで…)。

で、まだ半泣きのブスな顔で映画館を出たどか。印象的なセリフは、

  馬を癒したんじゃない、馬に、癒されたんだ

  足が壊れる前に、心が壊れてしまいます

っていうことを話してたら、ねこばすに冷めた目で、

  アホか、そうやってまた、馬券に金つっこむんでしょ
  調子に乗ってんじゃないよ、ったくやばいなー


と笑いながら一喝され、目が覚めたどかだった、しぅん。

そのあと、上野へ向かい、東京国立博物館の「南禅寺」展を観に行く。イマイチ。あまり面白くなかった、どかてきに。等伯が2つ、探幽が1つ、あと応挙が1つ、あったけど、うーん。グッとこなかったな。チ。マルモッタンにしとけば良かったか。

それから、ひとり吉祥寺に出て、どらと合流。みんみんで餃子を食べて、ジャスミンティを飲みながら話す。忙しいよー、東京に出てきてから、ほんっとに分刻みで動いてる気がする。どかと会ってくれるヒトがたくさんいるのは、ありがたいことよと思ったことね。


2004年02月02日(月) 野島伸司「プライド」(第4話)

えと、東京滞在中にこれは見ることができなくて、大阪に戻ってから録画で見た(2/6です)。一応<月9>ということに敬意を払ってここに感想を残すことにする。

どーしちゃったのだ、野島サンっ!?

というのが正直な印象。第4話は、どか、かなり厳しかったっす。むー。あまりに、あまりに隔世感が強すぎるのでは無いかと。このドラマのこれまでの評判は、それなりに「数字」はとっているものの、決して良くは無い。曰く「古くさい」。曰く「恥ずかしい」。それはでも、どかは野島サンの戦略だと思ってたからあんまり指摘しなかった。この時代にあえてそういう「危ない」橋を渡ろうとする野島サンの意図は、痛いほどよくわかったから。

これまで野島サンのドラマを追いかけてきたどかには、分かる。これは「古き良き時代」のドラマに見えるけど、でも芯にあるのは決して単純な感傷なんかじゃない。追憶なんかじゃない。フィクションとしてのドラマの物語性にこそ、現代へのアンチテーゼとして賭けてみたかったのだ、野島サンは。実際、第2話、第3話は危ういながらもかろうじて橋を渡りきっていたと思う。

でもね、第4話。厳しいよう。

まずスポーツもので、一話ごとにチームのメンバー一人ひとりに焦点を当ててストーリーを展開していく。という構成自体がまずもって「古びている」。かつ第4話のタイトルは「男の友情と女の意地」なのである。例え戦略とは言え、あまりにも飛ばしすぎかと。そしてどかにとって間の悪いことに、今回のヒーローが、市川染五郎なのだ。苦手なんだよね、このヒト(妹は好きなんだけどな)。精いっぱい、くらいついて観ようとは思ったんだけど、でも今回、野島サンのセリフも少し、調子悪い気がした。キレが無い。なぜだかどんどん上っ滑りしていく。どかをして、恥ずかしすぎて、ついていけない部分がある。臨界点を、超えちゃってる。

そんななか唯一、どかが「あっ」と思ったのは次の亜樹のセリフ。


 亜樹 おかしいわよあなたたち
    なんかホントに気持ち悪い
    合コン合コンって気持ち悪い!
    女だったらね、出会いに運命求めなさいよ
    笑われたっていい
    古いって言われたっていい
    私は全然傷なんかつかない
    あなたたちみたいのにどう思われたって、傷なんかつかない


ハルのセリフはあんまり心に引っかからなかったけどなー。こっちはまだ、ちゃんと。やっぱり役者の問題なのか?んー、わかんない。でもこのセリフの後半って、今回の「プライド」を執筆中の野島サンの心の叫びなのかも。ともかくも「女だったらね、出会いに運命求めなさいよ」という響きはでも、どか、きぅーと来た。この一節だけは。

この全てがまんべんなく相対化されていく、1億総負け組な時代にあって、あえて絶対的な価値観と強烈なヒロイズムを定義していくこのドラマのテーマは、けっしてセンチな感傷がベースになっているのではなく、あくまで野心的な志こそが裏打ちしている。それは、確か。でも・・・第4話はあまりにそれぞれのシーンが上滑りしすぎだ。

・・・と思っていたら、理由が多分分かった。演出だ。第1話と第2話が中江功さん。第3話が澤田鎌作さん(どかはこのヒト好き)。で第4話は・・・また別のヒト。どかはこのヒトが戦犯だと思う。もっと違うセリフの響かせ方が、出来たと思うのね、どかは。

あ。でもひとつフォローだけれど、やっぱりサブストーリーが面白い。コーチの未亡人・容子と容子の昔の恋人である(ことが判明した)兵頭との会話は、グッとくる。ってかこのドラマの石田ゆり子、めちゃくちゃ魅力的じゃない?この弱さや切なさや強さがない交ぜになった表情、ハルよりもずっといいような気が。


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