un capodoglio d'avorio
2003年12月31日(水) |
2003年のどかの10大ニュース |
昨日は昼、安藤忠雄の「光の教会」を観に行って、その後高校時代の陸上部の友人たちと集まって京橋で忘年会。ひさしぶりに会ってんのに、良い意味で全然変わって無くて安心する。ってか、少し飲み過ぎたかな。気を付けよう。
ようやく、おおみそか。にしても短かったあ、今年は。というわけで曙vsサップを見ようかどうか迷いながらザッピングを繰り返しつつ、これを書いています。
でわ今年の個人的10大ニュースを挙げて、DOKA'S DIARY 2003を締めくくります。
第10位 どか、学芸大A先生の芸術学ゼミに参加す これが再スタートのきっかけ。いきなり訪ねたときは緊張しまくり。ベンヤミンやパノフスキーをかっちり読めたのは良かった。でも、メンバーに温かく迎えてもらったことが、一番嬉しかった。
第9位 どか、千葉大U先生にお世話になる これは大きかった。ICUのI先生からの紹介。でも、初めて会うときは緊張して声が上ずった。授業を聴講し、ユベルマンやストイキツァのブックレビューを添削していただき、O先生に紹介してもらった。
第8位 どか、玉川大学の通信教育部に編入す 受験勉強を進めると同時に学芸員資格を取得するために始める。夏休みにはスクーリングもちゃんと参加し、レポートも順調に・・・のはずだけど、ヤバいんです、まじで、いま。ピンチ。
第7位 どか、宮崎あおいと運命的に邂逅す 最初は去年のサン○リー「緑水」のCMだった。そして今年映画「害虫」にて、どか開眼。来年はNHKのドラマが始まり、映画もロードショー、ちゃんと見るぞお。
第6位 どか、大阪に帰る 寂しい限り。吉祥寺と三鷹がやっぱり一番好きだな、どかは。19歳まで住んでいた土地だけど、まだ、調子が戻らない。豆蔵のカレーがたびたひ・・・
第5位 どか、ファインモーションに振り回される G2毎日王冠の悲劇、G1MCSにての復活、そしてG2阪神牝馬Sの勝利。彼女より強い牡馬や牝馬はいるかもしれないけれど、彼女より華のある馬はいない。来年こそ、彼女にとっていい年になりますように(願わくば天皇賞(秋)への出走を・・・)。
第4位 どか、合格す 京都大学大学院人間環境学研究科のO先生のゼミ。当面のどかの専攻はイタリアルネサンス・クワトロチェントの美術。・・・ともかくもベストの結果がちゃんと出て、ホ。
第3位 どか、加藤大治郎の早すぎる死を悼む ・・・、日記参照。
第2位 どか、・・・(秘密) ・・・。
第1位 どか、ついに「飛龍伝」を観てしまう ・・・、レビュー参照。
いつもなら、元旦から岩手県に出発して某民俗芸能の「舞初め」を観に行くのだけれど、ことしは断念。久しぶりに親と、東大阪市の枚岡神社に初詣に行くつもり。枚岡サンって何気に、ステータスの高い神社だと知ってビックリ(春日大社が枚岡サンの分社らしい、へえ)。
ではこんな自分勝手なサイトにおつきあい頂いた皆様への感謝の気持ちにかえて、上記「光の教会」の画像をもってお礼とさせて頂きます。いつもの FinePix F402を忘れてしまって、auの infobarで撮影したのでいまいちクンな仕上がりですが・・・。
↑安藤忠雄建築初期の代表作のひとつ「光の教会」・チャペル内部
2003年12月30日(火) |
2003年極私的芝居ランキング |
2002年度のランキングと比べると、とても質の高いランキングになった。それも実は頷けるところで、2003年度のどかの総観劇数(同一会期同一劇場の同一作品の再観劇除く)がなんと40にもなる。これは北区つかこうへい劇団の「千円劇場」シリーズや、青年団が比較的リーズナブルなチケット価格を提示してくれたことによるみたい。いずれにしても、改めて振り返ってみて、幸せなことだよーとしみじみ思うことしきり。
☆の基準だけど、昨日上梓した「いろいろランキング」とは全く異なることを留意されたい。つまりこのランキングは第10位から挙げていくけどその第10位でさえ「いろいろランク」の基準にすれば☆x5なのである。もう、☆なんて野暮ったいの辞めようかと思ったけど、やっぱり芝居ランク内での比較ということでむりくり☆をつけちゃう。せっかく「極私的」と謳っているんだしね。では、まず惜しくもランク外になった次点の作品の名前だけ。
次点:RUP「寝盗られ宗介」、つか「売春捜査官」、扉座「きらら浮世伝」「アゲイン」、大人計画「ニンゲン御破算」、青年団「暗愚小傳」「ヤルタ会談」以上
では、第10位から参ります・・・、あ、このページの記述中、つかこうへいとは「作・演出:つかこうへい」の舞台を指します。演出が他の人であれば舞台制作者を冠に着けることとします、あしからず。
第10位 青年団「もう風も吹かない」@桜美林PFCプルヌスホール:☆★(参考→2003年11月13日) 桜美林大学演劇コースの学生がキャストスタッフを兼ね、それを青年団がバックアップした公演。この国の学生演劇史上、最もクオリティの高い舞台だろう。鋭い社会的批評の視点を保ちつつエンターテイメントとしての舞台を成立させる平田オリザ一流のバランス。ホールも良かった、場所はへんぴだけど。
第9位 RUP「幕末純情伝」@青山劇場:☆☆(参考→2003年11月22日) 敢えて9位に留める。キャストの豪華さでは文句なし今年のMVP。筧利夫復活の報は名実ともに真実であったと演劇界に知らしめた舞台。千秋楽のオールスタンディングオベーションは感動的だった。つか自身の演出で観てみたいと、つとに思う。戯曲のポテンシャルを若干余したことについて、この順位(去年なら余裕でベスト3当確)。
第8位 つかこうへい「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事 ver.小川岳男」@北とぴあ:☆☆★(参考→2003年09月21日) 北区の秘密兵器、ついに伝兵衛に挑戦。どかがこれまでに観たなかで、もっともパワフルかつ誠実な凄みに満ちた木村伝兵衛だった。水野朋子役がもう少し何とかなっていれば、きっと伝説になっただろう舞台。小川サンを主役に据えた新しい戯曲をつかさんは書くべきじゃないだろうか。もう、そのレベルな人だ。
第7位 青年団「忠臣蔵OL編」@駒場アゴラ劇場:☆☆☆(参考→2003年03月27日) 上演時間50分のミニ舞台、でも極めて上質。忠臣蔵のパロディ、登場人物がOLだったらどうでしょう、という舞台。これを実験的戯曲というのはあたらない。だってオリザは全部、計算づくだもの、最初からこの試みが成功することを確信している。江戸時代と現代のOLを結びつけ、そのギャップから浮かび上がるのがいつの世も変わることのない悲哀。笑いまくって切なし。
第6位 NODA MAP「オイル」@シアターコクーン:☆☆☆☆(参考→2003年04月24日) これが6位だもんなー、我ながら信じられないハイレベルだ今年。野田作品の99年の傑作「パンドラの鐘(レビュー未収録)」の続編。でもどかは「パンドラ」よりもこっちがずっと好み、というかこれは大傑作だと思う、戯曲として。若干、藤原竜也が弱かったけど、松たか子には圧倒された。野田のスピードを食ってしまう凶暴な役者の「血」を感じた、ブルブル。
第5位 つかこうへい「ストリッパー物語」@紀伊国屋ホール:☆☆☆☆(参考→2003年03月11日) 2001年に蘇った幻の戯曲の、再演。石原良純と渋谷亜紀は奮闘。でも一番奮闘してたのは演出家。演出家つかこうへいの凄みが凝縮された2時間。悲惨な現実から目を反らさずになお「何が何でもハッピーエンドにするんだ」という意志。祈りですらない、意志。数十名に及ぶ若手役者達が、その意志に乗り一丸となって駆け抜ける剛速球の舞台。仕上げの荒さを激烈なスピードでカバー。つかのキャリアのなかでも傑作の舞台に数えるべきだと思うどか。
第4位 つかこうへい「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事 team.BIG FACE」@北とぴあ:☆☆☆☆★(参考→2003年04月05日) 舞台女優・金泰希(きむてひ)のスターとしての華に酔いしれるためだけの舞台。「ストリッパー物語」が<川中島の合戦>だとすれば、こちらは<新撰組池田屋襲撃>という感じ。少数精鋭だが「階段落ち」のスピードは光速を超える。半蔵役の武智サンとのからみは眩暈がするほどフェロモン流出。意志がまっすぐ込められる瞳の輝き。相手の痛みをぐっと受ける強い想像力。スターさんの華とは「何か」を知りたければ、彼女を観に行かなくちゃなのだ。
そしていよいよベスト3・・・の前に、どか的特別賞の発表!
特別賞 TBS「テアトル・ミュージカル 星の王子さま」@東京国際フォーラム(参考→2003年08月13日) ・・・あおいたん、らーぶーっっ (≧∇≦)/
失礼しました、それではベスト3です。
第3位 青年団「海よりも長い夜」@富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ:☆☆☆☆☆(参考→2003年06月28日・他) 今年1月にも三茶・シアタートラムで観劇、その後富士見市で2度目の観劇。どかが観た青年団のなかでは2000年の「ソウル市民1919(レビュー未収録)」と並んでベスト。「静か」なことと「破壊力」は全く関係無いということ。クライマックスの沈黙の「破壊力」たるやすさまじいものがある。脚本も多作なオリザさんだけれど、これは屈指の名作。演出も冴え渡り、キャストは現・青年団の1軍が総出演。足がすくむような深淵に、かすかに明滅する明かり、その美しさ。
第2位 維新派「nocturne -月下の歩行者-」@新国立劇場:☆☆☆☆☆(参考→2003年09月16日) 「社会・関係」に絡め取られるのではなく「世界・存在」とダイレクトにリンクすることができる舞台。そういう意味では「関係」にたゆたう青年団や、「関係」を突き抜けるつかとは全く異質の舞台。センスや感性は、そのままそこに保存されているわけではなく、個人個人がちゃんと磨かなくちゃ役に立たない粗大ゴミになってしまう。維新派の舞台の「入り口」を察知できるほどには、自分のアンテナが生きてたことに、どかは思わず感謝したくなる。それが神であろうと、悪魔であろうと。そんな、舞台だった。
第1位 つかこうへい「飛龍伝」@大阪厚生年金会館:☆10(参考→2003年12月12日) ここにいたって、もはや語るべきことなど何もない。告白してしまうと、もう観劇を卒業しようかとさえ、いまは思っている。それほどの衝撃。どかのなかでいろいろな流れが収束していくことを感じている。・・・分からない。まだ、ちゃんとした「銀ちゃんが逝く」も観ていないし、「広島に原爆を落とす日」も観ていない。その2つの芝居を観ない間は、つかこうへいを語りきることなんて不可能なのかもしれない。分からない。12月12日の2時間半の出来事だけではなく、いままでのどかの人生全てを引っ張っていくほどの「破壊力」。どかは唖然として後悔し、そして同時に四肢がちぎれるほどの幸せを感じた。
・・・こんな感じです。興味のある舞台があれば、リンクをたどってレビューを読んでみてください。どかも改めてざーっと目を通して観たのだけれど、そこそこ頑張って、楽をしないで逃げないで書けているのが多かったのでホッとしているところです。来年、このランキングがあるかどうかも、まだ分かりませんが、観劇は、本当に良いものです。
・・・あ、まとめちゃった、てへ。
2003年12月29日(月) |
2003年極私的(いろいろ)ランキング |
と、言うわけで歳末恒例(ヾ(- -;)ってかまだ二年目だけど)、今年一年のレビュー総まくり。2003年極私的ランキング第一弾。・・・去年のちょうど29日にアップしたランキングを見てたら、そうそう、携帯水没事件があったんだよね、懐かしい。あれから紆余曲折を経て、いまどかの携帯はauの infobar、しかも nishikigoiだもんな。それではサクサク行きます、映画から。ビデオで観たのは礼儀として除いて、ちゃんと映画館で観たヤツです。
映画ランキング(良かったあ、3つあった、ギリギリ)
第3位 ハリーポッターと秘密の部屋:☆☆(参照→2003年02月09日) たまにはこういうのも、いいなーと思った。でもやっぱお金を払ったり時間を費やして何かしらの経験をするのであれば、映画に限らず、ライヴでもCDでも、芝居でも、美術展でも、破壊力のある表現に接したいなと思うどか。でも、たまには、いいかな。一年に一回くらいは。
第2位 キルビル:☆☆☆☆(参照→2003年11月06日) そう、例えば「破壊力」とは、こういうこと。誤解が無いように言っておくと別に殺陣シーンや血しぶきがそうなのではなく、タランティーノの「捨て方の潔さ」がそうなのだ。モラルとかイデオロギーとか教育的配慮とか、そんな一切合切に拘泥しないこと。でも映像がアナーキーに陥らないのは、支配の座についた監督の磨き抜かれた「センス」の故だ。
第1位 ボーリングフォーコロンバイン:☆☆☆☆★(参照→2003年03月18日) キルビルと迷ったけど、やっぱり「破壊力」の面でもこっちのが上かな(制作費はこっちが数千分の一だろうけれど)。どかはつかこうへいに本当の「教養」とは何かを教えてもらったけど、マイケル・ムーアは本当の「知性」とは何かを教えてくれた。大切なのは、でも、これからだ。これからは、日本もムーアの攻撃の標的に上ってしまうのだろうだから。
ドラマランキング(・・・らぶ)
第3位 ケータイ刑事 銭形愛:☆☆☆★(参照→2003年10月14日) 東京の部屋を引き払って大阪に帰ってきて、ショックだったことのひとつ。このドラマの再放送、関西の地上波では観られないこと。しょぼん。そりゃドラマとしての完成度は、いまいちクンだけどさ。あおいたん、らぶ。らぶ。らぶ。と、念じてたら気持ちって通じるのね、BS-iで再放送決定!これでまた会えるー♪
第2位 マンハッタンラブストーリー:☆☆☆☆★(参照→2003年10月17日・他) クドカン脚本作品。いま振り返って思い出すのは、あのミッチー王子のフレーフレー応援ダンス。「101回目のプロポーズ」の江口洋介が武田鉄也に送ったエールと同じくらいかっこよかった。大人計画テイストがここまで濃密にお茶の間に流されたことがあっただろうか。同時に、小泉今日子のアイドルとしての底力を観た気がする。視聴率の振るわなかったこのどらま、将来絶対見直されるときが来る。多分時代を追い越しちゃったんだな。あの、センスにみんな、ついていけなかったんだわ。予言。
第1位 高校教師:☆☆☆☆☆(参照→2003年01月10日・他) 野島伸司脚本作品。どかの今年前半はこのドラマに支配されていた気がする。上戸彩はこのドラマを最後に輝きを失う(おっと)。でも、このドラマの雛役は良かった。実は、恋愛感情というものの有効性を微分し続け解体するというのが本質だったんじゃないかと思う。野島伸司の渾身のメッセージが織り込まれたために重厚で、難解なストーリーになった。そして大多数の視聴者はついていけず、視聴率は低調に。もうずぐ始まる高視聴率確実の野島作品「プライド」との比較は興味深いだろう。でもどかは「高校教師」が、好き。
ライヴランキング(今年はハイロウズだけじゃないから)
第3位 Syrup16g @ SHIBUYA-AX:☆☆☆☆(参照→2003年03月28日) このライブに行って、どかはシロップを絶対信用しようと決めた。演奏力の音圧とボーカルの声圧の強さにビックリ、CDのトラックからは伝わらない温度にジーン。いま思い出して一番印象的なのは、どかの隣にいた全然知らないショートカットの女の子が、ステージを凝視したまま流してた涙。
第1位 CHARA @ 赤坂BLITZ:☆☆☆☆☆(参照→2003年07月06日) 同率1位とさせていただく。まず、CHARAサマ。声は予想通りの強い磁場を生む、魔力的な響き。予想を超えていたのは、バンドの演奏。いいスタッフを揃えてるなあとしみじみ、グルーブ感が凄かった。とくに「♪やさしい気持ち」はベストオブベスト。何がすごいって、「やさしい」のにすさまじく「破壊的」だったこと。然り・・・と思う。
第1位 ↑THE HIGH-LOWS↓@ 日比谷野外音楽堂:☆☆☆☆☆(参照→2003年07月05日) 上記CHARAの前日に行ったライヴは、もちろんこの方々。夏の受験前、最後の気合いを入れるためにもどうしても行きたかった。いま思い出して一番印象的なのは、どかの隣にいた全然知らない背の高い女の子が、ステージのヒロトを観て泣きそうにクシャッと笑った横顔。どかがkey.の白井サンを観た最後のステージともなった。白井サンが抜けた後のハイロウズに会うのが少し、怖いどか。とにかくこのライヴは、全ての地球上の時間を止めてしまった7曲目につきる。
CDランキング(・・・)
第3位 レミオロメン「朝顔」:☆☆(参照→2003年12月22日) 不当にも☆は2つに留めてやる、ひひ。これを聴いた後でシロップに行ったときの、その凹みようったら、もう。天国と地獄。一度、ライヴに行ってみたいな、でも、そろそろチケット獲るの大変そう。あいかわらず悔しがってるどか。
第2位 RADIOHEAD「Hail to the Thief」:☆☆☆★(レビュー未収録) 待ちに待ったレディヘのニューアルバム。最初どかは微妙な嫌悪感があった。ジャズのスイングっぽい揺らぎがやだったの。ロックのグルーブじゃなくてスイングっぽいところ。でも半年後のこの年末、なぜかどかの iPodクンのヘビーローテーション入り。スイングしててもトム・ヨークの目は血走ってる。なんかそれが見えてきたからかな。来春の来日ライヴ、チケは押さえたけど行けるかしら?
第1位 Syrup16g「HELL-SEE」:☆☆☆☆★(参照→2003年03月29日) 初めは目立たなかったけど、実は凄いアルバムだった。それまでの二枚のアルバムから比べるとちょっと穏やかに、ちょっと聴きやすくなってるんだけど、聴き込むほどにその奥に隠された悪意に痺れていく。捨て曲ナシの15曲。しかもこれで¥1,500-!この破格の値段設定にも、死ぬほど悪意を感じるのはどかだけだろうか(何への悪意?もちろん CCCDの裏に隠れている連中へ、でしょ)。自虐的に美しく、かつナルシシズムに堕ちない奇跡のバランス。
マンガランキング(恐るべきハイレベル)
第3位 松本大洋「ナンバー吾」:☆☆☆☆☆(参照→2003年04月10日・他) 鬼才・大洋の現・連載作。2003年は3巻と4巻が刊行。もはや「ナウシカ越え」は確実、その先のどこまでを射程に収めているのか、余人には計り知れないことの恐怖。難を言えば体調が悪いときに読んでいると、あまりに強く洗練された筆致構成に、ひれ伏してしまいそうになることくらい。1位になれないのは単純な巡り合わせ。
第2位 岡崎京子「ヘルタースケルター」:☆☆☆☆☆(参照→2003年07月25日) いま世に氾濫してる女流「おしゃれ」マンガ家のほとんどが、彼女のフォロワーでしかないことを鮮やかに描き出す96年作の伝説の作品、初の単行本化。何が素晴らしいって岡崎京子がこれを描きながら、ちゃんとまっとうに作品の中で戦っていることである。彼女ほどの才能がありながら、ちゃんと戦っている。フロンティアに立ちつくし、才能でかわすことも可能な弾幕に、身をさらしている。未読ならば「読みなさい」それだけ。読んで、寝込んで、その後回復したら見える景色はきっと変わっている。
第1位 岡崎京子「うたかたの日々」:☆☆☆☆☆(参照→2003年08月02日) 上記に同じ・・・。昔、大学の寮にいたころ、先輩に「どかは岡崎京子のマンガに出てくる人物に似ている、ルックスも性格も」と言われた。これを読んでいて、それを思い出して、一瞬嬉しかったけどそのあと激しく落ち込んだ。落ち込むけど、でも・・・。岡崎さんはいまもリハビリ中、必死に生きる力を振り絞っている。どかも、ちゃんと、がんばらなくちゃだ。「ヘルタースケルター」は万人に薦めたい、「うたかたの日々」はどかの大切な人にだけ、薦めたい。なんでだかわかんないけど。
競馬ランキング(馬券を獲ったレースではなく、感動したレース)
第3位 有馬記念:☆☆☆☆(参照→2003年12月27日) 「オトシマエ」というのはこういうことを言うのだろう。JCでの9馬身着差負けをそのままきっちり返す9馬身差勝ち。怪我で引退しちゃったけどどかの一番最初のヒーローだったタニノギムレットの最大のライバルであり、そしてどかの現ヒロインのファインモーションから年度代表馬の座を奪ったシンボリクリスエスの引退レース。歴史に残りそうな劇的なフィナーレ。
第2位 日本ダービー:☆☆☆☆(参照→2003年06月01日) 実際にスタンドに行ったレース。14万人の観衆による、地鳴りのような、勝利ジョッキー「ミルコ」コール。イタリアから来た若き天才ミルコ・デムーロはそのコールに包まれた馬上で、人目をはばからず涙した。ダービーはやっぱり特別、あの雰囲気はたまらない。いつかイタリアに留学に行ったら、彼地で競馬場に行って、ミルコの馬券、買おう、絶対。
第1位 秋華賞:☆☆☆☆☆(参照→2003年10月19日) メジロラモーヌ以来17年ぶりの大記録、スティルインラブ牝馬3冠達成!どかはこの京都のレース、府中で観戦。この日の府中のメインレース「府中牝馬S」のスマイルトゥモローの大逃げも度肝を抜かれたけど。でも、馬券をとれた人もとれなかった人も、オーロラビジョンに映るスティルのヴィクトリーランに、笑顔で拍手を送っていたのが、すごいすごい、気持ちよかった。安心して、なんだか泣けた。どかはこの3冠馬券、かっちり獲ったし、言うことのない一日だった。何せ17年ぶりの記録、将来、ずっと自慢してやろう「オレはあの馬券を獲ったんだー」って。いひ。
ま、こんな感じ。芝居のランキングは明日、やります。終わってみれば、充実したラインナップだったなーと実感。来年はそんなにたくさん観られないだろうし、1年後のランキングもちょっぴり寂しくなってそうな予感。今年はどか自身もいろいろ大変で、そんな中、大切にしなくちゃだと思っていた物や事を妥協せずに大切にできたのは、胸を張って言えることで。かつ、一応それなりの結果も残せたので、良しとしよう(うん)。
(続き)
所属もシスターと同じ橋口厩舎であるツルマルボーイ。これまでG1では幾度も2着に入る健闘を見せつつも、勝利には届かなかった。主戦騎手は相性のいいヨコテン。代名詞は、他にはまねできない圧倒的な追い込みの鬼脚。でもツルマルは、前走JCでいいところなく15着。今回もシンボリ、タップ、ロブロイ、リンカーン、ザッツに続く6番人気。相手はG1馬の一線級であり、実力、実績ともに見劣りするのも事実。でも、今回は、良馬場。ならばあの末脚が炸裂すれば、先行するシンボリ、タップにも届くはず、何よりシスターのためにも勝ってあげて欲しい。
そして、きょう、12月28日中山競馬場、芝の馬場状態は良。おし、ならば迷わず、ツルマル勝負!ツルマルは1枠1番、これも好条件。ロス無く脚をためることが出来るはず!。さらにきっと、タップ、クリスエスが両方連対(1着2着ね)に絡むのはない気もする。タップは逃げ切るときはすんなり逃げて、捕まえられないクリスエスは馬群に沈むだろう。もしくはクリスエスが上手く差しきる展開なら、タップはそれまでに既に馬群に沈んでいると思う。いずれにしても、ツルマルの差し脚が、ゴール板前30m、先行する馬を捕らえきると読む。
故に、馬連ツルマルから、タップ、ザッツ、アグデジ、クリスエスに流す4点買い。自信はないけど、ドキドキする。うう、息苦しい。
パドック。タップ、クリスエスは絶好に見える。ツルマルも、悪くない、と思う。
返し馬。タップ・・・、ちょっと歓声に惑ってる?クリスエスは落ち着きすぎてるくらいどっしり、嫌みなほど。ツルマル、気合い乗ってきた。
パーンパカパーンパカパーン、ダダダダンッ!
G1のファンファーレが鳴り響く。いよいよ、グランプリ発走!
ザッツ、バイオがハナを叩こうとする(先頭で逃げたい)タップに絡む。超ハイペースで3頭が逃げる、タップ、たまらず3番手。ザッツはかかってしまったみたい、アンカツピンチ。鋼鉄の肺の持ち主だからと言って、1000m通過58秒台というのは狂気の沙汰。タップ、それを追走するけど・・・。クリスエスは中団、すんなり流れに乗れている。そこそこのハイペースは最も彼に優位な展開、しかもすぐ前に武豊のリンカーン。鞍上ペリエはリンカーンを完全マーク。ツルマルは定位置のシンガリ追走。ちょっ・・と差が大きすぎる気が、卒倒しそうなどか。逃げた3頭が、3角ではやくも馬群に飲み込まれる、タップ、内に包まれる、外から早めの仕掛けリンカーン、迷わずクリスエス、追走、4角出口、リンカーンとクリスエスがグッと前にでる。一瞬でクリスエス、リンカーンを捉えて・・・
あとはもう、この夜のスポーツニュースの番組でさんざん流れた映像通り。クリスエス、信じられない脚色を見せて、独走。どんどん、リンカーン、ロブロイを引き離す。唖然どか「なんやこれ・・・」。どんどん、どんどん、どんどん、引き離す。なんと、9馬身差の圧勝、かつレコード勝ち。記録でも勝負でも、文句のつけようのない勝ち方、すごー。鬼だ、鬼。わけわからん。JCで9馬身差で負けた屈辱を、きっちりグランプリで9馬身差をつけて晴らすという、脚本家でも即ボツにするであろう格好良すぎるウソみたいな結末。しかもクリスエスはこれが引退レース。おいおい・・・。タップはザッツとバイオに潰された形。JCのクリスエスと同じく、展開が向かないときのもろさを露呈してしまう。むー、もすこしなー。騎手の差も出ちゃったのかな。ザッツのアンカツは2ちゃんねるでその後批判の集中砲火を受けてしまう。でもザッツはもともと気むずかしい馬、仕方ないよね。
そしてどかの星、ツルマルボーイはずーっとシンガリ追走から、最後4着まで順位を上げる。あのクリスエスの上がりが35.3。ツルマルはそれよりも速い35.2で上がったのだから、面目躍如なのだが。クリスエス以外では最も強い競馬をしたのだけれど、あまりに出来すぎた結末。あまりにかっこいい圧勝。9馬身差の前には全てがかすむなー。これ、きっと、後々伝説のレースのひとつに数えられるんだろうな・・・。
ツルマルボーイ、来年は頑張ろう。シスターのために、うんうん。
3歳上、牡牝混走、指定定量、中山9R、芝2500M。
ついに、グランプリ開幕。
1950年代当時、中山競馬場の冬の代名詞と言えば「中山大障害」だった。しかし春の東京競馬場の「東京優駿」と比べると、どうしても盛り上がりにかける。当時の中山競馬場の理事長が、新スタンド竣工を機に、冬の中山にも「東京優駿」に匹敵するような大レースの創設を提案した。プロ野球のオールスター戦同様、レースの出走馬をファン投票によって選び、ファンがより親近感を持てるようにという計らい。このレースは「中山グランプリ」という名称で1956年12月23日に行われる。翌年創始者の有馬頼寧理事長が急逝、彼の功績を称え、このレースの名称を「有馬記念」と改称した。現在では中山の暮れの風物詩として、また1年の競馬を締めくくるビッグレースとして親しまれている。
「東京優駿」を<ダービー>と呼ぶならば、「有馬記念」を<グランプリ>と呼ぶ。
数あるG1戦線のなかでも、他を圧してスペシャルな空気を持つレースである。今年はトップクラスの牝馬(3冠スティル、良血アドグル、女王ファイン)の不参加やクラシック2冠のネオユニヴァース、春天宝塚連勝のヒシミラクルが不参加のため、出走馬の華がいまいち物足りないという噂も、ちらほら。が、そこはやはり何と言ってもグランプリ。開催目前になるに従って盛り上がる盛り上がる。2ちゃんねるの「有馬スレ」は結局32個くらいまで行ったのでは。ここ一週間、どかもぼんやり、あれやこれやと考えて楽しかったあ。買い物と一緒で、予想を立ててるときがごっつい至福だよー。
さて、どかの予想。
まず、馬場が問題だった。金曜日から襲来した寒波の影響で、土曜の朝、中山の芝は雪に覆われてしまってなんと土曜の開催は、芝のレースを全てダートに移し、「中山大障害」は延期という波瀾(台風以外での延期って、初めて見たなあ)。翌日の「有馬記念」は、もしや、ダートで開催かっ?という噂はまだしも、馬場状態は悪くなるかもという憶測が飛び交う。馬場が悪いと・・・先のJC、重馬場でのタップの9馬身差勝利が、どうしてもアタマをよぎる。
そこで屈辱の大敗を喫した去年の年度代表馬、シンボリクリスエス。グランプリで雪辱なるか、というのが最大の焦点。クリスエスの所属が競馬界の読売巨人軍・藤沢厩舎というのもあり、どかはクリスエスよりはタップダンスシチーを応援したい気分。いくらマークが薄く楽に逃げられたからといっても、直線、さらに後続馬を引き離しての9馬身差はダテじゃないと思う。何より6歳にしての大器晩成というのもカッコイイ。重馬場なら、タップ軸は外せない、か。
そして当日の馬場の状態を確認すると、パンパンの良馬場に戻るだろうとのこと。ふむ。ならば、クリスエス・・・、うーん、でも藤沢、しかもJCで見せた、展開にハマらないときのもろさ。宝塚でもそうだった。地力で勝るのは誰もが認めるところだけれど、自ら逃げ馬を捕まえに行く横綱相撲を取れるほどのずばぬけた力量は、無い。そして、藤沢(しつこい)。
しかも、どかには一頭、気になる馬がいる。ツルマルボーイだ。
その全妹がツルマルシスター。2歳牝馬戦線で頭角をあらわし、来年のクラシックの主役になるはずだった、シスター。どかは11月9日のファンタジーSの中継で見たのだけれどビックリした。アンカツ騎乗の1番人気、どんなもんやろと注目してみたら、尾花栗毛!おお、これが伝説の毛色かっ!度肝を抜かれた「きれいすぎる」。鮮やかな栗毛の馬体に、たてがみとしっぽが金色、やばい、ホレそう。次のレースから、とりあえず馬券には絡めていこう・・・って思っていたのに。12月10日、急性腹膜炎のために死亡。まだ2歳、花の盛り、あの尾花栗毛は、はかなく散った・・・
(続く)
2003年12月26日(金) |
野島伸司「ウサニ」2 |
(続き)
コーゾーが幼い頃に、母親から聞かされたという小話。
人の胸の中には透明な鉢があるのよ それを心と呼ぶのよ 生まれた時、赤チャンの心にはきれいな水がいっぱい入っているの そのずっと底の方にね、小さなお魚が泳いでいるの だけど、その人が嘘をついたり、他人をねたんだり、悪口を言うと、 どんどん心の水は濁ってしまうのね そうして最後は小さなお魚は苦しくて死んでしまうの
(野島伸司「ウサニ」より)
そのコーゾーは、レーコさんを殺したのは嫉妬に狂ったウサニだと思い、 ウサニを学校の焼却炉に放り込んでしまう。 しかし実の犯人はレーコさんのもうひとりの愛人、コーゾーの父親だった。 ウサニを救いに走るコーゾーだったが、煙突から上る煙を見て悟る。 自分にとってウサニがどれほど大切な存在であったかと。 セックス無しでも生活を共にし、お互いへのいたわりを交感していたこと。 ウサニがいることで、どれほど無防備に休むことができたかということ。 しかし「ウサニも、子魚も、もう生き返らない」ことに絶望するコーゾー。
目に見える「愛着」と、目に見えない「愛」の違い。 たとえ「愛着」としてのドキドキでも、それがキープ出来る方法。 それは相手と距離をとって、いつまでも相手のことが理解できない状況を、 できるだけ長く続けること、相手への渇望を、引き延ばし続けること。 確かにその方法でなら、ドキドキはかなり長く、 それこそ4年という時間を超えても、キープは出来そう。 けれども、それではあまりにも空しい。 お互いに惹かれていても、お互いを理解し合うことはない。
・・・でも、何か寂しい。 レーコさんとウサニの両方を失って、 どちらが、彼にとって大切であったのかを知ったコーゾーは、 「愛着」に執着するニヒリズムにはもはやとらわれない。 曲折を経てコーゾーと野島伸司が見つけ出した「愛」へ至る手がかりとは、 実は、4年という歳月を超えた果てにたどり着く「倦怠」だった。 「倦怠」という言葉を、ネガティブな響きのくびきから、 解き放たなければならないと説く。
ドキドキから派生する相手へ夢中になる気持ち、 嫉妬、執着、束縛したいという気持ち、 それらはすべてある種の緊張状態に他ならない。 そのとき自分では感づいていなくても、 身体はどんどん消耗し疲弊していってしまう。 やがて、穏やかな時の中で相手を理解しあえるようになり、 「安心感」が生まれる、これが罠だった。 「安心感」とは当初相手に認めていた価値の減価償却の進行であり、 遺伝戦略的に見ても4年間という時間で相手への興味は薄れていく。 相手は自分に飽き、自分は相手に飽きる。 それを「倦怠期」であると疎んではならない。 それを理解し合い、安心感のある、 本当の「愛」の始まりと認識すべきだ・・・。
うーん、野島さんぽーい・・・。 動物の本能ではなく人間の叡智への信頼、祈願。 こういう風に短く要約してしまうと、 でも、とたんに難しくなるなあ、分からなくなる。 第一、説教臭いし。 どかもこのことを、ただ上記の風に説得されても納得はいかない。 「なーに、ゆってんだか」って聞き流すと思う。 そもそもかつて「ドキドキ至上主義」を標榜してたどかだしね (恥ずかしいな・・・でもいまさら、隠しはしない)。
でもね、違うんだなー。 この小説のクライマックスであり、ハイライトのシーン、 コーゾーとウサニが再会するシーンのすさまじさを踏まえられると、 上記の内容が、すんなり、入ってくるんだな、これが。 どか、バスの中で、またも嗚咽してたもんな、苦しくて。 野島伸司は、小説家ではなくあくまで本職はドラマの脚本家、 だから小説としてはやっぱり技法的にイマイチな部分も目につくけど、 重要な場面を、映像として立ち上げる手腕は圧倒的だ。 この再会のシーン、どかの目にはそのままビジュアルイメージが再生されて、 そのすさまじさえぐさすばらしさに圧倒された。 圧倒されてしまうと、自分でもびっくりするほど、 胸に彼のメッセージが沁み渡っていくのが分かる。
そう言えば彼は、絵本「コオロギくんの恋」でも言ってた。
せいじつな せいじつな愛情とは とても たいくつなものなんだ
(のじましんじ「コオロギくんの恋」より)
あれを初めて読んだときは「いいなー」とは思ったけど、 いまいちピンとこない部分もあった、 アタマではわかるけど、うーん、実感としてどうだろう、って。 でも、いまなら、グッとくる。 以前とは違うレベルで、分かる気が、する。
どかは「ウサニ」より「スワンレイク」の方が好みだ。 あの思弁的なヒンヤリした特異なスタイル、凛々しい文体は、 読んでいてかなり鮮烈な印象だったし、 野島伸司の他を圧倒する虚無感に触れられるのが良かった。 「ウサニ」はやっぱり、ちょっと、説教臭い。 しかも、文中、宗教よりも哲学の優位性を説くわりに、 読後感はかなり宗教的な印象が強くなる。 もちろん、それを全て昇華しうるくらいの物語だからOKだけれど、 確かに「スワンレイク」はかなり難解であり、 「ウサニ」はストレートなわかりやすさがあった。 わかりやすく、しかも自分のメッセージを薄めないという二律背反を、 見事に覆したのが、小説第2弾だったのだと、どかは思う。
後は蛇足。
来年1月から、フジで野島脚本「プライド」が始まる。 しかも、時間は月9、主演木村拓哉、主題歌 QUEENという、 ドラマ最高視聴率を厳命されたも同然の作品である。 どかは、あまり、期待しない(見るけど)。 多分、視聴率はとると思う。 野島サンがその手腕を「視聴率」に向けたら依然無敵だと思うし。 でもな・・・、野島サン自身、微妙だろうな。 きっと藤木直人・上戸彩の「高校教師」が低視聴率に終わったことで、 ある種、ドラマに(ドラマをみる視聴者に)見切りをつけてる気がする。 だから、彼は自らの本気のメッセージは「小説」に残して、 余技でドラマはやっていこう・・・。 いくらなんでもそこまで、やさぐれてはいないだろうけれど、 そんな節が、少し、見える・・・悲しいな。
悲しいよ。
2003年12月25日(木) |
野島伸司「ウサニ」1 |
「飛龍伝」@青山劇場ツアーの帰りに、 JRバス「東海道昼特急大阪号」に乗車、 そのバスの中で読了、結構ゆっくりゆっくり少しずつ読み進めた。
まず帯につけられたフレーズが、かなり挑発的。
なぜ愛し合っているのに、男の子はみんな浮気するの
(野島伸司「ウサニ」帯より)
呆気にとられるほどストレートな命題がつけられたこの小説は、 処女作「スワンレイク」に続く、野島伸司書き下ろし小説第二弾。 前作の帯のフレーズ(上記レビュー参照)と比べると、 2つの作品のテイストの違いが鮮明になって面白い。 極めて思弁的で硬質な文体とテーマ、 高麗青磁のような冷たい手触りの「スワンレイク」に対して、 かなり平易で柔らか味のある印象、 李朝白磁のような温もりある「ウサニ」のイメージである。 しかし前作に比べると平易な文体であるからと言って、 内容が薄いかと言えば決してそうではない。 シンプルな主人公のモノローグが浮き彫りにしていくのは、 あくまで野島サンが追求する永遠のテーマ「愛の不可能」なのだから。
ストーリーは、かなり荒唐無稽。 荒唐無稽さから、でも、怖いほどのリアリティが立ち上がる。 主人公・コーゾーがアマゾンで捕まえてきた妖精が、 ウサギのぬいぐるみ・ウサニに取り憑いてコーゾーに話しかける。 2人は奇妙な恋愛関係になるが、ある日コーゾーの前に、 謎のセクシーな美女レーコさんがあらわれて、コーゾーを誘惑する。 コーゾーはレーコさんに夢中になってしまい、 ウサニはどうして自分が捨ておかれるのか理解できず・・・ というプロットを、コーゾーのモノローグで語っていく構成。 いろいろ悩みながらもコーゾーは「愛」についての思索を深めていく。
生物学的なアプローチがトピックとして登場するくだりは、 真田広之・桜井幸子の「高校教師」を思い出させる。 ただ今回はドーキンス「利己的な遺伝子」のような 具体的な出典は明らかにされないけれど、
通常、長くて四年サイクルと言われている つまり、四年もセックスすれば必ず受精できるから、 オスは飽きて他のメスにいくようにカリキュラムが組まれているのね
君は頭がいい
オスの愛は四年で飽きちゃうということね
(野島伸司「ウサニ」より)
という会話の中で、学会で発表されたという論文の内容が提示される。 また、「オス」に対して「メス」については以下のような言及がある。
メスは他のオスとセックスすると、 誰の子供か分からなくなってしまうという、 根元的なアイデンティティの喪失の危険がある つまり、本能的に浮気ができないような身体の構造になっているのだよ (野島伸司「ウサニ」より)
パッとこれらのフレーズを聴いて「なるほど」、 とすぐに納得する輩はいない。 もちろん作者も、この学説の提示を目的に、 わざわざ小説を書き下ろしたわけではない。 でも、ひとつの視点としての真実味はある気がする。
また、この生物学的なアプローチ以外にも、 「愛」と「愛着」の違いという点も、 モノローグの中で繰り返し重要なトピックとして登場する。 「愛」がヒトに対するもので「愛着」はモノに対するもの。 という一般的な区分を野島はあっけなく突き崩す。 男性が例えば可愛い顔やセクシーなプロポーションに惹かれることと、 例えばカッコイイクルマやゴージャスな時計に惹かれること、 一体、そこにどんな違いがあるというのか。 じゃあ「愛」とは「愛着」に性欲としてのセックスが結びついたものか。 けれどもその性欲を付加するとしても、 先の生物学的アプローチに拠るならば、四年間という限定がつく。 同じモノと接していると必ず「飽き」が来る。 同じ相手と身体を合わせることにも必ず「飽き」が来る。
「ぬいぐるみだから君を愛することは出来ないよ」というコーゾーに、 ウサニはそれは「イレモノ」にこだわってるんじゃないの、とただす。 結局それは「モノ」として対象に愛着しようという思想。 みんながみんな、「イレモノ」にこだわるから、 女の子はファッションに気を配りメイクにお金をかけプチ整形に走る。 男の子は社会的なステータスや年収という目に見える価値にこだわる。 そこには結局、「愛」はなく「愛着」しかないのではないか。 ウサニとコーゾーのダイアローグから浮かび上がるのは、 やはり「愛着」に拘泥していくしかないのかも知れないという諦観。
相手に感じるドキドキを大切にしたい、 という本能を肯定するにしても、 それは結局「愛着」に如かない。 「イレモノ」にこだわっているに過ぎない。 相手の外見にはいつか飽きるだろう。 他の相手とセックスしたくなるだろう。 じゃあ、真実の「愛」とは、永遠に続く「愛」とは、 どこにも存在しないんだよね? 「・・・うん」と答えてしまうしか、ない・・・ でもなぜだろう、どこか寂しい感じがする。
野島伸司は、この「寂しい」という気持ちから、 衝撃のクライマックスを立ち上げていく。
(続く)
2003年12月22日(月) |
レミオロメン”朝顔” |
・・・ダメだ、もう「抵抗」も限界だ。 ちっきしょー、悔しいなあ、こんなバンドを好きになっただなんて。 でもなー、最近ずーっと iPodクンでヘビーローテーションだったしな。 キライでヤダなところをあげつらうよりも、 何がどうしようもなくどかを捕まえてしまったのかを、 考えることにしたほうがいいのだろうな。
というわけで、白旗です・・・ハイ、認めます。 わたくしこと、どかは、レミオロメンにヤラれました。
「朝顔」はメジャー移籍後ファーストアルバム。 メディアでの露出も多くセンセーショナルに語られることが多かった理由は、 あの小林武史と共同プロデュースであるという事実。 もう、このへんからどかはむずむずしてしまうのだけれど。 鳥肌が立つというか・・・、ぞわーっ。 あーやだやだ。
レミオロメンというバンドのことは、結構前から知ってた。 でも、ずーっと、見てみないふりしてきたんだけど。 どかのいま、もっともキライなバンド、バンプと同じ匂いがしたんだよな。 あの「繋がること」を安易にかつ臆面もなく謳い上げるバンドと。 蛇足だけど、バンプをブルハっぽいという人もいるが、断じて違う 言っておくがブルハにはどうしようもない闇が奥底にあった。 危険で卑俗な欲望渦巻く闇があったからこそのあの歌詞じゃないか。
で、レミオロメン。 キャッチーなワビサビきかせたメロディアスなサウンドとか、 一度きいたら忘れられないような強力なポップ具合とか、 少しずつ耳に残る、ロマンチックでセンチメンタルな、 具体的かつ実際的なストーリー展開を見せる詞の世界。 「ああ、またあれ(バンプ系)か・・・」とガックリ来たし、 挙げ句「お前等はロック界の槇原敬之かあっ」と声を荒げたくなったけれど。
ヤラれ始めのキッカケって最初、なんだったっけ? ・・・ああ、そうそう、演奏力だ。 3ピースなのに、薄っぺらくなくスカスカ感もなく、 かつ3ピースならではの音の「隙間」を鳴らすんだなーって、 何かの曲を聴いてそう、思ったのが最初だ。 某バンプと違って、ギターもベースもドラムも圧倒的に、上手い。 シロップのような力強さではなく、もっと軽快なスピード感。 でも決して線が細いという印象は与えない、特にベースが好き。 アルペジオが美しいギターやシンバルが特に印象的なドラムもなかなか。 それで、へえ・・・、ナンパなだけではないのねーって。
でも相変わらず、先行シングルの「♪雨上がり」はピンとこなかった。 で、最近ラジオとか有線で良くかかる「♪電話」は少し、グッときた。 でも、まだまだ。 確かに言葉への感性は認める、オリジナリティはある。 ただのセンチメンタル野郎では、ないのかも知れない。 んじゃ、ちょっとだけ・・・とアルバムに手を伸ばしたのが間違いだった。 驚愕の名曲がひとつだけ、隠れていた、完全に致命傷だ。
それが4曲目の「♪ビールとプリン」。 これは、ヤバい、ヤバすぎ。
多分、個人的な経験とマッチしすぎているのが、敗因なのだろうな。 というかこの曲を聴いて初めて、あの頃の生活の真実を対象化させられた気が。 有り得ない、ああ、そうだ、そうそう。 あの時、指の間からすり抜けていく淡い明かりというのは、 確かにこんなかすかな「重さ」があったよ。 すげえ、このほんの「かすかさ」に反応できるほどに、 アンテナの感度を高くチューニングできる才能なのか。 うう、やられた、だめだ、負けだーっ。
きっと極めてどかの個人的な名曲なのだと思う。 なんていうことのない、ある日常の風景を切り取った小品な味わいなのだけど、 また特に感情的な表現や、抽象的なテーゼ、印象的な異化があるわけではない。 当たり前だ、そんな技術ではあの「かすかさ」は捉えられない。 パッと聴くとまるで切ないフォークソングのような佇まい。 でも、フォークというには、あまりに細かい、 まるで妙族の刺繍のような、細やかな「きめ」。
何だか切ないから、テレビをつけてみても 見るでもなく聴くでもなく、レンジが鳴って
(レミオロメン「♪ビールとプリン」)
「朝顔」というアルバムを通して聴いたときに、 「♪雨上がり」「♪電話」という曲以外にもたくさん、 ポップで良い仕上がりの、でも実は見た目ほどに軽くない曲はたくさんある (確かに「♪電話」のロマンチックなサビにはドキドキする、すごいね)。 そのなかで4曲目というのは、必ずしも、というかむしろ目立たない。
でも、どかはヤラれた。 近鉄奈良線の準急のなか、iPodクンを聴いていて突如、 あの「かすかさ」を再認識させられて、涙がこぼれてしまった。 空いている時間帯で、良かったあ、すぐ扉の端によって難を逃れられたし。 まだ、どかの中ではやっぱり、例えばシロップやハイロウズと比べなくても、 ナンバガやアートスクール、またはアシッドマンに感じている、 彼らの音楽や世界それ自体への信頼性は信用を持つことができないにしても、 このアルバムの4曲目、ひとつだけがどかの致命的な部分を掴んでしまって、 それで身動きがとれず、痛くて辛くて仕方がない。
これがファーストアルバムであり、 かつメンバーがあんなに若いということが、 にわかに信じられない。 いっそう、悔しいようー。 と、言いつつ、もっかい、リピートして聴いてしまう、白旗などか。
さて、どかの愛しの彼女サマ、 ファインモーションたんがスクランブルロックオンのレースだああっ (既に意味不明)!
G2毎日王冠にて起こった突然の大衆の蜂起、 その革命の故にプリンセス・ファインが自ら戴冠したクラウンを、 地にたたき落とされるという屈辱に耐えなくてはならなかった。 その後、本来ならば元プリンセスのファインには全く似つかわしくない舞踏会、 G1マイルチャンピオンシップへの出席を決意! そこで認められなければ、再起の芽が完全に摘まれるというリスク。 しかし、ファインはかつてクラウン戴冠の原動力となった 自身のずば抜けたポテンシャルを、 少しずつ開放していくことが出来るようになっていた。 伝説の名刀・デュランダルの一閃に僅かに譲ったものの、 堂々の二位! これで、人々は元プリンセスの復活を少しずつ信じるようになった・・・。
・・・というあたりのストーリーは、 よしだみほの「馬なり1ハロン劇場」というマンガに詳しいので参照されたし (公式サイトにてPDFファイルがアップされてるので誰でも読めるよ)。
さて、それはともかく、阪神牝馬Sである。 ファインモーションはこれでもう、一年以上、勝利から遠ざかってしまった。 昨年暮れの有馬記念ファン投票では牝馬ながらに堂々の一位に押された彼女が、 まさか今年、このような蹄跡を残すとは誰が予想し得ただろう。 どかは他の多くのファンと同じく、調教師の責任が大きいと思ってる。 こんなとき責められるのはいつも騎手と調教師でかわいそうねー。 と、思いつつ、どうしたって納得いかない。 ファインがまだ、チャンピオンディスタンスにこだわってダメだったのなら、 まだ納得もつくけれど、なぜに、マイル路線を選択しなくちゃなのか。 彼女の去年の秋華賞・エリ女杯を観てたら、 あの跳びの大きい美しい走りを観ていたら、 どうしたって、ごり押しマイルには向かないとしか思えないよう。
とは言っても、どかは彼女の馬主ではないので、 出馬が決まったレースはレース、応援するさ。
馬単勝負、8番ファインモーションから、
1番レンドフェリーチェ 4番スマイルトゥモロー 6番ピースオブワールド
へと流すことにする、というか6番、来るだろと思いつつ。 でもね、結果論じゃなくてね。 どか、馬券は取れなくてもかまわないって思ってたよ。 ファインさえ、元通り走れたら、それで構わないーって。
本当は阪神競馬場へ行きたかったどか、でも、昨日の疲れが残り、 とても身体が動かなかったので、テレビで観戦する。 パドックの彼女は、去年の戴冠直前のようなオーラは無いものの、 落ち着いていて、毛並みも美しく、気品は感じる。 前走・MCSのときよりも確実に良化している、うんうん。 返し馬も良い感じ、軽々しくなく、いい意味でスッと落ち着く感じ。
発走!
下馬評通り、スマイルトゥモローの大逃げで始まり、ファインは中盤、 良く折り合いながら、脚を貯めるポジショニング。 うん、かかってないし、首もちゃんと使えてる。 前人未踏の年間200勝を目指した武豊、 このレースを勝てば199勝目、しかし彼に力みは見えない、さすがだ。
最終コーナー、少し外に持ち出す鞍上、 ファインをマークしていたピースは馬群やや内の窮屈なところ。 さあ、追い出すファイン・・・! ・・・、あの備前長船のような寒気のするキレは、無い。 無いけど、グイッ、グイッと進出、 トップに出る、するとさらに外からハッピーパスが追い込む! 脚色はハッピーのが、上か? いや、もう一度、ファインが加速、差は、詰まりきらないっ。 鼻差、ファインがせんちゃくーっ。
やった・・・、やっと勝ったよ。 ジャパンカップじゃないけど。 天皇賞(秋)じゃないけど。 有馬記念じゃないけど。 G1レースでもないけど。 でも・・・やっとやっと、勝ったよー、ファインー。
着馬身差も納得いかないし(3馬身はちぎって欲しかった)、 オーラもキレもないことも辛いし、 何よりそもそも彼女がいるべきレースじゃないけれど、 でも・・・、いまはこの勝利を祝福したいと思う。 今年の屈辱も、来年の展望も、いまはどうでもいい。
彼女が元気で走ってくれてそれがちゃんと周りに認められて、 それで、いい、それでとりあえず、嬉しいよう。 と、馬券を破りながらひとりごちるどかだった。
この冬一番のえげつない寒波の襲来を受けたこの週末、 ホントなら部屋からすら出たくないのに、 家どころか、大阪を出て、雪降り積もる京都まで行かなくちゃなわけに。 来春からどかがお仕えするボス(O教授)が、ルーマニアから招聘した、 V・ストイキツァ先生の講演に出席するためね。
ストイキツァ先生の著書を読んで・・・というのは、 確か、この日記でもいつか書いた気がする。
いま採用したばかりの「日記内検索機能」を使って探してみたら、 やっぱり、書いてた書いてた・・・ごっつい便利やな、この機能
2003年08月10日 スクーリング2日目
ニューアートヒストリーの分野において、 世界の第一人者である氏に会えるのは光栄至極なのだけれど・・・。 私に分かるのか、話がっ。
結果。
む、むずかしいよお・・・、o(__)o〜† パタッ だってさだってさ、イタリア語なんだもん、おはなしさあ (ってかストイキツァ氏、英独仏伊ルーマニア語全てがペラペラ、鬼だ)。 せめて、英語でーっと思いつつ、泣きそうなどか。 でも通訳のヒト、ちゃんといたからなー、言葉のせいにできない。 極めてクレバーで、知識量もハンパ無くて、 だから論の展開が縦横無尽に飛びつつ、 でも、ちゃんと具体的な作例に則っているから、 説得力もちゃんとありつつ。 どかが最も刺激を受けたのは、講演の内容よりもスタイルだったなあ。 学者とはかくあるべし、みたいな。
その後、懇親会。 どかがO教授ゼミの先輩方に会うのは、これがほぼ、初めて。 初めての面通し、ちょっと緊張。 でも、割とすぐ、馴染めた・・・のか? みなさん、かなり変わっていて・・・いえいえ、興味深い方々で、 普通じゃないなーと思いつつ、でもめちゃくちゃアタマ良さげなヒト多し。 ちょっと、猿田彦氏を思い出すどか。 やっぱ、大学院って、そういう場なのか。 とんがらないとなー、いけないんだろーなー、 性格とかの話じゃなくてー、にんげんのカタチ的にー。 などと、ひとりごちる間も与えられぬまま、 あいさつを続けてお酌をしてされて、けっこう、くたびれ系。 一番びっくりしたのは、今年このゼミで合格したのが、 いまのところ、どかひとりだったということ、ひえ〜。 ガ、ガラにもなく重圧を感じるわ、それわ。
帰りの京阪電車の特急。 飲み過ぎで頭いたいよーとうなだれたり、 窓の外の吹雪を観ながら、少し弱気になっちゃったり。
ううん、だめだめ、だって男の子だもん。
2003年12月18日(木) |
マンハッタンラブストーリー(最終話) |
そして、こちらも最終話は、若干トーンダウン。 いや、たくさんたくさん笑ったんだけどね、 最後だからって、きょうだけこのドラマ観た人は、 呆気にとられて感触はイマイチだろうなーって。
TOKIOの松岡クン、「表情だけ」の演技が乗りに乗ってて、 ってかちょっと悪のりしすぎとも思ったけど、最後だし、ね。 で、その喫茶店の店長・松岡クンとタクシードライバー・KYON2が、 中心になって話がすすむのだけれど、最後はまっすぐ(でもないか・・・)、 ハッピーエンドで、ちょびっと意外かな。 でも、このドラマ、ほんっっとうに面白かったあ。 良いドラマ、っていうか、好きなドラマだわ。
あんたはブレンドしてはいけない2人の女性を、 同時に好きになっているんだ 分かるか・・・、あんたはブレンドし過ぎだ! ブレンド依存症だ・・・ あんたはまだ、コロンビアの味もマンデリンの味も知らない、 一方の魅力を知るためには、 もう一方を捨てる勇気が必要なんだ!
(TBS・マンハッタンラブストーリー・第2話より)
って、店長はドラマの序盤で、 一途な気持ち、純情の価値について語るんだけど・・・。 でも最終話、店長はうってかわって、 「ヒトの気持ちほどあてにならないモノはない」と語る。 ・・・確かに然り、としか思えない。 このドラマ、登場人物がほんっとに好きになってくっついたり、 他の人に目移りして別れたり、毎回毎回、カップルが変わってるくらい、 コロコロコロコロ、猫の目みたいくだったもんね。 で、店長はそれをいままでカウンター越しに眺めてきて、 彼ら彼女らの言動行動のひとつひとつにやきもきしてて、 挙げ句のセリフだもん、うんうん、説得力、あるなあ。
本人が、精いっぱい、本気(マジ)になったところで、 その本気(マジ)はいっこうに評価されず、 それとは違うところがどんどん評価されるということ。 純喫茶マンハッタンとして、珈琲の味のみで勝負しようとしていたら、 店長の意気込みとは反対に、 アイスクリーム、コーヒーフロート、ナポリタン、 レトルトのカレー、テレビ、スラムダンクなどを揃えなくちゃな感じになって、 そもそもの純粋(まっすぐ)路線がどんどん崩されていく。 結果、最近はスタバやドトに押され気味で旗色悪いけど、 どこにでもある感じのあの、いわゆる「きっさてーん」風な喫茶店ができあがり。 でもそれはそれで、常連サンたちがいつも来てくれて、幸せじゃーん? っていう。
本気(マジ)とか純粋(まっすぐ)とかが、 無条件で評価されることなんて、おかしいよなーっていうことを、 軽やかに笑いをまぶして差し出してくれるドラマだった。 だって、本気(マジ)とか純粋(まっすぐ)なことで、 近所迷惑しまくりな某国大統領の例を引くまでもなく、 そのことを信仰のように崇めていてもきっと、 何も、幸せになれるとは、限らない。 幸せになれるかも知れないけれど、さあ? っていう。
でも、そうだと思うの、うんうん、そうだよなー、そうだもんさ。
本気(マジ)信仰とか純粋(まっすぐ)宗教とか、 そんなのが、真実であり絶対であるなんていう幻想は、 どかは大学3年の秋に、捨ててしまった。
じゃあ、宮藤官九郎は、本気(マジ)とか純粋(まっすぐ)になんか、 なるもんじゃないよ、なっちゃダメダメって言っているのか? 違う、そうじゃない。 本気(マジ)とか純粋(まっすぐ)なんてさ、 ことさらエバって言わなくていいじゃんよ、こっぱずかしい・・・ ってことなんだと思うのね、どかの解釈では。
だってさ。 本気(マジ)にもなれないようなヤツは、 カッコワルく無いかも知れないけど、つまんない。 純粋(まっすぐ)になれないようなヤツは、 カッコワルく無いかも知れないけど、友達にはなりたくない。 っていう。
そんなん。 本気(マジ)なんて、言わずもがな、当たり前だから。 純粋(まっすぐ)なんて、言わずもがな、前提だから。 でもそこで立ち止まっちゃって意固地になって、近所迷惑になるくらいなら、 辛いことのモスコシ先まで進んでみて、自分を笑っちゃおうぜい。 っていう。
そう考えるとすごい、ふかーいオットナーなドラマだったんだなーって思う。 コメディでしか言えないことを、ちゃんと言い切ったドラマなんだー。 恥ずかしいセリフを言うときは、見ていて、ちゃんと笑えるように。 泣けるシーンになるときも、見ていて、ちゃんと笑えるように。 本気(マジ)になってるキャラに、見ていて、 完全にシンクロしちゃわないように。 純粋(まっすぐ)になってるキャラに、見ていて、 100%シンクロ、しちゃわないように。
失敗したっていいじゃない、人間だもの!
(同上・第8話より)
と言うKYON2は、特撮5人モノの、 ピンクの衣装(コスモピンクというらしい)を着こんでポーズを決めており、 その後ろで店長(@コスモレッドの衣装)がさらに、
相田みつをだ・・・
(同上・第8話より)
とツッコミを入れる。 きっと、宮藤官九郎とスタッフ達は、 このセリフ「失敗したって・・・」をバカにしているのではなく、 このセリフと同じくらい、コスモファイブのアホな衣装と、 店長の冷めたツッコミも大切だ。 と、言いたいんだと思うの。
きっと、全部、そういうことなのだろう。 うーん、深いなー。
・・・
蛇足・このドラマ、視聴率悪かったらしい。 「白い巨塔」の裏だったという不運が大きいのだろう。 でもなー、みんな、こういうドラマを大切にしようよー。 今後、こんな感じのドラマが作られなくなったら、ダメだよ。 いまだからこそ(2003年・日本)、こういうのが、必要なのにぃ。
・・・このオチは、およそ想像がついたわけだけれど。
予想以上に、あっさりしていたなあ、最終話。 もう少し、土壇場の急展開があるのかと思ってたけど。 でも、これはこれでしょ、やっぱこのドラマの面白さは、 ストーリーじゃなく、役者の演技だったもの。
でもそのストーリー。
カード会社が舞台なのよね、クレジットカード会社ね。 おっと、思い出すなあ。 どかの前の職場、まさにそうだもんね。
で、多分、某会社なら「計算センター」と呼ばれる部署が、 まさしく殺人事件の震源地となるわけで。 そしたら、これがまた、リアルなんだ、描き方も。 よっぽどちゃんと取材しないと、 「加盟店」だの「会員」だの「売り上げ」だの「明細」だの、 あんな風に自然にセリフに織り込めないだろう。 って思ってたの、ビックリしながら。
最終話でも、主人公・冬川美咲(浅野温子)が、 10年前に会社の売り上げを横領したときの心理状態を、 マサト(三上博史)が代弁するくだりがあって。
で、自分は安い収入で働いているのに、 世の中には一日で100万も200万もどんどん使うやつがいる。 自分の目の前をすごいお金が素通りしていく。 やってられない・・・
みたいなセリフなんだけど・・・リアルだ。 というか、そう思うもんな。 だって・・・思ったもん、どかも。 一応の権限をその昔、どかも持っていて、 で、ある一定金額までは自分がサッと信用販売を承認しちゃってたんだよね。 でもその権限も、ウン百万なわけで、 自分では使い切れないような金額が、 無機質な数字となってどんどん、 それこそ数秒ごとにどんどん通過していく。 そりゃあ、とらわれるって、誰でもそういう、虚無感に。
非接触型のICカードの仕組みについても、ちゃんと取材されてて、 ウソはかなり少ないプロットになってたし、 きっと、大多数のヒトは、何気なく流すディテールも、 そしてどかも、5年前の就職活動で、あの会社を選ばなかったら、 何気なく流していたであろうディテールの、 そのいちいちが、どかはかなり、楽しめた。 ちがうところでドキドキしちゃった。
・・・! そしたらなんと、この脚本家さん、 昔、どかがいた某カード会社に、 まさにあの会社に勤めてたヒトなんだってっ。 ああああ、どおりでーっ。 だよなー、そうじゃなくちゃ、ここまで上手く、 ストーリーとカード会社の本質を絡めること、できないだろうしなあ。
まあ、それはそれとして。 最終話は若干、トーンダウンしちゃったけど、いいドラマだった。 三上博史と浅野温子は、やっぱり千両役者、 往年のトレンディードラマの時代を支え続けた力量は健在だった。 「もうひとりの自分」ってオチは、ちょっとオカルトちっくで、 で、ちょっと小ズルいウソ(演出でね)があったりして、引っかかるけど、 でもまあ、どかはオカルトっぽいの自体にはそれほど嫌悪感無いし、 それも含めて、あの名作ドラマ「ツイン・ピークス」っぽい雰囲気が好きだった。
デビッド・リンチ監督の伝説のドラマ「ツイン・ピークス」は、 アメリカのさびれた山村で、人々の孤独の隙間に忍び込む殺人事件がテーマ。 でも、21世紀、一番人々が孤独になるのは、都会の企業の中なのね。 そう、カード会社とかね、孤独だよねー(おっと)。 もう少し、 お金と時間をかければ「ツイン・ピークス」に迫る完成度になったかと。 最近たたかれて、大変だろうけれど、がんばれ、NTV。
あ、ひとつだけ、全然だめだったところ。 主題歌。 Skoop on Somebody はあかんやろー。 ぜんっぜん、だめ、ぶちこわし。 あの重厚な役者陣の演技から、浮きすぎ。 曲調はちょっとサスペンスっぽいけど、 歌唱力、演奏力、全部ダメ。 もったいないなあ、もっと、いるだろうにね。 だめだぞ、NTV。
2003年12月14日(日) |
つかこうへいダブルス2003「飛龍伝」<大阪厚生年金会館3> |
(続き)
○ 山崎一平…第四機動隊隊長・神林の夫・桂木の幼なじみ:筧利夫
山 崎 殴ってやるよ、オラオラオラッ・・・そうだよ、 オレは相手が誰だろうと給料分は弾圧する、給料分は殺す キサマは少しでもそのオレのつらさを解ろうとしたか! 解ってオレを裏切り続け、愛もなく勝利を産んだか! よし、こうしよう、お前が生きろ オレは11.26、ヘルメットつけていかないから お前がオレを殺してくれ (つかこうへい「飛龍伝」より)
1970年当時の「革命」において、機動隊の隊員と全共闘の学生はお互い対立する敵同士である。しかしこの敵対関係というのは、逆説的な補完関係ととることも可能である。つまり、一公務員でしかない機動隊員が給料分の仕事をするためには、弾圧する対象である暴徒・学生が必要でありかつ、街頭にデモに出る学生が理想のための闘争に殉じるためには、罵倒投石の対象である国家権力・機動隊が必要である。そしてこの補完関係に、山崎と神林の恋愛が投影されていくのである。先に引用した2人の会話とは、まさにこの投影されて「革命」=「愛」というフィールドが形成された瞬間である。山崎にとって警棒と催涙弾が神林へ自らの愛を伝える唯一の手段であり、神林にとってシュプレヒコールや投石が山崎へ自らの愛を伝える唯一の手段であった。それもこれも全て、自らの理想を優先するためではなく、相手の理想を優先するために、そしてそのために自ら属する立場に徹底的に殉じていこうという、ねじくれ曲がったような、しかしどこまでも真っ直ぐな恋心がここにある。つかこうへいを批評してきた幾多の評論家が使ったフレーズ「前向きのマゾヒズム」とはここに極まる。ここを理解しないと、なぜ山崎が、作戦を盗まれたことへの報復であれほど神林を痛めつけなければならなかったのか、そして同時に自らもボロボロになるほど痛まなくてはならなかったのかが理解できない。
つか一流の「ねじくれ方」への免疫が薄い観客ならば、なぜ日記を盗み読まれただけでここまで執拗かつ苛烈に、自ら愛する女をなぶりいたぶり痛めつける必要があるのか、理解に苦しむに違いない。しかしこのシーンでは、神林が「ワタシはあなただけを愛しているから」と言葉で伝えたとしても、山崎の心には届かないのだ。表面上は学生と機動隊としてお互いがお互い相手を攻撃しあい、そしてその内面でお互いがお互い自ら傷つくことでしか、相手への恋心を表現し得ない不器用な人間だからだ。逆に言うと、相手への気持ちが溢れすぎて「そうせざるを得ない」のだ。どかは最近やっと、分かった。アタマの理解じゃなくてココロで納得した。そういう馬鹿げた、馬鹿げているけれど切ない関係が、存在しうるということを。そしてどかも、その関係に入る可能性があるのだということも。
だから山崎にとって、神林が作戦を盗んだこととは、単なる裏切り行為に留まらず、この逆説的な純愛の関係全てを否定する大罪なのである。お互いが逆説的にねじくれ曲がっていれば恥の感情を抑えておけるところ、相手(神林)がこの「逆説的誠実さ」をすてて「真っ直ぐな裏切り」に走ったため、自分のねじくれ方がとたんに恥に思えてしまいコンプレックスへと変貌、山崎は狂気の暴走を始める。それは最初のねじくれ方の度合いが激しいほど、それがゼンマイのようにキックバックは大きくなる。神林と自らをボロボロに傷つけつつ、山崎はひたすらなじりなぶり罵倒を続ける。観客は自らのココロの中に渦巻く闇の深淵に、同じ刃が眠っていることを否定できないから、神林の痛みを思って涙を流しつつ、山崎の痛みを思って耐えなくてはならない。
山 崎 オレたちの警棒には鉛が入ってる お前らの角材見てみろ、ちょっと押しゃ折れちゃうんだよ が、オレがお前に一度でも、 こんなヤワなちょっと押しゃ折れるような角材ではなく、 針金でもまいてもっと丈夫な角材、使ってくれと言ったことがあるか!
(つかこうへい「飛龍伝」より)
・・・「飛龍伝」のハイライトであるこの山崎の部屋の場面ほど、見ていて苦しいシーンにどかはまだ出会ったことがない。お互い傷ついて傷つけあって、それでも止まることが出来ないほど愛は深く大きくて「恋愛」とはもともと、これほど熾烈なものであったのか。「恋愛」とはもともと、これほど苛酷なものであったのか。そう愕然とするばかりである。「恋愛」とはそもそも、お互いの本当の自分をシェアしていく幸福にいたる道筋のハズなのに。自由にいたる道筋のハズなのに。そう思って人は動揺してしまう。しかしこの世で最も恐ろしいのは自分の心の奥底に潜む釜の中、欲望渦巻く真実の自分である。誰もが寂しいことに疲れてしまい寄り添ってくれる相手を求める。そして本当の自分を知って欲しいと願う。けれども自分自身、本当の自分を知らない。それを知ることは、怖い。その怖さに耐えて、筧利夫演じる山崎はその釜の底に向かって「まっとうに」堕ちていく。そして神林をボロボロに傷つけ、返す刀で自らを切り刻んでいく。そこまで相手を責めると言うことは辛いことなのに。そこまで自らを痛めつけると言うことは辛いことなのに。それでも山崎は、恐怖に耐えて堕ち続けていく。
広末演じる神林はその持ち前である良い意味での「弱さ」を、精いっぱい発動して筧・山崎のラストスパートに食らいついていく。青山では振り切られがちだったこのシーンも、大阪ではちゃんと、食い下がった。正しくまっとうに、舞台上で泣いていた。筧の言葉をこぼさず全部、受け止めていた。正しく「弱い」ということとは、他人に向けたアンテナの感度が高いということだ。広末はまだ、その感度にブレがあるけれど、12日ソワレのこのシーンでは、奇跡的なチューニングが実現していた。上記のセリフは、神林と山崎が釜の底へ向かって血を流しながら落下し続け、ついにぶち当たった底でたどり着いた言葉である。このねじくれた「まっとうさ」が与えてくれる剛速球の痛みに、観客は打ちのめされる。この慈悲深い優しさに満ちた「残酷」に、そして観客のヒューズは飛んでしまう。この後、神林を「革命」へと導いたコンプレックスが彼女の口から提示され、その闇の「まっとうさ」に山崎は彼女を赦す。「革命」が「愛」の場であれば、正しく「革命」へ向かう動機とは、正しく「愛」を目指す意志であると信じられるからだ。
○ 伊豆沼露目男…横浜国大委員長・組織にあって随一の実力者:武田義晴
伊豆沼 委員長、この伊豆沼、恥をしのんでお願いする次第であります 何とぞ妻の供養に、袖のひとつでも通して下さいませ
神 林 伊豆沼さん、似合いますか・・・似合いますか
(つかこうへい「飛龍伝」より)
神林は煉獄の地獄を抜けた果てに山崎と邂逅する。しかし、山崎との「愛」を再びつかむということは「革命」の場への復帰を意味する。11.26最終決戦の朝、幹部・伊豆沼が山崎の部屋へ神林を迎えにくる。伊豆沼の妻はこの日の未明に他界、病床の妻が神林のためにと揃えたヘルメットとヤッケを差しだし伊豆沼は、「私事であります」と断りながらしかし、土下座をして神林に「何とぞ」と頼む。神林に想いを寄せていた伊豆沼の横で、妻はその夫の思い人のためにヤッケを縫い続けていた。ここにも苛烈なまでにねじれた愛情がある。90年の初演以来、ほぼ全てのセリフに改訂が入ってきた戯曲「飛龍伝」のなかで、ほぼ唯一、全く変わらなかったセリフがこの横浜国大委員長のセリフである。「革命」という季節に「愛」はどのような形を取りうるのか。逆説的な愛とはいかに熾烈で苛酷なものなのか。そしてそのシルエットがどれほど美しいものになっていくのか。
「飛龍伝」の核心に最も近いところにいるシーンであり、セリフである。武田サンは青山では少しもたつく場面もあり、このテーマを背負うセリフに負けていた節がある。が、大阪では、ほんっとにどかの目の前で「委員長、お迎えに上がりました!」をやってくれて、それがまた見違えるほどの加速度があった。またこの伊豆沼の極めて強いセリフを受けなければならない神林。彼女はだが山崎との邂逅を果たし、もはや迷いは無い。委員長として「革命」の流れを、そしてその後ろの「愛」の流れを引き受けていく覚悟が生まれる。こういうシーンで「革命」の理想ではなく、愛をむしろ意識させるのが5代目神林美智子・広末涼子の「弱さ」の効果。好みは別れるだろうが、どかは4代目・内田有紀の真空にひとつ輝くシリウスの光よりも、広末涼子の大気を通して瞬くベテルギウスの明かりのほうが好きだな。いずれにしても、屈指の名シーンである。
○ 神林美智子…全共闘委員長・桂木の恋人・山崎の妻:広末涼子
神 林 泊さん、貴方の変わらぬ忠誠、忘れることはありません
泊 神林、貴様!オレに・・・
神 林 貴方は早稲田四万を率いて、半蔵門から国会前に向かってください そこには機動隊精鋭十五万が待機しております
泊 貴様、ここまで尽くしたオレに死ねっちゅうんか!
神 林 早稲田四万、おとりとなって死んでください それしか全共闘軍の活路はありません
泊 (錯乱する)怖い、怖い、死にたくねえ、死にたくねえよ!
(つかこうへい「飛龍伝」より)
デジャビュを見るような思いである。ちょうど一時間前にはステージ上で、この2人が立場を入れ替えて同じ芝居をしていた。山崎の部屋への潜伏命令を拒み錯乱した神林を諫めたのが泊。が、ここにきて、ちょうど立場が逆転する。つかこうへいの戯曲は「飛龍伝」に限らず、細かいディテールや場面場面の繋がりなどは、かなり荒唐無稽であり論理的整合性が保たれていないことが多い。つか芝居になれてないと、そういった目先の不合理や矛盾にとらわれてしまって劇世界に入っていけないことも、ままある。しかし、つかはそのような細かい些細な筋を通すことよりも、もっと大きく深い流れを二時間のステージに通すことを狙う。例えば伏線の張り方もそうである。「飛龍」名物の雲海上のスケーティングシーン、神林の尻を触った山崎が自らの右手を掴んで「なぜおれは」というゼスチャーとは、11.26国会前にて神林を撲殺した瞬間の山崎の姿そのままである。あえて、演劇的なテンションの高まりを序盤中盤にあらかじめ絵として作り、その絵をクライマックスに再現する手法は、よほどそのシーンのテンションに自信が持てないとできない。少しでも弛緩すると、単なる平板な既視感で終わってしまうからだ。だが、劇作家つかこうへいは敢えてそのリスクをおかし、そして演出家つかこうへいは意地でもその構造を演劇的カタルシスへと繋げてしまう。泊と神林のこのシーンもそうである。
神林はもはや、以前の彼女ではなく、正真正銘の委員長として君臨する。彼女をつき動かすのは、理想を実現するための革命成就への意志であり、すなわちその果てにある山崎との愛の成就に他ならない。「理想」は美しい。「志」は高貴である。だが、血の通った生身の人間が、それらのものを携えるとき、必ずそこには生々しい感情があるはずである。人間がプログラミングされたロボットではなく、あくまで誇り高き人間であるならば、そこには強い感情があるはずである。「理想」や「志」が強ければ強いほど、そう、例えば坂本龍馬が夢見た自由元年という究極の「理想」ならば、それを裏打ちしているのは沖田総司への究極の感情「愛」であるはずだ。たとえば、安保反対の向こうに理想の日本を夢見た全共闘の面々が「革命」を志すならば、それを裏打ちしていたのは最も強く熱い感情である「愛」であったはずだ。ここにつかこうへいが演劇を通して繰り返し繰り返し表現している、ひとつの祈りがある。このただひとつの祈りを、つかこうへいはこの陰惨で殺伐とした時代のなかにあってなお、上を向いて立ちつくす力としているのだ。泊は同じ早稲田の部下の諫めにあって、「革命」の場に踏みとどまる。その踏みとどまる彼の力とは、亡き妹への思いであり、神林への切ない恋情であったのだろう。
泊 神林、お前にもらったハンカチ持っていってもいいか これで妹の涙をふいてやりてえんだ いつも泣いてた妹だからきっと成仏できる、喜んでくれると思うんだ ・・・早稲田、行くぞっ!!
(つかこうへい「飛龍伝」より)
泊たち早稲田の学生は、機動隊に向かって突進し。校歌「♪都の西北」が流れるなか、早稲田の学生達は、みな撃たれて倒れていく。ナレーション「全共闘、泊平助、死亡」と入った後、神林と山崎の最後のラブシーンとなる。息を飲むほど美しいキスのあと、ついに最期の別れ。神林はフッと微笑んで、山崎に向かって敬礼する。
流れてくるピアノのイントロは、ベット・ミドラーの名曲「♪ROSE」
・・・
・・・どかにはもう、これ以上、付け加えることは、ない。
2003年12月13日(土) |
つかこうへいダブルス2003「飛龍伝」<大阪厚生年金会館2> |
(続き)
○ ネズミ…高卒の全共闘闘士・上京後すぐの神林と一時同棲:小川智之
ネズミ そんなお金持ちの東大のお嬢さんだったなら、 最初にそう言ってくれなきゃさ オレ言ったよね、オレ、バカだしオレたち正直に本当のこと言って 仲良く生きていこうねって言ったよね
(つかこうへい「飛龍伝」より)
めがねをかけ続けていた神林をブスだと罵っていたネズミが、彼女の美しい素顔を見、彼女の優秀な素性を知った時の台詞。つかの戯曲において<権力構造>はとても大きな比重を占める。強者と弱者の関係がおしなべて全てのシーンに敷き詰められている。例えば「蒲田行進曲」であれば、スターさんと大部屋俳優。例えば「熱海・モンテ」であれば、五輪代表選手と補欠選手。もちろん「飛龍伝」においても然り。大学のエリートである全学連闘士が強者であり、中学出のバカである機動隊が弱者という構造は代表的なもの。けれどもこの<構造>とは何も、そのような社会的な職業や立場に限ったことではない。友情や恋愛、個人的な繋がり、そんな一見対等な関係にみえる中にもこの<構造>は、必然的に不可避のものとして入り込んでくる。
この台詞は、それまで「君と暮らし始めてオレ幸せ」とか言っていても、神林のことを分厚いめがねをかけたブスだという蔑みがあり、この卑俗な感情の裏打ちによって保たれた平衡が、一気に崩れる瞬間である。この娘はブス、オレは高卒、そんなコンプレックスの綱引きによって得られる平安。しかしこの綱がちぎれてしまった時、<権力構造>は露わになってしまう。自らの劣等感と向き合わざるを得なくなったネズミは、さらに、自らどうしようもなく神林に恋していることも自覚してしまう。このダブルバインドによって金縛りにあったネズミは、圧倒的強者である桂木からリンチされる。しかし観客の胸を締め付けるのは彼の肉体的苦痛ではない。ダブルバインドに囚われたネズミの中、精神の卑俗な闇のねじれによる苦痛こそ、観客を締め付ける震源だ。「私たちの中にも、あの闇は、ある」と、直感してしまうからこそ、リンチを受けるネズミの横顔に涙するのだ。逆に言うとここで「もし」、絶対的強者である桂木が現れなかったら、あのダブルバインドはより残酷に神林とネズミを切り刻んでいたことになる。そして劇作家つかこうへいは、この「もし」を劇後半、現実のモノとして観客に提出する。この絶大な演劇的破壊力を生み出すメタ的伏線の張り方こそ、つかこうへいの恐るべき構成力の発露である。
小川智之サン、なかなか良かったと思う。北区の若手のなかで唯一、愛嬌という引き出しをもつ器用さを持ち、また身体の軸も決まってきたからネズミという大役も回ってくる。「飛龍伝'94」の木下サンには比ぶべくもないけれど、近い資質を感じる。蹴られながら「言っちゃダメだ、オレ君と別れたくないっ」という叫ぶ声の響きに、どかは最初の涙を流す。
○ 猪熊虎象…第1機動隊隊長・山崎の親友:清家利一
猪 熊 朝から晩まで土方みたいに働いてるわしらの給料が七万で、 酒くらって昼頃まで寝てるお前等の仕送りが十三万 そんな奴らの言う「革命」なんて誰が信用できるか!
(つかこうへい「飛龍伝」より)
エリート然とした全学連の幹部と相対する、機動隊・猪熊が「貧乏人が東京に来るんじゃネエ」と罵倒されたあとの有名な台詞。強者・学生vs弱者・機動隊という構図は、この猪熊のコンプレックスの爆発で一気にひっくり返される。強者が恐れるのは、弱者がコンプレックスに開き直る瞬間である。そのとき、強者はなすすべがなくなる。悲劇のヒーローとして描かれることの多い学生に対して、悪役として描かれやすい国家権力の権化・機動隊だが、実際の現実は、例えば、学生なら理想に殉じることでヒーローを気取れるけれど、機動隊は仕事として給料分は学生を弾圧しなければならないという切なさがある。一般的なイメージである強者・機動隊に対して弱者・学生という地点ではなく、敢えてそれをひっくり返した地点からものがたりを書き下ろしていくつかの洞察には、ほとほと感服せざるを得ない。だからこそ、機動隊圧勝という結末に終わる11.26の最終決戦が、重層的なマイルストーンとして起動するのだ。
JAEの清家サンは、さすがの殺陣の実力。筧サンの殺陣がどっちか言うとギャグ寄りだったのに対して、警棒の本当の使い方を見せてくれた。また、伝兵衛までやってのけた実力者でもあり、「飛龍」屈指の強い言葉である上記の台詞、任せるとすれば清家サンしかいなかったのも頷ける。まだ、山本亨サンのレベルには到達しないモノの、最も近いところにいることを証明する説得力。かっこいいなー。
○ 桂木順一郎…全共闘作戦参謀長・神林の恋人・山崎の幼なじみ:春田純一
桂 木 美智子、心配するな 必ず迎えに行く、オレたちを引き離すものなんて何もないんだ
(つかこうへい「飛龍伝」より)
「機動隊の配置図を盗み出すために、機動隊隊員の部屋へ潜伏し同棲する」という下劣な作戦。全共闘の幹部たちは平の組織員となった桂木に対してこの作戦を、彼の恋人である神林に命令しろと迫る。それが、泊の妹を見殺しにし、横浜国大の伊豆沼の妻を半身不随にさせたことへの償いであり、桂木自身が作戦参謀長へと返り咲く条件であると言うのだ。追いつめられた桂木は神林を指さし「この女だ!」と叫ぶ。このセリフはそれに続くもの。ここにつか一流のねじくれ曲がった欲望のるつぼが見える。神林のことを全共闘の学生達は等しく愛しいと感じているが、その愛しく思う偶像(アイドル)としての神林を一方で激しく、憎み卑しめたいと思ってしまう。しかし人間の品性を全て破棄したことを宣言するに等しい下劣なこの命令を、自ら神林に言うことはできない、怖くてそんなこと言えない。だからこそ、学生達は神林とつき合っている桂木を利用した。ここにおいて学生の幹部達は、桂木の作戦参謀長へ返り咲きたいという虚栄心に訴えているように見えるが、実はそうではない。
そうではなく、桂木の恋心に、学生達は賭けたのだ。その相手を愛しく思う強い気持ちがあればこそ、逆にその相手に卑怯下劣な仕打ちをすることにも耐えられるだろう、と。ここにも恋愛における権力構造が見える。相手を愛しく強く思うということは相手に否応なく惚れてしまっているという弱みに転換される。そこにおいて、惚れさせた強者は神林であり、惚れた弱者は桂木だ。そしてこの弱みが、牙を剥く。だからこそ「心配するな」という厚顔無恥な言葉を継ぐことが桂木にはできるのだ。強烈な愛情と強烈な憎悪は紙一重でのみ隔たれているだけであり「愛憎半ばす」という曖昧な定義で片づけられない。ともかくも「桂木の恋心こそ、神林を貶める唯一の鍵」という、このねじくれ曲がった感情の綾が、一見行き過ぎた理想への殉教のように見えるこのシーンの底辺に流れる真実。
つかこうへいは自身の戯曲において、たびたびこの逆説の<権力構造>を持ち出すことからも、生涯のテーマととらえていると思われる。「広島に原爆を落とす日」でも、主人公の男が原爆のスイッチをおす唯一の拠り所が、そのスイッチを押すことで殺すことになる女性への激烈な恋心であった。「蒲田」の銀ちゃんとヤスもそうだし「ロマンス」のシゲルと牛松もそうだ。そこにおいて、恋心とは爪をはがされるかのごとくな痛みや精神がひきさかれそうなほどの惨めさをもたらすものでしかない。「そして、それでもお前は・・・?」と問いかけるのが、つかの神髄。桂木は、御大春田サン。大阪では東京のキレの無さはきっちり修正、この惨めな恋心をしっかり抱きしめる腕力を発揮して、頼もしかった。それでこそ、ジュンジュン!
○ 泊平助…早稲田大学委員長・桂木に妹を見殺しにされた:小川岳男
神 林 なんで私が革命の犠牲にならなきゃいけないの? あたし四国に帰る お母さん、助けて、助けて イヤ、イヤ!
泊 神林しっかりせんか!<殴る> 組織が決断したことだ
神 林 ・・・取り乱しました 泊さん、いつも助けていただいて感謝しております
泊 すまん・・・!
(つかこうへい「飛龍伝」より)
桂木から先の命令を告げられた神林のシーン。神林はここで錯乱し、泣いて逃げ出そうとするが学生たちに取り押さえられる。それをなお振りほどこうとする彼女を、狂気にとらわれた学生の中で唯一、誠実で実直かつ理性を保つ神林の理解者・泊が断腸の思いで諭す場面。このシーン良かったな。どかは大好きだったよ、ベスト3に入るね!だってこの開演1時間ほどたった後のこのシーンこそ、2003年バージョン「飛龍伝」開幕を敢然と宣言したのだとどかは思うもの。まずびっくりしたのが、錯乱して弱さをさらけ出す神林。これまで'94の石田ひかり、'01の内田有紀はともに、このシーンはグッとこらえてあくまで凛々しく桂木の下劣な命令を受け止めていた。理想と現実に挟撃され、男社会に翻弄され、それでも負けず凛々しく立つ力を、それこそ聖なるジャンヌダルクとして生きる神林美智子を演じてきた。しかしつかは今年、神林の弱さにフォーカスを容赦なくあてた。だから今回の広末のことを「線が細く弱くてダメ」って言う人がつとに多かったようだが、そういう批判はあたらない。つかはだって、そのように神林を演出したのだから。
そしてつかはさらに周到に、彼女の弱さをサポートするキャラクターに、小川岳男@泊平助という絶妙なキャスティングをする。'01には第四機動隊隊長までつとめあげた、つかの秘蔵っ子は、とにかく誠実であり優しく強い個性という演出を受ける。しかしこの「すまん」はグッとくる。妹を機動隊の弾圧で失っている泊が「組織が決断したことだ」というのだ。先の猪熊のセリフが機動隊の悲しさを十全に語り上げるものだったとすれば、このシーンは全共闘の学生側の悲しさを結晶するシーンである。ちょうど劇中盤のこの場面において「飛龍伝」の世界は土壌として成立し、ここから物語はグッとうねりはじめる。
どかは神林の「お母さん」で既に号泣だったのだけれど、その後の泊のこのセリフでノックダウンだった。しかし、下劣かつ悲惨な学生側の現実にあってこの泊と神林の邂逅とは、美しい唯一の帳のように観客の心のなかにそっとかかるのだけれど・・・、クライマックス、この帳が一気に翻される。劇作家つかこうへいの、計算し尽くされた恐るべき構成力である(このことは後に検証したい)。
(続く)
2003年12月12日(金) |
つかこうへいダブルス2003「飛龍伝」<大阪厚生年金会館1> |
(参照→2003年12月04日「飛龍伝」<青山劇場>)
実は2001年の「新・飛龍伝」のときも、東京公演の日程が終了したあと、大阪のシアター・ドラマシティーに移ってから俄然、出来が良くなった(とくにあっくん)と聞いたのね。それで、大阪が観られなくて悔しくてたまらなかったのを覚えている。大体、演出家つかこうへいの性を考えたら、東京から大阪に移るときに少しだけ得られる日程的な隙間を、舞台の向上のために積極的に使わないわけがないし。ステージの広さは国内最大級の青山劇場から比べたら、かなり狭くなってしまうから、舞台に上がる役者の人数は少し減っちゃうのだろうけれど、それでも。
12月12日ソワレ@大阪厚生年金会館・芸術ホール・・・したら、予想通り。いや、予想を超えた衝撃、有り得ない。完成度が全く別の次元に到達してたのっ。<青山劇場ver.>は「いろいろ言いたいところはあるけどでも良い舞台」だった。でも、この<大阪ver.>は「完璧」だ、いや「完璧」という言葉の限定的で固定的な響きがそぐわない。もっと、こう「無限」で「永遠」な印象で、そう、違う戯曲のセリフだけど・・・
私とあなたが愛しく思い合うその力は銀河の果て、 漆黒の闇の中、荒ぶる魂として白く屹立し、 宇宙の何処かで必ずや、あいまみえる日は来るのです
(つかこうへい「銀ちゃんが逝く」より)
このセリフに端的に顕れる、希望に満ちたまぶしい「絶望」が、もし形をとることを許されるならば、それはこの「飛龍伝」の舞台でしか有り得ないだろう・・・。静謐な理性が整頓される「完全」さではなく、混沌の感情が渦巻く「宇宙」。それはつかこうへいが求めて止まなかった、理想そのもの。
・・・
ここまで劇的な改善に結びついた動因は2つあるだろう。ひとつは会場の違い。もうひとつは追加されたつかの演出である。
大阪厚生年金会館・芸術ホールも、決して小さくないホールである。キャパは1,000人くらいか。でも国内屈指の大劇場・青山劇場と比べると、決定的に、舞台と客席が近い!東京のいろんな劇場を見てきたどかだけど、これはかなりビックリした。客席のもう、目の前がすぐ、舞台なの。で、どかはしかも前から5列目の舞台下手(しもて)より、絶好の席順。筧が、春田が、広末が、小川が、武田が、息づかいまで感じられるほどの位置。その会場自体の凝集感だけでなく、ステージ自体の大きさも無視できない。幅は青山とほぼ同じらしいけど、奥行きが大阪は半分になってるらしい。それだけ緊密な関係性が実現することになる。歌舞伎やらミュージカルやら、あの手の壮大な形式美を求める芸術ならいざ知らず、いわゆる演劇の冠せられる表現なのであれば会場なんて小さければ小さいほど良いに決まってる。しかもつかこうへいの戯曲なんて、絶対小劇場向きだもん、あんな濃いい情念の芝居。青山のときと同じように、役者はみんな超小型マイク付けてた。でも青山ではさすがに必須だろうが、大阪ではいらないんじゃないかと思って観てたどか。とにかくこの厚生年金会館という場それ自体の「ポテンシャル」によって、スカスカ感は一掃された。殺陣の迫力もすごいしなー、ダンスや歌のシーンも引き込まれるし。神林への怒りを爆発させる山崎の、あの射抜くような狂気の眼差しの延長線上のすぐ近く、泣き濡れるどかはいたのだし、何より横浜国大委員長・伊豆沼の慟哭!あの名セリフ名場面が、どかの位置からだとホントにすぐ目の前だった。そりゃ、泣くさ。あれで泣かなかったら、きっとその人は、涙腺が文化的寒冷前線の影響で凍っちゃってるんだよ。
で、しかもつかは、青山で弱かった部分を徹底的に鍛え上げてくれた。どかも先で触れたように、あまりにも筧と広末の2人が浮きすぎていて他のキャストが置き去りにされたような寂しさが青山では拭えなかった。どかのこの印象は間違ってなかったらしい。つかこうへいは大阪にて、この青山の「欠点」を確実に潰してくる。大筋ではあまりセリフは変わっていないように思えるが、若干、助詞や文末に細かいリファインがかけられていて、役者に馴染むよう改訂してきた。また、成長し伸びてきた役者にはあらたな見せ場を作り、反面、ちょっと厳しい役者は容赦なくセリフを削る。大阪で一番見せ場をゲットしたのは、北田理道サンだろう。どかがレビューでも書いたとおり、小川岳男伝兵衛ver.の「熱海」で健闘した彼は、勢いそのままにこの大舞台でも見事、つかに認められていた。11.26最終決戦のシーン、早稲田大学の学生が神林を迎えに来る場面、早稲田大学の北田は自らの不義理を詫び壮絶に切腹する。クライマックス怒濤の流れの中、その流れを止めて自分の見せ場を作っちゃったんだもん、どかはビックリしつつ感動したよ。北田クンが最も目覚ましかったけど、でも、青山では結構「うざかった(暴言多謝)」嶋サンや友部サンもかっちり修正してきて言葉が届くし、他の役者も弛緩しつつ怒鳴ってただけの青山から、かっちり気持ちと言葉を重ねてテンションをあげて来ていたので、「ああ、つかは良い仕事をしてるなー」って本当に感心する。あっくん、武智サンに成河サンなど、準エース軍も俄然説得力が違う。音声じゃなくて気持ちを相手に届けるということを、一番高いレベルで実行できているから、同じようなセリフを音声に換えてただけの一週間前とは次元が違う。つかが目指した「名も無き学生ひとりひとりのキャラ立ち」が、確かに実現していた。「キャラ」が「立」っているからこそ、あの11.26最終決戦にて散っていく彼らの最期、神林に向かって差しのばされる腕が、まぶしく光るのだ。
素晴らしい脚本に、素晴らしい役者が集まった青山、それに加えて、さらに素晴らしい演出に、この上ない最高のホールが揃った大阪。どかは、この瞬間を6年間、ずーっと待ち続けてきたんだ。つかこうへいの台詞は、心は、志は、あまりに強すぎるから、いつも役者をどこか追い越してしまっていた。役者がそれに引きずられていた。若く拙い役者たちを、演出家つかこうへいは叱咤激励し、時には激賞して時には恫喝して、なんとか台詞に食らいつけるよう手がかりを提供してきた。けど。それでも、その台詞に追いつける「スピード」を持った役者は揃わなかった。とくに2000年中頃〜2002年上期頃は演出家としてのつか自身がスランプだった。舞台上、役者にも演出家にも追いつけないかわいそうな言葉としての台詞が、ただ空しく痙攣していた、そんな時期もあった。どかはその舞台に取り残されてしまった言葉が心が、志が、不憫でならず、哀れに思えてならず、もうつか芝居は観るのをよそう。そう思ったことさえあった。しかし2002年初夏「モンテカルロ」、2003年春「ストリッパー」と復調の兆しを見せてきたつか芝居は、ついに、2003年初冬「飛龍伝」においてある極みにたどり着いた。つかこうへいという類い希な才能による極限の「スピード」を宿した台詞や心、志に対抗して、素晴らしい役者達の努力とあるひとりの天才舞台役者の華の結合が同じだけの「スピード」を達成するに至った。これまでの戯曲の独走勝利から、舞台上で全ての要素がサイドバイサイドの激しいドッグファイトを繰り広げ、至高のグランプリレースとなった。
この舞台に出会えた幸運な人生を、どかは何かに感謝せざるを得ない。
山 崎 私はこれからも、学生さん弾圧するのに手を抜きません それは、一生懸命戦っていらっしゃるあなたに、 失礼にあたると思うんです そして、それが僕の愛の証だと思ってください
神 林 私もこれまで以上にあなたを犬とか百姓とか呼んで罵ります そしてそれは、私のあなたに対する愛の証だと思ってください
山崎・神林 そして、11.26最終戦争、お互い笑って見送ることを誓います
(つかこうへい「飛龍伝」より)
神林が山崎の部屋に来たあとの場面。何気なく交わされるこの会話、客席からはクスクス笑いすら起きる。でもこの会話はネタでも何でもない。ここで笑ったり微笑んでしまった観客は、あとで100倍にしてツケを返される。「飛龍伝」の本質は、ここに、ある。
↑12/12夜の大阪厚生年金会館 (この翌朝、広末結婚の報道が日本を駆けめぐる・・・ある意味、革命前夜か)
(続く)
2003年12月11日(木) |
マンハッタンラブストーリー(〜第10話) |
にしても、これは大傑作だ。 DVD、発売されたら買っちゃうかも、 (先立つものは無いんだけど)。 と、言うくらい、このドラマは面白い。
最近テレビのドラマでは、演劇系の人材がひっぱりだこだ。 これまでのように適当にアイドルを連れてきて、 それで「惚れたはれた」やらしとけば視聴率が取れた時代は終わった。 と、いうことをようやく業界の方々も気づいたらしい、遅いけどね。 で、目をつけたのが小劇場系の劇団。 次々、これまでブラウン管とは無縁だった若手の、 でも、独特な味を持ってる人材がテレビ局に吸い上げられてきた (「トリビアの泉」の2人もそもそも演劇畑だし)。
その小劇場ブーム@テレビ業界の、頂点に立っているのが、 やはり、宮藤官九郎と大人計画だろう。 これまで宮藤ドラマはIWGPや木更津キャッツアイなど、 数々のヒットを飛ばしてきたけれども、 今回は、その彼の脚本を大人計画主宰の松尾スズキを始め、 彼が所属する劇団の役者達がほぼオールキャストで脇を固める快挙。
大人計画独特のあの軽妙な、常識を外してセンスを外さない勢いに押されて、 主演のTOKIO松岡クン、KYON2、森下愛子、ミッチーらも、 いつもと違うテンションに入ってて、ギャグがことごとく決まる。 特にミッチーはいつもからテンション高いけれど、 彼一流の王子様テンションと、大人計画ダメダメテンションとで、 妙な化学反応を起こしてて、それがまた計算できない揺らぎを生んでて、 これを計算してやってるとすれば、もう脱帽だなーと思う。 そしてもちろん一番大きいのは、クドカン独特の、 テンポのいいセリフの掛け合いだけなんだけど。
テーマは結局、何でもないことで。 恋愛とか好きなこととか、なんでもひと筋でやっていきたいんだけど。 で、ひと筋でやってる自分がちょっと好きで、酔っていたいんだけど。 でも、なかなかそれは上手くいかなくて。 些細なことや些末なことが、だんだん自分の世界に入り込んできて。 で、周囲に流されて流されて、どんどんぐちゃぐちゃぶーになるうちに、 「あれ?私、誰のこと好きだったんだっけ」ってなっちゃうくらい、 流されて、で、流される自分に嫌悪感、感じちゃったり。 でもでも、流されたり、いろんなことしょいこんだりするのなんか、 当たり前の当たり前。 そのときどきで、あっちむいたりこっちむいたり、 一生懸命どたばたあくせくしてるほうが、いいじゃんむしろ? ひとりで自分の世界守って、それで近所迷惑かけるよりもさ。 カッコヨくひとりでみんなに迷惑かけるより、 カッコワルくみんなから迷惑かけてかけられて泣いて笑おうよん。
と、どか風にテーマを考えると、きっと、こんな感じ。 予定調和を何より疎み、近所迷惑な理想を鼻で笑って、 クドカンはきっとそんなところに立っている。 その立っている場所は、きっと、この荒みきった世界情勢に対して、 最も効果的にオブジェクション可能なピンポイントなのだけれど、 彼はそのピンポイントに立って、恋愛ドタバタコメディを作ってみせる。
タランティーノ並みの割り切り方。 タランティーノ並みの遊び心。 そしてタランティーノを超えた愛嬌あるストーリー。 どかはどっちかというと、 野島伸司のストレートに重たいドラマが大好きなのだけれど、 ここまで上質でセンスフルなドラマをキョヒる勇気は、無い。
今クール、木曜10時の2つのドラマ。 CX系「白い巨塔」とTBS系「マンハッタン」。 どちらを選んだかで、人生、変わってきそう。 でもきっと「マンハッタン」を選んだ人はみんな、 後悔はみじんもしてないだろうな。
次は最終回。 KYON2演じるタクシー運転手、 赤羽信子がもう、かあいいんだあ。 きっと、みんなが想像するようなハッピーエンドじゃないんだろうけど、 でも、どんな結論でもかかってきなさいよーって、 そのくらい、開きなおさせるほどに、 これまでの展開は素晴らしかった。
てへっ♪(赤羽信子風に)
NTV系ドラマ、水曜夜10時。 実は最初、あんまし興味が無くて見てなかったんだけど、 くしくもどかの別の3人の友人からそれぞれに、 「共犯者、すごいよ」って教えてもらって、 第3話から、見始めた。
んんん、確かに。
基本的に、連ドラでサスペンス仕立てって、 伏線の張り方のあざとさが目についちゃって、 ハマりきれないことが多いんだけど。 だから、第1話からノーマークだったんだけど。
でも、出てるキャスト、スゴすぎ。 どかの好きなヒトだらけだもん、 濃いい系で舞台上がりの芸達者、多数!
三上博史:大好き!野島ドラマ(今回違うけど)の申し子、下司だけど上品。 浅野温子:大好き!泣き顔の美しさは比類無い。三上との13年ぶりの共演。 佐野史郎:大好き!すくむような怖さ。「しゃあああ!(見た人は分かる)」 吹越 満:大好き!ってか、大好き!抑えた演技しても、説得力は衰えない。 石橋蓮司:大好き!かなりのはまり役度、渋いなあ、渋いよ。さすがです。
うん、スゴいッス。 某CX系の「白い巨塔」も、かなりお金のかかったキャスト陣だけど、 どかはこっちのが、本当の意味で「豪華」なキャストだと思うの。 とくに面白いのは、90年の「世界で一番君が好き!」以来、 13年ぶりの共演という主演2人。 どか、覚えてるよー、13年前、見てた見てた、あのドラマー。 主題歌は確か<今すぐKISS ME>だったよね、リンドバーグ!
あのころ、トレンディー俳優の名を欲しいままにしてた2人が、 まったく違うテイストの作品に挑んでいた、でも、サスガの演技力。 いろいろ、凝ってるんだよね、カメラワークはとくに。 かなりキツイ広角のレンズを多用したり、 センターをあえて外すようなアングルを続けてみたり、 とにかく「安定」というフォーカスを、外そうと外そうと試みてる。 最初は、カッコイイなと思ったけど、すこしやりすぎかも。 ま、でも、プロット自体が突っ走ってるから、 カメラやりすぎ感が、食傷気味にはならないんだけど。 凝っていると言えば、照明、音響、もちろん脚本も。 脚本は、伏線のあざとさを極力抑えて、 俳優女優の演技力に全幅の信頼を寄せた描き方をしてる。 確かに、この脚本、上記5人がそろわないと、全く成立しないだろう。 ここまで役者に依存する脚本と言うこと自体が、 ドラマっぽくなく、限りなく生の演劇の舞台に近い気がする。
謎が謎を呼び、三上博史演じるマサトって、一体何者? と、どかも毎週友人といろいろ予想したり感想を話すのが楽しかった。 そしてもう、次が最終回。 どこまで、土壇場でひっくり返してくるのだろう?
で、多分、噂で聞いた話だけど、 大学の寮の後輩が、このドラマ、スタッフに入ってるんだよね。 元気にやってるんかなー、過労で倒れなきゃいいけどなー。 でも、エラいな、こんな面白いドラマに関わっているなんて。
今度、どこかで彼に会ったら、ちゃんと感想を伝えましょう。 とにかく、あと、1回だ!
2003年12月07日(日) |
G1阪神ジュベナイルF |
2歳牝馬限定の芝1600m、ジュベナイルフィリーズ。 来年はクラシックを戦う、若き乙女たちの戦い。 どかは、でもちょっと馬券、疲れてたし買わないつもり。 だったのだけれど・・・、百円買いだけど、3連複を買うことに。
だって、11月のファンタジーS。 スイープトウショウの末脚の切れ味が印象的だったから。 追い込み一気の、2歳離れした脚を使ったのよね。 なんと、あの時の上がりが34.0、ハンパ無いね。
で、あとは最近ハマってるマンガ「馬なり1ハロン劇場」で、 抜群のキャラ立ちで格好良かった偉大なる種牡馬、 SS様(サンデーサイレンス)の産駒から、 名前が好きなフィーユドゥレーヴをピックアップ。
スイープとフィーユを固定して適当に流して4つ買ったのね。
しかして、レース。
やー、絶対スイープ勝つだろうと思ったけど、 直線半ばで、絶望的な不利を受けてしまって、 四位騎手のヤマニンシュクルと武豊騎手のマチカネエンジイロの間、 一頭分だけのスペースから満を持して追い始めた瞬間、 その2頭がスイープを潰すように馬体を寄せてきちゃって・・・、 あれ、ぶつかってたよね。 で、スイープ騎乗の角田サンはやむなくブレーキをかけ、 で外に持ち出してから鞭を入れるも時既に遅し (それでも5着に入るのだから、恐ろしい)。
勝ったのは、その四位騎手のヤマニンシュクル。 スイープがブレーキをかけたあとから猛然と伸びて、 先行するヤマニンアルシオンを差し切っちゃった、へえー。 一番強い競馬をしたのはスイープだけど、 シュクルも強いねー。
で、レース後ネットを見てパチパチしてたら、勝ち馬が、 あのアイドル馬・トウカイテイオー産駒だということが発覚。 ゆきチャン(どかの友人・長年のテイオーファン)、 喜んでるだろーなー、だって産駒のG1勝利はふたつ目だもんなー。
と、思って携帯にお祝いメールを入れたら、 見てなかったし、知らなかったって・・・オイッ。 でも・・・改めておめでとうございます。 私も、将来ファインが繁殖に入って、 で、その仔がG1を勝ったら、きっとめちゃくちゃ嬉しいだろうなって。 簡単に想像がつくから、だから。
本当に、おめでとうございます。
2003年12月05日(金) |
つかこうへいダブルス2003「飛龍伝」<青山劇場2> |
(続き)
・・・
ふう・・・。筧利夫は、既にヒトの領域を超えていた。どかはかなり極大に等しい期待値を持っていたのにもかかわらず、それを軽々超えてきた。齢40を超えた人間が、あそこまで、動けるものなのか。あそこまで、テンションをキープできるのか。
結局ライヴのエンターテイメントにおいて重要なのは、観客との距離の取り方である。つかこうへいが普段から良く言う「役作りなんてするな、相手の目ぇ見て腹から声だしてればいいんだよ」というテーゼとは、下手な役者にとってこの観客との距離を動かす唯一の方法とは、予断無く、死ぬ気で突っ走るしかないという意味である。この点においても、筧は舞台上で誰にも引けを取らない。これだけキャリアを重ねてきた主役なのに、若手のどんな役者よりもテンションが高く、しかもそれを持続させてしまう。さらに、あの炸裂するハイテンションをそのまま、例の底抜けの愛嬌に繋げてしまうのだ。普通、テンションのみで真面目一本槍で突っ走られると、引きずられる観客は途中で疲れてしまって手を離したくなるのだけれど、筧はそれを許さない。無限の愛嬌で、ぐいっと観客の首根っこを掴んだまま、コースレコードを更新するスピードを笑顔のまま持続するのだ。そして、後半の、あの、青白いオーラさえ見えるようなすさまじいまでの怒り、あのにらみつける目、あの背筋が凍るセリフの響き。筧のその感情の「怒髪天衝き」は、相手役の広末のみならず自分をも容赦なく傷つけていき、それに触れる観客すら傷つけていく。観客は、しっぽ巻いて逃げ出したいのだけれど、前半のテンション&愛嬌に引っ張られ続けたために、もう舞台上の筧と同じスピードに達してしまっている客席にあって、いまさらブレーキも効かず、ハンドルもきれない。ただ、涙を流してそこに立ちつくさなくては行けない。立ちつくして愛嬌に笑い続けた代償を、愛嬌の裏返しである狂気の爆発を身をもって受けなくてはならない。
そして、広末涼子、どかは「幕末」よりもずーっと良い気がした。賛否両論があるのは、分かる。多分、この彼女を批判する立場に立つヒトが拠り所にする、ポイントは2つだろう。つまり「彼女自身の演技の線が細いこと」と「全共闘委員長・神林美智子のイメージと異なる」だ。どかは前者については全面的に肯定する。しかし後者については、どかは否定したい。そのイメージとは、その鑑賞者のなかの勝手なイメージであり、つかこうへいはいままでの神林とは全く別の神林のイメージを広末に降ろしたのだ。そこにおいて「線が細い」と「神林美智子」の間に、矛盾は、無い。
なぜか。例えば2001年の「新・飛龍伝」において、つかは神林美智子役の内田有紀を孤高の女として作り上げようとした。その成否はともかくとして、全共闘40万を率いる委員長のイメージとしては支持を得られやすかったものだった。しかし、広末には、内田のようなスッとひとり立ちつくす強さは求められない。だから、つかは広末にその強さを強要する前に広末の別の強さをコアにできるよう、神林のイメージを変えてきたのだ。今回の広末は、とにかく「色っぽかった」。これまでの広末のパブリックイメージ「中性性」を捨てて「女性性」を前面に押し出してきた。ビックリ。でも確かに、この路線において広末はかなりの説得力を持っていた。ようするに、1994年の石田ひかり、2001年の内田有紀の神林は、自身の恋心をグッと押し殺してでも全共闘40万の命運を背負う人間(すでに女ではなく人間)だったのが、2003年の広末涼子の神林は、自分の全身全霊たたきこむ恋心の強さでもって「ついでに」40万の命運も背負ってしまう女(あくまで、女)だったのだと思う、逆説的だけど。あの革命の機運が揺るがす時代のスピードよりも、広末が山崎の胸に飛び込む加速度がより、強かった。
「目の前の男ひとり、精いっぱい想えないヤツが、 どうして国のことを思うことができよう」
いや、これだって、広末にとって大変な演出だったと思う。彼女はでも、つかのこれでもかこれでもかと広末の内面をえぐる演出に良く耐えたと思う。ちゃんと、彼女の恋心には、ウソが無かったもん。この彼女の気持ちで、山崎ー神林ラインがしっかり成立し、神林ー桂木ラインも確立し、そしてもちろん山崎ー桂木ラインも・・・、と来るはずだったのだけれど。
ちょっと、春田サン、弱かったなあ。勝海舟役で燃え尽きたのかなあ。怪我してたみたいだったけど、でも、それにしても山崎・神林が出色の出来だったのに、かなり、トーンが弱かった。頑張ってるのは伝わるし、筧の華に対抗したがってるのも分かったんだけど、むー。ちょっと、残念。あと横浜国大委員長の武田サンも、この役は「飛龍」の中でもすごい良い役なんだけど、「幕末」の岩倉具視ほど良くなかった。弱い、埋もれちゃってる。また、その他、学生の闘士サンたちも、全体的に、弱いっ。頑張ってる、のになあ。というか、決して力量が無いわけじゃない。ないんだけど、普段彼らが出てる北区の舞台と比べて極端にセリフが少ないから、どうしてもその数少ない出番に力が入っちゃうのかなあ。それでも良かったのは、やはり早稲田大学委員長・小川岳男と、ねずみの小川智之くらいだろうか。どか期待の赤塚篤紀クンや岩崎雄一サン、武智健二サンですらも、弱く感じた。あまりに大きすぎる青山劇場のせいだろうか。
でもこのあたりが弱かっただけに、むしろ山崎ー神林ラインの華が際だって、エンディングとしてのまとまりある形になった、と言えないこともない。言えないこともないけど・・・。でも、筧利夫の神ッぷりも見ることが出来たし、広末も存外良かったし、贅沢というものかしら。これだけで充分、いままで見た芝居の中でもベストだと思えるし。
(と思っていたどかの、この些細な躊躇は、大阪にて木っ端微塵に砕かれる。8日後、どかは奇跡の証人となる。)
2003年12月04日(木) |
つかこうへいダブルス2003「飛龍伝」<青山劇場1> |
(参照→2001年08月21日「新・飛龍伝 〜Let the River Run」)
ついに「新」の一文字がとれた、素の「飛龍伝」が帰ってきた。素とはシンプル。シンプルとはベスト。それがつか芝居の鉄の掟。つか芝居において、入り組んだ複雑なプロットや、カクテル光線の照明などは全て、拙い役者をフォローするために存在している。役者に力があれば、身ひとつあればそれで充分。そう。筧利夫の身体がひとつあれば、それ以上に贅沢な「仕掛け」は存在しない。つかが9年間、彼のために凍結保存してきた戯曲とキャラクターが、とうとう解凍された。それが「飛龍伝」であり、第四機動隊隊長、山崎一平である。
僕は、良い役者というのは、 演出家に恋をさせたがるものだと思っているんです 芝居の中で、この女に恋をさせたいとか、この男に愛を語らせたい、 と演出家に思わせるのがいい役者だというふうに
(特別対談 つかこうへい X 筧利夫「戯曲 新・幕末純情伝」より)
2001年の「新・飛龍伝」で加えられたギミック、キャバクラ嬢マリや学生側にいた機動隊のスパイなどのプロットは全て外され、場面もずいぶん整理されているから、ストレートに「ロミオとジュリエット」していて筋はかなり分かりやすい。きっと初めてこの戯曲に接する人でもほぼ、全てのプロットが、リアルタイムに理解しうると思われる。(こんなのは当たり前と言えば当たり前のことなのだけれど)。
筧ロミオの相手役、全共闘委員長・神林美智子役は広末涼子。総勢40名に及ぶ大キャスト陣において、ただひとりの女性。それだけ多数の男を、自らにかしずかせなくちゃなのだから、相当の求心力が求められる役どころ。広末にその華があるのだろうか。筧の復帰に心躍るつかフリーク等も、その一点が気がかりだった。どかはでも、メディアから干されていた彼女が戻ってきたTBS系のドラマ「元カレ」をチラと見て「あ、いけるかも」と思った。それまでの型にハマった小手先の演技ではなく、その限られた少ない自分の引き出しをタンスごと引き倒して、床にぶちまける系(すごい表現だ)の演技をしてたからビックリした。もちろんその路線のスペシャリスト・大竹しのぶや、エース・菅野美穂にはとうてい及ばないけれど、でも、見ていてグッと引きずられる瞬間が、確かにあったから。
他のキャストは、全共闘作戦参謀本部長・桂木順一郎役は、もちろん御大・春田純一先生。齢はもうすぐ50を超えるというのに、いまだ学生役(^_^;)。この「飛龍伝」に先駆けた「幕末純情伝」の勝海舟役においても、重鎮としてしっかり筧の龍馬のカウンターパートとして機能していたベテラン様。また、横浜国大委員長は武田義晴サンで「幕末」では岩倉具視役のハジケぶりからどかはかなり期待。また、早稲田大学委員長には、何と2001年第四機動隊隊長の重責を担った北区エース・小川岳男。しかも2001年のキャラクター名・泊平助をそのまま背負うという心憎いつかの親心。「幕末」には小川サン、出なかったので期待度は最も高い。また、どかの大好きなあっくんこと、赤塚篤紀クンは大阪大学の委員長(?)。ちょっと、残念。武田サンがいるから仕方ないかもしれないけど、でも、横浜国大委員長、やって欲しかったなあ。第一機動隊隊長は、どかとしては絶対、山本亨さんじゃなくちゃヤなのだけれど、でも、山本サンは「幕末」のみの出演(ρ_;)、残念。
吉田智則サンや鈴木ユウジサン、山本サンが抜けるため「幕末」よりキャストの華やかさでは劣るかも知れない。が、「飛龍伝」という戯曲の特性上、つまり全共闘の無名の学生や無名の機動隊員がパーッと散っていく瞬間にもドラマツルギーを求められるのだとすれば、この華で劣る若手役者サンたちの熱演を、プラスにもっていくことという奇跡が起きるかも知れない。そしてその奇跡を可能にする絶対の条件こそ、<演出=つかこうへい>。そうなのさ。「幕末」と異なって「飛龍」では、つか役者を配して、つかの名作戯曲を、つか自ら演出をつけるのだ。やっと黄金の3律が満たされるのだ。そんなわけでキャスト史上主義のどかといえど、「幕末」よりこちらの期待度が数倍も高くなってしまう。
さて、実際のストーリーである。1970年秋、日本中が革命に熱く燃えるこの季節に、学生達の信望を集める作戦参謀の桂木順一郎は、全共闘40万をたばねる新しい委員長に自らが愛するひとりの女を指名した。その名は、神林美智子。また、彼女を愛した男がもうひとり、桂木の親友であり警視庁第四機動隊隊長、山崎一平。70年安保を目前に控えた緊迫感のなか、桂木は闘争勝利のために一計を案じて、美智子に指令を出す。それは親友の恋心を利用した卑劣な作戦であった。迫りくる11.26国会前最終決戦、耳をつんざく怒号とサイレンのなか、「革命」と「愛」が収斂していく。・・・みたいなまとめ方でいいのかなあ。この三角関係が、とにかく基本の劇構造として確立されれば、舞台は成功したも同然。しかし2001年の「新・飛龍伝」では、神林美智子役の内田有紀の資質から、彼女のリーダーとしての孤立のみ浮き彫りになり、山崎や桂木との繋がりが稀薄になってしまいそこから物語が破綻をきたした。
・・・
筧の疾風怒濤への期待と、広末の踏ん張りへの祈願。どかはこの2つのポイントのみを胸に、開演のイントロ、♪「若者たち」を聴く。2003年12月4日、ソワレ@青山劇場。いよいよ開幕・・・!
・・・伝説の名物シーンが次々蘇る。早稲田闘争博物館のシーン。山崎一平登場のシーン。高崎俳句大学・及川さんのシーン。雲海上でのスケーティング(美しい!)。桂木が総括を受けるシーン。そして♪カノン。もうこの曲がかかるだけで涙腺が決壊、その後に続く桂木が神林に潜伏指令を出すシーン・・・。愛の生活@山崎の下宿。その後、満を持して流れる「飛龍伝」のテーマソング♪パラダイスと、ダンス(かっこいい!)。桂木と山崎の決裂。そして山崎と神林の熾烈な衝突、激突・・・邂逅。その後のハイライト、11.26最終決戦!
号泣のカーテンコール。立ち上がる気力すら無い、どか。ぐでー。
(続く)
(続き)
まず<ウィーブモード>について。 HRCのサイトでホンダ自身が注釈をつけているように、 これは二輪車に特有の<震動現象>のひとつで、 自転車ですら、起こりうる別段珍しくもない普通の現象である。 そして<ウィーブモード>に入ったとしても、普通は収束に向かうはずが、 大チャンの場合、それが発散に向かってしまいリカバー不能になってしまった。
・・・ふむ。 じゃあ、なんで大チャンの場合だけ、発散しちゃったのか? <最終報告>では、これについては明確な回答がしめされていない。 収束に向かう場合もあるし、発散に向かうときもある・・・、っておい。 ということは、何か? 全てのGPライダーがあのコーナーで、 あのスピードで、あの角度で、 あの致命的なコースアウトをしたかも知れないのか? 違うでしょう? 実際には、大チャンだけが、あのスピードで、あの角度になってしまった。 その理由を調査するのが<委員会>の使命じゃないか。
また<メカニカル的>な問題について。 rsj.jp の報告書をそのまま引用すると、
HRCにて事故車両の分解検証を行った後であったため、 本委員会ではナットの緩みや部品組み付け上の問題などの 事故車両に関する事故後の直接検証は行っていなく、 分解された車両部品の確認のみを行った。
(「2003年ロードレース世界選手権・第1戦日本グランプリにおける 加藤大治郎選手事故調査結果報告」より)
って、これはもう、当時の状況を確認してないということでしょ。 どうして、アクシデントが起こった際の<現状維持>が出来なかったのか。 どうして、HRCはさっさとマシンを自分でばらしてしまったのか。 どうして、どうしてそのことが、 永遠にグレーな印象をはらすことが出来ない原因になると分からなかったのか。 ・・・分かっていたのか? と思われても、仕方が無いでしょう、違うかなあ?
<コースの安全性>については論を待たない。 「誰にも言われなかったもん、仕方ないジャン」って、ガキか? 世界最大の二輪メーカーだろ? 大・ファクトリー・ホンダだろ?
さらにどかが気になったのは、
検証に関する基本方針を、 「責任追求型」ではなく「原因究明型」の結論を導くこととし・・・
(同上)
別に、犯人探しをして欲しかったわけじゃない。 起きてしまったことは起きてしまったこと。 別に、誰かに罰を科したからといって、時間が戻ることもない。 でもこの引用のように、敢えて最初に断っておいて、 それでこんな「ボク悪くないもん」な<報告書>出されても、 誰も、納得いくはずがない (実際2ちゃんねるのスレでも圧倒的多数が、良心・義憤に従って批判)。 「原因究明」すら、されてないんだから。 「責任追及」して欲しくないから「原因究明」しませんでした、なのか?
どかの、論調は偏向していることは自覚してる。 でもね。 どかは、本当のことが知りたいだけ。 真実が知りたいだけだったのだ。 真実は、往々にして、残酷で冷淡なものだけれど、 で、どかは例えそんな辛くて冷たい報告書が出ても、 それを頑張って受け入れようと思っていたよ、 大チャンの熱い走りに懸けて、そう思っていたよ。 でも、実際の<最終報告>は、全然、別の意味で残酷で冷淡だった。
どかは<大チャンのミス>なら<ミス>でいいと思っていた。 加藤大治郎だって、天才とは言え、人間だもん。 それが真実なら、それを受け止めなくちゃいけない。 でも<委員会>は「ホンダは悪くないよ」としか言わないまま、 ついに、解散してしまった。 じゃあ・・・、大チャンの死は、いったい、 どうやって未来に繋げていけばいいのか? 大チャンの恐怖は、いったい、どこに行ってしまうのか。 大チャンのファンや、何よりご遺族の方は、 どこに悲しみの落としどころを見つけていけばいいのか。
事故のあと、これまでに、ホンダの周りにはきな臭い噂が噴出している。 例えば2ちゃんねるの書き込みのほとんどがデマだとどかは思うけれど、 でも、清成選手のマシンテストの中断や、宇川選手の引退時の様子は、 うがった見方をされても仕方ない状況であると、思う。 客観的に観て、どかも、そう思う。 そしてホンダはそんな「いわれのない邪推」を打ち消す最後のチャンスを、 自らみすみす逃したのだ。
どかは、もう、ホンダは切る。 「世界のホンダ」と言いつつ、 結局極めて「日本的」なやり方で<責任>をはぐらかして、 ファンや大チャンの遺族、そして大チャン自身へ、 残酷な仕打ちでもって返礼するというホンダという企業を、 許すわけには、いかない。
「いかない」と言って、でもじゃあ大チャンはどうなるの? こんなにやりきれないことは、無い。
人間の「死」になんて、どんな意味も無い。 したり顔で死を美化して飾り立てる後付けの論理は、 死者への冒涜にすらあたるかもしれないのだから。 <報告書>では大チャンの天才をことさら賛美するくだりがあるが、 そんなことは、彼らの任ではないことは、誰の目にも明らかであろう。 彼らに期待されたのは、そんなハンパな「情」ではない。 大企業の金と恫喝にも屈しない、 ギリギリに研ぎ澄ました「知性」と「勇気」だったはずだ。
人間が「死」から辛うじて引き出すことができるものは、 未来への「教訓」のみである、それ以外にない。 でも、大チャンの「死」から引き出せた「教訓」は、 ほんのごく、わずかでしか無かった。 これじゃあ・・・。
犬死にじゃないか。
<サイト内リンク>
4/7 Rd.1 JAPAN/Suzuka(加藤大治郎選手について) 5/1 追悼・加藤大治郎 5/2 追悼・加藤大治郎(続き) 5/18 大チャンお別れ会@Honda青山ビル
どかと同じ日記サーバー<エンピツ>で日記を書いていて、 「お気に入り」に入れさせてもらってる<みなサン>の日記で、 <加藤大治郎選手事故調査委員会>の最終報告が触れられていた。
どかも新聞でその小さな小さな記事を観て「怒髪天衝き」だったから、 みなサンがどかとおんなじ印象や憤りを感じているのを知って、 ちょっと嬉しくて心強く思った。 で、どかとしてはこれを日記にするかどうかで迷っていたのだけれど、 みなサンの真っ直ぐな文章を読んで、どかも書こうと思った。
どかはこれまで<ホンダ>というメーカーには良い印象を持っていた。 スペンサー、ガードナーやドゥーハン、そして今だったらロッシという、 スターライダーが育ったのはファクトリーホンダがサポートしたからだし、 マンガ<バリバリ伝説>で主人公のグンは徹頭徹尾、ホンダ党だったし、 卑近なところでは、どかの父親は最近までHONDA/S2000に乗ってたし。
でもどかは、今後クルマやバイクに乗る機会があったとしても、 まず、ホンダは選ばない、もう、乗りたくない。
大体どかは、春の悲劇が起きた直後、 そのときのホンダの対応も有り得ないと思っていた。 その後に、第三者で構成された<事故調査委員会>を結成し、 原因究明に調査に乗り出すと聞いてどかは少し見直していたのに。 半年待たされた挙げ句に提出された<最終報告>は呆気にとられるものだった。
まず、HRC (Honda Racing Company) のサイトに出ていた、 <結果報告・抜粋>を読んで、わけがわかんなかったのね。 いろいろ言葉が尽くされてるけど、結局、何も言ってない。 で、2ちゃんねるの<大治郎板>のログを読んでリンクをたどり、 rsj.jp というサイトに掲載されていた<詳細>を読んだ。 繰り返し、繰り返し、読んだよ、どかは。 ・・・、やっぱり、おかしい。
アクシデント直前のマシンの挙動とライダーの反応について、 「緻密な」調査による推論が提出されてはいる。 そして結果、<ハイサイド>とそれに続く<ウィーブモード>が、 コースアウトへ繋がる重要なステップとして結論づけられている。
そしてその後の部分で延々述べられていることを要約すると、
1:マシンにメカニカル的問題は無かった 2:コースの安全性はグレーだがレースに先んじてそれを指摘した者はいない
となり、言外にこの委員会が導いた結論とは、
「ホンダは悪くありませんでした」
だけなのだ。 「第三者」の「専門家」に調査を委託して半年間かけたあとに、 遺族とファンが受け取った結果とは、これだけだったのだ。
(続く)
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