un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2003年11月30日(日) G1ジャパンカップ

東京10R・サラ系3歳以上・芝2400m。
秋競馬G1戦線のクライマックス、ジャパンカップ。
芝は深夜から降り続く雨のためにかなり水を吸っていた。
でも、直前に雨脚が途絶えて、馬場は不良→重へ。
本命は自他共に認める現役最強馬、
競馬界のヤンキース・藤沢厩舎が誇るエース、
シンボリクリスエス。

本来ならなー、ファインが秋天に出場してー、
かるーく5馬身くらいちぎって盾を獲ってー、
そんでジャパンカップで一気に世界の頂点にー。
っていうシナリオだったのに、いろいろ間違って、
いろいろ狂いが出て、何故かきょうのこの大一番、
ファインの名前は無いのね。

ちぇ、じゃあ・・・、
2002年の年度代表場の座をファインから奪ったクリスエス、
応援してやろっかなーって思ってたけど、
・・・気が変わった。
きょうは重馬場。
いかに断トツ1番人気のクリスエスでも、
あの跳びの大きさでは厳しいだろう。
重馬場で強いと言えば・・・、
2003年度クラシックを分け合った2頭でしょ!
つまり2冠馬ネオユニヴァースに、
菊花賞馬ザッツザプレンティ!
鞍上がデムーロくんにアンカツさまというのも、
どかの勝負を後押ししてくれるし。

というわけで、馬連8−10と、
3連複を8ー10固定であと、1・3・5・11へと流す。
外国馬は、けっこう前評判高いけど、買わない。
分かんないもん、分かんないのは、買わない。
どこか、ひとつでも信じられるとこがあったら、
そこをよすがに懸けてもいいけどさあ。

パーンパカパーンパカパーン、ダダダダン!
G1のファンファーレとともに、大騒ぎするスタンド。
はあ、東京にいればなー、ぜっっったい、あそこにどか、
いたよなー・・・と、テレビに向かって嘆息どか。

発走!

逃げる逃げる、1番タップダンスシチー!
逃げる逃げる、逃げる・・・逃げる、逃げるぞ?
おおお、すげー、差が、つまらない、つまらないどころか・・・、
最後、また開いてるよ、すげー!!

と、これはテレビの一般のニュースでもちょっと流れてた映像だけど、
4番人気のタップダンスシチー、9馬身差の大逃げ圧勝目前、
・・・ん?
と、どか、気づく。

1着はタップで決まりだろう。
現時点で2着がアンカツのザッツ、これも粘り切りそう。
そして3着が・・・、おおおおっ、まだネオが粘ってるっ。
3連複、取れるジャン!
がんばれ、ネオ、がんばれーっ、耐えろ耐えろおおおおお!
と、それまで茫然としてたどかが、俄然テレビの前で絶叫始める。

しかし、ネオの背後に迫るのは、あの、黒く大きな馬体。
チッ、来やがった・・・、ネオ、逃げろ、逃げろおおお・・・。

着差は、アタマひとつ。
ネオはラストゴール板前、差されて4着。
どか、3連複、惜しくも外す。

クリスエス、さすがとは言わへんぞお。
現役最強馬が、3着4着あたりをうろちょろ、すんなっつーのお。
勝つなら、さくっと、勝てよお。
ネオも、ちょっと、お疲れ気味かな。
デムーロくんとの神懸かりコンビも、ちょっと影が薄いな。
ラストの競り合いで、しかも府中の直線で負けるなんて、
2冠馬ネオユニヴァースらしくないぞお。
有馬記念には行かずには休んだほうがいいんじゃないかな、心配。

そして、タップ。
すごすぎ。
かっこいいっす。
6歳秋にして、初G1制覇。
鞍上、佐藤哲三騎手、ステキだ。
9馬身差は、ジャパンカップ史上最大着差。
鞍上と馬との奇跡に近い最高のコンビネーションを見た気がする。
大逃げお見事、いいもんみたなー、気持ちいいなー。

タップダンスシチー、おめでとー。


2003年11月28日(金) 「子どものいる情景」展@ブリヂストン美術館

26日水曜日、上野の東博で永徳を観たあと、
「プラットこだま」の切符の時間があるので東京駅に来る。
したら、結構発車までに間があることに気づき、
例によってブリヂストンへ向かうことにする。
何の展示をやってるのか知らないままに。

常設展だけでもいいやーって思ってたら、
ささやかな企画展をやってて嬉しかった。
「子どものいる情景」展、画面のなかのどこかしらに、
子どもがいる作品が、集まっていて。

悪くないけど、でもそんなにグッとくる作品は少なかった。
唯一の例外を除いて。

古賀春江<遊園地>。
これ、ヤバい。
ヤバすぎ、怖いよ、まじで。
なんというか、スウっと巻き込まれて、
そのままこちらがわに帰ってこられないような感覚。
でも、目が離せない。

どかは古賀春江はそんなに好きじゃなかった。
シュールレアリストかも知れないけど、
でもちょっと平板で、なんだかなあって思ってた。

きっと、すごい作品の質に波がある人なんだろうなあ
(きょうもこの作品の隣にあったのは、そこまで怖くなかったし)。
別に、この部分が異常だとか、この色が狂気だとか、
そんなはっきりと目をひくディテールがあるわけじゃない。
ただ、全体として観たときに、はっきり、特別な絵になる。

ああ、悔しい、なにが特別か言えない。
ああ、もおー。

・・・

でも実は少しだけ、分かってる。
怖い理由は、きっと絵のなかに半分はあるけど、
あとの半分はどかのなかにあるのでしょう。
それが何かは、やっぱりわかんないけど、
でも、確かに、自分の胸のフレスコの底に、
チェレンコフ光が明滅するのを見てしまった気がする。

古賀春江、おそるべし。

・・・

ブリヂストンは、大好きな美術館。
展示も節度があって上品で、でも高踏的ではなくて、
好き。
常設のブランクーシやザッキンの彫刻も良かったな。


2003年11月27日(木) 国宝 大徳寺聚光院の襖絵 @東京国立博物館

「幕末」2連チャン+送別会3連チャンという、
ハードかつめちゃ幸せな上京日程を過ごし、最後の26日の水曜日、
朝から上野公園に、気になってた展示を見に行く。
東京国立博物館・平成館にて開催されていた企画展、
「国宝 大徳寺聚光院の襖絵」である。

このタイトルよりも、きっとこう言った方が「通り」がいいだろう。
つまり「狩野永徳の襖絵が見られるよ展」って。
そう、何と言っても、永徳、永徳!
これにつきるんだろうなー。
日本美術史における「ルネサンス」とも言うべき、
桃山様式を代表する画家、等伯と並び称される天才。
むしろ、日本絵画史を通観したとしても、
永徳に並ぶのは、等伯、宗達、光琳くらいしかいないだろう
(どか的には、あと若冲かしらん)。

どかは前に観た永徳は何だったかなー、あ、あれだ。
四年くらい前に観た代表作<唐獅子図屏風>だ。
確か、皇室の名宝展@東博だよね(レビュー未収録)。
実は、あの展示に若冲の代表作<動植綵絵>も出てたんだよなー。
不覚にも、そのときどかはあれをほとんど素通りしてた気がする。
まだ若冲の存在をどかは知らなかったし、
まだどかの目もかなり未熟だったし。
ああああ、後悔。

ともかく、永徳の襖絵である。
聚光院の方丈の建築をそのまま立体的に起こしたように襖を設置。
つまり、壁に平面に襖を立てかけるのではなく、
疑似「部屋」空間を組み立てるということである。
かなり意欲的かつ斬新な展示プランに、
学芸員のたまごなどか、ドキドキ。
でも・・・、ちょっと眺めて、これが失敗してることに気づく。

だって、半強制動線(鑑賞者の流れ)が敷かれちゃってるんだもん。
部屋を擬似的にでも再現することはいい狙いだと思うけど、
そこまでするなら、もう少し頑張って、
動線を完全に自由にできるような工夫が欲しい。
だって、あの襖絵は畳の真ん中に腰をおろして、
ぼんやり周りを眺めたときに初めて、
景色と画面がリンクして無限の広がりが生まれるんでしょ。
だったら、あの襖絵にそって舐めるようにクネクネ続く動線は、
この「本来の」鑑賞法から、数億光年も離れた在り方だよねん
(実はこのことは、玉川の博物館学の展示評価レポートでも書いた私)?

でも、ほんと、そう思うのね。
仕方ないから、どかは動線から離れて、群衆を挟んで、
せめて遠くからでも、望ましい角度で眺める。
・・・うん、やっぱ、そうじゃん。
そうだよ、襖に正対して観賞するよりも、
すこし、角度をずらして、隅の角のあたりをぼやーっと眺めると、
抜群に楽しいんだよ、この襖。
永徳と松栄の親子は、そのくらいのことは計算して描いてる。
すごいなー、襖の向こうに実際の景色が広がるように、
微妙な経験則的な遠近法が、ここにはあるんだよお。

あと、印象としては永徳ね。
やっぱ、普通に感心。
どかは等伯よりも、もしかしたら好きかも。
こんなに水墨画をポップに描いてしまう感性とは、
いったい何だったのだろう。
感性じゃないのか、技術なのか。
技術が、あまりにもずば抜けてしまって、
永徳の頭や心すら、その手業に追いつけなかったのか。
等伯が<松林図屏風>で「空間」を描いたとするならば、
永徳は<花鳥図>で「存在」を描いたのだと思う。
2人とも、すでに「関係」の呪縛から解き放たれていて、
社会のレベルから、世界のレベルにいるから、
だからこんなにも、ストンっとまっすぐ、胸に落ちてくる。
そのストンっのストレスの無さが、心地よい。

まー、展示全体としてはかなりいろいろ思うのだけれど、
それでも典型的な一本立ての展示として、
これはこれで成立していると思う。
ってかそりゃあ、成立するさ、永徳持ってくればさー。


2003年11月26日(水) G1マイルチャンピオンシップ

11月23日・京都11R・サラ系3歳以上・芝1600m・・・
ついにG1レース、マイルチャンピオンシップの開催。
どかは折悪しく「幕末」観劇のために上京中、
というか、本気で、チケをふいにしてでもどかは、
京都は淀のターフへ行こうかと迷ったほど。

なぜなら・・・決まってるやん。
愛しのファインモーション嬢の正念場、
ギリギリ差し迫った背水の陣なんだもん。
あの娘は、どかがついていてあげなくちゃ・・・。
ああ、心配。

長期放牧からの復帰戦クイーンステークスは、
オースミハルカの2着に惜敗。
牝馬相手に続いていた無敗記録が途絶える。

そして秋天への出場を懸けた、運命のG2毎日王冠、そして悲劇。
あまり思い出したくも、ない。
馬群に消えていく美しい馬体、いまでも目に残る切ない残像。
そして7着の、惨敗。

昨秋、G1秋華賞、そしてG1エリザベス女王杯を無敗で奪取した、
ヒロインの金色の輝きは、再び戻るのか?

どかは馬単勝負、大外18番ファインから、
2・3・11・13へと流した。
というか、ファインが来れば、とんなくてもいい。
とにかくあの娘がもとのキラキラした笑顔を取り戻してくれればっ。

どかはレースを生で観ることが出来なかった。
ちょうどそのときは、青山劇場にいたんだもん。
でも後日、レースをふとしたVで確認することが出来た。
ファインは直線を向いたとき、なかなかの手応え、
鞍上武豊、奇跡の騎乗、ついに稀代のカリスマヒロイン復活か?
と誰もが思った刹那、外から上がり33.5という、
信じられない鬼神のような差し脚を見せて、
11番デュランダルがファインをかわしていく。

2着。

馬券は1着と2着が反対だったら的中。
というか、馬連にしていれば、的中。

・・・でも、良かった・・・、良かった。
泣ける、ああ、やっと戻ってきたよー。
まだ完調じゃあ無い、そんなことは誰もが分かること。
でも、昨秋に爆発した、あのポテンシャル。
それがまだそこに確かにあることが感じられたんだもんよー。
ファインだって、上がり34.1の全然悪くない脚を使ってる。

うんうん、良かった。
とにかく、繋がった。
まだ、この娘は、終わってない。

うんうん。

ほんとうに、よかったあ。



蛇足

最近どかは、よしだみほの「馬なり1ハロン劇場」にハマってて、
その最新の話のテーマが「ファインモーション」だった。
このマイルチャンピオンシップもコメディ仕立てで描かれてて、
プロットの出来自体もとてもこなれてて良かった。
何より、よしだサンのファインへの愛情が滲み出てることが、
どかはもう嬉しいやら切ないやら、うう、よしだサンばんざい。


2003年11月25日(火) J's 送別会

これで三日連続の送別会。
ほんっとにどかは幸せ者だと思う。
ワタシ、みんなにこれまで、
何か手助けしてきたのだろうか?
こんなにしてもらうほどの、
人間であったのだろうか?
と、思わず自問する。


渋谷のとーっても味のある料理屋さんにて、
キタクンの推薦の店(本当に良かった)。
キタクン・カマポン・ブータン・カンカン、そしてどか。
マルティンはデートの合間をぬって、
少しだけ駆けつけてくれた。
相変わらずモテモテくんをやってるらしい、
エラいぞお、マルティン!


で、話題は相変わらずおバカな感じあり、
シリアスな感じありで、いつも通りな空気。
ってか、どうしてこの人達はこうもモテるのだろう。
エッチな話のネタが尽きないのが素晴らしい
(モテるのとエッチなのは、別か・・・)。
スポーツネタと、文芸ネタと、マンガネタと、
ちゃんと文化な香りがするのも抜け目ない私たち。


でも・・・いつも通り盛り上がったけど、
みんなみんな、どかに優しくてそれが沁みたなあ。
なにげに気遣ってくれてるんだもん。
そんな・・・、そんなに良くしてもらうような、
上等な人間じゃないよー、どかわー。
と心の中で叫びつつ、どかにしてはたくさん呑んだ。


泊まったのは三鷹のキタクン夫妻のおうち。
すごい温かい待遇をしてもらって、
どかは静かに感動してました。
いいなー、家族。
結婚しとくべきだったか、どかよ
(などと呟いてみたり)?
また来てねーって言ってもらったけど、
本当に甘えてしまいそう、いいのかどか?


果報者です、とにかくワタシは。
みんなみんな、キタクン's奥サンも、
みんなありがとう。
カマポンの結婚式には、なんとか、
上京できるよう善処することを誓いますっ。


また、会いましょう、ちゃお。


2003年11月24日(月) 民舞&芸能研・送別会

前日の夜は、芸能研のみんなが送別会を開いてくれた
思わず耕チャン(舞踏家・男性・脱ぐとスゴい)に抱きついちまったぜ、
ふうー (*^_^;)
・・・だってさ、寂しかったんだもんよう。
師匠夫妻も同席してくれて、
9年間のあいだ、いろいろ繰り返した粗相について謝ったり
(笑ってたけどね、ホ)。
たくさんみんな集まってくれて嬉しかった。


そして今晩も、吉祥寺の某所にて、
サークルの現役の子たちが送別会を開いてくれた。
どかなんかのために、本当にたくさん集まってくれて、
果報者なことだよワタシは、と感じ入るどか。
感じ入る前に、鼻の下も伸びるどか。


だってさあ、Yチャン、ヤバいッすよあのカッコ。
ヤバいっつうか、びっくりっつうか、
うれしいっつうか、ラブーっつうか(ヲイ・・・)。
t.A.T.u.みたい、いやむしろ推定少女みたいというべきか、
ロリゴスーって感じだった、ドッキリ。
というか、女の子みんなおめかししてきてくれて、
SチャンもNチャンもみんなかわゆくてうるわしくて、
ドキドキしっぱなしだったです、どかは。
緊張しすぎて料理、味しなかったもん
(少し、ウソ)。


いろいろ話したいこともたくさんあったのだけれど、
いざテーブルについてみると、上手く言葉にならなくて、
ただ、お酒チロチロなめながらにやにやしてただけな気がする。
最後にちょっとだけ、まとめて話したけど。
本当はあんな堅いことを言うつもりじゃあ無かったんだけどね。


まだ「回顧録を出すには早すぎるぜ」と、
カッコつけるわけじゃないのだけれど、
でも、9年間を上手く総括することなんて、
とてもできないな。
月並みな言い方だけど、一度しかないどかの青春を、
この神楽にかけてきたわけで、
でも誰だって青春を何かにかけたりはするわけだから、
その事実だけですぐ、何かしらの価値に直結するわけでもないけど。


いま、どかが神楽で踏むことのできる足拍子が、
どれくらい大したものなのか?
そんなこと、どかは全然分かんない。
どかが分かるのはただ、
どかがどれだけ苦労して、
この足拍子にたどり着いたのかということだけ。
たかが自己満足、でもされど。


どかが怖いのはこの自己満足が、
サークルのみんなに押しつけがましくなって無かったか?
ということ。
押しつけがましい自己満足は、一番最低だ。
押しつけがましくない自己満足は、別段価値もない。
価値なんか、最初から最後まで、ない。
でもだからこそ、自己満足は、
そうあることを許されるのではないだろうか(なんてね)。
・・・どうかみんな、どかを許してください。


状況はじつはかなり苦しいのだけれど、
なんとか、2月の公演には上京できるよう善処します。
それまでしばしのおいとまつかまつりまする。


じゃね、ちゃお。


2003年11月23日(日) つかこうへいダブルス2003「幕末純情伝」<千秋楽>

(続き)

「幕末純情伝」千秋楽、といっても2日後にはすぐ「飛龍伝」の初日が開くのだけれど。どかは二階席の後方の席。そしてどかのさらに後ろには当日券立ち見の人々がずらーっと。100人からの立ち見が出たらしい、すごい。予想通り、千秋楽はパフォーミングアートとしての「出来」から言えば、昨夜の舞台よりも劣っていた。みんなキャストは少し力みが見えたし、珍しく筧サンが台詞かんでたし、広末は決め台詞をとんでもない言い間違いしてたし、他の役者もキッカケを外したり、乱れてた、いろいろ。でもそれでもこれが最後だっという役者の熱い思いは全てをフォローしてあまりあるくらいジーンと伝わるし感情移入に邪魔になるほどの失敗は無かったから大丈夫(にしても、広末のトチリはヤバかったかと)。


坂本龍馬:筧利夫('03) = 筧利夫('99)

「地上最強の舞台役者」がようやく本領発揮。昨年の「透明人間の蒸気」はいま思えば、一年後のこの舞台のためのウォーミングアップだったのかと思うくらい、見違えて絶好調に見える。スピードとキレ、台詞を発するときの集中力、決め所全て外さない舞台勘、それらを最初から全開で持続させてしまうスタミナ。これらの要素に関してはまちがいなく、日本最強である。観客は坂本龍馬の一挙手一投足に目を奪われ、坂本龍馬の機関銃のように速い台詞の一言一言に心を吸われる。筧サンは加速なんてしない、ゼロの静止状態からいきなり次の瞬間、トップスピードに入ってしまう。普通そんな役者を観てたらあっけなく振り切られちゃった観客は、呆れて傍観するのが普通なのに、筧サンは自らの愛嬌と、裏返しの狂気によって観客の脱落を許さない。だから、最後まで閉じられた青山劇場というサーキットを次々コースレコードを連発しながら爆走し続ける筧利夫というGPマシンに追いすがって引きずられて、腕と脚と心に擦り傷をつくりながらアスファルトにたたきつけられて、なお、その手を離すことができない。閉幕のそのときにはもう、ヘトヘトである。手足の擦り傷には血が滲んで痛いし、心の擦り傷には涙がしみて仕方がない。でも、不思議と嫌な感じがしない。むしろすがすがしい。これは名誉の負傷であり、つかこうへいと筧利夫という最強タッグのスピードに最後まで食らいついていけたという勲章でもあるのだ、と誇らしくすら思える。しかも今回、筧サンはひとりぼっちじゃない。春田サンもいるし、亨サンもいる。銀之丞はいないけれど、確実に華の「点」が「線」になりそして、「面」になっていきキャパ1000人を超える青山劇場を全て染め上げていく。もしこの世に筧利夫という役者が現れなかったら、劇作家つかこうへいは今日このポジションにいられただろうか?つかこうへいの「強い」言葉は「強い」役者の身体をかりなければ現実化出来なかっただろう。この役者の存在に誰よりも感謝しているのは熱烈なファンでも評論家でもなく、つか、その人じゃないかなあ。逆説的だけれどきっと、筧サマあってのつかこうへい、というのがきっと事実だったりするのではないかと思うどか。・・・ところで、どかが一番好きな龍馬の場面は、ごっついベタやけど名物シーン<ジェットストリーム>だったりする↓。


  龍馬:しかしあなたは、僕の苦しみを知ることはありません
     僕の切なさを知ることはありません
     それは僕の震える心が、風に揺れる水辺のスミレの花にも似て、
     か弱いものだからです
     しかし僕はいま、荒野のライオンです
     二万光年の銀河の果てから舞い戻った、
     傷だらけの宇宙飛行士です
     孤立を恐れず、孤独に陥らず、金色のたて髪を怒らせている、
     そう、僕はいま、熱いライオンです!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


沖田総司:広末涼子('03) > 藤谷美和子('99)

広末、健闘。キーワードは「つか的せりふ回し」「感情の重み」そして「スタイルの良さ」だ・・・。99年は藤谷"天然"美和子が総司役だった。どかは舞台に涙しつつも「主役があれでいいのだろうか?」と疑問に思ったものだった。せりふ回しはヘンだし殺陣も弱い、雰囲気はあるけど・・・って。きっと藤谷がつか自身の演出を、ついに受けることが無かったのが大きいんだと思う。でも、今回は鳴り物入りの<ダブルス>である。「幕末」の稽古と「飛龍」のそれを一日おきに積むことができたのが、体力的精神的に辛かったとしても、彼女のためになったということだろう。「飛龍」で受けたつか演出が、「幕末」の出演に生きているとしか思えないもの。つか独特のせりふ回しが板についてきている、これって驚異的だ。確かに殺陣は弱い。キルビルのユマ・サーマンのが25倍くらい、しっかり刀が振れていた。スピードも遅い。身体も感情も、切り返し(サイドチェンジ)に少しもたつくことがある。その点では、前代つかヒロインの内田有紀に及ばない。けれども、内田には求めようもなかった感情の重みを広末は持っていた。どんなに良い台詞をもらっても内田が話すとフワーっと流れてしまっていたのが、広末はきちんと舞台の上に楔として打ち込むことができる。主役としての定点を形成することが出来る。この点だけでもう、どかはとりあえず彼女はヒロインとして合格だと思った(内田は主役ではありえないと思う)。そりゃあまだまだっすよ、いろいろ。前々代つかヒロインの小西真奈美と比べたらまだまだ感情の説得力も薄いし、次代(とどかは信じてるのだけれど)つかヒロイン・金泰希と比べると凛々しさ、切なさの点でいま一歩だ。でも彼女はこれが、つか初挑戦。このあとの「飛龍」に臨む際ののりしろの大きさに期待したい。そして最後に、スタイルの良さ。うん、かっこいいな、ほんっとに頭が小さくて手足が長くて、舞台映えするのねー。某龍馬役の彼と比べると(以下略)。


  総司:海舟、帰って帝に、我が弟に伝えよ
     国家百年の大計を成す者は、
     人の心の誠を知れと、人の心の哀れを知れと
     弟にきっと伝えよ
     女、恋に狂わば歴史を覆すと!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)



どかは99年にこの舞台を観たとき、テーマとして釈然としない部分が残ってそれを部屋に持ち帰ってウンウン考えてある落としどころを見つけた過去がある(参照<「志」の所在について>)。そのどかの解釈は、いくつもある答えのなかの一つとして正解だったと思うのだけれど、きょう、舞台を観て例によって号泣しながら「あ」と判ったことがあった。一気に、サーッと霧が晴れていくかのような感覚があった。初めて「幕末純情伝」という舞台が理解できた気がした。

いままで霧に包まれていた原因は、どかが「幕末」を「飛龍」の江戸時代版と捉えていたからだと思う。その錯覚は明らかに、同じ筧利夫主演だから、ということに拠るのだろう(つか戯曲のなかで筧サンが演じたのはこの2つのみ)。でも、「幕末」は「飛龍」とは全く劇構造が違う。そうではなく、「幕末」と同じ、もしくはかなり近い劇構造を持つ戯曲とは、「長嶋茂雄殺人事件」だったのだ。そうだそうだ、そうだったんだあ。つまり、こういうことだ。「長嶋茂雄殺人事件」のドラマツルギーの中核とは、

時代のカリスマかつ戦後最大のスターである長嶋茂雄を殺せるとしたら、
それは一体どんな「意志」であり得るのだろうか?


ということである。それを江戸時代風に換骨奪胎すると、

時代のカリスマかつ幕末最大のスターである坂本龍馬を殺せるとしたら、
それは一体どんな「意志」であり得るのだろうか?


というわけだ。生半可な安っぽい動機で凶刃にかけていいヒトじゃない。龍馬は薩長同盟を成立させ、江戸城無血開城の立役者となった幕末の志士のなかでもとびきりのスターである。一国を覆すほどの華を持つ龍馬を殺すには、それ相応の覚悟というものが求められるはずだ、という演劇人つかこうへいの洞察は、その覚悟の落としどころを女・沖田総司に求めた。総司が皇家の長女であり、かつ河原者でもあるという構造。殺人集団新撰組の一番隊長であり土方歳三の女でありつつ、かつ志高く理想を語る時代の寵児・坂本にも惹かれてしまう。そのように二重に引き裂かれた裂け目に立ちながら、それでも真っ直ぐ一文字に太刀を振り下ろすために立ちつくす、女・沖田のその切ない横顔に、つかは究極の「覚悟」を見いだしたのだ。引き裂かれた自らを、そのまま受け入れる度量、それは男には無理だ。沖田総司を女にする必然がここに生まれ、この瞬間、「幕末純情伝」という問題作は世に落とされたのだ。あー、ようやく、分かったよー、なるほどなー、んーなるほどー・・・。これで、序盤中盤の若干中だるみしてしまうシーンの存在意義も、全て了解できた。時代のスターを斬る「意志」を生起させるために、幾重にも重なる裂け目を淡々と総司の上に刻む必要があったんだね。スター至上主義に則ったプロット。それはつかこうへいの神髄。

というわけで、昨夜、きょうと涙腺決壊しまくりのどか。千秋楽のカーテンコールとなり、どかはもちろん、例のアレを期待する。そう、つか芝居楽日恒例の「予告編」だ。おねがいします、やってくださいー・・・と祈りながら拍手し続けていたら、フッと舞台袖に現れる武田サン。「おまたせしました!予告編、飛龍伝ですっ」やったああああ!!!そうしていきなり流れる「あの」パッヘルベルのカノン!もうこの音楽だけでどか、号泣。もう、我ながら恥ずかしいけれど、この音楽は即、桂木と神林が共に「世界革命戦争勝利のためにー!」って叫ぶあの屈指の名シーンを思い出させるんだもんー。そして、飛龍に出演しない幕末オンリーの役者サンたちも含めて、懐かしいシーンのさわりが次々と・・・。うー、泣けるう。ああ、本当に、本当に、飛龍伝が観られるんだあ。いま思えば「新・飛龍伝」はあくまで別の戯曲。これがホントの飛龍伝!BGMが冬のライオンに変わりいよいよ登場、筧利夫@第四機動隊隊長山崎一平!春田純一@作戦参謀本部長桂木順一郎!

ってか、山本亨サンと鈴木ユウジサン、飛龍に出て欲しいよう。やっぱり第一機動隊隊長は亨サンじゃなくちゃだよう。ひーん、亨サン、もっと観ていたいよう。ひーん・・・。

感動の予告編のあと、何度目かのカーテンコール、青山劇場の観客席はオールスタンディングオベーションとなった。どか、生まれて初めての、オールスタンディング。筧サンもびっくりしてて、広末はもう感極まってたらしく、目を真っ赤にしてて可愛かった。どかも感動した。キャパ1200人の国内屈指の劇場の、超満員の観客全てが立ち上がって拍手するということ。その一体感。99年の千秋楽でも、スタンディングにはならなかった。ホントに、ホントに良かったなあ。一点の曇りもない感動の嵐というのは、あの客席のあの空気のことを言うのだろう。土方がイマイチでも、総司が決め台詞トチッても、海舟が脚を怪我してても、何か人知を超えた超自然的な力が降りてきて舞台を満たしていたとしか考えられない。

降臨したのが神であろうと、悪魔であろうと、惚れさせてしまったらこっちのもん。つかこうへいと、筧利夫はそのことをきっと、知っていた。



↑年末はつかムード一色な青山劇場、「蒲田」を思い出したりもする


2003年11月22日(土) つかこうへいダブルス2003「幕末純情伝」<楽日前>

(1999年「新・幕末純情伝」レビュー参照のこと)

2003年晩秋、つかこうへいはスターの登場を待ちくたびれたつかフリークへの贈り物として、度肝を抜く企画をぶち上げた。4年ぶりの「幕末純情伝」、9年ぶりの「飛龍伝」という自ら封印し続けた幻の代表作を、筧利夫と広末涼子のコンビで、一ヶ月半、続けて公演をうつというのだ。とくにつか自身の演出による「飛龍伝」再演は、超弩級のスクープだった。きょうは「幕末」楽日前。どかは新感線品川駅から青山まですっとんで来た。息を整えている間に、開演のブザーが鳴る。

この脚本は1999年の「新・幕末純情伝」再々演バージョンと全く、本当に全く同じモノだった(99年レビュー参照)。演出はフジテレビの杉田成道。あの「北の国から」などを撮ったベテランディレクター。99年のときの演出家・岡村俊一は、はっきり言って舞台の邪魔しかしてなかったけれど、杉田サンは本当に無味無臭で透明。「何か仕事、したのかしら」と穿ってしまうほど、恣意的な演出のあとが見えない。「ああ、利口だなあ」とどかは思う。ヘタに演出つけたって、本家つか演出には勝てっこないし、だったらつかが書いた言葉を、つかが愛でた役者にそのまま「丸投げ」してしまって、自分はおとなしくしていよう。そう、考えたのだろう。うん、でもそれが正解だよ、唯一のね。実際は自らを「無味無臭透明」にすることは演出プラン的にむしろ極めて難易度の高い業なのだろうけれど、いろいろマニア間では意見は分かれるにせよ、どかはこの演出には好感を持った。演出がしゃしゃり出なければ、本と役者の良さが、そのまま残る!

さてその透過度の高い演出に妨げられることなく、役者は自らのリアリティを思う存分、板の上でぶつけ合うことができるわけである。役者同士の力関係が一目瞭然になってしまう、ある意味最も残酷なバトルフィールドとも言えるのだろう。戯曲が全く同じなので、1999年「新・幕末純情伝」の役者とも比較しながら、個々のキャストについての感想を書いてみる。最初に断っておくと、おそらく舞台としてはこのあとの「飛龍伝」の出来が「幕末」を凌駕するのは間違いない。でも、キャストは圧倒的に「幕末」のほうが華があふれている。キャストの華だけで、どこまで日本一の演出家・つかこうへいに対抗できるのか。どかの興味は最初その一点に収斂されていった。


勝海舟:春田純一('03) ≧ 春田純一('99)

つか芝居の重鎮・春田サマは、続投組。筧利夫が去り、山本亨が去り、山崎銀之丞が去ってもなお、ただひとり、98年〜02年のつか芝居のほとんど全てに出演して、つかこうへいの台詞の「強度」を孤塁となって守り続けた偉丈夫。このヒトがいなかったら、つかは途方に暮れていただろう。つか芝居は絶滅していたかも知れない。そう思わせるほどに、強く凛々しい横顔。無機質な砂嵐にもまれながらもこのヒトが最後まで倒れなかったからこそ、筧は帰る場所があったのだ。筧のスピードに対して春田は台詞に質量を添えていく。質量とは情の重さである。軽やかに空駆ける華ではなく、地にしばられもだえうつ情念の凄みである。春田サマはこれまで、筧や銀之丞がいない間はずっと自身で「空駆ける華」を背負わざるを得なかった。でも筧が帰ってきて、このヒトは自らがもっとも輝けるポジションへと再び返り咲く。「コンプレックスにまみれた負の恫喝」をやらせて、このヒトの右に出る者はいない。ちなみに春田サマは89年の初演、98年の再演でも勝海舟を演じている。桂木順一郎と並ぶ、最高の当たり役である。99年再々演時よりも今年はさらに重厚さを増し、それがかたくなに硬直しすぎない柔軟さも加えることでスケールアップした。


  勝 :岩倉、大政奉還受けてもらうぞ
     あの刀を持つ者が、あの男を斬るなら、帝の不足は無かろうが

  岩倉:お前、そこまでして・・・

  勝 :この世で一番恐ろしいものは、狂った女と、男の嫉妬にございます!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


岩倉具視:武田義晴('03) ≫ デビット伊東('99)

これはもう勝負づけ以前の問題だけど。武田サンは北区つかこうへい劇団のベテラン劇団員(卒業してないのかな?)。どかは武田サンのことを、最近の北区では岩崎サン・岳男サンと並んで突き抜けた役者サンだと思ってる。北区では随一の芸の幅を誇り、その芸の裾野の広さがそのまま頂のテンションの高さに直結している、すぐれてバランスの取れた役者。今回はそのテンションの高さを最大限に発揮して、つか版変態岩倉具視に挑戦。赤フン姿の半裸で登場し鞭を片手にわめく姿に、周りはみな笑ってたけどどかは泣きそうだった。感動しちゃって。テンションの高さと突き抜け方で言えば、筧・龍馬と張るくらいだ。そして岩倉の変態度が増すほどに、後半の勝海舟のエグさが際だつ構成であるから、この武田ー春田ラインは大成功だったと言えるだろう。とにかく、あのハスキーボイス!裏声なのに、太く重く、ドスが効いて、かつ台詞を言うときに身体の軸がぶれないから、無意識に人はそこに頼れる定点を見いだし、物語へと感情移入していける。変態でも、頼りになるのだ。どかはこの公演の敢闘賞をひとり選ぶとしたらこのヒトを選ぶよ。もう、スター級のリアリティ。


  岩倉:立場だと・・・こらっ!のぼせあがるな!
     だったら京都の立場はどうなんだよ
     公家には歌と踊りをやらしとけ、
     政に口出そうもんなら打ち首か島流しだ、
     そう言ってオレらを三百年もほったらかしにしてたのはてめえらだろうが!
     今更徳川が困ったから帝に大政をお返ししたいじゃ、
     話が通らねえんだよ!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


桂小五郎:鈴木ユウジ('03) ≦ 木下浩之('99)

敢闘賞次点が、きっと鈴木サンだな。すごいなー、北区卒業してから、どんどん上手くなってるもんな。あんな愛嬌の「引き出し」、北区のエースの頃は持ってなかったもん。かつ暗い狂気もガンガン引っ張ってこられるんだから・・・。桂はこの戯曲中、もっともプラスとマイナス、軽さと重さの振れ幅が大きいキャラクター。それを全く問題なくそつなくこなして、びっくり。でも・・・、まだ木下サンの域には達していないことも事実。あと少しだと思うけれど、軽い愛嬌の最後のほんの数センチと、暗い狂気の最後のほんの数ミリ、届いていない気がする。でもきっと、あと数年したら鈴木サンはもっとスケールアップして、この最後の熾烈な数センチと数ミリを埋めてしまうのだろう。サイドチェンジ(サッカーみたいだけど)の素早さは天下一品で、鈴木・桂が舞台センターに来るだけで青山劇場が明るくなったんだもん。北区の若手で、そんな芸当できるヒトは、誰もいません(でももう一度、あの木下サンの下卑た微笑を観てみたいなあ、寒くなるような怖いやつ)。


  桂 :勝海舟みてえな、江戸の旗本三千石のボンボンに、
     はいつくばって米拾ってた俺の気持ちが分かってたまるか!
     鼠食って間引きされてった弟たちの気持ちが分かってたまるか!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


岡田以蔵:山本亨('03) ≫ 吉田智則('99)

筧復帰の大スクープの影に隠れてしまったけれど、98年の「熱海・モンテ」以来の山本亨の復活は、どかにとって筧のそれに勝るとも劣らない大きなニュース。というか、ほんっとうに、大好きで、筧や銀之丞と同じくらい、ずーっと好きだったから、以蔵が初めて出てくるシーンは、懐かしさの余りに少し泣いたほどのどか。亨サンが見せるコンプレックスとは春田サンのそれとは少し違い、もう少し土臭い泥にまみれた怨嗟の響き。海舟の台詞は自ら拠って立つプライドのために命がけで言うものであるり、対して以蔵のそれは、自らの卑しい出自をさらけ出してなお「恥」とは何をか問う台詞である。亨サンが自らのコンプレックスを露呈するとき、目がくらむような千尋の崖を見下ろしたかのような漆黒の闇が舞台から客席へと広がる。観客が、すくむような恐怖に耐えて目をこらすと、そのコンプレックスの真ん中にかすかだけど決して消えない明かりが見えてくる。亨サンの台詞術とはそのようなものだ。そして、何よりもあの、凄みに満ちた殺陣!春田・勝と、山本・以蔵の斬り合いは劇中、最も速く最も危険な斬り合いで目を見張ったよー、やばい、まじかっこいい!残念ながら、吉田クンには求めようもない深みがそこにはあったのだ。亨サンは'98モンテ以降、TPTに活動の場を移して静かで硬質な翻訳物のストレートプレイを主にレパートリーとしてきた。芸の幅を広げるためだろうか?どかはTPTの「蜘蛛女のキス(レビュー未収録)」の亨サンのモリーナの凄さを充分に認めた上で、でも言わせてもらう。亨サンは「Mr.つか芝居」を襲名できる役者であり、最も輝く舞台はあくまで、つか芝居なのだと。


  以蔵:聞こえるはずもない総司の声が聞きたくて、
     江戸に耳を傾けたこともあった
     総司の櫛が流れてくるんじゃないかと、
     川をさらったこともあった
     その希望の光をどうしたのかと聞いとんじゃ!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)


土方歳三:吉田智則('03) ≪≪ 山崎銀之丞('99)

今回の幕末、唯一しんどかったポストが土方歳三。この戯曲の土方に求められるのは、切なくなるほどの愛嬌である。女々しいコンプレックスの固まりで重度の愛されたい症候群でもある土方は、だからこそ、役者の愛嬌ある華で染め上げないと役どころ自体が成立しなくなってしまう。というか、銀之丞にあて書きされたキャラクターだもんなー、どう考えてもこれは。それを他のヒトがやるのがどだい、難しいのだ。吉田クン、どかは昔、吉田クン好きだったよ。「ロマンス(レビュー未収録)」の牛松役は、歴史に残る好演だった。「2代目はクリスチャン(レビュー未収録)」でもどかは吉田クン好きだった。しかし。どこまでいっても無くならない薄いオブラート、スターさんと普通のヒトとの間にある壁。それを痛切に感じさせて痛くなる。頑張れば頑張るほど、声が裏返れば裏返るほど、痛くなる。どかは2000年の内田有紀の「銀ちゃんが逝く(レビュー未収録)」の吉田クンが演じた銀ちゃんにはこれっぽっちも涙しなかった。あれでは泣けない。銀之丞の台詞まわしを必死になって頭で再生しながら観てたもんな、どかは。だって、どこまでいっても彼の汗では「オブラート」は破れなかったから。あと数ミリの狂気が足りない。あと数ミクロンの愛嬌が足りない。例え数ミリでも数ミクロンでも、不足は不足なんだもん。その不足を意識させてしまうのはきっと、かつて銀ちゃんを演じ、土方歳三を演じた正真正銘のスターさん:山崎銀之丞を意識的にか無意識にか、そのままトレースしてコピろうとしているからだと思う。じゃあ、吉田クンは吉田クンの銀ちゃんや土方を演じればいいのか?どかはそこまで楽天的にそれを肯定できない。やっぱりセンターで華のある重要な役を張るのはスターさんにのみ許された特権だと思うから。・・・だって、土方歳三は、坂本龍馬を恋敵にまわして、沖田総司を奪い合う役なんだよ?筧・坂本の圧倒的な華に対して、土方はそれに負けないほどの圧倒的な分量の情をぶつけなくちゃいけない役なんだよ?つか芝居に特有の痛いほどお互いを傷つけあうシーンの本質は冷酷な力関係の顕れであり、明白な勝ち負けがあとに残るということである。吉田・土方は、筧・坂本に、全く歯が立たなかった。せりふ回しは銀之丞のそれの表層的なコピーにしか聞こえなかった。でも吉田クンの責任では無いのかも知れない。彼をキャスティングしたのは別の人間なのだから。


  総司:やっぱダメだね、百姓は
     そのひがみ根性、どうにかならんのか

  土方:じゃどうすりゃ俺とお前が幸せになれたんだ?
     百姓の俺と、お姫様のお前が、どうやったら幸せになれるんだよ!

 (つかこうへい「幕末純情伝」より)



ふむ・・・、まあそんな感じ。楽日前のきょう、さすがに喉がくたびれてきているヒトも数名見受けられたけれど、おおむね、集中力も高いいい出来だったような気がした。1999年バージョンの印象なども思い起こされて、それを再び噛みしめつつ今回の舞台を頭で再生するどか。演劇が現代における祝祭として機能しうるのであれば、今回の舞台はまさに完璧に近い。生粋の舞台役者であるスターさんがここまで揃ってしのぎを削って己の命の輝きをほとばしらせたのだもの。どかは後半、泣き通しだった。一番感動したのは、でも、やっぱり、亨サンの以蔵と春田サンの勝とのすさまじいスピードと迫力の殺陣シーン、そのあとの以蔵の長台詞かな。懐かしくて懐かしくて、どかがかつて初めてえげつないまでの吸引力をつかこうへいに感じたあの瞬間をはっきりと思い出したことだったよ。


(続く:筧・広末については千秋楽レビューで書く)


2003年11月18日(火) 大阪市環境事業局舞洲工場

と言う、すごいタイトルのレビューなのだけれど。
でも、実はこれが、ただのゴミ焼却場じゃあないんだなー。
なんとあの、フンデルトヴァッサーがデザインした、
世界で2つしかない焼却場なんだなー、すごいぞ大阪。

Nチャンと一緒に、大阪湾の埋め立て地・舞洲へと向かう。
このあたりでは例のUSJが有名だけれどそれは隣の埋め立て地、
2人はうら寂しい荒涼とした方の埋め立て地を目指すバスに乗る。
どかは大阪に生まれてから19年間住んでいたけれど、
港湾地域にはほとんど来たことが無いから、
けっこう、ドキドキ、見知らぬ土地の風景、見知らぬ風の匂い。
長い橋を渡りきったあたりから窓の向こうに見えてくる異形な建築が、2個。


  あれか・・・な?

  あ・・・、そうそう、あれ!

  なんか・・・、ラ○ホみたいじゃない?
  (とは失言だったらしく、叱られるどか・・・)



↑舞洲工場の向かいの<大阪市舞洲スラッジセンター(建築中)>
 同じくフンデルトヴァッサーのデザイン


最初に見たのは建築中のスラッジセンター。
まるでラ○ホみたい・・・と不謹慎な感想を持ったどかだったのだけれど、
でも近づいてみると、とてもそうは見えない。
だってまず、何よりも・・・デカい(こんな巨大なラ○ホは見たこと無い)!
もちろん、有機的に組み合わされたモザイク調な外壁を見れば見るほど、
派手だけど安逸なラ○ホの予定調和なデザインとは似ても似つかないのも、
やっぱり良く分かる。
燦々と降り注ぐ晩秋の陽光に照らされて、
金のオブジェはまぶしく輝き、反射ガラスには青を背景に流れる雲が映る。
その雲を見ていると、そこが透明に透けているように見えて、
重たいはずの巨大な建築の威圧感が薄れていくからふしぎ。

断絶や切断といった理論っぽい力ではないけれど、
別種の接続したり包含したりといった混沌とした力を感じる。
美しいのではなく、力強い、目の前に立っていると、胸が熱くなる。
そして、知る人ぞ知る舞洲工場へ、向かう。



↑これが、なんと、ゴミ焼却場<大阪市環境事業局舞洲工場>!
 右に見えるタワーは、実はエントツ


内部の見学は一週間前までに申請しなくちゃいけなかったらしく、断念。
でも、近くまで寄ってみると、敷地内に遊歩道。
ポチポチ歩いてると、階段を発見。
どうやらいきなり訪れた人でも屋上の庭園へは行けるらしい、やった!
庭園へと抜ける階段も通路も石畳で、
その石畳の両側が緩やかに高くなってる微妙なRのなんやかや全てが、
階段につけられた手すりの微妙なうねりの全てが、
全部、ちゃんと、フンデルトヴァッサーしてるから嬉しくなる。



↑静かな昼下がり、うねり萌え出でる曲線


近くで見れば見るほど、先日行ったある建築との差違に驚かされる。
安藤忠雄の兵庫県立美術館である。
安藤の直線・単一・コンクリートに対置される、
フンデルトヴァッサーの曲線・モザイク・植物という要素。
無機質の空間に有機的なものがスッと入る開放感を出す安藤の理性に対し、
無機的なものと有機的なものを最初から渾然とさせてしまう
フンデルトヴァッサーの力、楽しいな、うん興味深いよ。

事実、この建築には、いたるところに芝生があり、植樹されている。
時には、垂直の壁の窓から、木の幹がせり出してきていて。
Nチャンに聞いたら、フンデルトヴァッサーの理想とは、
建築で潰してしまったもともとの地面を、
そのまま屋上やテラスにまで持ち上げて再現し、
そこで植生を補完するということにあるという。
また、自然界に存在しない、直角や直線などはできるだけ排し、
ウネウネグルグルギゥー的(?)表象をその旨とするらしい。



↑印象深い壁(きっと、忘れない・・・)


財政難に苦しむ大阪市がなぜにここまで冒険ができたのだろう。
と、ちょっと謎に思っていたどかだったのだけれど、
帰ってきてパチパチネットをたたいてたら分かった。
大阪オリンピック招致の切り札的存在に、という思惑があったらしい。

ふーん。
なるほどねー。

でもその誕生の経緯はどうあれ、芸術が現実へと着陸する風景というのは、
つまり優れた建築物というのは、博物館の中で見る「おげいじゅつ」とは違う、
何かしら厳粛な趣があって、どかは好き。
だって、学部3年生のとき、本気で専攻を絵画史から建築史へと変えようか、
そう悩んだくらいだもの(アールヌーボー大好き♪)。
隣の埋め立て地にあるUSJなんかより、ずーっとこっちのが、ヨイ。
少なくとも子どもの感性を大切にしたいのであれば、
火薬や効果音、水流や電力などで押し流す轟音のカオスなUSJよりも、
フンデルトヴァッサーの庭園に来て、
有機物と無機物が静かに混ざり合う自然と想像力のカオスを体験させるべき。

この建築が末永く、ここにこのまま残ればいいなと、思う。
六本木ヒルズが廃れてゴーストタウンになったとしても、
舞洲はこのまま静かに佇んでいて欲しいと、切に祈る。


2003年11月16日(日) G1エリザベス女王杯

昨年の覇者、ファインモーションは結局このレースには出ない。
翌週のマイルチャンピオンシップに回るらしい。
でもMCSでも、賞金不足のため出走できるかどうかは微妙。
どか的には、MCSよりも、あくまでファインには、
チャンピオンディスタンスがふさわしいと思うの。
エリ女、ファイン出て欲しかったなー。

というわけで、本命は史上二頭目の3冠牝馬・スティルインラブで、
対抗はスティルの宿敵のライバル・アドマイヤグルーヴ。
古馬なら府中牝馬Sで好走のローズバド・レディパステルあたりか。
実績充分のダイヤモンドビコーも捨てがたい。

エリ女とは、京都競馬場・芝・2,400m・オープン。
どかはファインが出るなら是が非でも淀まで観に行ってやると思ってたけど、
でもファインが出ないなら、荷物の片づけがただでさえ大変だし、
体調もヒーヒーなので自粛することにした(・・・当たり前か)。

I-PATで馬券を購入。
どかとしては初の試みでローズバドを2着固定の馬単流しで勝負。
だって、ローズバドは実力は充分、
しかも鞍上が、横山典だもん。
横山典の別名は、G1・2着請負人(どか命名)。
きっと、またゴール前怒濤の差し足で2着には食い込んでくるでしょう。
じゃあ、ということで、以下のように流すことにする。

 1着   ー 2着
 スティル ー ローズバド
 アドグル ー ローズバド
 ビコー  ー ローズバド

昨夜の雨の影響はほとんど無く、芝は良馬場、ついに発走。
スティルインラヴ、4冠なるかっ・・・!

スマイルトゥモローが逃げをうつなか、
スティルをピッタリマークするアドグル。
そして・・・最後の直線。
スティルに鞭が入ってラスト400m、スパートに入った瞬間、
スルスルと横につけるアドグルっ。
アドグル鞍上武豊が、鞭を入れる。

ここから数秒間のデッドヒートはまさに、
今年ナンバーワンのレースとして評価されるにふさわしい好勝負。
もう完全に2頭が抜け出して、秋華賞を彷彿とさせる。
秋華賞ではキレのアドグルを、力のスティルが押さえ込んだ。
今度はどうかっ?

アドグルが圧倒的なキレを見せてハナ差で抜け出すも、
スティルがジリジリと力で追いすがる。
また並ぶか・・・!
しかし、もう一度、武豊が肩鞭を入れてっ。
アドグル、最後にもういちど、伸びた!
18cmの差。
2,400mを走ってきて最後の決着が、18cmである。
史上最高の良血馬・アドマイヤグルーヴがついに初のG1奪取!

いやー、ローズバドは5着がやっとであり、
馬券は外したけど、ほんっとに良いレースだった!
痺れた、うん、ごっつい痺れるわー、カッコいいよー。
スティルの底知れない力も、
アドグルの寒気すら感じるキレも。

Moment of Truth とは、こういうのを言うんだろうな。
やっぱ、淀へ行くべきだったのか、どかよ?

でもでもやっぱり。
ファインモーションが走ってデッドヒートの末、
あの美しい跳びでこの力とキレを封じ込めてほしかったな。
力より、キレより、美、で・・・。

さて、来週。
ファインは出走できるのか?
賞金順ではほとんど望みがないけれど、
まずゲートインするという奇跡は起きるのか?
それが起きたとして、あの美は復活するのか?

おねがいー、ファイン勝ってーっ・・・。


2003年11月15日(土) 引っ越し

というわけで、9年間いた東京と、
きょう、お別れすることとなる。

みなさんどうもありがとう。

また、これからもよろしくお願いします。


2003年11月14日(金) ありがとう

時間がぎぅーっと凝縮されていく。

確実な終わりがもうすぐそこに見えたときの、
空気や温度の煮詰まり方、湿度や波動の微妙な痙攣。

この夜の夜空の青は、
7年前のロンドンからヨークへと向かう、
電車の中で見た空の青と同じ。
反照と映写、飽和と、決壊。

最後まで涙をこらえてくれて、ありがとう。
最後まで、笑顔でいてくれて、本当に、ありがとう。


2003年11月13日(木) OPAP + 青年団「もう風も吹かない」

おそらく学生が上演する舞台のクオリティとして、
これ以上のものは無いと断言する、日本一の学生芝居。
どかは、大学院進学を辞めて、もいちど、学部から入り直そかと、
真剣に考えてみた、桜美林に、もいちど入れば、
こんな舞台に立てる可能性が、あるかも、なのであれば・・・!

桜美林大学文学部総合文化学科演劇コースのプログラムである、
OPAP(桜美林パフォーミングアーツプログラム)と青年団のリンク公演
@桜美林PFCプルヌスホール ← 淵野辺、遠かった・・・。
平田オリザは桜美林の同コースの助教授でもあり、
初代卒業生の「卒業公演」としての意味合いもある、かも。
でもキャストは4年生に限らず、仁義なきオーディションの結果、
3年生や2年生もキャストに入ってるし、入れない4年生もいたみたい
(無用な情を外すあたりさすが、それでこそオリザさん・・・)。
学生以外にも、青年団から山内サン等が客演、フォローもぬかりない。

舞台は青年海外協力隊の国内訓練所、実際に存在する施設がモデル。
JICAが運営するこの施設には、赴任地へ出発する前の3ヶ月間、
20歳から39歳までの協力隊員が世間から隔離されて訓練を受ける。
平田はかつて青年海外協力隊の制度改革の諮問委員をしていたらしく、
そこで見聞きした体験が戯曲に色濃く反映されているらしい。
こう戯曲の背景を書くと、説教クサーい話なの?
と思ってしまうけれど、オリザ戯曲がもっとも優れている点は、
どこまで行っても決して押しつけがましい説教くささがないとこなのな。

けれども、舞台はもう少し、未来に向かって投げ出される。
その未来の日本国はすでに財政的に完全に破綻し、
アジア諸国のなかでもGDPは最低レベル。
そこで、ついに来年から協力隊派遣は中止されることが決定し、
「最後」の協力隊員が訓練を受けているところ、
というのがこの戯曲の「現在地」である。
小泉が首相を続ける限り、まったく当然なリアリティーを帯びつつある、
最近の平田の「滅び行く日本シリーズ」な戯曲の最新バージョン。
前作の「南島俘虜記」はどか的にはちょっと、失敗作だったけれど、
これは、文句なく、パフォーミングアートとして、成功。
ちょっと長いけど(2時間30分)、でも、成功だ。

理想が現実に淘汰されていくときに鳴る音とは、
確かにきっと、こういう響きをするのだろうと思わせる。
いつも通り、その絶望の風景を、淡々と、丁寧に、
デリケートな波動をひとつひとつすくい上げて布置されていく。
生身の人間とはそもそも現実なのであり、
ボランティアという理想とぶつかるのはメタレベルでは必然なのだけれど、
時間軸をグッと未来に押し出すことで平田はこの「響き」を、
最大限に引き出した、しかも。

しかも、これを演じるキャスト達は、
モラトリアムから旅立たなくちゃな学生。
テレビから流れる情報のなかには、
微塵も希望が感じられない現在にあって、
そんな無機質な砂漠のただ中へと出発しなくちゃな彼ら彼女らの姿と、
最後の協力隊員として虚無と自己とのせめぎ合いの中にある役が、重なる。
どかは、そもそもオリザ贔屓だから、評価が甘いのかも知れないけれど、
今回の舞台に関しては、キャストが職業役者ではなくて、
学生であることも含めて、全ての企てがことごとく最大限の効果を発揮して、
だから、この舞台は総体的に、
成功としか言いようがない凛としたものになっていると感じる。

ふー、どかはもともと、ヒトを助けたいとか、ボランティアとか、
そういうのダイッキライなヒトで、それは高校のころからそうなんだけど。
だから、岡崎京子の例のテーマ、
「ヒトを幸せにできると思っているヒトにはバチがあたる」というのは、
深く胸に突き刺さるわけで。
平田オリザがこの戯曲でJICAの欺瞞を白日の下にさらけ出していく手腕は、
だから、どかは、清々しく思ってしまう。
そんなこんなで、どかはそう言う意味で嘘が少ない「美術史」が好きだ。
仲の良い友達やよく知る先輩にJICAに縁のあるヒトや協力隊に行ったヒトが、
何人もいるどかだけれど、でも実は、どかはそう思っている。
その人達を否定するのではなく、その思想はいかがなものか。
どかはそう思っている。

脱線しちゃったけど。
でも、実はこの舞台、ホントに面白くて、
「海よりも長い夜」の美しい<絶望>と匹敵するくらいの、
切ない<茫然>がここにはあって。
そして、パンフに寄せられた平田の文章がまた、
すごい名文で、名文過ぎて、何も書けないのよね・・・

   
  個々人が自分の頭と心と身体で、
  何かを感じ取り、考え続けること。
  そして、そこから得た結果を自分の判断として、
  責任を持って他者に向かって表現していくこと。
  その表現の孤独に耐えること。
  

  (「もう風も吹かない」パンフ序文より・平田オリザ)


申し訳ないけれど、少しだけ抜粋させてもらって。
9年間いた東京を離れる前日に、
本当に良い時間を過ごせたなーって。

青年団と出会えて良かったなーって思いつつ。

ウソの希望よりもホントの絶望をかき抱く力を持ちたいなと思いつつ。


2003年11月07日(金) ハHAピPPIネNEスSS@森美術館

キルビルのテーマソングがいまだ、頭の中でオールリピートなまま、
地上52階に新しく開館した、噂の天空に浮かぶ、森美術館へ向かう。
「ハピネス」と銘打った開館記念展で副題は、
「アートにみる幸福への鍵:モネ、若冲、そしてジェフ・クーンズへ」。
画廊に勤めてるどかの高校時代の友人・すうクンから、
この展示についての感想を聴いていた。
キルビルを観たおかげで、その先入観は全てリセットして観ることが出来、
そしてそれでもなお、すうクンの感想にほぼ、同意することになるみたい。



↑52階からの眺め、東京タワーよりも沈殿する空気の層が印象的


つまり、おおむね、だいたい、ほとんど、イマイチっていうか、
うん、あのね、はっきり言うと「つまんなかったよ」かなりネ。
ジャンクにしか見えない気持ちの悪いオブジェや、
ジャンクにしか見えない虫酸の走る映像や、
ジャンクにしか見えないまさに「お目汚し」な絵画。
森美術館は収蔵品を持たない、全て企画展のみによって構成される機関。
キュレイター(学芸員)のプロデュース能力への全幅の信頼のみによって、
その存在が保証されていると言っても良い。
これは日本の学芸員が欧米と比して軽く扱われていることへの、
鮮烈なカウンターとして発動させたいという理想が底に流れている。
確かに自らの館の収蔵品をこちょこちょ入れ替えて、
代わり映えのしない展示を年間を通してやっている「ダメ」美術館は、
枚挙にいとまがないけれど。
だから、どかは森美術館のアイデンティティーを無効だとは言わない。

言わないけどでもね。
肝心の展示のコンセプトは、今回、どうなの?
収蔵品にも縛られない(全て借り物展示)、
地面からも遠く離れて(何せ地上52階)、
土着性ももちろん切断されて(何せ六本木ヒルズ)、
時代性や地域性からも乖離して(時代、国などバラバラな展示)、
おそらくキュレイターは空高く舞い上がるカイトのイメージで、
浮遊感のなかに「幸せ」を希求する祈りを具現しようと試みているのだろうが、
どかには、その舞い上がるカイトの糸(意図?)が切れてしまって、
大気圏はおろか、はるか想像外の外宇宙まで迷走している気がする。



↑突如差し込む、全ての輪郭を赤く溶かす光


先のキルビルのレビューに即して言うと、
嬉々として99発の弾で遊んでおいて、さあ、
最後の一発、命中させなくちゃーっ。
という土壇場で、オオハズレのガーター「おーい」みたいな。
あのねえ、あまり使いたくない言葉だけど、
そういうの「センスが無い」って言うんじゃないのかなあ。
タランティーノがあれだけ遊び弾を使っているのは、
彼には「センスが有る」ことを皆が知ってそれで許してるんだよ。
「決め所は外さない」という彼の絶対の洞察は、
ふわふわ気ままに揚がる作品という名のカイトをかろうじて、
でもしっかりと繋ぎ止める凧糸となり、それでそのカイトはまるで、
大気圏を遙かに超えたところでオーロラのカーテンにたゆたう。
<パルプフィクション>とか<キルビル>は、
そんなアクロバティックな奇跡の、でも必然の結果なんだよ。



↑薄暮に染まる空気の沈殿層、でも左上、よーく見て・・・


まあ、そんな例えようもなく空しい空気の展示室の中でも、
3つ、どかが割と楽しめたのが、
ターナーの風景画と蕭白の水墨画、あとチベットの曼陀羅。
そして2つ、どかが絶句して立ちつくしたのが、
若冲の屏風、最後が52階の高みで出会った奇跡の夕焼けだ。
どかは留学中にターナーはちょっと食傷気味になるほど観たけれど、
久しぶりに観るとやっぱり良品は良品なのだねーと再発見。
蕭白は空前絶後の技量に圧倒されっぱなし、強弱のアクセントにリズム。
曼陀羅は、やっぱチベットのが一番だねえって思う。
ケルトの無限に続く蔦のループのごとく、極小から極大へとうねる眩暈。
若冲は、やはり、すごかった。
有り得ない、もう、この展覧会は、これ一本立てか?
と錯覚するほどのインパクト、突き抜け方がハンパ無い。
本当のアバンギャルドとは、こういうものを言うのだ。
そして本当のアバンギャルドは、幾多の「消費」に耐えうる粘りも持つ。
他の「現代美術」のアバンギャルドが、
ただ一回きりの「消費」でトラッシュ行きの薄っぺらさを、
恥ずかしいことにこれみよがしに誇示していたけれど、
ここには、ちゃんと「本当」があって、良かったことだよ。

そして。
奇跡の夕焼け。



↑太陽の燃焼にくっきり稜線を浮かび上がらせる、富士山!


ジャンクにしか見えない「お目汚し」の前に立つたびに、
あのキルビルの、♪チャッチャラチャラッチャッチャー!
という必殺のBGMが頭を流れてしまい、
失笑をこらえるのに必死だったどかだったのだけれど、
このときばかりは、完全に「素」に戻った。
美術を観るのに、地上から離れることにあまり価値は無いけれど、
夕焼けを観るのに、地上から離れることには価値はあるかも知れない。

私たちは捨てなくちゃなモノをたくさん抱えてはいるけれど、
捨てちゃだめなモノまで捨てちゃったら、
行き着く先は想像外の外宇宙。
そこではきっと、夕焼けも、見えない。


2003年11月06日(木) キルビル(映画)

祝・六本木ヒルズ上陸、これでどかもロッポンジン。
というわけで「日本で一番新しい街」の映画館にて、
クエンティン・タランティーノを観に行く。
先日、本当に遅ればせながらパルプフィクションに衝撃を受けて、
ラブラブQT状態などか、しかも主演がユマ・サーマンだし♪

ストーリーは、やっぱり、あってないような感じ。
ってかストーリーで魅せる監督じゃないし。
とにかく、ホントにとにかく、
あのラスト30分の怒濤の殺陣をやりたかっただけなんだろなー。
あれをやりたかったがために、
脚本を書き、キャストを揃え、ロケ地をおさえ、スポンサーをおさえ、
いろいろめんどくさいことを我慢しながらこなしたんだろなー。
そう思うと、タランティーノ、ほんっとにかあいいと思う。
日本のヤクザ映画や任侠モノが好きで好きで仕方なくて、
それでブロンドのきれいな女優が「極妻」に斬りかかっていく刹那、
日本庭園に降り注ぐ、雪の結晶。
この映画は、言うたれば、それだけだった。

映画評論家とかがいろいろ深読みしようと思ったらできるのだろうけれど、
どかは、結局、そんな深読みポイントのほとんどは的はずれで、
あの血しぶきピューの首チョンパだけがタランティーノの狙いだと思う。
そして、だからといって、この映画は失敗作かと言えば、逆である。
面白い、傑作だ、最高に楽しい。
映画は重厚であればいいというわけではない。
面白ければ、いいのだ。
薄っぺらくても面白いモノは作れる。
このことを発見しただけでタランティーノは映画史に残るのでしょう。

全てのシーンに渡ってジャンクな味わい。
あえてこの仕上げの粗いジャンクな薄っぺらさを出して、
で、これがわざとだろうなーって分かるから、
こちらも「ネタ」として笑うことが出来る。
これが、重厚な「大作」を作ろうとしたんだけど、
才能の欠如によりうすーくなってたりすると、
「ネタ」にもならないから笑えない。
タランティーノはわざとジャンクに作ってる。
キーワードは「これみよがし」。
音楽も映像も台詞も、雪崩式にどわーっと合わさってたたみかけな風は、
おいおい、そこまでするのん?と恥ずかしくて俯いてしまいそうなほど。
でも、これは「ネタ」なのだ。
なぜなら、音楽のひとつ一つ、映像のひとこまヒトコマ、
セリフのひとこと一言はそれだけ取り出すと非の打ち所ないくらい、
研ぎ澄まされたセンスで磨き上げられてピカピカなんだもん。
それを、あるタイムラインに沿って並べたときに、ジャンクになる。
贅沢な素材を「これみよがし」に無骨に並べてくから私たちは笑う。

紙一重なんだけどなあ、でも<キッチュ>という美意識は、
100発撃つと、1発、とんでもない唯一無二のターゲットを射止める。
それは他の主だった美意識が、100発撃って全て的板を捉えたとしても、
最後までその針の穴ほどのターゲットにはたどりつかない、
優等生くんには死ぬまでわからないような「秘孔」。
でも、落ちこぼれのオタクくんには、見えるんだな、それが。
どかはタランティーノの才能とは、この99発の無駄ダマの遊び方だと思う。
最後の1発に絶対の自信があるから、余裕を持って99発を捨てられる。
その小粋な在り方に、観客は魅せられる
(ちなみに宮藤官九郎は90発くらいまでは遊べるようになった、すごい)。

ユマ・サーマン、殺陣頑張ってたなあ。
カメラワークもあるんだろうけれど、
斬る瞬間にちゃんと腰が入ってたし、
手だけじゃないからシックリくる。
ルーシー・リューとの最後のバトル、
セリフのいちいちが痺れる、クーッ・・・
クサいけど、カッコイイー。

あと栗山千明、しびれた。
あの高校のブレザーに身を包みつつ、
鎖分銅で攻撃する姿は、まさに、キッチュそのもの。
笑えるけど、でもこの娘、めちゃくちゃ美人なのね。
顔、キレイすぎ、すっごいキレイ。
ビックリしたなー、日本人でもこんなキレイな娘、いるんだなあ。
かっこいい、ちゃんとタランティーノのゲスな魅力をまとってた。
どかのなかのアイドルランクで三役に入っちゃうかも。

ルーシー・リューの「ヤッチマイナ!」も笑って痺れた。
白い着物に身を包んで、雪景色の日本庭園に立つ姿は美しい。


  とびきりのイイオンナを揃えて、
  とびきり激しい殺陣をやって、
  とびきり見栄を切るセリフを入れて、
  とびきりカッコいいシーンばかり。
  カッコよさだけを、追求して、それ以外は全て諦めて。
  ん?
  「それ以外」のなかに何か大切なもの、あったかい?

  ううん、無いでしゅ・・・


私たちは、いろいろ捨てなくちゃなものを捨てきれてないのかも知れない。


2003年11月05日(水) マルチカ3.9「アナニヨル」

11/3、ソワレ観劇@駒場小空間。
「チケットあるんですけど」とNチャンからのお誘い、
小雨煙る東大駒場キャンパス、ゴアテックスに身を包んで歩く。

マルチカ3.9というのは東大の学生劇団のOBOGが中心となって、
旗揚げしたグループらしい、今回が第2回公演、初々しいなあ。
駒場小空間と呼ばれるキャンパス内の多目的ホールが会場。
着いてまず、施設の充実度に目を見張る。
さすが国立大学、小さいハコだけど豪奢な造り、
灯体などの照明設備の充実にびっくりするどか。

舞台は、360度ぐるりと客席が取り囲む全方位式。
しかも客席自体を、2メートルほどガッコンと持ち上げることで、
井戸をのぞき込むように舞台を見下ろすような形態。
お金、かけるんだなあ、すごい。
床には無数の楕円形の穴が空いていて・・・。

ストーリーは、工業団地みたいな、閉ざされた施設が舞台、
そこに新たに引っ越してくる女の子ひとり。
新しい参入者の登場によって、もともとそこに暮らしていたヒトタチの、
しがらみや、ねたみや、うとみや、そんな沈められていたものが、
ボヤーっと浮かび上がってきて次第にその化学反応は苛烈を極め。
という、割とありがちなストーリーかと、どかには思われ。

役者サン、ちょっと拙いなあ。
どかはそんな学生劇団を数多く観てきたわけではないけれど、
どかのかつて知ってるところと比べても、ちと、辛いかと。
ましてや大学を卒業してそれでも役者を志していらっしゃる劇団にしては。
いちいちが段取りに聞こえてしまい、
頭で正解と思いこんでいるステロタイプな感情表現の引き出しを、
そのつど開け閉めしているように見える瞬間、多数。
もっと俗に言うと、青年団風の緻密な方向性も、
つか、その他小劇場風なスピード&パッションな方向性も見えず、
どかは演出がどこを目指しているのか、判然としなかった。
テーマ的に宙ぶらりんなところは、責めを負うべきではないけれど、
こんな感じにメタ的に宙ぶらりんな感じを観客に与えてしまっては。
少なくともワタシは、感情移入できるキャラクターを見いだせなかったし、
引いて観てみたところで、場面場面の感情や関係性のリアリティも、
見つけられなかった、演出のアラに遮られて。
多分、管理人サン役の男性の役者サンが一番、
上手いヒトなのだろうけれど、でも、演技が説明臭くてちょっと。
それはきっと、演出の責任が大きい気がする。

良かったのは、照明と、舞台美術(客席の構造)、そして衣装かな。
特に衣装は、へえーって思った、意匠のいちいちにも暗示が感じられて、
そういうところは、ニクイなあと思いつつ、楽しめた。
高い客席から舞台をのぞき込むような形態も、
シャーレの中で起きる化学変化を顕微鏡で観察するかのような印象で、
面白かった(願わくばもすこし面白い化学変化だったら・・・)。
そして照明。
ハイライトのシーンで、それまでの照明をスゥッと落として、
そのかわり床に開けた無数の穴から光がバーッと上方に漏れてくるのね。
あのシーンは、さすがに息をのんだ。
きっと、このヒトタチは、あのシーンをやりたかったがために、
舞台美術から脚本から全て、コーディネイトしてきたんだろうなあ。
そう思わせるくらい、あのワンシーンの印象は、深く刻まれる。
顕微鏡をのぞき込んでいたら、突然、
そこにオーロラのブレークアップが始まったかのような。

ただ、その「ブレークアップ」を支えるだけの基盤が、
まだまだ脆弱にすぎるとどかは思った。
「シャーレで起きる微細な化学反応の、そのリアリティ」という路線で行くなら、
もっともっと、ディテールを磨かなかくちゃ。
ステロタイプな感情表現と、ステロタイプな人間関係の説明という演技を、
辞めなくちゃいけないとどかは思うの。

・・・にしても、あの床から漏れる光の筋、浮かび上がるひとりの人影。
美しかったなあ、うん、きれいだったー。
それだけでも行って良かったと、どかは思ったことだったよ。


2003年11月04日(火) G1天皇賞(秋)

日付がズレてるけれど、11/2のレース。
競馬は何と言っても、秋が面白い。
「天高く、馬肥ゆる秋」だし。

秋競馬にはトリプルクラウンと呼ばれる3つのレースがある。
天皇賞(秋)、ジャパンカップ、そして有馬記念だ。
チャンピオンディスタンスと呼ばれる中距離のオープン戦、
年度代表馬を決定づける3つのレースと言っても良い。
さて、そのトリプルクラウンの緒戦、天皇賞である。
東京・芝・2,000m・定量オープン。

どかは、実はICU祭2日目、出演が終わってから、
府中へ飛んでいこうかと計画してたのだけれど、
で時間的には可能だったのだけれど。
でも、あの体調で行ったら、きっとマジ死ぬと思い断念。
ってか、とても、無理だった。
打ち上げまで少しでも休もうと思い、部屋に戻ってきて、
テレビで観戦することにする。

去年、ファインモーションから年度代表馬を奪ったヤツ、
「黒い悪魔」シンボリクリスエスくんに単勝で勝負する。
というか、春のグランプリ・宝塚記念で負けたのが、情けない。
キミはファイン以外に負けることは赦されないのだよ、クリスエスくん。
宝塚だろうが、盾(天皇賞)だろうが、有馬だろうが、
勝ってもらわなきゃ、困りますっ。
ファインがいないレースは全勝してください、お願いします。

圧倒的に大きい馬体、跳びの大きい走り、追い込みのキレ。
華があるのはまちがいない、さすがに年度代表馬だなあ。
返し馬を観ながら、ぼやーっとそう思ってた。

レース。
2番人気、ローエングリンが大逃げをうつ。
逃げ宣言していた、ゴーステディが追いすがる。
この2頭が後方の馬群をおいてどんどん加速、
4角手前で、20馬身もの差をつけてしまう。
どよめくスタンド。
クリスエスの対抗筆頭のローエングリンは確かに先行馬だけど、
いくらなんでも速すぎっ。
前半1,000m通過が、56秒9。
これは「あの」サイレンススズカの最期のレース、
天皇賞での伝説の大逃げの57秒4をも軽く凌ぐペース、有り得ない。

直線、坂に差し掛かって完全に脚が上がるローエン。
馬群が迫る、そして・・・。
来たっ、クリスエス!
馬群を割って坂を駆け上がるキレ!

どか「行け、行け、行けえええええええええっ」
ぶう「わああ○×△×△○☆」

と、テレビを前にして、アホになって絶叫する2人。

勝負どころを完全に見切ったペリエ騎手、さすがだわ。
ヨコノリ騎乗のツルマルボーイが最後に追いすがるも、
勝負は既についていた、横綱相撲、完勝だあ。
秋華賞に続き、今秋2勝目などか、えへ。

でも・・・、どかが観ててやだったのは、
完全に脚が上がってるローエンを激しく鞭で追う、某後藤騎手。
最低だ、かわいそう、壊れちゃうよ、あんなんしたら。
自分が折り合いをつけられなくて暴走させたくせに、
完全に歩いてる馬に鞭をくれるなんて、
八つ当たりにしか見えなかった。
ゴーステディ騎乗の吉田豊騎手との因縁で、
うがった見方をされてもしかたないよ。

人間、品性だ。

それはともかく。
クリスエスは、秋のトリプルクラウン、意地でも達成してもらいたい。
その緒戦は危なげなくクリア。
次は、世界の強豪を府中に迎え撃つジャパンカップ。
がんばれー!
ファインとぶつからない限りは、キミを応援するよ(多分)。


2003年11月01日(土) 民舞公演・ICU祭1日目

とにかく、待ち時間が辛かった・・・。
さんさの太鼓は結構、重いっす、背筋痛いの。
重いだけじゃなくて、ぴったり胸に密着させてから、
がっちり固定するから、肺が圧迫されて息苦しい。
そして当然花笠を頭にかぶるからのども絞められて。
ステージ裏で20分ちょい待たされている間に、
なぜか息が上がってフウフウになっている、
ロートルダンサーどか28歳。

今年は全体の踊りの輪としては平均的な人数ながら、
お囃子である太鼓と笛の人数がそれぞれ4人ずつとぶあつく。
しかし、太鼓に関しては、
どか以外は今年初めてドラマーズに入隊の女の子。
・・・、がんばんなくちゃだわ。

始まって7分程、「二度踊りの三拍子」が終わったあたりで、
泣きたいのを通り越して笑い出したくなるどか。
まだあと20分以上踊んなくちゃなのか?
このバタバタ具合なのに?
・・・、いいねいいね、この追いつめられ具合。
背水の陣というか、ダイエー和田ににらまれた阪神アリアスというか。
ステップを踏まなくちゃ輪は進まないし、
バチで打たなくちゃ音は鳴らないし、
さあ、来たぞおっ、これが年に一度、ICU祭のさんさなんだわ。

「鹿踊りくずしの三拍子」はどかはいつもなら大好きな踊りなのに、
きょうは、ダンスクスクスク・・・というくだりが二の腕のけいれんで、
リズムをキープするので精一杯だったり。

「鹿踊りくずしの四拍子」はどかはいつもしんどいなーと思う踊りなのに、
きょうは、やっぱりめちゃくちゃしんどくて、
「誰やあ、こんなにしんどい型作ったんわあ」と殺意を抱いたり。

そして・・・、輪踊りが終わって組踊りに入ったあとの「いりは」。
ヤバかった・・・、まじで。
もう胃がヒクヒク言ってて、もすこしで恐怖の逆流がっっ
(いや、笑いごとじゃなくてね、
 もしこの後の展開如何によってはの惨劇を想像するだに冷や汗が)。

というわけで、いつもどおり、どかはいくつか、
間違えて叩いたり、ステップを踏み損なったりで、
いつもどおり、雑な感じだったのだけれど。
でもあとの三人の太鼓サンたちは、
そこそこ頑張っていたのではないでしょうか。
Nちゃんは一番太鼓の重圧に良く耐えて引っ張っていってくれたし、
Iちゃんは組踊りでの位置取りなどに気を配っていたし、
Mちゃんはさりげに最もリズムをキープして淡々と、かつしっかりしてて。

・・・。

だめじゃん、どかったら・・・。

ま、でも、ダンサーズハイという言葉の本当の意味を知れるのは、
「ICU祭のさんさ」ならではの特権で、
どかは今年8回目(留学で1回抜けた)、来年は出られなそうだけど、
これまでの7回と全く同じように、
今年も予断を排してグロッキーに「なれた」から良かった。
踊りの「型」に関して言えば、そりゃあ、8年前のどかと比べたら、
いまのが全然ちゃんとしているし、全然しっかりしてるだろうけれど、
「型」をしっかり練習するなんて当たり前のことよりも、
予断を排したりグロッキーに「なれた」りすることのが、
ずっと大切なことのよな気がするから、
だからどかは、きょうのさんさは満足です。

手踊りにいた、サルタさんやブウがきょうほど頼りに思えたこともないなあ。
あ、あと急遽、一八にまわったサエゴンはおつかれさま、ほんとに。
よくがんばったねえ、えらいぞお。


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