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2003年10月30日(木) ブラウザ問題

(続き)

マックユーザーのあいだでも長らく、
「ブラウザと言えばインターネットエクスプローラー」だったのだけれど、
マイクロソフトがマック版IEの今後のアップデーターの開発を停止すると発表。
そのためブラウザ業界は蜂の巣をつついたような、
悲劇的活況を呈すことになる。
で、どかはずっとアップル純正ブラウザSafariを使っていたのだけれど、
CSSやJavaまわりの脆弱さとよく「落ちる」という2つの欠点に嫌気が差し、
どかは以下のブラウザを最近片っ端から試してきた。
どれも一長一短で、なかなかしっくりこない。
なかにはdoka's homepageのトップすらろくに描画できないのもあり、
どかとしてはご立腹甚だしいのもあり、ってか、ちぇ。


インターネットエクスプローラー(5.2.3 for Mac, 略称IE)
○:安定性はピカイチ、CSS/Javaへの対応もまあまあ。
  開発が止まったものの、まだスタンダードとして認知、信頼性。
X:起動も描画も重たい、もったりしている。
  ファビコンにも未対応、タブブラウジングもできない。

ネットスケープナビゲーター(7.1, 略称NN)
○:安定性まあまあ、CSS/Javaへの対応はMac用ブラウザでは一番。ファビコンOK。
  IEにつぐ知名度で、スタンダードと言えなくもない、信頼性まあまあ。
X:メールソフトだの何だのがコミコミパックのため、起動が極めて重い。
  描画速度も速くはない。インターフェースにセンスが無い、無さ過ぎ。

モジラ(1.5, Mozilla)
○:NNに同じ
X:NNに同じ、ただしスキンのダウンロードでインターフェースは改善の余地有り。

サファリ(1.1, Safari:Panther付属版)
○:起動は軽く描画も速い。インターフェースはシンプルだが洗練。
  ファビコン、タブブラウジングに対応、ブックマークの使い勝手良い。「純正」の響き。
X:安定性に不安、というかよく落ちる。描画は速いけど重たいページを描ききれなかったり。
  CSS/Javaへの対応はまだ弱い。最後発の弱み、熟成が足りていない。

オムニウェブ(4.5, Omniweb)
○:インターフェース、描画の美しさ、Mac OSのインターフェース「アクア」そのものな雰囲気。
  ブックマークの使い勝手、その他カスタマイズの自由度高い。CSS/Javaへの対応まあまあ。
X:若干重たく起動にもたつきあり。ファビコン、タブブラウジングに未対応。
  日本語版のアップデートなされず、英語版のみ。しかも、上記のなかで唯一、有料。


と、まあ、いろいろあっちが出たり、こっちが引っ込んだり。
数ある要素の中でどかにとってのプライオリティを考えていくと、
やはり一番最初に辛いなと思ったのはサファリ、落ちるのは、辛いよ。
総合点ではNNが最高得点かも、と思いつつ、でもあの重さとセンスの無さはちょっと。
じゃあ、やっぱIEか、という結論に。
だって、知己のページを見ていてもIEじゃないと構成が崩れるページは、
1つや2つじゃない、ガタガタなページ見せていてみんなよく平気だなあ
(というか、個人ページはIE以外を想定していないページ、多すぎる気がする
 ←マック派のぼやきか?)。
でもなー、ファビコンが無いのはやっぱやだよー、重たいのもなー。
じゃあ、オムニウェブ?
うん・・・こいつはなかなか美しいよなー、ディテールへのこだわりがマックっぽいし。
しかしなぜ、ファビコンに対応しないのだ?

と、あたまがぐちゃぐちゃぶーになりながら悩んでたら、
ふと、インストールしたばかりのPantherに付属するIM、
「ことえり」の精度を試してみたくなったのでATOKを切ってみる。
まっくぴーぷるにも、悪名高い「ことえり」の変換精度が劇的に向上したって書いてたし。
・・・たしかにそこそこ、使えるようになった。
・・・というより、むしろっ。
サファリがすばらしく、安定して、描画のスピードがさらに上がった!!
ほんっとに一瞬でサッと描画しきっちゃうそのキレ、
しかも鬼門だったバックボタンを使っても落ちない!
すばらしー、これで文句無く、最高得点だー。

というわけで、どかのブラウザ問題は、一応の決着を見る。
最後はやっぱりアップル純正よん、というわけでサファリくんと心中である。
あとはもすこし、CSSとJavaへの対応を詰めてくれれば文句なし
(うちのbbsのリアルタイムプレビュ−が作動するくらい、詰めてほしひ)。
にしても、むかつくのはATOK。
いくら変換精度がいいからって、他のソフトの足引っ張って、何様だぉ、ったく。
と、言いつつ、今も「ことえり」で頑張って入力してるんだけど、
やっぱり、ATOKと比べると、おばかだこいつ。
「ことえり」を成長させるまでどこまで我慢できるのだろう、℃か。


2003年10月29日(水) MAC OS X 10.3

通称 "Panther"と呼ばれる。
OS Xのメジャーアップデートである。
10.2の "Jaguar"をインストールしたのが日記によると、
去年の9月2日だから、まだ13ヶ月くらいしか経ってない。

Windows PC派に言わせると、
OSのメジャーアップデートが年例行事だなんて非経済的でけしからん。
ということになるのだろうけれど、
WindowsのOSと比べて値段も半分程なのだから、
どっこいどっこいでいいんちゃうんかなあと。

インストールには1時間、やはりきっちりかかる。
さて、起動してみると・・・うん、良いねっ♪
何がすばらしいって、どかのG3 600MhzのiBookクンでも、
格段に各種操作がスムーズかつスピードアップしているところ。
ファインダー操作も、iDiskのマウント作業もはえーはえー。
Mailなどの基本アプリも洗練されて、HTMLメールの描画の速さは特筆もの。

OSがバージョンアップするたびに重くなるなんてナンセンス。
OS 9からOS Xに移行したときはPC派はおろか、
マっクユーザーからもアップルへの批判はもちあがった。
でもこの三世代目を襲名した"Panther"は、
洗練と速度を両立した極めて優れたOSだと思う
(今さらPCには、戻れないよう、だってあのセンス・・・)。

さて、しばらくは様子を見ながら使っていくことにはなるけれど、
とりあえずは大満足しそうな予感。
鳴り物入りの新機能Exposeの動作は超ラヴリーだし!

でも・・・、昨今、ずーっとどかが悩んでる問題は、
まだ、繰り越されて残ることになったみたい。
それは「ブラウザー」問題である訳で・・・

(続く)


2003年10月26日(日) G1菊花賞

冷静に考えれば、一ヶ月前の菊花賞トライアル「神戸新聞杯」での、
圧倒的な差し脚を見せたゼンノロブロイが本命であるのはまちがいない。

3,000m以上での圧倒的な勝率を考えれば、
武豊騎乗のサクラプレジデントもかなり魅力的に見える。

どかのモストフェイバリトな安藤勝己を信じて、
切れ味不足ながら今回は適正距離であるザッツザプレンティも行けそう。

でも・・・、どかは3冠馬が観てみたい。
牡馬の3冠が観たいの、それはあのナリタブライアン以来の快挙。
どかもニュースでしか観たことが無い、あの伝説の名馬以来の、快挙。
だから、馬券は単勝一本、イタリアの天才ジョッキー・デムーロくん駆る、
皐月賞・東京優駿を獲った2冠馬のネオユニヴァースで。

1番人気するも、かなりロブロイにも票が集まり、
オッズ上の差はわずか。
それをI-Patで入力し、準備完了。

・・・じつはどかは昨日のライヴから帰ってきてバタンキゥでダウン。
今朝は鼻と喉がやられてしまい、テレビで観戦することにする。
スーパー競馬の吉田サンも井崎先生もロブロイ本命。
でも・・・どかは3冠が観たいの!

淀みない流れに見えた。
武豊落馬の昨年の菊花賞は、まれに見るスローペースからのヨーイドン競馬。
つまんなかったけれど、今年は違う、そこそこのペースでレースは進み、
騎手の駆け引き、サラブレッドの底力が試される展開。
この展開なら、ネオが引けをとるはずがない・・・
サクラは終始、かかり気味で、有力馬のなかでまず脱落が見えていた。
ロブロイはネオの後方から3コーナーへ。
そして。。。名手アンカツが動いた、3コーナー入り口からのロングスパート。
ワンテンポおいて、デムーロくんはマークをロブロイからザッツに移し、
追走を始める・・・「え、それはヤバいだろっ」。

ネオはザッツに無い切れ味と勝負強さがある。
もう少しスパートを我慢して、最終コーナー出口からで良かったんじゃ。
・・・と思いつつ、もう直線。
ネオとザッツのマッチレース、スタンド沸騰(どかも煮沸)。
しかしっ・・・、並べない、並べない。
1馬身差から縮まらない、並びかけさせすれば、
したらサイドバイサイド(これはモーターレース用語か・・・)になれば、
ネオは必ず勝つのにっ・・、アンカツの豪腕が炸裂、鞭が速射砲で入り、
ザッツ再加速。

驚異のスタミナ、こんなロングスパート、観たこと無い。
皐月賞・東京優駿を力でねじ伏せてきたネオ、ついに根負け、力尽く。
ゴール板前で横山典騎乗のリンカーンにもかわされ3着・・・。

デムーロくんはアンカツの魔術的な騎乗に翻弄されてしまった。
春のクラシックを2つ共に獲ってきたネオへの信頼もあったのだろう。
それが過信だったとは思わない。
地方笠松競馬から中央に出てきた天才ベテランジョッキーの、
あの駆け引きとタイミング、折り合いの付け方、度胸。
それらがない交ぜに炸裂したザッツザプレンティは、
間違いなくこの淀の3,000mで最強馬だっただけのことだ。

不思議と、喪失感は無い。
それはファインの毎日王冠の時とは違う。
すがすがしさすら感じる。
アンカツはやっぱり大好きだし、数あるG1の中でも、
いきなりクラシックを獲ってしまうあたり、天才の名に恥じないなあって。
レース後の識者の言葉でも、とにかく馬とともに、
アンカツの騎乗に特に賛美が集まっていたし、
相変わらず口べたなインタビューも感動的だったし。
そして、ならば、アンカツを信じてザッツの単勝を勝っておけば。
とどかが後悔したかと言えば、全然後悔も無い。
どかはやっぱり3冠への夢を見たかったのだもの。

ネオは好きな馬だし、いまどかの中で5本の指に入るけれど、
やっぱり、ファインとは比べようもないからかな。
ネオの輝きはいまだ失われてないし、JCや有馬記念、楽しみだし。

でもファインは・・・。
マイルCSへの挑戦が決まったみたい。
がっくし。
どかはもっと長い距離で挑戦して欲しいよ。
マイル路線なんてつまんないよ。
そんなの他の馬に任せようよ。
去年の秋のあの、4コーナー出口で見せた光は、
短距離よりももっと長い、そう、天皇賞(秋)の2,000mでこそ、
一番映えるんだってどかは思ってる。

伊藤雄二師、考え直してーっ。
おねがい、ファインを信じようよー。


2003年10月25日(土) THE TEARDROPS@CROCODILE

明治通り沿いのライヴハウス「クロコダイル」にて。
10年前に解散したバンド・ティアードロップスが再び始動、
ニューアルバムをリリースし、そのレコ発ライヴ。
もちろんティアードロップスがかつての伝説のイベント、
LONDON NITEでいかに活躍していようとも、
どかはリアルタイムで10年前のブームに乗ったわけではなく
(というか、まだ大阪にいたし)。
退屈と言われた80年代が、いかに「退廃的でもかっこよかった」かを
岡崎京子から教えてもらったどかだから、その名前は知っていても、
「ツバキハウス」というハコは実際どこにあったのかを知らないわけで
(というか、まだ大阪にいたし)。

でも、元ペパーミントジャムのギタリストであり、
個人的な友人でもあるハルコンがサポートでギターを弾くというので、
ライヴハウスのあの乱痴気にどかの風邪気味からだで耐えられるのか、
不安だったけど、観にいった。

チケはソールドアウト、予想したとおり、
10年前にもこのバンドを観ていたんだろーなーという方が多数、
でも若い子もたくさんいて、フロアの客層を眺めてると面白い。
ジャンルは「青春歌謡ロカビリー」ということになっていたけれど、
どかはパッと聴いて「チェッカーズ」を思い出したんだけど
(叱られるかしらん・・・)。
フックが強くてキャッチーなメロディ、
ボトムが弱くてウッドベースで、ツインギターは歪まないで。
そして、歌詞は「ボクを探しに」とか、ちょっと気恥ずかしい感じで、
そんなのを、真っ直ぐに歌うのね。
演奏は、ハルコンが参加していたからというのでは全くなく、
でもカッチリしていたと思う、もひとりのギターのヒトも上手かったし。
ボーカルは・・・、歌唱力という尺度で言えば、
決して上手くない・・・というか、うん、微妙。
でもね、きっとそんなことは、あんまし関係なかった。

どかがとにかく目を見張ったのは、このボーカル・やながわサンと、
ギター・たかはしサンの、何というか、愛嬌というか、対人魅力というか、
うん、華みたいな、そういうこと。
さすが一時期の世代の人気を一身に背負ったバンドのフロントマンだなあ。
人の目に晒されることを、恐れるのではなくむしろ、
それを快感と捉えて振る舞い、その快感を鏡のように反射してしまうオーラ。
もちろん、キヨシローとかヒロト、エイチャンみたいに、
ビッグバンみたいなオーラの放射を浴びせ続けるカリスマと違って、
もっとこじんまりとした四畳半なみなささやかな放射でも、
それがあるのとないのでは大違いであり、
というか、スポット浴びて板に乗ってるほとんどのヒトが、
歌を歌うのが上手かったり曲が良かったりしたとしても、
この放射が無いがために上昇線が下降線へと変わってしまうというのが、
実際の話なのだから、やっぱり、スペシャルなんだよ、これは。
やっぱり、愛嬌、としか言えないんだろうな。
すごいMCに力を入れていて、コネタをたくさん仕込んできていて、
それがまたドカンドカン爆発するという。
もしかしたら、曲自体よりもMCのが、光り輝くのでは。
という冷静な彼らの自己分析の結果による、あのエンターテイメントなのかしら。
と、うがってしまうくらい、
自身の才能とその表現のパイプを最短距離で繋いだ1時間半だった。

それがさあ、ホントに音程とか外しちゃったり、
声がかすれちゃったりするんだけどさあ、
ジーンと来るんだよねー、アコースティックなバラードとか聴いてると。
かあいいなあ、と男性あいてにポヤーっとなっちゃうどか。
ボーカルにはこういう魅力がやはり、必要なのかもねって思う。
いや、絶対に必要というわけではない、ないけれど。
でもライヴを、祝祭とするためには、
全てを赦し祝う祭りの場へと高めていくためには、
そういう放射があったほうが絶対、イイ。
その点は、音楽のライヴも、演劇と何ら変わらない。
人間自体で勝負しなくちゃ、あかんのだわ、
だって、トム・ヨークも(@横浜アリーナ)そうだったじゃん、どか!

と、言う意味では今夜はアイドルのライヴだったんだと思う、ある種のね。
で、久しぶりのカムバックな夜でもあり、
ボーカルもギター(ハルコンではなく)も、
それなりに緊張してイッパイイッパイで、
だからこそ、そこにはウソがなく、まっすぐ頑張ってたから、
どかは全然気持ちよく楽しめた、MCにも笑った。
まず、ウソが無かった、音楽が出来ること自体への感謝、
初期衝動がそこにはちゃあんとあったから、微笑ましかった。

さあ、でもこっからが大変じゃないかしら。
初期衝動をずっと維持し続けることが大変なことは、
それを声高らかに宣言し続けたハイロウズが、
奇しくも身をもって証明している。
ヒロト&マーシーは違うギアを手に入れて加速できたけれど、
やながわサンとたかはしサンはそれを身につけられるのか。
愛嬌という名の放射だけでは、
これより大きなハコへと展開し続けるのは辛いだろう。
楽曲も懐かしさを感じさせて新鮮だが、
時代の流れとはやはりすこし、ずれていると思う
(ここがロックンロールしてるとも言えるのだけれど)。
演奏力はともかく歌唱力では勝負すべくも無い。
どかはやながわサンの放射がさらに別物になって強く強く光ったときが、
きっと、すごい面白くなるのではないかしらと思い、ちょっと期待したい。
ま、放射も楽曲と全く無縁に存在するのではないのだけれど、当然。

あ、歌詞でひとつ、おもろいなーって思ったのが。
TEARDROPSは♪TOO YOUNG TO DIE!って歌ってたんだけど、
HIGH-LOWSは♪TOO LATE TO DIE!って歌うのね。
ハハハ、なるほど。
立場の違いが良く、出てるなーと思う。
どかはやっぱり、ヒロト&マーシーにはひれ伏さざるを得んなー。

あとは私信。

ハルコン、とっても幸せそうに見えたよ。
なんか、ホントにワタシも嬉しかったし楽しかった。
一枚、カッコイイ画像が撮れたのだけれど、
サポートメンバーとは言いつつ肖像権がどうなってるのか、
分かんないのでここにはアップしません(送るね)。
いまは、このままの方向で行けるといいねー。
応援してるし、祈ってますよん。
今夜は誘ってくれて、ありがとー。


2003年10月21日(火) one tone@南青山MANDALA

4ヶ月ぶりのone tone、青山でのライヴ。
復活基調とは言え、まだ本調子ではないどかだけれど、
one toneの音を聴きに行くのは不思議とココロが軽い。
キライな銀座線に乗らなくちゃだとしても。
キライな人混みの中にいかなくちゃだとしても。

着いて、予約特典のデモCD-Rをもらい、vo.のちなつ嬢と再会。


  いやー、あいかわらず緊張していて・・・

  やーぼけぼけ聴いてるから気楽にねー


などと話しつつ。
one toneの音楽は、決して、安逸な予定調和に落ちていく音ではない。
けれども、そのベクトルはオーディエンスの胸に突き刺さりもしない。
スゥ・・・っと二次曲線を描いてどかのココロに寄り添い、
けれども重ならず、そのまま少しの間だけ併走していく2つの感性。
二次曲線が包含している運命のために、その併走はごく限られた間だけ。
そのわずかな時間に触れることの出来るone toneの福音には、
ウソを動力にして回る「J-POP」ベルトコンベアーに乗っかる、
「計画された接続」は見当たらない。

どかはいま「ぼけぼけ」を欲しているけれど、
それはウソにおぼれた「ぼけぼけ」じゃあないのね。
ウソにおぼれた「ぼけぼけ」はただの、敗北だ。
じゃあ、何に勝利したいの?
と聴かれても困っちゃうけど「ウソな接続」よりか、
「ホントな拒絶」のほうが、ずーっといいな。
だって、それで相手を嫌いになったとしても、
まだ相手を信用したままでいられるんだしさあ?

というわけで今夜も、
相変わらずどかを「ぼけぼけ」させてくれるいいライヴだった。
バンド編成は初めて見る、うん、かっこいいねー。
どかがone toneに持っていたイメージと随分違って(当たり前だ)、
「オッ」とか思ったけど2曲目あたりから、身体がなじんできて、
力が抜けて、脱力モードに突入するどか、スプモーニがおいちい。

なんか意外だったのが、バンドで演奏したほうがより、
繊細で美麗なギターの音色が際だって素晴らしく思えた。
アレンジが上手いのかなあ、でも、あのアルペジオなキラキラ感は大好き。
相変わらず、ギターのゆうやクンの右手に見とれる。
優雅に動く指の残像に、ドキドキする(フェチか?)。
その残像から実際の音色が届くまでに、わずかな時間差がある気がして、
でもその時間差が、ライヴの贅沢なんだなーロマンだなーと思う。

ちなつ嬢もだんだん声がハコに馴染んでくる。
今夜もどかの大好きな(大好きな!)<君のところへ>をやってくれて、
イントロが鳴った瞬間、少し、泣きそうになる。
ボーカルの発声がメロディに少しだけ遅れておっかけてく感が、
歌詞や曲調にとてもふさわしくて、
ひとつのシーンがどかの目の中に再生される。
ビジュアルイメージを強く喚起させるボーカル、
という意味では、全く違うタイプだけど、
ハイロウズのマーシーみたいね、何が重なるのか、分かんないけど。

歌は、進む。
そして二次曲線上のちなつ嬢とゆうやクンは少しずつ近づいくる。


  one toneは時間性の中で音を鳴らすことを決意してるんだなあ


と、心底、納得しつつ、離れていく二次曲線上の2人と、
消えていく最後のギターの余韻を、泣きそうになりながら見送った。
どかがぼけぼけしてる間に受け取った福音とは、
また街の喧噪へと、井の頭線のラッシュへと戻っていくどかの、
その涙におされた烙印であり、
その涙をココロに貯めてまたがんばんなくちゃだわ。
どかは時間性を、じつはとっても苦手としていて、
そんなところを、しっかり踏ん張って立っているone toneは、
やっぱり好きだなと、思う。
これが今夜の発見だった。

などと思ったりして。
でも何に癒されたかって、演奏終わって速攻バーのカウンターに行って、
ビールのジョッキを手にして嬉しそうにクチをつけてたゆうやクンだった。
ホッとしたようなかわいい笑顔(ってか本当にビール、好きなのね)。

でも、久しぶりでしたね、おふたりさん。

また、何かの機会にご飯でも食べましょう・・・



↑one tone@南青山MANDALA


2003年10月20日(月) 鈴木耕一・他「谷中谷外」

(10/19・観賞分)

芸能研の稽古でいつもいっしょしてる、
こうチャンの本業・舞踏(舞踊?)の舞台@台東区・護国院。
府中からチョクで上野へ向かい、どらと合流、
上野公園を渡って護国院に着く、現地であやチャンも登場。

舞踊はこうチャンがひとりがソロで。
それに生でチェロや篠笛、パーカッションの演奏がつく。
「ありがちかなー」と思ってたけど、
会場に着くと、チェロと篠笛の星サンが神楽殿から、
ちょっと高いところで演奏し、
客席(ゴザが敷いてあるだけなんだけど)正面にドラムセット一式に、
いろんな各種打楽器も加えたくどうサンが鎮座。
この配置は、なかなかハマっていた、いいなー。
・・・演奏が始まる。
テーマは「鬼」。

ダンサーは神楽殿の影からあらわれるのかしらん。
と思って音楽を聴きながらぼんやりそっちを観ていたの。
したら・・・びっくり、舞台と思っていたスペースではない、
パーカッションの後ろの植え立ての奥、
護国院の本殿の回廊に、いつのまにか白く浮かぶ影。



↑暗くてごめんなさい(これでもISO1600相当のモード)
 中間部の「鬼」、不気味にうごめくうごめくうごめ・・・
 「鬼」の向こう奥にパーカッションがいる


いやー、これに気づいた瞬間につきるな、と思う、このイベントは。
それくらい、全てを通して一番インパクトがあったのは、この登場シーンだ。
それから、身体性を内的イメージに還元していく舞踏的な動き。
「怯える鬼」なのか、なかなか客席の前には降りてこないけれど、
このイベントで2番目に良かったのは、
この前半の身体性をフルに顕現させた時間だと、どかは思う。
衣装に頼らない、身ひとつで、さまざまな「摩擦」を繰り出し、
そこに発生する熱を直接、客席のヒトタチの胸へと届けようとする。
山海塾と比べると、明らかに「リアリティ」の在り方が違う。
ここには、熱がある、肉がある、血が、ある。



↑炎に照らし出される「鬼」
 どか的には根元的なインパクトは薄いけど、
 舞台の構成面からの工夫は感心した


そのあとは、いったん逃げた「鬼」が、
毛皮みたいな衣装に、頭部の前後につけた2つの面が際だつ中間部。
たいまつなどを持ち出して、舞台にかがり火のように炎をあげたり、
客席のヒトの顔近く、たいまつをかざしたりと、
「怒った鬼」なのか、なんだかそんな感じ。
もともと抑えた照明に、かがり火や照らし出される面の異形さが際だつ。

そして、集結部、ふたたび姿を消した「鬼」は、
衣装を解き、面を外して、静かに沈降していくイメージを展開、
ラストシーンは客席に向かって歩みよってくる。
「赦した鬼」なのかも知れない、なんだか邂逅な感じで、
カタルシスらしきものをきちんと客席へ届けて終了。
うん、ラストシーンは、3番目に良かったかも。



↑ラストシーン、テンションを保ったまま「邂逅」する身体
 これは物理的な動きは少ないけど、かなり難しいだろうな


ちゃんと、盛り上がりもあったし、カタルシスも作ってしまって、
呆気にとられるほど、ちゃんとエンターテイメントしてたことがまずすごい。
言葉に頼らなくても、人数に頼らなくても、表現は可能なんだなあ。
ヘタな劇団のヘタな芝居よりもよっぽどリアリティがあって楽しい。
こうチャンの身体の凄さは普段いっしょに稽古してるから、
よく知っていたけれど、段々良くなってきている気がする。
四肢だけではなく、腰や背骨の表現力が増した、というか。
神楽効果なのかしらん、フフ。
そう言えば、きょうの構成、随所に神楽的なものを感じたなあ。
今度、芸能研の稽古であったら、ツッコンでやろ、ヒヒ。
でも、それは剽窃というネガティブな響きではなく、
良い意味での刺激というカタチでこれから昇華されるだろうなと、予想する。

どか的には、どかがかつて知る神楽的なるモノが、
どういうふうに彼の表現の根本に入っていくのか、
それが楽しみで仕方がない。
そう言う意味では、どかは彼の表現を、
一番贅沢に観賞できるポジションにいるのかも知れない
(でも彼は・・・イヤがるかもだな)。

いずれにしても、自己表現について言い訳をしないことは潔いし心地良い。
そこは文句なしにうらやましいし、目標にしていきたいな。


2003年10月19日(日) G1秋華賞

牝馬3冠最後のレース、秋華賞。
2冠馬スティルインラブが史上2頭目となる偉業、3冠へと挑む。
対抗馬筆頭は秋華賞トライアルのローズSでスティルを下した、
「最強の血統」アドマイヤグルーヴである。
というか、1番人気は2冠馬をさしおいてアドグル@武豊。
これまでの桜花賞・オークスでも、常にアドグルは1番人気、
しかし常に、スティルの後塵を拝してきた。
それでもファンは、アドグルを1番人気へと推すのね。

さてどかはと言えば、先週のショックをまだ少し引きずりつつ、
チョコレート色の馬を観ると「あ」とファインの面影を思い出すありさま。
・・・じゃあ、来るなよ、府中に。
というツッコミを承知でやってきた東京競馬場、
今年最高の秋晴れ、空が、高いっ。


  あと少し、あと少しで、胸の内側に風を入れられる。


そんな祈りのような予感が澄んだ陽光に衝き動かされたのだと、思う。
着いてメインまでの数レース、細かくちょこちょこと買う。
先週の結果はショックであったけれども「馬券は単勝」が気持ちいい。
というあまりにシンプルなルールを見つけてしまったどかは、
全て、単勝で行くことにする。
東京10R神奈川新聞杯、獲った(8番スイートクラフィティ)。


  うん、もう少し、もう少しだ。


ちなみにきょうはメインスタンドやパドックの激流に、
とても自分の芯が持ちこたえられないと思ったので、
ずーっと馬場内(レースコースの内側)の芝生でボケボケしながらの観戦。
親子連れがピクニック風で佇み、風はひんやり心地よく、
光は温かく、ちょっと離れたコースを駆け抜ける馬は、
どこまでもキレイ、条件は整っていた。

東京11R府中牝馬ステークス、ここでまず事件が起きた。
去年のオークス馬・スマイルトゥモローの「逃げ」。
それがハンパな逃げではなく、大逃げも大逃げ、府中の杜が沸いた。
スタンドは騒然、馬場内も歓声と絶叫がこだまする。
有り得ない、3コーナー差し掛かって12馬身差。
4コーナー出口で20馬身差まで開く。


  おわーっ、おわーっ、行けーっ、逃げろーっ、行けーっ


と、馬群とは無関係に存在したスマイルにどかも舌足らず的絶叫。
結局、スマイルの脚は止まってしまいゴール手前、2頭に差されて3着。
でも、きょう、府中に足を運んだヒトは、みんなここで、夢を見た。
あのまま勝っていたら、伝説になったな、サイレンススズカ級の。


  あと、ほんの、少し・・・


そしてメインレース、京都11R秋華賞の発走時刻となる。
どかは、血統の夢ではなく、三冠の夢を見ることに決める。
すなわち単勝17番・スティルインラブ、1本で勝負。

・・・

最後の直線、外に持ち出したスティル@幸。
それをすぐ後ろからピッタリマークするアドグル@武豊。
先頭のマイネサマンサはまだ7馬身ほど先。
幸クンが追い始める、武サンはまだ我慢。
スティルがジリッと空間を歪め始め、詰まる差は5馬身、
ここで武サン、追い始める、アドグルの最後の「キレ」を生かす作戦だ。
対するスティルは「力」の競馬、詰めて3馬身、
猛追するアドグル、スティルまで1馬身、
この2頭の脚色が水際だっている、他の馬は、止まってしまった。


  いけスティルスティわあああっいけあああいけいけいけーっっ


と、馬場内からオーロラビジョンに向かってバカになって叫ぶ舌足らずどか。
スティル、先頭!
アドグル、さらに詰めて、3/4馬身差、ゴールまで70m、さすがの「キレ」!
しかし、スティルの「力」は最後にもう一度、爆発、
ゴールラインまでの残り、アドグルは詰めることが出来ずそのままゴール。
これが、牝馬史上2頭目の偉業が達成された瞬間だった。
そして、スッ・・・と、かすかに風が胸に入ってくるの感じる。
まぶたを照らす光の温かさを感じて。

ファインのこれからの動向を思うと、胸がまた塞がってしまいそう。
先週のレースの直線を思い出すと、泣けてきそうだけれど、
いまは、少し、この3冠馬にご助力を請おうと、素直に思った。


おつかれさま、スマイルトゥモロー、惜しかったね。

そして。

本当に良い時代に競馬を観られたなと実感しました、
スティルインラブ、3冠達成、おめでとう!



↑馬場内、秋華賞のリプレイをオーロラビジョンで観る人々
 みんな馬券の如何を問わずに微笑んでいたのが、良かった


2003年10月17日(金) マンハッタンラブストーリー(〜第2話)

TBS系列夜10時から放送の新しいドラマ。
ちなみに、このクールの木曜日の夜はドラマ戦線において、
一番熾烈な激戦区となっている。
夜9時からはテレ朝で「トリック」があって、
夜10時からは「マンハッタン」とCX系の「白い巨塔」。
どかは「白い巨塔」の豪華重厚キャストにも惹かれたんだけど、
「マンハッタン」の豪華軽妙キャストを獲ることにする。
ってか、ビデオ録ればいいんだけど、
やっぱりドラマは生で観た方がいいとどかは思うの。
どかが生で観るのは「マンハッタン」、これ、決まりね。

やっぱ、宮藤官九郎は面白いなあ。
しかもキャストが鬼才・松尾スズキをはじめ、
どかオキニの池津祥子サンなど大人計画劇団員がたくさんいて、
総力戦の様相を呈してる、ホントに才能集団なんだなあ、あそこって。

KYON2がもう、すっごいかあいい。
上手いと思う、あのポジションであの年齢であのスタイルのヒト、
つまりかつて一世を風靡したアイドルでないと、
ハマらない役どころを、クドカンは準備してきた。
そしてそれは、ミポリンではやっぱダメだろーなっていうことと、
KYON2でこそ映えるよなーっていうことを、
視聴者に納得させるほど、研ぎ澄まされた筆致である。
つまり、女性タクシードライバーで、タクシー会社のアイドルで、
独身で、過去不倫で泥沼を経験していて、ちょっとずれてる、という設定

ミッチーの使い方も、ちょっと卑怯だけど良い。
あのダンスとあの華は、
道ばたに置くよりも、
床の間に置いたほうがいい。
ってか、カッコイイっす。

そして、松尾スズキ。
あれをモザイクなしでお茶の間に流していいのか、TBS!
というくらい、楽しい。
一挙手一投足が、全てヘンというヘンさぶり。
しかもあの設定と言ったら、ププ
(第2話ラストの、あれです)。

TOKIOの松岡クンも、初めて見直したな。
面白いジャン、ちゃんと。

というわけで、どか別枠の「銭形愛」を除けば、
断トツこれが楽しいと思うの、いまは。
クドカン初のラブストーリー、でもぜんぜん、ラブじゃないっていう。
でも、KYON2が自分のマンションの前で、
しどろもどろでミッチーを誘うシーンは笑ったけど、泣けた。
これまでほぼ唯一独壇場だった三谷幸喜とは違うコメディの形を、
クドカンはこのドラマで結晶させてしまうんじゃなかろか。
期待でしゅ。

ちなみに「マンハッタン」の前の枠の「トリック」は、
予想通り、どか的には、ちょっと微妙。
いままでの遺産で食いつないでいるに過ぎず、
新しい要素や新しいキャラクターでリフレッシュを図ろうとしているけど、
どれも不発に終わっている。
あと2回や3回で1話完結というリズムがすでに冗長で、
初代「トリック」のころの1回1話完結のリズムにまず戻すべき。
あべチャン、なませサンはやっぱ楽しいけど。


2003年10月16日(木) 跨線橋からの眺め

ようやく、毎日王冠の悲劇から立ち直りつつなどか。
まあ本当に回復するには11月末のエリザベス女王杯での、
彼女の勝利まで待たなくちゃなのだろうけれど。
あ、でも、マイルCSへの参戦計画もあるそう。
ヤダー、マイル路線はつまんないー、エリ女で復活して、
来期、再び盾(天皇賞のこと)を目指さなくちゃだよ。
伊藤師はホントにたたきまくるよね、馬ではなく、石橋を。

というわけで、まだモヤーッとした気分が拭えないのだけれど、
その理由は一番、上記の悲劇がデカいのだけれど、
最近、いろいろ、他にもあってね。
おうまさん関連で言うと、菊花賞・天皇賞(春)、そして宝塚記念を獲った、
現役最強の一角、ヒシミラクルが故障、この秋は絶望的らしい。
みらこー(ヒシミラクルのこと)クンのこと、
どかはあまり好きくないけど、でもこうなると、かわいそう。
悪役は悪役らしく、したたかに頑張って欲しかったな。
ふぁいんタンとみらこークンの挫折は秋競馬に薄くない影を落としちゃった。

さらにあって、競馬じゃなくて。
TMGE(ミッシェルガンエレファント)の解散はやっぱりショック。
ミッシェルのあの破滅的なパブロックな音は、どかはやっぱり、
そんなに好きくはなかったけれど、
というかでも、どかに限らず、
ロックンロールが好きならばみんな、
ミッシェルのことは認めていた気がする。
「あのスタイルは好きじゃないけど、まさしくロックンロールだよね」って
(逆に、ミッシェルを否定してしまうと、
 ロックンロール全体を否定した気にさせられてしまう空気あり)。
ハイロウズフリークなどかでもやっぱり、一度は聴きたいなと思ってたし、
アベさんのボーカルはヒロトさん並みに、
何か別次元のオーラを帯びていたようにも思う。
かつてブランキーがロックンロールを背負っていたように、
ミッシェルはロックンロールを背負っていた。
・・・悲しいのではないな、でも、寂しい。

寂しいということで言えば、やっぱりハイロウズの白井サン脱退は、
いまになってなお、ボデーブローのように響く。
機会がないからライヴに行けてないけど、でも、
白井サン抜きの音を聴くのが、ちょっと怖い気がするなあ。

もっと言えば、最近レビューは更新してないけど、
GPを観ててもなお、切ないしねえ。
ゼッケン74のワッペンを胸につけて走るジベルナウが活躍すればするほど、
やっぱり加藤大治郎の不在が胸に突き刺さる。
だって、ジベルナウが大チャンに見えるんだもん。
あの鈴鹿のシケインの悲劇がなければ、
きっと今頃大チャンはあのポジションでロッシを追いつめてる。
ずっと大チャンを観てきた人はみんな、そう思ってる。
ミミちゃんとも話したんだけど、ぜったい、あれ、そうだもん。
ジベルナウがシャンパンシャワーとかしてるの見ると、
もう、泣けてくるさ。

テレビのニュース見ても小泉だの石原だのの言ってることを聴くだに、
もう立腹をはるかに超えて、切なくなるだけだし、あー、
実は、どか、結構いまブルーなのか。
プライベートでも大変だしな、Jのことでもまだむかつくし。
去年の秋は、一念発起して踏ん張った季節だった。
今年の秋は、なのに切ない、なあ。
秋と金木犀の香りは、どか、一番好きなのになー。

でもなんとか、自分の「アンテナ」は保守してかんとー。
これが錆びてなければ、きっと、またオーロラの「音」が聞けるでしょ。
と、思いつつ、きっとつか芝居やあおいたんや野島伸司の世界観の向こう、
そこに浮き彫りになる自分自身の「内側」ちゃんと見つめて、
自分の立ってる位置と向いてる方向を確認しなくちゃなんだろーな。
この点に関してだけは、大切なのは量じゃなくて質だ。
強くなくてかまわないから真っ直ぐでいられるように。
そのためには「アンテナ」を保守しなくちゃ、うんうん。



↑三鷹の跨線橋から立川方面を眺める
 先だっての不通トラブルでお騒がせして全国に知られてしまった区間


「美しいものを見つめる力を私は求めます」


2003年10月15日(水) Syrup 16g "パープルムカデ"

何とこれがシロップの初シングル。
4曲入りで、曲目は以下の通り。

1.パープルムカデ
2.(I'm not) by you
3.回送
4.根ぐされ

一番最初にダーッと流して聴いたときは、
実はかなり違和感があった。
前作の"HELL-SEE"と比べると、
1曲目のパープルムカデは明らかにある種の
「ポップさ」をそぎ落としてきたからだ。
メロディは解体されつつあり、
変拍子を繰り返すことで流れは淀み、
そして歌詞は以前にも増したネガティブ度合い。


  不協和音と君がいて
  銃声は空から舞い降りた
  付け足さないで そのままで
  ただの名もなき風になれ
  (Syrup16g ♪"パープルムカデ"より)


自分の力の及ばない大きな絶望に対して、
抵抗するのでもなく嘆くのでもなく、
ただ、それにまみれて朽ちていく自分が
微生物に解体されていく様を、
冷徹に描写するかのような視点である。
できればそこで発狂して弾けてしまいたいのだけど、
そこまで弾けてしまうことができない自分。
なにが一番むかつくかって、
発狂してしまいたいなと思っているその気持ち自体、
既に救いようもないほど正気のまま腐っているという事実。

これまでのシロップはその重さを、
美しいメロディラインやスピードでかろうじて支えて、
たぐいまれなる比例を見せたバランスだった。
しかしここで、そのバランスすら外してしまった。
これでは「表現」としての成立条件すら満たせないのでは。
と、どかは不安に思いつつ、でも部屋ではいつも聴き続けた。

・・・すると驚くべきことに、
いつの間にかこのいびつでただ重たい曲が、
どかの輪郭にピターッと沿うように響いてきたの。
ビックリ、いいじゃん、これ。

結局、最初にシロップに対して受けつけられない。
って一瞬思ったのは、それでも当然の反応だったのかも。
やっぱりさ、街を歩いていて耳に入ってくる、
いろんな「じぇいぽっぷ」とかと比べると、
真逆なんだもん、向いてる方向が。
もはや軸がズレているというレベルではなく、
180度、反対だよね。
ヒトはそんなに本来そんなに辛抱強くできてないから、
分かりにくかったり理解できなかったりすると、
それを最初から無かったことにしてしまう。
そういうようにヒトは、作られている。

どかは最初からスッと共感できるモノとか、
やっぱり空しいなーって思ってしまう。
いつからだろう、でも、やっぱりそう。
誤解を恐れずに言うと、
オーロラはマイナス30度の中でこそ、
崩壊現象を見せるのだ。
モナリザはあの表情ではなく背景の分析からこそ、
美が発生するのだ。

どかはSyrup16gという、
腐敗しつつある自らを見つめ続ける眼差しを、
思って切なくなる。
その眼差しの前に展開する情景のなかに、
ホタル一匹の明かりすらなくとも、
その眼差しが閉じないあいだは、
その目の奥に微かな光が宿っているという事実。
ヒトはヒトとして輝くことがきっと可能なのであり、
何かの反射によってのみ輝けるわけではにのだということ。
ヒトはヒトとして恒星なのであり惑星では、
きっとない、ということ。

だからヒトは他者へ向かって表現を開いていくとき、
決して100パーセントの絶望は描けない。
Syrup16gは、99パーセントの絶望を描いてなお、
残りの1パーセントをさらに微分しようと試みる理性である。
その試みを辞めたら楽になれると分かっているけど、
忘却と妥協ではない、蛍光灯や水銀灯の色ではない、
本当の光を一度で良いから見てみたいから、
ウソの光を全てウソであることを確認し続ける。
そうして自らにもウソが感染し、
腐敗が始まる、始まってなお、
眼差しはそこに、ある。

割と2〜4曲目はいままでの彼らの
コンテクストに載っかってくる作品だけど、
1曲目は違ったんだよね、さらに深化してきた。
自らの不毛をこれまでのようにダーッと押し流すのではなく、
音色とリズムと声の、全てでいちいち粒を洗いだして、
不毛さを積み上げていく、冷酷な「写経」の響きだ。
ちょっと方向転換するだけで、
マジで ACIDMAN並みに大ブレークすると思うのだけれど、
どかには敢えてそのカードをめくらないでいるとしか思えない。

でも、だからどかは、このバンドが好きだ。
愛しいし、ぎぅぅと抱きしめたくなる。


2003年10月14日(火) ケータイ刑事 銭形愛 (〜第2話)

以前に BS-iで放送されていたドラマが地上波で再放送。
主演は宮崎あおい、やったー、エラいぞ TBS!
第2話まで見た、もう、とろけまくりーなどか。
設定がもう、はちゃめちゃ。
普通の女子高生・銭形愛は何と、警視正!
IQ180の名推理で難事件を解決して警視総監賞を何度もゲットするも、
学校の成績とIQとは比例しないことも自ら証明するおちゃめサン。

ケータイには「警視庁から入電中」という着メロで事件の情報が入り、
高校の制服のまま(ブレザー)すぐにマウンテンバイクで現場へ直行、
写メで証拠画像を撮り、すぐに推理が始まる・・・。
そのケータイのストラップは、あのゆかりの銭形平次のあの「銭」・・・。
そして真犯人を追いつめる段になって、
その赤いひも付きの「銭」ストラップが、
シュルーッと伸びて犯人の腕を捉えて、
クッと引き寄せたあとの、
あおいたんの決めゼリフがすごすぎ・・・


  愛の光で闇を討つ 
  あんたが悪事を隠しても
  シッポとアンヨは見えてるよ
  その名もヒト呼んでケータイ刑事 銭形愛!
  そこら辺のギャルと一緒にすると
  ヤケドするよ・・・
  犯人は、あなた


・・・キャーッ (>_<)!!
キャーッ、もう、嬉しいやら、恥ずかしいやら、かあいいやら、
もう、萌えーッ、いやん、もう、でへ。
どかはもう、いくらでもヤケドしちゃう、しちゃうもーん。
ハアハアハア。

ああ、私はあなたの「犯人」になりたひ。

・・・と、まあ、こんなんで (^_^;)
「害虫」「パコダテ人」「ラヴァーズ・キス」などの主演映画と比べると、
明らかにテイストの違う、軽くて楽しい、
オフセットが魅力なエンタメドラマ。
あおいたんのパートナーは山下「食いしん坊」真司。
きっとプロデューサー的には、
あおいたんのサポート役を山下さんに期待したんだろうな・・・。
でも・・・、あおいたんのが、演技、上手いの。
やっぱ、ハンパ無いなー、何というか、演技への集中力。
演技派というひと言でくくってしまうのは、何というか、ためらわれるけど。

さっきの「恥ずかしい」決めセリフだって、笑ったあなた、
一度、聞いてみて欲しい、実際に。
画面でちゃんと見てみると、いや、やっぱり笑っちゃうんだけど、
でもね、予想されている空気とは全く違うから。
あおいたん自身は、あたりまえだけど、決して恥ずかしがって言ってないし、
かといって、素のままにサラーッと語ってしまっているのでもない。
演出家の白井晃サンがあおいたんのことを評して、
「演じることのてらいを知っている」って。
本当そうだと思う、こういう結構「大変」なシーンにくると、
それがよく分かる。
あおいたんはその年齢とはおよそ不似合いなほど、
演技の焦点を明確に定めてくる。
バタ臭くなく、嘘くさくなく、スケールが大きいとしか言いようが、ない。

こんなオフセットなくだけた味わいなドラマであっても、
そしてあおいたんの役どころもコミカルで楽しいものであっても、
あおいたんは、手を抜くのではなく、肩の力を抜いて、
ちゃんと、自分の狙うべき焦点を分かって演技をしている。

と、分かった風なゴタクを並べて理論武装をしつつ、
それを言い訳にこれから毎週、どかはテレビの前でとろけるのだろう。
ブレザー姿でマウンテンバイクをこぐ姿も、キァーッ (>_<)

この30分だけは、どかは完璧にしやわせでし。


2003年10月12日(日) G2毎日王冠

超G1級レースと言われるグレード2レース、毎日王冠。
天皇賞(秋)へのトライアル的要素が強い重賞である。
府中の伝説とまで言われるのは平成10年度の毎日王冠、
「超速の逃げ」サイレンススズカへ、二頭の無敗馬が挑戦した。
グラスワンダーとエルコンドルパサーである。
驚異の三強のぶつかり合いとなったこのレースは、
職場の先輩で予想の鬼、なぐもんも一番思い出深いレースと話してくれた。
そして、今年、毎日王冠に現在唯一無二のカリスマ、
「最強牝馬」ファインモーションが出走した。



↑ファイン嬢をひとめ観たいファンでむせかえるパドック
 異様な雰囲気で待ち続ける群衆


ファインモーションは復帰後第一戦である8月のクイーンSで、
無欲の逃げをうったオースミハルカをすんでの所で取り逃がし、
まさかの2着に終わる。
けれども、圧倒的な追い込みの脚は健在で「負けて強し」の印象。
このレースで手綱をとった武豊の「かなり行けますよ」という進言により、
伊藤調教師は当初のマイル路線を変更し、
天皇賞(秋)→ジャパンカップというスケジュールを立てる。
ファンにとってはこんなに嬉しい変更は無い、やった!

しかし、ひとつ問題がある。
天皇賞(秋)は外国産馬は二頭までしか出走できない。
シンボリクリスエス、アグネスデジタルといった大御所が出馬を宣言しており、
ファインモーションは人気・実力では文句なしと思われるも、
獲得賞金額によって、このままだと出馬は無理。
そこで、伊藤師はこの毎日王冠に照準を合わせなおしてきたのだ。
彼女の使命はひとつ、それは「勝利」ですらなく、ただ「圧勝」のみ。
牡馬とのマッチアップだろうが、57kgという斤量ハンデであろうが、
何と言っても「史上最強牝馬」を襲名すべき彼女である。
負けるわけにはいかないし、負けるはずがない。
当然、人気も集中する。
超圧倒的大本命、穴馬はいても、対抗馬は、存在しない。
何と、単勝オッズは1.3倍、ほとんど元返しである。
それでも、どかは単勝一本で勝負する。
それが、ファンの務めというモノなんじゃないかって、
そう思うの、どかは。
どかの競馬は、そう言う競馬。
穴を狙うのでも、勝ちを狙うのでもなく、そう言う競馬。



↑ファイン登場!鞍上、武豊!ファンの声にならない絶叫と声援が、
 さんざめくパドックをさらに独特な雰囲気に。


パドックではすごい落ち着いた様子を見せるファイン嬢。
ほれぼれする身体、美しい脚さばき、何よりあのオーラ。
しっぽに着けた赤いリボンもカワイすぎる、ラヴーッ。
入れ込んではいないように見え、とりあえずはホッとするどか。
「がんばれー」って心の中で叫ぶ「豊クン、任せたよっ」。
出走馬がターフへ向かいそれに合わせて、
パドックから急いでコースに戻るファン達と、どか。
固唾をのんで競馬新聞を握りしめそのときを待つ、ファン達と、とか。

ファインモーションとは一体、何なのだろう。
どうしてどかはこれほどに彼女に惹かれるのだろう。

ファインモーションとは輝きである。
そしてその輝きは丹念に時間をかけて磨き尽くされたものではなく、
全くイノセントなものだ、純粋無垢、なんの手業も加わらず、
しかしそのままでなお、他の誰もが及ばないほどの輝度を示す。
それは時に寒気を誘い、恐怖すら誘発し、思考を止めてしまうほどだ。
アラスカの山奥でオーロラのブレークアップに際してヒトは、
美しいと思うよりも先に畏怖の念を抱き、
感嘆のため息をつくよりも先に万感の涙を流すように。
それは漆黒の宇宙のなか、厳然と屹立する光の柱があり、
それが緑のターフにおいて、ジョッキーの鞭が飛んだ瞬間に、
光の柱は融解して、壮大なスケールで回転し、全宇宙を覆い尽くす。
オーロラのブレークアップ(崩壊現象)の美しさ以外に、
彼女の4コーナーから直線に向いた瞬間と対等に語れる比喩を、
どかは知らない。



↑発走直前、胸騒ぎのゴール付近、この曖昧なプレッシャーの空気は、
 至福へと向かう予兆である・・・、とどかは思いたかった 


どかはファインモーションの直線に飛び出してくる瞬間が大好き。
彼女の輝度が、速度へ変換される、その瞬間。
人類全体の想像力すらちっぽけに思わせるほどのスピードには、
予想師の箴言も、競馬新聞の売れ行きも、
ささやかな資本投下である馬券も、ファンの歓声も、
まったく追いつけない。
金額も、勝利も、感情も、憧憬も、悲劇も、何もかも。
全てを置き去りにして、そのイノセントは加速する。
何色にも染まらず、何者にもおもねらず。
だから彼女は、追いつかれるわけにはいかない。
敗北にまみれるわけにはいかない。
涙にまみれてしまうには、彼女の輝きは、あまりに美しすぎる。

そして・・・ついに発走!

スタート後10秒、オーロラビジョンを注視していた6万の観衆がどよめく。
ファインがいきなりハナをきって先頭にたった。
逃げ馬ゴーステディを差し置いて、グングン加速するファイン。
「ああ、ヤバい、ヤバい・・・」あれは・・・、入れ込んでるよ。
完全に首が立ってしまって、沈み込むようないつものフォームじゃない。
名手武豊をして、なだめて折り合いをつかせることを断念するほどの、
そんな過度の緊張とストレスの発露のファイン、眩暈がするどか。
他の馬ではない、何かに追い立てられるように、
本当に何かから「おののき逃げる」かのように、
彼女は加速し続ける、そして・・・直線に入ってくる。
スタンドから目をこらし、遠くに蠢動する馬群を視界に納め、
再び、オーロラビジョンを観る。

「ああ、あかん、やっぱり・・・」
オーラが、ない!

ファインモーションをファインモーションたらしめていた、
あのオーラが全くない・・・、ブレークアップが始まらない!
依然、先頭だけれど、馬群に飲み込まれるのは時間の問題。
一番、頑張らなくちゃいけないのに、一番、絶望しなくちゃならなかった男の、
ジョッキー武豊は、それでも悲しい肩鞭を入れる、
坂の途中、ヨレヨレになっていた彼女を少し立て直すが、
「立て直す」必要性自体が、最大級の非常事態の証左である。
そして、馬群に飲み込まれ、チョコレート色の美しい毛並みが見えなくなる。

・・・

・・・

府中にこの日集まった6万の観衆は、
ゴール後、誰も動けずに立ちつくしていた。
深い、深い、喪失感、身体を引っ張る重力が急に煩わしい。
そのまま、落ちていきたいのに、自分を支える地面が煩わしい。

ファインモーション、7着。

彼女が負けたことではなく、馬券をスったことでもなく、
そこに、オーラが無かったことが、悲しい。

悲しいよ、どかは。


2003年10月11日(土) 山海塾「遙か彼方からの ー ひびき」

まやチャンに誘ってもらい、ご一緒させていただいた。
ソワレ@ルネこだいら大ホール。
「さぁ舞踏だっ」とちょっとドキドキしながら席に着いたんだけど、
開演前にまやチャンと話したことには、
山海塾はそれほどウネウネドロドロはしませんよ、とのこと。
少し、ホッとして、客電が落ち、開演。

・・・終演、んー、面白い、面白いっす、
軽く頭が麻痺しているこの感じ、むー。

まず舞台美術からして、主宰の天児サンの美意識を100%具現化している。
舞台上に置かれた10個ほどの、でっかいガラスの浅い皿に水が張られて、
そこへ定期的に水滴を落とす、天井から吊された水を蓄えたガラスの小瓶。
床にはうっすら、細かい砂が敷き詰められていて、
どかは舞踏手が走った時に舞い上がるほこりを観るまでそれに気づかず。

音楽は加古隆サンと吉川洋一郎サンで、初めは月並みなアンビエントね。
って思ってたけど、これがちゃんとハマるんだなあ。
ひとつひとつの音の質感がきっちり区別、整理されていて、
それを丁寧に織り上げて舞踏手へと差し出される。
舞踏手は「音と音」の、「水と砂」の、そして「光と闇」の質感のあいだに、
現象としての摩擦として、ただ、そこで呼吸し、まばたきをし、次に動く。

けれども、いわゆるどかがイメージしていた土方サン風な暗黒舞踏と違い、
山海塾の舞踏手は、少なくとも上手いヒトはその摩擦から熱を放出しない。
それが、どかはとてもビックリした。
ウネウネギゥーッとうごめきひしめく感情の熱いほとばしりは、
そこには存在しない
(それはどかが勝手に舞踏のアイデンティティだと思いこんでいたもの)。
その代わりに、山海塾の舞踏手は、
摩擦でおこる空気の波動や色彩の長短を、大小を、濃淡を客席に届ける。
その波動や色彩は、おそらく観客席にすわるヒトの一人ひとりの心の中で、
「感情」や「エネルギー」、「希望と絶望」といった、
それぞれのテーマへと変換されていくのだろう。
山海塾のアンビエントさは、そのテーマの変換具合に干渉してこない。
その意味で、つか芝居からは最も遠く、
青年団の作品からも遠く、
維新派の舞台にはほどなく近い。
そんな距離感にある舞台なのだと思った。

どかは今回の舞台の波動と色彩を「悪業と救済」風に感じていた。
最後の六人の舞踏手の動きと音楽の盛り上がりには、
カタルシスを感じたし、テーマとしてはありがちだとは思うけれど、
天児サン以下の身体の流れには、
その手垢にまみれた言葉を洗い落とす清新さがあったと思う。
そして何より「熱さ」「狂い」などを排除した超望遠的客観性が、
チープなネガティブスパイラルに堕すことなく舞台の質を保っていた。

でも、この舞台で、何に一番どかが感動したかといって、
主宰・天児牛大のソロの舞踏ほど、感動したものはなかった。
あれは、ちょっとすごい。
ビックリした、素で感動した。
もともとどかは舞踏に、結構好意的な感情を持っていた。
まあ舞踏家・耕チャンという友人の存在も大きいのだけど、
こういう表現手段はやはり必然としてあって、
バレエもあって、神楽もあって、舞踏もあって、全部好き。
と、思っていたのだけれど。
でも、予想を遙かに超えて、何というか、その必然性というか、うん・・・。
説得力。
そう、説得力が、何というか、段違いだった。
あの動きはああでしかいけないんだと、思う、思う以前に意識より前に、
それを受け入れて、摩擦の波動にたゆたう自分がいた。
開演前は、つか芝居の時みたく「頑張って舞踏を見るぞ」と気負っていたのが、
ウソみたい、うん、やっぱり維新派に近いなあ。

それは宮台真司がのたまったように、縦の力。
維新派は雲間からスッと降りてくる陽光だったけれど、
山海塾は天へとまっすぐ注がれる眼差しだ。
上へのベクトルか下へのベクトルかという違いはどか的に大きく違うけど、
でも、縦への力をダイレクトに志向し、達成しているという点で、
この2つの団体がいま、現在のこの国にあって、
とても大切な奇跡として現前していると、どかは思う。

んー、天児サン、すごいなー、あれで結構お年を召されてるとか。
見えないぜ、美しいお身体、白塗りじゃなくても充分見れるだろうなー。
美しい何か、を表現するのではなく、美を直接つかみ取ろうとした、
野心的な、でも極めて平穏な、耽美的な、そんな世界。

ウネウネギューッじゃない舞踏だから、初心者でも観られる。
理想を追求しつつ間口を狭めていない点でも、
そのへんのアングラ的自己満足を蹴散らして美しい。

もう少し、観てみたいなあと思った。
まやチャン、さんきゅー。


2003年10月06日(月) G1スプリンターズS

昨日、月例会にてどかの足拍子がトントンと三鷹の森で鳴っていた時、
ちょうどその頃、中山の芝生ではドドドとお馬さんの蹄の音が鳴っていたの。
去年、どかが彼女からアドマイヤコジーンへの馬単をゲットした、
ゲンの良い(はずの)レース、G1、スプリンターズS。
オープン・定量・芝・1200M・バリバリスプリントの電撃戦。

どかが2番目に大好きな馬である彼女の引退レースでもある。
鞍上はどかが1番好きなジョッキー、安藤勝己。
一応、競馬新聞の「勝馬」で確認して、すぐに予想決定。

馬単を彼女から流すことにして、相手は、
テンシノキセキ(鞍上横山典)と、アドマイヤマックス(鞍上武豊)。

その後、録画で確認する・・・。

・・・彼女が、敗れた。
勝ったのは5番人気の追い込み馬、デュランダル。
ゴール前、先行する彼女を僅差で差しきった。

アンカツ、すごいプレッシャーだったんだろうなあ。
今年、地方から中央へと所属を移した彼に、
初めてG1(高松宮記念)を獲らせたのが彼女だった。
その彼女の引退レース、是が非でも勝たせてやりたいという気持ち、
強かったんだろうなあ。
どかは決して、アンカツがプレッシャーに負けたとは思わない。
彼女の仕上げもほぼ、完璧だった。
負けたのは「運」としか言えないと思う。
どかは「運」という言葉はあまり好きではないけれど、
きょうのこのレースに関しては、4コーナーあたりでの勝負の綾を観ても、
結果、彼女にとってもっとも不向きな展開になったことも、
全て「運」が少し向かなかったという言い方しかできない。
ソラを使うクセのある彼女をして最後ハナ差まで持ってきたのは、
さすが天才ジョッキーの凄みだと、どかは思う。

にしても、勝負事は非情なものだ・・・。
でも、どかは去年のスプリンターズSと、今年の高松宮記念、
そして、このレース、彼女に魅了されっぱなしだったな。

彼女はその後、故郷のアメリカで繁殖に入るという。
彼女の第二の人生に幸多かれと祈りたい。

そして・・・

おつかれさま、いままでどうもありがとう、ビリーヴ。


2003年10月04日(土) 青年団「南島俘虜記」

(10/2、20時〜観劇@こまばアゴラ劇場)

この劇団の代表作「東京ノート」で舞台となったのは未来の日本、
ヨーロッパでは何度目かの世界大戦が勃発し、
彼地の美術館からフェルメールなどの作品が戦禍を逃れて日本に疎開してくる。
そんな設定のもとに共鳴しあう可笑しさと切なさを描いて傑作な舞台だった。

主宰平田オリザ久々の新作であるこの「南島俘虜記」は、
あの名作の続編なのだろうか?
日本の未来の縮図のような美しい90分の舞台では、
とうとう、戦場は日本本土となっていて空襲を受け続けているという設定。
南国の捕虜収容所では、絶滅危惧種たるわずかに残った日本人が、
「魔の退屈(by坂口安吾)」にさらされてぼんやり日がな一日過ごしていた。

・・・というプロット、んー意欲的だわ、オリザさん。
だって舞台セットから、まるで南国の野外収容所をそのまま移したかのような、
リアルなジャングル的ディテール、蔦がからまりハンモックがあって、
地面にはそのまま土が敷き詰められ、古びたベッドの軋みは、
21世紀から2?世紀へと観客を飛ばすイリュージョンへの入り口みたい。

平田オリザの粘着質すら感じさせる細部への想像力という才能は、
あらゆる劇作家のなかでも最も恵まれたものであり、
だからこそこのヒトなら未来の世界を背景にした演劇が可能かも知れない。
どかはそう思う、実際「東京ノート」は傑作の誉れ高くどかも圧倒されたもん。

「人間の滑稽や悲哀はいつの時代でも存在する」

そんな平田戯曲のコアをくるんでいく、
まるでオブラートのようなディテールのきめ細やかさは健在である。
健在・・・なんだけど。
んー、ちょっと、主宰が事前に狙ったところと、
実際の舞台の着地点がずれてる気が、したのね、どかは。
どかがずーっと青年団をフォローし続けてるフリークだから、
気になっちゃうのかもしれないけれど、
ほんのわずかな、些細な誤差なのだけど、
でも、違和感が。

例えば、確かに、平田がのたまっているように、
いまの日本には(違う、正確にはいまの日本人には)希望も目標も無く、
「魔の退屈」が蔓延しているという指摘も、全く正しいと思う、ズバリだ。
そしてその「退屈」にひたっている姿を、劇中、
ハンググライダーの技術の説明や上昇気流の実際の描写や、
アホウドリが羽ばたかずにただ滑降していくという事実に暗喩させたクダリは、
相変わらずの筆の冴えですねえ、オリザ様。
と思ったものだったのだけれどね。
「空を飛びたいなー」って女性捕虜が手を伸ばして滑空のまねごとをする姿は、
確かに、確かに、滑稽でかつ、憤慨を感じつつなお、泣けてくる
(つまり「青年団」そのものだ)。

例えば、収容所内でのセックスの描写も、青年団にしてはあからさまながら、
それでもやっぱり青年団らしく洗練されていて、
戯曲のドラマツルギーを上手くサポートしているなあと思う。
「魔の退屈」が蝕んでいくのは魂の煌めきであり、
尋常なセンスを維持しているかに見えていたキャラクター達の間に、
白く澱んでうごめく、平凡で特別な狂気が浮かび上がってくる後半は、
相変わらずの筆の冴えですねえ、オリザ様。
と思ったものだったのだけれどね。
「産めよ」「バカじゃないの」という、
日常なら一番テンションがあがるはずの会話ですら、
すうーっと弛緩の闇へと滑降していくのみである、可笑しくて切ない。

でも・・・あの青年団独特の、無限の余韻を湛える深い深い「悲しさ」が、
いつものあの「悲しさ」が、今回足りない気がしたのだ、どかは。
このプロットの「背景」的に一番近しいのは「東京ノート」だろうけれど、
このプロットの「構造」的に一番近しいのは「冒険王」だと、思う。
その「冒険王」は1980年のイスタンブールの安宿に集まった、
日本人バックパッカー達の「魔の退屈」を描いていた。
そして、そこでもやはり弛緩しきった希望も目標もない、
鴻上風に言えば「沈没」した青年達がただ、会話していただけだった。
けれども、あの舞台は、何か、言いしれぬ悲しさがちゃんと、あった。
あの舞台で最後、夕焼けを待ちながらお菓子をつまむ彼らの姿からは、
声にならない嗚咽が、涙にならない悲哀が、確かに浮き彫りになった。
そんな嗚咽や悲哀が、今回の捕虜達には少し稀薄に感じられたのだ。

「涙にならない悲哀」が無限に立ち上がるかもな気配。
それが無かったわけではない。

名優・志賀廣太郎サン演ずる捕虜が、
焦土と化した本土へ残してきた自分の子どものことを思って涙にむせぶシーン
(実際は泣き顔は見せず、背中でそれを語るのだけれど)。
またそれに触発されて、故郷の歌をみんなで茫然と口ずさむシーン、
ひらたよーこサン演ずる女性兵士がベッドに寝転がりながら歌っていると、
やはり、何か特別なレイヤーがストンと落ちてくるような感触がある。
それに、滑空するために水平に伸ばされた兵士の両腕や、
妊娠した女性兵士をもう1人の女性兵士が気遣って、でも言葉が出ずに、
沈黙するシーンなんかが合わさってくると、鮮やかに悲哀が浮き彫りに。
でも・・・、鮮やかなんだけど、余韻が残らないんだなあ、なぜだか。
やはり郷愁や子どもへの思いというトリガーでは平凡に過ぎたのか。
だからこそ、劇団でトップクラスの説得力を持つ役者、
志賀サンにこのトリガーを託したのだろうか。
でも志賀サンひとりで、この詩情の全ての凝集を委ねるのは、ちょっとコクかも。

名匠平田をして、なお、このプロットの背景への飛躍はキツかった。
そういうことなのだろうか、やはり。
さすがにねー、天皇がもう、アフリカに亡命して、日本国の再興は絶望的、
日本民族は南国でゲリラ戦で抗戦してるけど、もう絶滅危惧種。
という、圧倒的な距離感の設定だもんなあ。
それでも、どかが青年団をこの舞台で初めて見ていたら、
そんな青年団一流の「無限の余韻」なんて存在を知らないでいたら、
この舞台を絶賛していたという確信はある。
客席で100%、どかはこの過激な設定にインボルブされていたからねー。
それに今回の役者陣はどかがこれまで見てきた青年団のなかでも、
1、2を争うくらいトップクラスの充実度。
山内サンに志賀サン、ひらたサン、松井サンに辻サンが揃うなんて、
豪華絢爛、贅沢極まりないもん、マジで。
青年団でこれ以上のキャスティングは望めないでしょ。

そして、それでもなお、どかはこの舞台は、
青年団としてはイマイチクンかも知れないと思うのね。
日本の現状の情けなさ、日本の未来の真っ暗感を、
見事に描き出していたけれど、どかは青年団にはそれ以上を望む。
確実に滅び行く日本人の流れの真ん中にいま、浮かびながら、
どかは青年団のイリュージョンの力を信じていたいもん。

イリュージョンでも、いいから。


2003年10月03日(金) 特別公開 国宝 松林図屏風 @東京国立博物館

同じく10/1の美術館ハシゴツアーの続き、オーラスの東博。
この日、ここでは「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」が、
大々的に特別展として開催されていたのだけれど、
どか的に、まったく興味が無く、まよわず常設展のみのチケを買う
(なんと、常設展のみだとチケット\130-!お得だわ、奥さんっ)。

しかしきょうの常設展は、ただの常設展ではない。
あの長谷川等伯の<松林図屏風>が3年ぶりに展示されるのだもの!
じつは、どか的にきょうのハイライトは、オランダの光と影でも、
スペインの愛と喪失でもなく、この日本の茫漠たる空間の表現だった。

<松林図屏風>とは良く言われる通り、日本美術史上、最高の水墨画である。
やまと絵となると永徳や宗達、光琳などの作品となるのだろうし、
版画となると春信、歌麿、北斎などになるのだろう。
けれど、水墨画であれば、雪舟などよりも断然、
等伯のこの作品に軍配が上がるのではないか。
中国から輸入したこのスタイルが、本場の質をついに凌駕しえた美しい結晶。
東博へ寄せられる展示リクエストでもダントツの首位だったというのも、
まったく頷ける話と言うものだ。

それは本館2階の第17室であった。
ゆったりしたスペースのあるその部屋には、
この屏風のみが展示されていた。
照明は、おそらく保存の関係からであろう、かなり落とされていて薄暗く、
けれども、作品を鑑賞するには十分な明るさである。
展示ケースの反対側の壁にベンチがいくつか設置されていて、
どかはそこに腰をおろして小一時間くらい、ポヤーっとしてた気がする。
去年、智積院で観た、同じ等伯の楓図を思い出したりしながら。

等伯は牧谿の大陸渡来の筆法と、
やまと絵伝統のモチーフを響き合わせて、
比類無い空間を生み出した。
空間、空間なのか、これは?
何も描かれていないように見える空白を観て、
そこに顕れては消える形は、
あるいは心の中から出てきた想念なのだろうか?

徹底的に、眼と胸を開いて、自分の輪郭を溶かしていく時間。
久しぶりだなー、こんなのは。
ロンドンナショナルギャラリーのセインズベリーウィングの、
レオナルドのカルトンが展示されている小部屋みたいだ。
あの、全宇宙が裏返しに集約された「驚異のスペース」。
同じだけの凝集力が、ここに再現されている。

・・・、あと、
これについて語る言葉を、
どかは持たない。

だから、他の感想を。

他にも、東博の常設展はとても質が高く、全く楽しめた。
ちょっと前の東博は「おたかくとまって」、
冷たく突き放した展示が多かったけれど、
独立採算の刃を突きつけられてようやく、目覚めたみたい、
良いことだ、全く良いことだと思う。
縄文の火焔土器や百済観音のレプリカも、
鳥肌が立つくらいかっこよかったし、
曼陀羅もいくつか良いのがあった。
広重の浮世絵も、久々に観るとグッとくるものがあった
(余談だけど、浮世絵嫌いのどかだけれど、
 最近見直していいなーと思う例外がいる
 :春信と広重だ、あとはやっぱり苦手)。
高村光雲の「老猿」も圧倒された、すごいなあ。

もう一度、行かなくちゃだと思った。
西美でも上野の森でもそうは思わなかったけど、
この百三十円のチケットで観た展示は、そう思わせる。
10/7からは抱一の<夏秋草図屏風>が出る。
10/31からは特別展で「大徳寺聚光院の襖絵」をやる(永徳だ!)。
<松林図屏風>は11/3までの展示。
やはり・・・行かなくちゃだわ。

というか、専門ではない日本美術になると、トタンにミーハー爆発な私。
ちょびっと、恥ずかしかったり。
テヘ。



↑噴水の向こうに見える、東京国立博物館本館。


2003年10月02日(木) ピカソ・クラシック@上野の森美術館

昨日(10/1)の続き、2番目に足を向けたのは「上野の森」のピカソ。
ここって、ホント、ピカソばっかしなのね。
そして、いつ訪れても、西美よりここのが動員しているのが、
ちょっと悔しい、ってか、寂しい。

ピカソの青年期の「青の時代」「バラ色の時代」に続く、
「キュビズム」と並行して起こった「古典時代」の作品中心の展示。
まあ、ピカソの創作の全容を継時的に観ていくと、
鑑賞者の頭はパンクしちゃうから、
時期やスタイルを限定して展示するのが当然というか、何というか。

どかってば、ピカソの「古典時代」は好きだった・・・、
と思ったんだけどなー、なんか、あんまし、イマイチだったなあ。
こんなだったっけ?
イマイチ、どれもこれも、パッとしなかった。
というより先に見た<聖ペテロ>の印象が強すぎるのかも知れない。
美術展なんて、ほんとはハシゴしたら良くないのだから、
どかの責任かも知れないけれど・・・。
ごめんなさい、はっきり言って、面白くなかった。

それでも幾つか印象に残ったのは、
新作バレエの意匠案としてピカソが残したデッサンだった。
衣装とか緞帳の図案とか、ね。
ピカソの「線」はやっぱり特別だよねと思う。
まるで子どもの落書きの線みたいに、確信と純粋に溢れてる。

創作なんて結局は試行錯誤のフロンティアの余韻なのであり、
そこにわずか成りとも「錯誤」の香りがしない作品は、
通俗的でストックフレーズにまみれた駄作、
リアリティのカケラも感じられない。
という言い方が、仮に可能だとして、
唯一の例外として認めざるを得ないのがピカソのデッサンかも知れない
(シーレのデッサンにすら、かすかに「錯誤」がある、それが良い)。
まったくの「素」のままに、躊躇無く、憂い無く、
ダーッと書きなぐられた線がここに残っている。
それは誰しもが幼年時代に画用紙を前にして残した「傑作」である。
いや、私たちのかつてのその作品は「傑作」ではないのかもしれない。
ものごころついて、分別もあって、大人になって、
それでなお、その「線」を引けたとき、初めてその作品は「傑作」になるのか。

もひとつ、印象に残ったのは対照的に参考として展示された、
同時期の「キュビズム」の作品。
うん、こっちのが全然面白いよ。
つまり、学芸員の狙いとはまったく外れたところで、
かろうじてどかは引っかかったのかも知れない。

なんて埒のあかないことをむにゃむにゃと考えつつ、
やっぱり、人混みにまみれてなお、見たい展示だとは思えないどかだった。
平日の空いている時間帯、かつ学生料金で入れるのならば、
かろうじて、行ってもいいかな、くらい。

決してピカソを否定しているのではなく、
この展示品のリストを、どかは疑問視する。

ってか・・・、キュビズムのピカソにならば、
だーって溺れてみたい心境なの、いまのどかは。



↑10/1は本当に天気が良かったの、気持ちよかったなあ。


2003年10月01日(水) レンブラントとレンブラント派:聖書、神話、物語 @国立西洋美術館

昼過ぎに上野公園に着く、きょうは最低2つ、
調子良ければ3つハシゴするつもり。
良い天気だし、金木犀は良い香りだし、おし、がんばるぞっ。
まず、西美のレンブラントを目指す。

テーマは「物語画家としてのレンブラントとレンブラント派」。
当時のオランダがフェルメールやデ・ホーホなどによる、
室内画や風景画が興隆していく状況のなか、
あくまで物語画に「こだわった」レンブラントの側面を照射する展示。
昨年度最大級の美術展「大レンブラント展」と比べると、
やはり全体的に小振りなのは否めないだろう。
レンブラント真筆の大作はひとつ(数えようによってはふたつ)しかない。

どかがひととおり展示を見て、強烈に不思議に思ったことがある。
それは今回の企画展のポスターの図像について。
なんで<悲嘆にくれる預言者エレミヤ>を使ったのだろう。
というのは、どかは展示場で初めて知ったのだけれど、
レンブラントの正真正銘代表作である<聖ペテロの否認>が来ていたから。
びっくりした、まさかきょう、これが観られるとは露と思わない。
<聖ペテロ>はレンブラントの代名詞である「光と影と精神性」が、
全てギゥーっと凝集されてバランス良く結晶した、
画家のどの画集にも大概掲載される傑作である。
それをさしおいて<エレミヤ>をキュレイターはポスターに選んだ。
もちろん<エレミヤ>もとても美しく詩情あふれる作品だけれど・・・。

政治的な事情が裏にあるのかしらん・・・。
とまず思った、借り出した先方の美術館との兼ね合いかしらねって。
でも、んー、いや、単純に著作権料の問題かなーとも思った。
<聖ペテロ>を大型のポスターとして数千部刷ったら、
そりゃあ<エレミヤ>を使うよりも莫大な費用を要するだろう。
でも・・・、仮にも国立の西美に限って、そんなことあるだろうか、
地方の公立美術館や私立美術館なら経営も大変だろうけれど?

で、どかが帰り道でポヤーっと考えたのが、
やっぱり「宗教性」じゃないかなと。
日本人は、明確な父性宗教であるキリスト教の図像よりは、
もっと穏やかでポヤーっとした無為自然っぽい図像をこそ、
より好むからじゃないだろうか、って。
それで振り返って観てみると、確かに<エレミヤ>は一見、
これが旧約聖書の預言者であると理解するよりも先に、
頬杖をついてたそがれる老人の「切なさ」に鑑賞者は思いを馳せるだろう。
一方、空前の傑作<聖ペテロ>はその人物群の構成からして、
一目見てこれが何かしらの宗教的エピソードを下敷きにしている。
そういう直感が先に働いてしまうだろう。
そして、この直感が働いてしまったが最後、
そのエピソードがどんな内容なのかを知らない「自分」が気になってしまい、
作品を「味わう」ことが出来ないと言う自縄自縛にとらわれてしまうのだろう。
多分、とくに日本人は、そうなのだろう。

だから、ポスターには「学ぶ」よりも先に「感じる」ことのできる、
少なくとも現在の日本ではそう感受されるであろう<エレミヤ>を持ってきた。
「感じる」よりも「学ぶ」ことを要請してしまう<聖ペテロ>ではなく。

なんだか、そこまで考えて、
どかはちょびっと、中央線のなかで、へこんだりした。
「学ぶ」ことと「感じる」ことはあくまで並行して存在し、
響き合い感応し合って先に進むモノなのにな。
美術館がそれを高らかに宣言しないで、一体だれが宣言するのだろう。

なんて、ね。

もちろん、美術館も独立採算性をとんなくちゃだしね。
動員、大切よね、うん、たいせつたいせつ・・・



↑緑に囲まれて<考える人>byロダン・・・


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