un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2003年09月30日(火) 津田雅美「カレカノ(15)(16)」

実は14巻を読んだあとのレビューで「よし買う、15巻」と締めたものの、
読み返すほどに14巻の構成の乱れや有り体なネーム、
テンションの低さに嫌気がさして読むのもーやめよー・・・って。
でもね、15巻と16巻が書店に並んで平積みになってるの見て、
「コレが最後だ」と決心して、買うことにした。

したら「おお、なかなか持ち直したねー」って。
依然、構成は緩いところが数カ所あるし、テンションの持続も上手くない。
深層心理へのアプローチも取材や勉強が不足しているし、
タルイなーって思わないでもない。
でもそれはきっとどかの比較対照が、岡崎や望月、松本といった、
スーパースペシャルな生粋のマンガ家であるからだろうとも思う。
「カレカノ」だって、連載されてる雑誌のなかではやっぱり一級の作品だし、
「リバーズエッジ」や「バタアシ金魚」を頭から外せば、
じゅうぶんこれだって楽しめる作品の域だよねーって。

ありまの苦悩は、あまりリアリティが無い気がする。
どかは河合隼雄の著作は大体読んできていて、
そこから得た知識でしか測れないけれど、
いわゆるトラウマはあんな顕れ方はしないことだけは分かる。
まあもともとあのキャラクターがあまりにガキすぎて、
感情移入出来なかったことはあるのだけれど。

でも、ゆきのんはかっこよかった。
「分かり合えると思ったけど、やっぱり無理だった」
という展開は、唯一、どかが「あ、秀逸ね」と思ったポイントだった。
ありまのネームが甘さやタルさをにじませてしまうのとは対照的に、
ゆきのんのネームはピリッと緊張感があって、
しっかりものがたりを前に進めている。
ゆきのんには感情移入、出来るな、うん、らぶ。

そして、何と言っても、あさぴん!!
カッキーっ。


  やっぱり最後はおれひとりになっちゃったなぁ・・・
  (津田雅美「彼氏彼女の事情(16)」より)


と、窓辺にもたれて寂しそうに目をつむる浅葉・・・。
ラーブーっっ。
そしてゆきのんが、


  なのに浅葉がひとりになっちゃった
  わたしきっと浅葉の役にたてないよ
  ごめんなさい
  ・・・けどひとりにはさせない
  わたしはずっとそばにいるから
  (津田雅美「彼氏彼女の事情(16)」より)


って。
キャー、ゆきのーんっ、キャー(何故か興奮)。
いいなあ、いいなあ、こおゆうのおっ。
<ありま・ゆきのん>より<あさぴん・ゆきのん>のが、
ずっと映えると思うけどな、コンビとしてさあ。

ああ、イイオトコだよなーこれー。
あさぴんみたいになりたひっす。
日々、精進しなくちゃだねー。
「オトコのフェロモン道」はきびしーっすねー。


2003年09月29日(月) 祝賀会@青山

夕方、青山の某企業の本社ビルを訪ねて、
ちょっとミーティング。
で、このときの内容が「まあ、ねえ」という感じで。
っつーか、普通に怒髪天衝きって感じだけど、
声を荒げたり表情に出しても、目の前のヒトは悪くないから、
こらえてこらえてこらえて、こらえて。

・・・

で、そのあと。

そのビルで働いてる元同僚の同期や先輩が集まって、
どかの祝賀会を催してくれた。
「魂(ソウル)」っていう中国系のレストラン。
メンバーはカンカン・ブータン・
カマポン・キタッチ・マルティンとどか、いつもの面々。
みんな、どかの顔を見るなりスッと自然に笑って、
「おめでとう!」って言ってくれる。
なんだか言葉よりもその笑みの自然さが沁みるなーって。

例によって話題になった内容自体は、バカっぽい話で。
たくさん笑ったけど、なんだかいつもはたくさん話すどかも、
このメンバーだと自然と耳を傾けていることが多くなる。
「ああ、自分が素で、ココロから甘えることができる場なんだな」
と、思った、きっとどかにとってそういう場所は、
他になかなか見あたらないから、だからこのヒトたちは自分にとって、
特別なんだと思った。
とびきり優秀で、とびきりおバカで、
とびきりエッチで、とびきり優しいヒトたち。

4年と半年前にこのメンバーと会ったときは、
みんなギラギラフェロモン全開の独身男子、特攻Aチーム(?)だった。
それがいまや、2人が既婚、1人が婚約、
独身でいるのはどかを含めた3人となった。
きっと、ワタシが一番最後なんだろーなーって、言ったら、
その残された2人が「いやいや、オレが、ボクが」とかなんとか。
次に会うのがいつかはわかんないけど、
また3年、4年って間隔が空いたら、さらに既婚者が増えて、
どか1人、取り残されているのかも知れない。

そうかも知れないけれど、きっとそのときも、
きょうと同じ感じでばかっ話で盛り上がっているのだろうなー。
それは願いとか希望とかではなく、普通に確信できる。
この確信具合こそが、きっと、一番大切なモノなんだと思うの、どかは。

でも・・・



「じゃあ、そういうことで、ちゃんと用意しとけよ、京都行っからさ」

「ハイ・・・了解です!!」


って、しがない大学院生がどうやって舞妓サン、用意すんだよ、オイ。


2003年09月28日(日) 松本大洋「ナンバー吾(4)」

試験直前に発刊されて、かなり焦った、コレは。
待ちに待った最新刊、ああでもワタシはしがない受験生。
千々乱れる思い、けれどもどかはそこでグッとこらえて・・・

「うん、やっぱ、買うー♪」

じゃあお前は一体何を「こらえた」のかというと、
試験直前にこれほどに刺激の強いマンガを読んで、
ココロの平衡が乱されることのリスクをこらえたのさ、フフン
(ってか、ほんっとに我慢とか辛抱、無理なのワタシは)。
ま、結果オーライだし・・・ね。

3巻の巻末の予告編に、
4巻では過去のエピソードが展開することが示唆されてたので、
予想通りの展開ではあるのだけれど、でも、
その巻き込み力は予想を超えていたなあ。
悪の権化かのような漆黒のビクトルの凄みと、
カリスマ性を遺憾なく発揮し続けるマイクの輝きが、
全編に渡って紡がれる。
そしてその2つの極の間で、少しずつ少しずつ、
階段を昇っていくユーリ(吾のことね)。
細かく設定されたディテールのおかげで、
歴史書を紐解いているかのような有無を言わせない客観性に満ちている。
いまの「不幸」とは何を「必然」として起こっているのか。
そういう客観性の魔力に満ち満ちた説得力。

まあ、3巻があまりにすさまじいプロットだったので、
4巻は懐古的なサポートとして位置づけられるのだろう。
そんなスピードの自在なコントロールも、全く非凡な作家の才能である。
何が非凡かといって、スピードを落としても、テンションが落ちないことだ。

先日の帰阪寸前、この4巻を買ってすぐ、
とよぷくサンの結婚式のためにくりぞーサンが上京してどかんちに逗留。
それでくりぞーサンが「ナンバー吾」を読んだあとでチラと話した。
どかは、この連載は、絶対宮崎駿の「ナウシカ」を意識していると思ってる。
それは、A4版というサイズだけにとどまらず、
「人類のさらなるアドバンス」という命題の存在や、
既に大量の生命が失われた黄昏の時代であるという設定、
そしてなにより、先に述べた客観性と説得力や話のスケールが、
この「ナンバー吾」に匹敵するのは「ナウシカ」くらいしか、
あるまいと思ったからだ
(もしかしたら松本サンは「ナウシカ」の執筆に入った宮崎監督の年齢を、
 自分のそれに重ね合わせて連載をスタートさせているかもしれない)。
でもくりぞーサン曰く、それもあるかもしれないけれど、
「絶対、石ノ森章太郎も入ってるよね、これー」って。

あああ!
なるほどーっ。
そうだ「009」だあ、そのまんまじゃーん!

恥ずかしいことに、あの石ノ森の普及の名作が下敷きになっていることに、
いまのいままで全く気づかなかったどかでした。
ああ、自称「マンガ読み」として恥ずかしひ。
そういえば虹組9人のそれぞれの超能力の顕れ方は、
「009」のそれに酷似している。

あと、手塚治虫のエッセンスも入っていたり、
大友克洋風の雰囲気も間違いなく紛れ込んでる。
およそ日本マンガ界の巨匠と呼ばれるヒトタチへ、
気後れも見せずに肉迫していくこの姿勢は、
決して才能の限界などではなく、むしろ逆である。
松本大洋のこういったパロディは、剽窃では決して無い。
松本大洋は、様々な影響を多彩な角度から受けつつ、それを隠さず、
さらにその要素を自らの作品として完全に消化・吸収してしまっている。
松本大洋の「パロディ」的要素とは、決して創作し続ける彼が、
転倒しないように設置された補助輪なんかでは無くて、
あえて自らの前にずらっと並べられた高い高い、ハードルなのだ。
優秀なハードラーが走るとき、決して彼の頭の高さは変わらず、
しかし恐ろしいほどの速さで頭から下の身体が躍動し障害を越えていく。

先日の世界陸上のワンシーンを思い出して、
どかは「ああ、創作とはまさにこういうことなんだろうなー」と、
漠然とイメージで思っていたのだった。

さて、この連載が「ナウシカ」を意識しているのだとすれば、
きっと、単行本も「ナウシカ」と同じ7巻まで出るのだろう。
そしてどかは、7巻で「ナンバー吾」が完結したとき、
この作品は「ナウシカ」と同列か、
もしくはそれを凌ぐ高みに位置づけられほどの激賞を得ていると確信する。
なぜ、宮崎監督の傑作を凌ぐと言い切れるのか?
あえて誤解を恐れずに言ってしまえば、
「宮崎駿よりも松本大洋のほうが、ずっと絵が上手だから」だ。


2003年09月25日(木) ミョーな茶話会

  ああ、それなら25日にちょうど面白い講義をしていただくから、
  あなたもそれにあわせていらっしゃい、是非。
  時間と教室はね・・・


どかが、院試の結果報告を兼ねてご挨拶に伺いたいのですが、
と聞いたところ、ICUのI先生にこうおっしゃっていただいて、
ひっさしぶりに、学期中の母校の本館に入る。
どかのココロの中ではイーサン・ホークのテーマが流れて、
さながらミッション・インポッシブルな心持ち。


  完璧だわ、現役の学部生と完全に一体化しているわ、ワタシったら


と、思ってたら、後ろから肩たたかれて・・・


  なにやっとるんですか、いったい?


振り向くと人混みのなか、エディンのにやけ顔。


  え、いや、ほら、ワタシってば現役に紛れてるでしょ?

  いや、露骨に目立ってますよ、浮いてます


チッ。
まあともかく、教室に到着、講義が始まる。
もともとI先生の<ルネサンス美術>のクラスなのだけれど、
きょうは特別講師としてお茶大のM先生がいらっしゃった。
テーマは、タイトルからしてそそられる、面白そうな感じで・・・

<ヤコポ・ベッリーニの素描帳
 ー北イタリア絵画の発展に対するその意味と波及ー>

・・・果たして、面白かった。
第一線にいる研究者の成果はエキサイティングだ。
対象に対する、理性の距離と愛着の接近が良いバランスで、
ビジュアルメディアをとても上手く整理して使っているのも説得力があって。
で、講義のあと、I先生に挨拶に行くと、すぐM先生に紹介していただいて、
何故か、I先生のオフィスで三人でお茶することになる。

最初、どかの受験の話や京都のO先生の話をしながら、
でもどかはとても緊張していたのだけれど、
お二人の先生はとても仲が良くて
(イタリア・パドヴァに同時期に留学されてたらしい)、
「先生」というよりは「女子大生」に戻って話してるみたいで。
で、それに引きずられて、どかも何故か楽しくコーヒー飲みながら話してんの。


  まー、うらやましー、O先生の下で勉強できるのねー、
  ワタシも一緒に研究室入りたーい!

  いやいや、あんな素晴らしい発表されてるのに・・・

  そーよねー、うらやましいわよねー、このヒトー、
  学生時代が一番幸せよねー、いーなー、Oセンセー!


・・・とかね。
学芸大のA先生や千葉大のU先生の話題でもひとしきり盛り上がって、
あとはI先生と教務課のバトルでめちゃ笑って、楽しかった。

あ。

しまった。

アカデミックな質問、するの忘れた。
すっかりおちゃらけて終わっちゃった、
あんな先生二人と相伴できた夢みたいな環境だったのにい。
それでいいのか、ワタシよ?


2003年09月22日(月) つか「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」(Ver.小川岳男)2

(続き)

岳男サンに引きずられて、友部サンと嶋サンのベテランコンビも、とてもいい。
もともとエース未満だけど北区内ではトップクラスの実力の持ち主、
つか節が骨の髄まで染み込んでいて、やはり、上手い。
ずーっとこの劇団で一緒にやってきた岳男サンと友部サンと嶋サンが、
並んで舞台の上にいると、他の役者同士では感じ得ない、
イイ意味での安心感や安定が伝わる、微笑ましくて泣けてきそう
(もちろんテンションは高くて傷つけ傷つけられる芝居をやってるんだけど)。
また前回の「売春」でとっても好演した若手・北田クンは、
今回もとても良かった、すごくすごく、良かった。
もちろん伝兵衛と比べるとエンジンの排気量の差は歴然としているけれど、
熊田という役どころではその差がかえって、ちょうどハマってくる。
北田クンはしかもちゃんとレッドゾーンで走り続ける誠実さがあるし、
それでちゃんとスピードもグッとのってくる才能も持っている
(扉座の某北斎クンとは違っていたのね)。
岳男伝兵衛という恒星・太陽があって、他の役者がその周りを回る惑星。
予定調和を崩して悲しみを暴き痛みを浴びつつも、
最後のすさまじいカタルシスへと結実していけたのは、
その大きなそれぞれの星が自らの重さを重力へと変えて、
ギリギリのしのぎあいをした結果に生まれた惑星軌道の美しさである。
その美しい楕円は最初から与えられたものではなく、
一瞬一瞬の重力のぶつかり合いの末に、
真ん中の恒星が勝利して初めて生まれるものだ。
クライマックス、コレまで観たどのバージョンよりも強く、
そして大きなカタルシスを感じたのは、ひとえに伝兵衛の歴史的な勝利の故だ。

だからこそ。

だからこそ、惜しい、惜しすぎる。

どかはこの日ほど、金泰希という女優の不在を強く感じたことは無かった。

きょうの捜査室に、唯一足りなかったモノは「愛」である。
男女がお互いを慈しみあい大切に思う「優しさ」である。
鶴水サンの水野は、伝兵衛の強い志と熱い心を受け取るだけの器量が無かった。
「インプット」もか細すぎてダメだし「アウトプット」も厳しかった。
前回のストリッパー物語では、お話にならないレベルだったのが、
今回はちゃんと、声は聞こえるようになった。
でも、周りのテンションに追いつめられたかのように響くその叫びは、
子犬が怯えて鳴くときに似て、哀れみを誘っても感動は起こらない。
大山や半蔵の人間的な弱さや悪に対する怒りにうちふるえるのは分かるが、
その怒りはあの叫びでは表層的にしか伝わらない。
身体と喉に力が入りすぎて、身体の芯もぶれてしまう。
そして何より致命的なのは、水野の伝兵衛への優しい気持ちが、
ほとんど、いやまったく伝わらなかったのだ。
いや、どかはあれだけ喉をしめて声をがなり立てていて、
良く最後まで声がでるなーって感心はしたけどね、
喉、強いんですねーって、でも感動にはほど遠い。
かわいそうではあるな、いきなり、岳男サン、友部サン、嶋サンといった、
北区でも1軍メジャーのオールスター的役者とチーム組まされたんだもんね。
つかさんは、ここで鶴水サンが化けることを期待したかも知れないが、
ちょっと、期待はずれに終わっていると、どかは思う。

なぜ、なぜに、金泰希を使わない?
あの伝兵衛や大山、半蔵と唯一対峙できる「強い」女優は、
テヒさんしかいないよ、いまの北区には。
テヒさんがいれば、岳男伝兵衛の切ない悲しみがもっと宇宙的に広がりを見せるし、
クライマックスの定番・パピヨンのシーン花束の美しさは、
破滅的なものになっただろうに、鶴水サンじゃあ弱いよう。

どかがこう愚痴りたくなるほどに、この舞台は素晴らしすぎた。
あの岳男伝兵衛は、歴史に残る。
大きな身体、鍛え抜かれた筋肉を隠す白いタキシードの上着、
全身を大きくしならせて新聞の棒で大山をしばきあげるシーン。
劇場中に響き渡るほど大きなしばく音の衝撃波は伝兵衛の悲しい痛みであり、
これから死刑台へと向かう大山への福音ともなる、このシーン。
岳男伝兵衛はこれまでのどの役者よりも深い怒りと悲しみでもって、
大山をしばき上げた。
お世辞にも「美形」という美麗字句で修飾されないだろう、
小川岳男という役者が、比類無き「美しさ」をまとった瞬間だった。
しっかり、しっかり見届けたいのに、どかの眼はどうしても涙でくもって。

はー・・・、スゴかった。

半ば放心状態で席を立てず、ぼんやり首をひねって後ろの席を眺めたら、
北区の現役劇団員に混じって、鈴木祐二サン、吉田智則サンなど、
歴戦の勇者サンが目にとまってビックリ、祐二サン、かっけー。
しかしもっとびっくりしたのは帰宅後「ある方」から伺ったところによると、
なんとなんと、客席にテヒさん、いたんだってえええええええ!!!!!
ああああああ!!!
なんで見つけられなかったんだああああ!

はー・・・、ショック。
でもテヒさんも、ワタシが水野やりたいっ。
と思っただろうな。
よし、待ち続けようワタシは、と思ったことだったよ。


(・・・でもテヒさん見つけられていたとして、
 どうするつもりだったのだ、どかよ?)


2003年09月21日(日) つか「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」(Ver.小川岳男)1

キャスティング(Ver.小川岳男)

木村伝兵衛部長刑事:小川岳男
熊田留吉刑事   :北田理道
水野朋子婦人警官 :鶴水瑠衣
容疑者大山金太郎 :友部康志
半蔵       :嶋祐一郎

どかは小川岳男という役者の才能・力量を最大限に評価した上で、
このヒトは、大山金太郎という役がベストであり、伝兵衛は本懐ではない。
と、きょうこの日まで思っていた。
伝兵衛に求められる資質は、数多いけれど、
包容力、狂気、テンションなどと共に、男の色気がどうしても不可欠だ、
下司の、色悪の、でも匂い立つような色気が。
北区で伝兵衛をやらしてベストなのは、そう言う意味で、赤塚クンなのであり、
岳男サンの朴訥な、あまりに度が過ぎて狂気に繋がるほどの誠実さというのは、
大山金太郎という役どころでこそ、最大限に生きるのだ、と。

例のチャイコフスキーのイントロが流れだし、客電が落ち、
緞帳が上がって、10秒、どかは自分の不明を深く恥じて岳男サンに謝った。

  ごめんなさい、あなたこそが伝兵衛でした・・・

ハーレーダビッドソンのような弩級迫力のエンジンが最初から、
本当に何の予断もなくレッドゾーンに飛び込んで来る!
そこには言いしれぬ色気があった。
赤塚クン流の下司的な色気ではない、別の迫力あるフェロモンが確かにあって、
そして、それは確かに、つかこうへいの金看板「熱海」の主人公、
まごうことなき木村伝兵衛その人だったのだ。
ただ、ただ固唾を飲んで引き込まれていくどか。
そしてこの開始10秒のレッドゾーンに飛び込んだ主役の空前の咆哮が、
2時間ものあいだ、中だるみもせず続くということを、
そんな奇跡を、あなたは信じられるだろうか?

誤解を恐れずに言うと、声量こそが全てである。
きょうの伝兵衛は誰よりも声がデカかった、マイク無しだということが、
にわかに信じられないくらいの声量である。
そして伝兵衛がセリフを語るときの集中力、
熊田を罵倒するにせよ、水野に懇願するにせよ、
いっさいぶれることなく真っ直ぐ注がれる眼差しの強さだ。
または客席に向かって話すときにこちらに向けられる眼差しの怖さだ。
声量と眼差しで、その圧倒的な集中力でもって、
つかこうへいが幾たびの上演・改訂を超えて磨きつくしたセリフと、
そこにこめられたメッセージを届けようとする。
その瞬間、伝兵衛の身体の芯は全くぶれない。
胸を張って肩もいからず腰が入ってもっとも自然で、
だからいちばん力の込められる体勢でセンターに屹立する定点となる。
観客は、その声量と眼差しに叩きのめされ、セリフのメッセージに心動かされ、
そして同時に、その定点が定点としてあることに平衡を感じ、
持てる感性全てを舞台上に安心してゆだねていける。

また、舞台上で定点としてスッと立つことができるということは、
他の役者のセリフを、メッセージと痛みを受けることができるということだ。
熱海名物の浜辺のシーンで、伝兵衛は舞台上手奥に立って、
水野と大山の2人芝居をまんじりともせず見続ける、伝兵衛のセリフはない。
しかし、このとき、水野演ずるアイ子と大山の愚かさと切なさを、
しっかりと受け止めてやる存在が、どうしても必要なのだ。
何のために?
この悲惨極まるプロットを、ハッピーエンドに持っていくためにだ。
伝兵衛のみが、この舞台を覆い尽くすそれぞれの悲しみを、
自らの悲しみも含めてすべてを背負い込んでいかなくてはならないからだ。
そのとき、取りこぼしがあってはならない。
わずかな取りこぼしでも、それは終演後の観客の心に、
澱のように残ってしまい暗い影をもたらしてしまうからだ。
小川岳男という役者について、そのパワーと独特の哀感という、
「アウトプット」のみで評価する向きが強い気がするけれど、
それはこの北区が誇るエースの片面でしかない。
岳男サンは包容力という一番主役に必要とされるものを、誰よりも大事に、
大切にするという優しい強さがあってはじめてエースでいるのだ。

(続く)


2003年09月20日(土) 維新派「nocturne - 月下の歩行者 -」3

合格したわけだし、いいじゃんいいじゃん。
と、リピーターになることを決意し、昨日、再び初台へ向かうことに。
だって、これはいま、絶対観とかないと。
観ているそばからどんどん、歴史になっちゃうんだもん、
見逃さないで、息を潜めて、そこに立ち会わないと。

と、言うわけで、19日再観劇「ノクターン」。

初見の印象と大きく変わるところはない。
びっくりしたのは、やっぱり開幕10秒で泣いてるどか。
これは私が弱いのか、舞台が強いのか。
いろいろ細かいところまでじっくり見てやろう。
と、思って細部をグーッと追いかけて見続けていたのだけれど、
やはり「あら」が見えてこない、
維新派はどこまでも、完成されていたのだった。

でも、再観劇で、見えてくるものももちろんあって。
この舞台は、ストーリーやプロットを直接観客に理解させるという機能は、
初めからかなりを犠牲にしている、犠牲にして、
もっと抽象的で深い領域やゾーンで、
イメージや波動らしきものを送信しようという試みだ。
で、一昨日は実際、ストーリーはほとんど意識されずただ、
幻想的な「水」や「月明かり」のイメージにたゆたっていたどか。
今回、それがけっこう、頭に入ってきたのね、ストーリーが。
ケチャっぽいリズムで次々繰り出されるあの不思議な「うたい」の合間に、
さらに中国語やロシア語が入り乱れる裏で少しずつ進む、
カナエとシンイチロウの不思議な物語。
自分の記憶をさかのぼって、どんどん水源を遡って、
月明かりの下、大から小へ、汚から清へ、個から群へ、温から冷へ、
そして、揺から衡へ。
ああ、そうかあ、そうなんだねーと、ひとり頷きながら納得する。

やはり、維新派は、すごすぎる。
あの、2時間20分、まったくとまらずステップを激しくふみつつ、
口ずさむ「うたい」もまったくとめない、あの30数名のキャスト、
全員のスタミナたるや、異常だ、野田以上、いや、つか以上かも知れない。
あの、めくるめく舞台美術の転換、目を見張る完成度を誇る街並み。
モンスーン通過後の南国の村に漂う牧歌的陽気が、
次の瞬間には、満州のロシアキャバレーの退廃的ノスタルジーにとってかわる。
そっか、そうなんだねー・・・。

他のどの表現様式とも全く似ていない松本雄吉が作り上げたこの様式美。
この情報が氾濫している現代に置いて、
維新派のオリジナリティは、奇跡としか言いようがない。
漫画家いしかわじゅんが、鬼才・望月峰太郎を評して、
あのオリジナリティは奇跡だと言ったが、
それは演劇界でそっくりそのまま、維新派に当てはまる。

この日、一緒に維新派を観に行った某クンの感想は、
ひと言「・・・すごい」ともらしたあと、曰く・・・

  野田秀樹は、観終わったあと、感動もするけど、
  すっごい頭良い芝居だなと思う、とにかく頭の良い芝居。
  維新派は、観終わったあと、感動はもちろんだけど、
  すっごいセンスがいい芝居だなと思う、おそろしいほどセンス良いね。

あー、なるほどね、そういう比較もありだなあ。

もし、繰り返しの単調さに蝕まれてしまったら、
自覚症状が無くても、そんな心配があったらお薦めだ。
いったん自分の生活をストップして、
田舎の山奥、もしくは離島の廃鉱にある維新派の舞台を訪ねればいい。
そしてそこで起こる全てのことを、ただ、何も考えず眺めればいい。
それで、あなたの感性のアンテナがどこまで錆び付いているか、
もしくはほんの少し錆を落とせば煌めきが戻るのか、
もしくは腐食しきって使い物にならないのか、
もしくはその代わりの新しいアンテナを手に入れることができるのか。
いずれにしても、決して悪いことにはならないから。

初台で感動できなかったヒトでも、
巡礼の果てにアレを観たら、なんぴとたりともかならず涙する。
どかは請け合ってもいい。


2003年09月19日(金) 合格発表

二次試験の卒論口頭試問で、けっこう、
論文の出来を厳しく突っ込まれまくったので、
ちゃんとそれを口頭で丁寧に切り返したのだけれど、
不安が残るといえばその点だった。


「一次試験はたいへん良くできてました」
とは言われたんだけど・・・、ちょっと不安。


・・・で。


きょう。


発表の結果は・・・


(どるるるるるるるるるるるる ← ドラムロール)


ジャンッ、無事合格!


とりあえず、来年からの体制は手に入れました。
でもこっからがきっと、本当に大変なんだろうな。
まーやることは変わらないわけだし、ベストを尽くすだけ。
いろいろお世話になったかたに連絡したら、
みんな「おめでとう」メールを返してくれて、
すごい嬉しかったです、ありがとう。


2003年09月17日(水) 維新派「nocturne - 月下の歩行者 -」2

(続き)

短く区切られた、言葉のカケラが、音楽にのって飛んでくる、
足拍子がこれも、変拍子、そして身体は身体であることをまっすぐ主張して。
30人以上の役者が一斉にそのリズムで動いて、
ひとつのイメージのもと、歌う。

そして、開演後10秒。
気づくとどかはもう、泣いていた。
最短記録、更新。

まだどんなストーリーも展開していない。
まだちゃんとした台詞はひとつも響いていない。
そこに役者の強い眼差しがあるわけでもなく、
演出家の研ぎ澄まされた理知の力があるわけでもない。
つか芝居や青年団で流す涙とはまったく別次元の涙。
でもこの涙はどこかしらなつかしい。
閉幕後、どかはようやくそのなつかしさの原因が分かった。

アラスカだ・・・。
フェアバンクスの丘で、あのオーロラのブレークアップを観たときの涙だ。
絶対的な何か崇高でとんでもないものを、
想像力の追いつかない超自然的な何かを観てしまったときの。
圧倒的な広がりに微細な理性のスケールでは振り切られてしまったときの。
あらゆる感情とは無関係に、もっと前段階で涙腺に衝撃を受けたときの。
悲しさも楽しさも嬉しさも辛さも追いつけないくらい速い、涙だ。

その後も、松本雄吉は観衆の感情という意識の段階ではなく、
無意識の層をはなからねらい打ちにするようなイメージを繋げていく。
とにかくとんでもないほど、凝ってお金がかけられていて、
巨大でそれがぐりぐり動いて、ある種の美学に統一された舞台美術は、
まちがいなく、維新派のひとつの売りである。
そしてその町並みをそのまま再現してしまうかのような舞台美術は、
全て、役者で出ている劇団員の若者たちが自ら作り上げたものなのだ。

この舞台美術の完成度の高さも含めてだけれど、例えば、
この維新派の劇団員たちが、本番前の稽古に入ると、
劇場横の工場跡などに巨大なバラックを形成してそこを「飯場」とし、
炊事洗濯就寝をそこでみんなとするという共同生活場にしてしまう。
この維新派の代名詞とも言われる「飯場」の例にしてもそうだけれど、
どんな細部を取り出してきても、全てが奇跡としか思えない、
この舞台は、そういう舞台なのだ。
ありとあらゆる全てのパーツが奇跡だからこそ、
総体的に観ると、逆にスーッと納得させられるのかもしれないなあ。

にしても・・・やっぱり本物の月明かりの下でこれを観たかったなあ。
既存のハコの劇場の中に、
維新派が体現してきた「自然の脈動」を持ち込んだことは、
やはりスゴいことだと思う、迫力が違った。
また、これをハコに入れるなら、そのハコはこの新国立の中劇場でないと、
いけなかった理由もよく分かった
(舞台の異様な奥行きと高さ、回りテーブル含む可動式舞台など)。
でも、夜の月夜のシーン、青いライトに照らされて美しいけれど、
どかは2年前の夏、おかんと一緒に行った室生の闇を思い出したよ。
どんな劇場の「暗転」も、自然の山の「暗闇」には適わない。

でも室生の「さかしま」と比べると、
より繊細で美しく整えられた様式美を堪能できるのかも知れない。
そもそものベースのスケールが、とにかく、
他の演劇と呼ばれるジャンルの舞台とははなから勝負にならないのだし。
今回も例によって、ストーリーはあまり頭に残らない。
強いて言えば「満州という国家の悲しい祝祭」?みたいなことなのだろうか。
でもそんなストーリーの奥にある、ある種の大きなイメージ、
人知れぬ山奥で地層が洗い出されてそこから化石が頭を出してるけれど、
だれもそれに気づかないまま、その化石の頭クンは毎年毎年、
モンスーンに濡れている、みたいなイメージはどかの頭にねじこまれた。
あくまで意識上の感情というレベルではかるべき舞台ではない。
意識下の言葉を介さない領域でイメージとして感受すること。
宗教的体験にも準じる体験なのだから、
禊ぎのように自らのコンディションを整えることが必要。
維新派が人里から遠く遠く離れたところで公演を打つのは、
おそらく、観衆にその「調整」をさせる意味もあるのだろう。
この舞台を観たあとでは、そんな推測すらも真実味を帯びてくるから不思議だ
(余談だけど、どかはこの公演を観た夜から、もともと引いてた風邪が悪化、
 熱は景気よく上がって39℃目前に到達し二日間、立てなくなる、
 当たり前だ、弱ってる体にあんなに強い光を入れたらくたばっちゃうよ)。

維新派のスタイルについては「ジャンジャン☆オペラ」であるとか、
「シティ・ケチャ(ケチャはバリ島の芸能)」、「関西弁ラップ」とか、
いろいろな形容がなされてきた。
でも、これらの言葉も、分かったようで分かんない話だし
(どかは「シティ・ケチャ」は言い得て妙だとは思うけれど)、
どんな人が書いた文章でもどこかしら混乱をきたした跡が残っていて、
そしてその事実こそが、維新派の素晴らしさを直接証明しているのだと思う、
あの体験は、言葉に落とすことは難しい。
あの体験を感受できなかったヒトは、言葉に残そうとは思わないだろうし、
感受してしまったヒトは、その経験の言葉のレベルの超え具合に途方に暮れる。

ならば否定形で語ってみる。

これは演劇ではない(述べたとおり)。
これは舞踏ではない
(舞踏は身体の内側の隠されたイメージの表出、
 維新派の役者は行進したり逆立ちしたり走ったりもっと、単純シンプル)。
これはミュージカルではない
(歌詞らしい歌詞にはならない、時々、
 日本各地の地名などの単語が連発されたりするが、
 大体は、コンコンコークシャ、など、発話ではなく、発語というレベル)。
これは・・・維新派、である。



  あんなものを観たことがあるのとないのとでは、
  人生に差が出るのは確か。

  それから自分が恥ずかしくなる体験とは、
  情けないけどすがすがしいものだ。

  批評を超えるもの、
  それは人類は時として途方もないことをやらかし、
  奇跡を起こす、
  という希望のようなものに違いない。

  (吉本ばなな「松本雄吉さんよ!」〜「ばななブレイク」より)


2003年09月16日(火) 維新派「nocturne - 月下の歩行者 -」1

じつはこれが、ちゃんとした一番のご褒美だった。
どかが人生の決断をして、試験をもいちどちゃんと受けることにして、
そこでベストを尽くせたのなら、何かひとつ、自分にご褒美をあげましょう。
勉強しながらそう思って、チケットをさがしたときに、
これしかないと思った、もう他の選択肢はない、<維新派東京公演>。

ヒトは維新派の舞台に接するとなぜだか敬虔な気持ちになる。
そしてその経験を踏まえて書く文章は、混沌以外の何ものでもない、
それはかつてのエヴァンゲリスト(福音記述者)が、
あの錯綜を通してでしか聖なる経験を記せなかったように、である。
そこで振り返ると、どかの維新派初体験のレビューはあまりに稚拙に過ぎて、
抹消しようかと思ったくらいだ、なので、
ここからサイト内リンクすら張りたくない(「さかしま」レビューのこと)。


  「まだ15秒だけど、今まで観た演劇の中で最高だ。
   終わりまで観なくても分かる。すべて最高」
  
   そして、すべて最高だった。
   興奮した。
   酩酊した。
   眩暈した。
   力が降りた。
  「縦の力」が。
   公演が終わってからも南港周辺をズンズン歩き回った。

   私が求めていたものは、コレだった。

   (宮台真司「維新派を貫く『縦の力』と眩暈」〜本公演パンフより)


   私は大昔の人が命をかけて
   何か大きなものを作った時のしくみを
   まのあたりにしているのだ、と実感する。
   ああ、あれらはこのようにしてやはり人間が作ったのだ、
   ペルーのあれもメキシコのあれも、
   宇宙人が手伝ったりなんかしてなくて、
   昔にもやはり誰かこういうむこうみずで
   ばかなおっさんがきっかけとしていて、やったのだ、と。

   そしていつも、自分が恥ずかしくなる。
   自分の小ささ、ばかさが情けなくなり、
   もっと小さく小さくなってしまいたくなる。

   あまりのすごさに、ほめるのもばかばかしいくらいだ。

   (吉本ばなな「松本雄吉さんよ!」〜「ばななブレイク」より)


どかはばなな贔屓ではあるけれど、稀代のソフィスト・宮台真司のことは、
あんまし好きくない、好きくないけれど維新派に反応する彼のセンスは
神掛けて正しいと思う、ちょっと擁護したくなる。
「最高」「縦の力」「大きなもの」「自分の小ささ」・・・。
まさにその通りだ、言葉の魔術師である彼と彼女をもってしても、
そんな言葉でしか形容できない絶対的な何か、それが維新派なのだ。

よく知られているとおり、維新派は劇場で公演することはほとんどしない。
奈良の田舎の山奥のグラウンドや、瀬戸に浮かぶ離島の廃鉱跡に、
自分たちで劇場を組み立ててしまい、そこで公演を打つ。
というまさしく「正統的」演劇の理想を追求してきた。
日本では片田舎で公演を打ち続けているのに、
最近ではアデレードやヨーロッパから招致されることも多く、
海外で認められる日本の演劇人とは、野田秀樹よりも蜷川幸雄でもなく、
維新派主宰・松本雄吉その人なのだ。
これほどの才能を東京や大阪の劇場で観る機会が極めて得難いこと、
いや、これほどの才能だから賢明にも、
東京や大阪の劇場を避けることにしているのだろう。
悔しいけれど、全く正しい判断であると思う。
東京や大阪の感性の弛緩ぶりは甚だしいのだもの
(東京や大阪で作られる最近のテレビの深夜番組を観てれば、明らかである)。
情報の波に飲まれてどっちが天でどっちが地だか、わかんなくなってる、
そのわかんなさ具合に酔ってるサブカル野郎の氾濫、虫酸が走る。

それでも、今回、松本雄吉と維新派は、新国立劇場中劇場を選んだ。
あの壮大な舞台美術、町並みをそのまま再現するかのような、
映画並みのクオリティのセットをそのまま劇場のなかに持ち込むことに挑んだ。
自分たちのアイデンテティである自然との交感を犠牲にしてまで、
初台のオペラシティという東京文化集中の粋の如く鎮座するこの劇場で、
何を表現するというのだろう、これまでと何か変わるのだろうか。
そんなことを思いながらどかは、開演を待った。

つかと、青年団は、その表現様式のあまりの違いから、
もはや同じ演劇というジャンルにくくるのは抵抗があるくらい。
そして維新派もそう、とても同じジャンルにくくることはできない。
開演直後、どかは、そう再確認する。

(続く)


2003年09月15日(月) 星野監督ありがとう

どかはそこまでこのチームを激烈愛してきたわけでは決してないと思う。


「六甲おろし」も一番の歌詞しか知らんし、
最近の新しい選手の応援歌もあんまし分かんない。


このチームが最下位だったからと言って頭を剃ったことも無いし、
今夜、御堂筋にも繰り出してないし、道頓堀にも飛び込んでない。


でも。


18年前の伝説のバックスクリーン3連発はちゃんと覚えてる。


何より、振り返ってみて、30年近くなる人生のなかで、
このチーム以外のチームを応援したことはただの一度も無かった。


だから私も喜んでええかなあ?


星野万歳(松本大洋「花男」のノリで)!!


2003年09月11日(木) クリムト・1900年ウィーンの美神展@兵庫県立美術館

やあっとおわったあっ!
と言うわけで、一昨日と昨日の某大学院の入試が終わり、
ぽやーっと、目が覚めてきょう。
リビングのPCをパチパチたたきながら、どしよっかなー。
とボケボケしつつめぼしい展覧会あらへんのんかなーって。
週末までおられたらなー、大阪市美で「応挙」やるのになー、ちぇ。
と思いつつ、吹田の民博と悩んだけど、こっちにする、遠いけど。



↑安藤モダニズムその1<渦潮>


クリムトは、どうしてこんなに人気があるのだろう。
印象派は他の国民と比べると、明らかに日本での人気は異常だけれど、
クリムトに関しては、ヨーロッパではまんべんなく人気がある気がする。
あと、母校の美術史教授が言ってたのは、
「毎年毎年、必ずゼセッション(ウィーン分離派:クリムトたちのこと)で、
 卒論をやりたいという学生がいますねー、何でこんなに人気があるの?」。
でも、どかも、クリムトは時々いいなーって思う。
思うけど、彼に近しいエゴン・シーレをどかは命を懸けて好きなので、
どうしても比べてしまって点が辛くなってしまう。

例えばポスト印象派(この言葉の定義も微妙だけど)の有名人2人、
ゴーギャンとゴッホの関係と比べてみると、
クリムトはゴーギャンに近く、シーレはゴッホなのだと思う。
前者2人は平穏な「死」をタブローに浮遊せしめてアウラを贈呈された。
後者2人は苛烈な「生」をタブローに刻印せしめてアウラを強奪したのだ。
もちろん、ゴーギャン・ゴッホはそれぞれ色彩に拠っていたし、
クリムトとシーレはそれぞれ線に拠っていたのだけれど、
国や表出方法の如何に関わらず、シーレとゴッホのテーマは似通っていた。
どかは、勝手にそう思っている。



↑安藤モダニズムその2<典型>


と、いうわけで、今回の特別展「クリムト」は、どかにとってイマイチだった。
2つほどクリムトの傑作が来てたけれど、あとは一級品では無かったし、
なにより、もっと持ってきていいだろうシーレの油彩は一点きりだったし
(でもなんとシーレのそれは≪抱擁≫という代表作のひとつだった!)。
≪ベートーベンフリーズ≫の原寸大のレプリカを使っての展示は、
工夫してるなーとは思ったけど・・・。

そう、どかは学芸員資格のスクーリングを受けたから、
否応なく、展覧会を観る視点が変わってしまった。
今回のクリムトも、なんでこんな視点基準線が高く設定されてるのだろう。
とか、ライティングは巧いなー、ぜいたくなスペーシングだなー。
とか、このキャプションは、どかならもっと上手く書くぜ。
みたいな(例によって、えらそうなどか)。
でもでも、誓って言うが、この視点の変化のせいで、
クリムトの作品を観る目がくもったかと言えば、神掛けてそれはない。
あくまでクリムトの作品がどかにとって、それほど吸引力が無かっただけだ。

はあ、せっかく試験終わったご褒美なのにー、ってがっくししつつ、
常設展を回ることにしたら・・・どびっくり、こっちのが全然面白い。
日本有数の小磯良平と平山平三のコレクションは文句なし、
一級品の名作揃いで、固唾を飲むとはこのことねって。
とくに、小磯の静物画と、平山の林の紅葉を描いた作品は、素晴らしい。
すごいなー、特別展より、常設展のが全然いいのって、
ある意味、理想だよなー、学芸員としては。
と思いつつ、展示方法も全く理に適っていて、
どかがここの学芸員になれたとして、コレと同じ仕事ができるか。
と自問自答して、ちょっと悔しくなってしまった(相変わらずの自意識過剰)。



↑安藤モダニズムその3<郷愁>


常設展のなかの「美術の中のかたち」という展示はさらに楽しい。
楠や、シュロの縄で編んだオブジェ、ブロンズの彫刻などを、
実際にさわったり、乗ったり、くぐったり、歩いたりして、
触覚で美術を感じて下さい的なありがちな展示だけど、
どかは成功している例を初めて知った、素晴らしいな、ここのヒトわ。

常設展も見おわって、ようやく、ここの美術館自体が、
あの世界の安藤忠雄の設計であることを初めて知るおまぬけどか。
美術館の建築を堪能できるように、外側に回廊や階段が張り巡らされていて、
もちろんその通路(機能)が、建築自体の外見(美)を損ねることなく、
うまーく組み合わされていることに、改めて感心。
やー、未だに<モダニズム>にこだわり続けるというアナクロニズムは、
安藤サンにだけ赦された特権だよなー。
と、ガラスやコンクリ打ちっ放しや、曲線や直線の組み合わせに、
フムフム頷きながら徘徊するどか。

<モダニズム>という人工美が、決して排他的な閉塞性へと向かわず、
神戸湾や六甲山といった自然へと開かれていることこそが、
唯一、安藤忠雄という建築家が拠って立つ才能である。
でもこの一点のみで、充分世界の建築史に名を残せるんだねー、うんうん。



↑安藤モダニズムその4<へたりこむナル1匹>


2003年09月04日(木) 飛龍、復活!!

どかが芝居を見始めた1998年の夏。
紀伊国屋ホールで観た「ロマンス」を契機に、
つかこうへいと芝居にハマって以来、
いっとういっちばん嬉しいニュース。
やばい、もう、泣きそう・・・

「飛龍伝」再演!

つか演出!


そして、そして・・・

筧利夫、キャスティング!!

だめだ、もう、まじ、泣きそう。
喜びの沸点は、すでにもう、超えたっす。

ああ、夢なら、醒めないで。

もちろん、第四機動隊隊長・山崎一平役でしょお!

2001年に再演された前回の「新・飛龍伝」のときは、
北区つかこうへい劇団のエース・小川岳男が抜擢された。
山崎一平という第四機動隊隊長は、
筧にしかできないとつかこうへいが判断。
小川用に泊平助という別のキャラクターを、
小川のために書き起こしたというエピソードがある。
つかという演出家が、
いかに筧利夫という舞台俳優に惚れ込んでいるか。
山崎一平という類い希なるキャラクターは、
そうして9年の長きに渡って、凍結保存されてきたのだ。

どかは2001年の「新・飛龍伝」も良質のいい舞台だったと思う。
でも、、、筧の「飛龍伝」は違うのさ、全く別物である。
Vで観ることしかできないけど、
それだけでも世のありとあらゆる舞台を超越したインパクト。

ああ、9年の時を経て、山崎一平が生で観られるなんてっっっ!!

さて山崎一平の相手役・神林美智子である、系譜を見ると・・・


初代・・神林美智子:富田靖子・「飛龍伝'90(vs筧・山崎)」
    
2代目・神林美智子:牧瀬里穂・「飛龍伝'92(vs筧・山崎)」

3代目・神林美智子:石田ひかり「飛龍伝'94(vs筧・山崎)」

4代目・神林美智子:内田有紀・「新・飛龍伝(vs小川・泊)」

そして、そして・・・次代全共闘委員長を襲名したのはっ

5代目・神林美智子:広末涼子


むむむ・・・。

公演は11月末から青山劇場にて。

さらに、ショックなことに「飛龍伝」に先駆けて、
「幕末純情伝」まで復活させるという・・・(これはつか演出ではなく)。
しかも筧・広末コンビで。

大丈夫なのか、広末?

つか芝居の稽古は普通の舞台の稽古よりも、
ほんっきでハードだと思うよ(実際の舞台見てりゃあ分かることだ)?
2つの芝居を一ヶ月ぶっつづけでやるのんなんて、
職業・舞台役者でも大変だろうに。

ま、とにかく、筧サマの邪魔はしないでね
(でも、広末にもちょっぴり期待してるどか、その理由はまた今度)・・・

はあ、もう、わけわかんないっち。
なんなんだ、この至福の奇跡は。
なんか、ひとりで熱くなってるな。
落ち着いて整理しよう。



「つか演出」は<役者の活け作り>という演出法にかけて世界一である。

「飛龍伝」は「銀ちゃんが逝く」と並んでつか戯曲の最高峰である。

「筧利夫」はあまたいるつか役者の中でもベストオブベストである(あった)。



その3つが掛け合わされるのだ、つまり・・・

「飛龍伝」X つか演出 X 筧利夫 = ∞


ということだ。

筧が、舞台役者・筧利夫が、あの往年の「凄み」が復活しさえすればっ。

去年の「透明人間の蒸気」の程度の出来じゃあ、
山崎一平がやれないことは、筧自身が分かってるはず。

マジ、頼むぜ、現代最高の舞台役者の名にかけてっ。


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