un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2003年08月30日(土) 末続サンおめでとーっ

世界陸上パリ大会、男子200m、末続慎吾選手が銅メダルを獲得した。
スクーリングで健全な生活リズムを取り戻したのに、
最近、みるみるうちにまた、宵っ張りキャンペーン復活したどか。
でも、そのおかげで、この歴史に残る快挙を、ライヴで観ることが出来た。

末続サンのコーチは、あの高野進サン。
高野サンと言えば、どかの世代で陸上競技に関わっていたヒトには、
神様のような存在、いや、もう神様だった。
高野サンは世界陸上とオリンピックで、
400mというスプリント種目でファイナルに残った偉人。
高野サンが引退したあとは、もう、
日本人がスプリントでファイナルに残るのは無理だろうと言われていた。
しかしっ・・・ファイナルどころか、コーチが届かなかったメダルまで、
この23歳の若きエースは手に入れてしまった。

どかは予選や準決勝の末続サンのレースを観ていて、
否応なく、かつての高野進の走りを思い出した。
卓越したコーナリング、スムースな美しいフォーム。
身体能力ではモンゴロイドは他の人種と比べて圧倒的に不利。
その不利を覆すための、怖いくらい冷静で、凍り付くほど美しい戦略が、
パリの競技場で展開されたのだ。
「水の上を滑っていくような」と表現されてたけどまさにその通り。
走ってるんじゃなく、滑ってる感じ、スーパースムース。
ドライアイスのかけらが、ツーッとテーブルの上を流れる、そんな感じ。

スタートは、なんだか、今まで注意されてこなかったささいなことを、
決勝に来て、係員に注意されて、ちょっと、納得いかなかったらしい。
そしてその影響で、スタートの反応は遅れる。
スタートが遅れたら、日本人はもうダメ。
というのがコレまでの常識、でも彼は違った。
世界一のコーナリングを発揮してダッシュをかけ、
コーナーから飛び出すときには5位にまで回復。
そして飛び出した瞬間にフッともう一段加速して、
一気に4位、ストレート後半にかけて粘って3位に上がる!
日本人がストレート後半で欧米人よりも速いなんて、
一瞬眼を疑ってしまった、ありえない!
かっこよすぎ、かっこよすぎだよ。

3位確定後、高野コーチと抱き合って、涙を流し、
天を仰いで、言葉にならない叫びをあげる末続、
こらえてきたけど、泣いちゃうどか。

かつて6年間、陸上部で短距離をやってきたどかなので、
そりゃあ、全然レベルが違うし、恥ずかしいけれど、
でも、あのコーナーを抜けたときにフッともう一段加速する感覚は分かる。
本当に、自分に羽根が生えたかのように、カラダが軽くなるんだ。
重力の鎖をほどいて、しがらみの麻紐がちぎれて、
ネガティブスパイラルが霧散する幻想。

そっかあ、あの幻想の向こうに、リアリティはちゃんとあったんだなあ。

そうしてまたひとつ、大切な記憶の1ページを取り戻した。


2003年08月24日(日) 三鷹阿波踊り 2

阿波踊り愛好者はとっても多いし、
やっぱり「民俗芸能」の中では一番メジャーだと思うし、
どかが阿波踊りをあんまし好きくないのはそういう、
メジャーどころへの抵抗感というあまのじゃく的理由が、
無いわけじゃないとは思うけど。

でも、まず、踊りの構造的に、
どかは観てて、あんまし面白いと思わない。
どかがやったりみたりしてきた芸能と比べて、
身体の使い方がそれほど興味深いとは思わない。
あれだけ楽器を並べれば、
そりゃあ、誰でもある程度「勢い」は出せる。
でも「音」を抜いて「動き」を観てたら、
けっこう普通やん、これ(暴言多謝)。



↑・・・これはなかなかキレイ、駅前の空中広場から


確かに「音」こみで観てみると、
高揚感はすごいし、巻き込み力もすごいし、
どかのやってる神楽やさんさとは別ジャンルの発散感がある。
でも、そういうベクトルで言えば、
サンバの足下にも及ばないと思うし、
日本(沖縄だけど)の芸能で言えば、エイサーのそれにも、
全く及ばないと思う。
どかは、エイサーのが好きだな、「音」もすごいし、
なにより「動き」がスゴい、あの身体の使い方は興味深い。

でも、エイサーやさんさも全国的な広がりを持ちつつも、
阿波踊りほどの普及には至っていない。
どかはこの事実こそが、全ての説明になっているのだと思う。
民俗芸能の魅力は、土の魅力だ。
あらゆる意味で。
あらゆる次元で。
「土」から離れたところで、その芸能にとりくむことは、
とても困難な壁に直面することになる。
精神的にも、身体的にも。
きょう、三鷹の本通りを練り歩いた、
有象無象の連(阿波踊りのグループ)の方々が、
そういう壁に直面して乗り越えたとは、どかは思えない
(傲慢だけれど、どか自身がその壁に苦しんできた自覚があるから、
ちょっと、ナンだけど、言わせてもらうこの際)。
いや、かといって、その連の方々が、努力が足りないとは言わない。

だって、きっと、阿波踊りには、もう「壁」が無かったのだから。

でも「壁」が無いから、あんまし面白くない。
きっと、どかの心が躍らない理由はここだ。



↑スポットライトに浮かび上がる勇者サンたち


でも、地元徳島のヒトタチが、民俗芸能ではなく、
エンターテイメントとしての普及に的を絞っていたとしたら、
どかは賞賛の拍手を惜しまない。
あまりに鮮やかに、その戦略は最良の形で結実していると思う。
踊ってるヒトは楽しそうに見えるし、
商店街は活気づいて喜んでるように見えるし、
三鷹市長はハナタカダカで嬉しそうだしさ。
どかが自分の部屋の静穏性を阻害されて八つ当たりしてるのもあるしね。
でも、こんなカタチで民俗芸能のエンターテイメント化が進んでしまったら、
なおさら、本当の「土」の匂いはかき消されてしまうなあ。
あらゆる意味で。

と、言いつつも、写真撮ってて、なかなか楽しかった。
自分の時間とココロとカラダを使って挑戦してみたい。
とは微塵も思わないけれど。
観てる分には、ま、いっか、と思った。


2003年08月23日(土) 三鷹阿波踊り 1

部屋で机に向かってたら、また、低音の波動が。
はあ、今度は何だよ、とベランダから外観たら。
あ、そっか、きょうは阿波踊りだったんだ。
はあ、例によって、どかんちの前はもろに練り歩きのコース。
駅にも近くてすっごい便利だけど、
こうゆうときは辛いっす。
だって、ハレとケの、ハレが強制的にどかのケを奪ってくんだもん。



↑ベランダから観た、祝祭の後ろ姿。


部屋にいてももはやプライバシーは無かった、ある意味で。
で、もはや選択の余地は残されて無いと感じて、
仕方なしに、外に出る、笛が鳴って太鼓が鳴って、キンキン。



↑キレイなオネイサン


でもなー、どかは実は、阿波踊り、あんまし好きくない。
民俗芸能をかじってるくせに、これは好きになれない。
どかとしては、バシス・・・(→参照)いや、サンバのがむしろ好き。


(続く)


2003年08月22日(金) スクーリング最終日

やったーっ!!

終わったーっ!

すげい、解放感、やばい、体液が沸騰しそう。
気圧が一気に下がったっぽい、
スペースシャトルで打ち上げられたみたい。

17日に始まった実習は、講義と比べてかなり楽しかった。
実際に絵画と彫刻を展示室に展示してみるのんとか、
虫食いのある古文書を修復する実習とか、
縄文土器を展示するにあたってテグスで固定するのんとか。
講師の方々もそれぞれ個性溢れてて、
何かしらの欠損と何かしらの突出が感じられて、
そういうのも楽しかった。
「もの」への執着が、圧倒的だった。
そういうのを感じるたびに嬉しくなった。

実際に博物館の一室に展示する実習が一番楽しかった。
チームに分かれて5人でやったんだけど、
行きがかり上、どかがリーダーっぽくなってしまい、
パキパキやって、ライティングもパキパキやったら、
褒められた、てへ。

民俗学の講義も良かった。
むかし、ICUに非常勤で「民俗学」を担当していた先生で、
そう言えば、どかもレジ本でその名前を見たことがあって、
講義終了後、質問がてらそういう話で盛り上がった。
その先生もワタシが ICU出身だって知って、喜んでくれて。

で、民俗学のフィールドワークと、民俗芸能を習うことの、
共通点と相違点について、ほんの少し話せてそれも面白かった。
もちろんその方は「早池峰神楽」のことは知っていて、
どかが感じてることや考えたことを話したらすぐ、理解してくれた。
そして、どかが悩んでいることや「壁」というのは、
民俗学者にとっても全く同じ課題であることを知って嬉しかった。
あの人と飲みに行きたいなあ。

友人も何人か増えたし、
バックグラウンドが全く違うヒトと意思疎通が出来ることというのは、
やっぱり楽しいなあって思う。
でも・・・、どかって、やっぱヘンなのかしらん。

「○○サンって、なんかオーラがありますよね、
 ちょっと、感じが他のヒトと違って、面白いわ」

って、ヲイ(やはり・・・そうなのか、ワタシ→参照8/14)。

さて、ここで、気を緩めるわけにはいかない。
スクーリングが終わって、やっと自分のことをする時間を
ちゃんと確保できるようになったんだし。


2003年08月19日(火) きうけい、つづき




にしても、すごい太陽だった。
あれみたい、昔行った、南仏のニースの日差し、
んー、ちがうか、イタリア・ナポリの日差しみたい。
全てを光と影に分けてしまう、ゾロアスター的二分法。
くらくらするの。





普段、図書館に通ってる ICUのキャンパスには、
申し訳程度の噴水があるだけだからなー。
ついつい、水辺にレンズを向けてしまう。
ここの名物の白鳥サンたち。





もすこし、がんばろーっ。
て、素直に思えたので、道草もまた、良しかしらん。


2003年08月18日(月) いっしゅん、きうけい

スクーリング8日目、終了。
朝9時から夕17時まで、みっちり続く講義に実習は、
勤めから離れて9ヶ月のどかにはけっこう、
たいへん、グロッキー的日常。
実習は、かなり、かなり面白いんだけどなー、
朝がなー。

きょうは、ラッキー。
少しだけ早くあがれたし、
良い天気で、気持ちいいもいいので、
帰りしに吉祥寺で下車、
公園口を降りてひさしぶりに、
井の頭公園に行ってみた。











(続く)


2003年08月14日(木) スクーリング3〜5日目

奇跡的に朝、起き続ける、健気な「真性宵っ張り」どか。
しかし、ちょっと(っつうかかなり)、
どかを落としてくれた事件@町田の丘、勃発。

4日目・・・かな?
英訳と講評の課題レポートを提出できたけど、
前日は睡眠2時間でふらふらふらどか。
授業終わって、はあやれやれって、
リュックにノートなおしてたら、
女の子がひとり近づいてきて・・・

「あの・・・人違いだったらごめんなさい、
 ICUの方・・・ですよね?」

って。


どかぽん え、ええ、はい。そうです・・・あの、あなたも?

Kサン  ああ、やっぱり!そうです、私も ICUです。

どかぽん えーっと・・・、どちらで・・・?

Kサン  あのー、ヒューズ先生について卒論、書かれませんでしたか?

どかぽん ああ、はいはい。じゃああなたも、ヒューズについたんですか?

Kサン  そうです!さっきどこかで見かけたヒトだなーって思ったんですよー。

どかぽん ああああ、す、すいません・・・(以下略)



最低だわ、わたし。
相手はどかのこと、覚えててくれたのに、私、全然覚えてなかった
(いま、振り替えてみると、おぼろげながら思い出せ・・・る?)。
でもでもでも、実は、本当にショックで落ち込んだのはそんなことじゃなく・・・
実はね、日記では書かなかったけど5月の関西学院大学で開催された、
美術史学会全国大会に参加したときのこと。
この学会のメインイベントであった「絵画修復」についてのシンポジウム、
それが終わって「やれやれ」と、リュックに筆記用具をなおしていると、
女の子がひとり近づいてきて、

「あの・・・ICU出身の方、ですよ、ね?」

って。


どかぽん え、ええ、はい。そうです・・・あの・・・

Mサン  ああ、やっぱり!



・・・そうなのだ。
要するに、まったく、まったくおんなじ展開が、
向こうが覚えていて、どかが覚えていない「感動的な」再会が、
あいだ3ヶ月をおいて繰り返されちゃったのだわ、どかったら。
やっぱりなー、どかったら、そーんなに、
「イイオトコ」だったのかしらん、てへ♪
目立って目立って、仕方なかったのか知らん、でへ♪
Mサンとの会話のその後・・・、


どかぽん ・・・ああ、ヒューズについてたんですね、そっかあ。
     それにしても、すいません、あなたのこと、覚えてへんくて・・・

Mサン  いいえー、全然。あの、何だか、目立ってましたよね、○○サン。

どかぽん は?

Mサン  ほら、なんだか背が高くてすらっとしてて、眼とか何だか静かに光ってて、
     口元とかはなんだかすずやかでいつも周りにそよ風が吹いてそうで、
     授業ではいつも眠そうにしてたけど当てられたら凛々しく答えて、
     あんまし喋らないけど、存在感があって、
     その存在感は「枯れた高倉健」的じゃなくて、
     もっと生き生きした、ほら「ジョニーデップ」的で、
     きっと、お似合いなのは、宮崎あおいチャンみたいなカワイイ娘かなって。



という会話が関学の大教室の一角で、どかとMサンとの間でスムーズに交わされ、
どかの20世紀最後の学部時代の瑞々しい姿が、図らずも21世紀によみがえり、
そして気づくとどかの隣には、ああ、うるわしのあおいたんが、
スッと立っていて、こちらをみて微笑んでいたりするという展開に、
どかとしてはなるだろうと確信を持っていたのだけれど、
何故か、現実はそうではなく、
単に「背が高くてなんか、独特な感じ」だったのだそうな、ちぇ。
みょーに目立ってたんだって、むー。

それってさあ、「イイオトコ」でなく目立つのってさあ、
やっぱ、どかったら、変なのかしら。
ええ!そんなに変なんかいっ!わいの顔わぁっ (>_<)!!
・・・はぁはぁ、思わず熱くなったぜ。
ってか、へこんだ。
卒業して5年目、地方各地で、まったく同じ展開を経験すると、
やはり、何かしらの説得力が、そこにはあるよねえ。
どかって、ヘンなんかなあ、学部時代って、
少なくとも授業中とか、お勉強方面では、
普通にオトナしい、優等生を目指しつつ到達できない、
普通の「かわいらしい」男の子でいたつもりだったんだけどな
(というか↑が既にヘンであることに、気づけよわたし)。

まあ、そんな感じでしゅ。

人生、楽しいよ、うん、すごい偶然だ。

・・・はあ (-_-;)


2003年08月13日(水) TBS「テアトル・ミュージカル 星の王子さま」

どかは偏見だらけなクセに居直ってるタチのワルイ演劇ファンである。
その偏見のひとつに「日本人のミュージカルはダメ」というのがある
(劇団○季に対してケンカを売ってるわけじゃないけど)。
その昔、どかがまだ中学生のころ、もうすぐ取り壊しになる近鉄劇場に、
劇団○季の≪オペラ座の怪人≫を観に行ったことがあって、
とっても失望した記憶がある、つまらなかった、恥ずかしいし。
でも大学生になって留学中にロンドンのウエストエンドで、
≪Phantom of the Opera≫を観て度肝を抜かれた。
以来「日本人の」説はどかの脳幹に刻まれたひとつの真理となる。

その真理故にこれまで「オケピ!」さえもグッとこらえて行かなかったのに、
ついに意固地などかの行動原理を揺るがすチケットを手に入れてしまう。


  何故?

  だってえ、あおいたんだもーん、らーぶーっ。


というわけで、たかだかどかの真理だの原理だのはあっけなく、
ひとりのアイドルに、いったんは、覆されることとなる。
おっと、間違えてはいけない。
この一連の背信行為において、どかの真理や原理の脆弱さを責めるのではなく、
あくまで宮崎あおいというアイドルの輝きをこそ、
褒め称えなくちゃなのだっ、皆の衆よっっ。



↑薄暮の国際フォーラム・就活を思い出す・・・


例によって前置き長すぎだな、本文に入ろう。
ソワレ@東京国際フォーラム・ホールC。

白井晃演出というのは、確かに魅力的だった、遊◎機械以来、
どかは、このヒトは演劇というジャンルに関しては絶対裏切らないと信じている。
でもその彼をして「星の王子さま」というスタンダードへの挑戦は、
無謀に思えて仕方ない、世のファンの愛着を裏切らないで、
ミュージカルへ仕立てなおすことは、ほとんど不可能じゃないか。
そんな不可能の渦の中、白井サンが拠り所にしたのは、
斬新な解釈や、唄の力の幻想でもなく、ただただ、原作へのリスペクトだった。
オリジナルへの忠誠を前面に押し立てて、控えめに控えめに、
白井サンは今回の舞台の演出をつけていった。
そしてそれは、かなりの効果を上げていったように思う。
ミュージカルというより、音楽劇、そう、ちょうど遊◎機械の舞台のように、
ずらっと並ぶミュージカルナンバーは決して自己主張を強くすることもなく、
あくまでサンテグジュペリの世界観を裏打ちするために当てられる裏布のごとく。

そんな白井演出を受けて、宮崎あおいはどうだったのか。
「かわいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ」初めてのナマあおいたんに、
登場後5秒で席に熔け落ちるどか。
そして、あの、声!
以前に映画≪ラヴァーズ・キス≫のレビューで、
あおいたんの瞳の特別について書いたけれど、
やはりナマで一番印象に残るのは声だ。
あおいたんが保坂尚輝扮する飛行士やRollyのきつねに対して、
話しかけたり、お願いしたり、叫んだりするとき、
あおいたんの身体の芯は決してぶれない。
棒立ちで台詞を読んでる、と言うわけではなく、
目の前の相手に対して、自分の持ってる言葉をただ、
届けようとしている、それだけ。
劇場の舞台の上では、でもそれだけのことが、とても難しい。
観客を前にして自分の視線や声や身体の外側を取り繕うように動いていては、
視線や声や身体が全部ばらばらにほぐれていってしまう。
身体の芯がぶれないこと、そのひとつの定点から眼差しが伸び、
声が発せられると言うこと。
観客は、王子さまの切ない眼差しや、
残酷なほどにイノセントな響きの声の出所を直感的に探って、
そこにひとつの身体の芯がぶれずにあることに安心する。
定点が定点としてあるからこそ、ピンスポットで抜くことが出来るということ。
そう言う意味であおいたんの舞台女優としての資質は、
初舞台にして充分、発揮されていたとも言えるだろう。

でも・・・、ちょっともったいないなーと思わないでもない。
保坂尚輝とあおいたんの主人公2人の歌がとても少ないということは、
まあ、良いと思うのだけれど、演出の付け方がとても、
丁寧で上品だったのだね、白井サンのが。
あおいたんは既に国際的な賞でプライズを勝ち得るほどに、
スケールの大きい女優である。
強く打てば大きく響き、弱く打てば小さく響くことの出来る、
とても優れたインプットとアウトプットを兼ね備えた女優である。
今回の白井演出は、あおいたんを弱く優しく打つことで、
小さく切ない響きを引き出そうと、その一点に収斂されていった気がする。
たとえば、終盤、きつねとあおいたんが段々ココロを通わせていくシーンは、
確かにどかが泣きじゃくってしまうほど、可愛らしくて明るくてでも切なかった
(多分、一番イイシーンだろうな)。
そして、飛行士との別れも、そんな印象で、ジーンと来た。
そんな世情の煩わしさにかき消されそうなかすかな蛍のそれのような明かりを、
抽出してイイシーンだったけど、あおいたんの破滅的な吸引力を映画で知ったどかは、
そっちも観たいなーって思うの。
まあ、白井サンがあくまで原作へのリスペクトを軸にしたから、
サンテグジュペリの王子さまはまさしくこれだろうなとも思うし、
それをあおいたんの魅力を引き出すためだけに全てを変えるなんてことは、
つかこうへい以外にはできないだろうけど。

宮崎あおいという「新人」は拙かったけれど、
他の個性豊かなベテラン役者が良く支えてイイ舞台だった。

というレビューを数件観たけど、どかはそうは思わない。
あおいたんという類い希なアンプは、小さな微かな波を拾って、
それを、美しい切ない明かり(光じゃなく明かり)に変換して客席へ届けてくれた。
その貴重さはちゃんと自分のアンテナの感度を上げていればちゃんと受信できるし、
だいいち、宮崎あおいは、「新人」ではない。

あと、この舞台で語っておくべきは、舞台美術の素晴らしさ。
あの幾何学的に整理された大きなマルやら曲線やら放物線が、
グリグリ動いて、現代的に幻想的、でもあの、
サンテグジュペリのデリケートな世界観にきちんとマッチ。
もうそれだけでも現代アートのオブジェとして、
コンスタレーションとして成り立つほどの完成度、
素材の感触をそのまま生かしつつ、虚飾を排してデザインのみで詩情を出すこと。
そして、照明も、そのデリケートさを壊さずソッとハイライトをあててくれる。
舞台美術と、照明と、衣装と、役者が、等価にあって、
全てが「星の王子さま」という世界中で愛されている物語へのリスペクトという、
一本の線上に乗っかってくる。

宮崎あおいスペシャルではなくあくまで、
「星の王子さま」というプロジェクトで観たならば、
この舞台はまさしく大成功だとどかは思った。
名匠白井サンの透徹した視線が行き届いていた、
チャレンジングなオーソドキシーとして。


2003年08月12日(火) 扉座「きらら浮世伝」

前に勤めてた会社の同期、キタポンとソワレ観劇@紀伊国屋サザンシアター。
この戯曲の初演は15年前のセゾン劇場で、座長横内謙介サンが満を持しての再演決意
(多分、つかにおける「飛龍伝」くらい重みのある戯曲なのだろうな)。
初演時のキャストがすさまじくて、中村勘九郎、川谷拓三、美保純など、
時代も時代だけに、当世一代の豪華なハコに見合う豪華な役者、バブルの結晶だね、
・・・いや、ワルイ意味じゃなくて、うらやましいという意味で。

実はこのレビューは随分日にちをおいて書き始めたので(きょうは9月14日)、
本来なら8月半ばに上梓できたはずのそれとは、きっと文章が変わっちゃうな。
しかも、すぐレビュー書けないからと、某 tokuさんちの BBSで暴れちゃって、
そこで結構いろいろ書いちゃったしなー・・・もいちど、リセットして書きまする。

どかがこの芝居を観たかった2番目の理由は、横内演出の扉座ということ。
そして、1番の理由はもちろん主演の山崎銀之丞である。
とくにこの春の≪寝盗られ宗介≫で、不完全燃焼だった気がして、
それは相手役が不足に過ぎたという悪条件もあったのだけれど、
とにかく、痛々しい銀ちゃんじゃなくて「もっともっと」な銀ちゃんが観たかった。
今回は、演出を扉座座長に任せられると言うことで本業の役者に専念できるし期待してた。

結果から言うと良くも悪くも「まあまあ」、と言うしかないかな。
確かに≪寝盗られ宗介≫の時のようなセリフをこぼしてしまうような痛さは無くてホッ。
でも、トップスピードが乗らない。
いや、スピードメータ上でトップスピードはそこそこ乗ってるけど、
隣のタコメーターで、針がレッドゾーンに飛び込まないんだ。
ギリギリ、一番スピードが乗るところで上手にシフトアップをしていくから、
エンジンも悲鳴を上げることなく、スムースに舞台も進行していく。
演出の要請に良く応えて、舞台全体のスピードをも調整してしまうほど巧くなった銀ちゃん。
でもなー、銀ちゃんが舞台でやるべきことは、シフトチェンジじゃないと思うんだなー。
そこそこ華があってそこそこ経験を積んだ大抵の舞台役者なら、
そんな程度の巧さ、持ってるもん。
銀ちゃんにしかできないことは、アクセル踏みっぱなし、バイクならアクセルフルスロットル、
がんがんレッドゾーンに針を突っ込んで、エンジン焼き付くまで死んでもアクセル戻さない覚悟。
その覚悟こそを、どかは銀ちゃんに観たいのだ。

横内サンは戯曲においては平明な言葉を使って、
けれども響きが美しく残るセリフを書いて名匠の域に達していると思う。
≪いちご畑よ永遠に≫などの最近の戯曲では、
その美しさがノスタルジーに分かちがたく結びついていて、
あんまし好ましくない「いま」と、けっこう良かった「かつて」との、
はざまに戯曲を落とし込んでいくことにドラマツルギーを生み出している。
それが、この≪きらら浮世伝≫はさすが青年・横内サンの出世作だけあって、
とにかく「いま」、ひりひりする「いま」しか無いことが、
ストレートさ、もっと言えば余裕の無さを感じさせる。
そしてこの余裕のないせっぱ詰まったさ加減にドラマツルギーを与えている。

じゃあ、そのせっぱ詰まったさ加減満載の主人公、
蔦屋重三郎という人物を演じて、銀之丞はただ、ひたすら突っ走れるハズ・・・
なんだけど、なかなか上手くいかない。
それは横内サンの演出が大きいんじゃないかなあ。

どかはかつて(今でもだけど)、扉座という劇団を考えて出した結論に、
「キャラメル(ボックス)と、つかこうへいのあいだ」というのがある。
この≪きらら≫を観て、もう少し厳密にこの定義を補足すると、
「キャラメル風の演出と、つか風の戯曲」ということになるのかも知れない。
山崎銀之丞があんな風にスマートにまとまっていったのも、
きっと、横内サンの役者と役所の接点から舞台を立ち上げていくという、
「優しい」演出法によるんだろうな
(蛇足だけどつかは違う、
 つかは役所を無に帰しても役者の臓腑をえぐり出した上で、
 舞台に血化粧を施すのがつか演出)。
銀之丞の吉原大門によじ登っての長セリフや、
六角精児の笑いながらの切腹シーンには、
一瞬、ココロを動かされそうになりつつ、
ほとんど涙を浮かべつつもそれがこぼれなかったのは、
横内サンの、劇作家としての資質とは性質の異なる、
演出家としての資質が原因なのだろう。

・・・と、言う感じでお茶を濁してレビューを終えようかと思っていたのだけど、
ひとつ、引っかかることがあることに気づいた。

横内サンはひとつだけ、この舞台で「ノイズ」を布置していたのだ。
それは扉座劇団員の杉浦クン演じる鉄蔵(葛飾北斎)である。
銀之丞や六角サンといった、
レッドゾーンに飛び込む覚悟が持てる役者を抑えてでも、
座長はこの若手の「ホープ」にその覚悟を押しつけていたのかも知れない。
しかし・・・、その試みと期待は、明らかに裏切られている。

杉浦クンは確かにレッドゾーンに入っていた、それは認める。
でもね、ラッタッタにまたがってレッドゾーンに突っ込んでも、
たかが知れてるんだよね。
銀之丞や筧サンみたいな、そもそもの排気量が桁違いのエンジンが、
さらにレッドゾーンに突っ込んでいくことに、ヒトは異次元を観るのであって、
50ccのラッタッタが悲鳴上げてても、ミニパトに注意されるだけでしょう?
ちょっと耳障りなだけで、良い役なのに、勿体なかったな。
代わりに、銀ちゃんや六角サンや、
鈴木「元・伝兵衛」祐二サンに覚悟を託せば良かったのに(しつこい)。

頑張ってたのは鈴木祐二サンとヒロインの木村多江チャン、
余力をあましての名人芸は銀之丞と六角サン、
演出に緩さを感じたとしても戯曲はなかなかの佳作で、
総合的には「悪くない」ということになるのかな。

あー、銀チャン、秋の筧・広末の≪飛龍伝≫に出ないかなー。
あ、≪幕末純情伝≫ならば土方歳三役で出るかもだよね・・・、
つか演出で筧サンと共にもいちどレッドゾーンぎりぎりに飛び込んでくの、
観たいなー、観たいー。


2003年08月10日(日) スクーリング2日目

昨日から、スクーリングが始まった、
学芸員資格取得コースの。
町田の丘の上にあるガッコでやってんだけど、
昨日の台風は、かなりクラッた・・・。
朝はまだ良かったけど、帰りはもう、傘させなかった。
ずぶずぶずぶぬれれれ、みたいな。
でも笑いたくなるほど楽しかったり
(亡くなった方がいるのに不謹慎だわ、反省)。

きょうは、なーつーっ・・・!
的なスカッと晴れた青空、朝は眠いけど、
丘の森の中を登りながら蝉の声を聞くと、
目眩がするほど気持ちいい。
スクーリングの授業も、きのうはつまんなかったけど、
きょうは楽しかった。
博物館の生成史、ギリシアから近代まで。
ヴンダーカンマー(驚異の部屋)についての話が面白い。
ちょうどいま読んでる本の章とリンクしてたし
(→ヴィクトル・ストイキツァ「絵画の自意識」)。

でもねー・・・、究極の「宵っ張り生活」をしてたのが、
いきなりちゃんと朝型の生活に戻さなくちゃで、無理してるから、
かなり身体、しんどい、だるい、ねむい。
リズム障害を治すのって、大変なことなんだわ、やっぱし。

帰り、日差しを浴びてふらふら、半ば朦朧としつつ、
太陽のライスシャワーを浴びながら木立を歩いていて。
昨日、きょうは、iPodクン、ブルーハーツセレクションに固定していて。
最近ずっと、ハイロウズばっかり聞いてたから、
すっごい新鮮で、やっぱり大好きだったことを再認識したの、ブルハ。
いまちまたに溢れてるブルハチルドレンとは似て非なるものだわ。
この優しさと残酷は。
「夢の駅」とか「ミサイル」「ナビゲーター」などなど、
わりとマイナーな曲の「凄さ」にやられながら、小田急線に、乗った。


2003年08月07日(木) つか「売春捜査官 ギャランドゥ」(高野愛チーム)2

伝兵衛役の高野サン・・・、健闘、なんだけど。
致命的なことに、喉が、完全に、潰れてた。
会場に入って、席について、3秒でショックを受けたどか。
もう全然、声に張りが無い・・・。
稽古で頑張ったんだろうなあ、だあって、つか芝居のなかでも、
「飛龍伝」の神林美智子や「銀ちゃんが逝く」の小夏なみに、
かっこいいヒロイン役だもんなあ。
でも・・・つか芝居の金看板「熱海殺人事件」の、
まがいなりにも木村伝兵衛を襲名するにあたって、
声が枯れてるなんて、言語道断、釈明の余地無しだよ。
若手公演だろうが、チケ代千円だろうが、関係ないっしょ。

ただ、さすがに、それを抜きにすれば、
喉をカバーしようとしてるのだろうけれど、悲壮感漂うテンションは、
違う意味で見応えがあった。
あと、表現力が、以前見た「熱海・蛍」のころからかなり上がってた。
前は怒鳴るか黙るかしかなかったのに、
愛嬌や哀感を出せるようになって、ヒロインらしい幅の広さ。
ただ、色気はまだ出ないなー、惜しい。
それは芝居の「受け」が弱いからなんだよね、きっと。
しっかり相手の芝居を受けきって、辛さや切なさを全部乗り越えたところに、
魔力的な磁場を持つ吸引力が発動するという事実。
しかし、自分のアウトプットを鍛えることはできても、
インプットを鍛えることは困難である。
それを、あっけなくやってしまうことこそ、役者の才能。
金泰希という女優は、そういう地点に立っていて、
優れてヒロインの華を散らすことができるのだ。
高野サンはもう一歩、でもこの一歩が大変かも、「時々」はいいんだけどな。
じゃあ、その「時々」のシーン。


伝兵衛 えっ?

熊田  勘弁してください、私には、雪江のような女が丁度いいんです
    勘弁してください

伝兵衛 何を勘弁するんです
    うら若い女が身も心も差し出して好きにしてくれって言ってんのに、
    何を勘弁するんです

熊田  勘弁してください
    あなたは私には重すぎます

伝兵衛 重すぎる

熊田  勘弁してください(土下座する)

伝兵衛 だから、何を勘弁すりゃいいんです
    え、だから私は何を勘弁したらいいんです
    七十億とも八十億とも言われる人間がこの広い地球に生まれ、
    二人出会い、たかだか、六、七十年生きていくのに、
    死ぬほど愛してくれるか、殺すほど憎むかしてくれなきゃ、
    女はやってられないんだ!
    あたしゃ裸でも、何でも好きにしてくれって言ってんのに、
    何を勘弁すりゃいいんです・・・失せろっ!!

(つか「売春捜査官 ギャランドゥ」より)


ここの伝兵衛、格好良すぎ、ああ、泰希サンで観てみたいなあ
(というか、実は頭の中で泰希サンに置き換えて再現すること数度・・・)。
そして、この伝兵衛を、舞台を通してみてみれば完全に食ってしまった、
名優、岩崎雄一サン in桂万平刑事!!
万平が、浜辺のシーンで李大全に扮したここが、この舞台のハイライトだった。


万平  そんオイに対して島は、父ちゃんと母ちゃんを追い出し、
    オイに死ねというんか・・・よおし、分かった
    金太郎、村長サンたちに言うちょきない
    愛しても、愛しても、決して報われることの無かった、
    故郷五島への思い
    決して報われることの無かった大和魂
    そう李が血の涙を流しよったと村長に言うちょけ

大山  ちょっと待ってください

万平  (殴りつける)オイをなめたらいかんばい
    どんなにつらかったか分かるか
    オイが大和魂を持つことが
    名前を変えられ、女を抱かれた
    オイが大和魂を持つことがどんなに大変だったか
    オイは死ねち言われんでもいつでも死ぬ覚悟は出来ちょるばい
    こん李大全をなめちゃいかん(蹴り上げる)!!

(つか「売春捜査官 ギャランドゥ」より)


・・・すごい。
ここの岩崎サンは、本当にすごかった。
たかだか10秒ちょっとのセリフで、良い役者は世界を震動させてしまう。
どかは、この手前くらいから、岩崎サンのスパークを予知していて、
ヤバいなーと思っていたら、直撃食らってしまった。
身構える間もなく、涙腺、決壊。
この濃いいセリフを成立させてしまう岩崎サンの凄みは、
決してセリフ術、アクセントや声量、滑舌が優れているということで、
説明がつくものではない。
ゲイの刑事が、迫害され続けた在日朝鮮人に扮しているのだ。
岩崎サンは徹底的に弱者を演じ、そのいわれのない罵詈雑言を、
遮断して拒絶するのではなく、内に呼び込んで一身に受け止める、
強固な精神力。
かつ、周りの人物のルサンチマンをも、
全てすくいとって行こうとするその繊細な優しさ。
そういう芝居の「受け」がきちんと出来ているから、
あの魔力的な磁場ができあがり、その真ん中から発せられるセリフが、
圧倒的な光量で輝きを放ち始めるのである。
北区のエース、小川岳男を超えてしまったかもしれない。
岩崎サン、ほんとうに、すごい。
このセリフの中の「愛しても、愛しても」の繰り返しは、壮絶である。
壮絶、だったの、本当に。


・・・そう、「売春」は弱者が弱者を切って切って痛めつける芝居。
誰もが幸せになれず、伝兵衛はみなの弱さを一身に背負って、
最後は捜査室で果ててしまう。
そう言う意味ではハッピーエンドとは言えない、
つかの力量が、世相の悲惨においつけなかった敗北の戯曲とも言えるだろう。
どかが99年に観た前のバージョンでは、
伝兵衛は最後の緞帳が下りる瞬間までセンターで屹立して銃を掲げ、
また、五島の村長以下、村民たちまでも救うという強い包容力すら伝兵衛は見せた。
しかし、今回のバージョンは、伝兵衛は銀行員のストーカーの凶刃に果ててしまい、
かつ、五島への捜査網も、伝兵衛はついに、解かなかった。
もはや、包容力を発動させても、追いつかないほど、
時代の悲惨はその加速度を増してしまったということなのだろう。
このバージョンで上演せざるを得なかったつかの無念を思うと、
どかは胸が苦しくなる。
つかこうへいは、世界で一番、ハッピーエンドが好きな劇作家なのに。
つかこうへいは、世界で一番、弱者に厳しく、でも優しい劇作家なのに。

でも・・・、とどかは思う。
このラストシーンにいたるまでの4人の戦いは、やはり見事である。
弱者でも相手を打ちのめす、その「打ちのめし方」は極めてまっとうである。
そして、この「まっとう」さこそ、弱者が強者に対して唯一対等に対峙しうる、
ぎりぎりの赤房下なのだろうと思うのだ。
まっとうに、相手を罵り、まっとうに、相手に差別用語をたたきつけ、
まっとうに、相手のことを好きだといい、まっとうに、相手のことを蹴り上げる。
問題は「何を」するか、ではなく「いかに」するか、なのだ。
そしてこの「いかに」というところで、踏ん張ると言うことは、
全人に赦された唯一の塁土であり、ここでなら、
誰しもが舞台中央でピンを浴びられる。

つかは、このピンスポットを当てながら、きっと待っているのだ。
この脚本を、前の舞台のように、ハッピーエンドに持っていける、
強くて弱い、優しくて残酷な、そんな女優が現れるのを。
いまの高野愛では、無理だ、それは分かり切ってる。
じゃあ、そんな女優が、時代を背負いきれるような女優が現れるまで、
ハッピーエンドの「売春」は封印しよう。
つかはきっと、待っているのだ。

でも、もう、いるよ?

すぐ近くに、この悲惨な芝居をハッピーエンドにできる役者が。

つかさん、早く、早く気づいて。

金泰希の華に。


2003年08月06日(水) つか「売春捜査官 ギャランドゥ」(高野愛チーム)1

どかが観劇を始めて以来、初の失態。
会場をまちがえる・・・!
当日券のみの公演だったので、確認のためのチケットも無く。
はあ、チケット置き忘れは前にやらかしたし、
あと観劇上考え得る災厄って、なんだろう。
王子駅前→滝野川会館までタクシーですっ飛ばし、
開演から5分遅れて着く、やれやれ。


キャスティング(高野愛チーム)

木村伝兵衛部長刑事:高野愛
熊田留吉刑事   :北田理道
桂万平刑事    :岩崎雄一
容疑者大山金太郎 :川端博稔
銀行員猿渡    :鹿野哲郎
ホスト春樹    :友部康志


さて「売春捜査官」である。
木村伝兵衛部長刑事が、実は「女」だったという設定。
「売春捜査官」の「売春」とは、
「売春」を捜査する刑事の話、ではなく、
「売春」が趣味な刑事の話、である。
この女・木村伝兵衛は歌舞伎町で「売春」しているという仰天な導入。
そこにかつて伝兵衛とつき合っていた熊田刑事が、
捜査室に応援要員として送られてくる。
伝兵衛は熊田に「ヨリを戻して」と迫る、キョヒる熊田。
伝兵衛の部下は桂万平、彼はゲイで、伝兵衛からむごい仕打ちを受けていた。
そんなはちゃめちゃな捜査室に、容疑者大山金太郎が来る。
捜査が進むに連れて浮かび上がるのは、
在日朝鮮人の悲哀、故郷への募る思いであった・・・。
「女」「ホモ」「使用人」「殺人者」「在日朝鮮人」、
そういった弱者が弱者として生きていくには、どうすればいいのか、
荒唐無稽に差別用語・罵詈雑言が連発されるシーンを支えているのは、
劇作家つかこうへいの限りない優しさである。
どかはこの脚本は、とてつもなく、完成度が高いと思っている。
「モンテ」や「サイコパス」「平壌」などの、各種「熱海」と比べても、
まったく遜色ない、それどころか、
最もロマンチックで、
最も切ない「熱海」。
それが「売春捜査官」。
伝兵衛が、ほんとうにほんとうに、かあいそうなんだ・・・。

どかは1999年の8月に紀伊國屋ホールで、
この作品の前バージョン(→近日アップ予定)を観劇したことがある。
そして、なにげにこの'99由見あかりバージョンは、
どかの中でも未だに屈指の秀逸な「つか舞台」だったから、
今回の北区若手主体の公演はパスしておこうかなと思ったの。
でも、万平役の岩崎サンをただ信頼して、行くことに決めた。
しかして・・・行って良かったな、岩崎サン最高。

猿渡と春樹はワンポイントしか出てこない。
あくまで「売春捜査官」は「熱海殺人事件」のひとつだから、
基本構造は変わらないのね、
2時間を4人だけで持たせる究極のテンションが要求される。
究極の役者芝居であり、役者の力量が足りなければ、
全く成立しない、最も残酷な脚本、それが「熱海」。
しかして・・・、4人、ちょっとパワーバランスが崩れてるなあ。
岩崎サンのひとり勝ちになっちゃったな、健闘したのは新人・北田クン。

まず川端サン。
伝兵衛経験者なのに、弱いよー。
さすがに上手くなったし、そつなくこなしているけれど、
大山役に要求される「弱者の妬みパワー」が少し稀薄。
間をとったりスピードを調整したり、
そういう「技」でかわしきれる舞台じゃ無いジャン「熱海」はあ。
いいんだよ、そんな小手先の技はあ。
もし川端サンが新人だったら、そりゃあすごい才能だと思うけれど、
アナタはもう伝兵衛まで上り詰めた方なのだから、
他の3人を置き去りにするくらい走ってくれなきゃあ
(でも仕方ないのかな、このヒト、
 もうひとつのチームでも大山やってるからすげー連チャンで出演だもん、
 ちょっと、熾烈すぎるなあ「勤務環境」)。
大山のかっこいいところ、警視総監に伝兵衛が呼ばれたあと・・・


大山  (伝兵衛に)どうすんだ、ホテルに7時に来いってよ

熊田  大山、もうその辺でいいだろう(つかみかかる)

大山  (振りほどき、殴りつけて)じゃ、お前が行くなって言ってやれ
    惚れてんだろう、ホテルに行くなって言ってやれ

伝兵衛 ・・・

大山  言えんのか(また殴る)
    言えんのか、惚れてる女がよその男に抱かれに行くんだ
    行くなと言ってやれ

熊田  うるせえ!!

(つか「売春捜査官 ギャランドゥ」より)


そして熊田留吉役の北田理道サン。
どか、初見だな、このヒト、でもすげーいい!
びっくりした、イイ人材、入ったなあ北区。
走ってるもん、とにかく、走ってる、一生懸命に。
そして、それなりにスピードが乗ってるのがすごい。
セリフ術が結構巧いんだけど、その巧さに甘えないで、
だれずに、どんどん自分を追い込んでいってるのが、好感。
赤塚クン風の色気は出ないだろうけれど、
岳男サン風の誠実さは、もしかしたら将来、出せるかもな逸材。
もちろん、まだ、芝居の受けが全然出来てないけれど、
新人で、とりあえず、しっかり自分の気持ちを相手に伝えられれば、
それだけでもう、北区ではエース候補。
だって、大変なんだもんねえ。
まっすぐ相手の目を見て、しっかり自分の言葉をしゃべるのって。
頑張って欲しいな、これから。


熊田  あんたに出会い、この世に幸せというものがあるのだと思った
    オレはあんたを信じ、あの冷たいみぞれ降る駅でずっと待っていた
    が、あんたはあの駅に来なかった・・・なぜ、来なかった!

伝兵衛 言い訳はしません

熊田  その方がいい
    遠い昔の話だ

伝兵衛 でも、まだ、私はあなたのことを愛しています

熊田  迷惑です
    オラ、明日八王子で雪江と結婚式をあげるんです

伝兵衛 明日・・・
    じゃあちょっと捜査を急がんといけませんな

熊田  オレの心は変わりません

伝兵衛 変えんだよ(熊田を蹴りつける)

(つか「売春捜査官 ギャランドゥ」より)


2003年08月04日(月) 岡崎京子「恋とはどういうものかしら?」

どかは松本大洋も岡野玲子も岡崎京子も望月峰太郎も大好きだけど。
例えば松本大洋と岡崎京子にあって、望月峰太郎と岡野玲子には無いもの。
それはラオスの織り物のように緻密に編み込まれたかのような
短編を紡ぐ才能である。
実際、岡崎京子の単行本は短編集が多い。
そして長編が時にテンションが緩い作品があったりするのだけれど、
短編集はどれも、かなりテンションが高く、完成度も高い。
だが、しかし。

「ヘルタースケルター」「うたかたの日々」という
2つの幻の作品が華々しく単行本として発行された影で、
もうひとつ、この五月にひっそりと刊行された短編集。
あー、もうオカザキブームへ便乗して「いまいちクン」な出来の短編、
集めてきたんだろーなー、やだなー。
・・・って思ってたら、随分、ごめんなさいです。
面白いんだな、これが、まったく。
まだこんなに宝物は埋もれていたのか・・・

「ヘルタースケルター」や「うたかたの日々」みたいな、
圧倒的な加速度や深度を見せるわけではない。
例えばこの2つの傑作がそれぞれ、ベテルギウスとリゲルだとすれば、
「恋とはどういうものかしら?」とはその間にひっそり浮かぶ、
<NGC1976-7.M42>、つまりオリオン星雲だと思うの。
それぞれ全く違う性格を見せながら、けれどもちゃんと、
岡崎京子(=オリオン座)というひとつの世界のなかから派生する、
明かりのまたたきのその、ひとつ。

23個の短編が収録されていて、どれもが、平均以上の出来で面白い。
全てが「恋」がテーマである。
岡崎サンの短編に出てくるカップルは、というより女の子はよく、
相手の男の子に質問をぶつける(ぶつけてしまう)。

なぜ?

それは短編の中のキャラクターがいみじくも答えているとおり。


  質問は会話じゃないもの
  (岡崎京子「SLEEPLESS DOG NIGHT」より)


そういうことだね。
「ねえ、ワタシのこと好き?」とか、
「どのくらい、好き?」とか、
「誰より好き?」とか。
パッと聞くと、グッと勇気を出して踏み込んでいるかのような質問は、
実は、全然逆なのだ、お互いが「向き合ってしまうこと」を避けるために、
その質問は発せられ、それに男の子がけだるそうに答える。
その答え自体を欲しているのではなく、その女の子は(そして多分男の子も)、
そうやって、質問と答えというやりとりの中で、沈黙を、
その沈黙からあらがいようもなく見えてしまう「真実」を、
なんとか、いろいろ頑張ってやり過ごそうとしているに過ぎない。

だって、沈黙は全てを明らかにしてしまうから。
その全ては、けっして良いものではないから。
だって、全てとは、異常な倦怠であり、永遠の無為であり、
決して交わることのない二本の線であり、孤独なのだから。
明るいどん詰まり、ウォールペーパーを張っつけたかのような、
薄っぺらい、青空、脳天気な閉塞感・・・へいそくかん。

このあらゆる意味でゆるーい「行き止まり」を、
頭のどこかで把握しつつもできるだけそれを明確には認識したくないから、
質問をだすのね、女の子は。
だって質問をしたら答えが来るでしょ、
つまり、始まりがあって、終わりがある、そんですぐに始めれば・・・、
ほら不思議、「行き止まり」じゃない!!

でも、そんなの、ウソだし、ゴマカシだし、ズルだから、
うまくいかない。
うまくいかないから、せつない瞬間が、運命的に、ギリシア悲劇的に、
2人には訪れるのね。

「ヘルタースケルター」や「うたかたの日々」、あとはそだな、
岡崎作品の中で最も支持される傑作「リバーズエッジ」とかは、
彼と彼女が懸命に避けようとしている「真実」を、
白日の下に、ガンガンさらけだして、血を吹き出して、
その血で目を洗ってモイチド青空を見てみようぜい。
っていう、暴力的な凄みをともなう作品だったけれど、
本来、岡崎京子はそんな凄みを避けて、けれども避けきれない切なさを、
そぉっとすくい上げるような短編、これが冴えを見せまくる独壇場だった。

切ないよ、キゥーッとくる。

23個のなかからひとつ選ぶとすれば、どかは迷わず、
オールカラーのキラキラ光る美しい作品「Blue Blue Blue」を選ぶ。
岡崎京子のマンガで、どかはあんまし泣いたことがない。
ほとんど泣かない、うちのめされるけれど、涙はあんまし出ない。
でも、これはやられた。
町田市から小田急線で新宿に向かう電車の座席で、
どかはこれを読んでて「しまった」と思った。
もう、涙が止まらない、恥ずかしいったらありゃしない。
二駅くらい泣きっぱなしで、あんまし恥ずかしいから寝たふりしましょう。
って、リュックを膝にたてて、それに顔を埋めて嵐が止むのをジッと待った。
でもなかなか去らない。

「マンガ読み」もとい「オカザキ読み」としては、
それなりのキャリアを持ってるドカだけれど、
実は、何が、そのとき、そんなに自分を打ちのめしたのか、
自分のココロのどこを刺激されたのか、今でも良く分かってない
(実際にいま読み返しても、涙は出ない、なんだったんだろう?)。
でも「Blue Blue Blue」を薦めて読んでもらったら、
3人ばかしのどかの友人は、みんな、泣いてたから、
やっぱり何かがあるんだろう、うん。

「行き止まり」に気づいてしまったヒトは、
人妻サンは、学生クンは、そのとき、何を感じて、何を行動するのか。
きっと、この辺なんだろーけど、まだ、ちょっと、分かんない。。。

どかもエラそうなこと言ってるけれど、まだ、
岡崎京子の切なさに追いつけないのかな。
でも、あの時の涙の味は、忘れない。
恥ずかしかったけれど、それ以上に苦しかった。

なんで、あの涙は、あんなに苦しかったのだろう?


・・・


オカザキ入門として、とてもお薦め。
ここから入ると、スムーズにその後、代表作を読んでいけると思う。
是非。


2003年08月03日(日) 岡崎京子「うたかたの日々」追記

(続き)


  どうしてだろう?
  前はこんなことはなかったのに
  (岡崎京子「うたかたの日々」)


もすこしだけ、書き足りないこと。
愛が投降しなかったこと、降服を許されなかったこと。
それが痛いというのは、何故だろう。

それは「彼と彼女が愛さえ手放せば幸せになれたから」だとどかは思う。
そうすれば、空気はまた腐蝕性から創造性へと転換し、
廊下は広がり、天井も高くなり、窓からは光が差して来たかも知れない。
コランとクロエは全てを失ってなお、愛に拠り所をもとめた。
しかし、愛は、徹底的に、無力だった。

コランとクロエのメインのプロットと並行して、
コランの友人のシックとアリーズのプロットが展開される。
シックは、おそらくサルトルがモデルであろう架空の哲学者・パルトルの
熱狂的ファンでありそのゆかりのアイテムのコレクターだった。
超・熱狂的なコレクター。
アリーズとパルトル繋がりで巡り会いつき合うようになるが、
しかし、そのコレクターぶりに拍車がかかり、全てを犠牲にして、
アリーズにすら見向きもしなくなって、パルトルアイテムを蒐集しまくり、
そして、必然として、あまりに必然的に死を迎える。
アリーズはそのシックを救うために殺人を犯し、また死んでしまう。

思想家・ドゥールズ=ガタリはかつて、
この救いのない現代というシステムにおける唯一の希望は<狂気>と言った。
けれども、狂気、熱狂的になにかに打ち込んでいっても、
恋愛やコレクションに全てを捨ててまで没頭したとしても、
空気は腐蝕性へと変化する。

スピッツ・草野正宗はかつて、
「誰も触れない2人だけの国」と高らかに理想を宣言した。
けれども、どれだけ追いつめられても「2人の国」を死守しよう頑張っても、
自分の主観の強い押し出しをどこまでも続けようと試みたとしても、
空気は腐蝕性へと変化する。

小学校の担任のN先生はかつて、
「一生懸命頑張れば、夢はきっとかないます」と10歳の少年少女へ諭し聞かせた。
けれども・・・
けれども。
空気は、変わってしまうことが、この世の中にはあるのだ。

しかも困ったことに、それが「普通」なのだ、この世の中では。

はあ・・・、すごいっしょ?
現実を「ありのまま」描いてすごい、すごいマンガなのだ。
そして徹頭徹尾、救いのないマンガでもある。
そう、ある意味、あの陰惨極まりない読後感な「アトムの最後」に匹敵するな。

でも、あの「アトムの最後」にもかすかな希望の光がまたたいていたように、
この「うたかたの日々」にも、それは、やはり、あるのだ。
それは、絵、絵にヒントがあるのだ。

岡崎京子の全キャリアの中で、もっとも緻密に丁寧に描かれた絵。
かつてオカキョンの絵をヘタクソ呼ばわりした、
「C級マンガ読み」石原慎太郎でもこの作品を読んだら、
「暗い、つまらん」とは言えても「絵がヘタクソ」とは言えない。
そして構成とコマ割りがめちゃくちゃ前衛的にもかかわらず、
それが破綻しておらず、むしろ効果的にリズムを刻んでいくのが気持ちいい。
「ヘルタースケルター」での一気呵成の筆致、
「ナンバーガール張り」のスピードを感じさせる絵とくらべると、
「うたかたの日々」では軽やかにして繊細な筆致で、
「ジェリー・リー・ファントムちっく」なリズムを感じさせる。

そう、重くない。

ヴィアンの原作には、
「現代における最も悲痛な恋愛小説」というコピーが定着していたらしい。
その「最も悲痛な」エッセンスをそのまま、
90年代の日本のサブカル界のフォーマットに載せようとした岡崎京子。
どかには、その岡崎京子の存在自体が、唯一の救いに思える。

これだけ、陰惨なストーリーを、彼女の熟練の技でもって、
誰よりも、一番、一等、美しく飾っていくこと。
一度読み始めると、途中で投げ出すことを諦めさせるくらいの、
魅力ある筆致、構成、コマ割り、キャラクター。
けれどもそれは逃避ではなく、
原作のエッセンスと分かちがたく結びついていること。
岡崎京子という一人の作家が、この絶望から顔を背けず、
直視し続けたまなざしがついに、
絶望の向こうへ美しさを運び出すことができたという事実そのものが、
いま、21世紀の読者に与えられた、唯一の希望なのだと思う。

そして、岡崎サンは、今も、生きてる。
生きているのだから、この哀しみで身体を射抜かれてなお、
彼女は生きているのだから、私たちはこの上、何を望むのだろう。
岡崎サンは瀕死の淵から、ついに生還したのだ。
腐蝕性の空気にまかれている人間には「腐蝕性の空気」は書けないということ。
このうえ、なにのぞむ?

・・・

岡崎京子入門としては、絶対進めないけれど、
(入門にはやっぱり「リバーズエッジ」や「PINK」がいいと思うけど)、
でも、ある種のヒトに、是非、読んでもらいたいなと思う。

ある種の、というのは、つまり、
あの誰もが小学校の頃、先生に聞かされたであろう「あの言葉」を思い出して、
「なんや、ぜんぶあんなんウソやんか・・・」と、
心の底から途方に暮れたことのあるヒト、
そういうヒトにこそ是非読んでもらいたいと、どかは思うわけです。

なぜなら、そういうヒトにこそ、一番痛い話だから。


2003年08月02日(土) 岡崎京子「うたかたの日々」

ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」を漫画化したもの。
「CUTiE」で1994年から1年間連載されていた作品で、
岡崎ファンの間では「ヘルタースケルター」と並び称されてきた、
幻の作品である。

痛いっす、これは。
読み終わって、ダウナー入る度合いは、
あの衝撃の「ヘルタースケルター」をはるかにしのぐ。
もう、落ち込みまくり、落ち込みまくりにはつおいはずのどかも、
ちょっと、キツイなーと思うくらいの、落ち込みまくり。

・・・でもこれは、岡崎作品史上、もっとも痛いけど、もっとも美しい。

愛し愛されて生きていきたいのに上手くいかない。
それを内省的に描いたら、ただのつまらない自然主義、
私小説的になって、そのコネクションの強さは薄まってしまう。
ヴィアンが、そして岡崎京子が、ひたすら強いなーと思うのは、
この恋愛の「不能性」を、ココロの内面から追い出して、
白日の下にさらけだしていくスーパークール、そうスーパーだ。

つまり、彼と彼女が幸せになれないのは、
廊下に差し込む太陽の光に翳りが差してきたからなのだ。
例えそこに「愛」があっても、世界は腐蝕していくこと。

コランが愛するニコラと初めてデートをするシーン。


  コランの発した情熱の水蒸気が小さなバラ色の雲になり
  彼らをすっぽりつつんだ。
  中に入ると熱くシナモンシュガーの味がしていた。
  (岡崎京子「うたかたの日々」より)


そうして岡崎京子は、じっさいに外から中は見えない雲を描いて、
通りを歩く彼らは雲の下からのぞく足が見えているだけという作画をする。
あまりにマンガ的な、しかし何というリアリティだろう
(大体において、恋愛の実際もマンガチックだからだろーな)。
そして、この後、コランとニコラの結婚式において、
世界の幸せは頂点に達し、頂点に達してしまったからなのか、
もう次の日からは「腐蝕」は始まっていく。
コランの召使い兼シェフのニコラは、それに気づく。


  光があまり入ってこないのだ。
  太陽が当たっている床は、もう以前のように均一に光ってはいなかった。
  ハツカネズミが手で艶のとれたタイルをこすっていた。
  そこだけがピカピカと光を反射していた。(同上)


あくまでも、コランとクロエの内面で、恋愛が、精神が、
負けていくという風には、岡崎京子もヴィアンも描かない。
しかし、それでも包囲網はだんだんせばまっていく。
文字通り「せばまっていく」描写なのだ。
部屋は小さくなり、廊下は細くなり、天井は低くなってくる。
そして、クロエは発病する、睡蓮が肺に寄生する病気だ。


  もう食堂には入れなかった。
  天井と床は一部ほとんどくっついてしまった。
  半分植物性、半分鉱物性のものがたくさん、
  湿った暗闇の中で発達してきたからだ。(同上)


そう、恋愛が追いつめられるときも、とてもマンガチックだ。
実際に部屋でひとりへたり込んでいると、
壁は倒れてくるし天井は落ちてくる、床はくすんでくるよね。
そうして、コランが持っていた街一番の財産はもう底をつき、
彼は不慣れな仕事を、誰よりもぶざまに始めなければならない。
クロエは片方の肺を切除し、もう一方へ睡蓮が転移しているのが明らかになり、
そして、ゆっくり、死んでいく。
教会にクロエの葬式を頼みに行ったコランだが、
司祭の要求するわずかな費用も払えない。


  人足は棺を窓から廊下に投げ出した。
  500Dからの葬式でないと手で運んでくれないのだ。
  しかし彼女はもう何も感じないのだ。
  コランはそう思いもっと泣いた。(同上)


・・・まだ、この後、残酷な描写がもう少し続く。
とにかく、大切なことは、お金が無くなったから、
コランとクロエは幸せになれなかった、ということではないことだ。
それはたくさんある要素のひとつでしかない。
腐蝕性の空気、あの結婚式の翌朝から発動しはじめた、
あの空気のせいである。
その描写は徹底的に精神ではなく形象に肉迫し、
そのことが、いま、これほどに新鮮でかつ、
「逆説的に」リアリティを獲得している。

そして2人は死の間際まで、
お互いがお互いを愛し愛そうと誠心誠意努めていた。


何が悲しいと言って、もっとも、一番悲しいことは、
2人の愛がついに投降しなかったことが、悲しいし、痛い。
あまりに、痛い。


痛すぎる。


そうなのだ。


「愛」がついに、投降しなかった、降服しなかったことが、痛いのだ。
ぼろぼろに打ちのめされても、めった打ちに打ちのめされても、
そして、ついに負けを刻印されてもなお、
2人が投降しなかったこと、それを許されなかったことが、
これほどまでに読者に痛みを強要するのだ。

(続く)


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