un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2003年05月27日(火) レオン・スピリアールト展@ブリヂストン美術館(リターンズ)

リターンズって何やねん、でもリローディドよりましか。
きょう大阪日程を大体消化して、再び上京。
東京駅に着いたら雨もよう、あー、と思ったけどやっぱりも一度行く。
だって、回数に耐えるから、すり減らないから、美は美なんだもん。

スピリアールトにとって、女性とは自分と海の境界に立つ
入り口であり看守のように思える。
そして海とは混沌であり、母性であり、身体性であり、大きく深いもの。
例えば堤防やはしけなどの直線的な構造物を、
画面のなかでめいっぱい線遠近法を強調した構成に配置することは、
結局、そういった人工物の領域の大きさを誇示しつつ、
それでも海の広大さの前にはあくたのチリに如かないことを
逆説的に示すための舞台装置なのだ。
延々続く、不気味に白く輝く堤防の向こうに、かすかに広がる黒い海は、
最初は観る人の目に訴える部分は少ないけれど、
その前に立って茫っとアンテナの感度を高めていくと、
段々その紙の上を占める割合を超えてその黒い海が展示室の中、
茫漠と広がりだす。
人工物であり海への人間の抵抗の象徴としての堤防の不気味な白は、
もはやその不気味さにおいての役目ははたせず、
黒の波間に消えていく。
そこで気づくのは堤防の向こうにかすかに見える街灯の光。
それはあまりにはかなく、あまりに切なく、
象徴と呼ぶにはあまりに直裁的な「その」イメージを象徴する明かりは、
黒い海が広がりを見せるのとは対照的に、後退していき段々消えていく。
明かりが消えてしまった瞬間、鑑賞者は展示室に取り残される。

どこかに救いがあるようには、とても見えない。
そういった不穏な画面のなかに、スゥっと立っている女性でさえ、
鑑賞者に対して何かしらポジティブなイメージをもたらすわけではなく、
むしろその海の混沌の凶暴性を開示する扉としてそこに立っている。
ので、その女性のキャラクターであるとか人格であるとか個性であるとか、
そういったものは全て残さず剥奪されて、ただ、
女性の向こうに私たちが見るのは背景の海の、一番深い、一番広い、
一番いちばん残酷で優しい暗闇、ただそれだけだ。

ガラス張りの屋根の部屋とか、美容室の壁にかけられた外套とか、
黒い大きな瓶に映り込む白い光とか、繊細なハッチングで仕上げた樹木とか、
そんな主題のバリエーションも、全てはその残酷で優しい暗闇と、
そして、それに対峙する画家の、私たちの切ない孤独がテーマということは、
変わりがなく、でも、それは決して退屈ではないし、
ましてこの画家の価値を貶めることは有り得ない。

主観と客観という二つの尺度にむりやり世の中を分けたとして、
主観は一人きりの限定された行き止まりの「ものさし」。
という言説は10%くらいの誤りを含んでいる。
例えば、その10%を証明するのが、スピリアールト。
主観も掘り下げて掘り下げて、自らを切り刻んで傷つけて、
死んじゃう一歩手前までぎりぎり降りていったら突然広がる地平が確かにある。
その地平にたどり着くにはそれなりの犠牲や代償は必然なのだけれど、
例えば、スピリアールトが20代での失恋の果てに手に入れたあの、
青と黒の淡彩による海の表現とは、ありそうでありえない、
広がる地平にたどり着きつつある広がりを、
ズームアウトとズームインを同時に行う視覚の不可能を、
そして優しさと残酷、安心と孤独を、
全てを一気に昇華せしめる表現の端緒であったとどかは思う。

自画像とかもなかなか刺激的で、
どかはシーレのそれと比べていろいろ思うところもあって。
ウィーンとベルギーで同時代に生きたシーレとスピ。
肉へ固執したシーレと、骨を志向したスピ。
面白いなあ。
なんで、いままでちゃんと知らなかったんだろうな。

でもいま、ちゃんと彼の作品に触れられたことは、せめて良かった。
ブリ美の学芸員様、ありがとう。


2003年05月26日(月) '03 Rd.4 FRANCE/Le Mans

きょうは昼から京阪電車に乗って、
淀のターフを右に見ながら、一路京都を目指して、
一昨日のシンポジウムのパネラーも務めてた教授と面談。
ひさびさに緊張したあ、ま、それはそれとして、おいといて。

実家ではちゃんとBSが見られるので嬉しい。
フランスGPを一応生で(タイムラグはあるにせよ)観戦、
WITH 眠い目の父親と、昨晩ね。

フランスにはポールリカールっていう名コースがあるのに、
なぜルマンのこのせまっくるしいちゃちなコースを使うのだろう。
ちなみに「ルマン24時間」で使うコースは今回のGPのコースの
ぐるり外をとりかこむデカいもの。
サーキットが二重になってんだよね、確か。
ポールリカール、昔ランディ・マモラとかガードナーが
すっごいかっこよかったのにな。

さて、そのせまっくるしいサーキットで。
曇天模様の中、レッドシグナルがグリーンに。
カピが水際だったスタート、そしてノリックがやはりスタート上手いっ。
いいよねー、スタート上手ってー、かっこいいよ。
しかし程なく、ロッシくんが余裕でトップを奪い、
コンスタントにアドバンテージをかせいでく。
いつもの独走パターンに陥っていくのを「あーあ」と見てたら、
なんと雨が激しくなって、レース中断。

で、レースはツーヒート制となって、後半戦を再度、
グリッドからスタートすることになる。
完全にウェットコンディション。
で、どかはかなり疑問に思ったことがある。
去年まではレースが中断になったラップまでのタイム差を、
後半戦のタイム差と差し引きして順位を決めていた。
つまり後半戦の見かけの順位はそのまま着順ではなかったのだ。
これは確かに見ていて分かりにくいけれど、
でも一番フェアーな裁定だと思うからどかは支持していたのに。
なぜか今年は中断までの前半戦のタイム差は全てチャラとなり、
その順位だけをグリッドの順番に反映させて、
で、レースはあくまで後半戦のそれで決定することになったらしい。

どかはロッシ贔屓を自認しているけれども、
でも、フェアじゃないよなあと思う。
あれだけアドバンテージをかせいでいたのに、
後半戦はジベルナウのすぐ後ろにテールトゥノーズで着けていたのに、
負けは負けだなんて、おかしいジャンどう考えても。
じゃあ、前半戦のあのロッシの才能の発露はどこにいったのさ?

というわけで勝ったのはウェットコンディションで、
器用なスロットルコントロールを見せたセテ・ジベルナウ、今期2勝目。
別にジベルナウにケチをつけるわけじゃない。
Welkomでの勝利よりもむしろ私はここの勝利のが、
えらいなー、すごいなーと思うくらい。
「大チャンのチームメイト」という肩書きではなく、
「GPライダー」という肩書きで素直に認識できる、ここにきて。
でもね、やっぱジベルナウが悪いんじゃなくて、
FIMはちょっと考えたほうがいいよ、おかしいもん。
いくら「テレビ映り」的に見かけの順位と実際の順位に乖離が出るのが、
マイナスすぎるという判断があったとしても、
ロッシは最初のドライコンディションで、命を削って走ってんだよ。
大チャンの事故からまず私たちが銘記しなくちゃなことは、
危険と背中合わせにスロットルを開けるGPライダーへのリスペクトでしょ?
あの勇気と英知と才能へのリスペクトを新たに意識しなくちゃなんじゃないの?
FIMがテレビ放映権の収入をファーストプライオリティに考えるような、
利権主義に凝り固まってる限り、GPの発展は無いぜ、まじで
(そんな利権主義は四輪のF1に任せとけばいいんだよ、
 GPは、これまでもさわやかなスポーツマンシップの場でいたのに)。

なーんて、あんまし関係のないところに考えが走ってしまうけど、
雨のレースはやっぱり、どかは好きじゃないかな。
ま、天気は選べないし、その与えられた環境の中で速さを求める
ライダーやチームの姿勢は美しいのだけれどね。

ノリックは健闘したと思う。
真矢王子は、んー・・・がんばれ、ちょっと辛いけど、がんばれ。
芳賀サンはおめでとうだと思う。


2003年05月25日(日) G1オークス(優駿牝馬)

きょうは学会最終日@関学、ちゃんと出席した。
途中まで HONDA S2000でドライブ、
阪神高速をスカッと気持ちよくとばしたり。
着いたらたくさんプレゼン聞いて、
パリの万国博覧会とか、中国美術の欧州における受容とか、
イサムノグチの日本における「伝統論争」への影響とか、
楽しかった。
ま、それはそれとして、おいといて。

牝馬クラシック、最高峰オークス!

ま、西ノ宮の丘の上にいたからもちろん府中のレース、
実況中継も見られへんかったから、臨場感は無かったけど。
馬券は、迷いに迷った末、超ウルトラ大本命の、
武豊 ON アドマイヤグルーブを外して買うことを決心。
なんか、来ないと思ったんだよね、
来たらかっこいいなと思ったけど。

で以下の3つを、馬単ボックスで買うことに決定。

3 スティルインラブ(幸):皐月賞馬・強いし来るだろ・2番人気
12 ヤマカツリリー(アンカツ):騎手が理由・勝ってほしいな・7番人気
13 マイネヌーヴェル(ヨコノリ):騎手と末脚・来るかもね・4番人気

スティルはカタい。
問題は相手だけど、んー、アドグルが来たらまあ、拍手でおめでとうだな。
でも、今回はアンカツかヨコノリが意地を見せる気がしたの、ね。
で、気もそぞろに(・・・おい)発走時刻を関学の教室で迎える。













←関係ないけど、
 関学のお昼休みに
 出会ったヒトたち
 「お。発走かい?」



着順を確認したのは、帰宅して夕食を食べたあとで、PCをたたいて
「おっスティル、来た!」と思った瞬間「チ、チ、チューニー!?」。
2着が13番人気のチューニーが来たらしい。
思わず、笑ってしまう、無理だ、これはとれん。
ヤマカツが4着に来てた、もすこしだったなあ。
大本命アドグルは7着に沈み、武豊は2chの競馬版でたたかれまくり。
惜しいなあ、私。
でも、すこし、馬券、上手くなったよね。
片方は分かるようになってきたもん。
あと、少しだわ。

余談だけど、超ウルトラ大本命が敗れたことで、
府中のスタンドのマナーが悪かったらしい。
勝ったスティルがスタンド下から退場しようとしたら、
馬券や新聞をジョッキーと馬に投げつけた輩がいたらしい。
最低だ。
まじでむかつく。
それでスティルは怯えちゃったらしい。
そういうヒトは、馬券買おたら、あかんて、ほんま・・・

クラシック戦線、どかは桜花賞も皐月賞もオークスもあかんかった。
しかし、次はとうとう、東京優駿!
日本ダービーだあー。
全ての敗北は、来週の10Rのため、ただ、それだけのために。


2003年05月24日(土) 学会@関西学院大学

「久しぶりに来たなあ」
と、感慨にふけるのを止められない。
だって、このまえに関学来たのって、入試の時やん。
つまり、阪神大震災の直後に来たんだよな。
あのときはまだ最寄り駅の甲東園まで阪急電車、走れなくて、
そんで手前の門戸厄神で降りて、延々歩いたんや、確か。
でその道すがらに「全壊」とか「半壊」という言葉の意味を知った。
黄色い給水車にバケツ持って並ぶ列の横を、
ポチポチ、丘を登ってこのキレイなキャンパスを目指したんさ。
んー、まさか8年後にこんなカタチで再び訪れることになるとわ。
国内屈指の美しいキャンパス、緑に白いチャペルが映えて、
会場になってたホールの壁も真新しい白で、でもそれは、
純粋無垢な昇華ではなく、逆。
震災のあとに立て替えられたその白のしたの、
グレーの記憶の、沈殿。

でボスに勧められて、この美術史の学会に参加することが、
今回の帰省の理由、目的因(最近アリストテレスかじったから)。

昼過ぎから参加。
「ターナーの風景画の地誌学的研究」の発表と、
この全国大会のメインイベントであるシンポジウムに出席。
テーマは、「美術と修復」。

いろいろ、思ったり考えたけど、
なんとなく、修復ってさあ、カウンセリングと似てるよね、臨床心理の。
傷んだ絵への対処ってさあ、傷んだヒトへの手当と何だか、
かぶったなあ、修復師サンとか美術史家サンの話聞いてたら。
やみくもに絵をキレイにすればいいってもんじゃなく、
昔の状態にむりやり戻せばいいってもんじゃなく、
そんなん、トラウマなんて消せるもんじゃないンだし、
それを消そうとして処置することは不可能じゃないけど、
でも、後々、ぜったい何かしらのひずみを生むし。
しかししかし、一方でその「トラウマ」も綺麗であれば放置しましょう。
っていうのも、なんだか妙な話になってくるし。

「あなたの、その傷ついて陰の差した横顔が好きだから、
 しばらく落ち込んでいてくださいね、お・ね・が・い」

なんて、ぬかすカウンセラーがいたらはったおすよな、まず
(でも絵画の場合、これと同じコンテクストの言説はまかりとおる)。
それはただ、回復のために現状見守るというのはありであったとしてもだ。
修復家やカウンセラーの主観がいたずらに入ってはいけない。
クライアントにとっての「ほんたうのしあわせ(by宮沢賢治)」を
希求しなくては成らない。
でも、じゃあ、ヒトや絵画の幸せって、何?



↑関西学院大学、正門から

時間は流れるのではなく、そこに静かに積もっていくことがある。
いや、本当は、流れているようにみえていても、
全部ちゃんと、そこにあるんだわ。
水面の下の群青のフィルターに隠れて、ちゃんとあるのに、
みんなそこにフィルターがあることに、気づかないふりをする。

最初から、何も失われていないし、
そしてもしかしたら、最初から何も、与えられていなかったのか。

きっとみんな、そう。

修復とカウンセリングについて、思いながら、
一方で、8年前にまさにこの場所で感じた余震のゆれが、
ふと、体感として脳幹をよぎった。


2003年05月23日(金) レオン・スピリアールト展@ブリヂストン美術館

青山でイタリア語の「おけいこ」出たあと、
そのまま東京駅に向かって新幹線に・・・
と思ったけど新幹線混みこみやったし、ちょうど八重洲に近いし。
というわけで、気になってたブリ美に行くことにした。
したら・・・ツイてる、わたし、大当たりー!!

レオン・スピリアールトとは20世紀初頭のベルギーの画家。
割とスタンドアローンな感じだったらしい。
どかはもともと、ベルギー象徴主義は大好きだったし、
クノップフとか超ラヴ☆って感じだったし、
見たことはなかったけどきっと気に入るだろうなって思ってた。
ら、気に入った、すごい、好き、面白いこのヒト。


  平凡な日常風景に自らの孤独や不安を投影し、
  それを神秘的なものに変貌させるということ
  (レオン・スピリアールト展ちらしより)。


と、いうリード文はとても的確でその通りだった。
でもいろいろスタイル的な変遷がかなりくっきり表われたヒトで、
それぞれの時代で紙の上に載ってくるイメージは全然違うんだけど、
でも、スーっと一貫した「祈り」が浮かび上がってくるのが、良い。
この「祈り」は、それこそ平田オリザ的不条理への不安、
舞台「隣にいても一人」で気づいたら「夫婦になってた」二人が、
気づいたら離婚してないといいなーって切なく見詰め合ったあの沈黙。
・・・って感じなんだけど、なんだろう、
ほんっとに強力に、囚われてしまったよ、私、久しぶりに。
もっと、何かある気がするんだけどな、
うまく、、、書けない、悔しいな。

確かに、具象と抽象の間に咲いたあだ花だわ。
岸壁に咲いたすみれが何かしらの「祈り」を
感じさせずにはおらないように、
スピリアールトの作品もその「ありえない」座標に
ゆれながら沈下する水泡だ。
基本は具象なんだけど、そこに抽象を貫入してきた瞬間、
そこに摩擦熱が発生する変わりに、すぅっと温度が冷えるんだよね。
そう、そんな感じなんだ、それが、切ない。

それ以外にも、展覧会として、
学芸員の仕事がとても素晴らしいと思った。
展示の構成や、導線の張り方、説明板の内容など、
渋谷Bunkamuraのザ・○ュージアムのそれとは明らかに質が違った。
最後にここに来たのって、確か3年前やったけど、
久々に見る常設展も楽しかったなあ、いいじゃんいいじゃん。

しかし・・・。
ミレーは満員御礼で、こっちにはそれほど入らない。
ゆったり観賞できることはありがたいけど、
・・・寂しいことだわ「愛と資本主義(by岡崎京子)」、
と、思いつつ東海道新幹線は西へとひた走って。


2003年05月22日(木) 青年団「忠臣蔵 修学旅行編」

きょうは大変だったー、徹夜明けで、
朝から町田までレポートを届けに行ったり、
もう、ヤーっ。
だったんだけど、夜、駒場に芝居を観に行く。
午前に電話したときはキャンセル待ちにしかならない、
っていわれてたんだけど、何とか当日券ゲット。
というか、平日夜20時30分開演の芝居が、
なぜにこんな盛況なのだ、青年団もすごいな。

さて、ここんとこ展開中のパロディシリーズの一つ。
以前の「ーOL編」と戯曲の内容はほとんど変わらない。
会話もほぼ、そのまんま。
変わったのは、キャラクターの設定が、
<OLやってて昼食中の赤穂浪士>から、
<修学旅行に来ている女子高生で寝支度に入りつつな赤穂浪士>
に変わっただけ、うん、「だけ」。

「ー修学旅行編」もだから、
いきなりお家お取りつぶしの憂き目という不条理に際して、
日本人がどういう風に集団として意志決定を図ることが出来るのか。
というのが、根底に流れる基底音なテーマ。
ってか、やっぱ、面白いっす、笑ったの。

例えば「討ち入りか籠城か」って議論しつつ、
なぜかまくら投げが始まったり、
「仕官の道を探りたい」とこだわる浪士もいて話まとまんないねー、
って言いつつウノやってたり。


  「ってか、やっぱ切腹かなー、結末はー」

  「ですよねー、あ、ドロォツゥ!」

  「切腹やだなー、リターン!」

  「あーなんだよー」

  「あ、大石サマ最後の一枚、ウノ言ってないっ」

  「キャー!!」

  「ヤベッ、先生だっ(みんな一斉に布団にもぐりこんで寝たふり)」


みたいな、そんなイメージ。
かと言えば、お殿様への思い出を語りつつ、
机にお菓子をひろげてボリボリ食べたり、
キュウリを輪切りにして顔パック始めてみたり、
とりあえず「泣いとくか」バリに泣いてみてデジカメで記念にパシャ。
とかね、とにかく、
忠臣蔵と修学旅行がほぼ交わらず並行に進むんだけど、
なんとなく、ストーリーは破綻していないところが面白いんだな。

でも、どかは比べてみて「ーOL編」のが優れた舞台だと思った。
役者の質を問えばすぐそうなるんだけど、
脚本と演出プランから見ても、やっぱそうかなと思う。
「ーOL編」では明らかに暗示的な展開が、
パロディにもリアリティを与えていたところが、
卓越した技術だと舌を巻いたんだ、どかは。
例えば<お家取りつぶし→会社倒産>とか、
<次の仕官の口を探す→再就職目指してハローワークに登録>とかね。
で、忠臣蔵とOLの世界が基本は並行しつつも、
段々重なって走り出して、それが不思議な説得力と緊迫感を出してた。
忠臣蔵と修学旅行生の世界は、最後まで並行線をたどって、
その距離感に楽しみを集約させたのだから、
基本に同じ戯曲を使っていてもここまでバリエーションを出せるのかと、
どかは結局、オリザさんに感心させられる。
好きなのは「ーOL編」なんだけどね、でも今回の大石サンも楽しかった。
なんか、ミッキーのあの耳を頭に着けながら、
「忠欲すれば孝成らず、孝欲すれば忠成らず」とか言っちゃうんだもん!

しんみり的な後に残る情感は「ーOL編」と比べると稀薄だけど、
これはこれでありだと思った、青年団一流のパロディ。

そうそう、駒場アゴラで大学の寮の後輩で、
いま、役者としてがんばってるおかだクンとバッタリ会って嬉しかった
(参照→「ピノッキ王」)。
二人で帰り道、この舞台の感想をチロっと話したのが楽しくて。
やっぱ「職業役者」と「なんちゃって舞台フリーク」の感想は、
かなり違うなー、うん、面白い、あの視点は。


2003年05月18日(日) 大チャンお別れ会@Honda青山ビル

朝からぶぅを連れだって青山のホンダ本社ビルへと向かう。
加藤大治郎の「お別れ会」のため。
結構、並んでたなあ、朝の11時から開場だったのだけれど、
少し予定より遅れて12時前に到着、
すでにビルを十重二十重に囲む長蛇の列。
最初は、何かの冗談かと思ったよ、
だってごっつかったんやもん行列。

でも、少し並び始めて、なんか納得がいった。
女の子のファンはもちろん、男性のファンも手に花束を持っていたり。
みんなビルの周りをぞろぞろすることに、
若干の疲れはにじませてたけど、でも、
イライラしたりとか、そんなことは無かった。
老若男女、ほんっとに幅広い年齢層のファンがみんな、
それぞれ自然に気持ちをひとつにしていた。
粛々としてたけど、暗くない、そんな行列。

一階のフロアは大チャンの歴代マシンやウェア、
パネルなどのディスプレイが展開されて。
ジィっとマシンを見つめる子供を抱いた女の人の表情に、
キゥゥっとなるどか。
子供に、伝わるのだろうか。
伝わればいいなあ、たったひとつのこと。
まだビルの外には行列が何百メートルと続いているのは知っていても、
なかなかディスプレイの前から離れられないみんな。



↑中央がチャンピオンマシンになるはずだった、栄光のRC211V・・・


二階が献花する会場となっていた。
ここに来ると、ざわめきもスゥっと静まり、
手に持つ花にみんな思いをこめつつ自分の順番が来るのを待つ。
どかは涙をこらえるので精いっぱい。
でも、ちゃんと自分がここにいて、この花を手に持っていることを、
心底、良かったなあと思えて、暗く沈まないで、
真っ直ぐ、大チャンの遺影を目に焼き付けることができた。



↑花束に囲まれて、マシンとウェア


・・・その後、事故調査委員会からの報告は入らない。
進まないのだろうか、検証は。
ちゃんとした結果報告が入るまで、
何としても私たちはこの事故のことを風化させてはならない。
もすこし、待っててね、大チャン。
ちゃんと、いろいろちゃんとするからね。

結局、私はお別れできないのかなー。
昔から未練がましいとは言われてたけど。
ダメなんだよね、気持ちの切り替えが信じられないくらい下手なんだ。
でもダメはダメなりにできることがあるはずだから、
私はこんな心の持ちようで、あの瞬間に対峙していきたい。

そう思いながら、青山一丁目の駅へと降りていった。

ヨーロッパを転戦中のホンダグレシーニ監督のグレシーニ氏も、
献花に来ていたらしい。
またこの日、大チャンの前に花を持って立った人数は、
9,000人にも及んだらしい。
最近あんましない、ちょっといい話、でしょう?


2003年05月17日(土) '03 Rd.3 SPAIN/Jerez

上京中のぶぅと深夜、ビデオにて観戦。
やっぱりコンチネンタルサーカスが雰囲気がいい。
GPはヨーロッパの文化であり宝物なんだなと実感。
加藤大治郎がかつて得意としたコース、
並みいるスーパーマシンRC221Vを戦闘力で劣るNSR500で伍して、
表彰台二位をゲットした印象深いコース。
加藤のMOTO-GP初勝利の夢を打ち砕いたのは、
ヴァレンティーノ・ロッシ。
今年も、つおかった。

ロッシはだんだんシュワンツっぽいライディングだなと、
コーナリングシーンを観るごとに思う。
カーンと突っ込んできて、カーンと立ち上がっていく、
その鮮烈な切れ味、ダイナミックな挙動、
乗れてるときのケビン・シュワンツみたい。
しかも、シュワンツみたいに転けないんだよな、
それって無敵じゃん。

二位のビアッジは、どか、応援してるんだけどな。
ってか、イタリアントリオは、やっぱみんな好き。
でもロッシ強すぎるからカピとビアッジは応援したい。
バロスやチェカ、ジベルナウが勝つよりも、
イタリアンのこの二人が勝つほうが嬉しい。
だって、ずーっと観てるんだもん、ワタシ、GPを。
この二人は超ベテラン、思い入れもあるさ、好悪含めてね。
ビアッジのライディングは超・スムース。
ほとんどブレが無い、マシンのように正確なライン取りで、
毎週毎週、同じポイントをおさえて通過していく。
ロッシが結構自由なラインで勝負できるのとは対照的。
でも、ロッシのツッコミ&加速に対抗する、
ビアッジのコーナリングスピード。
あとコンマ数秒ラップタイムが速ければロッシに絡めるんだけどな。

リタイアのカピロッシ(通称カピ、ワタシだけかこの呼び名)?
純正イタリアメーカー・ドゥカテイ(通称ドカ)で、
気迫溢れるライディング。
クールなルックスから対照的にとても情熱的なライディングをする。
でも、あの暴れん坊なのにナイーブなドカだから仕方ないのかしら。
乗りこなすためにはあそこまで無茶しなくちゃなのかしら。
でも、このレースで唯一ロッシを追いつめたのはカピだと思う。
カピがスタート直後のあのスパートを見せなかったら、
ロッシはのうのうと最初はクルージングしてただろう。
一気にチャンピオンの肝を冷やして一瞬でも追いつめたのは、
カピだけだった、惜しかったね、えらいぞう。

宇川、どうでもいい。

真矢クン、とりあえずの入賞、おめでとう。
とりあえずヤマハで先頭に立とう。
バロスに勝とう、とにかく。
そこから、全ては始まるよ。
ヤマハのエースになって、ロッシに勝負を挑もうよ。
真矢クンなら、きっと、勝ち負けのシーズンを迎えることが、できるさ。

あと、ホンダ。
なぜに後釜に、原田に依頼しないのだ。
解せないなあ、あのメーカーは。
宗一郎に聞いてこいよ。
勝つんでしょ、勝ちたいんでしょ、だったら原田でしょ
(むちゃエラそうね、ワタシ、でもそうでしょ)?


2003年05月15日(木) 扉座「アゲイン('03)」

副題を「怪人二十面相の優しい夜」と言う、
この劇団の、昨今のもはや代表作、再々演。
どかはちょうど二年前に再演の舞台を観ていて、
それがあまりにも美しい思い出として残っていたので、
再々演、キャストもあんまし変わってないだろうけど、
舞台は生もの、いいや、観たいのお。
と言ってチケットを獲った、同伴は仕事帰りの元同僚、
かまぽん、千秋楽、ソワレ@紀伊國屋サザンシアター。

再演から、細部にいたるまでほとんど変わってない、
純粋な再々演だった。
ストーリーは、二年前のレビューに既出なので、割愛。
老いた怪人二十面相が復活するある夜を切り取った、
美しくも切ない、ファンタジー。
再演の印象が強烈に残っていたため、それほど目新しい発見や、
驚きはもはや、なかった。
でも、近藤正臣が怪人としてマントをまとってシルクハットをかぶる。
それだけで既に、上質の舞台として成立してしまう、反則だわ。
蛇足だがどかは前から5列目中央の一番いい席、
しかし四方をぐるりと正臣親衛隊のおばちゃんに囲まれ辟易。

でも、わかるな。
おばちゃん達の気持ち。
だって、格好いいもんね、かつてのアイドル、近藤サンってば。
あの脂っこい、ねっとりした、演技ってばさ。
そしてその「かつてのアイドル・近藤サン」の復活と、
「かつてのスター・二十面相」の復活がダブって見えてくるところに、
この脚本の卑怯さがあり、そしてその卑怯さ故の吸引力は健在だった、
またも巻き込まれる。
あれだけもったいぶって間をとりまくる演技、
普通ならはったおされるけど、近藤サンが二十面相をやるという、
そのシチュエーションでのみ、この地球上で成立する。
そうなんよ、これはあて書き100%の、
近藤サンの華を舞台上いっぱいに顕現させるためだけに書かれた脚本、
集められたキャストとスタッフ、
繰り返されるダンスと演技の稽古なのさ、徹底度はいさぎよし。

前回のレビューで、扉座とキャラメルボックスを分ける一線は、
きわめてはかなく薄いと書いた、紙一重だと。
その境界線がだんだんくっきり見えてきた気がする。
「アングラに挫折した横内サン」は一応、やっぱり、
アングラの「身体性=痛み」を一度通過しているから、
どれだけ美しいセリフを書いても、そこにはノイズが入ってくる。
そこに逆にノイズがあるからこそ、美しいセリフが発する光が、
またたいて切なくきらめくのだ。
キャラメルもパッと聴くと耳障りのしないキレイなセリフだけど、
そこには一切、ノイズが入らない。
のっぺりした平板な美しさだ、光の波動が、無い。
白熱灯のベタな光線と、シリウスが発する切ない光線。
演技の質も、演出のつけかたも、脚本と同じように、
似ているけれど明らかに非なるモノなのだね。
野田秀樹やつかこうへい、松尾スズキは共感装置のチューニングを、
端から狂わせたものを舞台にのっけてくる。
それと比べると、キャラメルと扉座は、
明らかにそのチューニングを観客に合わせてくるから、
かなり脱力しながら開演を迎えられる。
でも、扉座のチューニングは上記のように、途中で少し、
ズラしてくる、観客にも気づかれないうちに。
それが扉座を、予定調和のゴミ捨て場からかろうじて救う蜘蛛の糸。
だからどかは、扉座が大好き。

さて、再々演は、どかにとって、再演よりもちょい、
パワーダウンかしら、やはし。
それは二回目の観劇だからではなく、
キャスティングの微妙な変化に拠るものだと思った。
明智小五郎が、山中たかシから佐藤累央に変わった。
でもこれはまだ面白かった、累央クン、切れてたし楽しかった。
怪人の付き人・蛭田も当然、佐藤累央ではなく若手の杉浦大介クンに。
うん、これも、ちょっと線が細くてコンプレックスが減退したけど、
でもより切なく悲しい蛭田になってて、良かった。
問題はねこ夫人だよー、
どかの中で最高ランク女優の伴美奈子の当たり役だったのにー。
今回は仲尾あずさサン。
んー悪くないんだけど、伴さんより随分スタイルが良くて、
黒いドレスを身にまとってすらっとしたプロポーション、
立ち姿はたいそう美しかったし、声優をやってただけあって、
お声もなかなか。
でもねー、伴サンの御声はそんなもんではないんだよ。
怪人を30年間支え続けた慕情を「ニャオゥ」という鳴き声一つ、
それでサザンシアター全部をキゥゥっと持ってッちゃうだもん。

10の情感の振幅を10コにしか使えない仲尾サンに対して
(いやこれもすごいんだけど)、
10の振幅を0.5刻みで20コにまで刻んで表現できるのは伴サン。
その細やかさでおおざっぱな(失礼)怪人を支えて、
その華は最大顕現に達するんさ。

でも、それでも充分、観に行って良かったあ。
扉座って千秋楽のサービス、すごいんねえ。


2003年05月13日(火) '03 Rd.2 SOUTH AFRICA/Welkom

苦行みたいだな、まるで。
でも、見た、ビデオで。
なんかいま、ここでGP見るのやめるのは、
よく分かんないけど叱られそうな気がした。
誰に?
大チャンに、かな?
分かんない。
けど。

最終のリザルトはすでにメールで教えてもらって、
知ってたんだけど。
大チャンのチームメイト、ジベルナウが勝ったと聴いたとき、
でもどかは素直に祝福できなかった。
なんか、ありがちな展開だなーって、
鼻白む感が、拭えなくて。
でも、こう感じてしまうのって、
どか自身がもう、腐ってるってことだよね。
自分の内面が、もうくたびれきってるから、
外からの情報が素直に解析されない。
よしもとばななは正しいな。
「いつも負けは内側からこんでくる」ものだ。

と、思ったのはレースを全部見てからだった。
やっぱり半信半疑で見始めた。

スポットで参戦するノリック、
スタート失敗しても追い上げる「王子」真矢クンを見てると、
なんだか微笑んでしまう、ああ、まだがんばってるんだなって。
でも、知らず知らずのうちに、目が探している。
ゼッケン74番を追って中継映像の中に、
いつのまにか目が泳いでしまって、
それではたと気づいて、涙がにじむ。

スーパーバイクチャンピオン、今季から参戦したベイリスの
荒っぽいライディングが妙にいらだたしい。
で、またそんなハンパなブロックに手間取っているロッシにも、
どうしようもなくいらだってしまう、
「そんなとこでぐずぐずしとるライダーちゃうやんけ、お前」。

で、その間にジベルナウが逃げて、はあー。
と思っていたら、久々の衝撃が待っていたのはラスト5周。
ベイリスが自滅してロッシが、
ビアッジとジベルナウを追い始めてから。
鳥肌が立った。
ホントに、この人、本気で走ってると否が応でも認めざるを得ない。
めちゃくちゃ、速い、速いよ。
もう中継映像のロッシのコーナリングは、
全コーナーで鬼気迫るオーラがばしばし出ていた。
誰よりもブレーキングを遅らせて、誰よりも早くアクセルを開ける。
これをやってるだけなんだけど、
これをやることのなんと困難で究極なことか。
ロッシのその走りを見ていたら、
GPライダーへの敬意を忘れていた自分が恥ずかしくてならなかった。

ジベルナウはギリギリ逃げ切った。
そしてロッシはみるみる差をつめて最終ラップの
ドッグファイトに持ち込んだけれど惜しくも二位。
三位はビアッジ。

・・・やはりヴァレンティーノ・ロッシは、究極だ。
どかの心を、一瞬、全て持っていってしまった。
同じところをグルグル回るだけのスポーツ、
けれどもそのベクトルは一直線、ビッと屹立する。
その加速度、その狂気、その真空。
一瞬だけ、欠落に惑うことを忘れさせてくれた。
でも、少なくともここには真実があって、
きっと、もうこれからGPを見るたびに、
どかはこの欠落を常に感じ続けることになるんだろうけれど、
それはもう仕方ないと思った。
・・・観念、するよ、もう。

この寂しさと当分つきあい続けて、でもそれと同時に、
残ったライダーが見せてくれるこの真空の在りかを、
しっかり把握していければいいな。
GPライダーもそれぞれ同じように欠落を抱えているんだもん。
抱えながら、でも彼らはアクセルをフルスロットルすることでしか、
自分の身体を未来に運べない。
じゃあ、そのフルスロットルを、同じように欠落を抱えながら
見つめていくことしかないじゃないか。

ロッシの速さは尋常じゃない。
尋常じゃない、かなしみなんだ。
それはきっと意識すらされていない、
意識と身体のあいだにある真空の、狂気にそっと寄り添う、
さびしいさびしいかなしみなんだ。

そのロッシに先着したのは、やっぱりちゃんとエラいよ。
ジベルナウ、おめでとう。


2003年05月11日(日) G1NHKマイルカップ

府中のG1シーズンがいよいよ始まる。
マイルCを皮切りにオークス、日本ダービー、安田記念・・・
蹄の音に馬群のスピード、にぎりしめた「勝馬(注:競馬新聞)」、
聴覚視覚触覚を溶かしてしまうここは、そう、一大テーマパーク。
朝から勉強会に出てドブレのメディオロジーについて、
なんやかや話し合ってから来たから、
ちょうど、身体性だの偶像だの光源だの、
タイムリーに単語が符合していく。
歴史の最先端にして根元に位置するここは、そう、サンクチュアリ
(アホか?)。



↑パドックにて「遅れてきたルーキー」アンカツonユートピア


時々小雨けぶり、でも馬場は良のまま、緑に光る、まぶしいターフ。
パドックに行って発走直前のお馬さんたちをチェック。
雨に濡れて、馬体が光る、とにかく気高く美しい。
パドックの周りに集まる群衆、でもお馬さんを驚かせたら、
レースに響くから、みんな息を押し殺して、静かにざわざわ。
一種異様な雰囲気。
パドックまでチェックして気になる馬番は・・・

2:ヒューマ;藤田(なんとファインモーション嬢の甥っ子!)
3:エイシンツルギサン;横山典(NGTの勝ち方と鞍上ヨコノリ)
8:サクラタイリン;蛯名(3番並みの末脚に鞍上エビナ)
11:ユートピア;安藤勝(もはや説明不要)
12:ゴールデンキャスト;武豊(同上)
18:トーセンオリオン;オリヴァ(なんとなく、名前好き)

でも、なんか散らして買うのもやだし、
「勝ちそうな馬」じゃなくて「勝って欲しい馬」で選んじゃう、
先週の教訓が生きてないどか。
というわけで馬券はシンプルに!
2・11・12番の馬連ボックスにした、三連複はナシ。



↑同じく「日本競馬史上最高ジョッキー」武豊onゴルキャス


さて、どかはメインスタンド、ゴールまで100メートル地点に陣取る。
・・・15:40、発走、マイル戦1,600m、あっという間に決まっちゃう・・・
府中の直線は日本で一番長い540m。
あんまし長いから、最後に脚を残していた馬が、有利とされる。
故に、4コーナーを回っても、有力馬は軒並み後方待機、
ゴールデンキャストなんて、先頭ウィンクリューガーから、
10馬身以上遅れていて「おいおい、大丈夫?」。

それがさあ、大丈夫じゃなかったんさ、全く・・・
ウィンクリューガーは必死に逃げる、
で、有力馬たちはそろそろ「あ、やばいの、もしかして?」などと、
やおら鞭を入れて追い出すけど、雨に濡れるターフは、
イマイチ、その加速度を地面に伝えない。
で、ズルズル、ズルズル、ズルズル、あ、ゴール。
って、おーい!!
2着は唯一気概を見せた「有力馬」、エイシンツルギサン。

ユートピアは、あと200m早く追い出していれば。
ヨコノリのエイシンツルギサンも、あと100m早く追い出していれば。
なんかみーんな、後方一気を狙うんだもん、
あれって、失敗するとかっこわるいよぉ。

馬連からして万馬券決着となった今レース、どかのいたスタンドは、
わりと阿鼻叫喚気味な混乱でもって、ズルズル、ズルズルを見送った。
勝ったのは16番ウィンクリューガー鞍上武幸四郎。
幸四郎クンは、武豊の弟クンだ。
ゴール直後はブウブウくすぶってたスタンドも、
幸四郎クンがウィニングランでメインストレートに戻ってくるころには、
「馬券外したけど、良くやった、コウシロー」的歓声に満ちていた。
なんかジョッキーも嬉しそうだったし。



↑「武幸四郎クンとウィンクリューガー、喜びの図」


某解説者は、決着タイムの遅さに「まれに見る凡レース」と
切って捨てていたけれど、そんなん自分が獲れなかったから、
そう言ってるだけちゃうのん?と突っ込んでしまう。

幸四郎クンに気持ちよく拍手できて、
みんなで「よくやったー」って叫んであげられて、
こういうことの、気持ちよさは、忘れちゃいけんよ。

しかし、ああ、また・・・


2003年05月10日(土) 青年団「隣にいても一人」

「ヤルタ会談」のあと、少しインターバルおいて観たふたつ目。
これは70分ほどの舞台、オリザお得意の穏やか不条理劇。
ある意味、パロディと言えないこともない。
セリフに出しちゃうところがオリザさん一流の「照れ」なんだろうけど、
「カフカのまねごとしてんじゃないよ」って。
もちろん21世紀にいきなり羽虫になってもしかたないわけで、
この舞台でいきなりなっていたのは「夫婦」。
存在の不条理ではなく、関係性の不条理を問うたわけだねー。
もともとカップルでも何でもなかった知り合いの男女が、
朝起きてみたらいきなり「夫婦」になってしまったら。

・・・青年団の舞台には、緞帳は似合わない。
逆に、つかこうへいの舞台には、緞帳は不可欠だ。
それは「浸透圧」の問題。
つかの舞台は圧倒的に浸透圧が高いから、
開演前には緞帳でそれをシャットアウトしとかないと、
客入れどころじゃなくなってしまう
(一方で開演後は、そのモル濃度が急激に変化させることで、
浸透圧のかかりかたが激変する、それがつかのドラマツルギー)。
逆に、平田オリザは浸透圧を下げて下げて、
客席と、もっと言えば、劇場の外の世界の実際と、
完全に連続した空間を創出したいから、緞帳はジャマでしかたない。
けれども、この脚本は不条理劇。
外の実際と連続したところに不条理をおとすことで、
一体何が見えてくるのだろう?

いきなり「夫婦」になってしまった二人のそれぞれの兄と姉が、
知らせを聞いて訪ねてくる、半ば呆れながら。
実はこの「夫婦」の兄と姉は結婚していて実際に夫婦である。
しかしながらこの実際の夫婦は離婚するところだったという設定で。
実際に夫婦だった兄と姉は、いきなり「夫婦」になった弟と妹に、
「いいかげんにしなさいね」と諭すけれども、
「夫婦」な二人は「もう仕方ないんだよ」としか説明できない。
けれども会話の中で立ち上がるのは、
兄姉夫婦の「離婚」も、やはり不条理な出来事としか言えないことや、
他人には他人のことを理解することなどとうてい出来ない当たり前具合。
この辺の不条理が、ぐるーっと回転して、
実際と虚構が気づいたら裏表になっていくのが、
滋味溢れるふっつーの会話、穏やかなよた話やグチの中に見えてくるのが、
「青年団クオリティ」で楽しい、さすが、役者も、ほんっとに上手い。

この不条理さを兄と姉に分かってもらおうと必死になっていたのは、
いきなり「夫婦」になった弟と妹。
でも、弟と妹こそ、一番、この不条理に飲み込まれる不安におびえるのは、
やっぱりこれも当たり前具合な感じ。
もはや、個人個人の知覚や想像力なんてたかが知れてる限界にあたっていて、
全てのことはまだ起こっていないけれど、
全てのことが起こったとしても何ら驚くに値しない。
そんな世の中だ。
でも、驚きはしないけれど、それでも人間は弱いし辛いし、
不安に怯えてしまうのは当然で。
じゃあ、じゃあ、どうするんだよー。
・・・という現代人の底抜けに明るいどん詰まり感が70分に結晶。
登場人物は4人で、テーマもほぼキメ打ちで絞り切ってるから、
その分、瑞々しいすっきりした観劇後の印象。
青年団本公演後の、あのインパクトは無いけれど、
やはり時限爆弾が、帰路で、そして自室に戻ってから
パンパン爆発するのが聞こえてくる。

ラストシーン、兄と姉が帰って「夫婦」になった二人は寝支度に入る。
当面はこれが「初夜」ということになり、さっき兄に囃されたりもしたけれど、
実際どうすればいいのか、二人はかいもく見当がつかない。
つかないんだけれど・・・


 「あたし・・・歯、みがくね」

 「ああ、うん・・・パジャマ、おれ、着替える」

 「ああ・・・はい」


っていう二人の「可愛らしい」会話を、私たちは笑うのだろうか。
岡崎京子はいみじくも語った;「笑いは叫びに似ている」。
そうして二人はそれぞれ上手と下手にはけていき、終幕。
緞帳は下りない。
観客はでも、ああこれがラストシーンなんだねとなんとなく悟る。
この「悟った」一瞬、浸透圧がグラッと動く気がするこの瞬間が、
どかは青年団を観に行く理由なんだと思った。


2003年05月09日(金) 青年団「ヤルタ会談」

本当は5/10の土曜日に観た舞台なんだけど、
便宜上、ここに書いてしまおう。
35分ほどの短い公演、またしてもパロディ、
まあ、ほとんど全ての芸術表現はパロディだと思うけど、
言葉の強い意味として、まっとうなパロディ。

舞台には畳が引いてあって、その上に不格好な絨毯、
その上に椅子が三脚とティーテーブル、
椅子の背もたれには大きくひらがなで、
「すたーりん」「ちゃーちる」「るーずべると」
と書いてあって、まず登場したのは、
すたーりんさん・・・
先だっての「忠臣蔵OL編」を観ていたから、
もはや驚かないけど、でも笑っちゃう、楽しい。

<ヤルタ会談>1945
ヤルタ協定を成立させた第二次大戦中の連合国主要会談の一つ。
米ルーズヴェルト・英チャーチル・ソ連スターリン3首脳が、
独の無条件降伏と米・英・仏・ソの分割占領計画、戦犯の処罰、
ソ連の対日参戦と千島樺太領有、旅順租借権の回復、
南満州鉄道の中・ソ合営などの秘密協定を決定。
ヤルタはクリミア半島の都市(「世界史事典」数研出版)。


という歴史上のイベント、ヤルタ会談を再現するという舞台、
でもオリザにかかるとこんなにも脱力ぐでーな感じ。
脱力モードが発動する理由は、魔法でもなんでもなく、
明らかなたった一つの原則に則っているからなのな。
つまり「セリフは現代口語日本語」オンリー。
このルールをどの劇作家よりも、
厳密に完全主義的につきつめたところから生まれる脱力感
(やっぱ、魔法かもね)。

でもね、パロディとは言いつつ、やっぱこれは青年団なんだよね。
新感線みたいに「あはは」と笑ってシャンシャンシャンにはなんない。
まあプロットもプロットだし、当たり前だけど現代社会への鋭い皮肉が、
見事に全編に渡って投影されている。
そしてその皮肉は二段仕掛けの時限爆弾となっていて、
観ている瞬間は笑いとしてまず炸裂し、
そして帰路についた観客の中でじわじわと何かしらの情感が爆発する。
まるで劣化ウラン弾みたいに?
またはクラスター爆弾の不発弾を日本人記者が持ち帰ろうとしたみたいに
(笑えないか、ゴメン)?

だから、この良質な喜劇は、同時に反戦へのイデオロギーに満ちている。
一見、とてもそう見えない。
いや、カーテンコールになっても、そんな雰囲気は微塵も感じられない。
そこが平田オリザという演劇人の、とてつもなく知的な作業のたまものだし、
演劇フリークによっては、その「知的さを隠せるほど知的な」青年団の
作風が受け入れられないと言うのも、良く分かるなあ。
どかは、知的な人は大好きだから、
そんな人に搦め手をくすぐられるのも、やっぱり大好きなの。

劇団の中でも割と「お太り気味」な女優二人と俳優一人、
それがお菓子ぼりぼり食べながらノンベンダラリーと、与太話。
そのテーマは、ポーランド分割だったりアウシュビッツの話だったり、
イギリスのサイクス=ピコ条約だったりインドのガンジーだったり、
カミカゼについてだったり満州だったり新型爆弾だったりするんだけど。

で、すたーりんが席を立ったら、あとの二人が
「あの人怖いよねー、スパスパ首切るんでしょー?」って言ったり、
るーずべるとが席を立ったら、
「あの人、新型爆弾のこと、隠してるよねー、どんななんでしょ」だったり、
ちゃーちるが席を立ったら、
「誰のために戦争してると思ってんでしょうね、あの人ったら」って言われたり。
世界史を高校ン時取っていたら、いや、取ってなくても、
普通に新聞読んで普通に常識があれば笑えてしかたないのな、どこもかしこも。

あ、でも普通に常識無い人がたくさんいるから、
小泉純一郎とかが「イラク攻撃支持します」発言したときも、
彼を首相官邸からたたき出すことができなかったのか、私たちってば。
だったら、パロディとか観劇とかじゃなくて、
普通に必須のお勉強として日本国民はこの舞台、
全員観るべきだな、やっぱり。
パレスチナ問題とか、あっという間に本質が分かるもんねー。
マイケル・ムーアとは少し趣向が違うけど、
感情と知性を高いバランスで両立させることができる芸術家は、
ここにもいるのな。

パロディとは、観客がいて初めて成立するジャンル。
そういう意味では最も純粋なエンターテイメント。
でも平田オリザは喜劇じゃなくても、
いつでも観客席のまなざしを想定した舞台を作ってきている。
それはその辺の凡百の劇団が想定している度合いとはレベルが違う、
密度と徹底度で、まなざしを想定している。

それはあの静かな穏やかな舞台上の「時間」とは、
かけ離れたイメージだけど、それはそうなのだ。
どかは、ここに、平田オリザと青年団の深淵が横たわっていると思っている。
いつかちゃんと、そのことを書いてみたい。


2003年05月08日(木) 「イエローケーキ」

普通で平凡なこと。
なんか怒りも度を超すと、切なくなるのね。

4月上旬、イラク中部、ザファラニヤにある、
「イラク原子力エネルギー委員会」の原子力関連施設から、
あるドラム缶が近隣住民によって「略奪」を受けたらしい。
当時、その地域は米軍によって制圧されていたことは確かで。
そのドラム缶には「イエローケーキ」が入っていた。

 
 <イエローケーキ>
 天然のウラン鉱石を製錬してつくる酸化ウランの粉末。
 酸化ウランの純度を天然鉱石の1%から40〜80%に高めてある。
 放射性物質ウラン235の割合は、0.7%。
 黄色の粉末状をしていることから、この名で呼ばれる。


兵器として使われた劣化ウラン弾のウラン235の割合ですら、0.2%。
イエローケーキは遙かに放射能レベルが高い。
地域住民はイエローケーキの容器のドラム缶を、
飲料水や食用油の容器として数週間にわたって家庭で使っていた。
「略奪」の際に飛散した精錬ウランを大量に吸い込んだ者が多数いる他、
ドラム缶に残っていた「黄色い粉末」を洗う前に舐めていた者もいる
(新聞に「苦くて不味かった」と娘のコメントが載っていた、
 というか、このコメントをとった記者の常識も、有り得ない)。
もちろん、洗ったくらいで放射能が落ちるはずもない。


・・・


どう考えてもこれは「良い、悪い」の問題である。
悪いのは誰だ?
戦争中、水道が行き渡っていない地域の住民が、
自宅の飲料水の貯水用にと、ドラム缶を「略奪した」ことが悪かったのか?

さっきテレビであるイラク人判事が、
アメリカ系ネットのインタビューに答えてこう言った。
「前体制の時には圧力がかかって正しい裁判ができない時もあった」。

例えばこの二つのニュースは、つりあいがとれると言うのだろうか。
「正しいことをするにはある程度の犠牲はやむを得ない」と、
ラムズフェルドはいみじくも語った。
ある程度とは、ラムズフェルド自身が死んだ後、
何世代にも渡って残る後遺症のことを指すのだろうか。
「結局あの国は、広島や長崎のころと何も変わっていない」
そういう批判に対する言葉を、ブッシュは持っているのだろうか。

・・・

その施設が「略奪」を受けている最中、
施設の前に止まっていた戦車の上で、アメリカ人兵士はボケラーッと
ひなたぼっこをしていたらしい。
その兵士はまさにエノラゲイの機中にあって、
スイッチを押したも同然だ。


2003年05月05日(月) The 3rd Renewal, Cut Off...

と、言うわけでホームページの大々的なリニューアル、
開設以来3回目のフルモデルチェンジ、ほぼ、終了する。
予定より一日遅れた、いろいろ次から次へと、
やんなくちゃなことが出てきて作業量は予想の倍近くになった。
そしてその作業に入るまでのデザインや素材を吟味したり、
シミュレーションしたりする時間が、途方もなかったの。

でも、わりかし、今回はいい出来なのでわ?
珍しく、現時点での達成度に満足などか。

かつてホームページと日記を、
初めてサーバーにアップしたあの日以来、
ずーっと頭にあった構成とデザインに、
15ヶ月かかってやっとたどり着けた、嬉しいなあ。
そうそう、こんな感じにしたかったのです。

でも・・・ちょっとレビューのジャンル、多すぎだな、
と、リニューアル作業をせっせとやりつつ身に沁みた。
普通、個人レビューを載っけてるサイトで、
ここまで多岐に渡ってるのんって見ない、まず。
やっぱ、芝居だけに絞るか(つかオンリーみたいに)・・・
絞ってもっとディープなコンテンツのラインにすれば、
きっとアクセスは増えるのだろうけれど、
でもちょっと、違うしな、それも。
振り返ってみて、メニューの多さにゲッとなるけど、
でもこのメニューの顕れそれ自体が、私だしな。
カテドラルの柱頭それ自体が、スコラ学なのと同じように
(BY アーウィン・パノフスキー)。
強いて言えば「ジャンルはどか」なんて、言ってみたり
(でもこれもパクリ「ジャンルはフィオナ・アップル」って、
前にあったような気が・・・)。

でもねー、ゴールデンウィークが気づけばどっか行ってたりして、
けっこう時間的体力的精神的コストを浪費したこのリニューアルだけど、
やっぱり、私にとって、ぜったい外せないものだった。
個人的に、ここには自分の本質が関わっている気がしていた。

誕生日を直前にして敬愛するスポーツ選手が亡くなったことに象徴されて、
いろいろ公私ともに、最近は一気に大変で辛くてしんどくなって、
それで自分の世界を再度、構築する必要を、意識よりも先に、
身体が感じてたんだなーって今となっては思うの。
だから個人的な単純作業に没頭したかったんだろうし、
だから「PROFILE > 1」みたいなコンテンツを形にしたかったんだろうし、
だからフラッシュコンテンツを、手の内に入れたくなったんだろうと思う。
この一週間を振り返って、会社員時代よりも真剣に、
iBookクンと格闘していた自分の後ろ姿を想像すると、
涙ぐましくて、かわいそうで、ギゥッと抱きしめてやりたくなる
(やんないけど・・・、そんなこと)。

いずれにしても、誕生日に区切りをつけそこねたので、
これを、区切りとすることにする。
これからは日記、1日1ページペースは放棄して、
勉強へと重心をシフトさせる。
とにかく、イタリア語だ、まずわ。

でも、3日に1ページくらいでアップするつもりなので、
これからもよろしくお願いいたします。


2003年05月04日(日) G1天皇賞(春)

あれは一年前、ジャングルポケット・マンハッタンカフェ、
そしてナリタトップロードの三強の争いと言われたレース。
どかは鞍上武豊のジャンポケから馬連で流して、獲ったんだよね。
初めての競馬、初めての勝ち馬券、それが去年の春の天皇賞だった。
はー、もう一年経ったのかあと、しみじみ。

ゴールデンウィークの府中は五月晴れ、気持ちいい。
で、東京レースコース(府中のこと)は、すっごい人だかり。
小さい子供を連れた家族連れがとにかく多い、ピクニックだなこれわ。
確かに緑も多いし、芝生は気持ちいいし、お馬さんは走ってるし、
行楽するには条件がそろっているものね、一応・・・

そして久しぶりに、目の前を走るお馬さんを観た。
もしかして、去年のダービー以来じゃないかな。
中山にはどか、行かないからねー、ほんっとに久しぶりの生の馬。
「キッレイだなー」としみじみ思った。
美だ、まず第一に、お馬さんとは。



第四コーナーから春の霞の中、飛び出してくる馬群、
そして写真から伝わらないのが、この後の圧倒的なスピードと、
あの、身体にここちよく響く「蹄の音」、もはや総合芸術だわ。
あっという間に、目の前を駆け抜けていくのー。



で、馬に見とれてるだけじゃアホなので、この写真の東京8Rから参戦。
で夢見がちな少年は勝負に弱く、外す、外す、そして、外す。
でも、やっと、京都10Rで獲ったあ。
鞍上安藤勝己のファイブソルジャー1着、
武豊のロイヤルキャンサー2着、馬連でっ。
でも、メインの前に、こんな気持ちいいの獲っちゃうと、なあ・・・

さてメインの京都11R、春の古馬ステイヤー最高峰のレース、
第127回天皇賞(春)の発走時刻が近づく。
去年はずば抜けた三強のレースだったけれど、今年は混戦模様。
というか強い馬がいない、らしい。
でも、12番ダイタクバートラムには人気が集まり単勝1.9倍。
武豊人気もあるのだろうけれど、カタいかな、これはあ。


馬連
12 - 16(タガノマイバッハ鞍上アンカツ)
三連複
12 - 16を軸に総流し


シンプルきわまりない馬券だけど、でもこうするまでには、
キツイ紫外線シャワーを芝生の上で浴びながら、けっこぉ悩みに悩んだのよね。
3番イングランディーレ、14番サンライズジェガーなどは、
どかの手元の「勝馬」にはびっしりマークがついていたし。
でも、まっ先に切ったのは11番ヒシミラクル。
去年の菊花賞の悪夢がよみがえるし、なにより、
あのキレとか瞬発力とは皆無な、泥臭い感じがヤダなのね
(お前がヤなやつだろ、どか自嘲)。
一瞬のきらめきという点で、やっぱりイマイチくんだから切ったの。

そして発走!
3200メートルという長丁場のレール、淀のストレートを一度通過して、
そしてもう一度一周するのだけど、一度目のストレートでアンカツ、
ハナを切ってコーナーを駆け上がり、最後のコーナーまで、
そのままハナで帰ってくる。
ひさびさに震えた。
「行けー、アンカツー」と叫ぶどか。
しかし。
明らかに鈍るタガノマイバッハの脚色、馬群に飲み込まれて、
文字通り混戦模様、そして、馬群を割って出てきたのは、バートラム?
いや、違う、ヒシミラクルだぁぁ。

わああああああ!!・・・マジで?

11番ヒシミラクル → 14番サンライズジェガーで決着。
武バートラムは3着、アンカツマイバッハは8着に沈む。
んー、ショックだわ、今回は。
なんたって、まっ先に、自信をもって切った馬が来ちゃうんだもんな。
まあ、勝ち負けにこだわらない馬券の買い方しちゃってるから、
仕方ないんだけどなあ、でも、んー、そうかあ。

ヒシミラクルはタフなおうまさんらしい。
陣営は、安田記念から宝塚記念とG1ローテを組むとも言われてる。
でもなー。
勝ち負けにこだわるギャンブルをやる気はないしなー、どかは。
というわけで。

・・・これからもヒシミラクルは、買わない!宣言。


2003年05月02日(金) 追悼・加藤大治郎(続き)

・・・どかがこのタイトルで、
文章を書くのにためらわれた理由は、
まだ、事故の原因調査がほとんど進んでいないからだ。
でもホンダは、原因究明のための事故調査委員会を発足させた。
しかもちゃんと社外の第三者に委託したところに、
ホンダにわずかに残る良心を見た気がする。
委員長は、日本大学生産工学部教授の景山一郎氏。

人の死に、意味なんて無い。
少なくとも、客観的にはそんなの有り得ない。
私たちが大チャンを悼み、嘆き、悲しむ。
そのこととは別のフェイズで、こんな時にも、
ううん、こんな時だからこそ、きちんと人は、
知性と論理を、発揮しなくてはならない。
感情を殺すのではなく、感情と両立させなくてはならない。
人の死に、意味なんて無い。
あるとすれば、かろうじてあるとすれば、
そこから引き出せるのは、悲しい教訓だけだ。

まだまだ証言が少なすぎるとどかは思う。
あのとき、あの瞬間、大チャンの近くにいたライダーで、
ちゃんと、きちんと、証言できていない奴が、
いる、どかはいると思ってる、具体的に思い浮かぶ。
レーシングアクシデントについては、
もちろん責めることはできない、それは不慮の事故だ。
しかし、証言をしないことは、悪だ。
どかはそれを許せない。
事故調査委員会の、活動がスムーズに進むことを期待する。
そして、重ねて、ホンダのなかでも異論があったろうに、
そこを踏ん張って第三者への委託を主張できた、
その担当者の勇気を、どかは最大限に讃えたい。

それでも、辛くて辛くて、大チャンのことを思い出すと、
すぐに涙ぐんでしまうくらい情けない女々しいどかだ。
でも、一方で、大チャンが事故にあった4月20日の深夜、
あるBBSをリロードするたびに
新しい応援メッセージが現れていたあの時間、
どかも心から、本当に心から祈って応援し続けた時間に感じた、
あの連帯へのリアリティ、目に見えない人間の良心を、
朝、太陽が東から昇ってくることと同じくらいのリアリティ。
それを胸に、どかは自分のことを、ちゃんしなくては。
鈴鹿の後のレース、Rd.2南アフリカのウェルコムも、
どかはとても観られなくて、結果もあんましフォローしてないくらい、
今はまだ、ダメダメなどかだけれど。

残された大チャンの家族の無事と、
事故調査委員会へのエールを込めつつ、
小林秀雄が「モオツアルト」の一節を引用して追悼の辞と代えたい。
4番ト短調クインテットのアレグロを評した有名なフレーズ。


  確かに、モオツアルトのかなしみは疾走する。
  涙は追いつけない。
  それは涙にまみれるには、
  あまりに美しすぎる(小林秀雄「モオツアルト」)。


あのときの大チャンの涼しい「横顔」を、
テレビで訃報のニュースで見かけるたび、
どかはこのフレーズを思い出していた。

ICUでの2週間、私たちの祈りを受けてくれたこと、
ありがとう。
私たちの祈りを受けてほんとうに、
ほんとうに生きようと尽くしてくれたこと、
ありがとう。


追悼、加藤大治郎。


2003年05月01日(木) 追悼・加藤大治郎

本当はまだこのタイトルで文章を書くべきじゃない。
それは、分かってる。
でも、大チャンのご家族の無事を祈りつつ、
少しだけ書きたいなって思った。

加藤大治郎の人柄は、ほんっとに気どらない、力まない、
ごくごく普通の兄チャンだった、商店街歩いてそうな。
原田哲也みたいないわゆるレーシングレーサーっぽい、
張りつめたような緊張感をオーラにまとうわけではなく。
そして話すことがあんまし得意じゃなく、嫌いじゃないけど、
インタビューでも言葉を1つ1つ、慎重に選らんで話してて。
顔はとてもすっきり、ハンサムさんで、
そしてマシンにまたがったときは誰よりも速かった。

例えばF1のアイルトン・セナとか、
例えばGP500のウェイン・レイニーとかは、
自らの世界感を、サーキットの極限状態を、
きちんと言葉におとして秩序付けを試みたタイプの天才。
でも大チャンは、言葉を、置き忘れてしまった人。
言葉で自分の世界の輪郭をなぞらなくても、
べつだん平気な天才だった。
まあ、インタビューに応えるのんへたくそーって、
そういうこともあるんだろうけど、今となっては、
「言葉すら、彼の速さには追いつけなかった」
という感じがしてしまうのは、有り体な美化なのかな。

昨年のシーズン前半は、ロッシや宇川など、
一部のライダーのみが4ストロークのマシンを配給されて、
レースではそのマシンの戦闘力の違いのみが印象づけられた。
2ストマシンで、必死にがんばってた大チャンは、
「なぜ、いま自分がこのマシンなのか」と、
内心、忸怩たる思いを抱えて走っていたのだと思う。
ほとんど周囲全ての人間がそう思っていたんだもん。
本人が一番、きっと、悔しかったと思う。
でも大チャンはいつものように飄々と、
自然体で顔に出さず、涼しい顔でレースに臨んでいた。
大チャンの一番カッコよかった姿として、
どかが今思い出すのは、
レースシーンでもいくつもの表彰台でもなく、
この「涼しい顔」だ。
自分への自信と、周囲との温度差、マシンの違いの理不尽、
悔しかったり、当たり散らしたかったり、泣きたかったり、
そんな全てをお腹に納めて、スッとピットロードに立つ、
大チャンの横顔、美しく悲しいその、シルエット。

そしてシーズン後半Rd.10のチェコで、
やっと手に入れた念願のRC211V。
ニューマシンも手の内に入れて、さあこれからという時だった。
2003年4月時点で、およそ地球上に加藤大治郎ほど、
希望と確信に満ちて未来に挑もうとした人間がいただろうか。

神様のバカヤロウ、しっかり反省しろ。
大チャンは当然のように、世界チャンピオンになれたんだよ。

・・・

神様の、バカヤロウ。


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