un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2003年04月29日(火) RATNA SARI「天守物語」

バリ舞踊をベースにしたパフォーマンスグループ?なのかな、
RATNA SARI(ラトナ・サリ)。
芸能研で一緒のこうチャンが客演するって言うので、観に行く。
会場は、中野の劇場MOMO、16時開演。

どかは実は、ガムランが大好きだったりする、結構本気で。
CDも5枚ほど、持っていて、特にお気に入りなのは、
ガムランのうちでも「ゴン・クビャール」というジャンル。
すさまじい圧力を持って押し寄せる音の洪水に溺れるのが、好き、
というか、アラスカと同じくらい、いま行きたいな、生で聴きたいぜ。

というわけだから、実は泉鏡花なんてイロモノに手を出さないで、
バリ舞踊はバリ舞踊で、それだけ独立してやってくれればいーのにー。
なんて、思ってたら、前半は純粋にバリ舞踊だった。
舞踊は初見、ガムランの演奏をバックに、
あのきらびやかなピカピカ衣装のお姉さんたちがグリグリ動く。

とにかく、身体の末端の動きが、えげつない(くらいすごい)。
まず、手の指、オニだあれわ。
中指を動かさず、人差し指と薬指を、縦ではなく、
横に細かく振るわせ続けながら、腕全体を柔らかく動かす。
というか、指がすごいという前知識はあったけど、
はるかに上回るえげつなさ、ヒエー。
末端への執着は、目にも及ぶ、眼球の動きね。
とにかく、からくり人形みたいに、クルクル、動くのー、ヒエー。
普通あんなに鋭く、しかも継続して眼球、動かんって。
指だの、目だの、とにかく末端への執着、それが特徴かなあ。

でもね、目だの指だのでビックリさせるだけ・・・
で、終わっちゃもったいないんじゃないかなあ。
分からない、バリで本物観てないからバリ舞踊そのものへの感想じゃなくて、
あくまできょうのパフォーマンスについてだけど、
もすこし身体の芯への意識を持ったほうがいいんじゃないのかなーって。
素人の世迷い言だけれど。
あと、やっぱテープじゃ、だめだよ、舞踊は、基本的に。
あのガムランのハイパーな音圧、異次元の音空間が無いと、
少し、寒いなーって思っちゃいました、でも、びっくり、割と楽しめた。

そして後半はいよいよこうチャン登場「天守物語」。
実はねー、私は後半のこっちのが面白かった。
ちまたに氾濫する「コラボレーション」ってどかは大ッ嫌いなんだけど、
結構、上手く、はまってたなーこの日の舞台。
鏡花の伝奇世界と、こうチャンの舞踏、モダンダンスとか、フラメンコ、
そしてバリ舞踊と、ほんとうに「ごった煮」だったんだけど、

でもねー、良かったー。
下手に「日本と諸アジア地域との融合」なんて下手なコピーを掲げてたら、
どうしてくれようって思ってたけど、やっぱり泉鏡花というベースが、
どか的にはヒットだったなあ。
だって、泉鏡花って、いわゆる日本じゃないし。
あの伝奇小説は、そういう土着の文化からかけ離れて、
想像の空に浮かぶ箱庭だから、この「ごった煮」が上手く納まった。
だから、いわゆるズシンとくるリアリティは稀薄だけれど、
でも、目の前にグルグル回るカレイドスコープとしてはイイ出来だったと思う。
うん、めまいがする感じ、いいエンターテイメント。

こうチャンはひいき目では無く、一番好演。
獅子頭を掲げてうねるその動きは、
去年の芸能研山形ツアーでの余興を思い出させて。
単に目新しい珍しいスタイルだから、ではなく、
ちゃんとこうチャンの動きに潜む「距離感」に、みんなハッとするんだね。
おつかれー、こうチャン。

見終わって。
やっぱ、バリ、行きたいなーと強く思う。
ガムラン、生で聴きたいー、うー。


2003年04月28日(月) つか「熱海殺人事件 モンテカルロイリュージョン」(愛の重量挙げ)2

大山金太郎の吉田サン、巧いなー。
もうつか節がカラダに身に沁みていて、けれども予断が無く新鮮な体当たり。
怒鳴るとでもカラダががちがちに固くなってしまうのは、なぜ?
それはそれでいい味かも知れないけれど、センターにはきついかも。
あと、全く遊べないのはやっぱり辛いなあ。

そして伝兵衛・友部サン、最初、ほんっとにいっぱいいっぱいだった。
そして吉田サンと同じように、全く遊べないし余裕もなくて。
これまでのつか芝居のなかでは結構がんばれてたのにな、やはり主役の重圧か。
だから問題外の水野はとりあえず措くとしても、
とにかく余裕の無い「熱海」で、結構辛いかなって。
「蛍が帰ってくる日」とか「平壌から来た女刑事」なら何とか成立しても、
これは改訂しても「モンテカルロイリュージョン」。
すたあサン専用の戯曲なのだから、ここまでテンパッちゃうと、なー。

しかし終盤にかけて、ステージはにわかに変容する。
逃げ場を失って追いつめられたキャストは、必死の踏ん張りを見せて、
戯曲のスピードに追いつくためにそれぞれの加速度を、
マックスまで引き上げようとがんばる。
・・・まず、吉田サンが追いついた、浜辺のシーン。
そして友部サンがやっと「伝兵衛」になった、パピヨンのシーン。
最後の死刑台のシーン、嶋サンが戯曲のラストになんとか間に合って。
そしてカタルシスは北とぴあを満たしていく。

・・・

浜辺の金太郎がアイ子を殺すシーンは、去年の小川岳男・金太郎に近い迫力。
死刑台のシーンの速水も、御大春田のそれに匹敵するくらいリアリティがあった。
そして何より、友部伝兵衛のパピヨン。
あの脂肪と筋肉が入り交じった巨体を振るわせて、
花束で大山金太郎をしばきあげるあのシーン。
すごい迫力だった、この舞台で初めて、友部サンの身体が生きた瞬間だった。
いくらネタとして「重量挙げの選手」という設定を使っても、
なんだか友部サンは固かったから、うまく遊べてなくて辛かったけど、
ここにきて、ようやく自らの全てを解放していた・・・
その迫力は、容疑者を圧殺するプレッシャーではなく、
容疑者を温かく包みこむ、そんな相反するベクトルを花弁に託す力。
やっとやっと、主役だったよ、友部サン。

戯曲のスピードに追いついた三人だから、あとは何も言うことはない。
どかは安心してココロをステージ上に投企していくことができる。


  速水  クリーンアンドジャーク303kg
      あなたなら挙げられましたか!
 
  伝兵衛 速水くん!
      私は誰よりもタイタンになりたかった男です
      私なら、挙げることが出来ました!


死刑台の上の伝兵衛には首に縄がかけられ、速水の「実況」はここから始まる。
どかの涙腺は崩壊していく、ただのおでぶチャンにしか見えんかった伝兵衛の、
その太鼓腹にふっとい二の腕に、全ての希望を、意志を、祈りを託していく。
どんどん「実況」が加速していく、そして・・・


  伝兵衛 やった・・・やった・・・!
      水野、やったぞ!


昨年のあべチャンバージョンでは、
最後に呼ぶ名前は彼がかつて愛した男速水雄一郎だった。
それが何と、今回、水野に変わっていた!
どかは「速水」って呼ぶと思いこんでいたからビックリして、
一瞬、何が起こったのかわかんなくて、
サーッと緞帳が下りていくのを観ながら、
その変更の「限りない優しさ」に胸をうたれて、何も言えなくなって、
気づいたら号泣、「オイル」どころではない涙まみれで、
無意識のうちに拍手してたどか。

うんうん、うん、やっぱりつか芝居はいいな。
先日観た「オイル」は、そりゃあ客観的に観て素晴らしい芝居だし、
完成度も高いし、エンターテイメントとしても申し分ない、
いま、日本で観られるもっともレベルの高い舞台。
でもね、どかは、明日世界が終わるかもしれないならば、
つかこうへいの舞台を見に行くのだ、絶対それは、もう。
個人的につか芝居を観ることは、かけがえのない時間だと言い切れる。

つかこうへい自身が演出していないのに、この破壊力。
前半から中盤にかけてを、ほとんど、無に帰してしまっていて、
伝兵衛と水野の恋物語のほとんどが流れてしまっていても、
これだけのカタルシスが降りそそいで劇場を押し流す。
だからこそ。
どかはこのステージに苦言を呈する。
あの水野は、やっぱり、無いよ。
前半から中盤までをもっと大事に、大切にして欲しい。
テンションとテンションをぶつけるという第一フェイズの、
次のフェイズへと、役者全員が移行していくべきだ。

「モンテ」に挑むならば、ぜひ、勝手だとは存じていますが、それでもぜひ。
ぜひ、伝兵衛は、あべチャンを(もしくは赤塚クンを)。
ぜひ、速水には、山本亨サンを(もしくは武智サンを)。
ぜひ、大山役は、銀之丞サンを(もしくは岳男サンを)。
そして、水野役は、ぜひぜひ、金泰希サンを(それ以外ナシ)。
このキャスティングを、つかサン自身が演出すれば、
きっと世界は、変わると思うのです、どかは。


2003年04月27日(日) つか「熱海殺人事件 モンテカルロイリュージョン」(愛の重量挙げ)1

北とぴあにてソワレ、楽日観劇、前から三列目の特等席。
去年、阿部寛が主演した「熱海・モンテ」の脚本、それを若干改訂し、
<木村伝兵衛=元・棒高跳びの選手>という設定が、
<木村伝兵衛=元・重量挙げの選手>となっている。

木村伝兵衛部長刑事:友部康志
速水健作刑事   :嶋祐一郎
容疑者大山金太郎 :吉田 学
水野朋子婦人警官 :森ほさち

もちろんこの改訂は、
友部サンとあべチャンの役者としての資質の違いに拠っている。
つまりあべチャンのスタイルの良さに対して、
友部サンの恰幅ばつぐんのあんこ型体型、ということ。
でもそれ以外のプロットの基本は全く変更は無かった。

そもそも、阿部寛というスターを前提にした100%あて書きのこの脚本、
やはりハッピーエンドの成立には役者の「華」に負うところがとても大きい。
あえてどかは言っちゃうけれど、やっぱり「熱海・モンテ」は、
「すたあサンじゃなきゃやっちゃいけない脚本」なんじゃないかなあ。
その代わり「華」がきちんとその役割を果たしたときは、
計り知れないカタルシスが保証されるのだけれど。

大ブレーキだったのは、水野役の森ほさちサン、辛い。
もとヅカジェンヌだと聞いたんだけどなー、宝塚って発声やらないの?
全然、舞台で通用する発声じゃなかった、あれじゃあテレビどまり。
カツゼツはいいんだけれど、
声帯をつぶして出す声はキンキンとしか響かない。
演技も、ちょっと、有り体すぎる、ステロタイプな感じ。
つか芝居の演出は割とクラシカルだったりするんだけれど、
でも、あれは相手のメッセージを受け止めて自分のメッセージを発信する、
という極めて有機的な役者同志のコミュニケーションがあってこそ。
単に段取りだけをおさえて、細かく感情を「表現」しようと思っても、
生のステージでは間が保てません。


  水野 私、待ちます
     何年でも、何十年でも、待ちます

  速水 水野さん、待ちますって言ってもね、
     あいつは男にしか興味のない男なんですよ

  水野 好きになった人ですから

  速水 死刑台に送り込まれたらどうするんです

  水野 私も死にます


といういいシーン、でも段取りおっかけて精一杯のお嬢ちゃんからは、
伝兵衛への「愛」はまったく感じられない。
ああ、イイシーンなのに、流れちゃう・・・
もったいないなあ、お顔はすっごい美しいのにな、美人サンなのにな。
で、このシーンで水野を追いつめたのが速水役の嶋サン。
嶋サンは北区のリーダーさんみたい、いま。
どかがいままで好きで無かった理由は、立ち姿とカツゼツ。
でも今回は、嶋サンのキャリアが辛うじて「物語」を繋いでくれた感じ。
今回の舞台でイイ意味で「遊べ」たのは彼の速水だけだった、貴重。
前半、いっぱいいっぱいだった友部伝兵衛を良く助けて、
流れをキープしてくれたのね、プラスアルファの価値があったわけじゃないけど。

(続く)


2003年04月26日(土) NODA・MAP「オイル」3

青年・ヤマトは特攻出撃したゼロ戦を駆って、しかし敵前逃亡した。
そして戦後、アメリカン・ライフへの憧れを隠さず、
刹那的、享楽的に闇市の混乱を渡っていくけれど、
電話交換師の富士が扇動する出雲イスラモ戦争に際して、
富士に敵前逃亡をとがめられた挙げ句にこう叫んで「復讐」へ異を唱える。


  ヤマト おれは生きたいんだよ、
      死にたくないんだよ!


このセリフと、富士のそれとが激しく衝突する。


  富士  どうして忘れられるの?
      ついこの間のことなのよ!


すでにどちらが正しくて間違っているという領域の話でもなく、
すでにどちらが善で悪かという範疇にすら、とどまらないテーマ。
論理を越えた感情のレベルで観客にシェアさせられるこの「二律背反」。
そして結局、ヤマトは死ぬことになるというプロットの結末にこそ、
観客は注意を払うべきだとどかは思う、心底、良くできた戯曲なのな。

それだけ重い戯曲を支えた今回のキャスティングは、
いつものNODA・MAPのステージとはちょっと様相が違ってた。
堤真一とか古田新太、深津絵里など「プロパー野田組」の不在はおろか、
全てが野田戯曲初体験の布陣という新鮮さ。
どかは、この新鮮さこそが、ステージを成功に導いたのだと思うの。
確かに、若干、芝居の流れが滞ってしまったり、間が保てなかったり、
つたなさが見え隠れしてしまったのは、野田ウィルスの免疫が無かったから。
でも、それを補って余りある、誠実さと真っ直ぐさが、
予断を排して、不慣れさを越えたという勝利。

なかでも富士を演じた松たか子の演技は、恐ろしかった。
血はあらがえないな、全く。
舞台のセンターに立ったときのたたずまいが、素晴らしくイイ。
ほとんど力まず、固くならないで柔らかく構えて、
かつ軸がぶれないでそのまま長いセリフをまっすぐ発声する。
言葉で主役の「華」というのを分析すれば、
これだけのことでしかないのかもしれないが、
これだけのことを出来るヒトは、そう何人もいない。
NODA・MAPで言えば、傑作の誉れ高い「パンドラの鐘」の天海祐希よりも、
どかのとってもお気に入りの「カノン」の鈴木京香よりも良かった。
結局、救世主でもあり、預言者でもあり、
そして同時にテロリストでもあって「復讐」を背負うのが富士という役。
常にハイサイドぎりぎりのコーナリングを繰り返すGPライダーのように、
いのちを削っている音にも聞こえる、そのセリフ、もはやノイズ。
良かったなー。

藤原竜也クンが演じたのはヤマト。
竜也クンは蜷川身毒丸以来だけど、悪くない、という程度。
身毒丸のような凛々しさ、瑞々しさに欠けるけれど、
「軽薄な真情」を感じさせてなんとかかろうじて松たか子と対峙できた。

小林聡美が案外、良かった。
巧いなー、ホントに。
はまり役でほとんど素なんじゃないかという疑いが。
でも、上記2人が補いきれない隙間を上手に見つけて素早く埋める職人。

橋本じゅんはイマイチ、やっぱ遊べそうで遊べないヒトだ。
新感線に帰ってください。

片桐はいりはもったいない、もっと遊べるヒトなのに。
大人計画で観るべきだね。

役者野田秀樹は、年老いた印象。
というか、自らの衰えをよく知って、自分の出番を削って、
そんなに動かなくてもいい演出を自らつけてる。
「パンドラ」と比べると一目瞭然、でも今回はたか子サマがいたからセーフ。
もう、演出に専念してもいいんじゃないかしらと思う。
戯曲と演出だけでもう、あなたの居場所は不可侵なのだから。

最後に、ひとつ、ヤだったこと。
NODA・MAPなのに、ケレン味たっぷりだったのだ、この舞台。
それがヤだった。
パンフに「年をとったのかな、道具使うのが楽しい」と、
野田自身のインタビュー。
でも、ケレンをできるだけ排除したところで、
ミニマムなステージで、マックスのものがたりを展開させられるのが、
どかが野田サンの大好きな点だったから、これだけは残念。
つかこうへいに匹敵するミニマムさを、また取り戻して欲しいなあ。

でもケレン味たっぷりでも、ダイレクトな主題でも、
寓話を紡ぐことを諦めなかった野田サンには、はくしゅー。
「カノン」「贋作・桜の森」には劣るけれど、
「パンドラ」「2001人」よりは上、というのがどかの中の番付。
まー、この野田番付を、どかの演劇ALL番付におとしこむとすれば、
全部が三役に入って来ちゃいそうではあるんだけれど。

やー泣いた泣いた。
立てないくらいカラダから何かがすっぽり抜け落ちていた。
すごい新鮮な風が、すーっと水晶体から三半規管を抜けていった感触。
「忘却」への拒否と、「銘記」することへのエールは、
いま、どかがある意味でもっとも必要としていた声だったのかも知れない。

ありがとう、野田秀樹。


2003年04月25日(金) NODA・MAP「オイル」2

控えめに、1つだけ確かに言えることは、
「忘却」してしまう人間には「復讐」する人間を責める権利を一切、
持つことはできないということ。
この舞台を観た人は、きっとこの点だけは身にしみて感じるのだと思う。
もちろん「復讐」は、誰だって避けられれば避けたいなと思うのだけれど、
でも「忘却」してしまう、時間を持たない、
「老いる」こともできず、「オイル」も持てない人間には
(うーん、この辺のイメージの着地の仕方が恐ろしく素晴らしい)、
そのことについて、とやかく言っちゃいけないのだ。
最後のシーン、富士が「どうして忘れてしまうの!」と絶叫する姿を見て、
「こらこら、復讐はダメだよ、ね?」って、
大人ぶって諭そうとする人間がいるとするなら、どかは彼を信用しない。

そしてここから先はどか自身の見解が混じってくるけれど、
とにかく「忘却」を拒み時間を持って「老いる」ことを敢然と引き受けること。
ここまでは、全面的に、正しい道なのだと思う。
そして「老いる」ことから「オイル」へと進んでしまうのか、
復讐の黒い炎をうねらせてしまうのか。
ここにいたって、できるならば踏みとどまりたいと、やっぱり思う。
「老いて」、「赦す」ことができたらいいなーと、やっぱり夢見てしまう。
もう、こんな夢をみる資格すら、
あのブッシュの身勝手な殺人を止められなかった私たちには、
無いのかも知れないけれど、でもでもやっぱり、
その夢を見ること、辞められない。
でも、まずはそのためには「銘記」するココロの強さを。
胸引き裂かれる悲劇をココロに刻む、精神の強さを持ちたい。
「銘記」からは「赦す」ことを引き出す可能性がかろうじて残ってる。
「忘却」にある可能性とは、いや可能性ですらなく確実に100%、
悲劇を繰り返す温床となる。

日本人は、時間感覚が無さ過ぎる。
「老いる」こともできず、刹那的に享楽的にすぎる。
日本人は復讐法を持つかわりに「けんか両成敗」ルールを持ったけれど、
そんなのなんの誇りにも自慢にもならないことに気づかなくてはならない。
復讐法の重みを知らなさすぎる。
だからWTCの本当の意味を把握することも出来ず、
アフガニスタンとイラクのホロコーストの加害者となり、
自ら「オイル」の対象になっていることにも気づかずに、
またせっせと「忘却」に励む、励む小泉以下、私たち。
別に野田秀樹は「復讐」バンザイと言っているわけではない。
イスラムバンザイと言っているわけではない
(アメリカバカ野郎と・・・は、言っていると思う)。
野田秀樹はただ、「オイル」が黒く燃えさかるその火勢のすさまじさを、
シアターコクーンのステージ上に表現しただけ。
そしてその火勢のすさまじさにどかは無力感を感じ、
その無力感の出所を、野田秀樹に教えてもらったと言うことなのだと思う。

・・・という意味で、この戯曲は幾重にも重なる時間軸と、
テーマが織り重なった、傑作なステージだと思う。
野田秀樹がこの戯曲を執筆しているときは、もちろんまだ、
この地上には最大の悲しみは降っていなかった。
バグダッド国立博物館には、ちゃんとハムラビ法典の石碑が鎮座していた。
野田はパンフに、世界が戯曲を追い越そうとしていると書いた。
こうなってくると劇作家は、現代の予言者であるという気がしてくる。
平田オリザもかつて言った。


  今回は現実が創作を遙かに超えてしまったわけだ。
  こういった現象は、現代劇を創る作家の宿命とも言えるだろう
  (「『さよならだけが人生か』再演にあたって」平田オリザ)。


だから観劇という趣味は苛酷なまでに悲しいのであり、
だからこそ、観劇は、やめられない。

(もすこし続く)


2003年04月24日(木) NODA・MAP「オイル」1

どかは先日、夢の遊眠社時代の野田戯曲をまとめて読んだ。
感想は、若き日の野田のほうが、いまよりも才能に溢れていたという事実だ。
言葉を紡ぐスピード、イメージの連鎖、ものがたりのグルグルうずまき、
全てが渾然一体となり、開幕直後から一気呵成にクライマックスを目指す迫力。
それは最近の野田秀樹が既に失って久しいきらめきだ。

しかし鴻上尚史と違って、野田秀樹はただで才能は手放さなかった。
イメージの無限の広がりと破壊的な高揚感、沁み渡る情緒を失う代わりに、
野田秀樹は実直・朴訥なリアリティをとった。
かつてのスピードレースを諦めて、少し「普通の」演劇に近づいた。
「オイル」はそんなコンテクストの上に乗っかる最新バージョン。
でも、どかはかつての破滅的天才・野田秀樹じゃなくても、
いまの分別をわきまえた職人・野田秀樹もじゅうぶん、大好き。
いつになくダイレクトな言葉遊びは、もはやイデオロギーに濃厚にまみれ、
切れ味はあまりないけれど、その分重みや深みをいちいちに感じさせる。

ストーリーは、古代と終戦直後の二つの時代を行ったり来たり
(以下、ネタバレ注意)。
そこから投影されるのは現代社会の病巣のシルエット。
古代と現代の心理的距離と、終戦直後と現代の心理的距離が、
全く変わらないように見えるところにめくるめく野田寓話の粋が。
「人間って、ほんっとに、成長しないんねー」
って言葉遊びに笑いながらしんみりしんみり。

舞台は島根、出雲の国。
「いずも」と「いすらむ」をかけていくところから、
ものがたりは転がりはじめ、かつてここにマホメットがいたという仮説。
終戦後、占領軍将校のマッサーカーが島根を統治するためにくるが、
真の狙いは別の所にあり、この戦後の話と並行して、
古代の国譲りのものがたりが展開する。
天照大神配下の八百万の神々が、もともとそこにいた大国主命に対して、
国を明け渡すように強要、虐殺を繰りかえすというプロットが挿入。
大国主命の下にいた民衆は「時間」という概念を持たず、
それ故に天照大神軍の虐殺を記憶することもできず、
なされるがまま、へらへら笑ってなよなよしていた。
そこにたどり着く、異国の預言者・ムハンマドがそのへらへらしてる民に、
「時間」の概念を教え、「老いる」ことを教え、「復讐」を教える。
そして古代の民が「老い」て埋葬され炭化して熟成され「オイル」となって、
終戦後の島根に、再び吹き返す、それは「復讐の黒くうごめく炎」となった。
島根の人々はその油田の利権を守るために、進駐軍と戦うことを決意。
彼らのシンボルとなったのは霊感豊かで油田の位置を予言した、
電話交換師の娘・富士であり、彼女は「復讐を!」と人々をあおり、
二台の飛行機への給油を命じる、行き先は・・・「ニューヨーク」!

とまあ、こんな感じで最近の野田秀樹っぽく、物語の寓話度合いを落として、
現実的で観客がついて行きやすい実際的なイメージを真ん中にすえている。
しかし、決して直接的に「戦争反対!」と叫んでいるわけではない。
そこがやっぱり、ポイントなんだと思う。
どかは寓話度合いを落としていく野田秀樹って、残念だったりするけれど、
やっぱり「演劇という総合芸術でなければ表現できないこと」にこだわるのが
野田秀樹という演出家、イデオロギーはあくまで重層的に立ち上がる。

1つには日本人の刹那的・快楽主義的体質への痛烈な皮肉がここにある。
それは最近、小泉首相の言説にもっとも端緒に顕れる日本人的精神世界。
日本人はこらえ性がなく、目先の楽しみ、
例えば「アメリカンライフスタイル」をちらつかされるともうダメ的な。
普通、イラク戦争を考えると、やはり中東情勢を長い時間的スパンで
とらえることになって、そしたらサイクスピコ条約などを引き合いにだして、
イスラムの復讐の精神というのをひもとくのが「常套」。
でも野田秀樹はあえてそこを飛び越して「古事記」の古代まで飛び越える。
これが衰えているとはいえこのヒトの想像力の非凡なところ。
アジア各地でさんざんヒドいことをやってきているにもかかわらず、
そもそも「復讐」という概念に疎すぎる私たち日本人も、
その始まりにまでさかのぼってみれば自分たち自身に
インプットされているはずのアイデア、私たちも被侵略民なのさ。
ちょっと、そこんとこさ、考えてみようよ、
忘れっぱなしじゃやっぱ、まずいっしょ、と野田サンは問いかける。

そして、やっぱり野田サンステキとどかが最も思ったポイントは、
この「忘却」するという弱さと滑稽さをステージいっぱいに展開しつつ、
「復讐」するという強さの違和感を観客席に剛速球でぶつけてくることだ。
信じられないくらい、頭がよいよこの人、そして圧倒的な、バランス感覚。
およそ「二律背反する切なさ」を表現するのに、演劇以上の表現手段は、
無い・・・と、どかは思う。
もすこしつっこんでポイントを明らかにすると、
「忘却」の滑稽さはステージ上で表現し「復讐」の恐ろしさはそのまま、
観客席に投げつけてくる。
たとえばこれが、どちらかのみだったら観客は気持ちよく劇場を後に出来るわけだ。
シンプルかつストレートなイデオロギーは、やはり心地よく安心できるもん。
そして実際、そういう芝居こそがいまのメインストリームだよね
(例えば、まさしく、新感線、キャラメルがそう)。
でも演劇という表現手段は、そんな陳腐なテーマに堕するにはもったいなさ過ぎる。
NODA・MAPの舞台を観ていると、無限に広がる演劇の可能性を、
いつも感じさせられるよなー。

ちょっと脱線しちゃったけど。
「忘却」には、その先、なにもおこらない、進展しない。
進展しないと言うことは、同じ過ちが何度も何度も繰り返されるということ。
でも時間の概念を覚えて「老いる」ことを知って「オイル」になってしまったら、
その先は無限地獄、修羅の道、「復讐」の血みどろしか残ってない、のか?

(続く)


2003年04月23日(水) ミレー3大名画展@Bunkamura

とにかく今週だけは、身体、動かさなくちゃと思って、
朝からコクーンの NODA MAPの「オイル」の当日券を狙って、
渋谷のBunkamuraで並んでた。
でも2時間以上も並び続けるわけで、ひまだなーって思って、
そんなに行きたかったわけじゃないけどちょうどいいやっ。
と思って、列の場所だけキープして、
一階下のザ・ミュージアムにミレーを見に行くことにする。


 その後に観た「オイル」はどかにとってかなり衝撃のステージで、
 とてもすぐにはレビューを書けそうにないので、
 時間稼ぎの意味合いもこめてこのレビューを先に書くことにする。



誓って言うけれど、どかはミレー、好きじゃない。
むしろ積極的に、「受けつけない」画家の一人。
ルーベンス、ルノアールとともに、苦手だったのさミレーは。
なのでこんなシチュエーションでもないと、見に行かなかっただろうな。
平日の午前中なのに、けっこうな人だかり。
さすが、日本人。
世界でダントツ最もミレーを愛好する国民だわ(はぁ・・・)。

確かに、ジャン=フランソワ・ミレーの代表作の三枚、
「落穂拾い」「晩鐘」「羊飼いの少女」は、
彼の他の作品と比べると、まとまったいい作品だと思う。
というか、他の作品は、どかはもう見れない、感傷的にすぎる。
センチメントは結果としてにじんでくるのであれば良い味になるが、
最初からそれのみを狙うとただの悪趣味でしかないと、どかは思う。
もちろん、この三枚もセンチメンタル爆発なんだけど、
優れた構図に、彼の精一杯がんばった筆致が、
かろうじてある種の泥沼からすくい上げているようにも見えなく無い。

ミレーは決してデッサンが優れているわけではない。
そして色彩感覚も、けっして優れているわけではない。
けれども、彼が発明した1つのスタンスは、限定的に、効果があった。
それは「逆光のなか、シルエットの影にディテールを沈める」描き方。
彼は晩年になるに従って、この発明に、固執する。
必然的に、どれも同じような代わり映えのしない絵になる。
しかし彼は優れた画家ではないが、ちゃんと自らを知っていたのだ。
つまり、この描き方ならば、自らの才能の乏しさをもっとも隠すことが出来る。

「晩鐘」などは、その最たるものだ。
シルエットにしてしまえば、微妙な色彩の階調もうっちゃってしまえるし、
デッサンの狂いもある程度までは隠してしまえる。
でも、それだけだとさすがにあざとさが目につくだろうから、
彼は1つの「調味料」に手を出すことにした。
つまり「乏しさの美しさ」である。
「貧しい農民や羊飼いをテーマにして描き出せば、
中流の市民に対して、絶大な効果を発揮するだろう」。

もちろんここには欺瞞がある。
つまりこれらの絵を眺めるのは、決して農民や羊飼いの少女ではなく、
彼ら彼女らよりはお金を持っている中流の市民であること。
さらに言えば、画家ジャン=フランソワ・ミレー自身は、
ついには農民や羊飼いではなかったことなどである。
しかし、この欺瞞は別に深い罪でもなんでもない。
問題は、この絵を賞賛の度を超えて信仰し崇め奉る現代の日本人だ。
フランスのオルセーで、ミレーの前には日本人が必ずいる。
けれどもフランス人やその他の旅行者がそこで足を止めることは、
あんましないことを、どかは知ってる。
何でもないように見える、この現象、
でもかつてのどかにとってはショックだった。

さーっと見終えて、また「オイル」の列に戻って座った後で、
少しだけ、考え直すことにした。
ミレーは「落穂拾い」「晩鐘」を描いても、なお、
サロンから認められなかったし収入も向上しなかった。
「羊飼いの少女」がサロンに出品された後に初めて彼は「一人の画家」として、
認められたのだった。
それまで彼はひたすら上記の「発明」と「調味料」を、
売れなくても淡々と固執しつづけたのは、なるほどなーと思う。
自らの才能の限界をよく見極め、この二つの要素にのみ発展の可能性を観て、
苦境に耐えて作品を描いているミレーの姿は想像するだに感じ入ってしまった。
どかにとって別に彼を嫌いになる必要は、どこにもないのかも知れない。
どかが嫌いなのは画家自身ではなく、彼の作品「晩鐘」を、
賞賛以上に信仰してしまう、多くの日本人の
「美術愛好家」たちだけなのかな。

もひとつだけ、笑い話。
この展覧会にはミレーだけではなくいろんな画家の作品があった。
そしてフランス・バルビゾン派のジョン=フランソワ・ミレーではなく、
イギリス・ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイの作品が、
一点だけ展示されていた(「盲目の少女」)。
どかの後ろでミレイを観ていたおばちゃん三人組が、
「あー、やっぱりミレーはいいわねー、明るいのもいいじゃなーい」
と口うるさく褒めそやしていた。
ここで彼女たちが言うのは明らかにミレーであってミレイではなく、
ミレーの特徴は色彩の乏しいモノトーン調のブラウンであり、
色彩が鮮やかなのはラファエル前派のミレイである。
キャプションには、ちゃんと画家の本名が記されているし、
それに「大好きなミレー」の画風をきちんと知っていれば、
有り得ない画面であることは、明々白々、
ってか絵を観るときは、わいわいがやがや騒ぐなよ。

どかはミレイは大好きな画家の一人だし、
それに最近は、ちょっとどか、滅入ってて疲れ気味の寝不足だし、
こんなおばちゃんたちには、カチンとくるのだけれど、
列に戻ってきて、画家ミレーに少し謝ってから、少しだけ笑ったのは、
やっぱり自嘲だったんだろうな。

・・・そうして「オイル」の幕が、ついに上がる。


2003年04月22日(火) one tone@MANDA-LA2

ちなつ嬢がボーカルなユニット"one tone"のライヴ、
吉祥寺のMANDA-LA2にて初見、ねこばすクン同伴。
ビックリした。
多分、ビックリするんだろうね、って思ってたら、
そのビックリ度合いは、予想をはるかに上回ってしまった。

音が澄んでいる、そして、押しつけがましい主張はない。
でも、観客との距離はしっかり把握、離れちゃわない。
観客が何かしらの作業で、隙間を補填するまでもなく、
それはそこにあり、落ち着いてくつろいでいられる。
ジャズ嫌いなどかで、それだけが来るまでは少し不安だったけれど、
いわゆるジャズの「いやらしさ」はそんなに感じなかった。
というか、むしろバロック音楽を聴いてる感じ、平衡がそこにあった。



ちなつ嬢の声は、ちょっと度肝を抜かれるくらい美しい。
その美しさは鉱物の無機質的な美しさではなく、
温かみのある有機的な美しさ。
たとえばそれはエメラルドの緑ではなく、新緑の木々のそれ。
そこには意志があり、ある定点から発せられるベクトルがある。
ギターも、すっごい上手で、凝った演奏にもまったく安心して聞いてられた。
キーボードもパーカッションもイイ意味でリラックスしていて、
ちゃんと「音」じゃなくて「音楽」が立ち上がるから気持ちいい。
唯一気になったのは、パーカッションの音の定位。
アンプだかなんだかの音のセッティングの問題だと思うけど、
ちょっと、響き方がずれてる時があった気がするのだけれど、
演奏の問題ではなく・・・気のせいかな。

2曲目はちょっと、どかの中ではパッとしなかったかな、他と比べると。
どかが一番好きだったのは4曲目「君のところへ」。
3曲目の「明日から吹く風」も良かった。
歌詞の世界が、イイ意味でとてもステイブル。
小さい空間に、短い時間に「いま、ここ」という焦点。
「ここから、どこかへ行こうよ!」とか、
「ものがたりのうねうねの中へ」とかではない、
しずかにおとなしく凪いだ感じのたたずまい。
それがどかには、特に、きょうこのごろのどかにはとっても嬉しい感じ。

  
  空に のびてゆく飛行機雲の
  跡をたどって 君のところへ
  今すぐに 向かいたいけど
  風にあおられ 辿り着けない
  (「君のところへ」lyrics : Chinatsu Miki)


頼りにしたいひこうき雲は、薄れて切れてしまい、
けっきょく「いま、ここ」から離れては行かない。
でもだからといってネガティブな印象のみかといえばそうではなく、
メロディ、演奏、ボーカルの表情、声が、
きちんとポジティブな明かりを提示してくれるから、
観客は暗闇にまかれてしまわないですむ。



ただ、一部の歌詞に関しては、言葉の選び方など、
イメージの広がり方が「目指すところ」と「実際」との間で、
少しズレがあるようにも思えたり。
演奏に関してはとてもすっきりと音が整理されているだけに、
そのイメージの「ムラ」が気になったり。
でもそもそも、オーディエンスへメッセージを伝えようとする、
確固たる覚悟がアーティストサイドになるからこそ、
僅かなズレが顕在化してくるのであり、
<「表現」に留まらない「伝達」への確固たる意思>にこそ、
まずどかは好意をもった。

確実に、どか自身の「ヤな流れ」を一瞬、せき止めてくれたと思うの。
CD買おっかな、と素直に思うくらいに良かった。
また行きたい。
ってか、行きます。


2003年04月21日(月) 民舞公演・2003年度新入生歓迎公演

朝早くから総武線にガタゴト揺られて野を越え川を越え、
某大学に向かう、吐き気がするくらい眠い、だって寝れないんだもん。
北イングランドみたいな低い雲、世の中、イヤなことばっかだわ。
教授に挨拶し、少しミーティング、その後聴講、勉強の世界はキレイだ。

帰ってきて、小一時間だけ仮眠、その後公演の準備へ向かう。
幕を張って、ストレッチして、衣装をつけて。
今回は、どか、ほとんど幕裏にいるか、太鼓をたたくか、踊るかしてたので、
写真を撮る暇がなかったため、画像はナシ(というか、ぼんやり忘れてた)。

綾子舞は・・・、全く見られず。
幕裏でドタバタを極めていたため。
とりかぶとを忘れるなあー。
でも、間に合って良かった。

鳥舞は、幕の隙間から少し覗いただけだったけど、
良い具合に身体がほどけていて、過渡期として良いのではと思った。
ほどけっぱなしではしようがないけれど、
こんがらがってギゥッと固まってる身体は、まずばらさないと、
ちゃんと結びなおすこともでけへんし。

三番叟は、どか、太鼓たたく。
腰が全体的に高い、手足が若干縮こまる、センターをキープできない。
といったマイナスはあるにせよ、初舞台の三番叟としては、
かなり上出来、というか出来すぎと言ってもイイくらいじゃないかと。
もともと身体に恵まれている子だから、これからに期待。

たけのこ舞は、これも全く見られず。
さんさの太鼓をセッティングして、笠をかぶったりと忙しく。
でも、幕裏のコーラスは、かなりイマイチだったかと。
みんな、本当に、知らなかったのね、たけのこ舞の歌。
ソロでたけのこ舞をやり通したエディンは、それでもエラいと思う。

さて、さんさ、どかは太鼓。
ICU祭でやるときは、いつもいつも、速くなりがちだけど、
今回、速くなんなかったなあ、というか遅め?
とにかく時間も短いし、最初から全力疾走でとばそうとは思っていて、
実際、動きはそれなりに大きく弾けつつまとめられた気がするけれど、
その分、リズムを刻んでいくのが大変だったなあ。

・・・辛かった。
やっぱり、爽快感はあんまし無い。
最近どかが囚われてるネガティブスパイラルから抜け出すほどの、
加速度はついに、獲得できず、ダメだったか。
頭は空っぽにしてたし、意識の上では引きずらないようにしてたのだけど、
身体と無意識が、どうしようもなく、足をとられている。
つらいな、かなしいな、くやしかないけど、つらいな。

「ヤなことばっかだ」。

って思いながら後かたづけ。
でも、久々にココロが軽くなる。
花束をもらった。
歌を歌ってもらった。
最近、民舞も辛いなあって思ってたから、
なんだかびっくりした、泣かなかったけど、
でもそれは多分、ここ二日間、どかが夜、泣きっぱなしで、
枯れてたからだよ、もう、水分が。

でもきっと、明日からまた、
緩いすべり台を降りながらぬるくイヤな流れにまかれる日々。
それでも今夜は、とても嬉しかったです、みんな。

というわけで、どかはきょう、28歳になりました。
生まれてからこれまでで、最低の誕生日になることを、
自分でもあきらめてたのに、どたんばでかろうじて救ってもらった。

ありがとう、みんな。


2003年04月20日(日) G1皐月賞

朝、目が覚める、昨日よりは身体が軽い。
でもまだ耳の奥の方がジンジン鳴ってる感じ。
iBookクンを開いてニュースを確認、確認、かくに・・・

「加藤大治郎、死去」

・・・

一瞬、何のことか、わからなかった。
何を意味しているのだろう、この文字の連なりは。
外を見た、灰色の日曜日、雨が降りそう。

多分、意識よりも先に身体が反応したんだと思う、
「足、止めちゃダメだ」って。

いつも通りリストバンドを着けて、民舞の練習に向かって、
その後、そのまま府中に行く。
武蔵野線のなか、流れに飲み込まれそうになるのを、なんとかこらえる。

さんさの太鼓を叩いている時とか、
「勝馬」にペンでチェックを入れていく時とか。
そんな時間は、なんとなく楽だった。
他の要素を完全に排除して集中することができるから。
原色の混ざりっけのない時間だから。
でも原色がときとして嘘っぽいように・・・
きっと、あとで、ツケがまわってくる、わかってる、わかってる。

去年のスプリンターズS
あのときのビリーヴの馬券は特別だった。
「絶対、勝つ、勝たなくちゃいけない」と自分で勝手に決めた馬券だった。
そして、今回も、このリストバンドにかけて、
「絶対に、勝つ、勝たなくちゃいけない」。

安藤勝己を信じて、その後で武豊を信じる。
才能のきらめきこそが、ネガティブスパイラルを断つ唯一の刃なのだから。
11番ザッツザプレンティ・鞍上安藤勝己。

馬単
11 → 3(ネオユニヴァース)
11 → 7(スズノマーチ)
11 → 8(テイエムリキサン)
11 → 12(サイレントディール・武豊)

3連複
(忘れた)

発走。
自室のテレビで見る。
一着3番ネオユニヴァース、二着6番サクラプレジデント。
・・・六着12番サイレントディール、八着11番ザッツザプレンティ。

・・・

ゲートが開いた直後に、武豊のサイレントディールがぐらついて、
隣のザッツザプレンティにぶつかった。
それでザッツがかかってしまったきらいがある。
レーシングアクシデント、それで武豊を責めることはできない。
才能同志の衝突による、崩壊。

レーシングアクシデント。
大チャンもそれに巻き込まれたのだろうか。
単独で転ぶのは考えにくい。

・・・

だんだん、流れが部屋全体を包んでしまって、逃げられなくなって。

精いっぱい、言葉を探して。
これからの「欠落」はとても怖くて考えられない。

私は、大チャンに向かって「生きろ」と言った。
それで大チャンは確かに、生きるために精いっぱい力を振り絞ってくれた。
だから、私は、この14日間の彼のICUでの必死の闘争に、
謝辞を述べなくてはならない。

大チャンという計り知れない才能がこれまでに記した軌跡への感謝でもなく、
これから大チャンという存在が欠落した世界への恐怖でもなく、
そんなものたちは、まだ、とてもどかの乏しい想像力では、
受け止められないから、だから。

だから。
この二週間、必死に頑張ってくれたこと、ありがとう。
みんなの激励のメール、メッセージを背負ってくれたこと、
ほんとうに、ほんとうに、ありがとう。

・・・気づいたらリストバンド、いつもと逆さだった。
矢印が空を向いてる。

流れのなかに溺れながら、その矢印を思った。


2003年04月19日(土) ゴホゴホ

朝、ビックリした。
本当に身体が持ち上がらない。
頭が痛くて、喉が痛い。

フラフラして立ち上がって、
(ああ、何とか立ち上がれた)、
水を飲んで時計を見たら、
もう、昼過ぎ。

風邪をこじらせたみたい。
公演のリハーサルにも行かれず、
みんなに迷惑かけちゃったね。
ごめんなみんな。

と、心の中で思うだけで疲れ果てて、
またベッドに倒れ込んだ。


2003年04月18日(金) 池澤夏樹「イラクの小さな橋を渡って」

惣一郎に貸してもらった本、今朝、読み終える。
すでに取り返しのつかない歯車が回ってしまったことを、
痛切に実感する。
この本が出版されたとき、戦争はまだ始まっていなかった。
あとがきの最後の一節「まだ戦争は回避できるとぼくは思っている」。

そんなセンセーショナルな内容ではないけれど、
やっぱり説得力のあるエッセイ。
印象的な市井のシーンを写しとった写真と合わせて、
淡々と静かに池澤サンの筆は進む。
当たり前のことを当たり前に見て当たり前に書いているのだから、
衝撃的なクライマックスも無いし、大どんでん返しも無い。

でもね、この本が出版される前の世界と、後の世界では、
決定的に何かが壊れてしまっていて。
何かが決定的に欠落してしまったいまの世界でこのエッセイを見ると、
感傷的になるのをこらえきれない。
まだ、この本には、明るい未来への希望が感じられる。
人間の論理と知性への絶対の信頼が感じられる。
そしてそれらは失われてしまい、同じ形でよみがえることは有り得ない。
おそらく池澤サンの文中に登場する何人かはもうこの世にいないし、
本橋サンという写真家が捉えた何人かの子供はもうこの世にいない。
彼ら彼女らが再び息を吹き返すことが有り得ないのと同じように。

そういう意味では、この本の意味というのは全く無かったと言えるかも知れない。
ブッシュ大統領の言辞に強烈な違和感を感じつつ悲劇を止められなかった、
私たちに全く意味が無かったのと同じように。

けれどもそれは半分正しくて、半分はずれている。
私たち人類は、このようなエッセイを書ける作家をかつて持つことができたことを。
そしてそのエッセイは相当部数売れるロングセラーとなり、
個々の多くの想像力が作家の持つイメージと共にあったことを。
私たちは銘記することができる。
かつて爆弾が落ちてくる前には、
そこに明るい笑顔で遊ぶ子供がいたことを、
ちょうど、この写真と同じような、黒目の大きな少年のような子供のことを
銘記することが可能なのと同じように。

忘却こそが罪なのだね、きっと。
いまでも戦争は終わっていない。
インフラが壊滅状態にあるイラク南部の各都市では、
医療品も行き渡らない状態で子供たちがどんどん死んでいく。
身体はなんとか安全を保つことができたとしても、
「明日はもう死ぬかも知れない」という極限状態に追い込まれた人々は、
精神の平衡をどんどん奪われていってしまった。
誰が、略奪行為に走る市民を責めることができるのだろう。
誰が、博物館や美術館を襲う市民を責めることができるのだろう。
いちばん、一番痛みを感じているのはそこまで堕ちざるをえなかった、
彼ら自身なのに(ユネスコの物言いも、だから少し、おかしい)。
バグダッドの博物館の、頭部がこそげられた彫像の痛みの原因は、
それを遠く異国の地にあって、
テレビで茫然と眺めている私たちにこそあること。
それを自覚して戒め続けることこそが肝要なんだ。
命が損なわれ身体が損なわれ精神が損なわれ、自己の尊厳が損なわれ、
この欠落をどのように償っていくつもりなのか。

それでもまだ戦争が終わっていないことを意識する自由は残されている。
それでもまだこの悲劇が続いていくことを意識する自由は残されている。
自由というのは行使し続けることで初めて保証されるのだから、
私たちは意識することを続けて行かなくてはならない。

忘却こそが罪なのだ。

もう取り戻せない自己の尊厳と笑顔がかつてそこにあったことを目の当たりにできる、
この本は、そういうコンテクストでのみ、有効である。
地味だけど、必読書だと、どかは考える。


2003年04月17日(木) マイケル・ムーア「アホでマヌケなアメリカ白人」

原題は"STUPID WHITE MEN"。
昨年の発行時に圧力がかかって、発禁寸前まで追い込まれつつ、
しかしムーア氏が敢然と発行。
主要メディアに無視し続けられたにもかかわらず、
発売と同時にベストセラーリストの1位になり、
現在もリストに居座り続けている作品、日本でも訳書がロングセラー。
なぜに圧力がかかったか?
ブッシュ大統領を、名指しで、けちょんけちょんにこき下ろしているからだ。

「ボーリングフォーコロンバイン」を見た後だったので予想してたけれど、
想像以上にあからさまで赤裸々な告発本である。
ニュースでよく見かける具体名が、ポンポン出てきて刺激的なことこの上なし。
内容は多岐にわたりつつも、メインターゲットは現某大統領。
「ユーモア」という才能が、「暴力」に対抗する有力な武器であることを、
ストレートに読者に教えてくれる。
特に「あの」大統領選挙での欺瞞。
ゴアに対して劣勢に立たされたブッシュ陣営の組織的犯罪。
自分が大統領の椅子を手に入れるために民主主義を根本から覆したその人が、
「中東に民主主義を広める」とのたまう厚顔さは、
滑稽に過ぎて、もはや笑うしかない。
「ボーリングフォーコロンバイン」がオスカーを獲ったとき、
ムーア氏は授賞式の壇上で「図に乗るな、ブッシュよ!」と叫んだ。
その彼の真意は、このエッセイを読めばすべて理解できる。
何から何まで、嘘で固めてきたのが、あの大統領なのだ。

卓越した取材力により提示される客観的なデータ。
それをわかりやすくかつ面白く伝えるユーモアの才能。
この二つがそろうだけで、個人がここまでのメッセージを発信できるのだ。
どちらがかけても、いけない。
この両方がなくてはいけなかった。
知性とは、こういうことを言うのだね。
と、心底思う。

一番感動したのは、ムーア自身による「エピローグ」だった。
彼はもはや全米でも有名人であり、くだんの大統領選の時には、
ゴア陣営とその支持者から「犯罪者」扱いまでされた。
ムーア氏は徹頭徹尾、反ブッシュであったにもかかわらずだ。
そのいきさつについては、彼自身の著述を読んでもらいたい。
決して言い訳じみておらず、ちゃんと事実を知れば、
その批判は全く当たらないことがすぐにわかる。
彼は自ら真理と恃むことに拠って、これまでも行動し続けてきた。
一点の曇りもなく、自分の身体を張って生きてきた。
「エピローグ」最後の一節。


  俺は、ただ「生きている」だけという状態にはヘドが出る。
  自分が前線に出もせずに泣き言ばかり言う奴にはヘドが出る。
  
  恐怖に立ち向かえ。
  人生の目的は、ただ漫然と生きていくことだけだなんて言うな。
  「ただ生きているだけ」というのは、臆病者の生き様だ。
  あなたには、市民として生きる権利がある。
  
  あなたには、より良く生きる権利があるんだから
  (マイケル・ムーア「アホでマヌケなアメリカ白人」)。


・・・泣けるね。
アメリカという国家はきらいだけれど、アメリカ人を嫌いになるのは、
もうすこし、先延ばしにすべきなのかも知れない。

最後の一文、つかこうへいならばこう言うだろう。


  ひとは幸せになるために生まれてきたのです


手塚治虫ならばこう書くだろう。


  行くぞ!!


・・・泣ける。
でも泣く前にいまは、自分を顧みなくちゃだ。
ムーア氏のユーモア、アトムの100万馬力、どかには何があるのだろう。
そして、その「何か」をどう使っていくのだろう。
いまは、この日記を書いているだけだけど。


2003年04月16日(水) G1桜花賞

ちょっと遅れてしまったけど、報告だけ。
先だっての日曜日、4月13日に開催されたG1レース、
でも、どかは月例会に出てたので、府中には行かれず、
帰国早々でまだ中国人のままのねこばすクンにお願いして、
馬券を買ってもらった。

にしてもいよいよ、今年初の、クラシックレース!
昨年どかが阪神ジュベナイルフィリーズのレビューで書いた通り、
ピースオブワールドという今年の牝馬クラシック戦線の、
大本命サマが昨年末に登場したのだけれど、残念なことに故障・・・
というわけで代わりに大本命に躍り出たのが、
エアグルーヴとサンデーサイレンスの娘、超良血馬・アドマイヤグルーヴ。
しかも鞍上武豊とくれば、もうどかの馬券は決まったようなもの・・・
ではなく、どかは今回、7番ヤマカツリリーに賭けてみたの。
理由は明白、鞍上・安藤勝己!!
もう、先だっての高松宮記念以来、武豊を凌ぐカリスマとなったあんかつサマに、
どかは全てを託すことにしたの。


馬単
7→8(モンパルナス:予想家遠藤氏イチオシの逃げ馬)
7→9(スティルインラブ:単勝2番人気、グルーヴよりも距離に適正)
7→14(アドマイヤグルーヴ:1番人気、武サマ、ごめん・・・)
7→15(マイネヌーヴェル:4番人気、ヨコノリ、ごめん・・・)
三連複
7−8−9・7−9−14・7−8−14・7−9−15・7−8−15



こんな感じの馬券、もう、あんかつサマが来てくれないと全滅。

しかして・・・全滅、あぁ。

スティルインラブが一着、
二着になんと13番人気のシーイズトウショウ、
三着に本命アドマイヤグルーヴ。
ヤマカツリリーは四着、首位からは0.4秒差、決して小さくない差だなあ。
スティルは阪神マイルのレコード勝ちらしい、相手を褒めるべきか。
あぁ、でもいいの、楽しめたし。

ちなみにねこばすクンは「神の啓示」を受けてなんと、
二着馬を当てたらしい、すごすぎ。
しかし、一着のスティルをおさえられず、馬単・三連複ともに全滅。
グゥの音も出ないほど、ショックだったとのこと。

ま、いいさ。
競馬はギャンブルじゃなくてエンターテイメント。
府中は賭場じゃなくてテーマパーク。
次は、牡馬クラシック緒戦の皐月賞さー。


2003年04月15日(火) 手塚治虫「アトムの最後」2

本当のファンタジーとは一体どういうものを言うのだろう。
「おとぎ話の夢の国」を信じさせることをファンタジーというのだろうか。
違う、そうじゃないよね。
最近、ちまたにあふれる「癒しパンク」は、ファンタジーでもなんでもない。
そんなん薄っぺらい、表現者自身が信じていないようなハンパな「夢の国」。


  アトム あなたたちみたいに心の底から愛し合ってたら
      心配いりませんけどね
      たとえ人間とロボットでも


「鉄腕アトム」という作品は、優れたファンタジーだと思う。
そこには表現者の、深い深い、祈りがある。
子供だましでは決してない、本当の「夢の国」への期待がある。
それは手塚先生が、冷徹で明確な悲しみの「実際」を知った上で、
ペンをとっているからだと思うどか。
土台に実際がないと「夢の国」は妄想に終わる、もしくは、
安易なハッピーエンドの子供だましに如かない。
土台に「実際」があれば、そこから想像力を飛翔させればさせるほど、
どんどん素晴らしい「祈り」が込められたファンタジーになってく。
そういう意味で「アトムの最後」は、素直なハッピーエンドだとは、
とても読めないのだけれど、まちがいなく優れたファンタジーだと思うの。


  丈夫  まってくれ
      いまなんていった
      「人間とロボットでも」だって?
      だれがロボット?

  アトム もちろんジュリーさんですよ

  丈夫  ジ、ジ、ジュリーが?
      ロボット?


ヒトによってはこれが現実以上にヒドい救いのない暗い話だと言うかも知れない。
でも、ほんとうか?
冷たくなったイラクの少年の映像を見て、
もう「モノ」になってしまった息子をかき抱いて嗚咽する父親の姿を見て、
得意満面の笑みで勝利宣言する某国大統領を見てなお、そう言えるのか
(さっきもニュースを見て涙がこぼれたどか、
 あまりの怒りに泣いたのは初めてだ)。

じゃあ「アトムの最後」はただの現実だろうか?
そうは思わない。
どかはこれがファンタジーであると認識し、
ここにこめられた「祈り」を絶対に、支持する。
何度も何度も読み直して、やっと、
この陰惨な書き割りの連続のどこにどかが惹きつけられるかがわかった。
それは、次のセリフ、三つのコマだ。


  アトム あっ・・・・・
      追っ手だ

      まっすぐこの島へ
      向かってくるな

      いくぞ!!


アトムが最新鋭のロボットに対して、
勝ち目のない戦いを挑んで飛びだつ瞬間、
「いくぞ!!」と叫ぶ、この小さなコマ。
その2コマあとでもうアトムは破壊されるのだけれど、
最後のこのセリフの文字は写植ではなく、
漫画家自らが書き入れた文字になっていて、その美しさ。

アトムはヒトとロボットが共生できる可能性を信じて、
とにかく、そこだけを恃みに飛び立った。
実際に彼が信じた丈夫とジュリーの愛情とはもろくはかなかったのだけれど、
ともかく、アトムは、その可能性を最後に信じたのだ。

最後の瞬間のアトムを、
「バカ正直だ」と笑ってはいけない
最後の瞬間のアトムに、
「ロマンチックに過ぎる」と悲しくなってはいけない。
最後の瞬間のアトムが、
「有り得ない夢物語だ」と識者ぶって無かったことにしてはいけない。
手塚治虫は、本気でこの小さなコマのなかのアトムに、
自らのポジティブな想像力の全てを託している。
漫画家が想像力をいかにすさまじい努力で維持しているかは、
この吹き出しのなかの「いくぞ!!」の文字を見ればわかる。
漫画家にしか到達し得ないイメージ表現の粋に、
尊い「祈り」がこめられている。

世相は暗い。
「アトムの最後」は2055年の話だけれど、
アトムが生まれた2003年にすでに、人類は手塚治虫が描いた52年後の世界を、
その暗雲立ちこめる絶望に関しては先取りしてしまっている。
きょうよりも明日が良くなるなんて、誰も思っていないという、悲惨な時代。
それは本当に、何という悲惨な時代だろう。

でも、どかは思う。

ページを開けば、何度でも、アトムは追っ手に向かって飛び立ってくれる。
何度でも何度でも、アトムは飛び立って戦おうとする。
大切なのは100万場力なのではなく、
もっと別の、誰でも持てる小さな力だと教えてくれる。
誰でも、持とうとすれば、持つことのできる、小さな力なのだ。

結局、アトムは虚無に負けたのではない。

アトムは虚無と戦うために飛び立ったのだ。


2003年04月14日(月) 手塚治虫「アトムの最後」1

秋田書店 SUNDAY COMICS「鉄腕アトム」別巻1のラストに収録。
プロットはもう、どかは前から知っていて、
すごい気になっていたのだ「アトムの最後」ってば。
2003年4月7日、アトムは生まれた。
アトムの生誕を記念して各種キャンペーンが張られている。
それで本屋でようやく、見つけたの、ずっと探してた、このマンガ。

ヨーロッパでロボットというと、暗い悲しいイメージがつきまとうけれど、
唯一日本では、ロボットのイメージは決して暗くない。
特に人型ロボットへの憧れというのは日本人には根強くあり、
それがアシモを初めとする多くのプロジェクトを生んだと言われる。
なぜ日本人は、ポジティブなイメージをロボットに持つことができたのか?
「アトム」である。
それは「楽しい未来」「幸せな未来」を、
「ディスコミュニケーションに対するコミュニケーションの優位」を
象徴していると言われている。
しかし、この話「アトムの最後」は、違う。

アトムは三回死んでいる(壊れている)らしい。
連載の終了と開始を繰り返しているためもあるのだろう。
そして最後の最後、三度目の死を描いた話がこれ。
とにかく、暗い、悲しい、救いが無く、絶望がここにある。
アトムのパブリックイメージの全てを覆す、
「予定調和の輪からの脱出」とは、ここまで壮絶であらなくてはならないのか。

2055年。
ロボットと人間の共生関係は崩壊し、ロボットが人間を支配する世の中。
そこではロボットが人間同士を、古代ローマの奴隷よろしく、
殺し合いをさせて楽しんでいた。
あるところに人間の少年・丈夫がいて、
いままで自分の親だと信じていた両親から、私たちは実はロボットだと知らされ、
そして、これからその殺し合いゲームにお前を参加させると宣告される。
ロボットへの憎しみを抱きつつ逃亡を決意した彼は、
恋人・ジュリーを連れて「ロボット博物館」に駆け込み、
展示されているアトムに助けを求める。


  アトム あなたとジュリーさんはほんとに愛し合っているんでしょうね

  丈夫  ほんとだとも!心底好きなんだ

  アトム どんなことがあってもそれは変わらない?

  丈夫  ああ、変わるもんか!


その丈夫の決意を聞いたアトムは、もう一度、人間とロボットの共生のために、
その可能性を信じて、追っ手の最新型のロボットとの絶望的な戦いへと向かう。
しかし、アトムが追っ手達との戦いに赴く直前、丈夫はアトムから、
実はジュリーが、ロボットであることを知らされる。
アトムは飛び立って、勇敢に戦うもあっけなく撃墜。
丈夫はいままで自分をだましていたジュリーを許せず、
手にした銃でばらばらに殺して(壊して)しまう。
そして丈夫に追っ手が迫り、丈夫も壊されて(殺されて)しまい、終劇。

手塚作品のなかで、およそここまで悲惨なプロットがあるだろうか?
予想はしていたけれど、全ての書き割りを自らの心に納めていくと、
想像以上に暗く切ない絶望にとらわれてしまった。
手塚治虫自身も「陰惨で、いやーな気分がします」とコメントを寄せている。

しかし、何というリアリティなのだろう。
Syrup16gの coup d'Etatの絶望が幼く見えてしまうくらい、深い暗黒。
松本大洋の「ナンバー吾」の獰悪が小さく見えてしまうくらい、濃い漆黒。
でも、もう一度読み直してみる。
どかがこの作品の存在を知ったのは、SNOOZER編集長の田中宗一郎のコラム。
彼は、このマンガを読むたびに、勇気をもらうという。

どこ?どこからだ、それは?

ここまでして、予定調和を拒否する強さを、
宿さなくちゃなんかいねー、って弱気になるくらい、なの(続く)。






大チャン、がんばれ。


2003年04月12日(土) らんちき騒ぎと墜落

夜、調布にてぬまにい・ばんびチャンの結婚おめでとぱーてー。
以前の職場のバイトの連中、各種世代とりそろえて、
かつ社員も何人か参加し、元・社員のどかも潜り込む。
予想はしてたけど、えげつない騒ぎっぷり。
やーすごかったー。

でも、好きだわ、あの人たちわ、私。
崖っぷちにいる人のほうが、月明かりの美しさを知っている。
というのは、やっぱり断然、正しいと思うの。
どかは、その美しさを、支持します。
でも、その崖っぷちは、ほんとうの崖っぷちだからなあ。
賭だわー、集中しないとー、危ないよねー。

強いて崖っぷちを選ぶのではなく、
崖っぷちしか道がないときに、引き返さない知恵と勇気さっ。
・・・よくわかんないけど。

明日は月例会。
ぶぅが松本から上京している。
どかも、クズシをやるかも知れないのに、
こんなに飲んでる場合じゃないのに、飲んじゃったー、うー。

うー、でも、アヤト(上戸彩)のライブ、
行こーねっイケポン♪





大チャン、がんばれ。


2003年04月11日(金) 松本大洋「ナンバー吾(3)」続き

予定調和の輪の外へ飛び出すことの、
なんと困難なことだろう。

ガリレオ=ガリレイが自らの目で「真実」を見る以前に、
彼の前には何百年と続いている大きな別の「真実」があったのだ。
彼があるとき望遠鏡を月に向けてみるまで、
いや、その望遠鏡を月に向けてみた後でさえ、
それをほんとうの「真実」として受け入れることの、
なんと難しかったことだろう。

常に、ペン先は想像力の先端を走り続ける必要がある。
想像力がならしたその地平をペンが走るのでは遅すぎる。
ある種の計算と構築こそが、予定調和に堕ちる最も巧妙な罠だもの。
かといって、ペンだけが先走ってしまっては、
想像力がそこを辿っていくことが出来るとは限らない。
限らないということは、それは「無」なのな。
ペンと想像力は常にテールトゥノーズで、
いや、むしろサイドバイサイドのドッグファイトを強いられる。
予定調和の、輪の外への、トンネルを求めるのであれば。

どうしてそこまでして、
アーティストは安心と安定を捨てることに、執着するのだろう。
「物質主義への抵抗」と簡単にワンフレーズでケリをつけることは簡単だけど、
それにしても、そんな言葉の自動性がもたらす酔いなど、
彼ら彼女らの高潔と香気をまとった凛々しい自己表現を裏打ちしている、
筆舌に尽くしがたい「ドッグファイト」の痕跡を見てしまえば刹那に醒める。
彼ら彼女らは、望月峰太郎は、岡崎京子は、野島伸司は、甲本ヒロトは、
真島昌利は、五十嵐隆は、つかこうへいは、平田オリザは、原田哲也は、
加藤大治郎は、トム・ヨークは、町田康は、そして松本大洋は、
なぜに、ある種パラノイア的性向にとらわれてしまったのだろう。

  
  闇の中、切りたった崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息をつく。
  もうたくさんだと思いながら見上げる月明かりの、
  心にしみ入るような美しさを、私は知っている
 (吉本ばなな「キッチン」)。


吉本ばななの神懸かり的デビュー作の一節。
こんな表現がとてもしっくりくるなあ、どかには。
きっと、どかが高校時代、百粁徒歩(ひゃっきろとほ)の思い出が、
具体的に即物的に短絡的に直裁的に、ズバリビンゴ的に、
この一節を理解する回路をどかの中に作ってしまったからだと思う。

彼ら彼女らは決して閉鎖的ではないがある種排他的なニュアンスを醸しだし、
それ以上に誠実さと凛々しさ、厳しさと優しさを宿し、
求道的な姿勢は「祈り」を感じさせる。

「ナンバー吾」とは「祈り」の書だ。

つまり、そうなのだ。






大チャン、がんばれ。


2003年04月10日(木) 松本大洋「ナンバー吾(3)」

勘弁してください、とゆるしを請いたくなるほど。
それくらいに強靱な精神が、ここにはある。
大洋フリークを自認するどかですら、
フォローしていくことの険しい道のりにめまいを感じる。

共感を越えた共鳴というセンスで繋がることのできる虹組メンバーは、
野島伸司がスワンレイクで言うところの「感性による選民思想」、
そのピラミッドの頂点に位置する究極の人類かな。
野島伸司はアン・ドゥ・トロワ・キャトル・サンクの5人兄弟の誰をも、
ついに救うことは適わなかったが、この構造は、
創造的な作業に携わる人たちが想像力をもって挑むに足る、
魅力的なプロットなのだと思う、誰もが夢見る・・・

しかし、この魅惑的なユートピア的プロットを暗闇につつむことで、
真なる絶望を自らの内にいったん、引き込んだ後でどこまで、
パースペクティブを覆して重力に逆らって加速度を求めることができるか。
それこそがおよそ、クリエイターの才能の端緒ではないのかなー。

スワンレイクの湖の底にわずかな「明かり」を見つける旅に出る野島伸司は、
自らのアイデアと機転、物語の凝集力に拠って立つ想像力だった。
そして白鳥座X-1の中に「明かり」を見つける絶望的な旅に出た松本大洋は、
自らの精神の強靱さ、ひたすら鍛え抜いたその鋼のような想像力がパスポートだった。
そのパスポートを携えた筆致は、あまりにも鋭く速く強く、
あっという間に太陽の重力場を振り切り太陽系を飛び出し、
漆黒の闇の中、さらなる闇をもとめて、一直線に白鳥座を目指す。
そのあまりのスピードには優しさも悲しさも、
読者が抱く全ての感情は置き去りにされ、ただ、
まなざしのみがページにすがりついて引きずられ。

引きずられて、結婚式のコンバーチブルの後ろにくくられた空き缶状態。

かん、からから、かっかっかん、からかん・・・

痛いよ、痛いってば。
感情が追いつかなくても、身体的な感覚は意地でも追いついてくるらしい。
松本大洋初心者には、薦めないかも「ナンバー吾」は。

でも究極を見たいならば、多少の痛みを覚悟できるならば。
痛みの代償を求めて、予定調和の瓦礫を越えて、宝探しができるなら、GO!
きっと、この才能は、裏切ることはないと、思うの。






大チャン、がんばれ。


2003年04月09日(水) 芸能研と帰還

きょうは連雀コミュニティセンターで芸能研。
参加したのは師匠、こうチャン、せばすチャン、海苔姫、どか。
鳥舞と三番叟のみの、ニートでタイトな練習。
来月の課題演目発表に向けて、その練習ができなかったのは辛いけど、
演目が違ってもどかの課題は変わる訳じゃないから、
ちゃんと自分の内側の「そこ」にフォーカスを当てて数回通す。

そうそう。

ねこばすクン、ついに帰還する。
見送り以来やれやれ、まるまる三ヶ月だったな。
写真を見せてもらっていろいろ説明を聞く。
やーすげー。
アドベンチャーだねー、もはや。
これはトリップやトラベルではないよ、もはや。
貴州省の少数民族の村を訪ねたときのお祭りに参加してきたんが白眉っすね。
いいな、アジアに疎いどかだけど、あれはちょっと「キタ」な。
旅行、いいなー。

でも、アジアとヨーロッパとアラスカ並べたら・・・

・・・アラスカをとっちゃいそうなどかだった
(ああ、オーロラ日誌、書かなくちゃー)。






大チャン、がんばれ。


2003年04月08日(火) リストバンドをつけて

昨日はICU(大学)のクラブオリエンテーションで、
どかは胴前(太鼓打ち)を師匠から仰せつかって、
袴つけて、羽織はおって、舞台に上がった。
その後新入生勧誘の花見にまきこまれ、なぜか、踊らされ、
帰ってきてから今朝まで徹夜でレジュメと資料作成。

で、午前中に三時間ほど仮眠とって、
資料の手直しと発表の作戦を練る。
夕方5時過ぎて、雨の中、傘をとって、
ハイロウズのリストバンドをはめて、
小金井の某大学の芸術学ゼミへ出発。

レジス・ドブレ著作集4「イメージの生と死」
第六章「『古代美術』という亡霊の解剖学」

終わった・・・
まあ、しっかり準備したし、突っ込まれそうなところも、
大体きちんとフォローできるだけの作戦は練ったし、
ハッタリは会社で鍛えてきたし、我ながらプレゼンは良かった。
「わかりやすかった」と褒めてもらえたし、やれやれ。

後半はパノフスキーを最後まで読んで、終了、
時間は夜の10時を回っていた。
帰ってきて11時、

かつて甲本ヒロトは坂本龍一のメロディにこう歌った。

  ひとつだけ決めよう
  あとは自由
  約束しよう
  あきらめない
  あきらめない
  それだけがルール

 (「桜のころ」Words:Hiroto Kohmoto / Music:Ryuichi Sakamoto)

リストバンドの白い矢印は、銘記の記号。
見たらその都度、四日市にエールを送る。
私がやるべきことは、私の生活をちゃんとすること。
その上で出来る範囲で、精いっぱい応援すること。

リストバンドが、私のルール。


2003年04月07日(月) '03 Rd.1 JAPAN / Suzuka (加藤大治郎選手について)

家に戻ってきたら、郵便受けにビデオテープが入ってた。
オーソリのミミ姉さんからだ。
わざわざ届けてくれたミミ姉さんには悪いけれど、
その白いテープのカバーに、言いようのない不吉さがまとわりついていた。
・・・見たくないし、見る気ない。
と思ってたけど、やっぱり、見よう。
ちゃんと、自分の時間で、あの瞬間に立ち会おうと思った。
そしてその上で、9日午前二時現在も昏睡状態である大チャンに、
私は、エールを送るのだ。

3週目のシケイン。
その瞬間が来るとわかっていてそれを歯ぎしりしながらブラウン管を見るのは、
本当に、辛くてしんどい時間だった。
そしてその一瞬の映像。

一目見て、あまりにも救いのない不吉なシーンだった。
「死」のにおいがブラウン管から圧倒的に放射される。
コース上に横たわる青いライダースーツ、
それは「寝ている」のではなく「動かない」のだ。
そしてデジャビュ、私はこの映像の中に、
2人の世界チャンピオンを見たことがある。
1度目は、F1のアイルトン・セナだった。
2度目は、GP500のウェイン・レイニーだ。
私はどちらも、ほぼ、リアルタイムで見ていた。
セナはその「死」のにおいにまかれてしまった。
レイニーはかろうじてその空気から生還したが、
代償は下半身不随だった。

それでも。

それでも、レイニーは生還したのだ。

加藤大治郎は、天才である。
私は、このサイトで「天才」という言葉をあまりにたやすく使いすぎている。
それはもう、反省する。
反省するが、加藤大治郎というライダーを形容するのに、他の言葉があるだろうか。
原田哲也は250ccでチャンピオンになった。
坂田和人は125ccでチャンピオンになった。
そして最高クラスmoto-gpクラスでチャンピオンになれる可能性があるとしたら、
それは加藤大治郎だった。

加藤はGP年間最多勝記録を塗り替えて250ccのチャンピオンを獲り、
昨年からmoto-gpに挑んでいた。
現時点で誰も追いつくことのできないイタリアのスーパースター、
moto-gpをゼッケン1で走るヴァレンティーノ・ロッシが
今シーズン緒戦を迎えるに当たり「気になるライダーは?」
と聞かれて「katou」の名前を出していた。
そしてそれは、GPに携わる者ならば誰も驚くことではなかった。
実際、加藤大治郎の才能は、日本のジャーナリストよりも、
ヨーロッパのメディアで積極的に認められており、
イタリアに住居を移している加藤は、日本よりも、
イタリアでの知名度が圧倒的に高い。
ナカタやナカムラよりも、知名度は、高いのだ。
それほどに、彼は、速かった。

彼の速さは、原田哲也のそれとはまた違った印象がある。
原田はドッグファイトに無類の強さを発揮した。
競り合いになったときに、彼がマシントラブル以外で後塵を拝したシーンを、
どかはあまり覚えてない。
徹底的にコーナリングマシンを鬼のセッティングで仕上げて、
直線で抜かれてもコーナーで抜き返す、
相手の弱点を全速疾走のレースの最中、冷静に分析し、
レースを組み立て、point of no returnであっさり抜き去りそのままチェッカー。
それが原田の寒気がする速さだった。
大治郎は、競り合いすら、させない。
最初から、ペースの違いを見せ付け、器の違いを見せ付け、
どんどん差を広げてしまって、そのままゴール。
マシンのセッティングが決まりさえすれば、誰にも負けない。
本人は明らかにその自信を持っていたし、
周りもそれを認めた。
そして速いだけではなく、彼は、極端に転倒の少ないライダーだった。
私は、大治郎を見てると「偉大なチャンピオン」ミック・ドゥーハンや、
そしてそれよりも、あのドゥーハンがついに勝てなかった
「120%」ウェイン・レイニーを連想する。
憎らしいほど、速く、こけないで、レース自体がつまんなくなるほど。

でもレイニーと重ねるのは、大治郎の容態へのネガティブな連想ではない。
重ねて言う。
重ねて言うけれど、レイニーは生還したのだ。
私は、いま、現時点で、大治郎のレースへの復帰は望んではいない。
正確に言うと、大チャンのレースへの復帰の可能性は、考えたくない。
未来なんか、どうでもいい。
大事なのは、いま。
いま、この瞬間に大治郎は四日市の病院のICUの中で昏睡状態にあり、
そしてかれは必死に生きようとしていると言うことだけだ。
私たちに出来るのは、私たちと同じこの瞬間に戦い続けている大治郎に、
エールを送ることができるだけ。
レースに戻って、今度こそ、チャンプになって欲しい。
と、もちろん、私だって、思うさ、それは。
でもね、今までたくさんたくさん、大治郎にはピカピカ光る思い出をもらったから、
これ以上おねだりするのは、贅沢かも知れないって。

だからいまは、おねだりをするんじゃなくて、逆に私たちから贈り物をする番だって。

私は、心から、応援します。

神様、大チャンには第2子の女の子が生まれたばかりなんです。
奥さんは大チャンが希望していた「りんか」チャンと名付けることに決めたそうです。
大チャンは、まだりんかチャンを抱いていないんです。

お願いです、神様、大チャンをこちらに押し戻してください。
生まれたばかりの子供を、お父さんに会わせて上げてください。

大チャン、がんばれ。


2003年04月06日(日) つか「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」(BIG FACE)2

さて、てひチャン水野。
もう最初に舞台上手から彼女がスッと出てきた瞬間、
顔が弛む、だらしないどか。
もう、さっき見た木下サンには申し訳ないけれど、
あっという間に木下水野の面影は上書きされ消去。

やはりネイティヴのハングルは耳に心地よい。
その意味がわからなくても、気持ちがちゃんと伝わる、
それは段取りで話すのではなく、目の前の相手に自分の感情を伝えようと、
気持ちを乗せて発声しているからだ。
そして相手がそれに対して返答すれば、全身全霊で、
てひチャンはそれを受け止めていく、センターに立って、
身体の軸はぶれずにまっすぐ立ちながら、そして剛速球の痛みが立ち上がる。
てひチャンがそこにいたから、どかの涙腺は、メルトダウンしたのだ。

「平壌」バージョンでは、熱海定番の浜辺のシーンは、
(この劇中劇のシーンで殺人事件の真相が明らかになる)
真ん中で一度中断が入り、捜査室が「どん底」に落ちる。
水野が過去、伝兵衛の父親に抱かれていた事実が明らかになって、
そのことで彼女を許すことができなかった伝兵衛の弱さがさらされる。
また、水野は水野で、赤ん坊をかつて宿していたが、
伝兵衛の子供か父親の子供かわからなかったため堕胎してしまう弱さも明らかに。
大山は大山で、踏ん張りきれずにアイ子を殺してしまっており、


  水野 私はベストを尽くしましたから


の「ベスト」という言葉の響きが、切なく、空しく響いてしまい。
捜査室が絶望のどん底に突き落とされ、そこから、水野は最後の捜査、
浜辺のシーン・劇中劇を再開する。
自らの「ベスト」をもう一度検証するために。
そして、伝兵衛への愛をもう一度検証するために。
どん底からはい上がる唯一のハシゴとは、前向きのマゾヒスムを押し出すこと。
つまりテンションを極限まで上げきって、もっともっと、
どん底を求めること以外に「本当の」救いの道はない。
大山は言った。


  大山 オレらみたいなバカは、許すこと以外人生、何ができるね


しかし、このセリフは哀しくも裏返される。


  大山 人は下を見て生きていかないかんとです


それに対して水野演じるアイ子はこう言う。


  水野 正しく生きていってもエクスタシーはなか


そして夫である大山に対してのファイナルアンサー。


  水野 あんたなんかと一緒になるくらいなら
     半蔵さんの愛人でいるほうがよか


この一連のてひチャンの狂気。
ここで大山は「諦観」を、水野は「享楽」を象徴しており、
現代の病巣を繁殖させる2つの要因がこのシーンに集約される。
野島伸司が「高校教師」において対立させたように、
現代という時代の空気を吸って、
そこに潜む虚無に対して身体を張った表現を求めるならば、
必然として、この2つの壁に行き当たる。
そして、この2つの壁から逃げずに、玉砕することができるならば、
剛速球の「痛み」と引き替えに、表現者はリアリティを獲得することができる。
つかは、ここで、水野を大山に殺させて、大山を伝兵衛に死刑台に送らせる。
全ての「痛み」を引き受けた上で、舞台をハッピーエンドに導くのは川端伝兵衛だ。
しかし、そのハッピーエンドのためには「痛み」を加速させなくてはならない。
極限まで加速させて、「剛速球」としなくてはならない。
てひチャンの「華」は、ここに集約される。

それまでの芝居で誰よりも明るく、誰よりもけなげに、
他の登場人物の「絶望」を受け止めてきて、
しかし自らの「絶望」を突き詰められたとき、
水野朋子という一人の登場人物の堤防は決壊する。
この堤防をどれだけ高く築くことが出来るか、
どれだけ激しく、一気に決壊させることが出来るか。
そしてさらに、決壊したダムの底に「尊厳」をかけらでも残すことができるか。
分かりやすく言うたれば、それが、役者の力量というものだ。

てひチャンは浜辺のシーンの次ぎに来るパピヨンのシーンで、
花束でうずくまる大山をめった打ちにする。
このシーンの彼女の「痛み」。
花束や新聞紙の棒でしばき上げられる大山の痛みは、
すなわち、しばき上げる水野の痛みだ。
大山の「ベストを尽くせなかった弱さ」とは、
水野が「ベストを尽くせなかった弱さ」に他ならないからだ。
「痛み」にうちひしがれたその両者の周りに、
パァッと花束から散っていく花びらが舞う。
その厳かな美しさ。
「痛み」をとりまき優しく包むようにあざやかな花びらが空中を囲む。
そして、伝兵衛はこの「美しさ」を手がかりにして、
まさに自らの魂を燃やしてハッピーエンドに力業で押し上げるのだ。

このときの花びらの散らし方こそ、熱海が成立するかしないかの瀬戸際。
てひチャンの大山をしばき上げる、その姿勢は素晴らしい。
腰が入っていて、手だけじゃなく、全身の筋肉を使って、
がんがん、大山の背中をしばき上げる。
木下サンや、高野サン、渋谷亜紀は、手打ちになってる。
腰も入ってないから、花びらがうまく散らない。
てひチャンは違う。
そのベビーフェイスが「痛み」に歪み、
しかしその歪みこそが美しく、花びらが華へと昇華する刹那。

やはり、つか最大のヒロインだ。
大山を打ちのめした後、机に腰掛け、ライフルに弾を込めるてひチャン水野は、
あくまで凛々しく、目が離せない。
そして、スナイパーてひチャンは、仇である半蔵を撃つのではなく、
伝兵衛が加えたタバコを狙撃し、火をつけるのね。
「あとは、あなたにハッピーエンドを託します」とでも言うかのように。
素晴らしい演出、ぜったい、つかこうへい自らつけたんだ、このシーン。

つかこうへいサマ、どうかお願いです。
金泰希という、稀代の女優とともに「広島に原爆を落とす日」、
もしくは「飛龍伝」、「銀ちゃんが逝く」をやってください。
金泰希なら、これまで様々な女優をことごとく敗退させた上記の戯曲でも、
十分乗り越えて華をスパークさせることが出来ます。
この華を、北とぴあのみに留めておくのは、既に犯罪だと、私は思うのです。


2003年04月05日(土) つか「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」(BIG FACE)1

キャスティング(BIG FACE:4/4 19時〜観劇)

木村伝兵衛部長刑事:川端博稔
熊田留吉刑事   :吉田 学
水野朋子婦人警官 :金 泰希
容疑者大山金太郎 :渡辺和徳
半蔵       :武智健二

「大阪」チーム終演後、1時間のインターバルのあと再び北とぴあに戻るどか。
2/28の滝野川会館以来、念願だった「BIG FACE」チーム!
2度目の観劇、ついに適う!
「蛍が帰ってくる日」からリファインがかけられた今回の脚本、
でももともと、前回の「蛍」のときから、てひ(泰希)チャンの水野は、
朝鮮から来たという設定だったし、というかハングルの響きが、やっぱ、
断然、美しいし、「極道刑事」という設定も川端サンは大阪出身だから、
大阪弁のセリフも、問題なし、不安要素ゼロ、期待値マックス!

「蛍」と比べて「平壌」バージョンの戯曲はエピソードがてんこもりになってる。
で、芸達者で経験豊かな「大阪」チームですら、いっぱいいっぱいになっていて、
この「てんこもり具合」が若干、観客に対して悪い意味で重たくのっかかってきた。
どかは実は1時間のインターバルの間、この戯曲の改訂は、ちょっと失敗かも、
と思ってたんだよね、もともとエピソード満載で完成度が高かったから、
ちょっといじっただけでもバランスは崩れる、ましてや金正日とか持ち出すと。
でもね、清家サンと智之クンの2人で支えきれなかった戯曲の重みを、
このチームは5人全員で支えられる、穴がない、どころか全員、精鋭!
幕が開いてすぐ、ああ、やっぱこのチーム(BIG FACE)は、
他には得難い何かを持ってんねー、と再認識どか。

吉田サン、さっきの岡元さんの熊田と比べると、雲泥、
コンプレックスに満ち満ちた残虐さ、良いッス。

渡辺サン、自分の線が細いのを良く自覚し、そこから「誠実さ」を発動。
2/28の時よりも、言葉がしっかり、言えてた。

川端伝兵衛、2/28の時よりも全然、良い。
赤塚クンや、鈴木祐二サンなどの、
先達優秀伝兵衛の影を追っかけてたのね、今までってば、彼は。
今回、彼は自分の持ち味を知って、そこから素朴な伝兵衛を作っていった。
セリフも、届く!
清家サンに負けてないぞぉ!

武智サマの半蔵、もう、めちゃくちゃだ。
名うてのJAE所属、身体のキレはハンパ無い。
はっきり言って、北区の役者はもとよりJAEの先輩、
清家サマや岡元サンと比べても全然、回し蹴りのスピードが段違い。
セリフも前はハスキーボイスだけど、線が細くて心配だったけど、
いまはハスキーなまま、破滅的にボリュームを上げる方法、見つけたみたい。
この人がシャウトしたとき、まるで能管みたいに「カーンッ」と
前頭葉を直撃する衝撃波、脳髄を刺激する震動を受ける。
しかし、武智健二という希有な役者の最大の武器は、
身体のキレでもハスキーボイスでもなく、圧倒的な「フェロモン」だ。
こんなにフェロモンまき散らしたら、ヤバいって。
というか、どんどん、艶っぽさ濃度を増してる、このヒト、


 半蔵 お前、男なしじゃ生きていけないんだろ
    こいよ、気持ちよくさせてやるからよ、
    すがりついてこいよ、こいって!

     水野、半蔵にすがりつく

 半蔵 坊ちゃん、こうやってあんたの奥さんとお袋さんも
    すがりついてきたんですよ

 部長 たいがいにせんか・・・!

     部長、熊田、半蔵に殴りかかるが、返り討ち

 半蔵 私は女に対しても男に対しても、大概にしたことはないんですよ


やばいっす。
この数秒足らずの瞬間に、ハスキーボイスと立ち回りのキレ、
そしてフェロモンという武智健二の三要素が凝集、舞台に釘付けになる客席。
どかが女だったら「あんなゲス最っ低っ」て言いつつ、目、ハートになってそー。
でも幸か不幸か、私は多分、一応、おそらく、生物学上は雄であり、
そして幸か不幸か、私が目をハートにしてうっとりする対象は、てひチャンこと、
金泰希サマだったのな(少しだけ、続く)。


2003年04月04日(金) つか「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」(大阪で生まれた男たち)

キャスティング(大阪で生まれた男たち:4/4 16時〜観劇)

木村伝兵衛部長刑事:清家利一
熊田留吉刑事   :岡元次郎
水野朋子婦人警官 :木下智恵
容疑者大山金太郎 :小川智之
半蔵       :酒井隆之

恒例の千円劇場を二本続けて@王子・北とぴあ。
多分このシリーズは、どか、これで最後かと。
にしても、やっぱつかはエラい、この値段
(某「奇跡の人」や「オケピ」の暴利と言ったらあなた!)。
変化にすぐ、気づく、副題が変わってるのね、つまり、
「蛍が帰ってくる日」→「平壌から来た女刑事」に。
でもプロットの基本はほとんど変わらない。
変わったのは、水野が北朝鮮から来たスナイパーだという設定と、
あとは8年前の北朝鮮へのコメ支援や、金正日その人をストーリーに絡めつつ。

「大阪で生まれた男たち」というこのチームは、
数ある千円劇場のそれぞれのチームのなかでも、
最も好評を博していたらしいという噂で気になったんだよね。
で、実際、良かった、さすがだわJAE。
伝兵衛役の清家サマと熊田役の岡元サンはそれぞれ、北区つか劇団所属ではなく、
JAE所属のバリバリアクションのプロフェッショナル。
2人が絡むその立ち回りのキレは、さすがとしか言いようがない。
もはや、演劇の役者のそれではなく、仮面ライダーのそれだ・・・
また、清家サンに関しては、つか芝居への出演回数も数多く、
つか節への理解もかなり深く、とても見ていて安心感と迫力が。
御大・春田純一や、スター・山崎銀之丞を抜かせば、
この人が次に来るのかも知れないなー、つか役者としての「性能」は。
観る前から清家サンがすごいっていうのは知っていたし、
そしてその予想は超えないけれど、
ちゃんと期待値近くまでどかのテンションを上げてくれたし、
じゃあ、なんで2月とかにもこのチームやってたのに見に行かんやった。
と問われればどかはこう答える。

「だって、清家サン一枚で、あと、フォローできないでしょ、メンツ的に」

あとのメンツ、やっぱ、水野は金泰希サマじゃないとなー。
もう、あれを見てしまうと、いくらチマチョゴリ着させても、
もはや、全然どかの水晶体の中でスパークしないんだなー、恐縮ですが。
木下智恵サンは、美人なんだと思う。
最近連続で水野役で舞台に上がってるからこなれてきてるし、
泰希サマよりもずーっといいスタイルは、絡みのシーンで色っぽくてそれもね。
でも、セリフかなあ、コンマ2秒ずつベストのタイミングから遅いんだよね。
どかの中での、微妙な感覚なんだけど、ちょっと、遅い気がする、全部。
テンションがパチンと弾けたら、空気にその振動をすぐ伝わらせないと、
そうじゃないと、どうしても段取りに堕ちてしまうんだ、芝居は。
がんばってるだけに、惜しいなあって。

岡元サンは、声が聴きづらい、アクションはいいけど、
清家サンとの「ディスカッション」、あまりに声質が劣りすぎて辛い。

酒井クンは、前よりも良い、ちゃんとセリフを受けようとしてた。
目の前の相手へ向かっていくベクトルを出そうとしてた、
けど、まだ、弱い。

このチームで、予想外に「良かった」のは大山役の小川智之サン。
終盤、声張り上げるときにお腹じゃなく喉を使ってたから、
声帯をしぼっちゃって、かすれて全然セリフ聞こえなくて、
「ああ、北区病だなあ」って思ったけど、
でも、相手のセリフをちゃんと受けることもできるし、
自分のセリフも酒井クンみたいに、鼻につくようなねっとり感がなく、
まっすぐ、自分に言えることをちゃんと言おうっていう誠実さ。
あと立ち姿、イイナーこの人。

  
  大山 人は下を向いて生きていかないかんとです
     自分より不幸な人を見て生きていくとです


というセリフ。
浜辺のシーンクライマックス、アイ子に言った最後の絶唱。
このセリフがちゃんと届いたの、小川サンから。
それで十分だった。

この後、清家伝兵衛が、この大山を断罪する。
しかし、清家サンがいかに自らの華をステージ上でスパークさせようとも、
このチームでは、どかは泣けなかった。
理由は明白。
伝兵衛と大山の2人芝居ではないから、これは。
水野の不在は痛い。
水野がいないと、アイ子もいない。
だから、どかの水晶体の中に、スパークは届かない。
確かにイイチームだ、清家サンの余裕は舞台の隅々までを優しく包む。
芝居を初めて見る友人を連れて行くなら、このチームかもしれない。
大多数の演劇ファンにとって、このチームはいいチームだ。
でも、どかにとって「ベスト」のチームではなかった。

しかし、どかは、このクライマックスシーンの1時間後、
「ベスト」という言葉の意味と、
そして「スパーク」の本当の痛みを知ることになる。
ベビーフェイス・金泰希、アゲイン!!


2003年04月03日(木) 音楽と昂揚(雑誌SNOOZER)

ついに来週の輪読は、私の番が回ってくることになった。
ドブレ、わっかんないんだよなー、フランス人きらいー。
ロジックをちゃんと使うべきところで、レトリックを連発するだけなんだもん。
回りくどいっつうねん、ほんま。
で、準備に時間かかるのが目に見えてたから、今朝から早速読み始める。
昼過ぎまで読んで、ちょっとギリシアとか美術史の専門の辞書で調べなくちゃで、
仕方なく、ICUの図書館に行くことにする、行ったら入学式の後の、
「キャンパスツアー(?)」で、新入生と親御さんが次々入ってきて。
絶対、どかのこと、ここの学生と思ってんやろなー、バカめ。
と思いつつ一人ほくそ笑んだり(ヤナやつ)。




閉館までそこにいて、
急に小金井公園の桜が
どうしても見たくなって、
春の嵐の最中、強風にさからって、
チャリをちゃりちゃりこいでって、
玉川上水上流にさしかかって、
夕日がキレイでパチり
(さあ高校教師を思い出しましょう)。
もちろんiPodクンはシロップで、
くどいけど以下、回想。


実際、BUMP OF CHICKENの人気はすごいと思った。
ウェヴ上で自分の趣味のレビューをアップしようって輩は、
大概自意識過剰で少しナルが入ってるに違いないんだけど(誰かさんみたいに)、
おおよそCDのレビューを公開してる自称音楽好きの方々のなかで、
バンプを積極的に肯定する支持者の多いことと言ったら、へこむくらいなのな。
ブームだ、これは、もはや。
で、昨日の日記に書いたように、どかにとっての、
「コレぞっ」つう連帯もはかない泡沫と消え、あああ、いいもん、ちぇ。

って思ってたら、ちゃんとフォローが入るから人生は不思議だ
(神様は見てる、お星様は見てる、JAROも見てる!)
昨日の夜、買った雑誌・SNOOZER(スヌーザー)の記事が、
ここんとこ一週間くらいのどかの気持ちを「ジャスト!」って言う感じで、
ものの見事に過不足なく、書ききってくれていてすごい気持ちよかった。
やっぱ「ロッキンオン」より「スヌーザー」が好きだなあ。
兵庫サンや山崎サンはともかく鹿野サンはいまいちだよねー、
やっぱ田中宗一郎サンの記事が面白いよー、少なくともどかには。

シロップのギター兼ボーカルの五十嵐サンへのインタビューが掲載されてる4月号。
そのリード文が、どかには溜飲が下がるというレベルを超えて、感動的。
全部引用したいのだけれど、それは問題もありそうだし、少しだけ、
ごめんなさい、引用したいと思うの。


  粗悪なドラッグ並の、即効性とわかりやすさばかりが売り物の、
  あまりにお手軽な共感装置の氾濫。
  誰も言わないから、僕が断言してやる。
  わかりやすさとは、悪だ。

  ・・・

  あらかじめ繋がることを目的としたわかりやすい表現など、
  母親より年上の娼婦ほどの価値も持たない。

  ・・・

  ここには、いろんな記憶のかけらが渦巻いている。
  悪意と罪が渦巻いている。
  政治的妥当性、一切なし。
  とても第三者が引き受けられないほどの、
  切実すぎる想いも、醜悪な部分もすべてひっくるめて差し出すことが出来るか?


素晴らしい。
さすがだなー、田中サン。
何が素晴らしいって、この文章だけ見ると、
音楽について語っているというより、
もっと深い大きな表現活動全体の真理をついているようにしか見えないことだ。
演劇も、マンガも、小説も、映画も、ダンスも、ドラマも、
ぜんぶぜーんぶ、当てはまるやんか、これは。

そして、SNOOZERの去年の6月号でかつて、甲本ヒロトが田中サンと、
「ロックンロール」について長大な対談をやった。
取材嫌いのヒロトが、とても楽しそうに語ってたの。

そしてそして、どかが知る限り、SNOOZERにおいて、
バンプがスポットを当てられたことは、かつて無い(と思う)。
少なくとも、ここ数ヶ月、いわゆるバンプブームの最中には、
一度も、無い。

・・・久しぶりに来た小金井公園は、平日の昼間なのに、
たくさんの花見客、学生とか、お年寄りとか、子供とか。
どかは、去年の深夜にここに来たことと、
一昨年の深夜にここに来たこととを思い出して、
少しくらい思い出に浸るんも許されるよねーって、チャリ止めた。




  ここには、
  いろんな記憶が、
  渦巻いている・・・


2003年04月02日(水) 音楽と憂鬱(他のレビューサイト)

きょうは某大学研究室にて勉強会。
レジス・ドブレとパノフスキーを予習して、
JR中央線から、京王バスに乗り継いで春の匂いがするキャンパスへ。
相変わらずiPodクンはシロップを流してて。

で、流しながらボォっとシロップとバンプについて考えてた。
ここからは回想。

最近さあ、結構音楽に密着した生活を送ってるし、
シロップのレビューを何本か書いたし、
で、何の気なしに他のレビューサイトをフラーっと渡り歩いてたのね。
芝居と比べると、CDのレビューサイトというのはそれこそ星の数あって、
で、当然、つまんないのもあるし面白いのもあるし、
その面白いサイトのつまんないのに対する割合というのは、
芝居のレビューサイトのそれとそんなには変わらないもので、
つまりその「割合」とはボリュームに拠らずテーマに拠らず、普遍なんです。
と、言うのは、村上春樹が言っててやっぱり彼は正しくて。

で「お、この人は面白いっ」とどかが思った
レビューをアップし続けてるヒトのサイトが見つかったのだ。
順番に読んでくと、なかなか文章が上手くて、オリジナリティもあって、
主観と客観のバランスも良くとれてて、楽しい。
かつ、ここからが重要なんだけど、まず、
シロップを褒めてたのだ、そのヒトは。
で、どかは嬉しくなってホォホォと思ってさらに読み進めて、
ほしたらなんと、そのヒトは「甲本ヒロトの声は特別だ」って!
なぜここで「!」かと言うと、
シロップ好きでかつハイロウズ好きという条件を満たす集合というのは、
世のロック好きという全体の総数から言ったらかなり限定された、
小さいボリュームになるはずなのな。
で、文章も面白いし、恋愛話も楽しいし、このヒトはどかに感性、近いかも!
と、期待して、最後のページを開いてみたの。
そしたら・・・

「私の中で最近の一番は、バンプです」

がーん・・・。
このときのショック、どう伝えればいいのだろう。

例えばね、よし、こう言いましょう。

  例えばイギリスの、例えばヨークというそんな大きくない街の、
  例えばホルゲイトという小さい町内の、
  例えば「フォックス」という小さいなパブでね、
  夕方から、気持ちよく男の子と女の子が2人でラガーを飲んでいました。
  それで、そろそろ帰りましょう。
  そのあとね、例えばその男の子はその女の子のことが好きで、
  彼女のホームステイ先の家まで送っていく道すがら、
  がんばってがんばって「エイッ」と告白したとするじゃない。
  したら「少し考えるから、答えは待って」って言われて、
  で男の子はすがすがしい気持ちでOKでもNOでも悔いはないやい。
  って、ドキドキしながら次の朝、また学校でその子にあったとしてだよ。

  「答え聞かせてくれる?」
  「(小首かしげて)ン?」
  「いや、だから昨日の晩の」
  「・・・ごめん、私、飲み過ぎちゃって記憶・・・無いのよね

というオチがついたくらいのショックだったわけで(ヒヒヒ、妙にリアルだ)。
バンプは、どか、レビューで便宜上触れた後ね、
せめてニュートラルに理解しようとがんばっては見たのだけれど、
やっぱりあれは「ロック」ではないし、
「ロック」の衣をかぶってるだけで、だったらそんな衣、
かぶんないで欲しい、「ロック」が好きなヒトをイヤな気持ちにさせる。
っていう気持ちもやっぱり変わんなくて、ヤなのだ。

でもシロップとハイロウズまではタイトロープ、いい感じの綱渡りだったのになー。
でも、どかよりこのヒト、幅広くちゃんと深く音楽、聴いてるみたいだしなー。
どかの耳か感性が少し、ずれてるかなー。
なんて、不安になってみたり・・・はしないんだけど、
もちろん、どかに限って、自分は疑わない(ヤナやつ)。
でも、ちょびっと、ちょびっとね、寂しかった的な事件であるわけで。
他のサイトなんかだと、ハイロウズとシロップの接点なんて、
とても見つけられなかったわけで。

と、ポケラーっと思ってたらバスが「正門前」に着いたので、
また、パノフスキーに戻ることにした。
きょうの勉強会は楽しかった。
4時間くらいお勉強した後、研究室でそのままピザとって、
みんなでビール飲んで、ダベッて、わいわい。
学校もいろいろあんだねー、少なくともICUには、
こんなアットホームなゼミというのは無かった気がするぞ。
少なくともヒューマニには。

関係ないけど↓は某大学ではなく某ICUの桜。
昔ほど、きれいくなくなってきたね。
もう、桜の木が随分お年寄りだから、枝の密度や花の密度が小さいから、
すきまが大きくなってきたなー。
でも、五分咲きのくせに、それなりの迫力。



2003年04月01日(火) 風呼 @ 渋谷DESEO

どか、2回目の「ふーこー」ライブ、昨日の3/31、
えもとクンと一緒に行く、渋谷のこぎれいなライブハウス。
着いてみると、5組いるバンドのトリで登場らしく、ドトールでお茶して。
再度デセオに戻ってみると、ちなつ嬢もいて、なつかしく。
ごばる嬢と4人でしばし談笑、アンケートの誤字に笑う、楽しい。

で、ライブ。

どかはこのバンドのいっちばん最初のライブに立ち会うっていう、
ごっつい幸運に預かっているわけで、
それはなにが幸運かって、その後の彼ら彼女らが「階段」を上ってくのを、
ずーっと追いかけられて、出発地点との距離を遠く、眺められるからで。
という点でいえば、どかはこのバンドの2回目のライブは観てないけど、
1回目とこの3回目の違いが、とても鮮やかで嬉しくなった。



ステージ上の立ち居振舞いは言うに及ばず、
音、それ自体が、なんかスゥっと
落ち着いた堂々とした感じがあって。
それは演奏の巧い下手っていうのも
関わってくるんだろうけど、
「他人の目にさらされて獲得できる
 客観性の説得力よねー」って。
MCとかは、去年の年末を思い出したら、
その変わりっぷりが、見事すぎて、
面白い(ちょっと作りすぎ?)。


バンドはまだ、スタートを切ったところなのに、
なんだろ、バンドとしてのまとまり感が十全に確保できてるのがすごいなって。
むしろ、まだ、それぞれのメンバーがめいめいに突っ走って、
はちゃめちゃに飛び出してもよさそうなものなのに。
というか、ちょっとさ、飛び出してくんないかなーって。
目指すところの音は、何となく、挑戦に満ちてるのも理解できるし、
実際にその目指すところへ近づいてるんも分かるんやけど、
でも、目指しっぱなしじゃなくて、人前に出すに当たって、
ちゃんと形は整えてますーっていう、良くも悪くも優等生的な。
「いやー昔はこのバンド、はちゃめちゃやったンよー」って、
5年後10年後、どかは言ってみたかったぜ、ちょっとね。
でも、そうやって、形を整えられる余裕があるのは、いいことだ、ウン
(葛藤が多いな、このパラ)。

2曲目と4曲目が好み。
苦手なのは3曲目。
ちょっと、どうだろうって思ったのは5曲目。
どうだろう、っていうのは、メロディは一番好きなんだけど、
でも、あの歌詞を乗っけるのは、ちょっと、わからないかも。
どかは、素人考えだけど、あのポジティヴで、
気持ちよくグルーヴを作ってくれるあのメロディにこそ、
"I'd like to see you again"、じゃなくて
「さよなら」とか「ばいばい」とか、「もう会うつもりないよ、多分」とか、
そんな歌詞を乗っけたら、いいのになーって、漠然と。

なんで、そう思ったかというと、きっと、どかが風呼に期待するのは、
「明るい閉塞感」だからだと思う。
いや、もちろん「また会いたい」というポジティヴな歌はあっていいし、
むしろ、ライブのなかで、そういう曲を聴きたいときっと、これから、
思うだろうけれど、どかは、そういうポジティヴな曲は、
もすこし違う響かせ方をしてほしいなあって思うの。
1〜4曲目まではその「明るい閉塞感」へのベクトルを感じさせてくれたし、
どかは自分でひとり、エラそうに「ウンウン」って頷いていたんだけど、
ラストで「うーん」ってなってしまったのは、きっとそういうことなんだと。
メロディは一番好き、好きだったな、最後の5曲目。



ごばる嬢のボーカルはなんだか
1回目よりもステイブルな印象。
的確に、パキパキパキと、
ポイントを外さずおさえてく感じ。
ほとんど不安になることもなく、
安心して聞いていられた。
バンドがグルーヴを出す瞬間は
サーッと前面にきてひっぱって、
そんでその瞬間が過ぎると
サーッと少しひっこむ、そんな印象。
細かく自分の立ち位置を変えられるほどに、
器用なヒトなんだね。
冷静だ・・・


ベースとキーボードが、どかには印象的だった。
時折、ハッとさせられるフレーズがあった。
もちろん、ギターもドラムもかっこいくて。
というか、普通に巧い、巧いよね。

1回目から比べると、全体的に、自分の輪郭を知って、
それでその輪郭をアピールできるほどの余裕が出てきたことを感じる。
そうして、これからこの輪郭をどんどん大きくしていって、
きっと、ステージ上でどんどん、ピカーッて光っていくんだね。
いいなあ、うらやましい。

帰り道、えもとクンとちなつ嬢とぽちぽち帰り道。
プロフェッショナルが聞くとどういうレビューになるのか、
すっごい興味があって、ちなつ嬢に聞いたら、
少しだけ、教えてくれた。
・・・ふーん、なるほどー。
当たり前やけど、耳と感性を鍛えているヒトは、ちがうなー。

やっぱ、修行ッスね。


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