un capodoglio d'avorio
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2003年03月31日(月) Ort-d.d 「ピノッキ王」

昨日の夜、3/30、千秋楽観劇 with ハルコン、どら。

劇団名は「おるとでぃーでぃー」と読むらしい。
構成演出の倉迫サンは元・山の手事情社の演出助手だったヒト。
で、このOrt-d.dの所属(?)メンバーにどかの大学の後輩がいるの、おかだクン。
ちょっと前に深夜、いきなりおかだクンから電話かかってきて、
「来てください」って、いま何時やあっおーいっ、
でもがんばってるヒトはエラいから、観に来た、北池袋、住宅街、迷った。

キーワードは「コラボレーション」と「力」か?
演劇という手あかにまみれた単語からはこぼれ落ちる舞台表現。
前衛パフォーミングアートっていうデカい倉庫みたいな言葉なら、
なんとか納まるかしらてきな、斬新かつ実験的な手法、葛藤。
ささやいてみたり、どなってみたり、どもってみたり、
1文字抜いて喋ってみたり、コロスがいたり、身体が不自由だったり、
そんなのが、突拍子もなくつぎつぎ展開して、回転して。
下敷きになってるストーリーは、いま流行の「ピノキオ」と、
いまあんまし流行ってない「蠅の王」。
それらを次々レイヤーに重ね合わせてどんな視覚聴覚効果が生まれるのかしら。
というあたりが、テーマだと、どかは観たのだけれど。

一言でまとめると、やっぱ「難解」になるのかしら。

でもね、ただの「難解」ではないのな。
「前衛パフォーミングアート」のほとんどは、
悪い意味での自己満足、自慰行為にしかない。
それは前提としてある、古いスタイルを破壊したくてはじめたのだろうけれど、
もちろん、破壊には、それなりの意味は生まれるのだろうけれど、
その破壊を芸術としての自己表現に高めるには2つの条件があって、
1つは別の価値観を、その萌芽でもいいから提示できること、もしくは、
パフォーマー自身に溢れる才能があること。
どかは、才能さえあれば、次のステージの提示がなくても、
破壊のみでも芸術性を付与することは可能だと思う。
まー、ほとんどはこのどちらの条件も満たしていないのだと思うけれど。

翻って、Ort-d.d。
ここには明確な「破壊」があると思う。
そして、その手法には、確かに揺るぎない才能があると思う。
前述のセリフ術は、それ自体、全く流暢ではなく、
とぎれとぎれでよどみまくってんだけど、そこから生まれる観客を巻き込む流れは、
いささかもよどまず、上演時間の1時間の間、持続して発動する。
この「1時間の間、持続」したのがエラいと思う。
どんな素人だってある種のひらめきくらいはあるから、5分そこそこなら、
「オッ」と思わせる演出をつけられるものだ。
でも、それが「1時間」となると尋常じゃあ無いと思うの、才能だわ。

まったく下敷きのない新しい表現スタイルは、言葉だけじゃなく、身体もだ。
役者は、ある時、壁に張り付いて、腕をねじ曲げた形で静止する。
5分、10分、静止し続ける。
で、いきなりダランと上半身が脱力、Uの時に折れ曲がる。
また別の役者は野田秀樹っぽいスローモーション、
そこからいきなり体操っぽい、全く繋がりのないルーティン動作を繰り返す。
あれ、ごっつい、しんどいって、絶対。
素人の身体じゃ、無理、むっちゃ、鍛え込んでるわー
(って、終演後、おかだクンに聞いたら「まじ辛いッス」って)。
そういう、テンションに満ちた身体それ自体、
観賞に値するものだ、どっちか言うと、演劇よりは舞踏に近いのかな。
無条件に、まっさらな地平から、身体表現を追求していくその手法とかね。

で、まとめ。
どかは恥ずかしいことに「蠅の王」を読んだことが無いの(テヘッ)。
で、ストーリーはリアルタイムできちんと納得するのが、困難だったわ。
悔しいなあ、終演後、どらに聞いたら、なーるほどねえって思えるところ、
多数あったから、あー、もったいない。
あと、どか個人の感想だけど、上記のように、
セリフ、身体、それ自体はそれぞれ素晴らしいレベルにあって、
もちろん、カチカチいってる音響とか、真っ白な有り得ない空間を創出した舞台美術、
伸縮自在の衣装とか(なにげに、衣装が、どかはこの舞台で、最お気に入り)、
ガラスの小物withライトとかも、すごいそれぞれに素晴らしいレベルにあって、
それを統合するイメージが、まだ稀薄だった気がする。
それは、どかがストーリーを、「蠅の王」を読んでなかったからだよ、
と言われてしまえば、はあ、そうですか。
という感じだけど、でも、まっさらな新しい表現を志すならば、
知識としての前提や前提としての知識にとらわれない、
そんなのを凌駕するインパクトが必要ではないかと。

まだ「のりしろ」がそこにあると確信できたし、
きっと、その「のりしろ」が破壊の向こうにある別の何かなんだろうなあって。
んで何より、あの緊張感に満ちた1時間は刺激的ではあったので、
どんどん変わっていってくれることを期待しつつまた観たいなーって思った。

にしても、1時間という時間設定は、的確だわ。
あれ以上、長かったら、観客、持たないッス、とても。
すごい、すごい、濃密な、巻き込み力に、緊張感だった。
演劇好きにもサブカル好きにも現代美術好きにもお薦めできる舞台です。


2003年03月30日(日) G1高松宮記念

・・・と、言うわけで前回の「フェブラリーS」の劇的勝利から一月。またも、どか、激情渦巻く府中の「鳴門」へとおもむく。きょうは高松宮記念。1200メートルの短距離走。あっという間に勝負がついてしまうのだわ。誰にしましょう。


と悩みつつ、府中本町の駅から競馬場までの空中回廊を、さっき買った「勝馬」を読みながら歩いてく。良い天気。日差しがまぶしい。風が強いかな。一月ぶりのTOKYO RACE COURSEは、冬の冷たい風と春の暖かな陽が混じって気持ちいい。先月は寒かったもんなー。家族連れ、カップル、若い女性2人組、多し(もちろん、すえた匂いのするおじさんたちも)。

中山10R・中山11R、連続で外す。ヨコノリから流したんだけど、ダメだった。ちぇー。ま、いいさー、メインレースを獲ればいいのさー。って自分にハッパかけつつ、めちゃくちゃ不安「いつものパターンか・・・」。


さてメインレース。悩んだよー。イラク情勢の関係で、ドバイワールドカップへの参戦を日本馬が見送ったため、武豊とかの鞍が変更になってたみたい。武サマは外国馬ディスタービングザピースという不穏当きわまりない名前の馬に乗る。でもなー、名前もイマイチだしなー、第一、そうビリーヴがいるし・・・

そう、で、直前まで悩みに悩んで、ビリーヴから流すことに決定。決め手は鞍上アンカツ。かっこいいんだもん、凄みがあって、乗り方に。しかも1枠1番のビリーヴ。去年のスプリンターズSはどかが今までで一番感動したレース。その後香港スプリントとか阪急杯で負け続けてるけど、どかの記憶の中では色褪せてない。だから、絶対支持!4番人気だったんだよね。しかも、決断して、武豊は外す!ごめんなさいごめんなさい、武サマ・・・。馬券は最近のどかの定式、馬単と3連複の組み合わせ。

馬単
1ー2(ショウナンカンプ・1番人気、昨年の覇者)
1ー13(ネイティブハート・「勝馬」の遠藤サンを支持して)
1ー18(サニングデール・2番人気、福永クンだし・・・)
2ー1(これだけ、ちょっと恥ずかしいな、おまけ)

3連複
1−2−13 / 1−2−18 / 1−13−18 / 2−13−18 / もいっこ忘れた


ま、こんな感じ。もうレース前はショウナンカンプがダントツの人気で単勝1.2倍くらいだったもんね。大本命。どか、いいのか、この馬券で?・・・いいのー。

発走!

ショウナンカンプがハナを切っていく。予想通り。で、向こう正面、あああ、ビリーヴ、少し下がってる・・・。あああ。コーナー。入って、3番手にビリーヴ、上がった!ビリーヴ迫る迫る。後ろにピタッとついて、直線。ショウナンカンプ、逃げる・・・あああ、ビリーヴ、来たあああああ!来た、抜いた、抜いたああ!「そのままー、行けー、そのままー!」「わああああああ!」ビリーヴ、抜けた、半馬身、抜けた、ショウナンカンプ、スローダウン、後ろから一頭、迫ってくる!サニングデール、でも届かないだろう、届かないやい!届かないっ、やったああああああ!

と、言うわけで(ハアハアハア)、獲ったの、馬券。やったー♪三着はリキアイタイカンで外したけど、文句なし、馬単、ゲットー♪かなり配当、高いっす。今日一日あたりではもちろんのこと、去年の春、天皇賞以来の、どかのプラマイ収支まで、整えてくれたー。すげー、アンカツ&ビリーヴ。ありがとぉー。

落ち着いて(ハアハア)、ビリーヴはもう、絶対支持だわ。ファインモーション様とどかの中では同列。まー距離が違うから、かち合うことはないだろけど、でも、ビリーヴのあの、ラストの直線の競り合いから抜けていくときの気高さったら、ラヴー。

この後、ハルコンとどらと3人で池袋に大学の寮の後輩が出てる芝居を見に行く。そのレビューはまた、明日。


2003年03月29日(土) Syrup 16g "HELL-SEE"

で、これがくだんのサードアルバム(メジャーデビュー後から三枚目)。
どかはあんまし、最初聴いたときは、パッとしない印象。
"coup d'Etat"でぎらついたナイフの刃が、
"delayed"で手のひらのなかに収まって、
そしてこの"HELL-SEE"で、ポケットのなかに入れられちゃったのかなと。
そう、思ったの、最初、ちぇ、って。

でも、昨晩のライブをくぐり抜けた今、どかは1st.でも2nd.でもなく、
この3rd.を繰り返し繰り返し、聴いてる。
それはライブで聴いたから、ってわけではなく、
ライブで聴いて、それでこのアルバムの本質が見えてきたからだ。
どかはもう、シロップはあの切なくも辛い「一室」から、
扉を開けて出て行っちゃったのかなと思ったけど、そうじゃなかった。
まだ、彼らは膝を抱えて、そこにおとなしく、いたんな。

「攻撃性」と呼べるほどのササクレだった言葉はほとんど、見あたらない。
"coup d'Etat"ではもう、聴いてるヒトののど元に白刃があてがわれるくらいの、
そんな切迫感やオブセッションの嵐だったんだけど。
それで、そんな暴風吹き荒れる音の世界が新鮮で、どかは巻き込まれたんだけど。
でもね、言葉遊びじゃなく、いま、思うのは、
嵐が来る前の音が"delayed"、嵐の最中の"coup d'Etat"、で去った後の"HELL-SEE"。
そんな区分けが出来るんじゃないかって。
予感じゃなくて記憶が、そこかしこに、散乱してるような、優しさ。



 風に乗って 風に舞って
 月になって 星まとって
 掴めそうで 手を伸ばして
 届かないね 永遠にね
 (Syrup 16g「月になって」)

 Yeah, Yeah
 そのマッチを1本するたびに
 This is not just song for me
 This is not just song for me
 (Syurp 16g「(This is not just)Song for me」)


予感とは動的なものであり、記憶とは静的なものであって。
シロップはもともと静的なイメージ、バンプみたいく、
どこかに起点があって、そこから冒険譚よろしく突っ走ってく。
みたいな世界ではなく、あくまで六畳一間の一室で全てが完結する、
極めて私的な世界。

そしてこのアルバムはその静的なバンドの世界のなかでも、
もっとも動きが少ない、ただ、優しく、膝を抱えて壁にもたれて、
呼吸をしている子のイメージ、あくまでどかの中でだけれど。

夜明け前、とっても静か。
1日の24時間のなかで、もっとも世界の活動レベルが落ちて、
気温も放射冷却でもっとも下がった極小値をとり、
青い空気の中に自分の輪郭が溶けていきそうなそんな印象。
さっきまで溺れていた嵐はどこかに去ってしまって、
でも嵐にもまれていた頃よりももっともっと怖いものにさいなまれて。
それは、もうすぐ、外から聞こえてくる、
朝日が差すよりも早く、夜明けを告げる、小鳥の鳴き声。
その鳴き声が聞こえてしまったら、また、何も変わらないことを、
何も変えられなかったことに、打ちのめされてしまうから、
だから、せめて、さっきの嵐のなかに戻れたら、
なんて、埒のあかない恐怖にさいなまれる夜明け前の、一瞬、その永遠。

"HELL-SEE"とはそんなアルバムだ。

だから、例によって、ハッピーエンドはどこにもないし、
それどころかエンドロールも流れてこない。
救いはないし希望もない。
でも攻撃性もなく、そこかしこに記憶の粒が散らかってるだけ。
その粒のひとつ一つを、微分して微分して、微分しつくしたら、
きっと、上の「月になって」や「(This is not just)Song for me」みたいく、
聴いたこともないような美しいロックが生まれるんだろうなー。
節操なく無限増殖するJ-POPの浪費的美しさや、
節操なく垂れ流されるパンクブームの欺瞞的美しさではない音。

多分、"coup d'Etat"を聴いてきたから、どかの感性は、
なんとか、この五十嵐ワールドにしがみついてこれるんだと思う。
でもわずか半年くらいで、三枚のアルバムをリリースして、
水増しした、薄っぺらいアルバムかと思いきや、
どんどん「世界」を展開させていくから、ファンは大変だよ、きっと。
じゃあ、着いて来なきゃいいじゃん、いちいち、うざいッス。
とか五十嵐サンに言われてもさ、あなた、私の両耳、掴んでんですけど。
ッて感じ、痛いんだからねー、全く。

でも、好き。


2003年03月28日(金) Syrup16g @ SHIBUYA-AX

昨年末、ハイロウズのライブで来て以来のアックス。ここでライブやるなんてすごいなー、もう、名実ともにメジャーじゃん。当たり前の話だけど、ハイロウズとは客層がかなり違う。20代半ばから30代前半、思ったよりも男が多くて、男女比ほぼ半々。ルックスは普通のおとなしめのヒトが多い、ある「雰囲気」を持ったヒト、ぽつぽついる。

さて、セットリスト(判明時点で随時、補足・訂正を入れます)

 1:イエロウ
 2:不眠症
 3:Hell-see
 4:末期症状
 5:ローラーメット
 6:I'm 劣勢
 7:(This is not just)Song for me
 8:月になって
 9:ex.人間
 10:正常
 11:もったいない
 12:Everseen
 13:シーツ
 14:吐く血
 15:パレード
 <以下アンコール・曲名曖昧>
 16:sonic disorder
 17:生活
 18:明日を落としても

どかとしては1st.のナンバーを中心に、2nd.からも織り交ぜてっていうセットリストを心待ちにしてたんだけど、なんと、1st.2nd.からは一曲も、やんないの。アンコールまでの15曲は全て、新譜の今月半ばに発売されたての3rd."HELL-SEE"で、しかもアルバムの曲順通りにやるんだもんなー。全く・・・。ライブに向けて二日間の日記を割いて、レビューやったのに、外れたよ。というわけで、また、3rd.のレビューは別途、アップします。にしても、新人離れした自信だよなあ。ロングセラーの1st.を全く無視して新譜のみで勝負するって・・・。ある意味、感動する。

どかは3rd.って前2作と比べると、やっぱ少し押し出しが弱いなーって評価、イマイチだったんだけど、ライブで少し見方が変わった。というか、どかの好きな曲やってくんなかったけど、そんなに落胆はなかった・・・どころか、もう、目が釘付けになって、耳がフリーズしてた。すごい!ライブのほうが、100倍、すごい!

まず、とにかく演奏が上手い。ベースのキタダサンは職人って感じで、淡々と完璧にこなしてく。でもその淡々さ具合が、ある種の寒気を感じさせて、カッコイイ。そしてドラムの中畑サン、ちょっと、有り得ないくらいすごい。ハイロウズのおーチャンとはまたちょっと違う、破壊力。もっとエモーショナルなドラムなんだけど、その音圧で、フロアをドミノみたいになぎ倒していくかのよう。そして、何よりもボーカル&ギターの五十嵐サン・・・。

これは、どう考えても褒めすぎなんだけど、どかは五十嵐サンの第一声を聞いて思い出したのは、一昨年の横浜アリーナで見たレディオヘッドのライブ、トム・ヨーク。あのトムの神懸かったボーカルに似てると思うんだよね、五十嵐サン。もう、鼓膜よりも、脳幹よりも、シナプスよりも先に直接、心を串刺しにしてくるような、すごい声量と声質。そう、声量がすごいのね実は。アルバム聞いてる限り、ボーカルの線は細いのかなって、最初レディオヘッド聞いた人が思うように、そう思うのが普通。でも違うんだな。で、だんだん、なるほど。って思った。この声の強さが無いと、このネガティブな地獄は支えきれないだろうって思った。必然なのだ、全ては。

で、時折、声がファルセットになったりすると、もう、例のどか的シロップ体験に入ってしまう(耳だけわしづかみにされて振り回される全身)。どかの前の女の子も、隣の女の子も、泣いていた。ここまで「次の位相」の力を行使してしまうと、もう現世の「この位相」には留まってられないんじゃないかと、ライブの後、不安になったくらい、明らかに、この3次元的世界を超越した、トム・ヨーク張りの力を行使していた、危ないって。

例えば。

例えばね。

夜明け前、部屋の空気から酸素だけがシューッと抜けていって、だんだん息苦しくなって、吐き気がとまらない。というか、吐く。吐いた分だけ息を吸いたいのだけれど、なぜだか、キリキリと引っかかって、肺にまで酸素が届かない。口の中を切ったわけでも無いのに、血の味がする。幻聴や幻視は、時計のカチコチという音よりもずっと優しくそこにいて。でもそんなのに優しいって感じてしまう自分がイヤでイヤで。で、何も考えないで、ひたすら呼吸をすることだけに意識を集中して、吸って、はいて、吸って、はいて。呼吸にのみ全神経を集中してとりかかる。だんだん、だんだん、血の味が引いてゆく・・・

自分の中の一部分を少しずつ殺していくという作業はだいたい、こんな風景と重なってくるものだ。どかはSyrup 16gというのはこんな風景に留まりつづけるバンドだと思っていた。でもこんな風景を、芸術表現として具現化するには、やっぱり尋常ならざる身体の強さ(精神ではなく身体)が必要なんだわ。この「悲惨」を「美」に転換する魔法のコードは、ただ、強靱な身体にのみ、宿るのだ。内的世界を外的世界に表出すると言うことは、ただならぬことなんだから。単にしみったれた人生訓に節を付けてる凡百のバンドとは、わけが違う。

けっして即時的に「悲惨」=「美」なのでは、ない。実際、「悲惨」なんて、そこらへんにくさるほど、うちすてられてる。どかだって普通にその辺に積み重なってくさってた。で、いちいち、そんなのこれが「美」だわなんて言ってたんじゃキリがない、うざい。「力」を信仰するどかは、そんなハンパな似非「美」はヤナの。かつて自分がそんな似非な存在だっただけに、もう、我慢できないくらい、身もだえするくらい、嫌悪するの。

でもね、シロップは違う。

五十嵐サンの喉、中畑サンやキタダさんのリズムセクションには、ハンパ無い強度を保っている。その強度とは実は、そんな「風景」からの脱出を臨む後ろ向きな<現実逃避的>加速度だとしても、そして、実際には足をからめとられ脱出は適わないのだとしても、あくまでその加速度を志向することから、一瞬の<美>は生まれる。距離的広がりも空間的広がりも時間的広がりもない、どこでもない、ある一室で、無限と永遠は生まれるのな。五十嵐サンたら、歌い始める前に、毎回毎回、ため息つくのね。で、それをマイクが拾うから、アックス中に彼のため息がエコーかかって充満。普通、そんなん聞いたら、どか、怒髪天で帰るところだけど、仕方ないなあって笑って見てられたな。「例外だけど、ゆるそう」って思った。「ヒロトがいたら、どやされっぞ、全く・・・」って。

全部の曲が、素晴らしく、美しい。甘いメロディ、艶っぽい声、クリアな開放弦。そしてそれに対応する、破滅的な歌詞、破壊的なドラム、繰り返しループされる少ないコード。全部の曲が、どれだけラウドにかき鳴らされようと、静的なイメージ。そのなかで7と8は、美しさを越えて、永遠だとか無限を信じてみたくなったくらいの「位相」だった。12も良かった。そこにはスピードがあったけど、それは一方向に加速していくベクトルではなく、小さい一人暮らしの部屋の中、グルグル回って加速してしまうすがすがしさのかけらもないスピード。そんな曲を美しく鳴らしてしまうことに、このバンドの才能がある気がした。



ニルヴァーナでもポリスでもないな、レディへに近いよ。少なくともライブバンドとしての資質は、かなり、近い。

・・・褒めすぎかな。

・・・だよね。

でも、もいちど、機会があったら、行きたいな、ライヴ。


2003年03月27日(木) 青年団「忠臣蔵OL編」


@駒場アゴラ、16時からの公演、上演時間短くて50分ほど、でもチケ代は映画くらい。


←駒場アゴラ劇場への道。滋味溢れてイイ感じ。こんな下町に、世界最先端の演劇表現が具現化されてるんだから・・・おそるべし。


そんなに期待はしていなかった。青年団の本公演ではなくて、プロジェクト公演ということだったし、時間短いし、まあパロディなんだろうなあってゆうのはタイトルで明らかで、フフッと笑えて楽しいかなーって。・・・甘かった。面白すぎ。50分間、ずーっと笑いっぱなしだった気が。クスクスクスクス、止まらない。


どこまで「忠臣蔵」を解体してくるかなあっていうのがまず興味あって。例によって開演前から舞台にたたずむ役者はOLの制服を着ている。「ああ、やっぱりね」と一人ごちるけど待てよ、彼女が座ってる椅子にかかってるのは、プラスチック製のおもちゃの刀。そうこうしてる内にOLが1人増え2人増え「お家断絶」だの「おとりこわし」だの「吉良が」だの「大石様だの」会話の中に挿入される、お約束ワード。

ビックリしたことに、背景は十全に「忠臣蔵」だった。ちゃんと「忠臣蔵」で、で、お殿様が吉良に斬りかかってしまい、それで切腹させられて、でも吉良にはおとがめなしで、ああ私たちこれからどうすればいいのーっていう赤穂藩士、ではなく、赤穂カンパニーのOLたちの昼下がり。そうこうしてると「ご家老」大石サンが登場。めいめい昼食をとりながら、ゆるーく、ミーティングが始まる。「私は籠城したいっ」とか「いや仇討ちおぉ」とか「でもやっぱり仕官もしたいしぃ」とか「じゃああなた、切腹したらどうなのよぉ」とか。もう、楽しくって仕方ない。どか、ズーッと笑ってた気がする。

かつての赤穂浪士を、そのまま保存するのではなく、赤穂浪士のかつての「とまどいや憤り、切なさ」自体を丁寧に抽出して、その「メディア」を浪士からOLに換装して再現してみせる。オリザの才能は、その<本質の抽出>と<メディアの換装>の的確に他ならない。そして<本質>が捉えられている限り、表現は浅薄陳腐に堕すことは決して無く、どれだけパロディに笑わされようとも、閉幕後のあとを引く「化学反応」はじわじわ、観客1人1人のなかで進行してくの。

「ご家老」大石サンのキャラクター設定が秀逸。あらかたOLが部屋に集まってめいめい言いたいこという中で大石サンは登場する。強力なリーダシップを発揮するんかしら、やっぱり。って思ってたら逆で、腕押しのれんな味わいのへなへな具合。「はあ」「そうねえ」「ま、そこを、これからみなさんで、話し合って、ね?」って感じで。楽しくって仕方ない。「それが武士道ってもんでしょお」と田中サンが言えば、「ほら、武士道を問題にし出すと、もう、わけわかんないから、ね?」とやんわり大石サン。ラヴー。で、まあ大石サンは初めから真っ直ぐ「論理的」に話を進めるのは、無理だって、じつは悟っていたというのが最後のセリフで分かるんだけど。

とにかく、はたから見ててみんな議論・対話がヘタクソで、でも、ああ、自分もかつて、こんなだったよなあってしんみり思ったり。それでね、大石サンが最後、ぐるぐる回っていた場の流れを、なんとなーく、やんわーり、まとめてくのね。とっても日本人的に「じゃあ、そんな感じですか、ね?」って。


  もう関ヶ原から100年以上経ってるのよ、
  みんな「武士道」なんて生まれたときから押しつけられたけど、
  それ、なんだか、もう、訳わかんないじゃない。


とか、

  
  仕官の道に進むのも良し。
  とちゅうで脱落してしまうのも良し。
  その時点で残っている人だけで仇討ちに行きましょうよ。


とか、なぜだかフフっと笑ってしんみりジーンなせりふたくさん。

他人と分かり合えて100%シンクロしていくことなんて、ハナから無理なのよ。って言葉で言うのは簡単だし文字に書くのも簡単だけど、その言葉や文字からこぼれ落ちていく「切なさ」だとか「悲しさ」だとかを、演劇という表現手段はかろうじて掬うことができる。とくに「武士道」のクダリはとても意味深長だなあって。江戸時代から、日本人はなにも、成長してない、変わらない。だからOLが話していても、リアリティがあるんだわここに。って。

日本人のコミュニケーション能力の低さが、石原「三国発言」慎太郎を生み、小泉「米国大使」純一郎を生んだ。強権発動をリーダシップと誤解しているディクテイターは、あのOLたちが見せたミーティングの緩さ具合から発生した鬼っ子だ。論理的に話すことを辞めたデマゴーグ。ただ論理的に話し続けるコメンテーター。日本人はその合間でキョドってしまって、自分のあり方を決められない。でも、じゃあどーすればいーのか。オリザは、方向を指し示さない。希望も提示しない。オリザはただ、そのキョドった自分たちの姿をわかりやすく、見せてくれるだけ。ただ面白く、ただ切なく。そこで笑って、そこで泣くところからしか、始められないでしょっていう、上目遣いの独り言。薄目で自分たちを見ることを、みんな、して見ようよ、まずは駒場アゴラに行くべし。いま、このたった今の日本の絶望の縮図を、きれいで楽しい寓話にしてくれてるんだからさー。

・・・他人と分かり合うのが不可能だと知ってから、じゃあ、何をすればいいのでしょう。芝居最後の場面、基本路線は<仇討ち→切腹>で、と決めた後の「ご家老」のセリフ。テキスト手元にないから、ごめんなさい、正確じゃないけど。


  いきなりお家断絶とか・・・もう訳分からないじゃない。
  そもそも武士道とか、なんで私たちがここにいるのか、
  そんなことから、もう、分からないじゃない。
  だからさ、もう、運命としてさ、
  なんとなく、やってくしかないでしょ。
  

どか、最後にきて、半泣き。また、やられた・・・。さんざん笑わされて、最後にほろり。切ないぞ、オリザ。このときの大石サンの表情。素晴らしかった。哲学者の論文や作家の著作が及ばない、総合芸術としての演劇の凄み。そう。私たちは、こんなにも情けなく意気地がなくだらしがなく節操もなくてはかないんだけど、こんなに哀しくて切なくて、優しく、なれる。


2003年03月26日(水) Syrup 16g "delayed"

で、こっちがセカンドアルバム"delayed"。
攻撃性が少し抑えられて、ちょい耽美的なベクトルが大きくなった感じ。
でも、まったく「ナイフ」を放棄してるわけじゃなくて、
手のひらの中のその哀しく光る刃のきらめきが時折目に入るから、
それが、気になって、怖くって、哀しくって、で、
聴いてると段々、優しくなってくる。

"coup d'Etat"で切り刻んだ自分の身体から流れた血が、
雨に濡れたアスファルトに拡散していって、
路肩のひび割れから地面にしみていく。
そのしみていく音にならない音を聞く感じ、
あくまでどかの個人的な印象だけど。



  愛する色が
  どんな色であっても
  優しい気持ちだけで
  夜は明けていくよ
  (Syrup 16g「Reborn」)


  皮膚感覚は麻痺して
  脳細胞は死滅して
  ラクダみたいな顔して
  欲望は狂犬みたいで
  (Syrup 16g「落堕」)


そう。
ラブソングなんだよね。
うっかり、気づかないところだったね。
オリコンで無自覚に流されてると見せかけて自覚的に流してる、
サビばかりフックが強くてボトムが無い、
聞きやすい「応援らぶそんぐ」とか「病気らぶそんぐ」から、
あまりにかけ離れてるから。
どかの耳も、危なかったのか・・・、麻痺してたんかな、ヤベヤベ。
にしても、「Reborn」は名曲だなあと思う。
切ないなあ、すごい、すごい、分かるのすごい。

でも、"coup d'Etat" より先に "delayed" の曲に触れていたとして、
そしたらどかはすぐに反応できたか分かんないな、正直、自信、ない。
聞き込めば、あらがいようもなく絡め取られてしまう、そんな感じ。
"coup d'Etat"はもう違うもん。
いやがる身体を、耳だけでひきずり回す感じ、痛いッつーの。
でも、嬉しかったり(どかはMよかSのが強いはずなんだけどなあ)。
人に勧めるとすれば、まずファースト。
でも、どっちにしても、両方、名盤。

・・・という前フリをしておいて危険な話題かと思うけれど、脱線します。
ある音楽レビューサイトを見ててビックリしたこと。
BUMP OF CHICKEN と Syrup 16g のメンバーは個人的にとても仲がいいらしい。
へえー、なんでやねんな、とどかは思った。
ここまで書くと、もうバレバレだけど、どかはバンプ、あまり好きくない。
カラオケとかでバカ盛り上がりはするけど、でも、個人的に部屋で聴きはしない。
あれはロックじゃないと思ったの
(って話を、ハイロウズのライブに一緒に行ったときにハルにゆったら、
 彼も「そう思う、ライブに行きたいとは思わない、バンプのは」って
 言ってたので、そーだよねーって)。

どかがバンプを嫌いな理由はいろいろあるけど、
でも、Syrup 16g の持つ最大の武器が、自己否定を突き進む「誠実さ」だとして、
バンプは自分を「自己肯定」するため突っ走るんだけど、それを裏打ちしてるのは、
あまりに軽薄で安直な「欺瞞」だと思うの。
昨日の繋がりで言うと、二律背反の「フリ」をしている感じ。
背反しつつ、ぼくは突っ走るよーって、元から背反してないジャン、みたいな。
あと、演奏も、めちゃくちゃヘタクソだと思う、バンプ(ハルも同意)。
昔、ブルーハーツがブレイクしたとき、もちろん彼らのヘタクソぶりは有名だった。
で、一部アホなメディアが「ブルハはいいよねー、ヘタクソで」って書いてて、
どかは唖然とした「ヒロトやマーシーマジ切れするぞ」って。
演奏なんて、上手けりゃ上手いほどいいにこしたことは無いのに。
ブルハがブレイクしたのは、もっと別の、光り輝く才能がまたたいて光増す、
「夜のとばり」があのころの時代に降りてきたからなのに
(そして今、ハイロウズはロック界で最も演奏の上手いバンドの1つになった)。
じゃあ、バンプが今光り輝いてるのは何でかって、
それは自ら恒星となって燃えてるのではなく、
時代が彼らを「享楽刹那主義」のピンスポットで抜いて、
「諦観没落主義」がフットライトで照らしてるからだと思うの。

そんなふやけた「自己肯定」応援ソングなんて、もうお腹いっぱい、
間に合ってます、どかには。
というか、シロップがいま、ガンガン売れはじめたのは、
そんな「お腹いっぱい、間に合ってます」感と呼応しているのを、どかは確信してる。

というか、目指してるところが違うんかねー。
オリコンチャートをただ、突っ走りたいって思ってんだったら、
確かに正解100点ですって感じかな。

でもどかは、テレビゲームみたいにスコープの中、
精密射撃の映像を見せ続ける今の報道よりも、
テレビカメラのいない場所、無辜の子どもたちがあっという間に資材の下敷きになって、
でその土地に染み込んでいく血が乾いてしまう前に想像しなくちゃ、と思うの。
シロップとバンプって、つまりはそういうことだと。
どかは「落堕」を聴きつつ、そんなことを、思った。


2003年03月25日(火) Syrup 16g "coup d'Etat"

Syrup 16g、「しろっぷ・じゅうろくぐらむ」と読む。
メジャーデビュー後、これまで三枚のアルバムを発表。
間違いなくいま、もっとも激しい勢いで「シンデレラの階段」を昇り続ける3ピース。
初めて聴いたのは、去年の秋、退職前夜の部屋だったと思う、
テレビで流れてた、偶然のクリップ。
なんか身体全部が抵抗してるのに、耳だけが引きずり回されて、
自由がきかない感じな吸引力で、翌日すぐにチェックした。
そのころ、最近のパンクブームには半ば飽き飽きしてたどかの耳には、
圧倒的に新鮮な何かをそこに感じ取っていたのだと思う。

ギター・フィードバックと、甘い耽美的メロディ。
破滅的精神的社会不適合的歌詞と、艶っぽい甘いフェロモン声。
どう聴いてもグランジっぽいんだけど、でもディストーション無しなクリアな開放弦。
そんな二律背反の上に、シロップの音は成立している。
簡単に「二律背反」って言うけれど、それを表現の中に取り込める人って、
かなり少ないと思うの、どかは。
大概は、そういうフリをしているだけとか、片方は嘘とか。
アンビバレンツでいることに酔っているとか。
鴻上尚史が「病気芝居」と言って断罪した、
薄っぺらいネガティブへの志向、ナルシシズムの欺瞞。
冷静に、立ち止まってみると、シロップも一見その軽薄な欺瞞かな?
と思われたりするかも、短絡的にネガティブで刺激的な言葉並べたりして、って。

でもね、違うんだな。

ギター兼ボーカルの五十嵐隆は軽薄からも欺瞞からも距離をおいた、
たぐいまれな真空を生み出したかのごとく・・・


  
  チェインソウ 冴えまくる刃
  12時間使用でも平気さ
  めい想してる暇ないや
  何か悟ってそうなことを言え
  (Syrup 16g「天才」)

  
  愛されたいなんて言う名の
  幻想を消去して
  沈むよ嵐の船
  環境と関係性と
  感情の海で
  沈むよ嵐の船
  (Syrup 16g「My Love's Sold」)



なぜ、五十嵐はその資本主義的「二律背反」の罠から逃れられたのか。
それは、彼が狂気を志向しつつ、ついに冷静な自分の客観を捨てられなかったからだ。
彼はどこまでも現実の矛盾や病巣に冒されて侵されて、
もはや正気でいることへのあきらめという名のロープに首をかけつつ、
しかし一方でその首をかけて台に上る自分の背中を、
この人は冷静に観てしまう人なのだ。
甘いメロディに艶っぽい声、かつグランジっぽいということで、
ほとんど全ての人がニルヴァーナを想起するだろうこのスタイルに、
しかしシロップはかつて、カートが殉教したロックという土壌の、
その十字架の立てられた丘の土壌に潜むバクテリアを見てしまうのだ。

狂気に走りつつ、狂気に行くことはかっこわるいこと。
でもそこで立ち止まっている自分はもっと、中途半端でやるせない。
いっそのこと諦観にバカになって「病気ロック」まで行くか、
もしくは享楽にバカになって「応援ロック」をやっちゃうか。
でも、かわいそうに、行けないの、彼。
なぜって、見えちゃったからだね、いろんなものが。
だから、彼の二律背反は本物だ。
それが本物の代わり、シロップが失ったものは、分かりやすい希望の提示。

実際、ここには、希望といえる希望は、まっすぐ示されない。
自分を真っ先に否定しつつ周辺の絶望もバッサバッサ断罪していくけど、
代わりになにかしらのポジティブなベクトルがあるかと言えば、無い。
そこに、シロップというバンドの良心が見える、言い換えれば誠実さ。
だから、きっと、どかは、かみひとえで好きになれたんだと思うの。

"coup d'Etat"(もちろん「くーでたー」と読む)は大傑作だ。
その後の二枚のアルバムも出来はいいと思うけど、この、
ファーストインパクトを越えるものではないと思う。
一番、そのネガティブな断罪の刃が研ぎ澄まされているからだと思う。
それは歌詞だけじゃなく、音にも、そう。
そしてそれは周りを切り刻みつつ、最終的には自分の身体こそを、
一番、切り刻んでいく。
そのしたたる血を見続ける行為が、
なぜか自分の中で「化学反応」を喚起し、
淡い希望みたいなのが生まれてくるから不思議。
なんだろね、誠実さかなあと思うの、どかは、その触媒は。

今は4曲目の「手首」が一番好き。


2003年03月24日(月) 野島伸司「高校教師('03)」いいドラマって

例えば、多くの人が指摘したように、
CX系のドラマ「僕が生きる道」のくさなぎクンとこのドラマの藤木直人サンは、
余命僅かと宣告された、高校の先生というかなりタイトなディテールまで、
類似するという偶然が重なった。
さらに「伝説のドラマの続編」などと話題先行で盛り上がったTBSが、
結局野島ドラマ史上最低の平均視聴率に終わったことに対して、
プロモーションはあまりパッとしなかったものの、
CXのくさなぎクンは20パーセントを超える視聴率を最終回にたたき出した
(ちなみに「高校教師」は11パーセント)。
どかもラスト3話ぐらいから何となく「僕が生きる道」を見てたの。
くさなぎクンはジャニーズでダントツ一番、役者の才能、あると思ってたし。

くさなぎクンのパセティックな演技、やつれた顔をつくるまでのダイエット。
そして最後は、仰げば尊しでシャンシャンシャン♪
分かりやすいテーマに、分かりやすい映像、明快なラスト、SMAPの主題歌。
終わってみればその構成要素は、全てヒットに繋がるものばかりで、
不安要素は余り無かったことが分かるの。
CXドラマ編成部の戦略的勝利と言える(月9ではこけたけど)。

逆にTBSは、かなりの痛手をこうむっただろうなー。
「GOOD LUCK」が視聴率ではダントツNO.1を勝ち得たから、
表向きの体裁は保つことができたんだけど。
と、言うことは、TBSというより野島伸司個人が、痛いのかしら。
あまりにオリジナルで哲学的な思念をそのテーマとする作風は、
もはやこの「疲れた」日本では受けないのだろうか?

重ねて言うけれど、視聴率はあくまで指標にすぎない。
でも、どかは野島伸司という作家を絶対支持したいから、
なおさら、視聴率というものは看過できないファクターであると思うの。
「数字」が取れなければ、次作のプロダクションに向けて、予算が削られる。
予算が削られれば、イイ役者を揃えられない、撮影にも時間をかけられない、
スポンサーからの要請に応えて脚本も方針変更を迫られる、
結果、野島ドラマのクオリティが下がってしまう・・・
そんなのは、絶対、やだの。

○ 考察・対「GOOD LUCK」編

「GOOD LUCK」:木村拓哉・堤真一・柴咲コウ・黒木瞳・竹中直人
という圧倒的なポピュラリティを背景にした布陣に対して、
「高校教師」:藤木直人・上戸彩・蒼井優・京本政樹
という布陣は明らかに、その線では見劣りがしてしまう。
実際に主演の2人は野島ドラマをよく「咀嚼」して、
野島ワールドへの優れた適応力を見せたし、評価されるべき演技だったと思う。

でも、それとこれとは話が別なのだ。


○ 考察・対「僕が生きる道」編

「僕が生きる道」との数字上の差がついてしまったのは、
ひとえに「テーマの明快さ」の差によるものだと思う。
第1話スタート時点では、それほど差がなかったのに、
最終回終わり時点での差が生まれたのは、
考えようによっては「GOOD LUCK」の事例よりも、辛い結果かも知れない。
「テーマの掘り下げ、生死の境のリアリティ」では、
圧倒的に「高校教師」に分があったし、くさなぎクンの演技はある意味マンガだった。

でも、それとこれとは話が別なのだ。


じゃあ、もう一つ、おまけ。
実はやっぱり、これが一番辛かったかも。

○ 考察・対「日テレ・金曜ロードショー」編

金曜22:00「高校教師」の裏に日テレはことごとく、
強力な映画、特にジブリ作品をぶつけてきた。
覚えてるだけでも、
「インディペンデンスディ」「シックスセンス」「バックトゥザフューチャー3」
「千と千尋の神隠し」「もののけ姫」「天空の城ラピュタ」等。
とくに「千と千尋」は瞬間最大視聴率は
テレビ史上最高(映画部門)の、46.9%!!!
他のドラマのサブミッション攻撃よりも、この日テレの直接打撃が、
一番響いた気がするな、どかとしては。


視聴率なんか、関係ないよっ、とはとても言い切れない。
木村拓哉のいっつもいつも変わらない同じ演技に救われる人や、
「僕が生きる道」のシャンシャンシャン♪に癒される人を否定もしない。
でもね。
見終わった後に、何が残っているのか、そおいうのを冷静に、
自分と対話しながら考えてみたときにね、この2つのドラマって、
ドラマがオンエアされてる瞬間はそりゃあ、気持ちいいリフレッシュを
届けてくれるかもしれないけれど、終わったらそれまでじゃん。

本当に良いドラマというのは、最終回で
「はい、シャンシャンシャン♪」みたいに終わって視聴者の中で
リセットされるようなのではなく、最終回エンドロールのあとから、
何かしら視聴者の中で始まっていくもの、
「化学反応」がじわじわ起こっていくものだと思うの。
短絡的に余韻にひたるという意味ではなく、ね。

例えば、いま、どかは、雛はもしかしたら、死ななかったかも知れない。
ってまた、考えてたりするの。
雛にとって、また、必ず郁己と巡り会うという可能性、
それは郁己が計算したように、決してゼロではない可能性を
まっすぐ信じるのであれば、一年経ってすぐに現世を諦めて
会いに行こうとはしないかもしれないなって。
例えば、目の前にいる白鳥の中に、郁己の存在を感じているかも知れないし。
永遠とか真実とかって、なんだろーねって、ぼんやり考えていくこと。
どかが今までいろんなドラマを見てきた中で、野島脚本ほど、
この「化学反応」が濃密に始まるドラマをどかは他に知らない。

「私はドラマを、単なる気分転換にしか思ってません」
「私は永遠とか真実とかって、怖いから、目をふさぎます」
って言う人のが、圧倒的多数なのも、じゅうぶん分かってるんだけど。


2003年03月23日(日) 野島伸司「高校教師('03)」ラストシーン・瓢湖

最終話において、瓢湖は二度、登場する。1度目は、藤村先生の葬儀と重ねられたシーン、バックには「仰げば尊し」が流れる。いま思うと、藤村も「恋愛」ではなく「依存」こそを矜持としていたのかと思う。10年前に女生徒への陵辱を繰り返した背景が初めて明らかになる、藤村もまた、いつわりなくうつろいもしない「真の繋がり」を原子レベルに探して疾走したの。その疾走途上での、必要悪としての、レイプ。いつしか、その「真の繋がり」を探すことをあきらめ、足を止めた瞬間、彼を襲ったのは絶望的な罪の意識。紅子がいたヘルスの個室は、彼にとって教会の懺悔室だった。そうして罪は裁かれ、命を落とす藤村。

でも、藤村の陵辱を知ってなお、葬儀で「仰げば尊し」を歌う紅子。ああ、ホントに彼女は聖母だねーって思ってたら、なんと絵美までそれに唱和する。これはすごいなーって。彼女こそ、原子レベルの真の繋がりを宿した、藤村にとっての永遠だったのな。その瞬間、合わさる瓢湖の白鳥のシーン。涙腺、崩壊。ある種の人にとっては、死ぬこと自体は不幸なんじゃない。いつわりとうつろいのなか、時間を生きることこそ、不幸なのだ。藤村先生は、そうして永遠の安らぎを得た。郁己はしかし、その藤村先生の安らぎをまだ、この時点で知らなかった・・・

さて、土管のシーンの後、郁己を乗せたヘリコプターは、夕日に向かって、まっすぐ飛んでいき、そこに重ねられて、一昨日引用した、最後のモノローグ。夕日というのは、これまでの展開の中で「死」「無」という象徴として使われていた。そしてモノローグにもあるけれど、

 郁己 たとえ二人が、何億光年引き離されたとしても

なのだから、いろいろ議論がある、郁己の生死については、間違いなく、死んだのだと思う。はっきりとした描写や言葉はもちろん無いけれど、この前後のコンテクストから、すれば、完治した可能性はゼロである。ただ、ほんの少しはその後余命を伸ばしたのかなという気はする。雛との双方向の完全な「依存」・ミニマムな「愛」を達成したご褒美に、神はそのくらいしてもいいんじゃないかと思うから。いるとすればだけど>神が。

さて、1年後(これは絶対、一年経った後だ)、ラストシーン、問題の瓢湖の場面。ここで、雛は後を追って死んだのか、死んでないのか、他の男と幸せになっていく可能性はあるのか、二人三脚で一等になるのか、それともずっと一人で生きるのか。野島伸司フリークサイトのBBSは百花繚乱、すさまじい深度での読み込みが進められている。で、どかなりの意見。まず、郁己は死んでいる。これは前提。そして、雛は、このあと、入水自死を図ったと思う。その理由はこれまで述べたとおり。

 雛  ・・・やくそくしたらずっとそばにいていい?

土管の中の雛の約束は、彼女にとっては、死んだ後も、ずーっと一緒にいるよ。っていう静かな事実を意味していたのだから。第七話かな?橘が「依存は内に篭もる、排他的で、希望がない」みたいな分析をしたけれど、それはその通り。ただひっくり返すと「内面静かに深められる、2人だけで、永遠の」と読み替えられる。もちろん、世にはびこる、虫ずが走るような全ての「依存」を当てはめるわけではないけれど、少なくとも、雛は、ここで永遠の「依存」を志向した。希望はないし、未来もない。だって、すでに彼女は満たされており、一瞬の永遠にあるから時間の経過も無関係。

もちろん、半ば、宗教的な領域のテーマになる。かつ、現世での幸せを否定しているから、危険なドラマとも言える。でもそうだろうか?こんな表層を滑り続ける「享楽と諦観」にまみれた世界だから、結局、戦争をとめることができなかったんじゃないのか。自分の内面をじっくり深めて見ていくことをしなかったから、他人への想像力が、どんどん退化していったんじゃないのか。郁己は死に、雛も後を追って、死んだ。しかし、これはハッピーエンドである。唯一、「永遠と真実」の名においてのみ、これは明らかなハッピーエンドだと思う。そう、思うの、どかわ。


そして・・・


そして、ラストシーン。白鳥で埋まった湖面を見つめる雛。白と水色が混ざった色のマフラーになってる。最初は黄色のマフラーをずっとしていた。10話で雛は灰色のマフラーになった。ひよこ(黄色)から、幼鳥(グレー)になり、最後に美しい白鳥(白)になってスワンレイク(水色)にたどり着いたのね。そして手には制服とネクタイをつけたテルテル3号と4号。回想で、郁己と一緒に瓢湖を訪れた時の会話が挿入される。


 雛  先生、奇跡って信じる?

 郁己 否定するね、数学者や物理学者は特に

 雛  わたしは、信じる

 郁己 君は何でも信じるから


かつて、火葬されて死んだ人間が、炭素になって、宇宙空間をさまよい、再び一人の人間と会える可能性を計算した郁己。今度は雛が、その可能性を、信じる。この切ないユーモアに満ちた温かい会話とともに、雛は足を進める・・・双方向の「依存」。

この時の雛の、穏やかな顔。そして、ヘリコプターが飛び立つ直前の、郁己と見つめ合う、雛の顔は、ほんとうに美しい。そこには時間も止まって、希望もないけれど、そこには永遠と真実があった。

最後にもう一度、ラストのモノローグをかみしめたい。


  たとえそれが恋でも愛でもないのだとしても
  君が僕を望む限り
  僕が君を望む限り
  I NEED YOUと望むかぎり


この2つのシーンの雛の顔は、忘れられない。


2003年03月22日(土) 野島伸司「高校教師('03)」ラス前・土管の中で

ラストのいっこまえ、土管のシーン。また、現世における愛の永遠の不可能に深く傷ついた2人は、あの公園の土管のなかで再会する。「一生、先生のこと、想い続けるよ」と以前に約束した雛に対して、「自分のことは良い思い出にして、他の男と結婚して幸せになってくれ」と郁己は約束を迫る。


 雛  簡単に言うね

 郁己 もちろん、いいひとを

 雛  先生より?

 郁己 ぼくは悪魔みたいだろ

 雛  さみしがりの、悪魔ね

 → これは以前、鏡面化の実験がばれたときに、
   「先生は悪魔だよ」と痛烈に責めた雛の言葉が下敷きに。
   でもこのシーンではとても温かい響き方、いいの。

 郁己 そしてしあわせな結婚を、こどももふたり
    運動会の二人三脚、一等を
    約束してくれ


 → ここで郁己は恋愛感情の優しさを最大限に発動させる。
   優しさとは思いやりとエゴイズムとの綱渡りのバランス。
   今は、雛も、それを知っているから、もはやむげに拒否できない。

 雛  ・・・やきもちとか焼かない人?

 郁己 そうでもないけど

 → これも以前、まだ鏡面化の実験がスムースに行われてるときの、
   雛のセリフが下敷き、ギリギリの局面で精いっぱいのユーモア、
   視聴者の心はふるえるの、すごく。

 雛  化けてでない?

 郁己 でない

 雛  ・・・やくそくしたらずっとそばにいていい?

 郁己 ああ

 雛  ならいいよ・・・約束する。

 → 郁己は恋愛感情に従って、雛のそばにずっといるという約束を破った。
   雛は逆に、恋愛感情でもって、郁己との約束をしたのだ。
   2人とも自分の本心とは相反する行動に出たのだ、相手をただ、想って。
   この雛と郁己で全く逆の嘘をつくということに、
   切ないなあ、苦しいなあと想っていた、良いシーンだなあって。
   最後の最後でも、自分の真っ直ぐな想いを、
   ただ真っ直ぐに表現できないことが、恋愛なんだなあって。
   そしてこの後、機能引用した郁己の名セリフ
   「僕を組み立ててくれた・・・」が入るの。
   恐怖や絶望といったネガティブイメージの入らない、
   きわめて創造的で希望に満ちた温かいイメージな雛へのお礼の言葉。
   それはギリギリの生き死にの風景の中で、
   敗北に瀕した「恋愛」の、最後のスパークか・・・
   郁己は目を閉じる、顔から生気が失せていく、雛の、そう。
   この時の雛の、顔だ!


この瞬間から「恋愛」とは違う別の概念が、激しく発動する:「依存」だ。そもそも郁己にも「依存」という側面は最後のこの瞬間まで、あったはずなのね。でも彼は「恋愛」をより高次の尊いものだと考えて「依存」を抑えて「恋愛」を前面に押し出していった。「僕を組み立てて」というセリフはそれの際たる発露。それに対して、雛も「恋愛」でもって、郁己を見とっていきたいと思い応えていった。けれども、永遠の、真実の、繋がりというのは、恋愛では、達成され得なかった。

  永遠の、真実の繋がりというのは、恋愛では、達成され得ないのだ。

なんというペシミスティックな、でも圧倒的なリアリティ。痛い。

その痛みを乗り越えて、しかし雛は、郁己が植物人間になっても、半身不随になっても、僅か数日の延命のために地獄の苦しみにのたうつことになったとしても、それを受け止めていく覚悟のもと、郁己に全身全霊でもって「依存」していくの。その全身全霊具合は、言葉じゃない。ストレッチャーに乗せられた郁己を見送る、雛の顔。この雛の無言の顔のみで、それを視聴者に伝えてしまう。ここにある「依存」の高貴を、凛々しさを、美しさを、強さと、弱さを・・・。すごい、野島伸司は、自らの言葉によらず、テーマを上戸彩の演技に、託したのだ!

ヘリコプターで橘を呼んで、緊急オペを託す行動に出た理由はそうではないかと、どかは思うの。今まで、死んでいく郁己が、雛に対して「依存」するという片方向な構図だった。また「恋愛」というフィールドでは雛と郁己はイーブンの双方向な美しい関係にたどり着いた。そして野島伸司は、最終話、ラストシーンに向けて、「依存」というフィールドにおいても双方向のベクトルを志向したのな。

最終話の最初、郁己は雛に対してしてあげられることがあまりに少ないことに愕然とした。そして最後の最後に、全身全霊で自分に依存してくる雛を感じた郁己は、時間の繋がりが消滅した一瞬の、永遠のなかで、真実の解放と安らぎを感じる。それは恋愛ですらない、「ミニマムな愛」。ここにいたって、土管の中で雛がした約束の真の意味を、どかは知る。

 雛  ・・・やくそくしたらずっとそばにいていい?

郁己はこの質問を聞いたとき「ずっと=死ぬまで」と思ったのだろう。でも雛にとっては違う「ずっと=死んだ後も永遠に」だったのだ。「死ぬまで」は恋愛の約束。「死んだ後も永遠に」は依存の領域。野島伸司はこのドラマを通じて「恋愛」に対する「依存」の美しさを描きたかったのかな、と思う。単に最初から、弱さに堕ちる一般的な意味での「依存」ではなく、「恋愛」を通過して、お互い強く強く、身体を張って、精神を澄ませて、感性を疾走させたのちにたどり着く、特別な「依存」。現世的な意味では、決して幸せにたどり着かない(なぜなら、この概念に添えば、生きてはいられない)、この概念が、このドラマがどかに対して見せてくれた「救い」であり「答え」だった。

だから土管というのは、とても象徴的な場所だと思うどか。狭く暗いそのイメージは、子宮の中を連想させるし、そこから出口に抜けていくことで真実の永遠に辿り着けるかもと思わせる。逆に言うと、その中では、2人はまだ、救われない。この土管のシーンで、そのままドラマが終わって欲しいという意見は、野島ファンの間で引きも切らないけれど、でもどかはやっぱり、この土管という場所は、こちらから彼方への途上にあると思うのね。現世的な幸せから、永遠の幸せへのワープホール。ともとれるのかなあ(まだ続きます)。


2003年03月21日(金) 野島伸司「高校教師('03)」最終話

最終話「永遠の愛と死」

一度観ただけでは、すぐにはなかなか理解できない。ある種の「跳躍」に満ちた脚本、言葉、映像。うーんって、考えさせられる。でもそれはうっとうしい難解さではない。だって、観直すのが3回目だというのに、まだこんなに、泣かされる。この涙はどこから来るのだろう。もう一度、最初から、キチンと、心に納めていかなくちゃ。

その過程をふまえるための「地図」、最終話の名セリフ集。


 藤村 人にはみな、運命がある
    逃れようもない運命だ
    それを切り開くには斧が必要なんだ
    金でも銀でもない、自分だけの斧だ
    それを手にした者だけが、運命を変えられる
   (藤村先生、最期の言葉、郁己に対して)


 → 以前、藤村先生は絵美に対して「それでも君は僕の斧と言えるのか」
   そう詰問したことがあったことからも、ここでは斧とは、
   女性・単なる恋人な枠を越えて、自分と本質をシェアする同志か。
   金や銀というのは一般的な客観的価値・容姿や知性などの象徴。
   自分にとってのスペシャルな相手を手にすることへの希求。
   虚無のスパイラルを断ち切るための絶対条件。
   つまりこれが、ドラマ全編を貫く唯一のテーマ。


 紅子 私は誰かの行き方を否定するつもりはないよ
    だけど人を好きになることをゲームだと思ったらつまらない
    傷つけて傷つけられて、ばんそうこうを貼って笑うんだよ
    「それでも人生はステキだ」って
    愛する人は愛さない人よりステキなんだから
    ・・・愛する人は愛さない人に・・・負けない・・・
   (刑務所の面会室で、悠次に対して)


 → 虚無のスパイラルを全肯定し、そのレールを「享楽」のボートで
   滑り続けた悠次、しかし、最後は藤村に敗れる。
   引用したセリフの中では一番ストレートなものだけど、
   ラストの2行の説得力は素晴らしい。
   人格が崩壊し呆けている悠次がこの2行に涙を一筋、それが救い。
   さらに、このセリフが、どかにはドラマのクライマックスの深度を測る、
   重要な手がかりを含んでいるように、いま、思える。


 橘  精いっぱいやせ我慢して恋人と別れたでしょ
    じぶんを引きずらせないため?
    言葉にすればきれいだけど、本当はどうかしら
    人間を信用していない、とくに女性をね
    ・・・・
    単に男のエゴイスティックな死に方としか思えない
    男の性(さが)が死ぬ性なら、女の性は生きる性なのね
    どんなに見苦しい姿になっても、生きていて欲しい
    愛する人ならなおさら
    自分を忘れてしまっても
    彼のぬくもりだけでも、残して欲しい
   (病院の彼女のオフィスで、雛に対して)


 → 男と女のエゴについて。
   字面だけ読めば、もちろん字面なりの理解は得られるけれど、
   考えると、すごい、深い、迷宮に入ってしまう。
   「美学というのはとどのつまりやせ我慢」というのは、
   有名人のことばだけど(ちなみにその有名人とは「私」なの)、
   「やせ我慢はつまりエゴである」というのが、ズシン。

   男:相手に多くを求めない:相手を受け入れることができない怯え
   女:相手に多くを求める :相手を全面的に受け入れてしまう勇気


   きわめて冷静で突き放した分析、それだけに満ち満ちる説得力、
   ここで橘は野島伸司の左脳を体現しているかのよう。
   しかし、雛がそれをひっくり返す。


 雛  違う
    先生はわざと約束を破ったの
    私がずっと先生を想って生きるって言ったから
    だれも好きにならないって言っちゃったから
    自分が約束をやぶれば、私もそんな約束守らなくていいって
    ・・・・
    やさしいからだよ
    本当は弱いのに
    いっぱい、いっぱいがんばって約束を破ったの
    自分のエゴじゃない、私のためだよ
    私のため・・・
   (郁己を見失った雛、ビジネスホテルの一室で橘に対して)


 → 最初観たときは気づかなかったけど、このセリフで、
   雛(野島伸司の右脳)は、橘の「男女論」をきれいにひっくり返す。

   郁己:相手を受け入れないこと   :相手を想う精いっぱいの優しさ
   雛 :相手を全面的に受け入れること:相手を逆に一人にさせる残酷さ


   優しさは、ついには残酷さになり、
   相手への思いやりは、ついには自らのエゴに帰結するパラドクス。
   どこまでいっても、その虚無のサイクルからは抜け出せない。
   それが世の中の、普通の、恋愛であり、
   そのサイクルの中で普通の幸せを求めることも可能で。
   ホテルを出た後、郁己を探しながら雛は紅子に対して、
   「どうして私と先生の恋はこんなに辛いのだろう」と思わず弱音。
   
   なぜか?
   
   それは、雛が、恋愛に潜む「欺瞞」に気づいてしまったからだ。
   紅子の上記のセリフ「傷つけて傷つけられて」という一節は、
   もしかしたら、このエゴが潜む、二重のパラドクスを暗示していたのか。
   でもね、思いやりの裏側にはエゴが潜む可能性を否定できないように、
   エゴの裏側に、思いやりがあるという可能性もまた否定できないのな。
   だからこそ、恋愛は「欺瞞」をはらみつつも成立する可能性がある。
   「それでも人生はステキだ」と言えるかもしれないから。
   しかし。
   それでもしかし、この「欺瞞」に救われない人がいる。
   あまりに真実を求めてしまう数少ない人たち、例えば藤村だ。
   しかし。
   それでもしかし、「人生はステキだ」と言えない人がいる。
   余命幾ばく無く人生自体がかき消されてしまった、例えば郁己だ。
   この2つのケースに限り、
   恋愛の「魔法」は「欺瞞」にかき消されてしまう、
   つまり普通を越えた究極的には「恋愛は不可能」なのだ。   

   藤村は結局、真実の愛にたどり着いたのだろうか(後述)?
   郁己は結局「欺瞞の」サイクルから抜けられたのか(後述)?


 郁己 君は、バラバラになった僕を組み立てたんだ
    ボンドやノリでくっつけたり、
    さびた部品に色を塗って、
    君は僕を組み立てたんだ
    コツコツ時間をかけて
    時々歌を歌いながら
    忘れ去られたガラクタをひとつ残らずかきあつめて
    君は、僕を組み立ててくれた
   (公園の土管の中、いまわの言葉、雛に対して)


 → ・・・・(後述)
   
    僕たちは生まれながらに、
    いつか死ぬという不条理を生きなければならない
    その意味はわからない
    考えても仕方ない事なのだろう
    しかしもう僕に恐怖や絶望は消えていた
    なぜなら一方で僕は、どんな事になろうとも、
    彼女の物語の中に生き続けるだろうから
    たとえ二人が、何億光年引き離されたとしても
    たとえそれが恋でも愛でもないのだとしても
    君が僕を望む限り
    僕が君を望む限り
    I NEED YOUと望むかぎり
   (ヘリコプターの中、最後のモノローグ)


 → ・・・・(後述)


もう、どかはあぜんとしちゃう。どこまで野島伸司は、視聴者に要求するのか。どこまでテーマを掘り下げて、どこまで視聴者の想像力のロープを伸ばさせようとするのか。はっきり言って、一連の野島ドラマの中で完成度は決して高くないけれど、でも、荒削りな分、脚本家が引き起こした断層は絶大なエネルギーで持って海底を割り、ハッピーエンドと悲劇の皮相を大きくえぐりこんだ内容を目指してるね。やっぱり、小説「スワンレイク」がこのドラマを読み解く大きな鍵になっていると感じる(続く)。


2003年03月20日(木) 何のへんてつもないその朝に

きょうは勉強会、iPod で Syrup 16g をガンガンに流して出かける。
良い天気、日差しは温かくて、風はほどよく冷たくて。

まず前半は、アーウィン・パノフスキーの「ゴシック建築とスコラ学」、
第2章と第3章、トマス・アクィナスの「大全・SUMMA」について。

  
  12、13世紀の人々は、その先行者たちがまだ明瞭に直視せず、
  悲しいことにその後継者たちである神秘主義者と唯名論者によって
  破棄されることになる課題を手がけた。
  すなわち、信仰と理性との永久の平和条約を
  したためるという課題である(前述書・第3章より)



後半はレジス・ドブレ著作集4「イメージの生と死」の輪読。
きょうは第2部「芸術の神話」の中、第5章、
「果つることなき歴史の螺旋」。

  
  フォルムの進化というメシア的な観念は、
  「転回」の概念で置き換えられることになるだろう。
  つまり、直線が螺旋で置き換えられるのだ
  (前述書・第5章より)



果つることなき、歴史の、らせん・・・
パノフスキーは言うに及ばず、ドブレもかなり難解で、
きょう勉強会に参加した五人でああだこうだ議論しながら、
一応の理解を深めていった。

こんな何のへんてつもないその朝に、
古代文明の発祥とされる中東のとある国で、戦争が始まった。
輪読が終わったのは午後6時過ぎ。
Syrup をまた、ガンガンに流して帰る。


2003年03月19日(水) Bowling for Columbine 2


マット・ストーンやマリリン・マンソンといった、意表をついたキャスティングだけれど、そしてマイケル・ムーアの語り口も神妙といった感じでは無くてむしろ軽薄そのものなんだけど、だからこそ鮮烈に立ち上がる、アメリカの病巣。どかが一番この作品に好感を持ったのは、マイケル・ムーアは自分の逡巡すらも(それは演出された逡巡ではなく)正直に映像に落としていることだ。当初、彼はアメリカに流通している銃の絶対量がそのまま悲劇に結びついているのだという直感を持っていた。


そしてそれは確かに正しかった。つまり、世の識者や有名人はワイドショーなんかでこのコロンバインの事件を評して、映画やテレビ・ゲームに氾濫する暴力、家庭の崩壊、高い失業率、アメリカが建国以来たどってきた暴力的歴史、そんな要因が上げられて、メディアは大騒ぎ。みんななぜか銃が簡単に手に入ってしまうというただ一つの事実には目をつむって、それ以外の原因を探そうと躍起になってるようにしか、マイケル・ムーアには見えなかった。実際、暴力的なゲームの大部分を制作しているのは日本、家庭の崩壊を言えばイギリスのほうがもっと悲惨、失業率で言えばカナダがより最悪、暴力的な歴史を問うならばヒットラーはどうなるのか。しかし、日本やイギリス、カナダ、ドイツでは銃による殺人はほとんど起こっていない。このあたりの推論を映像によって裏付けていく手腕は、一流のジャーナリストを思わせる。

しかし、一点、問題が残った。カナダにも、同じように銃が多数、一般社会に流通しているのだ。しかし、カナダでの銃犯罪はきわめて少ない。銃の総数だけが、問題ではなかった。この発見に一瞬、逡巡するムーアを見て、観客もそれにひきこまれる「なんでやろ?」。そしてそこから、彼は一つの暗い繋がりを発見する。KKKとNRA(全米ライフル協会)である。「人種差別と銃の繋がり」が、恐怖を生む根底に潜んでいる。恐怖が生まれれば、それを消費に繋げる力が働く(マンソン)。そして実際に街のホームセンターで、弾丸や銃は簡単に購入できる。この構造が見えたマイケル・ムーアは、最後にターゲットを2つ、設定する。

1つはアメリカ大手チェーンのKマート。2人の少年もここで弾丸を買った。マイケル・ムーアは、実に巧妙な手口で、Kマートで弾丸を販売させることを差し止めることに成功!ジャーナリストとは恐ろしい力を持ってるなあと実感。でもそれよりも先に感動が来るんだけど。さあ「消費」の一角は崩した。あとは「恐怖」。

最後のターゲットはNRAの会長・そしてハリウッドの名優チャールトン・ヘストンである。マイケル・ムーアは例によって、アポ無しで突撃取材。懐には入ってインタビューをはじめることに成功する!・・・でも、この映像が、一番、悲しかった。悲しいっつうか、哀れで笑ける。チャールトン・ヘストンは、ほんっとに知性のかけらもなかった。バカ丸出し。苦しまぎれにウソをついたり、品性の欠如している嘲笑の表情を見せたり、もう、白痴。この言葉があまりよろしくないと知っていて、でも、白痴。自分の言説の自己矛盾をあっさりマイケル・ムーアに突かれて、おたおた逃げ出すシーンは見物である。

あの、チャールトン・ヘストンだよ!まじ、間抜け。どのツラ下げて紅海割ったんだか。どのツラ下げて馬四頭立ての戦車に乗ってたんだか。まじ、笑える。いやー「十戒」や「ベンハー」の値打ち、下げたねー、自分で。というか、マイケル・ムーアのインタビューの手腕はすごい。相手のペースに一度しっかり乗っておいて、鮮やかにあいての欺瞞を突くのは小気味良い。だから、笑えるんだわ。・・・そして、これがヘストンじゃあなくてブッシュでも、おんなじ結果になったんだろうなって。

もちろん、笑ってるだけじゃあダメで、結局NRAは何ら反省の色を示さず、自己批判どころか他人からの批判すら全く耳に入れないわけで、間抜けで哀れな姿だけれど、「恐怖」はまだ厳然とそこにあるわけで。で、この映画は実際は、この対イラク作戦はおろか、例の9.11以前にすでにクランクアップしていたのね。でも、その説得力は、悲しいことだけれど、忌むべきことだけれど、むしろどんどん、増していく。

だって、チャールトン・ヘストンの哀れな背中に宿っていた「恐怖」が、ひたすら拡大再生産を繰り返して、きょうを迎えてしまったんだから。どんどん弾丸、ではなく爆弾を落っことせば、そこにまた「消費」が生まれて。きょうのこの日を予言していたかのような、「恐怖」と「消費」の繋がりの縮図。彼は映像の中で、自分ではいっさい語らない。語っていたのは、インタビューされた人たちだ。それでも、いや、だからこその、この娯楽性とリアリティ。もう一度言います。


  この映画は、いま、絶対観た方がいい、
  お薦めのエンターテイメントです。
  笑えるし泣けるし、その辺のCG満載のハリウッド観るよりも、
  絶対、満足できます。
  世界規模の「恐怖」と「消費」の連鎖反応が、彼地で起こったとしても、
  私たちは素晴らしいことに、この映画を観る権利が残されいて、
  笑って、泣けたら、それだけで立派すぎるくらい「反戦運動」です
  (どか)。


2003年03月18日(火) Bowling for Columbine 1

「ボーリング・フォー・コロンバイン」恵比寿で見てきた。いま、話題の映画。恵比寿の単館上映から始まったのだけれど、口コミで人気に火がついて、恵比寿ガーデンシネマの創立以来の記録を破る観客数。そこから全国での上映がつぎつぎ決まって、いまじゃ社会現象、一歩手前。恥ずかしながら最近までこの映画、全然知らんくて、こないだ上京してたくりぞうサンに教えてもらったの。きょうは朝から、惣一郎と。


  この先は例によってネタばれがあります。その前に注意です。
  どかはこれまで、自分のレビューした作品についてあんまし、
  他人にまんま薦めることは敢えてしてこなかったつもりです。
  でも、この映画は、絶対、お薦めです、というか観るべきです。
  この地上のどこかで、すでに悲劇が始まっていたとしても、
  遅すぎるということはありません、観に行きましょう。
  観に行かれる人は、ご自身の判断でネタばれアリのこの先を、
  お読み下さりますよう(どか)。




・・・なーんて、ここまですごい作品だなんて思わなかったどかは、その朝、ねむけまなこで「ああ、前にガーデンプレースに来たデート、懐かしいなー」なーんて、お手軽センチメンタルジャーニーかまして惣一郎にこづかれて。

ストーリー、というほどのモノはなくて、実は、ドキュメンタリー。監督・脚本・制作・主演のマイケル・ムーアがマイク片手に次々取材とインタビューを重ねてくだけの映像。テーマは1999年春、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で起きた「あの」事件。生徒である2人の少年が校舎に乗り込み銃を乱射。12人の生徒と1人の教師を殺害したのち、自殺したっていう、あの事件。なぜ、アメリカは銃社会の悪夢から覚めることができないのか。マイケル・ムーアはその自分の疑問に、ただ誠実に体を張って取り組んでいくの。


と、書くとさあ、重苦しいドキュメンタリーかあ。って感じだけど、違うんだなそれが。笑える。とにかく笑える。びっくりだよ。それはアメリカ社会に救う病巣に対峙したとき、感情を先走らせたり、論理だけに縛られたりしない、絶妙なバランス感覚。それを前提にした、マイケル・ムーアという1人の人間の、たたえられるべきユーモアのセンスだ。ああいうのを本当に知的な人間って言うんだなあ。池澤夏樹も、積極的に活動されてて、頭も良いし、スジも通っていてかつ、人間であることもやめていない希有な表現者だとは思うけれど、足りないのは、このセンス。惜しいなー。というより、マイケル・ムーアを褒め称えるべきなんだね。

それで、笑わせるだけじゃなくて、どかは泣かされちゃった。きっと観る人によって、笑えるポイントも、泣かされるポイントも、それぞれだと思う。でもどかは、なんか、本当に人間って、学習しないんだなあ、バカだなあって、心底哀しくなって。高校ん時の世界史の高木先生は、今でも、どかのなかで、ベスト5に入る先生だけれど、黒板に板書しながらボソッと「人類は、なっかなか、賢くならないんですね」ってつぶやいたのが、そんときはよく分かんなかった。いまは、分かりすぎるくらいよく分かる。

数あるインタビューの中で、2人、とても良かったのはアニメ「サウス・パーク」原作者のマット・ストーン。アメリカでも日本や韓国と変わらない学歴社会が厳然とあるということ、「アメリカの自由」なんてもはや過去の幻だということ。平和で変化がなくて自分というのが他人の尺度で固定されたら、もうそれは二度と動かないという見えない足枷にとらわれていく子どもたち。閉塞感。のっぺりとした書き割りのような戦場(by岡崎京子)。

  実はほんの少し自分が動けばやがて出口は見つかるのに、
  リトルトンの2人の少年は出口なんてもう無いんだと諦めていた
  (マット・ストーン)。

そして、この歴史に残る映像のなかでもっとも美しいインタビューはロックミュージシャンのマリリン・マンソンだ。どかはマリリン・マンソンの音楽をもともと、わりと好きなほうだ。CDは持ってないけどMDは持ってる。でもこんなに知的で凛々しい言葉を持っている人だとは想像できなかったよ、あの声とあの歌詞からは。「2人の少年」が愛聴していたアーティストだというだけで、事件後、全米からつるし上げを食ったマリリン・マンソンだから、もっと、毒々しくシャウトしてもいいものなのに。すごいジェントルマンだった。この作品のラストのインタビューを飾る、某白痴のオッサンと比べたら。

  メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンをつくりだす。
  そしてこのキャンペーンは、人々を怖がらせることによって、
  消費へと向かわせようとする発想に基づいている。
  その恐怖心が人を銃に向かわせるのだ(マリリン・マンソン)。

(2へ続く)


2003年03月17日(月) 能「胡蝶」ー観世清和の至芸ー

いつもはコクーンやザ・ミュージアムにお世話になるBunkamura。でも今夜はオーチャードホール。ちょっと緊張。いつ以来やろか?・・・ああ、そうだ。一昨年の12月、かまぽんと一緒に行ったビョークのコンサート以来だ(アレもまだレビューにしてない、書かなくちゃだわ)。

きょうはお能。観世清和の「胡蝶」、でもいつもと趣が違うのが、衣装が森英恵、舞台装置となる立花を草月流家元の勅使河原茜が舞台上でいけるということ。ちょっと「イロモノ」っぽいけど、先だって観た「弱法師」が良かったから、清和サマを信頼してみたどか。

「胡蝶」のストーリー。「源氏物語」の「胡蝶」の巻を背景に。かつて光源氏が住んだ住居跡を訪ねた僧の前に、一人の女性が登場。花に縁の深い蝶だけれど、梅の花には戯れられないことを嘆いて、僧に願いを託す。その僧の夢の中に、女性は胡蝶の姿となってあらわれ、美しい梅の花に戯れて、という感じ。「弱法師」より、あっさり目のテイスト。

さて、草月流家元サマのいけばな。あんまし期待してへんかったけど、なんか、面白かった。「おはな」の「お」も知らないどかだけど、黒いまったくの素舞台の真ん中に大きな花瓶。で、真上から白いスポットで抜いて、そこに家元登場。大きな梅の枝を2つ花瓶に立てるところから。お弟子さん?らしき男性二名がテキバキお手伝い、無言な舞台、静まりかえる客席、響くのはパチン、パチンと、枝を切るはさみの音。10分足らずであっという間に完成。音もなくハケる三人。残された立花。代わりに入ってくる囃子方の人たち。そして鳴る、能管。・・・瀟洒だなあ。

最初は「だったら、幕開ける前に作っとけよー」と思ってたけど、あのいけていく無駄のない動きは、見てて心地よかった。アリだね。で、しかも、その後、その立花はそのまま能舞台の構成要素になっていくから、ライブ感の立ち上げという意味でも、その説得力は認めたい。アリだね、アリアリ。

森英恵の衣装。微妙。この曰くありな衣装は「中之舞(夢のシーン)」以降でお目見えになるのだけど袖や背中にデカデカと施された「ピンクのチョウチョのデザイン」、ジャマ。あれは、舞のジャマにしかなってない。確かにゆったりとした生地の仕立てや、衣装自体の構成は浮遊感を出すために白を基調、中にあわせた薄い鶯色との組み合わせはとても気品があって、けれどもうっとうしくなく、舞ともマッチしてイイ感じだったのに。ま、意識的にチョウチョの意匠を排除して見てたから途中から気になんなかったけど。

そして、清和サマ。ホントにイイ声。声量じゃなく抑揚じゃなく、声自体がえもいえない香気に満ちて。下世話な例えだけど、上川隆也の声がイイ声だというのと同じ意味でイイ声。で、後半の舞。これがねー、すごかったの。途中まではなんか、ただ、キレイだなーって思ってただけだったんだけど、半ばにさしかかったとき、舞台中央、立花の前でハスに構えて、袖を「パッ」と腕に絡めた瞬間、スイッチオン。舞台上のパースペクティブが猛スピードでずれる。なんか、涙がこみ上げてくる。・・・「ああ、恋物語だったんだね、これわ」。これは能の「スワンレイク」だーって。

  春夏秋を経て
  草木の花に戯るる
  胡蝶と生まれて花にのみ
  契りを結ぶ身にしあれども
  梅花に縁なき身を嘆き

現実には、時の流れの中では、本当にミニマムな愛というのは存在することができないから、いろんな雑音に紛れて、いろんな欲望に遮られ、いろんな足枷に搦めとられて、ミニマムな愛のコミューンとは現実には無理だから。だからせめてこの世を離れた時には、せめて、限界を超えて。そう願った一つの魂の舞なのだ。そのコミューンを野島伸司は白鳥が羽を休める木立の中の小さな湖にイメージした。観世信光は梅の花薫る古宮の庭に、コミューンを見たのな。限界を超えて、現実を離れるほどに、それにリアリティを持たせるほどに、トン・・・トン・・・と目の奥で共鳴するシテの足拍子。それに鼓が重なり、地謡が重なり、能管がカーンッとこめかみを打つ。






トランスするさあ、そりゃあ。スイッチが入ったのは、ものの三分くらいだった気がするけど、でも、それだけで、お腹いっぱい。よけいな説明やエクスキューズのない、不純物がそぎ落とされた時間。でも想像力のスイッチはちゃんとあるから、それで、いい。


2003年03月16日(日) 川端文男陶展@三越本店

一昨日からどかんちにお泊まり中のくりぞうサンと、同じく岡山から上京してきたとよぷくサン、アートマネージメントの鬼くわじぃサンとどかの4人で、とよぷくサンの師匠の個展を日本橋に見に行った。とよぷくサンというのはどかの大学時代のサークルの先輩で、今は岡山県備前市で陶芸家をやってるヒト。その師匠はなかなかすごいヒトだといううわさは聞いてたので、すごい楽しみに。6Fの催し物会場の一角に、シンプルで格調高げなスペース。

どかは、焼き物を見る目、無いと思う。正直、まだよく分かんない。分かんないと言いつつ、お気に入りの焼き物といえば、志野焼が好き。あの白くて、ふんわりしてて、簡素なやつ。備前焼は、あまりに本格派で、ちょっと苦手だったかも知れない。色目も濃いい赤黒い感じのズドーンと構造的な骨太具合が。でも備前焼がいちばん、日本の焼き物の中でステータスが高いというのはよく分かる。確かにこれが、一番、ある種の説得力に満ちている。

で、川端文男サンの作品。これが、ビックリ。重くないし、黒くないのさ。あんまりビックリしてしまい、気づいたら口をポカンと開けてたくらい、ビックリした。一目で、好きになった。白い素地が目立つモノが多い。また、あまり重さを感じさせない、軽やかなデザイン、でも薄っぺらくはないのが、また良いなあ。で、その白い素地に、いわゆる備前的な赤や黒のゴマゴマの貫入がまたインパクトに満ちていてナイス。ぐい飲みから、茶碗、花瓶、特大花器まで、いろんなサイズの作品が並んでたけれど、全てが大空に舞い上がる凧のように自由だけれど、凧糸が切れてしまった無秩序の混乱に堕すことなく。

というか、その素地の白色が、大好き!よく見ればいろんな青だとか緑だとかのつぶつぶがたくさん見えるんだけど、でもやっぱり全体では白いの。で、志野焼の白とか、iBookやiPodの白とかともまた違って(当たり前だ)、なんだか吸い込まれそうなのな。ダムの堤防にたって下をのぞき込む感覚。志野焼はまた違うよね。あれは包み込まれるような温かい感じ。川端サンの白は、もっとビッと凛々しく、走ってる感じなの。

会場には川端サン、その人もいらっしゃって。予想していたのは細身の華奢な方だろうかって思ってたら違った。背の高いがっちりした、けれども顔には知性がにじんでて、かっこいい。とよぷくサンとくわじぃサンが話をされてたけれど、どかも、少し、話したかったな。ちぇ。怖じ気づいてしまった。やっぱり本物なヒトはオーラがあるんね。素晴らしい作品とちゃんと見事に拮抗している彼自身の雰囲気を見て、なんだかひとりで嬉しくなってしまって。

あとでとよぷくサンに聞いたら、川端サンはやっぱりあまたの備前職人の中でもかなり前衛的な作風で評価されてる第一線級の陶芸家だって。で、どかはあの白い素地は備前の土を使ったら不可能なんじゃないんですか?って聞いたら、あれは「自然練り込み」という手法で、土をこねるところからいろんな鉱物を混ぜ込んで作っているから、備前の土をそのままオーソドックスに使ったこれまでの素地とは異なってくるらしい。でも、すっごいすっごい、手間がかかるんだって。あと、ろくろも使ってないらしい。ひも状に伸ばした土を、少しずつ重ねて重ねて構築していくらしい。そりゃあ大変だあ。とよぷくサンも言ってたけど「あの値段でも全然高くないよ」って、本当だと思う。

当然、あたらしい土を作れば、焼き方(焼成法というらしい)も工夫して新しくしなければ上手く焼けないだろう。そういった意味で、備前の歴史の中でもっとも洗練された、そして洗練され続けている技法をどかは目の当たりにしたのかも知れない。けれども、本当にすごいことは、そんなことじゃない。

目的と手段があって、その調和がとれていることが、何より素晴らしいのだ。手段だけが先走りして、表現すべきメッセージや内容が空虚な現代美術は腐るほど、うんざりするほどある。また、メッセージや内容が手段を通り越していて、表現として破綻している自己満足の出来損ないも、しかり。どかが、きょう見ていた陶器には、その目的と手段の境目が見えない。見えないくらい、実は陶芸家の中でこの2つの要素が絶妙のバランスで綱渡りしてるんでしょう。それこそ、太陽系第三惑星に生命が誕生したのと同じくらいのバランス。

というか、欲しい。欲しいけど、高価いー。ちぇ。川端サンの茶碗、買ってから会社辞めるんだった。個人の資本は、こういうところに投下すべきだよねーと、負け惜しみな昼下がり。

この後、惣一郎が合流。五人でお茶した後どかは惣一郎とデート。新しい丸ビルまでブラッと歩いたとさ。


2003年03月15日(土) 野島伸司「高校教師('03)」オオカミについて

「オオカミが来たぞ」のシーン、
京本政樹のすさまじさ、狂気。

精神的な愛をとるか、身体的な愛をとるか。
来世的な希望をとるか、現世的な希望をとるか。
自ら燃えて熱量を発する恒星となるか、恒星を静かに回り続ける惑星となるか。
他人によらない真実の光を放つベテルギウスになれないなら、
せめて燃え尽きてでも一瞬に煌めきを得られる流れ星に。
円環の中、重力の数式に支配される生よりも、
直線にあって、数式から解放される死を。

藤村にとって、煌めきと解放とは、紅子である。
「ある種の情緒の深度が似ている(第5話「真夜中の対決」より)」紅子。
しかしそれは健康的な愛ではない。
優しく会話をしたり身体を求め合ったり子供を作ったり、
流れる時間の中で慈しみあいたいわけではない。
そこでは優しさもセックスもDNAの連鎖もなく、時間もない。
かつてある小説の中でその場所を「スワンレイク」と脚本家は呼んだ。

「スワンレイク」を強く求めていく情緒のスピードが、
このシーンの藤村の狂気の正体。
ジリジリと悠次を追いつめる彼の動きはゆっくりゆっくり。
一言も感動的なセリフは、無い。
恐怖にまみれた悠次の叫びと、
それをあざけるかのように繰り返し繰り返し、

  オオカミが来たぞ

  オオカミが来たぞ

  オオカミが来たぞ

と緩やかにけれども悪魔的な微笑で相手を追いつめる藤村。
なぜかどかはこのシーンが一番美しく見えた。
悪魔的な微笑の裏に潜む、狂気の、そのすさまじいスピード。

けっして自己犠牲の美しさではない。
紅子のため、身を投げ打った一人の男への感傷ではない。

ついに「スワンレイク」に辿り着けたんだね、良かったね。
そんな、共感と感動の涙である。
それはかつてあるピアニストが、自らの右手を、
割れた瓶で串刺しにした瞬間の、涙。
普通の感傷の涙よりも少しだけ上等な、
きれいな涙。

なんだか、そんな感じ。

そんな余韻に部屋が染まって、
「博物館学」のテキストが頭に入らない。
んー、困った。


2003年03月14日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第10話

第10話「よみがえる純愛」

ホストの悠次が「享楽」を象徴し、主治医の百合子が「諦観」を象徴するとして。現代に流れてる漠然とした薄っぺらさの2つの要素を結晶させてヒトのカタチをとったらこの2人になったとして。その二極の攻勢に、虫の息で、敗北の色濃く、汚い水たまりにしずめられた2つの「理想」が、最後の力を振り絞って爆発する。その有り得ない「理想」の別名は、「純愛」。それを体現する2人とは、藤村先生と、町田雛。以下は全く別のシーンから。

 藤村 純真で真っ直ぐな熱情であれば、
    いささかもぶれることは無いんじゃないのかな
    むくわれるということを前提に、
    太陽は照りつけるわけじゃないんだ
    ・・・あらがえない、自らの熱情にさ

 雛  あたしは鏡だよ
    全部分かるんだから
    ・・・先生だって絶対そうだよ
    いっぱい我慢してるけど本当は違う
    本当は思い出にして欲しいんだよ
    ずっとずっと忘れないで、いっぱいいっぱい引きずって欲しい
    出来れば、ひとりで、その後も、
    誰も好きにならないでって

それぞれが敗北にまみれていく第9話までのストーリーとは、けれども悠次や百合子からのプレッシャーが全てだったわけではない。むしろ、藤村や紅子、郁己や雛の内側で負けがこんでくるというプロセス。そして、今回、身を切りながら、血を流しながら、理想に向かう行軍を進める決断も、内側に残っていた最後の光るひとかけらから。特に前回の第9話で、丹念にその敗北に向かうシーンを継いでいったために、第10話の説得力が、圧倒的な迫力で。悠次は得意の「享楽」に自壊し、百合子は自らの「諦観」の欺瞞を暴かれ、そして常に壊れつつ「理想」はより光り輝き。

・・・というか、もう、だめ。ひとり暮らししてて本当に良かったと思う。心おきなく、嗚咽できるもん。今回なんて後半30分、エンドレスに壊れ続ける涙腺。見終わった後、スッと立てないくらいに疲労困憊。前頭葉と視床下部がジンジンしびれて。それだけ本気で観ることを要求されるドラマだ。とりあえず、チャンネル合わせとこっかな♪なんて軽い気持ちでは、とても耐えられない。そんなんしてたら、うっとうしくて仕方ないと思う、このドラマは。

とにかく、1シーンごとに、張られる伏線、テーマをせおった何気ない表情、暗示性の高い小道具。例えば第10話の始まりで、郁己は自ら割ってしまった鏡を前にして茫然として「何がゆめで何がうつつか」とひとりごちる。カメラは割れた鏡に映る郁己の顔を捉えて。それは「悪魔のウソ」がばれてしまい雛への鏡面化の実験が終了したことを象徴する映像。これは一番分かりやすい手法。野島ドラマは万事が全て、こんな風な「濃いい」映像で彩られる。ストーリーの「濃さ」だけじゃないの。1話見逃しても余裕で着いていける某「GOOD LUCK」や某「美女か野獣」みたいなのとは、明らかにジャンルが違う番組。1話どころか、一言一句、きちんと観なくちゃ聞かなくちゃ、どんどんふかーくなるジャック・マイヨール的プロットに、振り切られちゃう。

正直、第9話あたりから、どんな美麗字句も、どんな批判批評も、受けつけないほど研ぎ澄まされたドラマになってきた。ここは既に、視聴者の存在すら無視された世界。海溝の奥深く、深海魚も生きてゆかれないような絶対の水圧の中、光は届かない真っ暗闇に、明かり(光じゃなく明かり)を求めるとすればそれはどこにあるのか。あるとすればどんな色をしているのか。そして、それはどれほどそこに留まっていられるのか。別に、誰しも好きこのんでそんな苛酷な海溝に降りていきたくなんかない。

 それでもなんで、藤村先生はそこを降りていくの?

 それでもなんで、雛はそこを潜ることを決意したん?

はっきり言えるのは、某「GOOD LUCK」の某木村○哉が「おれは空をあきらめないッスヨ」って言うときの感情とは似て非なるモノであることだけは分かる。でも、そのものずばり、どかはうまく、表現できない。できないから、きっと今でも、涙腺が壊れ続けてる。

 藤村先生の脇腹の血が止まらないように。

 雛と郁己の姿から、限りなく切なさが溢れているように。

・・・次は最終回。第10話は、普通のドラマの最終回なんてはるかに凌駕するほどのスピードとパワーに満ちていた。そして野島伸司はこの期に及んでまだ、傷ついた2つの「理想」をいたぶり追いつめていく手を、いささかも弛める気が無いのな。また、ちゃんとしゃんとして、一週間後にはテレビの前に座んなくちゃ。・・・でも、今は、この涙とあの血と、その切なさの中で。

追伸:いま、この、京本政樹の演技を知らないことは、一生の不幸だとどかは言える。もはや茶化すこともできない。敬意を表したいの。


2003年03月13日(木) 演ぶチャート2002

小劇場系の唯一の雑誌「演劇ぶっく」の4月号で、
<演ぶチャート2002>が発表された。
そんなに発行部数が出ているとは思えないくらいの、はかない印象の雑誌。
でも他にこの分野をカバーしている雑誌が無いからか、
この2002年度小劇場オヴ・ザ・イヤーを決定する投票数も、
7800通を越えるという。
つまりそれなりのサンプル数を確保しているので、
それなりに信頼できるチャートなのかなと。

まあ、予想はしてたんやけどね、へこむチャートやわーやっぱり。
先だってのBBSでどかと激論を交わした2人の喜ぶ顔が目に浮かぶ・・・


 ○ 作品チャート

 第1位 いのうえひでのり「天保十二年のシェイクスピア」
 第2位 いのうえひでのり「アテルイ」
 第3位 G2「ダブリンの鐘つきカビ人間」

 → 1・2・4・11位が、劇団☆新感線(系)の作品
   5・6・13・20位が、キャラメルボックスの作品


 ○ 俳優チャート

 第1位 上川隆也(演劇集団キャラメルボックス)
 第2位 古田新太(劇団☆新感線)
 第3位 粟根まこと(劇団☆新感線)

 → 1・8・11・17・19位が、キャラメルの役者
   2・3・14・18位が、新感線の役者



はあ。
へこむ。
キャラメルと新感線、伊勢湾台風のごとくチャートを席巻。
ちなみにどかが年末発表した2002年度極私的ランキングに発表した作品が、
このチャートではそれぞれ何位かと言うと、


 ○ DOKA'S RANKING 2002 vs 演ぶチャート2002

 ど・10位「天保十二年の」 → ぶ・1位
 ど・9位「THE CLUB OF ALICE」 → ぶ・44位
 ど・8位「長島茂雄殺人事件」 → ぶ・232位
 ど・7位「業音」 → ぶ・16位
 ど・6位「透明人間の蒸気」 → ぶ・45位
 ど・5位「S高原から」 → ぶ・圏外
 ど・4位「いちご畑よ永遠に」 → ぶ・54位
 ど・3位「冒険王」 → ぶ・382位
 ど・2位「東京ノート」 → ぶ・192位
 ど・1位「熱海・モンテ」 → ぶ・97位

 →ちなみに役者編はどかのランキングは出してなかったけど、
  2人だけ、抽出して掲載してみる

 ど・おーるたいむNO.1 山崎銀之丞 → ぶ・66位
 ど・おーるたいむNO.1 金泰希 → ぶ・圏外



はあ。
へこむ。
ってか、マジで?
キャラメル王子の上川サン主演・新感線のいのうえサン演出作が、
象徴的に2002演ぶチャートのトップを飾るのはまだ、ゆるそう。
青年団屈指の傑作「冒険王」が382位って・・・!
あの歴史に残したい「熱海」が97位って・・・!

まあ、青年団を好きな人たちは結構年齢層も幅広いし、
この雑誌を買わないということも割と納得は行く。
にしてもなあ、限度というモノがあるよな。
どかがBBSで雄々しくも展開した論の説得力が(涙)。

例えば、上川隆也が個人で3826ポイント獲得しているのに対して、
山崎銀之丞は188ポイント、この差はいったいなんなんだろう?
例えば「天保十二年の」の3992ポイントに対して、
「熱海・モンテ」の77ポイントというこの差はいったいなんやねんな?
どかは別にマジョリティが正義だという巨人党には与さないし、
セールスこそが正義だというロッキンオンの渋谷陽一を支持はしない。
全人類と繋がりあいたいとは思わないけれど、
自分が大切だと思える、少数の人とは何かしらを分かちあいたいと思う。

しかし、物事には、限度というモノが、ある。
んじゃないのか(半泣きで)?
というかどか風に言わせてもらえれば、
このチャートこそ、猟奇的なこの現代社会の病巣の縮図である
(って、負け犬の遠吠えにしか響かないこと、明々白々)。
ま、それは極端だけど、でもね、
カッコ付きの「優しい」時代を象徴してるんだねーとは思う。


  ココロのない優しさは、敗北に似てる(♪ハイロウズ「青春」)

・・・何書いても、仕方ないな。
でもね、何かが違う。
こんなの、絶対違うと、どかの中で何かが叫んでるの。
仕方ないジャンって抑えようと思っても、
でも何かが、ブルブル、痙攣してる。

・・・まとめ。

でも、銀之丞と「モンテ」が100位以内だったのは、
実はすごいんじゃないかと思えてきた。
うん、つかこうへいという演劇人は、まだ、
そこで踏ん張っているんだわと思う。

あとは・・・ガンバレ、オリザ!


2003年03月12日(水) つか「ストリッパー物語('03)」2

  重三 オレは君を組み敷いている県会議員への嫉妬も、
     尻を押している惨めさもなかった。
     オレにはそれがふさわしいと思ってさえいたのだ。

重サンのモノローグの一節。「オレにはそれがふさわしいと思ってさえいたのだ」と来るところが、尋常じゃないつか節の冴え。普通やったら「オレはそれをがまんすることができたんだ」やと思うの。この違いが、普通のマゾヒズムと前向きのマゾヒズムとの差。また、それを語る石原サンの顔もなかなかいい。ただ、あぐらかいて話してるだけなのに、動かない身体のなかで感情がぐるぐるうねってるのが伝わる。村雨の切れ味はないけれど、棍棒で殴り倒すみたいな。

本当にやさしい人なんだと思うの、石原良純てヒトは。どれだけつかに良いセリフもらっても狂気があんまし感じられない。でも、その優しさ。大きい包み込むような波動が、橋本重三というキャラクターとかなり相性が良かった。木村伝兵衛では、物足りない彼の本質が、ここではベストマッチに見えるよ。「熱海・サイコパス」もイイ脚本だったけど、あのマザコン伝兵衛よりもこっちのヒモ重サンのが、説得力に満ちてる。あのモノローグだけで、観客全てをもっていけるんだから、やっぱ良いんだって。どかの最お気に入り役者ではないけれど、説得力があれば、それが一番。

さて、相方のストリッパー明美・渋谷亜紀。んー、先だっての「熱海」のレビュー(つか「熱海殺人事件 蛍が帰ってくる日」)で酷評したあとで言うのもなんやけど、わりと良かった。というか、ダンス、すごい。こんなにすごかったっけ?二年前は「私、巧いでしょ?」的ないやらしさが満載のダンスで観てられなかったんだけどな、今回、そのいやらしさが薄れ。つかがきっと、がんがん、追い込んだんだと思う。そんな予断を余裕を銀河系外宇宙に追いやるくらいに。ストリッパーという設定だから、卑猥な動きも満載なんだけど、観客が受け取る感情はそれとは全く逆、何かしらの真摯さを目の当たりにした気分。敬虔な感情、とまではいかないけど。

いわゆる芝居は相変わらずなところもあった。でも「熱海」から一ヶ月しかたってないのに、随分変わった。確実にゲスと品性の間の振幅が大きく。まあまだ、足りないんだけど。だって、重サンへの気持ち、伝わんないんだもん。伝わんないんだけど、それなりの切迫感。恋心は出せなくても自分の夢への未練は大きく打ち出せた。重サンの娘・美智子への仕送りのために本番で客を取り続ける姿にはそれなりの説得力。そう、重サンへのベクトルは稀薄だったけど、自らの夢へのベクトルはちゃんとしてたから、つかはそっちを優先して演出をつけたのかな。つまりそれだけまだ薄いということには違いない。役者としてのスケールが、足らない。

足らないなりに、でもこれが、彼女のベストパフォーマンスなのは間違いない。つかは精いっぱい、骨の髄まで彼女を刻み込んで、美味しいところだけを抽出したのだ。重サンが死んだあと、明美が狂気に至る有名なシーン「銀粉ショー」。二年前はただひたすらいかがわしくて気持ち悪かったこのシーンが、今回は、なぜか涙が流れる。ああ渋谷亜紀に涙をもってかれるとは。ステップ踏んでる限り、この人、輝きは本物。どんどん身体が汚されて、正気の光が後退したその目に、狂気と哀切の光。痛い。痛い。美智子への仕送りのため、自らの夢のため、そこでなら渋谷亜紀は身体を張れるのね。そしてラストシーン、美智子が明美の前に。観客はここで、あの世界を恐怖に突き落とし続けるアメリカも、いつかは正気を取り戻すだろうというつかの希望に満ちたメッセージを、美智子の姿に見る。全てのドラマが収斂されていく。また、どかのヒューズ、飛ぶ。ここのトロイと黒川クン、良かった。

小粒な役者を揃えて、でもその小粒な役者ひとりひとりを丹念に分解していき、そこから一粒のダイヤの原石を拾い出し、それに光を当てて描き出したプリズム光のポリフォニー。重サンと明美の恋物語で成立させることが不可能だと悟ったつかは、プロットの論理的繋がり、物理的可能性すら放棄し、ただ、小粒のダイヤの輝きを増す作業に没頭し続ける。本当なら、主役2人のダイアローグが最後に血しぶきのニュートンリングをカンバスに重ねて仕上がるハズの舞台も、今回はそれは不問にして、最後まで賽の河原の小石のごとく、積んで積んで。積んでくことで、矛盾も増えるけど、輝きも増えて。きっとつか芝居に慣れない人は、ストーリーの物理的矛盾(時間や空間について)で躓いて、最後のハッピーエンドまで辿り着けなかっただろう。役者ひとりひとりのシャウトに、振り切られてしまっただろう。どかは・・・

どかは、今までつか芝居を見続けてきたことは、今までつか風観劇体力を身につけてきたことは、すべて今年の「ストリッパー」の剛速球の痛みに耐えるためだけだったんじゃないかと、そう思った。二年前のこの舞台を観たときは、もうつかは卒業しようかとさえ思った。でも踏ん張って、良かった。アンテナを折らないで、良かったな。スターさん不在のなか、それでも普通の役者でも120%のベストパフォーマンスを重ねれば、ハッピーエンドも不可能ではない。すさまじいまでの演出の気迫。どかは火曜日の夜、幸せでした。

(そして一方で、ここまで調子のいいつかをどかは見たことがなかったから、なおさら強く思ってしまうのは、スターさん不在。ここに、あの役者やあの女優がいれば、と。だって、つか芝居の醍醐味は、ダイアローグ。あの、お互いを痛めつけ、なぶり、辱め、そして救っていくあの痛く長く続く2人芝居にこそあるんだもん)




重サンの上記モノローグには以下の言葉が続く。モノローグとダンスで力業のハッピーエンド。でもハッピーエンドはハッピーエンドだ。重サンが明美の性病をもらって死に、明美がその毒で発狂して死んだとしても、ハッピーエンドなんだから。


  重三 君に、愛しい人に、オレの気持ちの
     何を伝えようとしていたのだろう。
     そうだ、きっとオレは何よりも、
     君と、心と身体を繋ぐ絆が欲しかったのだ。
     だから、オレは汚ねぇ尻を押せたんだ。


名セリフ。おい、のんきに花なんか出してる場合じゃないだろー。どこにいるんだよ、いま。あなたが帰ってくる場所は、あそこだよ。あなたが語るべき言葉が、他のヤツにさらわれてるんだよ・・・


2003年03月11日(火) つか「ストリッパー物語('03)」1


二年ぶりの再演、未だ活字化されることのないライブでのみ可能な「幻の名作」。千秋楽、ソワレ観劇。しかし、紀伊国屋サザンシアターでは銀之丞の「寝盗られ」で、紀伊國屋ホールでは「ストリッパー」。ここ数日の新宿のつか指数、極大値をとっていたね(過激なこの表紙は、今回のパンフレット)。


さて、今回のレビューに先立ち、二年前のこの戯曲が上演されたときのレビューをアップした。「寝盗られ宗介」とは違った意味で、前回の舞台と今回の舞台の差は面白いと思ったので興味がある人は、見てください。なぜ、どかにとって、今回のこの舞台にむけての期待値がさほど高まらなかったか。その理由は、このレビューに。


  つか「ストリッパー物語('01)」


早々に結論。「つかこうへい、恐るべし」である。寒気がするほどの演出の冴え、さすがに自分で言うだけのことはある「演出させたら日本で右に出るモノはいない」。本当にそうかも知れないと思った。一昨日に銀之丞の「寝盗られ」を観たところだったから、なおさらその思い強く。演劇にとって演出の力は、めちゃくちゃデカい。

ストーリーは'01バージョンのレビューに書いたのでそちらを参考。基本はそんなに変わってない、でもそこかしこにリファインの跡が、そしてそれらが全て有効である。今回目について変わったのは「イラク情勢」という時事問題が戯曲に深くコミットしてくるということ。ジョージ・ブッシュの息子が重要なキャラクターだったり、空母「カール・ビンソン」が空中給油したり。そして、前にどこかで書いたけれど、つかが時事ネタを織り込む理由はただ一つ。苛酷なシチュエーションを舞台に落とし込み、役者をギリギリまで追いこんだ先に生まれてくる「華」を見つけるため、ただそれだけ。あと出てきたネタは「パチンコ打っててクルマの中に赤ちゃんほったらかして、それで赤ちゃん熱中死」っていうちょい古い事件。メインストーリー自体が救いのないえげつなさを持ち、それに加えてこのエピソードがどん底感を深めていく。「華」は生まれるのか?

それがさあ、生まれたんだよ、もうびっくり。

例によって、主役の2人の力量不足を補うかのように20人から、役者が板に乗る。それでそれぞれに語るべき言葉、見せるべき姿勢を持たせているから、もう話があっちゃいったりこっちゃいったり大変。大風呂敷はどんどん大きくなって、ついにイラク=アメリカ問題まで。ああ、この先どうなるのかしら?でもね、この不安は、同時にすでに、解消されているの。なぜなら、今年はちゃあんと、言葉が聞こえる!2年前は全く聞き取れなかったセリフが、ちゃあんと分かるよ。まず、ここで、つか、エラいなって思った。ああ、演出、さぼってないじゃん、ちゃんと発声・カツゼツ、直したのねって。しかし、つかはさらにその先を走っていた・・・

'03バージョンの戯曲、'01と比べて明らかにエピソードの繋がりがイイ。一見マジでてんでばらばらな各役者の苦悩は、全て、重サンと明美の苦しみへと収斂されていく。この「ドライビング・フォース」のすさまじさはすごい。ちゃんと風呂敷は、ラストに向けてたたまれていく。厚みを増して、ドラマはカタルシスへと繋がっていく。この感情の猛スピードに、どかは途中からヒューズが切れてしまう。剛速球の痛み。金泰希の水野の時とはまた別の、戦慄。それは特定の役者個人に対してではなく、あくまで総体としての、群像に対して。そう、まさに演出に対して、どかは涙したの。

当たり前だけど、こんな舞台だもん。役者もベストパフォーマンスを繰り広げてたと思う。トロイ・山本哲也・古賀豊・黒川恭祐・友部康志・岩崎雄一・小川智之・真家留美子などは、どかが今まで観た中でもベストに近い出来だった。特に小川クンと岩崎サン、真家サンはびっくりするくらい。最初の緞帳が上がったとき、渋谷亜紀じゃなくて真家サンが踊ってたから、本当にビックリした。一気に劇世界に吸い込まれたね。誰だって、ひとり踊ってたら、ああ、渋谷ね。って思うやん。きったないわー、つかこうへい(かなり褒めてます)!あと、渋谷亜紀演じる明美を責め立てる演技、なかなか良かった。かなりゲスな感じ。いい。手を広げて刺されるシーンも。まだ振幅が小さいけれど、ゲスと品格、その振りかたを知ってる。どんどん良くなりそう。つかこうへいは戯曲をかなり書き換えたのであろう、それぞれのサブキャラがちゃんと説得力あるカタチで光り輝き、舞台をどんどん染めていく。そうして顕れるのが、主役の2人、石原良純と渋谷亜紀。キレイに編まれていく縦糸と横糸を、もう一度染め直さなくちゃいけない、大事な主役サン。つかはなおも、手を抜かないでこの2人を調理、分解、破砕して。

石原さんも、どかは「熱海殺人事件・サイコパス(レビューまだ)」以来だけど随分舞台役者っぽくなってきた。でも、まだまだ。・・・まだまだのハズなのに、なぜ、今回、これほどイイんだろう。二年前に赤塚クンが読んだそのセリフを、良純バージョンにどんどん稽古場の口立てで変えていったんだろうな。石原サンはダンスができない。つか独特のぶつかりあうギリギリの対話も苦手だ、リズム悪い。じゃあ、あと、この人には濃い眉毛以外に何が残るのか。・・・ちゃんと残ってるのね。この人、モノローグが、かなり、良い!つかこうへいの基本は、その役者の一番良いところと骨の髄までしゃぶりつくすような演出。つまり石原の場合は他のまずい部分、この戯曲のキーである「ダンス」を削り、つか芝居の基本である「ダイアローグ」すら削って時間を短くし、重サンのこの「モノローグ」に、ドラマツルギーを懸けたんさ。舞台終盤、重サンは舞台中央、あぐらをかく。他の役者、全員はける。真上からスポットで抜かれる。こっから10数分間、「お天気おじさん」石原良純は、彼の時間のなかでおそらく、最強の輝きを放つ・・・(続く)。


2003年03月10日(月) つか「寝盗られ宗介('03)」3

さて、役者サン。吉野紗香は、まあ、ね。初日の幕が開いてから、楽日までの成長はなかなかだとは思った。でも、どかはどうしても小西真奈美と比べてしまって。でも戦犯では、ない。小川岳男、もーすこし、キレて欲しかったなあ。スケールの大きい波動で舞台を染め上げたけれど、スピードが足りないかも。「熱海」の大山で見せた感情のスピードを見たかったかな。でも戦犯では、ない。もう、バレバレだけど、どかの中で戦犯は、一人。横山めぐみだ。

後半、劇中劇に入る前、座長とレイ子が2人でお互いをいたぶるシーン。「蒲田行進曲」でも「飛龍伝」でも「熱海」でも、この2人でマゾヒスム度を極限まで高めていく、痛く長く続くシーン。どか、少し眠かったもん。ここ。つか芝居で眠くなるなんて、悲しいよ。レイ子、前半はなかなかいいんだよね。でも後半のこのレイ子のシーンと、劇中劇に入ってからのお志摩のシーン、足らへんって、全然。銀チャンひとりでかわいそう。がんばってるのは分かる。精いっぱいやってるのもわかる。でも、この芝居のセリフであるように「がんばってること自体には何の意味もない」ねんて。確かに綺麗なヒトだ。生の舞台でも映えるくらいキレイなヒトって日本の女優見渡してもあんましいない。確かにこの彫りの深い伝統的な美人顔は、舞台向きだわ。でもね。つか芝居はそれだけじゃあ、足らない。言葉で指摘すれば「銀チャンの言葉を受けきれてない」「自分の言葉も上滑りしている」ということになるんだろうけれど。

でもね、銀チャンはがんばってた、それでも。きょうは前から4列目、上手側の一番端。銀チャンこっちがわで見栄切ってくれること多かったから、嬉しかった♪あのポマードべったりのオールバックに、青いアイシャドウばちばち。たまんないッス。どかが女だったら、もう、ヤバいと思う・・・。で、レイ子をいたぶるシーンとかもう、ゲスな男のフェロモンがプンプンで。そしてあのつか節。ああそうなのだ。つかのセリフはこうやって響くのだわって思い出した。「新・幕末純情伝」や「犬を使う女」、「熱海殺人事件モンテカルロイリュージョン('98)」(注:この3つともレビューまだです、そのうち書きます)でどかが出会った銀チャンの輝きが今ここにあることが嬉しかった。あふれる才能が過去のモノではなく、いま自分と同じ時を呼吸していることのダイナミズムは、例えようもなく至福なのな。

相方の横山めぐみが、いっぱいいっぱいだったから後半はひとり相撲になって、でも、本来なら目の前の相手と戦うところ、銀チャンは目に見えない何かを探して、それに向かって戦っていた。その孤独な戦いは、全てのキャラクターが舞台上からはけて、宗介ただひとり舞台に残る最後のシーンにおいて、美しくも極まる。'98では西岡徳馬がひたすら藤山直美の姿をもとめておろおろうろたえていた。'03では山崎銀之丞、ストーリー上は横山を待ち続けることになってるんだけど、でもどかの目にはそうは見えなかった。もはやレイ子はどうでも良く、もっとメタ的な戦い。ストーリーを「ハッピーエンド」にまでひっぱるためにひたすらカラダを張って戦っているように見えたの、見えない敵とね。幕の奥に向かって手を伸ばす瞬間の銀チャンの目。ああ、痺れる、ホンマに。歯を食いしばって、ガマンして、ひたすら耐えて、「ハッピーエンド」が来るその瞬間まで、舞台をひとりで支えきるという悲壮な決意。この決意を、ヒトは「華」と呼ぶんね。

でもやっぱり、かわいそう。'98の藤山直美みたいな、すっごいレイ子がいたら、この「華」はもっと大きく舞台をそめていくことが出来たはず。銀チャンは最後までひとりぼっちだった。小川岳男のフォローも、ここでは届かない。つかサンの演出すら、助けてくれない。全部ひとり。まるっきり、自分だけ。それを思うと涙がにじんだ。カーテンコール。ぼろぼろだったもん。銀チャン。ほんっとに「あしたのジョー」みたい。燃え尽きてボロボロ。今年は古い脚本を焼き直して使ったから、まだ銀チャン、息してるけどこれが'98バージョンのホン使ってたら、きっと、銀チャン、死んでるな。あの壮大なスケールのホンで、サポートもなく、ひとりで「華」を守ってたら、マジでカラダがいくつあっても足りない。

どかはきょう、カーテンコールに拍手しながら「ああ、今年はこのバージョンのホンで良かったんだ」と納得できたよ、ココロから。仕方なかったんだ。ホン自体の破壊力は弱いけれど、でもこの布陣ではこれが精一杯のホンだったんだ。つくづく、なんでつかこうへいは「ストリッパー物語」ではなく、こっちを演出しなかったんだろうと、思う。石原良純と渋谷亜紀、2人足しても銀チャンの「華」の足の小指の爪の先ほどにもなんないよ。とは言いつつも、あした見に行くもう一つの新宿でやってるつか芝居、本家本元つかこうへい作・演出のそれは、楽しみではある。

にしても、つかのホンは、本当に優しい。野島伸司が言うところの「弱い」人間とは、実は感受性が豊かな人間のことを差すのだけれど、そんな人たちにとっては、生きると言うことは絶え間なく「歪んだ自分」に気づき続けるということで。そして、そんな自分の「歪み」を受け入れるためには、あえて互いの歪みを指摘し、いたぶりあい、なぶりあうことで生じる痛みを、ココロに刻むしか、仕方無いのかも知れない。その「痛み」の分だけ、自分の「歪み」の度合いが正確に測れるのだから。その正確さだけが、世界と自分との間に発生する「人生」というものへのアプローチなのだから。「人生」を成立させるためのマゾヒズムが、ここには、ある。

せやからね、この「前向きのマゾヒズム」を舞台上で展開出来る役者サンは、この世の中で一等強いココロと、この世の中で一等弱いココロを同時に持っているヒトじゃなくちゃだめ。けっして最初からバランスをとろうとするんじゃなくて、その引き裂かれた自分のココロの痛みを知ってるヒトじゃなくちゃダメなのさ。つか芝居ほど役者にとって苛酷な芝居はそうそう無いだろう。軽いふやけたつか芝居は、ちょっとかじった役者なら簡単なんだけど、本当の、真剣なつか芝居は、きっと今の小劇場界全部を見回しても、それより苛酷な舞台はないだろう。・・・銀チャン、おつかれさま。

あああああ、それにしても、つかサンが演出やってくれてたら(まだ言うかオマエわ・・・、餅をついた性格・どか)・・・。総論。2003年バージョン「寝盗られ宗介」は傑作である。どかの期待値はマックスであり、それに届かなくても、これは傑作だ。山崎銀之丞というひとりの人間の、あらゆる意味での孤独や寂しさが、徒花になるかと思われつつもひそかに咲かせきった舞台。千秋楽の最後の10分間の銀チャンこそ、真のすたーサンの底力だった。どかはつか芝居を、肯定出来る。

「本当にかっこいいとは、真のエンターテイメントとは、こういうことだ」

山崎銀之丞、絶対支持宣言。っつうか、らぶ。


2003年03月09日(日) つか「寝盗られ宗介('03)」2


すかっと晴れた青空、気持ちよいタイムズスクエア・ボードウォーク、千秋楽、マチネ@紀伊国屋サザンシアター。2度目の観劇。きょうは体調もそれほど悪くない、コンディション整えてアンテナ感度上げて。で、かっちりレビュー書く前にと思い、98年バージョンのレビューを書いた。参考にしてもらいたい。というのも、'98と'03を比べて見えてくるモノが、実は大事なんじゃないかと思ったの。

  つか「寝盗られ宗介('98)」1
  つか「寝盗られ宗介('98)」2

ストーリー。どさまわりを続ける劇団の座長宗介とレイ子は、式を挙げてないけど夫婦。で、宗介が自虐的な変態で、レイ子を他の男と駆け落ちするようにしむけては、帰ってきた彼女と相手の男を温かく迎えることに生き甲斐を感じている。宗介とレイ子はお互いを罵りあい、互いの傷口に塩をぬりこみつつ、ようやく愛を確かめ合ってきたが、今度は、レイ子、帰ってこない・・・という話。んー、深い。


さてまず、大切な前提。2003年バージョンが1998年バージョンと根本的にちがう点は、次の2つ。

  1:今回のつかの脚本、ベースとなっているのは1980年初演時のモノ
  2:今回の演出は、つかではない


まず1について。'98バージョンで、つかは大幅にホンを書きなおした。しかし、今回、座長の銀之丞は古い初演バージョンのホンを選択する。その理由は分からない。物理的な問題もあったのかとは思う。今回の座組で集められた9人の役者ではとうていあの40人近くを必要とする'98のホンはやれないし。じゃあ、'03のホンはシンプルなのかと問えば、決してそうでないから話はややこしい。

千秋楽、どかがグッと来たシーンはいくつかあるけれど、そのうちの二つが、ジミー(小川岳男)の「オレ、一人でだいじょうぶかなあー」のシーンと、すず子(吉野紗香)の「アタシだって、女優なんだよー」のシーン。若くて未熟な2人が座長・宗介の庇護のもとから去っていく時に、将来に対する不安や自身の葛藤をストレートにシンプルに響かせるいい場面。そのセリフがターンッと気持ちよく鳴れば鳴るほど、座長への信頼や愛着が反語的に沁みわたってく仕組み。泣ける。

でもね、'98にはここらへんの「アイデンティティの震動」というのはさっぱり削除されてたの。'98のテーマはあえて言い切ってしまうけど、ただ一つ「らぶ」。それに対して'03では「らぶ」に加えてこのサブキャラの内面までグゥっと掘り下げて提示する。「シンプルな'98」と「並行な'03」、どちらがいいというような単純な話ではない。ただ、テーマを2つ走らせれば、舞台を収束させるのにそれなりのパワー(華)がいるのは当然で。だから、人数が少ない'03だけど'98を凌ぐほどの力量が問われてくるの。誰に問うのか?それは今回のらぶを背負って立つ宗介(銀之丞)とレイ子(横山めぐみ)の2人。そりゃあ、大変な重圧だよ。古くてもつか戯曲、セリフの強度はハンパないもの。

・・・でもね、どかは'98のホンのが好き。「らぶ」ひとつっきりだったけど、でもその「らぶ」の極め具合がハンパ無かったもん。それこそこの殺伐とした何でもありな猟奇的時代にでも、悲しみを突き抜けたリアリティが感じられるくらいの、極めつくしたセリフの強度。'03のホンが丸く見えてしまうくらい。まーでもその代わり、役者にかかる重圧は'03の比じゃなかっただろうな。あとで言うけど、今回の布陣では結果として賢明な選択だったとのだとどかは思う。

次に2について。'03では演出初挑戦の、座長・山崎銀之丞が舞台をまとめていった。すごいと思う。つか自らを除けば、つか芝居をここまで仕上げることができるのは多分、このヒトだけだわ。律儀に素舞台を貫いて、音響にもほとんど頼らず、よく役者に全てを託す勇気を出せたと思う。演出って、勇気だね、勇気。ほとんど初舞台同然の横山めぐみに吉野紗香を、紀伊国屋の素舞台に乗っけるなんて、ほとんど「有り得ない」話。この勇気を見せただけで、もはや演出はほとんど合格だよー。でもね。これはつか芝居。しかも「寝盗られ宗介」っていう金看板。ふやけた第三舞台はまだ見られるとしても、ふやけたつか芝居は見るに耐えない代物だから・・・

で、先週の土曜日に見たときは(つか「寝盗られ宗介('03)」1)実際、いくつか小さくこじんまりとしちゃった場面がいくつかあって。でも銀チャンはつかさんの一番弟子。楽日まで、脚本をいじってでも芝居をどんどん良くしていくっていう気概はきっとある。だからきょう見るまでに、絶対何かが変わっているハズだって言う確信があった。だから、先週のレビューはほとんど何も批評しなかったの。で、銀チャンのふりーくサンたちの掲示板を拝見したら、日々、演出やホンが細かく変わってきているのが報告されていたばかりか、3日前あたりに「あのシーンはつかサン自身が手を加えたに違いないっ」というカキコもあって、否が応でも楽しみに。つかサンは本当に厳しくてやさしい人だから、いくら、いま、同じ新宿で自ら演出の「ストリッパー物語」を上演してても、こっちが気になるんだろうなあ。

で、実際つかサンが手を入れたと思われるところは、細かいところ、いろいろあった気がする。どかが一番ハッとしたのは宗介がジミーにキレるシーン。あの凄み。銀チャンが青い炎に包まれて。あれは、土曜日にはなかった。そうなんだよね。本当にいいつか芝居は、あんまし怒鳴らなくてもいいのだ。本当にいい役者なら、声の大きさに頼らなくても狂気が出せるから、目で。このシーンは嬉しかったなあ、ああやっぱ「寝盗られ」だあって思ったもん。これ以外にもいろいろ繋がりが良くなってる気がした。あと、感情の起伏も全体的に大きくうねってた、これもつかサンの仕業だ。すず子の「あたしだって女優」シーン。吉野紗香の役者ズレしてない部分を逆手にとったあの「ずるい」演出は絶対、つかサンだ。その証拠に、どか、ヤバかったもん。ジミーも、がんがん宗介に肉迫してきた。どかが気になってた部分が修正されてて、それも嬉しかった。

でも、やっぱり、劇の構成を変えてしまうには至らない。全体的にガーッと変えるには時間が無いし、役者の習熟度もそれに対応できるほど高くなかったんだろう。つかサンなら、この芝居を見て、全般的に「足りない」ことくらい一瞬で分かっちゃうよ。だけど、せめて応急処置をと御大自らが、上記の手直しをしてくれたおかげで、この楽日の舞台、どかは気持ちよく拍手することができたのー。

さて、'98との相違点についてさらっておいて、積極的にきょうの芝居について。つまり役者サンについては・・・(続く)。


2003年03月07日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第9話

第9話「壊れかけた先生」

あんまし客観的に観ることができなかった、この回は。あかん。思考、ていし・・・。

藤木直人が、いい。とてもいい。黙っていても、抑えた会話をしていても、狂気の匂いを漂わせている。なんか、この匂いが無いと野島ドラマって感じがしないもん。でも、つまり、今回は完璧、野島ドラマだった。

京本政樹もさすがだ。自分が、脚本家に何を期待されているのか、言葉じゃなくて身体がちゃんと知っているみたい。ちょうどそこの、そうその穴ぽこを埋めて欲しいっ、ていうときにちゃんと埋めてくれる。あと、そのごほうびかな?野島さん、藤村先生にすごい良いセリフをたくさんふってる。今回なんて、藤村先生のは全部抜き出して、名セリフ集を作って、ひとつ一つ、解説してみたいくらい。深い言葉、ばかり。

上戸彩、受けの演技がいいな。すごい、細やかに相手のセリフを受けていく。常に立ち位置を微妙に変えて、対応していく。それが町田雛というひとりの高校生の感受性の豊かさを、言葉じゃなくて画面で伝えてくの。かあいい。らぶ。

・・・ああ、やっぱりだめだな。冷静にいろいろ、ホントにいろいろ考えなくちゃいけない言葉が降ってきたんだけど、どかが掲げてたブリキの洗面器には、穴が空いてたみたい。というか、空けちゃったんだろな。もう、テレビの前で苦しくて苦しくて。

もう、あきらめる。かじょう書きに書きちらしてしまおう。

1:純粋な愛を求めていくことの断念(藤村先生)
  「不健全なカラダに健全なココロ」と「健全なカラダに不健全なココロ」
  結局前者をあきらめて後者に移行・子供という代替物で愛の補填
  ソニンを切って、かおりと婚約へ。

2:「純粋な愛」以外の感情の限界(雛)
  だまされていたことのショックにまみれながらも雛はホスピスを志向する
  ←愛ではない・・・バスの窓に、ハートを描けなかった。
  ←じつは養子であった郁己がかわいそう・・・同情。
  ←かつて優しくしてもらったから・・・感謝、ギブアンドテイクの関係。
  しかし百合子にホスピスは甘くないと叱られ、結局あきらめる。
  同情や感謝の気持ちでは、生と死の境界線の綱渡りはできない
  →ゆえに、本質的にヒトは孤独である。

3:時間の残酷さ(郁己)
  時間はいろいろな痛みをいやしていく優しさを持ちつつ、
  一方ではその痛みを顕在化させていく限りない残酷さを持っている。
  第9話というのは、つまるところ、その時間の残酷さのみ。

・・・この時間の経過を継いでいったそれぞれのカットがね、もう身にしみる。どかは思うのだけれど、ヒトは自分の「容器」以上のものを受け取ることはできない。想像力はけっして最初から無限であるわけがない。

どかはかつて、本当に、もう、どうでもいいって思ったことがあって。引きこもっていた自分の部屋の空気がかぎりなく薄くなってしまったとき。朝、まわりが明るくなることがイヤでイヤで仕方がなかったとき。幻視と幻聴が、友達と話すことよりもホッとできるくらいのとき。そのときのどかと、ほんっとに一緒だった。郁己の行動。分かりすぎるくらい分かった。こんなの、勝手な過剰などかの感情移入かも知れない。でも、最後のシーン、雛と郁己が電話で会話していて、郁己が初めて雛のことを「きみ」じゃなくて「ひな」って呼んだとき。「君がいないと生きていけない」と言ったとき。そのときどかはファントムペインに襲われて、苦しくて苦しくて苦しくて。

そう。ヒトはああいうふうにストーカーになっていくのだし、ああいうふうにわらにもすがっていくのだし、ああいうふうに一度は自嘲してとりつくろってみて、そしてああいうふうにあのタイミングであの声で、泣くのだ。


2003年03月06日(木) カタン、

某大学の研究室を訪ねた。
きょうは、前のとこみたいく、
他の学生がいる研究室に飛び込んだわけではなく、
先生とサシで相談させてもらう。
やー、社会に一度出たことに、
好感をもってもらえたことが、嬉しかった。
ふー、やれやれ。

にしても・・・とおいよぉ!

でも、いろいろなことが、明らかになってきた。
ジェットコースターが、最初の坂を上りはじめた。


カタン、

 カタン、

  カタン、

   ・・・

    カタン。



「白夜の女騎士(ワルキューレ)」、野田秀樹のセリフ。


人間はどうして、

 4本足から2本足になって、

  走るのか?

   ・・・

    それは空を飛ぶための助走なんだ。



2003年03月05日(水) よしもとばなな「ハゴロモ」

きょうは朝から散髪。夜は芸能研。ひさびさに「課題演目」を踊っていろいろ思うところあるし、くまくまのを見ていろいろ思うところがあるけれど「書いちゃダメ」って言われたから(チッ)、代わりにレビュー書く。

先週末、帰省から戻る新幹線の中であっという間に読んじゃった小説。かなりの衝撃だった、これわ。作者いはく「青春小説のど真ん中!」らしい。うん、そう。そう断りを付けたくなる気持ちは良く分かる。きっと、恥ずかしいんだろう。なぜ恥ずかしいのか。よしもとばななは、ほんっっとに行き当たりバッタリ、整合性の「せ」の字にも背を向けて、書きなぐった小説なんだもの。

どかは去年、よしもとばななの「王国 その1アンドロメダハイツ」を読んだときにね「ああ、この人、すっごい小説、上手になったんだなあ」と感動したんね。「ヘタウマ」文体にこだわりつつ、全体の構成をじつはきちんと踏まえて、細かいエピソードをちゃんと整理して、しかもそんな苦心の作業の跡をほとんど残さないように文面をならしていく作業。自分の苦労を隠しててきとーっぽさに自分のメッセージを溶かしていくその手腕は一流だなあと感動したの。「キッチン」っぽいけど、さらに先に進んだ成果だとどかは書いた。

でもねえ「ハゴロモ」。文面は確かにならされているかも知れないけれど、全体の構成、細かい場面の整理、ほとんどしてないよね。ただ、なんか思いついたらそのまんまどんどんリアルタイムで文字に落としましたあ!っていう迫力を感じた・・・

ストーリー。自分の青春をかけた不倫の恋に破れた20代後半の女性が実家に帰って、ちょっとずつ元気になってく話、以上。なるほど。「王国」では急に一人ぼっちになった女性が都会に出て、ちょっとずつ元気になってく話だったけど、今回は失恋な訳ですね。・・・・だからか。


  時以外のものに癒されるのもいやだったから、
  親切にしてくれる男の人をことごとくさけていたし、
  話が深くなりそうな女の友達もついさけてしまった。
  自分の弱さの程度が全くはかれなかったからだった。
  (よしもとばなな「ハゴロモ」)


構成や場面に気を遣っていない分、こんな感じの純度の高いばなな節が次から次に炸裂するから、ばななフリークには悦楽の極みかも知れない。テーマ的には「王国」からまた、一歩、後退してるみたいな気がした。でも後退じゃないのかも知れない。作家の中には前から変わらない、でも日々少しずつ変わっているひとつのテーマがあって、それをピンスポットでキレイに抜いたら「王国」になって、ユニゾンでふわーっと浮かべたら「ハゴロモ」になるのかな。

・・・どかの中での「よしもとばなな理解」は以下の感じ、ちょい長くなるけど。

ヒトは疲れてしまうこともある。くたくたに倒れてしまうこともある。そしてよりによってそんなとき、はしげたが崩れ落ちて川の真ん中で溺れちゃうことは、実はおうおうにして良くあることで。そんなとき、あわあわしつつも対岸に向かって救助を求めてしまう。空を仰いでヘリコプターが突如、なんて夢を見たくなってしまう。でもね、自分の外に対していくら手をさしのべてもダメで。あわあわごぼごぼ、たくさん、水も飲んでしまうだろうし、ジーパンも足に張り付いて動きづらい。でもね、それでも、自分の手で水をかいて、自分の足で水をけって、何とか浮力を作らなくちゃって、身体が先に動いてるの。もちろんそんなの一瞬でイアン・ソープになんてなれないから、でも「バタ足金魚」のカオルくんくらいにならそのうちなれるから、ばちゃばちゃヘタクソに身体を動かして。そしたら、あら不思議。いつの間にか対岸に着いてるわ。川を振り返ってみると、そんなに汚れた水じゃなかったし、ヘドロに足をとられることもなかった。いくつかラッキーも重なったけれど、はしげたが落ちたアンラッキーもあって、なんだか、ふふん、そんな感じ。

・・・長くなったな、でも、よしもとばななって、こうだと思う。基本的に、全部。キッチンのころからテーマは若干深度を増したけれど、でも基本は変わらない。変わったのは書く技術。技術が向上するのは、いいことだ。だから「ハゴロモ」をどかは決して絶賛はしない。インスタントラーメンを出すラーメン屋とか、バスターミナルの神様とか、そんなプロットがきちんとおさまってるとはとても思えない。でもね。それとは別に。作家が無意識のうちに、このテーマを大切に大切に抱いてきょうの日にたどり着いたのね、っていうことがはっきり分かって、この小説は個人的に好きかも知れない。

あ、そういえば、「キッチン2(満月)」に似てるのかな?21世紀の「キッチン」が「王国」で、「キッチン2」が「ハゴロモ」。うん、完成度の低さとか、作家のいっぱいいっぱいな感じとか、どかにとって1よりも2のがより胸に迫る感じとか。これはあの、スランプの時期に舞い戻ってしまったことを示す作品ではない。むしろ、高らかに江戸の街に響きわたる、登城太鼓なのさ。


  いやしかし、そのどちらも誰かの考えた方法論だ、と私は思った。
  何かで見た決まり事や、誰かがよしとした考えだ。
  私は時間をかけて、自分がちゃんと流れ着くようなところへ行こう。
  そのためには、もう少し時間をかけなくては、と思った。
  (よしもとばなな「ハゴロモ」)


2003年03月04日(火) キャラメルボックス「太陽まであと一歩」

「キャラメルは一日にしてならず」ということを身にしみて感じた、ある意味究極を見せつけられた、そんな夜だった。




これまでどかがことあるごとに否定し続けてきた小劇場界のゴリアテ・演劇集団キャラメルボックス、生で観るのはこれが最初。もう入り口からしてどかには違和感バリバリ。どこだここわ。京都にあるというジャニーズのミュージカル劇場か(巨人・ゴリアテが腰低く張り付いた笑顔を見せてくることの何とうすら寒いことか)?

イヤ違う、ここは池袋、サンシャイン劇場。そういえば、どか、サンシャイン劇場も初めてだ。これだけ芝居見続けてきて初初づくしだわ。


なぜにどかはここにいるのか。やっぱり一度、生で観たかったというのがあったの。以前VTRで観たときに「ああ、これやったら別に生で観てもVTRでも変わらんわ」って思ったことがあって、でもそうは言っても、生だと奇跡が起こるのかと思い、キャラメルフリークのなつなつにお願いして「上川隆也が出てるヤツ、チケ獲って!」。やっぱ、キャラメルといえば、小劇場界のプリンチュ・上川隆也。去年の上半期の話題を独占した小劇場役者オールスター公演「天保12年のシェークスピア」で主役を張るほどのスターさま、ホームグラウンドで一度観たいなーっていうのも、実はずっと、あった。食わず嫌いはいけんね。

ストーリー。あるところに仲の悪い兄と弟がいました。兄は若手映画監督。弟は助教授です。ある日、兄は自分の撮った映画を家で鑑賞したまま居眠り、しかし、一向に目を覚ましません。兄の奥さんが映画をもう一度観直してみると、なんと映画のワンシーンに映るはずのない主人の姿が。すぐに弟に連絡して助けを請います。弟は映画嫌い、駆けつけてみるものの「そんなバカな話があるわけない」ととりつく島もありません。しかし、映画を渋々観ていると「!」。そうです、兄の映画とは自分たち兄弟がかつて幼かった頃、母親の離婚騒動で一緒に実家に戻っていたころのエピソードを綴った映画だったのです・・・。という感じ。まあ、ステキ(どこが?)。

まあ、どう、ひいき目に観ても、ストーリー自体には観るべきものは、やはり無く「はあそうですか」ですむ話。それは措いておくとして、舞台美術。これはまあ、趣味嗜好を除けば、客観的にはきちんとお金をかけるべき所にかけていて、上質なキャラメル風味。イイ感じなんだと思われる、きっと。そしてどかがまず目を見張ったのは次の二つ「音響」と「照明」。

イマドキのウェルメイドな作風全盛な演劇界ですら貴重なんだけど、BGMを結構頻繁に流し続ける。それが、決して役者の演技のジャマにならないよう、細心の注意を払い、また選曲それ自体もまあ、キャラメル風味で上質な味わい。フェードイン・アウトも、さりげなく凝っていて、お金をかければ舞台が映えるポイントを、ほんっとに把握してらっしゃる感じ。素直に感心。

そして「照明」これはもう定評があったし、どかも楽しみにしていたの。新感線みたいにあほみたく金かけて灯体をつり込んでいるわけでもないし、ムービングライトを使ってアイドルのライブばりにカクテル光線を作っているわけでもない。やっぱり若干青系の光が多かったけれど、でも基本はオーソドックスな照明プランだと思う。それが、見事にハマる。うまいなあ。キレイだわ。こんなに照明のいい舞台って、他には今は亡き遊◎機械ぐらいしか知らないどか。

「美術」「音響」「照明」ひとつ一つ洗練された手法でまわりを固めていくその意図はたったひとつ「よりよく役者を見せるため」だ。そうなのだ、キャラメルボックスの芝居って、ウェルメイドだけど、やっぱり行き着くところは役者芝居なのだ。そういう意味では、野田よりも鴻上。蜷川よりもつか、に近いんだと思う。

さて、そのご自慢の役者サマはというと「確かに上手い」という感じ。劇団制をとっていて、かくも長きにわたってこれほど、演技力という点においてアベレージを保ち続けている劇団を、どかは他に知らない。今や、新感線も、若手が育たずお寒い状況。劇団を諦めた野田や鴻上は言うに及ばず、北区つかもこの尺度ではとうていたちうちできない。大人計画?いやちがうな(あそこは演技力じゃなくて変態度だもん、基準)。ああ、扉座がいた。扉座とキャラメルくらいだよなあ、このアベレージの高さ。すなおに感心。だって、どの役者をとっても「穴」がいなかった。ぽっと出の若手すら安心感を醸して。

どかが一番良いなと思ったのは岡田達也サン。若手のエースなのかな?ちょっと情けない感じの好青年風、とてもお上手だわ。もちろん御大、西川サンもカッコイイ。今回はあんましおとぼけ風ではなく、クールに思いつめてく自爆キャラ。説得力あるよね。そしてすたーサンの上川皇子。演技力では西川サンに劣るし、声の通り・ハリでは岡田サンに全然及ばない。でも、何というか、人の目を集めてしまうのな。すごい色っぽい声をしてると思う。決して通りの良い舞台役者チックな発声ではないのだけど、ちょっと香気漂う、イイ感じな声。間を取るのも上手。さりげないけど確かな「華」があるね。女優さんはみんなお上手。でもみんな似た感じで、区別つかんかった。まあつかの金泰希サマや扉座の伴美奈子サマ並みのヒトはおらんね。

ああ、そうそう。ダンス!ダンスはね、すっごいかっこよかった。ちょっと、有り得ないくらい、かっこよかった。他の劇団のダンスは、確かにもう観られないかもと思うくらい。ある意味、だって、職業ダンサーの方々のパフォーマンスと比べても、こっちのが華があって誠実で、絶対巻き込み力が強いと思う。

と、役者サン達の技量には確かに感服するけれどでも・・・役者サンたちの会話や動きにも最後まで、どかには違和感が残ったのも事実で。ぶっちゃけていってしまうと、どかにはキャラメルの芝居、高校生の「学芸会」の延長としか感じられなかった。そりゃあもちろん、上記で挙げた全ての要素ひとつ一つのクオリティは圧倒的に高く、そこらの高校生の演劇とは比べられんけれど、でも、それと全く別物だとは、どかには思えない。たとえば、つか。たとえば、野田。たとえば、鴻上・・・はちょっとグレー。たとえば、青年団。明らかに高校生の「学芸会」とは、ジャンルというか種類そのものが別なのだ。同じハコにカテゴライズするのが不可能。でも、キャラメルの舞台は、同じハコに入れちゃえそう「学芸会」箱に。

具体的にどこが「学芸会」かと言うと、役者のセリフや動き、その他全ての演出が全部「段取り」になってる。たとえば西川サンと上川サンの兄弟がけんかしてるシーンでも、二人は本当に上手に的確なタイミングで自分のセリフを言ってるんだけど、全部、段取り。そこにはつかが言う「ぶつかり合い」は無いし、オリザの言う「対話」も無い。だから観客も、自分の基盤が揺らいでしまうほどの衝撃を得ることは無いし、自分の尊厳がチャレンジされるほど危うい場所に追いつめられることもない。シートベルトもちゃんとあって、エアバッグも完璧装備。役者の一人一人が自分のルーティンをせっせとこなし、それなりに哀しいかも知れない風な気分、嬉しいかも知れない風な気分までは醸し出してくれるから、安心、安全、シャンシャンシャン、はいおめでとー!と、いうサラリーマン芝居。それがキャラメルなの。

でもそんな、セーフティネットばっちしサラリーマン芝居こそ、きっとキャラメルが目指しているところなんだよね(観客よいしょしてなんぼ、みたいな)。確かにこれは、一部上場企業並みの一般小劇場ファンへのマーケティングリサーチを徹底して行い、もっとも効率よく最大公約数を拾うための戦略に充ち満ちた舞台だよ。つかの長セリや、オリザの沈黙というのは、現代の短絡的に疲れてる100人の若者を集めてぶつけてみても、きっと20人そこそこにしか響かないんだ、哀しいけど。でも西川サンのつまんないギャグや、上川サンのうらぶれた笑顔には、きっと78人くらいが反応する。あとは、20人を取るか78人を取るかというのは、それぞれの劇団の主宰が決めることなんだから、それに異論を挟む余地は無いよね。異論が言いたかったら、その短絡的に疲れてる100人に言わなあかんことくらいは、どかも分かってる。

・・・結構、ひどいこと書いてるのかな、私。これでもかなり見直したんだけどな。キャラメルボックス制作総指揮の有名な加藤サンが声からして前説やってるの見てたら「四の五の言わないでこのプロフェッショナリズムを見習うべき劇団は多いな」と思ったもん、その志が低いとは言えね。プロフェッショナリズムという点で言えば、キャラメルに伍することができるのは青年団くらいじゃないかなあ、小劇場の劇団では。北区つかなんて、あまあまだもん、劇団運営。で、それを是としてるところが、バカみたい(めずらしくつか批判)。

どかの中でひとつ、知りたかったのは「キャラメルと扉座の違い」だったんだけど、それはまだ分かんなかった。ちょっと引き続き考えよ。どかにとって「扉座はアリ」なんだよね。・・・似てるのにね、なんだろ。

結論。キャラメルは一日にしてならず。万里の長城と同じくらいには価値があると思いました。こんなところでいかがでしょう、なつなつサマ(おこられそー・・・)?


2003年03月03日(月) ひなまつりセレナーデ

・・・いや、ほら去年の日記読み直したら「ひなまつりセンチメンタル」だったから。
なんとなく、こんなタイトル。

きょうは二週間ぶりくらいに踊ったのかな。
久しぶりにさんさを踊って、気持ちよく身体ほぐして。
っていうほどすがすがしくないのは、一昨日からの風邪を引きづってるから。
なんかお腹の調子が悪いのな、あと時折の頭痛と。

ぼぉっとiPodを大音量で聴きながら(「危ないですよ」とマヤマヤに注意される)、
考えてたのは、自分でもびっくりなんだけど、
アヤト(注:上戸彩の愛称)ではなく泰希サマのことだった。
はあ、すごかったなあ。
そのあと、銀之丞の芝居観てるにも関わらず、
そっちのインパクトのがデカかったもんなあ。
甘えてもすねても泣いても笑っても怒っても嫉妬しても切なくても照れても、
うんざりしても好きになってもなられても依存してもされても、
それでも凛々しいヒトでいたいなーと思ったもんね、あの芝居観て。
あのパピヨンのシーン、未だにオールカラーで鮮明に再生中・・・

はぁ泰希サマー(・・・いや、ほら、一応セレナーデだし、?)。
んんー、アホになってる、あかんあかん。
さ、お勉強しなくちゃ。
っつうか、銀之丞、ガンバレ、期待してます本当に。

・・・さ、「ゴシック建築とスコラ学」by E.パノフスキー、
本当に読まなくちゃー


2003年03月02日(日) つか「寝盗られ宗介('03)」1

2003年度上半期、どかの最大の期待作。日テレでCMガンガン流してるから、世間の認知度もそれなりか。期待値が否が応でも高まるその理由は・・・

1 作・つかこうへい
  :かつて70年代後半の「つかブーム」の時より、
   何度も再演が重ねられている戯曲。
   重層的に立ち上がる「前向きのマゾヒズム」。かなりの名作。
2 主演・山崎銀之丞
  :筧利夫亡きいま(死んでないって)、
   つか節をもっとも上手く具現化できるのはこの人。ミスターつか芝居。
   ゲスで艶っぽい色気に甘い張りのある声、もうかっこいいんだから。
3 客演・小川岳男
  :北区つかこうへい劇団の最終兵器。彼なら銀之丞をサポート出来そう。

でもねー、一方では不安もあるのね。その要素は残る三つの要素。

4 出演・横山めぐみ
  :真珠夫人が、どこまでつかのマゾヒズムに前向きに取り組めるのか、
   不安はつのるのね。色気は大丈夫そうだけど。
5 出演・吉野紗香
  :・・・ただただ、不安。
6 演出・山崎銀之丞
  :うーん、いままで役者一本やりで、それこそつか芝居に関しての理解は、
   余人の及ばないところがあるのは重々承知だけれど、
   それでも初演出となると、どうなんだろうって?
   まあ、これは不安半分、期待半分かな、がんばれ銀チャン!




というふうな6つの焦点がどかの中にはあって、それを踏まえて昨日、雨降りのなか行ってきました紀伊国屋サザンシアター。でもBBSでも書いたけど実はどか、その朝から体調を崩してて、熱もあって。で、ギリギリまで家で寝てかろうじて起き出して中央線に乗ったていたらく。

いつものように心のアンテナの感度を上げる余裕はほとんど無かったな。ふぅふぅ言いながら席に着いたら、なんと前から二列目の真ん中。おお、すげー。銀チャンをこんな間近で観られるなんて、幸せだあ。

そして幕が開く、おぉ・・・久しぶりだねー、ミスターつか芝居!


・・・

幸いにもどかはまだこの後もこのチケットを取れてるので、フゥフゥ言いながらも茫洋として観ちゃったところがあって。まずは、銀チャンのつか芝居カムバック、めでたい!ということかな。めでたい、本当に。やっぱり銀チャンだよ、あの艶っぽいゲスな色気、青いアイシャドォも相変わらずでかっこいいよぉ。そしてあの銀チャン独特の節回し。最高です、最高。いついらいかなあ、4年前にぶぅと一緒に見に行った「犬を使う女」以来か、つか芝居で銀チャン観るんは。

とにかくね「華」が違うんだな。やっぱり北区の舞台とか観てても、みんなそれぞれ必死に頑張ってんだけど、舞台にはどうしても隙間が出来ちゃって、それがスカスカ感になっちゃうのな(28日の「熱海」は違ったけど)。でも銀チャンは違う。明らかに違う。すたあサンの「華」というのが何か、言葉を尽くさなくてもそのゲヒた笑みひとつで観客に分からせてしまう。甘え悶えるその情けないシナで観客に取り入ってしまうのね。

で、それはそれとして。フゥフゥ言いながら若干客観的に見えてきたモノ。横山めぐみ、力不足も健闘。吉野紗香、・・・ぉぃ。小川岳男、ちょっと浮いてるな、まだ銀チャンとの距離感がつかめてない感じ。舞台装置、いつものつか演出とおんなじ、素舞台(=ほとんど大道具を使わないということ。対義語:ケレン味たっぷり)。これはかなり好感度高い、どか。照明、こりまくり。ムービングライトをたくさん使ってオレンジやブルーをたくさん使って、女優二人の色気不足を補うかのごとく(あ、言っちゃった)カクテル光線で舞台を染め上げる。ま、大道具使われるよりはマシだけどさ。

つぎ、演出。銀チャン大奮闘。頑張ってるよ。つか演出を律儀に丁寧にコピってる。私心を捨てて、ギミックを排して。あー人柄がでるんだねー、誠実な演出だよ「でも・・・」。脚本。どかが前に観た「寝盗られ宗介('98)」とは違う脚本だった。というか、今回の脚本のが、きっと古いんだろうな。だって、今回の公演のサブタイトルが「つかこうへいヴィンテージシアター」だし、昔の初演の脚本、ほぼそのまま使ってんじゃないかな。('98)はつか自身の演出で、つかがどんどん脚本を書き換えながら演出つけていたから、できあがりは全く別物だった、かなりボリュームアップしてたよね。今回の元バージョンは、登場人物もかなり整理されていてシンプルそのもの。そのシンプルさという点ではかなり好みなんだけど「でも・・・」。

・・・ま、初見ではこんな感じにとどめておきたい。まだこれから観ることが出来るし。その前に、どかも前に観た「寝盗られ宗介('98)」をもいちどまとめなおしてちゃんとレビューにしておくつもり。あれはすごい舞台だった。未だにどかの中でトップクラスの破壊力を持ってるもの。

たぶん、銀チャンはつかこうへいの弟子だから、初日の幕があがったあとでも、より良い芝居にするためにはどんどん演出脚本も手直ししていくハズ。だからまだまだどかは期待してるの。「でも・・・」と感じた疑問が解消されればいいな。さしあたり、小川さんのジミーを、もっと銀チャンに肉迫させなくちゃ。逸材が、もったいないよ、銀チャン。

ひとつだけ、気づきたくなかったけれど、なんとなく気づいてしまったこと。

つかの20年以上前の脚本を、そのままのカタチで舞台にのっけても、若干厳しいかも知れない。つかはそれを敏感に悟って、5年前、改訂に改訂を重ねたんじゃないのかな?


2003年03月01日(土) つか「熱海殺人事件 蛍が帰ってくる日」(BIG FACE)

キャスティング(BIG FACE;2/28 19時〜観劇)

木村伝兵衛部長刑事:川端博稔
熊田留吉刑事   :吉田学
水野朋子婦人警官 :金泰希
容疑者大山金太郎 :渡辺和徳
半蔵       :武智健二

昨日、東京に戻ってきてすぐに観に行った千円劇場、北区滝野川会館。「ほとんど」同じひとつの脚本に、現在21チームにシャッフルされた若手役者が挑むプロジェクト。どかが観るのはこのチーム"BIG FACE"で三つ目。まーおそらくこの三つ目の熱海で最後かな、どかの中ではこのシリーズ、だってあとはあんまし惹かれないもの。つまりひっくりかえせばどか的にどうしてもこのチームだけは外せなかった。理由はただひとつ、このチームにのみ特別に配された水野朋子婦人警官演じる、"BABY FACE"金泰希(キムテイ)!!

どかは去年の梅雨の新国立、オリザ演出の「その河をこえて、五月」で彼女を初めて観た。そのときに彼女が見せた「華」はどこからくるものなのか。それがずーっと気になっていて。彼女はかつて、つかの「二等兵物語」に出ていたらしく、後悔したんだよね(前述レビュー参照)。つか芝居で金泰希を観てみたい!どかのオリザ贔屓は有名だけれど、やっぱり役者芝居(対義語:脚本芝居)となるとつかこうへいの右に出る者は依然いないのだ、彼女の「華」の在りか、それが知りたい。

さて、でもね。水野役以外にもこのチーム、かなり出色のキャスティングで。たとえば熊田役にベテランの"POKER FACE"吉田学。うん、良かった。誠実で朴訥とした力強いコンプレックスの熊田を作っていた。あんまし目立たないけれど、さすがの経験。前に観た二人(川端・武智)よりもいいベターな熊田。弱者が開き直ったときの「凄み」はつかのテーマのひとつ、ちゃあんと背負ってたなー。

"BIG FACE"川端さんは伝兵衛。これが唯一の不安材料だったけど、頑張ってたなあ。熊田役で出たとき(哲とそのロッカーたち)にかましていた余裕は無く、いっぱいいっぱいに追いつめられていたのが、いい。でもね。狂気が足らない。前・木村役の二人、山本サンはぬめつくナルシシズム、赤塚クンは孤独な誠実さから、それぞれ狂気を目指したとすれば川端サンは全てを包む優しさでもって狂気を目指した。それぞれの役者にそれぞれの資質。川端サンの優しさは確かに、劇中、舞台上を包んでいくかのように思えた。でもねー。パピヨンの後、その自身の資質を爆発させて狂気にまでは持っていけなかったな。前の二人はそれが出来たのにね(そもそも優しさは爆発しない!)。それでも、健闘。「あの」水野朋子を前にしてよく腰を抜かさなかった。それだけで、評価などか。

大山金太郎役の"LONELY FACE"渡辺和徳。これも健闘。新人さんかなあ。にしては随分、上手い。そこそこつか節のせりふもこなすし、相手のせりふも受けられる。全体的なスケールがまだまだだけど、でも、チームの中で足をひっぱっていなかったから、評価などか。必死に振り切られないよう両手を離さなかった、偉いなー。

そして半蔵役の"SCAR FACE"武智健二。はまり役。鳥肌立った。赤塚クンチームではミスマッチの熊田役で暴れててそれがまた楽しかったけど、でも彼のフェロモンがあんな田舎臭い役に甘んじている訳がない。女たらしのスカしたゲス野郎、半蔵にこそあのフェロモンはふさわしい。もうね、あのアクションシーンと言い、最後のリサイタルシーンと言い、全てが色っぽくやらしい。いいなー、あのいやらしさ。ジャニーズのしみったれたガキの色気じゃなくてもっと、ちゃんと、オトコな色気。ハスキーボイスもステキ。普通なら、武智サンの半蔵がチームを牽引する圧倒的な「華」になってしまうところ。でも今回、そうはならず、チームの男性は拮抗した。なぜか。水野だ。今回の水野は、特別だったからっだ。

"BABY FACE"金泰希、もう姿形がどか好み。キゥ。謎。でもキゥ。そんな若くないけど(20代ではないらしい)若い無分別なフェロモンの代わりにちゃんと分別のある理知的な魅力が表に漂う。最初に出てきたときは、わりとはかなげな雰囲気、せりふ回しも韓国人にしては抜群にぺらぺらな日本語とはいえ、職業役者な他の連中と比べると少し違和感があって、まーそれも味かなと。でも途中から全然気になんなくなった。つか独特の機関銃のような早いせりふ回しも、ながーいひとりしゃべりも、がんがんこなす。身体を嬲られて悶える様子も堂に入っていて、それは渋谷亜紀のように「私ってキレイっしょ?」とゲヒて観客にこびるのではなくあくまで共演する相手との関係性において身体を張っているのだから、説得力が違う。あの美しい顔が歪むサマは壮観。

捜査が進むに連れて、水野のセリフも、身体も、表情も、全てにおいて説得力が段違い、圧倒的な輝きでもって舞台を染め上げていく。これ、演出、ぜったいつかが一枚かんでるよ。この「熱海」シリーズは演出が劇団員の嶋さんということになってんだけど、この金泰希バージョンに関しては絶対、御大自ら関わってるっていう確信のあるどか。役者によってちょくちょくセリフが書き換えられるのはいつものことだから、今回セリフの5分の1ほどが韓国語だったのはまだ納得もいくが、演出の全体が、金泰希を中心に回っているのは、もう絶対だもん。そりゃそうだ。このチームで一番リアリティがあるのが、金サンの美しさだもん。つかこうへいとは、ある意味実は一番どん欲なゲス野郎。これだけいい素材があったら、それを活かして自分好みに味わうためには何でもするよ、他の役者のセリフ削って、立ち位置入れ替えて、脚本のラストすら平気で書き換えるような人だよ、あの人は(そして実際、そうだった)。

終盤、実は伝兵衛の父親が水野を抱いていたという事実が大山の口から語られ「ロンゲストスプリング」の謎が解けるシーン。

 大山 いやじゃなかったのか。

 水野 いやでしたけど部長に似ている方でしたから。

 大山 ハハ。変わっているな女は。

 水野 おかしいですか。でも女なんてそんなもんですよ。

 大山 そんなもんだってよ(部長・熊田に向かって)。

 水野 指先とか笑い顔とか、やさしい心遣いとか。
    また部長は私なんか振り向いてくれない方だと思ってましたから。

 熊田 後悔してませんか。

 水野 いえ、後悔してません。

 熊田 なぜです。

 水野 女ですから。

 大山 女ですから。

 水野 そして、私なりにベストをつくしましたから。

 熊田 ベストを。

 水野 はい、ベストをつくしました・・・(つか「蛍が帰ってくる日」)

泣ける。このシーンは、確かに良いシーンだったけれど、今までの水野では泣けなかった。金泰希が「ベスト」と言うと、なぜだか、本気で切ない。それは簡単な話で、この水野は本当に精いっぱいつくしてきたんだろうなって納得出来るからだ。それはなぜか。彼女の目の誠実さ。セリフの真っ直ぐさだけではなく、それまでの捜査の中で、他の四人のセリフを全てきちんと受けきってきたという事実を観客が目の当たりにしているからだ。金泰希は、きちんと他人の芝居を受けることすらできる!しかし、どかはこのとき、震えるくらい感動していても、彼女の凄さをまだ、知らなかった・・・

そうして浜辺のシーンのアイ子としての狂いっぷりを足がかりに、パピヨンに突入。部長が水野の首を締め上げる大山を蹴り飛ばした瞬間から、水野の狂気が疾走をはじめる。恐ろしい目だ。全身総毛立つ。大山がアイ子を殺した事件、それは突き詰めると水野が抱く悲しみであり、部長が苦しむ痛さである。その悲しみや痛さが、水野の優しさや誠実さを狂気へと変換していく瞬間だ。伝兵衛から渡された花束で大山をめった打ちにするシーンは圧倒である。腰が据わっている。渋谷亜紀みたいく、ふらふらナヨっとしたたたき方ではなく、まさしく大阪風に言えば「しばいて」いる。花びらがパッと水野の周りの空間を染め上げ、その真ん中で鬼神のような顔で大山を見据える金泰希は、それまでで一番の美しさを極める。下半身は全くぶれず、上半身の筋肉の全てを使って打ち据える。完璧だ。もう、金縛りにあって動けないどか。

そしてその後、そのまま捜査室から立ち去る水野、追いかける水野。

 木村 待て!待て、水野!
    ・・・生まれてくる子供、医者はどっちだと言っていた?

 水野 男の子、だと(グッとこらえて、立ち去る)。

この花道上で伝兵衛をグッと見据える水野の凛々しさ。鬼気迫る狂気をもくぐり抜けた最後にたどり着いた表情。語弊があるかも知れないけれど、この表情を金泰希が獲得したこのシーンで、もう「ハッピーエンド」この芝居の幕は下ろしてもいいくらいだ。少なくともどかは、納得する。本当ならこのあと、伝兵衛が自身の狂気を開放して一気に舞台を収束させていくのだけれど、川端伝兵衛は狂気を持てなかった。いや、正確に言うと、すでに金泰希水野が舞台を全て持っていっちゃったのだから、何も、することが残っていなかったのか?この後、もう、ストーリーの整合性がめちゃくちゃだけど、チマチョゴリ姿で水野が再度、最後に舞台に上がり、伝兵衛とデュエットする。でもこれはおまけだ。確かにコスプレ好きのどかとしては、金泰希INチマチョゴリは、鼻血もので倒れそうだったけれど、多分それはつかこうへいも一緒で、芝居のストーリーとしては、もう完結している水野だけれど、自分のコスプレ観たさ願望のあまり、もう一度水野を無理矢理舞台に上げたのだろう。脚本を変えてまで。まったく・・・、でもうれしい♪

金泰希の「華」の在りか、それは結局良く分からなかった。でもこの人は、並はずれた孤独と、並はずれた悲哀を知っていて、それを自らの血肉にしている。その身体があるからこそ、役者の芝居を受けるときには、まったく芯がぶれずにスンッとそこにいられて、つか節を口にするときには、鋭すぎるその感触をセリフにたたえることができるから、相手を切って自らも切り刻むことができるのだ。

今回、水野以外の四人も、かなり健闘していた。水野を中心として、誰が彼女をゲットするのか、その人間としての力のぶつかり合いが、弾けるベクトルが、目に見えたような気がした。つかはもともと、役者の小技なんかよりも人間としてどこまでギリギリまで追いつめることができるのか、それが観たいと言っていて、今回、その理想がかなり明確にリアリティをもって見えたどか。それはきっと、真ん中に金泰希という稀代の女優がいて、全ての芝居を受けていく強靱な精神があって、それで周りの役者がギリギリまで舞台上で相手に肉迫していけたからだと思う。

今回の舞台は、正直に言ってどかの中で、去年の「モンテカルロイリュージョン」を越えた。つまり、今まで観たつかの中で、ベストだった。これはベストだ。もちろん、有名な役者は一人も出てないし、たかだか\1,000のチケットで、照明も安っぽいし、演出も荒削りでまとまりがない。多分ふつうの芝居マニアが観たら、そんな高い点はつかないだろう。でもね、どかにはそんなこと、関係ない。どれだけそこにリアリティがあって、どれだけそこに狂気があって、どれだけそこに「華」があるか、が問題。

にしてもびっくり。つか芝居は「女が不在」だとよく言われる。それはつかが描くヒロインがあまりにも弱くて、あまりにも強くて、その振幅の大きさについていける女優が現実にいなかったためだ。しかし、ついに、ここに、つか芝居のヒロインが降臨した。小西真奈美よりも、内田有紀よりも、ともさかりえよりも、渋谷亜紀よりも、そしてあの平栗あつみよりも醜く、美しい正真正銘のつかヒロインがここにいる。金泰希で、どかは「広島に原爆の落ちる日」が観たい。絶対、観たいのー!


おまけ。今回の「熱海」シリーズでベストと思われる役者をチョイスしてみたくなった。これでやってくんないかなー。

キャスティング(DOKA'S BEST;SOMEDAY・・・)

木村伝兵衛部長刑事:赤塚篤紀
熊田留吉刑事   :吉田学
水野朋子婦人警官 :金泰希
容疑者大山金太郎 :小川岳男
半蔵       :武智健二

このメンツなら、狂気の反発融合のすさまじさにメトロダウンが起こるはず。やってくんないかなー
(←メトロダウン直前の滝野川会館)。


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