un capodoglio d'avorio
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2003年02月28日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第8話

第8話「許されない嘘」

第2話のラストシーンを見たヒトの誰しもが予想しえた展開。第8話のラストシーン、ついに風船が、はじけ飛んだ。そこに至るまでの郁巳が静かに毀れていく表情は、一方でただ汚らしく、でも一方ではひたすら美しかった。藤村先生への心情告白、

 郁巳 彼女は、僕の友達でもあります
    妹でも、そして恋人でも
    母親ですらあるのかもしれない
    もはや・・・僕のすべてに

これはもはや、通常の意味では恋愛とは言えないだろう。依存。百合子は「依存には希望はない」と言った。「希望」とは未来。確かにすべてがここにあるという郁巳の感情には、今しかなく未来は感じられない。一方で普通の恋愛感情が薄っぺらく見えてしまうような、究極的な深度もここにあると感じられてしまうどか。

このセリフと似たモノが、野島伸司の二冊目の絵本「コオロギJr.の愛」にもあった。スワンレイクのほとりではただ流れる時間すらなく、未来もなく過去もなく、希望もなく悔恨もなく、何もない。その代わりにすべてがある、そのすべて。それがこの郁巳のセリフ。でもこのシーンの郁巳の顔、アップになるのだが、かなり痛い。もはやこの世の実際からかけ離れたところに行ってしまった毀れっぷり。繰り返すが、汚らしく、美しい表情。この表情を捉えられた、ディレクターは偉いと思う。・・・でも雛の郁巳のあいだの「悪魔の嘘」は真美と悠次の「快楽のライン」によって、ついに暴かれる。雛はいったんは抵抗し、郁巳を信じようと頑張ってはみるの。

 雛  じゃあたしの一番のわがまま聞いて

 郁巳 うん、いいよ

 雛  あのね、一緒に死んでくれる?

 郁巳 え・・・?

 雛  一人じゃ怖いからって言ったら、そうしてくれる?

 郁巳 ・・・ああ、・・・いいよ

 雛  バカ、そんなこと言っちゃダメだよ
    信じちゃうんだから
    先生の言うことは信じちゃうんだから

 郁巳 ・・・ごめんよ

美しくて、好きだなどかは、このシーン。でもおそらくこれがこのドラマの、最後の優しいシーンだった。このあと雛は病院で郁巳のカルテを見てしまい、ついに「郁巳の実験」は終わりを告げるから。郁巳がこの最後のセリフで「信じてもいいよ」という哀しいセリフは言えない・・・。そう、たったひとつのこと以外は、郁巳はいっさい、嘘をつかなかったのだ。どかはこの切ない誠実さ、郁巳のこの真面目さにグッときてしまう。けれども、彼が犯したたったひとつの大罪・嘘のゆえにこの小さな郁巳の良心は、断罪の大きな車輪に挽き潰されてしまう・・・

 雛  どうして・・・
    そんな嘘ついたの
    何をしてもいいの?
    自分が病気だったら
    私が・・・どんなに怖くて哀しかったか分かるでしょう
    なのにどうしてそんな酷いこと

 郁巳 すまない・・・
 
 雛  人間じゃないよ
    先生は人間じゃない

 郁巳 聞いてくれ、初めは・・・

 雛  悪魔だよ

 郁巳 あぁ・・・
    そうかもしれないね

・・・絶句。はあ。あああああ。脱力。感傷。悲哀。はあああ。切ない。郁巳は「初めは・・・」のあと、何て言おうとしたんだろう?

「初めは、自分と同じ苦悩を持つ人間をただ、観察したかったんだ」と来て、
「でも今は違う、君はボクの全てであり(愛している)」かな。

最後に愛している、と言い切ったかどうかは不明だなあ。いずれにしても、その後の雛の「悪魔だよ」という一言で、郁巳のいっさいの希望は剥奪される。すべては手遅れであり、自分はまた、無明の闇に、永遠の孤独に突き落とされたのだと。はああああ。郁巳が雛に対して、普通の意味においての「恋愛」を越えた感情を持っていたことは明らかで。じゃあ雛が郁巳に対して抱いてた感情って?こんなにあっさり覆ってしまう感情だったのだから、それは単なる「依存」にしかなかったのだろうか。ん?「依存」は儚いのか?じゃあ、郁巳の感情は?

もし今、郁巳の脳腫瘍をキレイに取り除けるような、ノーベル賞もんの薬が出てきて、彼を完治させてしまったら、彼は雛を忘れるのだろうか。自分にとって「すべて」だとまで言い切った相手を?んー、分かんないね。「依存」でもなく「恋愛」でもなく、でもそのどちらでもあるような。そんな感情というのは、やっぱり「悪魔の実験(雛)」か「無敵の状態(郁巳)」を手に入れないと不可能なものなんだろうか。「コオロギJr.の愛」は所詮絵空事だったのだろうか?

冷静にこれまでのプロットを踏まえて、あり得るリアリティを考えると、その答えは「イエス、絵空事です」としかならない。雛が再び、郁巳に対して心を開いていく可能性というのは嘘ならば可能だろうという気がする。つまり、郁巳が自分に対して「悪魔の嘘」をついていたということを若干なりとも情状酌量して許すことができたという仮定の上で、さらに彼はもうすぐ死ぬんだからそれまで良い夢みさせてあげよう。って「悪魔の嘘」返しをするのならば、可能だろう。

でも、そんな「嘘」、ぼくの彩ピンがつくはずないもん(なんだそりゃ)!というわけで、次からラスト3話。いよいよ、クライマックスだあ。にしても「コオロギJr.の愛」を連想させられるとは思わんかった。あれ、いい話なんだよね。読ませたヒト、みんな、泣くもんな。


2003年02月27日(木) 利き酒の夕べ@リッツカールトン大阪

5階のバーで待ち合わせ、叔父はまだ現れず、
一人カウンターでサイドカーを頼む。
チャンとしたカクテルだ、おいしーなー。
って思ってたら叔父登場、二人で一つ階を下りて会場へ。

和食の懐石がセッティングされてて、
その向こうには9種類の小さいグラス、
敷かれているシートにそれぞれの銘柄が記されてる。
京都の三つの蔵元から提供される、
この冬出来立てほやほやの純米吟醸。
ぜいたくにお米を削ってできた、
和製「シャンパン」(でもシャンパンより美味しい気が)。
えーっと、銘柄は・・・
<玉乃光>と<月の桂>、それに<招徳>。

ぅおいしかったぁぁ・・・
なんだかセレブな雰囲気は違和感あったけど
(いつものサッカニーのスニーカー履いてったどか)、
でも懐石もまあまあやったし何より米を削りまくって作った酒は、
罰当たりやけど美味いのは美味い。
焼酎は苦手で飲めないどかだけど、
日本酒は、ちゃんぽんせず、少量なら、大好き。
フフーン、日本人で良かったー♪

その後叔母が到着、三人でいい気持ちになって、
コーヒーで口直しをしてからホテルを出る。
公共交通機関など使わず、そこから直でタクシーに乗って家に。
はあー、ごくらくぅ。

まんま、あほになりそうな夕べやったなあ。
これでええんか、ええのんか、どかよ?


2003年02月26日(水) ウィーン美術史美術館名品展@京都国立近代美術館

昨年の暮れに行こう行こうと思っていたら会期終了で逃してしまった展覧会。そのあと京都に巡回するはずだから、捕まえてやるって思ってて、捕まえた、きょう。京都国立近代美術館は東山にあるの。京阪三条駅からポチポチ歩いて15分くらいで着いた。

予想通り、人はあんましいなかった。先だっての「大レンブラント展」と比べたらやっぱりインパクトが違うものねえ。ボリュームも、あんまし無かったし。ウィーン美術史美術館と言えば代名詞なのが「ブリューゲル」なのに、それもほとんどなかったし。


でもそうかといって、どかがほとんど期待もしないでわざわざ京都の盆地に降り立ったかといえばそうではなく、どかの目当ては「ベラスケス」の肖像画、二点、それのみ。ベラスケスが観られるんなら、多少のコストは払うさ、うん。と思ってたら、最初にわぁすごいって立ち止まったのが「デューラー」やった。


●アルブレヒト・デューラー <若いヴェネツィア女性の肖像>

ドイツ美術史上最大の巨人、デューラー。どか的にパッと思いついたのは去年観たレオナルドの<白貂を抱く貴婦人>。それぞれモデルの上半身のみを区切った構図でどちらも美人サンなモデルで。デューラーの細密描写の的確さはすさまじく、圧倒的なデッサン力とあいまって昨今のウルトラリアリズムと見まごうばかりのカンバスの密度。普通、ディテールを細かく細かくつめていくと、細部が際立つばかりに全体のイメージがばらばらになってしまったりするんだけど(それが味になる時もあるけどさあ、ホルバインみたいく)。でも、デューラーは本当に基本に立ち返った精度の高いデッサンと、さらに全体を見渡す統一感あるセンスでもって一つの傑作に集約させた。すごいなあ。だって、きれいだもん、このヒト。実際にモデルが誰かは特定できないらしい。でも本望でしょ。自らの「美」のみに拠って後世へと自分のイメージが伝えられていくんだもん。名前だのお金だの仕事だのそんなんじゃなくってさー。バロック特有のぼやけた感じもなく、ルネサンス特有の硬直した感じもなく、その中間で奇跡のバランス。レオナルドに肉薄する美しさ。


●ヴェロネーゼ <ルクレツィアの自害>

これも、ちょっと、良かった。もともとヴェネツィア派ってば苦手だったどか。なんだかチョデカな作品多いし、そこにはちきれんばかりの肉体と色彩がぐるぐる渦巻いて、テーマも奇跡だの悲劇だので、目が回るから(もちろん、それが味だというヒトもいる)。ヴェロネーゼはヴェネツィア派を代表する一人。でも、この作品はチョデカくなく、人物も短刀を自分の胸に突き立てる女性が一人。いや、ぽやっと見てるとこれが自害のシーンだとは気づかないくらい「フラット」に描かれてる。美しい女性が何か悩んでうつむいてるくらいに見えるだろうな。どかがホワーっと見とれたのは画面全体の色調の美しさ。深い暗い緑を基調の色面、ルクレツィアの白い肌、ブロンドの髪、金色に光る装飾品に、短刀の束がまぶしく映える。中央右に彼女のものと思われる明るい緑と白のストライプのストールがかかっていて絶妙のアクセント、右上のカーテンには深い緑の文様の中に淡いパープル、それが悲劇の血を想起させる。ヴェネツィア派の面目躍如、さりげに見せる色の魔法。


●ディエゴ・ベラスケス <青いドレスの王女マルガリータ>

・・・そうして時間がとまって、真空の中、どかの認識は拡散し始める。まだあどけなさが残るマルガリータ王女の顔に合っていたはずの焦点は、画布のはるか向こうへと飛んでいき、カンバスがそのまま、どかの視界を占めていく。・・・次の印象は、まず、青だ。ビロードの質感あふれるツヤと色合いの変化、いつ終わるともしれない永遠のグラデーションに表現されるのは光、そう、ここにはきちんと、光がある。光、がそこにあって、とどかないところは、グレー。モノトーンの諧調。やみくもに黒く背景を落とすのではなく、あくまでインテリアの描写をした上で無限のモノトーンの諧調のなかに沈める技法は瀟洒。暖炉の上に見える(おそらく)獅子の小さな置物がうっすら白く、グレーの水面に浮かぶ。この「白」はまさにここになければ全体のバランスが崩れてしまうクリティカルなポイントだ。そうして再び、王女の顔に戻ってくる。頭に大きく目立つ黒い髪留めは獅子の置物の白と対比をなして、シーソーの原理。美しく輝く白い肌にブロンドの髪、赤いくちびる、全てが光の存在を全肯定しており、そのリアリティは十全の保障。

ベラスケスの絵を楽しめるようになったのは存外遅かったどか。だって、一見、普通やん、別に。ウルトラリアリズムというわけでもなく、印象派みたいく光の粒子がダンスしてるわけでもなく、バウハウスみたいく知性のオーロラが揺らめくわけでもなく、ルネサンスみたいにカッコたる構築美があるわけでもない、普通に、自然なだけ。でも、ある日「ああ、私はこの絵が、心底面白いっ」と思った瞬間のことはすごい忘れがたい。一気に頭と目からかすみが取れていって、無限の地平線がばばばーっと広がる爽快さ。その「普通に自然なこと」が、なんと特別なことなのだろう。写真よりも「自然」な描写、それはフェルメールに少し似てるけれど、フェルメールの「自然」さとはまた違う。ああ、どかは表現力が足らなくて、その先を文章には落とせない・・・




上記三点以外にも、ベラスケスのもう一点の肖像画や、伝カラバッジォの作品、伝ジョルジョーネの作品などが心に残った。展覧会全体としてはあんまりカッコたるイメージを打ち出せてないけれど、どか的には上記理由において、オッケエだったです。

しらかわ沿いに東山の裏道をぽちぽち歩くどか。はあ、お腹すいたよぉ。体力余ったら何かお寺まわろかなと思ったけど、けっこう疲れたので、まっすぐ帰ることにする。ん、お寺じゃないけど、いい感じだし、このへん。


2003年02月25日(火) また、帰省

昨日、リッチに新幹線で帰省した。
らくだよー、ほんっとにー。
くりぞうサンもゆってた「夜行バス、あれわあかんわー」って。
寝れるもんな、ちゃんと、新幹線やったら。

先月も、帰ってきてたしこんなに頻繁に大阪戻ってくんのって、
大学生になって東京に出て以来初めてやと思う。
で、帰ってきてそうそう、何をしたかって、
母親のホームページの更新&母親への更新作業のレクチャー。
んんん、こんなん、どかがウィンドウズ使ってたら、
東京から一発でやれることやのになー、むー、
この瞬間だけわ、マックに対して懐疑的になってしまう。

弟は昨日の深夜遅くに帰宅。
「おかえりなさい」の一言もなく、開口一番、

  よっ、なにしてんねん?

・・・ま、そんなもんか。
でも彼にはいろいろ、お世話になりそう。
やー、まさに「わたりにふね」だねえ、助かるかも。

で、きょうは医者やってる八尾の叔父を訪ねた。
叔父と会うのは正真正銘久々・・・でもないか。
相変わらず豪快なお人であった。
むー、リッツカールトンかあ、いいなー、美味しいンやろなー。


2003年02月24日(月) THE HIGH-LOWS @八王子市民会館

JR八王子駅改札でハルコンと待ち合わせ、ちょいお茶してから勇んで向かう、八王子市民会館。13ヶ月ぶりだよね。去年の一月に行ったときはどか・どら・惣一郎・エディンの四人だったね(参照→2002/1/20)。あの時は、まだ退職はもちろん、異動もまだしてへんくて職場もオーソリやったし、オーロラも見てないし、この日記も付け始めてへんかったし。同じハコで見る同じバンドのライブ。時間の流れが身につまされる、のかな?

セットリスト@八王子市民会館(FEB.23.2003)
1. 一人で大人一人で子供
2. TOO LATE TO DIE
3. 曇天
4. 青春
5. フルコート
6. アメリカ魂
7. 毛虫
8. マミー
9. つき指
10.ななの少し上に
11.俺たちに明日はない
12.エクスタシー
13.夏なんだな
14.罪と罰
15.相談天国
16.不死身のエレキマン
17.ミサイルマン
アンコール
18.不死身の花
19.スーパーソニックジェットボーイ
20.真夜中レーザーガン

けっこう席はひどかった。二階席の後ろの方の、一番脇。むむ。こんなにヒロトが遠くかすむのは初めて。でも、こんなに後ろだからこそ、違った見え方ができるかもと、モチベーションを奮い立たせるどか。以下、特にどかのココロに「キタ」ナンバーを抜き出して。

5. フルコート
やった、やっと聞けたよぉ!SHIBUYA-AX・2DAYSでも赤坂BLITZ・2DAYSでもやってくれへんかった、どかの「ライブで聞きたいベスト5」のうちの一曲!イントロのドラム聞いただけで一気に鳥肌ぞわわ。もっともっとライブでやってくれていいのになあ、定番にして欲しいなあ。ヒロト節の歌詞が最高なナンバー、少しブルーハーツっぽい童謡系ロック。♪やーぶれないーびーんせんとー、こーわれないーシャーボンだまー(甲本ヒロト作詞作曲「フルコート」)♪の部分が最高に大好きなどか。この時点ではまだ、ヒロトの声のエンジンはまだかかりきってなかったけど、どかのテンションは沸点に達したの。

7. 毛虫
めっちゃくちゃスローテンポにアレンジされたバージョンやった。大概アルバムよか、若干速くなるんが少なくともハイロウズやと普通やけど、アルバムよかずーっと遅かった。そして、この曲で、ようやくヒロト、エンジンかかった!曲のスピードが遅くなると隙を露呈する凡百のメロコアバンドと違って、ハイロウズにはヒロトの声がある。この声があるかぎり、全ての曲の隙間を埋めてかつテンションを高めていくことができるのね。特別な声。♪けむし、うぉうぉうぉうぉうぉ(甲本ヒロト作詞作曲「毛虫」)♪のコーラスで、市民会館のオーディエンス全員で大合唱、爽快。

8. マミー
ヒロトのボーカルエンジン全開で突入するスローバラード(厳密に言うとバラードじゃないけど)。最近のどかの最お気に入り曲。基本的にはマーシーの曲よりヒロトの曲のが好みだけど、エンジェルビートルで一曲選べといわれれば、このマーシーのこの曲を迷わず選ぶ。毛虫ではやんわり揺れていたオーディエンスも、この曲ではピタっと立ち尽くし、ただ耳を傾ける。敬虔さと荘厳さが入り混じった空気、宗教体験とは言えないかもだけど、神秘体験とは言えるのかも。時間が、止まった。

10.ななの少し上に
エンジェルビートルから二つ選びな、といわれれば二つ目はこのヒロトの曲。ライブではこの曲をやる前にヒロトとマーシーがつつっと寄り添って小声で「ワン・ツー・・・」って呼吸を合わせて入るのね。ロック界屈指のカリスマ二人がハニカミながら肩を組んでる姿を見ると、なんだか泣ける。私たちの100倍も強くて、同時に私たちの100倍も弱い、そんな感じ。胸が締め付けられる。そんな印象的なシーンから始まるこの曲はきっと「ライブで聞きたいベスト5」に割り込んでくることになるだろうな、絶対。マミーに匹敵する、正統ハイロウズロックチューン。

18.不死身の花
やったあああ!「ベスト5」の残る最後の曲、AXでもBLITZでも聞けへんかったのに、アンコールのしょっぱなにやってくれたよぉ。なんだか、競馬場で身体を冷やしすぎたらしく風邪っぽくて熱っぽくてフラフラしてたどかは、アンコールまでにけっこう消耗してて、ハルコンに心配されて。でも、このイントロ聞いただけで、どかの身体に残ってたカロリー全部かき集める事に成功、記憶があいまいになるほどはしゃぐどか。♪さようならがさびしくないならー、てばなすときためらわないならー(甲本ヒロト作詞作曲「不死身の花」)♪深いな、深いよ、ヒロト。涙がこぼれたらヒロトが見えなくなるから、必死にこらえて我慢して。

と、言うわけで八王子、今年も良かったです。上から距離をおいて見るバンドの5人は、ちゃーんとやっぱり、バンドしてたし。ヒロトやマーシーがひたすらカリスマの波動・オーラをびしびし客席に当ててくるんだけど、それを後ろからちゃんとさきとクン・しらいサン・おーチャンの三人が支えてフォローして、絶妙の五角形を作ってたのがよく見えた。あと、ヒロトのMCも最高に良かった。

  知ってるよ、はちおうじー!

アンコール三曲やったあとのこの一言は、キいたよね(前振りを知らないとなんのことだかわかんないだろうけれど)。なんて賢くて、なんて温かい人なんだろう。ヒロトの声が最初あんまし出てなかったから「風邪か?」と心配したのも杞憂でホッとしたし。そして何より、とにかく「ベスト5」の残り2曲を聞くことが出来たのが最大の収穫。あーそうかー。AXの二日間、BLITZの二日間、そしてこの八王子と、五日間で完結するサイクルだったんだ、きっと。

自分の強運を、つよくつよく、誇りたい気持ちになった。風邪でネツっぽい身体を支えて、フラフラ歩きながらでも気持ちは、つよくつよく、保っていた。


2003年02月23日(日) G1フェブラリーステークス

府中のサントリービール工場に見学しに行き、そこでまっぴるまからビールかっくらって(プレミアモルツ、美味かった♪)ほろ酔い気分でそのまま徒歩にて蹄の音の鳴るほうへ。ダメ人間まっしぐらな雪崩式昼下がり。年末の有馬以来となる、人生の終着駅「東京競馬場」に到着。冬のヨークシャーを思い出させる、低い曇天、身に凍みる北風、酔いはいつのまにか醒めていた。

中山7Rから参戦するどか。2003年最初の馬券、しょっぱなから、いきなし外す。ああ、やっぱりそうなのか。・・・と思っていたら、どうもきょうのどかは違うらしかった。中山8R・京都9Rと、連続で馬連と三連複ゲット!テヘ。そんなに配当は付いてへんけど、いい感じー。しかしながら中山10Rと京都10Rはともに外す。河内騎手がきょうの京都を最後に引退するらしく、そこから流していたのね。そんでちゃんと河内さんは一着に来るんやけど、連下を外してしまった。結局、いつもどおりか・・・。




しかし、あくまでもどかはG1に照準。メインレースを獲れればいいのさ、それでっ。と、手に握り締めた「勝馬(競馬新聞)」に印を入れていくどか。

馬券は、馬単と三連複に決めた。鞍上武豊の5番・ゴールドアリュールから流すこと決定。馬連じゃなくて馬単に決意を固めるのは勇気が要ったけれど、やっぱり武様の手綱さばきを信じてるから、強気で馬単。そこから流したのは・・・


5−7・イーグルカフェ(昨年のジャパンカップダートの覇者)
5−8・ビワシンセイキ(どかのもひとりのスター・ヨコノリが乗るから)
5−11・レギュラーメンバー(「勝馬」の某予想屋さんイチオシだったの)
5−16・アドマイヤドン(どの新聞見ても本命・対抗に上がってたし)

で、三連複は上記の数字を組み合わせて散らして買った。きょうは三連複、一つ獲ってるし、いつもは相性の悪い馬券だったけど、今度はいけそうな感じ・・・つっても100円買いなんだけどね。発走前、外のオーロラビジョンで見ようとスタンドに出る。めちゃくちゃ寒い。北風が凍みる。頭が冴えていく。胸が高鳴る。誰かがくしゃみを一つ・・・、発走!

ゴールドアリュールはそれほど鋭い末足があるわけではない。武豊はとても賢く、騎乗したと思う。スタート直後から三番手の好位置をキープ、第四コーナーでも、ほとんどロスなく、コースを確保し、鞭を入れた。アドマイヤドンが来るのか?来ない!来ないぞ。直線入ったころに稼いだリードがだんだんつめられて失っていく。ああああああ、「そのままー!そのままああああ」叫ぶどか。・・・ゴール!ゴールドアリュール、先着!ヤタッ、そんで二着は誰?誰?




8番の数字が見えた、震える手でもみくしゃな「勝馬」を確認<8番ビワシンセイキ・横山典弘騎手>。やった!おぉぉしっ!その後、審議が入ったけれど、結局着順どおりで確定。なんと三着は7番・イーグルカフェで、三連複までゲット!完勝だわ。かんぺきに勝ち名乗りだわ、わたくし。ほほほほほほ。エリ女以来、久しぶりのG1勝利。大好きな武豊とヨコノリで馬単を獲るというこの上ない勝ち方、ふふーん(見えるかな、二着が11に見えるけどあれは8です→)♪


やっぱさあ、頑張ってれば、いいことあるのねー。なんていう、危険極まりない幻想に浸ったどか。さて、この後は八王子にハイロウズのライブだっ。なんていい日なんだろう、だって・・・

できたてのプレミアモルツ → 勝ち馬券ゲット → ハイロウズのライブ

いい、だって、いいんだもん、これで。「幸せになる前にしり込みしてちゃだめ(by岡崎京子)」だもん。というわけで鼻歌交じりに一緒にライブに行くハルコンとの待ち合わせに急ぐどかだった(明日分の日記に続く)。


2003年02月22日(土) パチパチパチ、一周年とくりぞうサン

と、いうわけで、ありがとうございます。
まー自分でも、一年くらいは普通に続けられるという自信もあったし、
周りから「よく続くねえ」なんて言われても、別にぃ。
ただ、アクセスカウンタがこんなに回るとは思っていなかったので、
そこはやっぱし、ちょっと、嬉しい。
こんな自己満足で主観に満ち満ちたサイトなのにねえ。
うん、自分で誉めてあげたいといえば、
一年間という時間の<継続>ではなく、
あくまで主観に固執しつづけた自己満足の<程度>かな。
パチパチパチ、おめでとー、ワタシー。

岡山県からくりぞうサンが上京、昨日と今日、うちに逗留。
なんだか、本当に久しぶりで、嬉しい、懐かしい。
かつて彼と一緒にいた時間は、それがあまりにも普通だと思えていたのだけれど、
実はその時間は限りなく特殊で、きわめて特別な時間だったということを、
後に気づくことになった。
練習で、ひさびさに八幡を彼と通す。
一緒に踊ると、相方のふかーいところまで判ってしまうのが怖い。
ということは自分のふかーいところまでバレてしまうということだし。
くりぞうサンは、相変わらず、本当にゴシップ&うんちく大魔神で。
そしてそれ以上に、優しい人だった。
変わってへん、ぜんぜん。
いささか、優しすぎる、くらい、だぉ。
パチパチパチ、ぶらぼぉ、くりぞうサンー。


2003年02月21日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第7話

第7話「二人が結ばれた夜」

今回はとても「痛い」話だった。切ないなあ。郁己がどんどん壊れていってしまう・・・。

 郁己 この場合、セックスはその辺にありふれている
    快楽的なものではないんです
    とてつもない不安や孤独から、一瞬でも他人と繋がりたい
    そうじゃないとおかしくなってしまいそうで
    要するに…生きることなんです
    僕は…彼女のそれを拒否してしまった…

この百合子とのシーンに先駆けて、雛が郁己に抱いて欲しいと願ったのね。そのシーンの雛の壊れそうな小さい肩は、もはや依存だの恋愛だの、そんな定義づけに何の意味があるのだろうかと疑問を投げかけるくらい切なく美しかったあ。けれどもそこで郁己も一度は必死に努力してふんばり、拒否をする。なんで?多分、二つくらい、その理由は想像できる。

一つには雛と郁己の関係が、彼の「悪魔的な」嘘に立脚しているために、度を越えて深い関係に踏み込んでしまうのはためらわれる。みたいな、冷静で客観的な判断があったんだと思うの。必死に偽悪的に振る舞い、雛を拒否する郁己は、とっても痛ましい。何故って、ほんとうは雛よりも自分こそ、彼女にすがりたくて依存したくて恋愛したくてたまらないのだから。「君のことを思い出に背負って生きてくのはヤダ」という郁己のセリフはそのまま、自分自身に跳ね返ってしまうセリフで。相手を傷つける以上に、自分をどんどん傷つける構図。「鏡面化」という心理用語を知らなくても、このシーンの雛の切ない純情と、郁己の切ない思慮を目に焼き付けることはできるのね。それが、ドラマのリアリティ。

けれども、郁己が「か細い途切れそうな客観」の綱渡りをたどることができたのはこのシーンが最後だった。穏やかに、あくまで穏やかに、狂気に踏み込んでいく郁己。演出が脚本家の注文により「フラット」な絵作りに徹してるため、ぼんやり見てるとそのまま流してしまいそうな郁己の狂気は、ついにそのブレーキを放してしまう。依存と恋愛の境界がゆっくり溶けてゆき、うっすら浮かび上がる感情、嫉妬・・・。そうして「鏡面化」が限界まで推し進められたシーン。

 雛  それでね、その後、死んじゃおうって思ってたんだ
    おかしいのあたし
    さっきまでそんな風に、どうでもいいって
    死んじゃおうって思ってたのに
    今はまるで違うの
    先生の顔見たとたんだよ
    死にたくないって
    わたし死にたくない…

雛を後ろから抱きしめる郁己。二人のシルエットが灯台の光に乱反射する水面(鏡面化の暗喩だろうねー)に映えて、美しい。場所は、湘南。そう、鎌倉・湘南と言えば、前作高校教師('93)でも繭と隆夫の二人の関係にとってターニングポイントとなった場所、結ばれた聖地。はー、こーゆう、リンクネタ、フリークには限りない効果を発揮するよなあ、例えばどかとかにはさあ。どーしたって、今回のプロットがたたえる詩情に、前回の思い出から引っ張ってきたそれを上乗せして観ちゃうものね。依存が、恋愛を飲み込んでいき、二つが合わさり融けていく瞬間、これほど美しい刹那がほかにあるのか?野島伸司のこの開き直りは歴史に残る気がするどか。

でもねー。

でもねー、嘘なんだなー、この美しさはー。「フラット」な演出にだまされて、思わず美しさに浸りきってしまうところだけど、でも、この「鏡面化」は悪魔的プロット、郁己の許されざる嘘に立脚しているのだ。ということは、とどのつまり、依存はついには依存でしかない、という冷めた結論が最終話に待っているのだろうか。第7話はとにかく、このドラマ二つ目のピークだった。おそらく8話目以降、野島伸司の脚本家としての力量を見せつけるような、目くるめく展開と転回が襲ってくるだろうな。この複雑で重層的なプロットを、どうケリをつけていくのだろう?冷静などかは、そんな楽しみ方。

でもねー、もひとりのどかは、もう、かんぺきインボルヴされきってるから、だめー。上戸彩、らぁぶぅぅ。


2003年02月20日(木) 青年団「暗愚小傳」

帰郷を一週間のばしたメリット、いくつかあったんね。そのうちのひとつ。埼玉県富士見市というへんぴ(暴言多謝)なところであった青年団を観に行くことができたん。やったー♪




でも・・・、でもへんぴにも程があるぞ(暴言多謝)、青年団!どか、生まれて初めて東武東上線に乗って、鶴瀬駅から下車、さらにそこからタクシー。はぁ。

富士見市民会館・きらり☆富士見。名前もぶっとんでるけど、設計もかなりぶっとんでた。瀟洒でユニークな建築、贅沢な土地の使い方、へえーと普通に感心するどか。


  「高村光太郎と智恵子の生活を素材に変わりえぬ日常
  (青年団ちらしより)」

というのがテーマ。一見、いつもの静かな青年団かと思いきや、微妙に違う今回の舞台。特定の実在の人物をキャラクターに選ぶのは、かなり珍しいと思う。光太郎&智恵子以外にも、永井荷風や、なんと宮沢賢治まで!そういう観客のなかに何かしらの先入観が働いてしまいそうな設定を、できるかぎり排除しようとしてきた主宰だったのにね。さらにもひとつ、決定的にいつもと違う点は、四つの場面が設定されてそれぞれ大幅に時間が飛ぶと言うこと。でも、暗転はしないのね。登場人物が自然に一人一人、舞台から退場し、若干の沈黙、そして次の瞬間には時間が大幅に飛んだ次の場面に移っている。それを暗示するかのように、登場人物が着ている衣装に若干変化が(智恵子の葬式を暗示する喪服とか)。他にも、BGMが流れたりとかも、今までどかが観た青年団ではなかったしね。

智恵子の精神異常や死、戦争、光太郎の転向、そんななんやかやが全て、虚飾を廃した(かのように見せる)事実として観客に示される。人一人が生きていくのに、毎日がドラマのような浮き沈みがあるわけではない。確かに荒れた日もあるけれど、凪いだ日々こそが人生のベース。でもでもその凪いでる静かな水面にも、顕微鏡で覗いてみると波頭に砕け散った飛沫の記憶があって・・・。青年団のこのセオリーが、彼らの舞台に暗喩や暗示がいきおい増えていく理由。三谷幸喜やキャラメルみたいく一見ウェルメイドだけど決定的に違う点のひとつはここ。観客に積極的な想像力があって始めて成立するエンターテイメント。

今回、さらにさらに珍しかったのは、終演後の主宰と俳優二人によるアフタートーク。オリザ自身から今回のテキストについての「おはなし」があった。劇作家・演出家というのは基本的に喋ることを潔しとしないどかだけど、もう、平田オリザならば、全てオッケーしちゃう、あまあまどか。で、その「おはなし」の中で次のような話があった。

  高村光太郎という詩人は、智恵子の死後、
  まったく大した作品を残せなかった。
  戦争賛美の詩にしても、終戦後の詩も、
  ついに智恵子抄以前の輝きを取り戻すことはなかった。

それは「なぜか」という疑問が劇作家の頭のなかにあって、その答えって「わっかんねえな」という心情告白が「暗愚小傳」というテキストなのだと。たしかに「わっかんないね」。でも「わっかんない」なりの納得らしきものを、想像力の代価にちゃあんと用意できるからこそ、平田オリザと青年団は、この時代にまで生き残っているのね。どかなりに考えた納得らしきものは「孤独」じゃないかと。

つまり、今回の舞台の設定は、高村家の居間。テーブルが真ん中にあり、そのまわりに椅子がいくつか置かれている。新婚早々の智恵子が「元気」だったときは客人がたくさん集まって全てが埋まったその椅子も、場面が変わるたびにだんだん椅子のみがぽつんと残されていく。別にセリフで「孤独」ということが説明されることはないけれど、どかは、そのぽつねんと残されていく椅子が増えていくごとに、声なき嗚咽が聞こえてきた気がしたんね。




最後の場面、光太郎がその残った椅子をどんどん重ねて「孤独の塔」を作り上げて登り、茫然と自らの詩を口ずさむ。そこに現れるのはすでに亡くなっている智恵子と宮沢賢治(非現実的なキラリ☆ふじみの構造、「孤独の塔」?→)。

「上野動物園再々々襲撃」のときと同じ手法に「えーっ、ずるーい」と思いつつも、涙がこぼれるどか。いかんね。ずるいよ。でも、好き。


どかの総評。んーと、青年団にしては、どかにとって、若干緩いかなあと。青年団って、最近気づいたんだけど<ほろり系>と<すごみ系>の二つがある。そして後者の芝居が先日の「海よりも長い夜」だった。どかは<すごみ系>のが若干好みかも。でも「暗愚小傳」も新たな境地を観られて楽しかった。宮沢賢治役の古屋隆太さんはカワイいし、高村夫妻はどかのなかでベストオヴベストな組み合わせ、山内健司さんとひらたよーこさん!!永井荷風役の永井秀樹さんもすごい良かったし、珍しく、役者芝居(対義語:脚本芝居)と呼べる舞台だったんじゃないかなあ、青年団にしてはあ。

アフタートークでのひらたよーこサン、ラヴー!ああ、ああいう大人の女の人とお話がしたいなあと小さい胸を痛めていたどかでした、マル。


2003年02月19日(水) 野島伸司「スワンレイク」3

二度目、読了。<思慮>であり<モラル>の象徴、アンの言葉。

  本来、社会とは個々人の持つ情緒レベルによって
  その社会の居住区を決定すべきなんだ(「第一章サンク」より)。

ありきたりな選民思想だろうか?悪人を個人として罰していくのではなく「悪」それ自体の発生要因についての洞察。これは決して、ありきたりでは、ない。それは続く言葉で分かる。

  人種でも宗教でも知能レベルでもない。
  感受性や情緒レベルによってね(同上)。

これまでの選民思想が、未だ「約束の地」へと人類を導いてこなかったことは、いまこの瞬間にもニュースにテレビのチャンネルを合わせれば誰でも分かることだ。けれども、アンは(=野島伸司は思考実験として)有史以来未だ誰も想定し得なかった新たな区分を仮定する。

  争う人は争いの国で奪い合い、殺し合うがいい。
  嘘をつく人は嘘の国に、
  自意識の強い人はブラウン管に閉じ込めて鏡の国に住むがいい。
  第二思春期で完成される情緒をもって、
  行くべき国に行かせるんだ(同上)。

ここにいたって、「レベル」という言葉をアンが選んでいても、それは単純な一本の物差しやある偏差値で測れるものではないことが分かる。誰の心の中にもある<欲望>や<自意識><悪意>といったベクトルの大きさを測るということ。そして分かりやすいフレーズでこの仮定をまとめるアン。

  同じ花を見つめて、
  美しいと感じるレベルがあまりにも違う人間が混在して居住することに
  人間の悲劇があるのさ(同上)。

アンが象徴する<モラル>とは一般的な社会的通念のことでは、決して無い。それはよりもっと一般的な、人が人として生きていくための、有り様への考察、理想。「同じ花を・・・」というこのフレーズは、なかなか名文句だと思う。誰かが誰かを口角泡を飛ばしてののしった、という端から見てればのんきな与太話をえんえん流しているここんとこのニュースをふまえて、も一度読んでみると確かにそう思える。宗教や知的レベルは、何ら有効な尺度として機能しえないだろう。けれども・・・

  しかし実際そんな区分は出来っこない。
  だからこそ秩序が必要なのだ。
  心の美しい人が病むことのない世界が。
  モラルが大事なんだ(同上)。

これが、このおはなしのスタート地点だったのだろう。332ページのある脚本家初の長編小説は、このアンが最後に語った「秩序」と「モラル」の不可能性がひとつのテーマである。情緒レベルによる選民思想を持った、秩序の執行者たるアンが、決定的なミスを犯す。そこから<欲望>が消去され、<自意識>も葬り去られ、ついに自ら本来周囲に向けていた鋭く青い刃を自らにあてがわざるをを得なくなり、ついに自壊、<モラル>も潰えてしまう。五人兄弟で残ったのは<悪意>と<無垢>・・・

福音を書き記した存在、選民思想を唱えた存在、もしくは罰を執行する存在、それらの存在自体も、ついには一個の人間でしか有り得ないという当たり前の事実は、全ての理想を打ち砕くに十分である。他人を傷つけたことのない人、何かを損なわせてしまったことのない人が、はたしてどこにいるのだろう。それならば、つまるところ寛容と許容という月並みな結論になってしまうのだろうか。

いや、違う。そもそも、野島伸司がアンという登場人物を使って始めた思考実験は、寛容と許容にも、いいかげん限界があるという、これこそ当たり前な事実からスタートしたのだ。グルグル回った野島伸司がバターにならないために考えたもう一つの選択肢。それが<スワンレイク=ミニマムな愛>だったのね。うんうん、随分クリアになってきたー。


2003年02月18日(火) ラーメンズについて

どかがかつて、まだ勤め人だったころ、先輩にかんかんという人がいて、

  ラーメンズ、すごいよ、見てくれ一度。
  戦慄した、おれわ。

ってどかに教えてくれたことがあって。
もちろんどかは名前は聞いたことがあった。
ラーメンズ。
多摩美術大学出身の小林賢太郎・片桐仁という二人組のお笑いコンビ。
爆笑オンエアバトルで一躍ブレイク。
圧倒的人気があってチケットはプレミア。
綿密に作り込んだ知的な作風で破竹の快進撃を続けている・・・

という情報は知っていたのだけれど、
三鷹駅前のTSUTAYAを覗いても無かったんだよね、そんとき。
それで「見たいなー見たいなー」と思ってたんやけど、
最近、ふと、TSUTAYAの店内を流して歩いてたら「あ、入ってる!」。
で、最近、ほぼ全て(6本くらいあったかな)を観た
(先日も、公演でぶぅが上京してきたとき、一本一緒に観た)。
確かに、

  すごー!
  完全に新しいスタイルだあ!

と戦慄いたしました、かんかんサマ。
知的な作風、という言葉からイメージしていたそれとは全く別だった。
というか、怖いって思った、少し。

東京に出る前の大阪ローカルなダウンタウンが、どかは一番好きだった。
あのころのマッチャンのボケの切れ味は、
きっと空前絶後、いまの彼なんか比べらんないほどの鋭さだった。
怖い・・・って中学生のどかは思ってた。
あれ以来だなあ、お笑いで「怖い」って思ったんわ。

コントを考える小林さんは空恐ろしいほど賢い人だ。
ボケとツッコミのリズムで持っていく関西系の作風とはかけ離れた、
不思議で幻想的なんだけど、絶妙な関係性。
練りに練られたその関係性には、
周到すぎるほど巧妙に現代社会への風刺がこめられている。
その風刺に気づいてしまう自分が、なぜか恥ずかしいという捩れた構図。
あんまりにも、知的で巧みで、小憎らしいくらい。
ちょい、鼻につくかも。

でもなあ。

この魅力に背を向けるほど、どかは我慢強くないのね。
だって、絶対、このおもしろさは全盛期のダウンタウンに肉迫する。
最近のお笑いコンビ(トリオ)はどれもみんなつまんないなあと思ってて
(除く中川家)、マッチャンも最近、落ち目だしなあと思ってて、
だから、とても、どかは我慢出来ない。
ライヴをまだ観てないからちゃんとレビューは書けないけれど、
いつか、観てみたいなあ、チケ、取れるかなあ。


2003年02月17日(月) ジャンプ

某大学院の勉強会に参加するため、研究室を訪ねる。
読んでるのはレジス・ドブレ著「イメージの生と死」。
きょうは<第三章・キリスト教の知恵>についての輪読。
ちょっと前に流行っていたメディア(イメージ)論についてのエッセイ、
キリスト教と偶像崇拝の歴史が、いかに現代に綿々と続いてきたか。
なかなか、面白い。
フランス人のレトリック好きにはウンザリするけれど
(人のこと、言えないか・・・)。

母校が母校のため、キリスト教関係の質問をたくさん受けるんだけど・・・
すんません、あんましきちんと答えられてないなあ。
だって、卒業してもう、四年だもん、四年!
なあんて弱音はいてる場合じゃない、思い出さんとー。
土台がちゃんとしてないと想像力もジャンプでけへんしー。
・・・しっかりなさい、どか!

という前フリをしておいて、おまけ。




ジャンプ!


2003年02月14日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第6話

第6話「片思いのチョコ」

今までの6話の中では、一等美しい回になった。とにかく、美しい。第6話のテーマ、というよりキーとなるのは「セックス」。バレンタインに即した切ないリリシズムをたたえるタイトルとは対照的な内容。身体の繋がりに癒され、傷ついていく登場人物たち。生々しいプロット、しかし限りなく余韻はあくまで、美しい。これが、先述の野島さん一流の「フラット」なんだろうか。今回の演出は吉田健さん、さすがですぅ。名セリフを抜き出そうにも、ほとんど全てが名セリフ。目が、離せないな。

蒼井優、どんどん演技が上手くなってく。なかなか難しい役どころ。脚本が要求する高いバー設定に、肉迫していく。いわゆる単純な「悪役」ではない。優チャン演じる真美の悪意とは、<場当たり的な打算の卑怯>では無く、真美なりの<純粋な思想への首尾一貫>なのな。プールでの雛との対決のシーンで見せた彼女の悪意は、いさぎよく、美しい。

京本政樹、見せ場満載、さすが影の主人公(フリークサイトのBBSでも彼こそ主人公であるという意見多数)。悠次を殴りつけていて、けれども相手の痛みが自分に跳ね返ってくるシーンは白眉。記憶の底に沈めていた<女性>性へのコンプレックスがよみがえってしまう。精神性など切り捨ててしまえば愛や恋なんて簡単な話。このコンテクストと葛藤し、一時は完全に敗北しそうになりつつ再び紅子(ソニン)を救うために、<女性>性を肯定するために戦い始める彼は、美しい。

藤木直人、ラストかっきー。依存と愛情の境界線に立って、客観的に自体を把握しようと試みる様は、あんまし美しく、ない。あんまし動きがないように見える今回の郁巳先生だけど、実は、大きい転機がここにありそう。つまり、主治医の百合子との情事に至る会話のなかで

 郁 僕は彼女に癒されてはいるが、それだけです
   彼女の気持ちを受け取るつもりはありません
   依存からの錯覚ならば、なおさら
   僕は、愛されてはいけない人間なんです
   とても哀しいけれど
   ・・・
   哀しみの種類は違うが、それならば、あなたの側で…

ここで、郁巳は自分が依存する相手として百合子と雛を天秤にかけ、それで百合子を選ぶことを宣言、あくまで恋愛ではなく依存の対象として。おそらくそこにはあまりにかけはなれた精神的深度の差を、百合子と雛の間に認めたからだ。簡単に言うと、ガキではなく大人の女を選んだ。しかし、郁巳は、急速に「大人の女」へと変わっていく17才の女の子の内面に気づくのが第6話のラストシーン、ここにいたって郁巳は美しい。

上戸彩、良いですぅ。「大人の女」へ変化していく経過のシーンはいずれも美しい。公園の土管の中で泣くシーン、紅子と喫茶店で話すシーン、チョコを準備するシーン、郁巳の部屋の暗号を見て考えるシーン、そして、おそらく後世、このドラマを振り返るときに必ず語られるであろうプールでの真美との対決シーン。どんどん、精神的深度を増していく雛を、素晴らしいリアリティで演じた。セーラー服のまま、プールに飛び込む雛。水着姿の真美との対峙。おおおおおおお。

 雛 大人ですよ、ついこの間までは子供だったけど
   大人です・・・女です

 真 どういう意味?

 雛 そういう意味です
 
 真 先生と?

 雛 ご想像におまかせします

 真 言ってれば、一生
   そんなこと本当だとしても関係ない
   そんなこと持ち出すこと自体ガキなのよ

 雛 女です

 真 もういいっての

 雛 先生が好き、なんていうか・・・

 真 死ぬほど、とか言っちゃうの?

 雛 ビンゴ!

 真 むかつく・・・

おおおおおおお・・・!ヤバいっす。ヤバいよ、このシーン(また、バカなどか)。

「大人の女」の定義って、いろいろある。紅子が語るそれは「セックスなんて愛情とは関係ない、たいしたことない」という割り切りにあった。それは自分の魂に対して目を背け、耳をふさぐということ。それに対して雛も一見、その定義に同調していくかのように見える。でもそうじゃない。他人とセックスをしていた郁巳への嫌悪感を、紅子のように忘れるのではなく、踏まえた上でそれよりも大切なものを見つめ抱きしめることで克服していく。依存と愛情への「癒着」の事実に第5話でへこんだ雛だったが、それでも敢然と自らの依存に愛情を重ねていく決断をし、この決断でもって「大人の女」へと成長していくのね。

ラストシーンのホワイトチョコで書いた暗号 "I LOVE YOU" 。指をなめて「甘いよ」とささやく、雛チン。そこには今までみたいな幼い印象はすでに無い。 なるほど。なるほどねー、面白い、心底おもしろいぃ。


2003年02月13日(木) 大人計画「ニンゲン御破算」

タナボタで手に入ったチケ、でも、ややあって開演時間に入場できず。初めてじゃないかな、演劇観始めてから。緞帳が上がるときに間に合わなかったのんて。一部、青年団みたいな例外を除くと、芝居において開演直後というのはストーリーの下ごしらえをするきわめて重要な時間だし、不安。でもなんとかついていけて、ホ。

松尾スズキがコクーンに進出したのは二度目。一度目は奥菜恵をヒロインに迎えた三年前のミュージカル「キレイ」。今回はなんと、歌舞伎役者の中村勘九郎を迎えての時代劇。今年上半期の演劇界の話題を、三谷幸喜の「オケピ!(再演)」と二分する超話題作。中村屋以外にも、すっごい豪華な役者たち。松尾自身はもちろん、大人計画の二大スター、宮藤官九郎と阿部サダヲも出演した!

頃は幕末、中村勘九郎演ずる戯曲作家を目指す男が、密命による偽金造りや幼なじみとの祝言、吉原でのドタバタや攘夷運動への巻き込まれつつ、桜田門外の変を「野外劇」として演出していき・・・みたいな話。プロットは良く練られていて、三幕三時間半という長尺を、できるだけ負担にしないよう細心の注意がほどこされている。

<嘘とハッタリの復権>という、松尾スズキの永遠のテーマの変奏曲。たとえば幕府に仕える武士や、アメリカに仕えるハリス、自分の操に仕える女といった一途さへの嫌悪感の表明。それはその「一途さ」自体を標的にした毒ではなく、「一途さ」がどれほどの悪をはらんでいるのか知らないでいる無知への毒。一途ということで言えば純一郎だってサダムだってジョージだって一途には違いなく、それを同じ視線で眺めていてもラチがあくはずなく・・・という風に考えていくと、松尾スズキの毒というのは、依然、その効果は落ちていない。

ハズであるのに・・・。というのは、今回、その毒が若干緩く感じるのだ。去年どかが観た松尾スズキの「業音」は、主役に荻野目慶子を迎えた。そしてその元・アイドルを徹底的になぶりいたぶり愚弄することを通じて、松尾スズキのアイデンティティであるその「毒」の純度を高めていった。しかし今回、さすがさしもの松尾サンも、歌舞伎役者の大御所、中村屋をなぶりいたぶり愚弄することには、遠慮が見えたのね。むしろ逆に、官九郎と一緒に勘九郎をよいしょして、引き立ててあげるという「やさしい」構図。はー、そうなのか、松尾スズキ?もちろん自らの出刃包丁の切れ味を敢えて落としていても先に述べたプロットにそって分かりやすくテーマは開示されていくし、初めて大人計画を観た人でも、それなりに楽しめるものになっているのだけれど。エンターテイメント度は、高い。

役者、特に良かった人
:吹越満(さすがッス。身体のキレで勝負する、古き良き小劇場役者!)
 秋山菜津子(やっすーいフェロモン、色っぽいゲス、いいなー)
 小松和重(サモ・アリナンズ主宰、初見、うまいなあ、声、好き)
 宮藤官九郎(伝説の「身体障害者」演技、最高。間の取り方最高)
 中村勘九郎(さすが。市川右近とはやはりレベルが違う柔軟さ。
       うまくて、すごい。終盤の歌舞伎風の口立て、痺れたすげー)

役者、普通に良かった人
:阿部サダヲ(相も変わらずハスキーボイスとハイテンション)
 田畑智子(写真で見るとそうでもないのに、案外舞台ではキレイ)
 片桐はいり(もはや大人計画劇団員か。不条理な性)
 荒川良々(おいしすぎる、ワンポイントリリーフ)
 村杉蝉之介(同上)

まー今回は、大人計画的には緩すぎるのだけれど、その分、普通の芝居に少し近づいているとも言える。宮沢章夫の段でも書いたけど、大人計画は「価値の転覆」に命をかけていて、たとえばつか芝居を徹底的に馬鹿にしたりしてきたのだけれど、でも今回、実は中村屋という足かせのせいか、「破壊」よりも「構成」に重心が移動。結果、後味がかなりつか芝居に近い気がする。そもそも戯曲的にも「河原乞食至上主義」はつかにも共通する部分だし、さらにこれだけ贅沢な役者を揃えたことで松尾も色気が出て役者芝居を目指してしまったことが、さらに大人計画<つか化>を推し進めている。ということはイコールどか的に、楽しめるということなんだけど、ある意味。でも、このベクトルでは、自分でさんざんけなしてきたつかこうへいに、適うはずもない松尾サン、やっぱり中途半端な印象だよねー、全体的に。

そもそも、大人計画がコクーンに進出すること自体、おかしいもの。大人計画はそんなでかいハコに出てきちゃ、ダメ。「価値の転覆」という道を「ハッタリと毒」というガソリンで突き進んできたんのに、渋谷に来ちゃうとそれは<自己否定>になっちゃうじゃん、結局。まあー、名声も手に入れて、立場も手に入れて、お金も手に入れて、必然としてここに来ちゃうのは分からないではないが、でもダメ。もし、コクーンや青山劇場やパルコで芝居やりたいんだったら、まず、つかこうへいに謝罪しなさいという感じ、どか的には。全共闘風に言うと、「自ら総括しろ」って。



普通に面白かったし、楽しめたエンターテイメント。僅かな毒が絶妙なトッピング。大人計画と松尾スズキの才能の余技だが、余技にしてこの完成度。だからどかはそこそこ評価する。でも。大人計画は、ど真ん中ストレートの毒に対して、トッピングのエンターテイメントという配分こそ黄金律。その配分が、逆のこの舞台は合格点でも満点では、無いッス。

おなじみのこの垂れ幕も、セレブな雰囲気を醸すbunkamura。似合わないでしょお・・・


2003年02月12日(水) カヴァーアルバム感想文

ちまたでは、CDの売り上げが伸びなやんでるらしい。そして、ちまたでは「カヴァー」がおおはやり。安易だなあと一方では思うものの、こうして離陸と着陸を繰り返すことも、文化に必要な深みを与える契機の一つなんだろうと思う、どか。最近、三枚気になってたのを、聴いたのでそれの感想文など。


♪「Queen'S Fellows」:☆☆☆★(☆☆☆☆☆が満点)
松任谷(荒井)由美デビュー30周年記念らしい、ユーミン楽曲のカヴァー。当然というか、やっぱりというか、荒井由美時代を含む懐かしめの選曲。どかはなにげに昔からユーミンが大好きで学部時代には「中核派(中島みゆき革命派)」のぶぅ「核マツ派(革命松任谷派・苦しい)」のどかに分かれて「深大寺闘争」を戦ったものだ。ワースト1とベスト3は次の通り。

■ワースト1:槇原敬之「春よ、来い」
確かにあなたはユーミンよりは歌唱力はあるのかも知れないでもここはカラオケボックスでもないし、リハビリなら利用する施設(メディア)が違うと思うの、どかは。
□ベスト3 :鬼塚ちひろ「守ってあげたい」
うーん、面白い、ユーミン中期の代表作のカヴァー。オリジナルの「淡色ノスタルジー」に対して鬼塚の「自意識ヒリヒリ」の換装。
□ベスト2 :小野リサ「あの日にかえりたい」
すごすぎる。さすが、ボサノヴァの女王。荒井由美時代の名曲のセンチメントを、さらに限界まで加速させる、メロウな香気高い歌声。
□ベスト1 :椎名林檎「翳りゆく部屋」
名録である、カヴァー史に残ると思われる、どか的に。どかの最もお気に入りだった荒井由美の傑作。彼女がカヴァーするとすれば、ユーミンの膨大なナンバーの中でも、これしかないと、確かに予想される。そして、その出来映えは予想をはるかに超えている。必聴。


♪「THE BLUE HEARTS 2002 TRIBUTE」:☆☆★
どこかに書いたけれども、昨今のブルハ再評価は、なんか気持ち悪い。安易に「癒し」を求める軍隊アリが、いっせいに獲物にとりついた絵を想像させる。あとには、何も残らない・・・。だからむしろ、最初はあんまし聴きたくない盤だったけど、ハスキンが参加してるのを知って、聴く。もちろんどかは、かなり点数が厳しくなってると思う。ヒロトやマーシーへの、ある種挑戦なのだから、当たり前である。

■ワースト1:KENZI「人にやさしく」
何をしたいのか、分からない。たんに、巻き舌を使ってるだけ。気持ち悪い。ブルーハーツ最初期の、絶世の名曲を愚弄した罪は、思い。
□ベスト3 :UxZxMxK「Train Train」
カヴァーの醍醐味かもしれない。あのメロコアの有名なナンバーを、完全にミクスチャーロックの文法(それもかなりヘビーな)で分解しきっている。一聴しただけじゃ元曲分かんないくらい。最初は、抵抗かなりあったけど、いまはなかなか楽しめてる。発見。
□ベスト2 :Cylinder Head Rock「青空」
何のグループか、知らない。でもこれが、先日の鴻上尚史「ピルグリム」のオープニングナンバーだった。元曲が良すぎるので、チャレンジングだなとは思ったけど、オリジナルの「バスに乗る小さな自分」ではなく、「バスが走る広大な草原」を歌って、正解。いいと思う。
□ベスト1 :Husking Bee「未来は僕らの手の中」
氣志團やPEALOUTも捨てがたかったけど、どうしようもなく一番はコレ。さすがとしか言えない、ハスキン・イソベ。椎名の「翳りゆく部屋」を上回る破壊力。原曲へのリスペクトを基底音に、最新のメロコアの成果をトッピング、軽薄なメロコアブームのボディブローを凌ぎきった体力を見せつける。やっぱ、イソベさん、日本語を歌わなくちゃ。こんなにいいんだもん。ハスキンオリジナルアルバムでも、英語、辞めましょうよ!


♪「一期一会」:☆☆☆★
スピッツのカヴァー・アルバム。女王ユーミンをはじめ、奥田民生や椎名林檎、小島麻由美に中村一義と、メンツが豪華で「Queen'S Fellows」に匹敵するかと。ユーミンと報復カヴァー合戦をしあってるのが面白い。でも、この合戦に関してはユーミンに軍配が上がってる。名録が多い。全体的に楽しめる。ハイロウズが、なんかやって欲しかったなー「愛のことば」とか。

■ワースト1:LOST IN TIME「田舎の生活」
そんなにひどかないかも知れんけど。いまいち、カラオケにしか聞こえない。でも、この原曲、どかは知らんかったけど、いい歌詞ね。
□ベスト3 :松任谷由実「楓」
ユーミンは歌唱力で勝負する人ではない。あの人は歌詞と声とアレンジの人だ。フィールドがカヴァーだとしても、声とアレンジの二つは残る。確かに声に好き嫌いはあるかも知れないけど、アレンジはさすが。どかは声も好きだし、安心して浸れる。さすが、クイーン。
□ベスト2 :中村一義「冷たい頬」
どかはスピッツではこの歌が一等好き。中村一義も、実は好き。でも、最近の彼はあんまし聴いてない、一番好きなのは2NDのタイトル曲「笑顔」。自らの「ヒリヒリ自意識」をオリジナルの「キュウン感傷」と換装。でも、それをとがらないように丁寧にアレンジしたところに中村一流のリスペクトを感じた。いいな。
□ベスト1 :POLYSICS「チェリー」
これもブルハカヴァーのUxZxMxKと同じように、ヘビーミクスチャーの文法で「分解しきった系」。楽しい。緩急の差、エフェクトとディストーションかけまくった音、終末的にほどけていく音。それが、原曲の切ない「ボク」の叫びにちゃんとマッチしてる(ここを外すと、ただのバカだ)。小島麻由美やつじあやの、椎名林檎のも捨てがたかったけど、その跳躍力という点で言えば、POLYSICSの「力業のベリーロール」で越えていったバーは確かに一番高かったと思うの。


あ、そういえば、一昨年に「矢沢永吉カヴァーアルバム」も聴いたなあ。あれも一緒に書けば良かったかな。まー、もちろんそのベスト1はハイロウズの「ルイジアンナ」なんだけどお。とにかく、ブルハのハスキンとユーミンの椎名林檎は必聴だと思うの。作品のパクリが文化になる瞬間だから。


2003年02月10日(月) ・・・フン

けっこう、疲れ果ててる。
公演前に稽古をたたみかけるようにするのは例年のこととは言え、
今回は、すっごい、もう、本当に。
うー。
バタン。

・・・って何か気になって、ツケッぱになってたテレビを見やると、
テレビ朝日「ニュースステーション」。
寝ぼけた頭に何かがヒットしたので、いそいで意識をかき集めてみると、
オーロラの特集をやっている。
「へー」と思ってブラウン管に見入る。
そのオーロラはどかの行ったアラスカ・フェアバンクスではなくて、
カナダのイエローナイフのものだった。

ブレークアップの映像もあった。
・・・フン。
あんなもんじゃないもんな。
どかが2002年3月31日の0:50から1:20にかけて観たのんは。
特集が終わって、CMが流れはじめても、
どかの頭はアラスカに飛んでいた。
思い出してたの、あの、運命的な、ブレークアップ。
なぜだか、涙があふれた。
止まらない。
頭上の空が一面、真っ赤に燃え上がり、グルグル回転して、
やがて天頂の一点を指し示して空高く伸びた深紅の帯が並び立つ瞬間。
あれを、どかは、観たんだ、本当に。

・・・いかんな、涙もろくて。
年か・・・


2003年02月09日(日) ハリーポッターと秘密の部屋

朝早くから今週末の公演のリハーサル、そのあと道具作りをして。
そんでもって、ややあって、ひょんなことから、紆余曲折を経て、
吉祥寺にチャリで出て観に行くことに。

ちなみに、訳者が誰であろうがどこの大学出身であろうが、
ハリーポッターの小説は全然読んでないどか。
でも映画「賢者の石」は確か、
アラスカ・アンカレッジに向かう飛行機の中で観た気がする。
最初はあんまし観る気なくて時々うとうとしながらだったけど、
最後のほうの、チェスのシーンでは、思わずウルっと来た記憶は、ちゃんと。
引き込まれちゃったね、あっさり、好きか嫌いかで言えば、もちろん好き。
面白いよね、普通に。
いかにどかがひねくれていても、これを否定する勇気はないな。
しかもハリウッドとは全く違う作り方をしながらも、
これだけエンターテイメントしてるのが、すごい偉いと思う。
イギリス人、恐るべし。
今回も、やっぱし、普通に巻き込まれちゃったっす。

当面、三点、すげーなーと思ったこと。

まず、何が偉いかといって「魔法」のインフレーションを抑えてるのが、偉い。
ハリウッドの凡百のSFは言うに及ばない。
たとえば日本のアニメで言うと「北斗の拳」や「ペガサス聖矢」。
主人公は最初、苦労してひとりひとり、敵の秘孔や自らのコスモを燃やして、
勝ち残っていくんだけどどんどん敵は際限なく強くなっていき、
それに呼応してどんどん秘孔やらコスモやらがインフレーションを起こしていき、
最初はドキドキしながら読み進めていった少年ですら、
「おい、ゴールドセイントって、むちゃくちゃ強かったんちゃうんかい」
と心の中で思わずつっこんでしまう状況。
最初の設定がはるか遠くにかすんでしまうくらい遠近法は無効になってしまう。
日本のマンガ界でこの遠近法を取り戻した顕著な例は「陰陽師」の岡野玲子だ。
阿倍晴明vs百鬼夜行の怨霊(含む菅原道真)といういかにも、
陰陽道のインフレーションが起こりそうな設定であるにもかかわらず、
それを抑えた上でドラマ作りをしている、えらいよね。
ハリウッドの凡百SFのほとんど全て(STARWARSですら)が陥ってしまう罠に、
ハマらなかったハリーポッターは偉いと思うの。
最後、バシリスクを倒したとき、ポッターってば魔法使わんかったもんなあ、
それでもドキドキするし、巻き込まれていくもん、遠近法が有効だもん。

次に、やっぱり物語のベースには、現実の真理をおいているところ。
イギリスと言えば、悪名高い、あの階級社会。
純血だの、マグルだの、「穢れた血」だの、
そんな今回ドラマを展開させる前提というのは、
たとえば母国、イギリス国民においては胸に差し迫るような感じだろうなー。
ただ単なるお気楽なドタバタ劇(某○感線や某キャラ○ルボッ○スみたいに?)
ではなく、後にちゃあんと引っかかって残していく仕掛けになってるのね。
だからこそ、CGを駆使した魔法の戦闘シーンや蜘蛛や蛇の不気味な映像が、
映画の中で生きてくる。

そして最後に、その、CGのできばえ。
ああ、どうして日本人はこううまくいかないんだろうと、
悲しくなってしまう。
お金の使い方が、ほんっっっとにヘタクソなんだなあ、日本って。
魔法のシーンになるとドキドキするもん、やっぱり。
細部に神は宿る。
それを地でいく根気に、脱帽っす。

いろいろ、ケチをつけたかったんだけど、やめとこ。
そもそも、映画という複製芸術自体、積極的に評価できないうえに、
邦画ではなく、洋画という点でも、厳しい。
にもかかわらず、ああ、観て良かったなーと思えたのだから、
いろいろ、気になる点はあったんだけれど(しつこい)、やめとこ。

ああ、でも、一つだけ。

どかがディレクターなら、バシリスク。
あんなあっさり目はつぶさせない。
せっかくあんだけ石化でドラマを盛り上げといて、拍子抜けッス。

じゃあかわりに良かったの、一つ。

あのクルマのキャラは、良かった。
抜群。
カワイイ
(あとハーマイオニーちゃん、LOVE♪)。

「賢者の石」のが面白かったけど「秘密の部屋」もなかなか。
次も観ちゃうかも、てへ。


2003年02月08日(土) 野島伸司「スワンレイク」2

この小説を読み終えて、いま、ふと思ったこと。
ドストエフスキーの「白痴」に似てるなーって。
どかはドストエフスキーの中では一番「白痴」が一番好きだった。
ロシアの巨匠による一連の長編の中で、
最もロマンティックな小説に味わいが似ているの、どかにとって。

アン、ドゥ、トロワ、キャトル、サンクという五人の兄弟。
それぞれ、やはり極端なキャラクター設定になっていて、
対比が鮮やかなのね、黄色いレインコートの印象も手伝って、
映像化が容易に読者の頭の中でなされる。
というか、本当に。
これって、絶対、映画化されるだろうという気がする。
かなりかなり、ハードルは高いし、野島さんがコレをドラマではなく、
小説でまず書いたことの理由はよく分かる。

んーでもねー。
たとえばアンは三上博史っぽいもん、どかの中で。
で、ドゥは大沢たかおかな。
トロワはねー、いまだったらきっと中谷美紀。
キャトルは、もう間違いなく、窪塚洋介。
サンクはなー、難しい。
昔の「未成年」やってたころのいしだ壱成かな。
ナナは、当たり前、もう、えっへん、上戸彩。
もう、絶対、決まり。

さすがは、連ドラの脚本家だなーと思ったところは、盛り上げるシーンや、
どんでん返しが、ひたすら巧みなところ。
やや情景描写が弱かったりするんだけれど、そのぶん、
感情の盛り上がりや読者の意識のズームイン、ズームアウトを
自由に操作してくる感じ、悔しいくらいうまい。
読者に仕掛けてくる、二つの大きな「嘘」。
これが見事に効果をあげてるのね、ひとによっては、この「嘘」の使い方、
あざといなーって思うかも知れない。
まー、フリーク歴もそこそこ長いどかはもう、
降参って感じで酔っちゃうんだけれどね。

たとえば「高校教師('03)」の郁巳には、アンが顕在化していて、
その向こうにキャトルがいそう。
雛は・・・サンクが表にいて、裏にキャトル。
悠次は、もうまちがいなく、ドゥだね。
藤村先生は、圧倒的に、トロワだ。
ん、じゃあどかは?
どかは・・・分からん。
サンクはいなそう、とりあえず。
でも他人から言わせれば、きっと違うんだろうな
(多くの人からは「トロワそのまんま」とか言われそう)。

さて、とりあえず、種明かし。

アン  :知性でありモラルの象徴
ドゥ  :力であり欲望の象徴
トロワ :美であり自意識の象徴
キャトル:悪意であり、かつ・・・?
サンク :寛容でありイノセントの象徴

キャトルは、難しい。
このキャラクターを設定し得た作家は、
これまでと明らかに違うフェーズに到達したことを鮮やかに証明している。
というのも、いままでの野島ドラマは、アン・ドゥ・トロワ・サンクの、
四人だけでほぼ、展開し得たのだから(それも余人のおよばない深度で)。

・・・んーちょっと語弊があるかも、ま、いいか。
男性と女性が愛し合い、結婚し、子供が生まれる。
それはDNAに刻まれた、計算の結果。
母性愛は無条件に注がれる、ということすら欺瞞であり(トロワ)、
セックスに快楽が伴う以上、それももはや欺瞞の網から逃れ得ない(ドゥ)。
ではセックスレスなプラトニックラブを気どればいいのか?
そこでは結局、アンは崩壊から免れ得ず、トロワが顕在化してしまい、
歪んだ未来にたどり着くだけだ。

キャトルとサンクがそこで何をなしえるのか。
小説「スワンレイク」は哀しい余韻をたたえて終わる。
それは結局、この世に「愛」は存在しえないことしか証明できてないんだもんな。
しかしそれでもこれは「ハッピーエンド」であるとどかは思う。
なぜか。

誤解を恐れずに言えば、その余韻が、限りなく美しいからだ。


2003年02月07日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第5話

第5話「真夜中の対決」

今回、ついに野島脚本が走り出したという実感。風景がぐらっと揺らぐ。周りの色が溶けていく。痛みが、怒りが、悲しさが、固形化していく。これまで二本が並行して進んでいたドラマが、一つに交わり出す。混沌。激情。蜃気楼立ち上る、オールウェザーの、400mトラック。

スタート地点に響き渡る号砲は、紅子(ソニン)のレイプシーン。というか、ほぼ、キャスティングの発表時点で、予想された展開。それが、遅いか、早いか、いつくるのか。それが、焦点。第5話というタイミングは、どか的にはジャストっという感じ。

紅子は、母性の象徴としてそこにあるんだろうな。ホスト・悠次はゲームの対象として紅子の気持ちを自らに向けさせかつ、つるんでいる連中に紅子を襲わせた。でも、それは事故だと信じ、悠次を許す紅子。ほぼそのゲームに関しては勝利を確信した悠次が次に定めた狙いは、郁巳。

ようやく、悠次(成宮寛貴)と江沢真美(蒼井優)が、本領を発揮。というか、野島ドラマっぽーい、ぶっとんだシーン。深夜の教室にての、郁巳と悠次の対峙、ガラスのボード、ガラスの駒、ナイト、クイーン、チェスでの勝負。かなりぶっとんだキャラ設定、あるベクトルの純粋結晶としての、悠次。

 悠 退屈な日常、つまらない社会、うんざりするアホなヤツら
   俺たちは馬車を引く馬じゃなくてね、
   上でふんぞりかえっていい景色が見たいのさ
   ちょっとした事で支配する側にいける
   いいかい
   モラルに縛られず、ビビらないで飛んじまえばいいのさ
   悩まずにやりたいことをヤっちまう
   ゲーム感覚でね

ニヒリズムの刹那主義や享楽主義との結託。野島ドラマにある種、嫌悪感を抱く「普通の」方々には、鼻白むセリフなんだろうな、「うそだろ?」って。でも、このバイカル湖の湖底をのぞき込むような、足のすくむ感覚「うそだろ?」。ここに野島伸司の典型的なマジック、巻き込み力を発動させる秘密がある。一般的な世間からの「跳躍」。それは視聴者にとっては踏み絵に等しい。これに着いてこられる人は、幸い。

永遠なんて信じないでしょ?と再三真美から問われてきた郁巳は、一瞬、この刹那主義に飲まれてしまいそうになる。すでに余命幾ばくもないという、悠次たちよりもはるかに適合しそうな条件を抱えてしまっているため、ほぼ、ゲームオーバーがかかってしまっていた。現実に対しては虚無感しかない。ならば、もう一つ、扉を開けてしまえば。悠次が語る言葉は、ひまつぶしの視聴者には響かないが、郁巳や雛の気持ちを精いっぱい想像していけば、破壊力抜群。しかし、チェックメイトをかけたのは、郁巳だった!ギリギリで郁巳が踏みとどまれたのは、

 「彼女という希望だったろうか(第5話最後のモノローグより)」

ということ。もう、自分の命が長くないという嘘を信じこまされてなお、明るくけなげに振る舞い続ける、雛の存在。「虚無」から、「快楽」や「刹那」に流れるのではない、「永遠」を志向すること。ただ、その一点のみにおいて、人は踏みとどまれると言うこと。「永遠」とは「愛」。でもそれはひたすら見えにくく、あわく、はかなく、だから「依存」というクッションをおいてみて、それを探るという実験。これこそ、「高校教師('03)」のテーマ。

郁巳が戦っていたように、雛も、葛藤があった。郁巳の主治医の百合子との会話。自らの郁巳に対する感情が「恋愛」では、無いと否定されたあとに・・・

  雛 アタシの気持ちは錯覚で、

  百 ええ、
  
  雛 しかも片思いにしかならない・・・
    バカみたいですね、それじゃあたし。

  百 ごめんなさい、仕事柄曖昧な言葉が使えなくて。

「依存」と「愛」は混同出来ない。「同情」と「愛情」は全く別物である。「かわいそうに」は「あいしている」では有り得ない。これは野島さんの左脳から出た言葉だろう。この言葉は雛に対してではなく、その場にいない、郁巳に対して(つまりそれを想像する視聴者に対して)もっとも残酷に響く。しかし雛と郁巳が細々と紡いでいくこの「依存」の糸は、ぎりぎりでほつれず、まだ、繋がっている。それを象徴する、郁巳がクイーンでチェックメイトするシーンや、雛が公園の噴水に鍵を拾いに行くシーンはきっと、野島さんの右脳から出てきたんだろうな。野島さん自身の葛藤でもあるその儚い糸のほつれを見守っていく、どか。でも、あまりにも苛酷なのは、その糸を繋いでいる結び目には、郁巳の「嘘(=悪魔のプロット)」があるということ。最終話、最後のシーンまで、この糸が繋がっていることは、有り得ないだろう。ああ、どうなるんやろ?

どうなるのー?どうなるのー?もぉ、ああ、どうなんねんなー?


2003年02月06日(木) 野島伸司「スワンレイク」1

脚本家・野島伸司の初小説、ほんとうにいましがた、読了。
ズズ、まずはハナをかまなくちゃ、テッシュテッシュ・・・

はあ。

あんまし小説を読む時間もとれなくなってきたし、本屋で迷ったんだよね、
よしもとばななの新作とどっちにするか、で、こっちを取った。

はあ。

帯に書かれていた、限界を超えてでも「私」は愛にたどり着きたい。
このコピーはダテではない、すさまじい深度、目がくらむ。

微妙にいまやってるドラマの「悪魔のプロット」とかぶるところもある。
野島さんはここに来て、新しい一つの方法論を獲得した。
それは彼が昔、一世を風靡していたころのそれともまた異なる。

かつて、この人は世に蔓延する「愛」についての欺瞞を、
つぎつぎと暴きたてていくことで、自らの世界を構築していった
(この優れた成果がドラマ「リップスティック」であり「世紀末の詩」)。
けれどもこの否定法は、否定の対照である「欺瞞」がしっかりあるときは
有効だけれども、こんな壊れてしまった時代、欺瞞すらどこにもない。
あるのは、喪失、なにもない、こと。

そこで、脚本家は、新たに自らの理想へと向かう方法を模索していった
(その過程が、ドラマ「美しい人」「SOS」「ゴールデンボール」かと)。
そして、ついに、その限界を超えるための啓示を得た、
彼はきっと。
その精華が、小説「スワンレイク」であり、ドラマ「高校教師('03)」。

はあ。

さしあたり客観的に。
職業作家と比べると、確かに小説として、構成に難はある。
けれども、職業作家と比べても全く遜色無い、
テーマの深度は誇るべきものがある。
かつての「売れっ子脚本家」がバブルに踊らず、ただ、
自らの内面を厳しく見つめ磨き続けたダイヤの原石、一読の価値はあるの。
  
  あの美しい、
  永遠に変わることのない世界。
  ミニマムな愛を有する者達の、
  目映いばかりのコミューンである、
  白鳥達のすむ湖を。
  スワンレイクへ。
  どうか私を連れて行ってと、
  祈るように。
  (第二章「ララのテーマ」より)

とりあえず、もいちど、読む。


2003年02月05日(水) 野島伸司「高校教師('03)」雑記

第1話「禁断の愛、再び」:14.9%
第2話「先生の秘密」  :12.2%
第3話「眠れないふたり」: 6.4%
第4話「哀しいデート」 :10.7%
(視聴率・ビデオリサーチ関東より)

最初の4話が終了した。視聴率が、ドラマの全てでは無いにせよ、かなり苦戦だねー。特に第3話、際だって低い数字は、日テレが裏にぶつけてきた番組のせい。

言わずと知れた金曜エンタ「千と千尋の神隠し」。日テレはよほどTBSと野島伸司の組み合わせがお気に障るらしく、今週は「バックトゥザフューチャー3」。来週は「もののけ姫」をぶつけてくるらしい。ここまで公然とタコ殴りのいじめが敢行されるのもすごいなと思う。そして、やっぱり、野島さんには、このいじめは痛いのだと思う、心底。

視聴率を取らなきゃ、彼の意向で主題歌を選べなかったり、いいキャストを揃えられなかったり、さらには制作サイドから脚本の方向転換を迫られたりすると思うんだよね。そしたら、完成度と純度の高さが最大の特徴である野島ドラマのいいところが薄れてしまう・・・。

結局、天才・松本大洋も週一ペースのスピリッツでの連載は続けることが出来なかった。やっぱり、世の大衆は、あまりに純度の高い結晶には拒否反応を示してしまうと言うことなのだろうか。今クールで最も数字を取ってるキムタクの「GOOD LUCK」の薄さ具合と言ったら、もはや笑っちゃうくらいだもんな、予定調和の見本市みたい(柴咲コウは好きだけど)。

まあ、野島さんが以前「20%男」と異名を取った10年前と比べると、ドラマというジャンル自体が、あまり数字を期待できなくなってきたのは否めない。あと、現実のニュースが、ドラマをはるかに超えてる圧倒的なショックをもたらしているために、ドラマの「ドキドキ」が色褪せてしまってるのが大きい気がするな、やっぱり。それでも、野島さんは今回のドラマで、自らの頭の中で構築した壮大な「実験」で、悲惨な現実を追い抜こうとしている。その自らの想像力をどこまでも恃みながら理想を追い求める姿勢こそ、どかがいま、野島さんに一票を投じる理由なのね。

そうそう、その「実験」、野島さんは自らインタビューの中で「悪魔のプロット」と呼んでいた。たしかに、悪魔だよなー。えげつないもん。かわいそうすぎるよ、上戸彩。それをできるだけ「フラット」に見せるよう心がけているんだって。この「フラット」さ加減が、多分、いままでの野島ファンを困惑させている一因だ。あまり叙情に流れず、感情も抑えて、淡々と、フラットに。でも、その「悪魔的」な所行を、誰がとがめることができるのだろう。誰がゆるすことができるのだろう。そんな絶対的な存在が仮にいたとしても、郁巳の置かれた状況を前にして、彼をとがめたりゆるしたり、そんな絶対的な権力を行使する権利があるのだろうか。

野島さんのそんな抽象的で論理的な実験に、血と肉を伴ったリアリティを与えるのは、上戸彩や藤木直人や京本政樹など、魅力的な俳優さんたち。おそらく、第5話から、ガーッと物語が回り始める。いまから、その予感で胸が苦しい。やばい、S.O.S.以来だ、こんなにインボルブされるドラマ。

つかれるー、でも、やめられないー。


2003年02月04日(火) 掲示板とチャット

BBSできたよ!
ほら、書いて書いて!
日記の感想でも、レビューへのツッコミでも何でもいいからあ。

・・・

ずーっと悩んでいたのだけれど、決心したのどかは。
BBSを、復活させよう!
というのは実は一週間前には決まっていて、
なかなか実現出来へんかったんは、気に入るソレが見つからんかったから。

まず、ハナから構成や機能がイマイチなのは、落選。
もーいまどき、そんなヘンなBBSなんて無いやろうって思ってたら、
いろいろ探してたらけっこう「有り得ない」のんが見つかってアセった。

次に、カスタマイズの自由度が低いのは、やっぱりダメ。
それなりに瀟洒でグッと来るデザインのものも見つかるんやけど、
それ単体として見たらイイかも知れへんけれど、
あくまでどかは日記やレビューの感想を書ける場所というのを、
第一義としてBBSをとらえてるのね。
せやから、DOKA'S HOMEPAGEのデザインとそぐわなかったら、ヤ。
だから、HTMLでガンガンいじれるものを探していった。

で、まあまあ、使えそうなのが見つかってから、
タグを組み直してカスタマイズしていくんやけど、それがまた大変。
ま、またこれでHTML博士に近づいたと思えばいいのか
(そんなの、なりたかないやい)。
めんどくさかったー・・・けど、きょう、完成。
さっき、リンクを張ったの、DOKA'S BBS
(このDIARYのページ下部にリンクあります)。

・・・

で、また別の話。
去年かなあ、大学の寮の後輩のイトシンに、
「チャットおもしろいっすよ」と言われたのは。
最近、それをふと思い出して、松本のぶぅに話を持ちかけたのが先週。
で、きょう、さっき少しやってみたのね、これがまた、かなり面白い。

もともと MAC OSXのジャガー(ver10.2)にはiChatというソフトが着いてて、
これがAIM(AOL インスタント メッセンジャー)というソフトと互換性があるの。
設定は、ごくごく簡単。
ぶぅはAIM、どかはiChatで接続して、チャットしてみた。
チャットってさあ、イマイチその楽しさがやる前はわかんなかったな。
それこそ、電話で間に合うんちゃうん?という話だと思ってた。

ところが、ここには、何かがあるな。
麻薬的な作用を持つ、何かがあるの
(その「何か」が何なのかはいずれ、松本のカント・ブゥくんが、
 自分のホームページの雑記に書いてくれることでしょう、待たれたし)。
通話料と通信料を比べてコストうんぬんをするまでもなく、
これはコミュニケーションの一形態として市民権を得ることは当然だと思えた。
まー、二人きりのチャットっていうのも、寂しいかも知れないな。
これから、メンバー増やそうかななどと思案中などか。

掲示板にしろ、チャットにしろ、
コミュニケーションツールが発展すること自体に、
歯止めをかけるのはナンセンスだろう(異論を唱える気持ちはわかるが)。
大切なのは、そのコミュニケーションツールに溺れることのない、
しっかりした想像力と表現力を各人が身につけることとちゃうんかな。


2003年02月02日(日) 野田秀樹「売り言葉(VTR)」

きょう、時間が少し空いたのでなつなつから借りてた芝居のビデオを観る。
野田秀樹の「売り言葉」。
どかは芝居は生で観なきゃ、とやかく言う資格は無い。
と、思っているから、ちゃんとしたレビューにはしない
(だから、カッコ付き)。
でも、かなり衝撃的だったので、書く。

主演、大竹しのぶ。
高村智恵子に扮して「優れた言葉」が獲得してしまう、
自動性と残虐性に追いつめられていくサマ、かなり、痛い。
冒頭の明るさと終盤の暗さの対比。
高村光太郎という詩人が物した最高傑作、
「智恵子抄」の欺瞞を暴いていく。

というか、つくづく、野田秀樹はマゾヒストだと思う。
偽悪的というか、自嘲冷笑の紳士というか。
もちろん、キャスティング自体がゴシップを覚悟した、
偽悪的なものに相違ないのだけれど、それ以上に。
劇中、言葉の「悪」をこんなに鮮やかに紡ぎ出していくこの戯曲を、
書いているのは、自分なわけだ。
どかが認めるまでもなく、
野田秀樹は夢の遊眠社のころから「言葉の錬金術師」の異名をとるほどの、
言葉を選ぶセンスには卓越していた
(ちなみに「言葉の愛撫師」とは鴻上尚史の自称)。
詩人と劇作家で、職業としては異なるのかも知れないけれど、
その「悪」を掌中に納めてしまった点ではおんなじで、
じゃあ、その「悪」に翻弄され続けてしまう智恵子の「愚かさ」とは、
この舞台を観て笑ったり泣いたりしている私たちのそれなのな。
その批評の刃の圧倒的な切れ味、
そしてその刃を巧妙にカモフラージュする技巧、ケレン。
鴻上がストレートな小劇場界の「ブルーハーツ」だったとすれば、
野田はスマートな小劇場界の「ユニコーン」だなと、ひとりごちるどか。

舞台美術も秀逸。
同じケレン味たっぷりな鴻上の「ピルグリム」と比べると、
あまりにも洗練度合いが違いすぎる。
シンプルに見せておいていろいろ多重的な意味合いをそこに潜めさせる、
その技法はもはや専売特許。
照明、音響も、ビデオで見る限りはパーフェクト。
そして「演劇界最強の巫女」大竹しのぶは、
戦慄という言葉の意味を知らしめるべく、そこに、いる。
前半の軽く流したいシーンも若干重ためになってしまうという、
イマイチな点もあるにはあるけれど、
そんな些細な批判をぜんぶぶっとばすほどの終盤の熱演。
けれども涙は流れない。
その熱い熱い演技は全て、高村光太郎の欺瞞を明らかにしていく装置。
ロングパンされた引いた視点で観客はこの舞台を観、
心の底にそっと沈殿する青い悲しさをすくい取る。
つかの舞台がどんどんクローズアップしていく、
客席の間近に展開するドラマであるのと、これまた対照的に。

あー、チケット、取ろうと思えば取れたんだよな、これ。
でも、何かしら思うところがあって、敢えて取らなかったんだよ、どか。
あー、後悔。

何となく、いままでちゃんと観てきた野田の舞台を、
きちんとレビューに落としていこうと、ぼんやり思った。


2003年02月01日(土) まるで

きのう、某大学の研究室を訪ねた。
待ち合わせをしていたどかの知り合いの方があいにく来られなかったので、
結局、ほとんど徒手空拳な感じになって、びっくり。
でも、それが段々楽しくなってきた感じ。

専門的な情報収集という点ではもちろん、実りのある時間だったんだけど、
それ以上に、楽しかったのは、自分がひとり、
全くの未知の存在としてある集団に入っていったときに、
その構成員がどんな化学反応を見せるのか。
そしてその反応は経過的にどのように変化していくのか。
そんな感情と心情の流れを客観的に観察する余裕。
これってば、きっと、オリザから学んだことなのな。

だって、きのうのその研究室ってば、
「まるで、青年団の舞台みたい」だったんだもん。
その場にいない人の話題や、お互いの存在を重ね合わせるダイアローグ、
あっちとこっちで起こる同時多発会話や、ある種の誤解に起因する滑稽さ。
たまたま昨日は学部生の卒論締め切り日でもあり、
そんな<ドラマチックな日常>を一つの場所で、淡々と眺めることの、
そんななんやかや、全部が、まるで。

まだ、ダイアローグを成立させるために役立ったというレベルでは、
決して無いんだけれど。
でも、青年団の舞台を見続けていることが実生活のなかで、
明らかに何かしらの効果を生んでいるのは多分本当。
んー、平田オリザという芸術家は、あながち、
ただのビッグマウスというわけではなかったんねー。
「単純な」エンターテイメントとしての価値以上のものを、実感。

それはそうと、その研究室のヒトたちはセンセイも含めて、
みんなとてもどかに好意的に接してくれて、ありがたかった。
さ、これからこれから。


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