un capodoglio d'avorio
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2003年01月31日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第4話

第4話「哀しいデート」

そういえば、前作でもあれは二つの並行するストーリーが走ってたもんな。「真田広之ストーリー」と「赤井英和ストーリー」。今回も、そうである可能性はかなり高かったわけだ。「藤木直人ストーリー」と「京本政樹ストーリー」。

「京本政樹ストーリー」は主役の二人に先駆けて、どんどんぐいぐいテンションをあげてくのね。ホストの悠次にボコられる藤村センセイ(しかし良くボコられるな、京本政樹って。前作でも赤井英和にタコ殴りだったもんな)。路地裏に転がる藤村に対して、悠次が捨てセリフに、


 悠:バーイ、センセイ。彼女が待ってるから。

 藤:・・・コンテニューする。まだ、ゲームは終わらないんだよ。

 悠:・・・殺すよ?


この藤村先生、ヤバい。かっこよすぎ。シビレルどか。すごいなあ、良い役だなあ。このドラマが舞台になったら、そんでどかがキャストになれるなら絶対、藤村先生やりたいなあ。かなり、明確に藤村先生の立ち位置がわかってきた、どか。これは次回以降に言葉にしてみたい。

さてメインの「藤木直人ストーリー」。あいまいだった事象がどんどん水揚げされていく。彼の主治医との会話の中に「鏡面化」という、まさにこのドラマ全編に通じるキーワードがあっさりズバッと出しちゃうのな、野島サン。この辺の出し惜しみの無さは、少しつかっぽいなと思う。そこにあるのは、自らの展開力への、揺るぎない自信。その自信を裏付けるように、少しずつ野島節な台詞が、初めてどんどん連鎖して繋がっていく・・・

さて、まるっきし「普通の娘」というキャラ立てだったはずの雛だけど、少しずつ「特別な」感じを醸しつつな気がするどか。たとえば、デートの約束をとりつけた雛が郁己に、深夜電話をかけるシーン。


 郁:・・・雨が降ったら、中止だ。

 雛:うそ、どうして?

 郁:やっぱり、教師と生徒だし、誰かに見られるとまずいだろ。

 雛:変装すれば、サングラスかけて、

 郁:すまない。

 雛:すいません。いま、夜なんですけど。
   夜はやさしくなるんだよ、先生は?

   ・・・おーい・・・(電話切れる)あれ?
   
  (電話かけ直して)なんか電波悪くて、家のまえ工事中だから。
   ・・・もしかして、切ったの?

 郁:・・・まあ。

 雛:うわ、おとなげなーい。


何気ない、可愛らしいシーンなんだけれど。でも、この雛の台詞は「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」の重要キャラクターである佐伯クン(窪塚洋介)のそれをかなり思い出させる。言い方もそんな感じだったし。特別な、純粋さ。それは純粋じゃないモノがこの世にあることを知った上で、なお純粋なモノを信じる純粋さ。郁己の実験に巻き込まれてしまい、少しずつ変わってきたということなのかなあ。それはでも、きっといいこと。やっぱり「普通の娘」のままだったら、野島伸司の世界観では生きていかれないもの、最終回までわ。そんなふうにサリゲにパワーアップしてきた雛チャンに対抗する郁己センセイ。第4話のクライマックスのシーン、雛がジェットコースターのコースを一人どんどん登っていくところで、


郁:やめろっ!
  いけないよ、わかるけど、そんなことしちゃいけない。
  後に残される人の悲しみを考えるんだ。
  いや、現実にはそんなこと考えられないかも知れない。
  だけど、自殺なんか絶対ダメだ!
  ほら、人間は生まれるときは自分の意志じゃない。
  だから、死ぬときも自分の意志じゃだめなんだ!
  生き物はそうあるべきなんだ。
  例え一日でも、精いっぱい生きるべきなんだ・・・


これは、岡野玲子の陰陽師風に言えば「言挙げ」なんだろうね。雛に依存されることで初めて自分のバランスを取り戻した郁己。藤木直人、頑張ったなー偉いぞぉ。ちゃんと、野島節だった、リアリティのある。雛も郁己も、だんだんお互いテンションがあがってきた、それでこそ、野島ドラマ。

さて恒例の「本日のベスト彩ちゃん」のコーナー(どかの独断により、今回から恒例)は、以下のシーン。


 雛:ほら、はやくシャワー浴びて。

 郁:なんで?

 雛:なんでって・・・ほら・・・
  (郁己の手を引っ張って窓際に連れて行き、カーテンと窓を開ける、
   澄み渡る青空、快晴)。

 郁:(呆然と)あ・・・降水確率60%って、

 雛:(テルテル坊主を見せつつ微笑んで)気合い


この「気合い」って言った瞬間の彼女。もう、ヤバい、ヤバすぎ、ヤバエスト。ヤバ三段活用ナリ(by岡崎京子)って感じ。

・・・だめだ、私。


2003年01月30日(木) 観世文庫第三回公演「能(世阿弥本による)弱法師」

ある日思い立って、何とかチケット取れて、能を観にいくことに。チケ代も安かったと思う。




会場は観世能楽堂、京王線「神泉」から薄暮のなか歩き始めたんやけど、久々に東京で迷子になるどか。懐かしいこの「心細さ」、ってかアセったー、着かへんかと思った。ホンマにふっつうの(高級)住宅地の中にあって、わかりにくいよ、ここー。建物自体も割とふっつうやしー。


観世文庫とは、能の一大流派である観世流の方々が、能の普及と保存を謳って設立した団体、今回はその第3回自主公演らしい。演目は狂言が「宝の槌」、能が「(世阿弥本による)弱法師」。

狂言は割愛、結構笑えて楽しかったけど、オチがわからんくて悔しかった。

さて「お能」である。どかはこれが2回目の観賞経験。1回目は確か中学生の時に、大阪で課外授業みたいな感じで観たやつ。確かそんときの演目は「葵の上」だった。周りの席の友人が爆睡して全滅だったのに、なぜかどかは眠くならず、かといってエキサイティングだったかというとそうでもなく、ひたすらボォッと舞台上で起こっていた「何かしら」を眺めてた気が。

それから15年近くたって、けれどもそのころとなにも変われない自分を、改めて発見することになったの。というか、まず能とは「ひたるもの」であるという定義を心に刻んだどか。

シテの俊徳丸は、観世流26代宗家の観世清和さん。なんだか聞いたことある名前だし、何より「宗家」という響きに弱い<ナンチャッテ権威主義>などか、期待してしまう。しかして宗家サマ、お声が素晴らしく麗しいの。単純に声量があるとか、単純に澄んでいるとかいうわけではなく、独特な響き方をしていた。それは、他のツレやワキのヒトと比べてもすぐわかる。お面を当てていてもその奥から朗々と聞こえてくる声は、二人の声が合わさったかのような深い感じ。

あと、立ち姿が過不足無く、そこにスゥっとただ「いる」という感じ。たとえば今回の俊徳丸は盲目で杖を持っているという役なのだけれど、その杖をついているときと杖を落としたとき、いすに腰掛けたとき、クライマックスにその見えないはずの目にはるか彼方の遠望が映った瞬間に感極まって駆け出すとき、その時々のたたずまいがスンッと身に沁みる。派手なアクションをしなくても、説得力を持ってヒトの内面を語ってしまうこれは、すごいなと思う。どか自身も民俗芸能で普段から身体を使っていることは、確かに身体表現への感覚を鋭敏にしているのだねという実感も、発見だった、少し嬉しい。

また、笛や小鼓、大鼓などの囃子方は、掛け値なしに楽しめた。能管の音、好きー。あの「カーンッ」と物理的に額をヒットしてくる硬質な衝撃波。ああ、もう、たまんないッス。そんで、最初はその三つの楽器が、それぞれ自分のパートを演奏しているバラバラな音の集合なのだけれど、シテやツレが出てきて、地謡がテキストを謡い始めて、そんで、ある瞬間から、そのバラバラな音の集合が、集合ではなく、一つのまとまった雰囲気で能舞台を染め上げていくマジックは香気高い巻き込み力を発動。このマジックの湖面に自分の身体をたゆたえて、俊徳丸の内面を想像するだに心地よい時間は過ぎていく。

一方で、反省も。ほとんど予習をしていかなかったので、細かいストーリーをおさえられてなかったどか。それって、やっぱり、何かを損している気分になったりするのな「いまの台詞って何言ったんやろ?」って。そんでそんな風に自分のなかの流れが中断してしまうと、マジックが薄れてきてしまって、すごい、もったいない。そやさかい、能を観るときは、今度はちゃんと「謡い」を予習してから行こう!と心に誓うどか。逆に言うと、それくらい労力をはらってもいいくらいの価値がそこにあると確信できたということだね。うん、どかは歌舞伎よりも文楽よりも狂言よりも能がフィットしてる気がした。歌舞伎や文楽は、かつてどかも爆睡したもんなあ。

そして蛇足だけれど、なんと、能楽堂で芸能研の耕チャンと遭遇したの!びっっっくりしたー、まさかねーって。向こうもかなりビックリしてたけど。昨日、芸能研の練習で会ったばっかしやけど、それでも予期せぬ出会いというのはエキサイティング。公演後、耕チャンのお連れの二人と一緒に渋谷に出て、どじょうを食す。あの西原理恵子の「裏ミシュラン」にも登場した「駒形」の渋谷店にて<どぜう鍋>に<どぜう汁>・・・。思ったほど、エグくなかったけれど、でもあのルックスは・・・。思い出しても、うううう。大阪人は絶対食わへんで、これわあ。

・・・ま、せっかくの遭遇だし、良しとしよう。経験だ、経験。


2003年01月29日(水) iBookメモリ増設作戦

なんだか最近、iBookクンがもたつく。
最初はブラウジングで、ADSLの伝送速度、また落ちてんちゃうん?
って思ってたけど、どうも、違うらしい。
で、メモリの使用状況をチェックするオンラインソフトで見てみたら、
あぜん・・・窒息死寸前やん、これわー。

と、いうわけで、財布的には結構痛いものの、いたしかたなく、作戦計画を練る。
しかしパソコンの中身なんて、一度AirMacカードを装着したことがあるだけやから、
そんなデリケートな部品をパソコン開腹して装着なんて、できるんかな?
と不安になったけれど、どかも男の子のはしくれだしー、一人でするー
(これが、どかにしてみれば結構な勇気)。

そもそも、去年の一月にiBookクンを購入したときに、
メモリを増設しときゃ良かったんよ。
でもそんときは、ホームページ作るくらいでそんなたいそうな使い方しないし・・・
って思ったからデフォルトのまま、256MBのメモリにしてたら。
そしたら、MacOSX(まっく・おぉえす・てん)というOSは、
実は仮想メモリの使用を前提にしているかなり重たいヒトらしく、
「OSなんて軽けりゃ軽いほどイイ!」と息巻いてたブゥに言わせれば最低なOSらしかったのね。
でもどかはwindowsのXPなんかよりよっぽど美的センスに優れてるOSXを、
カワイくてとても手放したくないっっ、故に、本作戦は遂行される運びに。




これが、届いた512MBのメモリ。
なんだかジュウシマツの羽根ほどに、
か弱くデリケートな印象。
作業中の身体に帯電する静電気にも、
注意しなくちゃらしい、マジで?





ついに作業開始。
まず、iBookクンのキーボードを
外すことからはじめる。
すでにどかの手は緊張。
次にAirMacカード(右上)を外して、
メモリーのカバーを露出させるまで。





そしたらドライバーでネジを外し、
カバーを除去すると、
そこにはデフォルトのメモリクンが。
iBookクンのメモリのソケットは一つ。
故にこのデフォルトクンを外して、
新しいのをつけなくちゃ。
なかなか外れなかったのー、
このデフォルトクンが。
ここが一番苦戦したな、苦戦といえば。
少し、汗かいた・・・
写真はすでに新しいのを装着した絵。





あとは、来た道をそのまま
たどって戻るだけ。
カバーつけてAirMacつけて、
キーボードを戻したら、
とりあえずオッケィ!
起動後、画面でメモリがちゃんと
増えてることを確認、めっちゃ嬉しい!
本体備え付けの128MBと512MBを足して、
640MBの表示に
(切ないのは未だ"G3"なこと、しぅん)。
その後iBookクンに付属のチェックCDで、
メモリテストして問題なし、やったー!


やー、機械オンチのどかでも出来るんだねー、良かったー、ホッとしたよ。
たしかに、たかがメモリ増設だけど、iBookクンに前よりも愛着を感じるぅ。
その後、しょっちゅうつむじを曲げてたiBookクンの動作環境は、
以前とは比べモノにならへんくらい向上した。
やっぱCPUにグチる前にメモリを見ることは必要な。

いじょお、作戦、完了!


2003年01月28日(火) THE 2ND RENEWAL

ホームページ、全体的にデザインを一新したの。

「全体的に一新」と言っても一瞬で全てを変えた訳ではなく、
少しずつ少しずつ手直しをしていって、昨日、
ようやく一段落したかなって。

かなりシンプルに、わかりやすく、さっぱりしたと思う。
うん、我ながら、気に入っていて。
一応、統一感みたいなのが出てると思うのね、
色目やフォント的に、そこはかとなく。
特に「DOKA'S 100」の表組みの変更は、
とても上手くいったと思うのー。

あと「REVIEW」や「THEATRE」も、
少しずつ見やすくなってるんだけどな、
これは気づいてもらえないかも。
いぃんだけど。

さて、これからのプランは・・・

1:「DOKA'S BBS」復活!
2:「DOKA'S TSUKA」「DOKA'S SEINENDAN」「DOKA'S DRAMA by NOJIMA」
  あ、あと「DOKA'S HIGH-LOWS」や「DOKA'S FINEMOTION」など、
  内容の濃いいページを独立させてリンクする。
3:ホームページを開設する前に観ていた舞台のレビューを書く。

などなど、未定だけどね。
というか、やっぱしあんましBBSは苦手だし自分で管理するの。
人様のところに言って書き込んでるくらいが、
ちょうど良いかも知れない、どかには。
でも、迷い中。

もーすぐ、このサイトも一周年だあ。
自分では、三日坊主は有り得ないし、普通に続けられると思ってたから、
別段感慨もないけれど、DIARYのINDEXから、
ALL_LISTで全TITLEを表示させるとさすがにいろいろ思うところもあり。
他人が読むということを前提に書いているとは言え、
できるだけ嘘が入らないようにと、創作は禁止。
というルールを決めて書いていたのね。

ま、そうは言っても取捨選択はどうしても行わなくちゃだし、
そういう意味では純粋な日記ではなく広い意味で創作かも。
けれども、自分であらためて読み直してみると、
直接の記述が無くとも、ああ、このときあんなことがあったんよなー。
ってかなりの精度で振り返ることが出来て。
だから、どかにとってはちゃんと「日記」としての機能を
果たしてるっていうのが、意外に嬉しい。

そして。

この日記がスタートしたのと、時を同じくして、
日本を離れた私のダンスパートナーの一人が、もーすぐ帰国する。
そう思うと、なるほどーって思う、なるほど。


2003年01月27日(月) 切り札

きょう、目覚めた瞬間、ふとんのなかで、一大決心をする。

  よし、散髪や、行くしかない。

起きてすぐ、吉祥寺の連○子シュプリーム店に電話。
担当のせ○ねサンと話す。
運良く、夕方からの練習までに予約を入れられそう。
日々のある種の流れが滞った時は、
そんなときは、散髪しかないッす。
と、思うどか(ま、そうそうたびたび使える手ではないけれど)。


 せ○ねサン やー、でもどかさんすごいですねー、
       その、好きなことに向かっていく力はー。

 どかどか  え、そんなんだって、好きなことしかやりたくないって、
       まるでガキがダダこねてるみたいなもんだし。

 せ○ねサン いや、その年になって、そこまでダダこねられたら、
       それはもはや、すごいことだと思いますよー。

 どかどか  うーん、でもボクから見たら、自分の好きなことと、
       周りの状況をちゃんとコーディネイトできてる、
       世のほとんどの人のほうがすごいと・・・

 せ○ねサン いや、できてないですって、ほとんどの人は、じっさいー。


なんて、会話をしつつ、たくさんたくさん笑って。
きょうはすごい会話、盛り上がったなー、楽しかったー。
で、頭洗って、髪切って、頭洗って、乾かして、ワックスつけて。
おーし、ふっかつぅ、リフレッシゥ!

そのあと、練習に出るために雨の中、ガッコへ向かう。
iPodクンでユニコーンを聞く。
「すばらしい日々」と「大迷惑」は掛け値なしの名曲だ。
奥田民生はソロよりもバンドを組んだ方が、絶対イイ。
この2曲が同じバンドだというのが信じられない。
バンドブームの傍流であり続け、バンドアイドルのレッテルを貼られ、
フォロワーがほとんどいないとされるユニコーン。

昨今のブルーハーツの「再評価」はどこかうさんくさい
(電通がかんでそうな気がする)。
次はユニコーンだろうか?
リサイクルの再利用、ブームがすぎたらハイサヨウナラでポイ捨て。
なんて、むごい仕打ちを受けないことを、切に祈る。


2003年01月26日(日) いろこいざた

めずらしく、たまには。

風のうわさに、以前この日記で触れたことのある、
「花曇りの女の子」が今度、結婚するらしいというのを聞く。

そっか。

ふぅん、そう。



ミケランジェロはシスティーナの天井の九面の旧約聖書の場面を、
入り口のほうから描きはじめて、最後にもっとも祭壇側、
「光と闇を分ける」神のシーンにさしかかる。
暗黒のかすみの向こうから神自身が姿をあらわす一瞬。
見ている私たちは、水面に浮かぶアメンボを、
水底より仰ぎみるかのような非整合的な角度で見る。
幻想的なカオスのなかから身を起こし、
光と闇を分ける超越的な存在を表現するにいたって、
ミケランジェロはすでに、遠近法を必要としなかった
(参考「遠近法の精神史」佐藤忠良他)


2003年01月25日(土) ひさびさに日記、など

あかん、くたびれたー。

今朝は、なかなか身体が動かなかった。
疲れ、たまってるみたい。
最近の踊りの練習が、ハードだからかな、気持ち的に。
そぉ、どかは「課題演目」、とりあえず断念した。
今度の公演では、少なくとも、挑戦できない、って思った。

二年前までのどかだったら、絶対、こんなことで諦めなかったな。
自分の気持ちにだけは、嘘をつきたくないと言うルールだけで、
いままで生きてきたのにね。
踊りたかった踊りたかった。
でも、今回は、踊らない、決めた。

いろいろな事情が重なって、どかはほぼ「コーチ業専任」体制。
それはそれでいいの、別に。
これまでたくさんいろいろなものをもらってきたのだから、
今度はそれを還元してかなくちゃだわと、素直に、思う。
だから、そのこと自体はストレスでは、ない、のだけれど。
ま、いい、これは・・・

・・・最近レビュー続きで、ま、それ自体どかにはあんまし負担じゃない。
別にキーボードたたき始めたら、あのくらいの分量はあっという間だし、
自然に頭に残ってるものをタイプに落とすだけで、
むりくり悩んで考えてひねり出すものでもないからねー。
で、楽しかったのは、ぶぅのレビュー(雑記27へ)。
最近お休みしてた彼のサイトが再び稼働し始めてるみたいで、
どかと一緒に見に行った青年団について書いてたのね
(業務連絡:ぶぅクンへ、リンク不都合あれば連絡されたし)。

・・・

きょうは八幡、かっちり踊った。
身体はかなり、調子、あがってるなあ。
そりゃあそうだよ、だってはるかにハードな「課題演目」に向けて、
万全の調整、してきたんやもん。
どかに限って、調整ミスは、ありえない。
きょうは、気持ちよかった。
八幡なら、踊ってみたいかもしれないな・・・

・・・

最近のBGMはユニコーンの「すばらしい日々」「大迷惑」「自転車泥棒」。

最近読んでるのは、美術関係以外だと、野島伸司の小説「スワンレイク」。

最近気に入ってる絵はレオナルド「音楽家の肖像」。

最近・・・


2003年01月24日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第3話

第3話「眠れないふたり」

惣一郎と桜井幸子バージョンと上戸彩バージョンの違いについて、少し話した。「あの独特の切ない雰囲気が、今回無いですよねー」って言ってた。確かに、そぉだよな。野島フリークサイトでも同じような指摘には枚挙にいとまなしやしなー。

'93版は、本当にセンシティブなシーンをひたすら継いでいった印象があるどか。桜井幸子の演技は素晴らしく、彼女演じる萌のいわゆる少女漫画的センチメンタリズム満載の仕草・行動。でも決してそれが甘ったるさにいかないで、破滅的なドラマ終盤の予感の波にはかなくたゆたう落ち葉のように、ふわふわ波間に揺れていて。それが誉れ高い'93版の「狂気と哀感」の正体だと思うどか。

対して'03版は第3話までに限れば、胸がキゥゥとなるような切ないデリケートな印象は、少なくとも感じないどか。ディテールにこだわった具象ではなく、イデアに即した抽象を映しとる映像作りになっている。これはそもそも描きたいテーマが違っているからか。今回のテーマとは、避けられない死に際した「依存と愛情」。第3話では、まず一つ目のキーワードの「依存」がクローズアップ。

 雛 そしたら、私のこと「大丈夫?」って、
   同情してくれる人が誰もいなくなっちゃう。

 郁 同情されるのは、嬉しい?

 雛 わからない。まだしてもらったことはないから。

 郁 すいません。

 雛 いいえ。

 郁 かわいそうに・・・
   かわいそうに・・・
   かわいそうに・・・
   かわいそうに・・・
  (隣で静かに泣く雛に気づく郁己、ライターをつけて)
   心配しなくていい。いいかい、君は・・・君は・・・

上戸彩、かわいい。もう、何でもいいから、かわいい。思わずウルウルどか。「依存」に対する「同情」。雛は明るく振る舞ってできるだけ自分の「依存」の重苦しさを、軽くしようと努める。でも、このシーン、ついに自らの「恐怖」と「孤独」に捕捉されてしまった雛。

・・・でもね、ここで神の視点で二人を見てる視聴者は、郁己に「同情」する。彼はこれまで、「恐怖」と「孤独」を抱えながらも捕捉されるのを拒み続けて、人前では強がって、何でもないように振る舞って。しかし、この四つの「かわいそうに」。最初の二つはきっと雛に向けられたもの。でもね、後の二つはきっと、郁己自身に自分でかけた言葉「かわいそうに」。背水の陣で踏ん張っていた最後の砦が、この静かなシーンで完全に陥落し、そしてついにこの呪われた<実験>の意義が、彼のなかで顕在化するのね・・・

その意義とは<鏡の構造>。郁己の雛を見つめるまなざしは、実は自分に向けられたものであるということ。雛が郁己に依存してくる瞬間、郁己が雛に依存しているということ。んー深い。こんなのを毎週ドラマでやるなんて、ね。冒険だわ。スピリッツが毎週毎週松本大洋を連載していたのと同じくらい、ヘビーな、冒険。

ちょい、脱線しちゃったけど。「依存」というのは、決していいイメージの言葉ではない。でも、野島伸司の紡ぐシーンからは、決して「依存」の気持ち悪さ、いやらしさのにおいがしてこない(少なくとも第3話までは)。「依存」していて何が悪いのか?という開き直りではないにせよ、

  "I LOVE YOU"よりは "I NEED YOU"のほうが、
  どれだけ信用に足るのだと思う?

という問いかけが見える気がする、これはうがちすぎかな?

でも、段々、面白くなってきたよ、確実に。

おまけ。






昨日、三茶に行ったとき「あ、そぉだ」と思って、キャロットタワーに寄った。第2話で、惣一郎のお気に入りであるところの藤村先生(京本政樹)が、決めポーズを作ってた場所がこのエスカレーター。第3話、藤村先生は段々その存在感を増してきた感じっすね、かっきー。


2003年01月23日(木) 遊園地再生事業団「TOKYO BODY」

きょうのこの芝居で、どかの観劇シリーズはしばらく打ち止め。トリを飾るのは、以外にも・・・

またもシアタートラム、ソワレにて観劇。宮沢章夫ひきいるプロデュース集団・遊園地再生事業団、ひさびさ復活公演、どかはここの芝居、お初。実はどかは、作・演出の宮沢サンの作風には、苦手意識があったのね。

夢の遊眠社や第三舞台が次々に失速していった殺伐の90年代、宮沢サンのそのナンセンスでシニカルな独自のスタイルは、世のサブカルシーンの盛り上がりと共に新しいカリスマとして君臨した。大人計画の松尾サンも同じ二次曲線を描きつつ上昇を続けた人だけど、松尾サンは「下世話でゲスで毒をまき散らす」感じ。対して宮沢サンは「高踏的で洗練されたシジフォス的不条理」な感じ(あくまでどかの持ってたイメージね)。なんか「遊園地再生事業団の良さが分からないのは芝居フリークとしてダメだ」的な踏み絵っぽいイメージが、イヤだったし怖かったのさ、最初は。

最近、ようやく自分の劇場へ足を運ぶスタンスみたいなのが定まりつつあって「踏み絵でもなんでも来ぃや」的覚悟が固まったのね今回。で、感想。

  んー、むっずかしい・・・、これはアリなのか?

宮沢サン本人がチラシで謳ってるように、今回の戯曲は、かなり変わっていた。それは純粋に台詞でもなく、はたまた現代詩でもなく、それの中間あたりを常に揺れ続ける「テクスト」。それを何人かの固定の役を持った役者が読み進めていき、その間に何人かのギリシアの古代劇に出てくるコロスみたいな役者が「舞踏めいた」動きのダンスとマイムで繋いでいく。演劇・・・なのだろうか?わかんないっす、現代美術にむしろ近い気がした。パフォーマンス・アート。

そのテクストの内容とは、一体「からだ」とは何なのだろうか?という問いかけが、辛うじて一貫して続くテーマ。東京以外のいなかから、行方不明になった恩師を探しに東京に出てくる。しかし、東京という街で彼らは自分のアイデンティティを見失ってしまう。「私は・・・ではなかった」「私は・・・だった」という<過去形>でしか自分を表現できないキャラクターたち。この<過去形>による呪縛という構成は、唸るしかない、あまりにするどすぎる視点だ。この<過去形>を<現在進行形>に変えて自分を表現するために(=自分のアイデンティティを取り戻すために)、彼らは恩師を探してさまよい歩く。

恩師は恩師で、東京に出てきて行方不明になった三女を探しに東京に来ていたのだ。そしてその三女も「ここにはなにもない」と言い捨てて、いなかから東京に来ていた。つまりアイデンティティの象徴のように見えた恩師も、自らのアイデンティティを失っていて、そのアイデンティティのアイデンティティも・・・という絶望の入れ子構造のなかから、東京という街の平凡性と特殊性が立ち上がっていく・・・

劇中、1行も台詞を書けないくせに劇作家を名乗る男は、近松門左衛門へのリスペクトを表明しつつ、いかなる「台詞」が東京において成立しうるのか・・・と、悩みながら、この恩師をめぐるドタバタに巻き込まれていく。そして近松の浄瑠璃のように心中しようとしている若い男女に向かって、

  死ぬな!死んじゃダメだ!
  まだ絶望が足りないのか!絶望がないと台詞一つ書けないのか!

と絶叫する。アイデンティティを失った現代東京の果ての果てに響く、台詞「未満」のつぶやき・・・。

・・・どかがせいいっぱい、頭の回路をマックスまで開き、心の感度をマックスまで上げて、理解を試みた結果が、上記な感じ。でも、予想通り、抽象的で不条理な「テクスト」は、二時間半見続けた結果、頭がショートするくらい、大変だった・・・。これは、ありなのか?確かに、目の前の事象を追いながら同時に並行して謎解きを頭の中でこなしていくのは、否が応でも達成感にひたらせる作業に違いない。

でもさー。ここまで、既存のものを破壊しつくさないと、リアリティは表出しないものなのだろうか?確かにサブカル界のカリスマになっちゃうほどの、深い精神性と斬新な切り口を持っていて、それは認めるけどー、って感じー?

一つ、文句を。舞台美術は悪くなかったんだけど、デジタルビデオを使った<舞台上リアルタイム中継>は、どかははっきり、嫌い。あんまし映像に頼んないで欲しいなー、劇場では、少なくとも。いくらリアルタイムの一回性が保証されていたとしても、デリケートなライブの臨場感は、侵犯されてしまうよぉ。

一つ、良かったの。コロス的な役者の使い方、上手だったな。日本総合悲劇協会「業音」で松尾サンも一人だけ、こんな使い方したけど、宮沢サンのが、洗練されて効果的ではあった。映像で侵犯された生の身体の聖域を、彼ら彼女らが守ってたな。

・・・




「かつて私は会社員だった」
「かつて私は大学生だった」
「かつて私は留学生だった」
「かつて私は・・・」

遠のく<現在形>、とりまく<過去形>。
融解するアイデンティティ、誘拐される、私自身・・・
この「からだ」は、ちゅうぶらりんりんりん。
シアタートラムで、ringringring...


2003年01月22日(水) 「ピルグリム」と「海よりも長い夜」について補足

読み返してみて、あと、時間をおいて考えてみて、鴻上氏の「ピルグリム」にフォローを入れたくなったので、少し。

鴻上尚史のブルーハーツ好きは有名だ。

で「ピルグリム」、幕が開いたときに流れたのは、最近出たブルーハーツへのトリビュートアルバムのバージョンで「青空」だった。反則、反則なんやけれども、これを聞かされると、鴻上サン、キゥって抱きしめたくなってしまった、どか。例え、次の瞬間、市川右近の第一声に絶望したとしても。

あれほどの勢いとカリスマを備えたブルーハーツでさえ、殺伐の90年代を乗り切れなかったの。鴻上サンと第三舞台が沈んだとしても、だれも責めやしないよ。だから、鴻上サンは一度、しっかり「沈没(@スナフキンの手紙)」したらいいんじゃないかな。もしくは、いまみたいに、過去の遺産(遺産て「戯曲」だけじゃなくてあの旧来然とした「演出法」も)をこねくり回すのはやめて、ヒロトがブルーハーツをリセットしてハイロウズを始めたように、完全にリセットする勇気を持たなくちゃ。すごいすごい、困難なことだろうけれども。

グロリアスな過去は、人生を狂わせてしまうねー、やっぱし。

さて、青年団。

どかは、言わずと知れた青年団フリークなわけだけれども、集客力という点で言えば、そんな苦戦してる鴻上氏のほうが、青年団をはるかに凌駕するのね。ぶぅと一緒に観に行ったのは土曜日のソワレの三軒茶屋。それでも観客率は70%いくかいかないか。もはや知名度が低いという言い訳がきかないのは、オリザサン自身が一番良く知ってるでしょ。NHKのスタジオパークに出るわ、ニュースのコメンテーターとして出るわ、自身の露出度もかなり高いし、著作も新書などで発行されるくらいメジャーだし、海外公演も日本の全劇団中、最も頻繁に行ってるし、東京の芝居小僧で、もはや青年団を知らないモノはいない。

それでも、週末のシアタートラムなのに、座席が、埋まらないのだ。それは、やっぱり端的に、ぶぅを味方にすることができなかったことに象徴されてるのだろうか。青年団の芝居は、確かにスノッブな香りがするときがある。敷居が高いように見える瞬間がある。

野島伸司はいま、視聴率で苦しんでいる。そのことで作品の質が落ちないかと、多くのファンがやきもきしてる。テレビドラマと演劇は、違う世界。違う世界なんやけれど、本当に大丈夫なん?って少し、心配。

まー、青年団、褒めてばっかりやし、基本的には全肯定やけど、重箱のスミ的つっこみを入れてみたかったのん。


2003年01月21日(火) 劇団黄河砂「笑の大学」

国際基督教大学の学生劇団の公演、新D館多目的ホール特設ステージにて、ソワレ観劇。いまをときめく劇作家・三谷幸喜の、東京サンシャインボーイズ時代の佳作戯曲、二人芝居。

どかは前にも黄河砂で「笑の大学」を観ていて、そんときはどかの寮の後輩・おかそおクンと、同じアパートに住んでた後輩のまついクンがキャストをやったんだよねー、とても思い出深い舞台だったな、あれ。二人とも、お芝居、上手だったし。戯曲自体・かなり出来がいいし、チケット安いし、昔のそれと比べてやろーっていう少しいぢわるな客として観ることにした。

うん、楽しかったー。素直に楽しめたよぉ。上手い子、いるんだね、ちゃんと。

戦時下、上演前にその戯曲を検閲する役人と、劇団の座付き喜劇作家(兼演出)の会話劇。公演日が迫ってるためにできるだけ早く上演許可が欲しい作家・椿サンと、基本的に喜劇の存在意義に疑問を抱いてる堅物の検閲官・向坂サン。来る日も来る日も訂正箇所を指摘される椿サンは、それでもめげずに無茶難題をクリアして(あんまししてないんだけど)向坂サンに見せにくる。それを向坂サンは、持ち前の細かいA型気質丸出しに、芝居の不条理を指摘して「笑えない」と椿サンを困らせる(実はこの指摘、他の劇作家は痛いんじゃないかな)。

そんな丁々発止なドタバタの淵から浮かび上がるほのかな友情とヒューマニズム、そんなテーマを、軽妙で洗練されたネタを絡めて見せていくからついつい引き込まれてしまう。基本的にウェルメイドな芝居が嫌いなどかでさえ、つい。

まー、三谷幸喜は、ふっつーに面白いし、笑えるし、それ以上あんまし書くこと無いなーって思う。つかや野田や鴻上や青年団や扉座や大人計画はなにか書きたくなっちゃうんだけど。だから、少し些末に。

二人の役者さん、両方、上手かった。普通に。向坂サン役の平田クンは前に、劇団エンジェルエンジンの公演で観た気がするんだけど気のせいかな?でも何となく名前知ってて、この人は上手いだろうなと思ってたらやっぱり上手かった。ビックリしたのは椿サン役の梅沢クン。前にやったおかそおクンのそれとは全然違う解釈で、同じくらい説得力のある役にしてた。ちゃんと、自分の、文法で。ナイーブだけど芯のある魅力的な喜劇作家だった。比べると平田クンの向坂サンが少し弱いかなと思うけど、でも仕方ないかも。だって、この二人芝居、どう考えても向坂サン役のほうが難しい。もう少し「拝見」っていう言葉が冷たく重たく響けば良かったのにな、なんて。

舞台美術、もすこし。ウェルメイドに挑戦するなら、大道具と小道具のリアリティが実は命綱でしょ。少し、安っぽかったな、書き割り。

音響、箱の中の小鳥の鳴き声、もすこしなんとかならなかったのかな。

照明わ・・・んー、よく多目的ホールにあれだけ灯体つり込んだなと思った。良かったのでわ。暗転もきびきびしてた。

そりゃあ、サンシャインボーイズの頃にやった西村雅彦サンとかと比べると、笑えるいいネタをみすみす流してしまったりもったいないことをしてたんだけど、でも何よりも、チケット代だ、と思う。だって、この前の「ピルグリム」の十分の一の値段だよ、これで。しかも「ピルグリム」の二割り増しでどかはきっちり楽しんだ。コストパフォーマンスって、ぜったい大切やと思う。青年団やつかはそこが偉いな、やはし。

こんどは「三谷幸喜の罠」も再演願うどか。「アパッチ行進曲」だっけ、前に黄河砂で上演したときのタイトルは?


2003年01月20日(月) THE PEPPERMINT JAM @新宿LOFT

オーソリのミミ姉さんが言ってたことには、

  新宿のLOFTでワンマンライブやるというのは、
  バンドにとっては、すっごいステータスなのよー

その新宿LOFTにてワンマンライブのペパーミントジャムのライブ。どかが観るのは二年ぶりだ。その二年前のペパーミントは、ちょうど新宿LOFTで初のワンマンだった。奇しくも同じハコで観ることになった、昨日の19日月曜日。

二年前のペパーミントのライブのことはよく覚えてる。なんか、初のロフト・ワンマンっつうことですごいお祭り騒ぎだったな。だってオープニングアクトにLAUGHIN'NOSEが出てきたりして、もぉ、すごかった、盛り上がりが。真打ちのペパーミントの出番にはプロパーのファンが前に詰めかけて、モッシュが賑々しく爆発してた。確か、ぶぅやどらと一緒に行ったんだよな。どかもそのモッシュの波にもまれて騒いでた。その構図は、つまり、熱狂的なファンがバンドを御輿に担いで盛り上がるの図。

そして、二年経って、決定的にこの構図が変わったことにすぐ、気づく。何が違うんやろ?まず・・・、まず音。うん、音が全然変わった。

前は良くも悪くも音の隙間がたくさんあって軽い感じのグルーブだったの。ロカビリーっぽいパンクというスタイルが前面に押し出され、メンバーみんなが「いきがった」衣装をまとい、髪はリーゼントでかっちりきめて、ウッドベースが印象的な、なんか、そういうまとまったイメージ。コミックバンド、ではないけれど、でも音が軽いからこそ、イイ意味で気軽に親しみもてる身近なアイドルっていう感じ?

でもね、今回の音は、すごいストレートにドシッと腰に来る感じ。音の隙間から抜けていくテンションはいっさいなく、圧倒的に強度が増した本格的なロックのグルーブ。ドラムも重くて速くなったし、ベースもギターもよどみなくどんどんドライブしていく。ボーカルも、声を張り上げるとダミ声になっちゃって通りが悪くなる癖はそのままだけど、でも全体的な声量がかなり増してて迫力が出てきた。他の三人の音と同じように、あきひさクンの声も進化してたのな。とにかく、ビシビシ、波動が伝わる感じ。強度、うん、強度が増したっていう表現が一番ピタッとくるどか。

またビックリしたのがミディアムテンポの曲が二曲、セットリストに入ってたこと。二年前はころびまろびつ、速い曲で突っ走るしかなかったやんちゃっ子たちだったのに。そしてかつ、ミディアムスローな曲をやってもスカスカ感が無かったのが驚き。これって、普段から「速度」に逃げてへんっつうことやもんな。「速度」以外の要素、それは「テンション」だったり「パッション」だったりするのだろうけれど、それがきちんとペパーミントにはあったからテンポが遅くてもグルーブが弱まることなく持続したのだ。すごい成長のあとだと思う。

そして何より、こんなに音が進化していることと符合するかのように、メンバー一人一人のステージ上での佇まいに「テンパッた」感じが無く、自然に堂々と、凛々しく立ってたのが印象的だったの。もはや「担がれる御輿」ではなく、逆にファンを担いでしまうくらいのパワー。二年前は、LOFTのステージがでっかく見えた。今年は、LOFTのステージが小さく見えたもん。それって、この二年という月日の間にこのバンドがどれだけ結果を積み上げてきたかという証左やん。はー、呆然としてしまう。こんなに二年間で変われるんだ。

どかは・・・。どかは、このライブではあまり前に行かず、一番後ろの壁にもたれながらただボォッとまぶしいステージを観てた(どかのすぐ横には、LAUGHIN'NOSEのポンさんが愉快そうに身体を揺すって歓声あげてた)。大体新しい3rdアルバムからの曲でセットリストを組んでたみたいだけど、少しだけ古い1stからの曲もやってくれて嬉しかった。"トマトケチャップ"とか"サングラスマン"のイントロが聞こえた時は前に走っていこうかと思うくらい嬉しかった。そしてそして"SKUNK BABY RULES"!以前、ハルコンにライブで良かった曲って聞かれてこの曲って答えたのね、どかは。今回、ハルコンにチケット取ってもらって来てみたら、また、この曲が鳴って・・・。ああ、覚えていてくれたんだな、ハル・・・、って思って、なんか、本当に泣きそうになった(最近、涙もろいよな、いかんなあ)。でも、すごいすごい、嬉しかった。

親しい友人がたくさんたくさんがんばって、ふんばって、歯ぁ食いしばってこのステージにたどり着いたことを、どかは知っていて、そんなたくさんたくさんいろいろぜんぶが、ちゃんと音に現れていて、ああ、時間は流れるんじゃなくて、降り積もるものなんだねーって素直に思えて。親しい友人の努力を素直に祝福できて。だからこそ、あえて、どかは宣言してしまう。

  このバンドのメンバーの内の誰か、誰か一人がね、
  例え二年後、入れ替わってまた別の人になっていたとしても、
  どかの親友がそこにいるといないとに関わらず、
  どかはこのバンドのライブにまた行きたいと、きっと思います。

それくらい、この日の音は良かった。

良かったんだよ、本当に。


2003年01月19日(日) 青年団「海よりも長い夜」

早くも、2003年極私的芝居ランキング第1位候補なの、ひえ。

昨日、1月18日土曜日、シアタートラムにてソワレで。ちょうど上京していたぶぅも一緒に観る。練習のあとさんちゃに二人で出る。なんかねー、青年団見に行くのは、もはや、娯楽という感じがしない。でも・・・修行、でもないよな。娯楽と呼ぶには、刺激が深すぎるし、修行と呼ぶには、純粋に面白すぎる。

青年団の舞台では、開演前にすでに舞台に役者がいるのが普通。席について、すでに舞台にいる役者さんを観て、深呼吸。気持ちのバランスを整えて、心の「アンテナ」の感度を最大限に上げていく、気づいたら暗くなってた客電、いつの間にか幕は開いている・・・

「集団」と「個人」の関係。オリザがパンフに書いたこの戯曲のテーマ。奇しくも16日木曜日に観た「ピルグリム」と重なる感じ。しかし、舞台にのせたときのテーマの立ち上がり方において、全く勝負にならない感じ。どれだけケレンを見せたところで、最後に客を巻き込んでいくのは生身の役者だということを、皮肉にもオリザに示されるという鴻上氏には辛い展開だろうか。

ストーリーは、市民運動の団体が瓦解していく瞬間を淡々と綴っていく会話劇。高邁な理想と、生身の肉体の、乖離。共同体とは、こんなにももろく、はかない。ああ、人間てば全然、賢くならないのね、あんな悲惨な歴史があるのにね。という哀切。

この戯曲は再演である。初演はちょうどオウム真理教がテレビのワイドショーを独占していた時期。そぉ「集団」と「個人」の関係がとやかく口やかましく口さがなく取りざたされてたころ。あの事件は、私たちの共同体というものに抱く心理にどう影響したのだろうか。もしくはもっと昔、浅間山荘事件があったとき、テレビ越しに私たちは組織というものに、どんな心象を持ったのだろうか。そして、この日シアタートラムにいた人間は、この舞台を観て、どんな感情を抱いて席を立ったのだろうか。

オリザはでも、決して「集団」や「共同体」が不可能である。というメッセージを表現しているのではない。決して「理想」と「肉体」は相容れないというメッセージを表現しているのではない。ただ、いま現在の日本では、この顛末こそが最もありうる可能性だと、述べているだけだ。そこにないのは「対話」。異なるバックグラウンドの人間が、価値観をすりあわせていく技術、忍耐、寛容。終盤、一気に盛り上がる暗いテンション、普通の人が寄り合っているだけなのに、わき上がる黒い雰囲気。固唾をのむ、客席(ひきつる顔の、どかの隣のぶぅ)。

でも、悲惨すぎて、イタリアで最も濃いエスプレッソの色並みの絶望の闇を観客に浴びせておいて、でも最後の最後に、僅かに提示されるほのかな明かり。光じゃない、明かり。あまりにも暗く切ない展開の果てに見せられるそのろうそくの炎のような明かりが、水晶体に刺さって、痛い。涙が、出る。あの、女子寮の先輩と後輩が、寮歌を一緒に口ずさむシーン。そのあとの台詞。「後輩とこんなの、やだな」「すみません」・・・オリザの最も神より祝福されている才能とは、彼の独自の卓越した演劇理論でも、戯曲作成術でもなく、彼のシャイなロマンティシズムにこそあるとどかは思うの、あんまし評論家は誰もこれを指摘しないけど。

もちろん、青年団独自のスタイルは健在。客席に背を向けた上での、同時多発会話。そして青年団といえば「静かな演劇」とレッテルを貼られるけれど、全然、そんなの嘘さ。不必要に捩れたシャウトや芝居的なBGMが無いだけで、そのシーンにおいて、感情の流れによっては役者は怒鳴るし、泣くし、歌うし、跳ねるし、ノイズ満載。これのどこが「静か」なのか?これって、でもきっと、最近の青年団の変化なんだと思うな、どか的にこの変化は歓迎。昔は本当に「静か」だったのかもしれない。

そしてまさしく達人という称号こそふさわしい役者のみなさん。運動のリーダー役の太田宏さん、前からどか、好きだったけど、やっぱり上手いな。誠実で愛嬌のある風貌のうらににじませる卑怯。んー、すごい。あと、リーダーに恋人をとられそうな役の松井さん。すごい、この人。静かにゆっくり狂気を練り上げていく様は、鳥肌。青年団では特異な位置にいる人、いいなー、主宰にかわいがられてそう。今回は志賀さんや山内さんといったベテランも出てて、もちろん彼らも出色の出来。

・・・舞台がハネたあと、ぶぅに感想を聞く。「どかは、どこが面白いの、あれの」って。おっとぉ、びっくし。でも、話をさらに聞いていくと納得。ぶぅは終盤にかけての暗いよどんだ流れのテンションに巻き込まれて溺れちゃったらしい。

  ぶぅ お金わざわざ払ってさあ、なんでこんな暗い気持ちになる必要があるの?

  どか え、オレ別に、暗くなんかならへんよ。

  ぶぅ いやあ、オレは前に見に行った新感線とかのが、いいな。

  どか えええ、あんな予定調和で、シャンシャンシャン♪。な舞台のがいいの?
     そんなの、時代劇の金さんとか黄門様で充分やんか?

  ぶぅ うん、おれ、時代劇結構好きだもん。

って。これ聞いたらなつなつ、喜ぶだろうな、味方が一人増えた♪って。でもぶぅも青年団の戯曲のテーマはともかくとしても青年団の作劇法の有効度はかなり認めていた「巻き込み力はハンパないね」って。だからこそ、彼はあんなに反発したんだろうな。オリザの芝居は万能ではない。二極分化するのかもね、すごい支持する人と、嫌悪感さえ持つ人と。そしてそれはオリザの芸術家としての資質の限界を示すのではもちろんなく、むしろかれの芸術のコンセプトの確かさを証明する一つの事例に過ぎない。

と、思うのどかはー。とにかく。どかは、もう、すごいすごい、この舞台、評価するー。


2003年01月18日(土) 鴻上尚史「ピルグリム」

鴻上の才能はついに、枯れたのか?



1月16日の木曜日、新国立劇場中劇場にてソワレ観劇。前回に観た鴻上は、第三舞台封印公演の「ファントムペイン」。あれは面白かったな。でも、一方で鴻上の限界に触れてしまった感もあったどか。それ以前のkokami@networkの公演は、イマイチどころか、イマサンくらいどか的にはひどかった。

今回は1989年、第三舞台が全盛を極めた時期の脚本の再演。けれどももはや、鴻上を第三舞台の役者たちが守ってくれはしない。そのことが、こんなに痛みを感じさせるとは。

鴻上は役者を育てるのが上手いと思うの。野田やつかが役者を育てるのが決して上手くないことを思うと、それはひとつ、積極的に評価しなくちゃな点だと思う。でもね、野田やつかがプロデュース公演を得意としていたことと比べると、鴻上はプロデュース公演、めちゃくちゃヘタクソみたいだ。

第三舞台がかつて一世を風靡して時代の半歩先をばく進できた最大の理由は、劇団制をとって固定できた役者と、ほぼ「アテ書き」に徹した脚本との絶妙なマッチングなのだ。それを支えたのは信頼関係。鴻上と、大高さんや小須田さんはじめ役者との、幾多の時間を一緒に過ごす中で培った信頼関係があってこそ、第三舞台と鴻上脚本は輝くんだと、今回、すごく思った。

上手いヒトを何人か連れてきて、短時間でハイッ、と舞台を作るプロデュース公演では、いくらワークショップを繰り返しても、鴻上の強い脚本と無骨な演出をつなぐ「信頼関係」はなかなか作れない。野田やつかは、それぞれ異なる方法でこの「短時間」のハードルをクリア出来るのだけれど、鴻上にはどうも、無理なのだ。一人一人の役者が上手くても、それでは点であって、線にはならない。

じゃあその「線」未満の「点」はどうだったのでしょう。お金払ってんだから、何かしら楽しまなくちゃだし、と思って積極的に観たんだけど。

今回主役を張った猿之助一門の市川右近さん、めっちゃくちゃ上手かった、芝居。でもねー、それだけ。上手いだけだった。観客のなかのイメージを広げてくるような刺激に、欠けたな。小劇場系の役者に求められるのは、確立された演技論ではなく、ひりひりするくらい周りを巻き込むテンションであるのに。そぉ、どかが彼を観ていて思いだしたのは、新劇のプリンスの内野聖陽。もう、びっくりするくらい上手でたくさんの役を演じわけることもできるんだけど、感心はするけど感動はしない、みたいな。

それに比べると彼を脇で支えた山本耕史と富田靖子はすんごい良かった。富田靖子は「阿修羅城の瞳」以来かな、新感線と比べると、こっちのが全然イイ。年端もいかないそのへんのアイドルなんてケッとけちらすくらいの迫力と、けれどもコケティッシュなかわいさが同居してる振幅の大きさ。いいなー、かっきー。山本耕史も「ファントムペイン」のときは第三舞台の往年の役者に囲まれて辛かったけれど、ゲイの役を与えられてはじけられた。あの身体のキレはちょっと、他にいないよな、若手で。華もあって、舞台役者としてもうセンターを任せて不安なしなレベル。

・・・でも、その二人だけかな、いじょお!ってかんじ、はー。二人だけでは鴻上の強い台詞を支えきるのは大変なのだ。なんたって第三舞台はきら星のごとく魅力的な役者を揃えて、その全員で「群唱」してやっと支えたくらい強い言葉なんだから。

支え切れてないのはもちろん演出・鴻上だって充分わかって、だからあんなにケレン味たっぷりに、衣装も奇抜で、学芸会的なネタを詰め込んだ演出なんだと思う。でも、もちろん本質的な「脚本」と「役者」の断絶をそんな小手先で埋められるほど、舞台はやさしくないのね。上滑りしていく「言葉」。はー、痛いよ。

そんな「言葉」を集めた脚本、先の述べたようにかなり厳しい限定がかかってしまう脚本だけど、それを差し引いても、それだけ観ると、かなり面白いモノなんだと思う。

「オアシス」と「ユートピア」の対比は、なるほどと思う。理想と組織、仲間と敵、噂と崩壊についての考察も、相変わらずの鴻上節で説教臭くなく、ストレートに見てる人の想像力を喚起してくる(はずだったんだろうな)。ヒトは「ここ」ではないどこか別の「オアシス」を求めて歩き始めるけれど、それはいつの間にか「ユートピア」になっていて、けれども「ユートピア」は案外簡単に目の前に現れたりするのだけれど、決してそれはヒトを幸せにしない。「ここ」ではないどこか別のところは、案外自分のなかに既にあって、それに気づいた瞬間こそが「オアシス」なんだって(ということだと思うの多分)。オリジナルキャストならきっと、もっと重層的に立ち上がったであろう物語。惜しい。

安易にいまはやりの三谷幸喜やキャラメル、新感線みたいにウェルメイドに走らなかったのは、これだけ落ちぶれてもさすが鴻上、と思うけれど。でもこの演出じゃ、この脚本そのままじゃ、もうだめだよ。もしかしたら第三舞台が復活する10年後まで、この人、持たないかもって思う。この舞台は、確かに、鴻上の才能の欠如をあらわすものだった。でも、ここで言う「才能」は、そもそも彼が持っていたわけではなかったの。だから最初の問いの答えは半分イエスで半分ノーだ。

彼は、仲間と仲良く時間をかけていい作品を作っていく「手腕」は確かにあったのだ。決して時代が鴻上を見放したのではない(確かにそう見えるのだけれど)。鴻上が創作するためには、ただ、信頼関係があればいい。でも、確かに時代は変わってしまった。鴻上にその関係を築く余裕を与えるかどうか。それはかなり微妙なのさ・・・。

蛇足。実はこの公演、どかの一つ前の目の前の席に第三舞台の看板役者、小須田康人さんが座ったの。かっこよかったー。もう緊張したー。この人がそのまま、舞台に上がってくれたら良かったのにー。ちぇ。でもすっごいドキドキしたのー。



も一つ蛇足。新国立劇場、めちゃくちゃ豪奢な建築(オリザからクレームつきそうな?)。この内部の設計は、ぜったいあれだ、あれを下敷きにしてる。パリの「オルセー美術館」そっくりだもん。この段々、あー、やだやだ。日本人ってば、わかりやすいのね。印象派好き、はー。


2003年01月17日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第2話

第2話「先生の秘密」

野島伸司がインタビューにこう答えていたので、ドキドキしながら見る。

  回を追うごとにショッキングな要素を登場させた前作に対して、
  今回は2話で重要な要素がそろう(ザ・テレビジョンより)

タイトルもタイトルだしな、郁己の病のことがついに雛にバレるのか?と思いつつ、藤村先生(京本政樹)に笑う。いやー、ええわー、この人。郁己にバーで語って聞かせるには「僕は仮面をかぶってるんですよ」って、またそう言い切っちゃうところがカワイイ。って、もうその時点で素顔ちゃうんかい、みたいな。ホスト悠次を演じる成宮寛貴に、タバコの火を手のひらで散らしてぶつけるあのシーンはしびれる、超カッキー!

野島フリークサイトでは、第1話の演出に批判が集中していたけれど、第2話ではいつもの演出家、吉田さんに代わって一安心。各キャラクターの感情の流れを大事にしたカット割りで、落ち着いて見ることができた。たとえば郁己と彼の恋人とのワンシーンで、

  あなたを…愛してるからよ
  
  愛?

  そうよ…愛してるわ
  それが…

  愛とは理解力だ
  僕の行動を理解できなかった、君のその発言は適当じゃない
  結婚相手としては適当だったということだろう
  それに対する執着さ
  いずれ消える(第2話「先生の秘密」)

この場面まで、郁己は努めて穏やかに相手を諭すように話していた。しかし「愛」というキラーワードを聞いて、彼の口から厳しい言葉がほとばしる。
「愛とは理解力だ」以降のテンションの高さは、結局、一番心の奥底に隠していた郁己の素の寂しさが、堰を切ってあふれ出してしまったのだ。その寂しさの秘密とは、自らの死の病。結局郁己は、その真実を彼女に告げないで別れることを貫くのだけれど、この上のシーンの一瞬だけは、郁己の「仮面」がはがれかけた刹那でもあったのね。ダブルイメージを持った台詞は、野島さんの得意とするところ、奥深くて楽しい。

でもなー、すんごい、ビックリした、今回のラストシーン。かんっぜんに裏、かかれたな。郁己の実験が、ついに明らかになる瞬間。でも、この実験は、許されない実験だろう、どう考えても。許されないし赦されない。かわいそうすぎるよー、ひなチンがあ(いつのまにか「ひなチン」呼ばわり)。でも、すごいインパクト。さすがさすが、野島伸司。

今回の高校教師って、前回の真田広之んときほど、異様な狂気が漂ってないよねーってバスの待ち時間に友人と話したりしてたんやけど、でも、それは野島フリークサイトでもそういう意見は数多くあって、どかもそうだよなーでもでもあやチンがいるから(いつのまにか「あやチン」呼ばわり)、いいんだもん。なんて思いつつでも本当は、あのTBS三部作のころの野島伸司的狂気が懐かしくて待ってたんだけど、ついに、来たって感じ。

このアクマの実験、どーすんだろ、こんな風呂敷広げちゃって、これから、脚本家は。役者だってそうだよ。上戸彩は、こんな難しい役になっちゃってこれから大丈夫なのか?藤木直人もそうじゃん、大変だよ、役者、こんな台本・・・。でも、だから、楽しみー、などか。


2003年01月16日(木) つか「熱海殺人事件 蛍が帰ってくる日」(ひよこクラブ)

キャスティング(ひよこクラブ;1/14 16時〜観劇)

木村伝兵衛部長刑事:赤塚篤紀
熊田留吉刑事   :武智健二
水野朋子婦人警官 :高野愛
容疑者大山金太郎 :平岡陽祐
半蔵       :酒井隆之

このチームを見たかった理由はただ一つ。伝兵衛が赤塚クンだということ!確か二年前くらいにやった「蛍が帰ってくる日」で、彼は伝兵衛に挑戦していて、圧倒的な評価を得てたんだよね。どかはそんとき、珍しく観に行けずに(つか芝居を逃すのはホントに無かったんだけどな)、後から一人、若手ですごいのが出てきたと聞いてめっちゃ悔しかったんを覚えてる。後に外されてしまうものの、一時期は御大つか先生より直々に「七代目木村伝兵衛」に任命されるなど、その加速度たるや他の北区のメンバーとは比較にならないほどだったの。ずーっと見たかった、赤塚伝兵衛、ついにかなう!

むせかえるような色気、JAE(前JAC)の武智さんを、朴訥な影をせおうコンプレックスの固まりである留吉役にすえるのが、つかのキャスティングのウルトラC(古い?)。こんな色男がこの台詞を言うのだ、受ける伝兵衛は大変だよー・・・

  留吉 部長、オレらみたいな貧しい人間は必死に生きてるんです。
     必死にはい上がろうとしてるんですよ。一度手を握ったら、
     死ぬまで離さないんです。一度抱き合ったら骨が折れるまで、
     「好きだ、好きだ」と百万回でも言い続けるんです。
     そうじゃないと不安なんです。

  部長 不安。

  留吉 不安なんです。一度差し延べたこの手を離したら、
     もう二度とつかむことができないんじゃないかと思うんです。
     オレらの貧しい人生で、ただオレらは幸せだなと思う一瞬が
     欲しいだけなんです(つか「熱海殺人事件 蛍が帰ってくる日」)

つか常連のJAEの役者さんのなかでも随一のフェロモン男が、こんなしみったれた熱い台詞を言うことにめまいなどか、でも前回の川端くんよりも真っ直ぐ、この決めぜりふが決まってたよ。うまいなー武智さん、ちょっとビックリ、二代目はクリスチャンの時よか数段うまくなってる。しっかり芝居も受けられるし、動きは機敏だし、これでイイ意味の余裕が出てくれば、もう最高。

大山役の平岡さんと半蔵役の酒井さんは、この劇団の新人。でもとくに酒井さんは今回の他のチームで伝兵衛役に抜擢されたつか期待の星。でーもーねー・・・。どか、嫌い、この人。確かに顔はカッコイイと思う。この劇団では珍しくスタイルも良くて立ち姿が凛々しい。まだ薄いけどゲスな表情もできることはできる。台詞術が素晴らしい、新人離れしたうまさでつか節をしっかり言える。でも、この人、ぜんっぜん他のヒトの芝居、受けないの。自分の段取りで自分の台詞言うだけ。しょせん新人か、と思わせられちゃう。しかもこの人、多分自分が上手くてカッコイイと思ってらっしゃる。自分は新人では一番のスターで、伝兵衛もやってるもん。って思ってらっしゃる。だから、こんなに鼻白む思いなんだわ。伝兵衛や留吉がどれだけ感情の波動をぶつけてきても、この人は知らん顔で自分の段取りをこなしてる。だめでしょ。

それに比べると、平岡さん、新人っぽくいかにもまだまだ。でもね、酒井さんと違って、何とか芝居を受けようとしてるのが伝わる。そりゃあ、スタイル良くないし、発声も出来てないし、顔もそこそこだし、台詞術も洗練されてない。でもね、少なくともこの人は真っ直ぐだった、うぬぼれずに。そこが、大山金太郎役とばっちし合って、これからが楽しみ。小川さんみたいな「すごい大山」目指して欲しいな。

水野役の高野さん。この人も新人で、やっぱりまだまだなところたくさん。でもね、渋谷亜希と違って、この人もまっすぐだった。台詞もちょっとリズム悪いし渋谷亜希と比べるとスタイルも・・・だし。でも、しっかり相手の目を見て、全身で誠実に伝兵衛と留吉の気持ちを受け止めてた。大したもんだと思う。段取りじゃなかった。そこには、精一杯の感情のガチンコ勝負が、あった。そう、水野役がこれだけ舞台に尽くしてくれていると、留吉と、伝兵衛の哀しさが初めて疾走を開始する・・・。赤塚伝兵衛、すごかった!

今回の赤塚クン、まず、いままで指摘されてた欠点「声を張り上げるとダミ声になって通りが悪くなる」のが、かなり改善されてた。そしてきちんとつか節を、身体化できていた。だから見てても、劇半ばの展開部の説明シーンでもいっさい、長いなとは感じない。身長は低いのに、この人、タキシード着て伝兵衛になると大きく見えるから不思議だ。本当に、ああ木村伝兵衛がここにいるんだなと素直に納得した。

そりゃあ、甘え台詞があるんだから、甘えたりもするし、泣いたりもする。でもね、山本伝兵衛みたいに、それをタレ流しにはしないんだ。赤塚伝兵衛は、自らの孤独を内に宿して、体を張って台詞をしゃべる。そこにはシナをつけたナルシストの面影は微塵も無い。あくまで寂しさと哀しさはグッと押し込めたうえでのバカ台詞。その伝兵衛の深みを感じさせられるのだから、もうさっきのナルシストとは比べモノにならないね。かっこいいもん。強い、強いけれど弱い、でも強くあろうとするこの振幅の大きさにヒトは、希望を見るのだ。

たとえば、半蔵が抱えるニッセイとミキハウスと群青ホタルに関わる絶望、たとえば、留吉の阪神大震災とそのあとの少年A猟奇殺人事件に関わる絶望、たとえば、水野がむかし部長の父親に抱かれていたという事実が消せない絶望、たとえば、大山金太郎が自分の愛する女からこう言われたときの絶望。

  アイ子 あんたと一緒になるくらいなら、
      半蔵さんの愛人の方が幸せっちゅうとるとよ
      (「蛍が帰ってくる日」より)。

この芝居に出てくる登場人物は例外なく、病んでおり、絶望にまみれて、闇を生きている。その闇とは現代社会の病巣の縮図である。そんな深い深い闇を、劇中伝兵衛は剛速球でぶつけられる。ひたすらカラ元気でバカを繰り返すが、伝兵衛は決して逃げずに、彼と彼女の闇の狂気に、体を張って立ち向かっていく。全ての芝居を、まっこうから受けて立つのだ。そのりりしさ。けれども、忘れてはならないのは、他人の闇の狂気を受けて立つ唯一の支えとは、伝兵衛自身の「闇」だ。伝兵衛は自らの絶望を狂気に変え、その狂気を密かに自らの内で加速させていくことでのみ、彼と彼女の闇を受け止めてきたのだ。

その伝兵衛の「闇」とは、もちろん、愛する水野を留吉にとられてしまうというあらがえない事実だ。劇の中盤の部長の台詞。

  部長 水野君、私も東京警視庁の木村伝兵衛です。
     ただで女を手放すわけにはまいりません。
     水野君、愛とは、安らぎのことではありません。
     恋とは、優しさのことではありません。
     男と女が明日を切り開こうとする強い意志のことです。
     男と女が共に天を頂かんとする熱い志のことです。
     そして幸せとは、その絶望と孤独の果てに見る一瞬の幻のことなのです
    (「蛍が帰ってくる日」より)。

この台詞で僅かに自らの闇をかいま見せる伝兵衛、けれども、また自らの心の奥底に押し込めてしまう。この台詞のあとから、少しずつ赤塚くんの目が、異常な輝きを放ち始める。そして、彼の狂気が疾走を始めるのは、昨日の日記で引いた水野の台詞を受けているシーン。そして、パピヨンのあと、水野が去ってしまった瞬間についに爆発する。核融合並の加速度で、伝兵衛の闇が客席を埋めていく!どかは「哲とそのロッカーたち」の芝居では泣けなかったが、この瞬間は、文句なしに泣けた。台詞も全部知ってる同じ芝居なのに、役者でここまで変わるのだ。

すごい、もう、赤塚伝兵衛の目、なんと形容すればイイのか、破裂しそうな風船とかそんなんじゃなく、チェレンコフ光だ、これが。あの、東海村の事故のとき、被爆して後に身体の細胞の全てを腐らせて死んだあの被害者が、中性子シャワーを浴びた瞬間に彼らの目の水晶体で発生した「死の光」。ボォッと青く澄んだ美しい光を、赤塚くんの目に見たどか。水野が去ってからフィナーレまでの10分間は、闇を解放した伝兵衛の独壇場。

  部長 私はいま、あの北イングランドの嵐が丘に立つ、孤独のヒースクリフです。
     君を思う私の激情が、狂気をつくり、その狂気が嵐が丘の風をつくるのです。
     しかし、不毛のその丘にもヒースの花咲き乱れ、
     ナイチンゲールたちが愛のささやきを交わす春はやってくるのです。
     春の来ない冬はないのであります・・・(「蛍が帰ってくる日」より)

ラストの台詞、この台詞だけで、伝兵衛は一気にこの芝居をハッピーエンドに持って行かなくてはならない。この力業の台詞にリアリティを持たせられたのは、ひとえに赤塚くんが、これまでの2時間10分のあいだ、他のヒトの闇に身体を持って立ち向かい、それぞれの絶望をしっかり受け止めたという事実があったからだ。どんなに悲惨な世の中であろうとも「愛するものを失う以上の悲しさや惨めさは無い」というつかの信念が、伝兵衛に宿り、自分が引き受けた絶望に、自らの狂気を合わせて一気にそれを昇華させてしまう。

闇と狂気のバトルロイヤルこそ、つか劇の真骨頂。赤塚伝兵衛は、そして勝利し、最後をハッピーエンドにすることができた。前から三列目の席でこの奇跡を目の当たりにできたどかは、幸せものさ。


2003年01月15日(水) つか「熱海殺人事件 蛍が帰ってくる日」(哲とそのロッカーたち)

キャスティング(哲とそのロッカーたち;1/14 13時〜観劇)

木村伝兵衛部長刑事:山本哲也
熊田留吉刑事   :川端博稔
水野朋子婦人警官 :渋谷亜希
容疑者大山金太郎 :小川岳男
半蔵       :岩崎雄一

どかがこのチームを選んだ理由は、この水野朋子役以外については、そこそこ信頼できる役者さんたちだということ。若手があんまし入ってなくて、かつテンションの高さも期待出来る。何より、大山金太郎が「モンテ」などで大活躍の小川岳男さんだっていうのが、一番大きい!

さて、本チーム座長の山本哲也さん。このひとは北区つかこうへい劇団ではもう、かなりベテランだと思う。「ロマンス」でも「新・飛龍伝」でも「長嶋茂雄殺人事件」でも、そのテンションの高い演技は他の若手と比べるとそりゃあもう、安心できる部類だと思う。ただいつも引っかかってたのは次の二つ:<滑舌がいつまでたっても悪いこと>と<超・ナルシストな表情>なのね。そして今回の「熱海」、この人は敢えて<ナル>の部分を全面に押し出して木村伝兵衛部長刑事に挑んできたの、びっくし、まじで?

寂しがりやで甘えん坊でわがままでコンプレックスの固まりな伝兵衛。っていうか「これ、誰かさんにとても似てるんちゃう?」と、胸がちくちく痛みつつ引き込まれていったどか。タキシード姿からして<ナルシシズム>満載だもん、もしかしたら自分の欠点かもしれないところを、逆手にとった舞台は前代未聞で新しい。

自分の惚れている女の弱みにつけ込むゲスな甘えかたとか、自分の惚れている女の足下を見てゲスにつるし上げるところとか、そんなのが全て<ナル>という一点においてリアリティがあったのがすごい。ああ、このゲス野郎はゲス野郎なりに彼女を愛しているんだなあということがちゃんと伝わってきた。でもね。木村伝兵衛って、そんな弱虫男でいいんやろか(問い1)?

留吉役の川端さん、ちょっと余裕を見せすぎかなあ。どかが2000年にシアターゼロで見た「ロンゲストスプリング」は彼の出世作、同じ役をやってたのん。さすがに動作にブレが無く、過不足無く決めるところを決めていくのは経験だねえと思う。ただ、伝兵衛から女を奪うという役柄なのに、その熱意が以前ほど深く響かないのは何故だろう(問い2)?

半蔵役の岩崎さん、この人は、いままでどかが見た彼の中で、ベストだった。すんげーカッキーの、ゲスッぷりが。冷めた視線で、けれどもぐっと見据えたときの迫力は、しびれる。自分が女だったら、彼に惚れるかなって。クライマックス前のシーン、伝兵衛が歌いだす瞬間、その歌を奪って自分のリサイタルにする場面、岩崎さんのまとわりつく色気が客席を染め上げていくのは壮観だった、あのいかがわしいフェロモンが出せてこそ、そのあと大山金太郎に刺されるという展開に、リアリティが生まれるの。

そして、その刺した大山金太郎の小川さん。いやーさすが。さすがだわ。この人なら、北区を卒業しても、どこでもやっていける。川端さんの余裕が、マイナスに働くのとは対照的に、小川さんの大舞台の経験は確実に彼の華を増す方向に働いてる。ときにはいじけて、ときにまじめに、ときに残酷になる弱者の「コンプレックス」を、あの声のトーンで言われると、もう舞台は一気につかの世界観に染まっていく。「サイコパス」、「モンテ」、そして今回の「蛍が帰ってくる日」と三つの「熱海」で大山金太郎をやってきた小川さん(どかは全部見てる)。伝兵衛の<ナル>な華が小さくまとまってしまったのを補って余りある「右の速球派」みたいな本格的な華を舞台に落としてくれたのは小川さん、良かったー。

さあ、そして問題の水野婦人警官役の渋谷亜希。この人の存在が、先の「問い1」「問い2」を解く鍵だと思う。山本哲也という役者は確かに滑舌は悪いが、自らの気持ちを伝えられないで自己満足で終わってしまうような、そのへんの新人役者みたいな拙い芸の人ではない。でも今回、ひたすら<ナル>なベクトルに即してしまったのは、自らの前に立つ水野役の女優が、全く相手の台詞を受けようとしなかったことだ、ただそこに立ってるだけ、そんなの銅像にだってできる。

確かに、スタイルはイイ。動きもキレがあるし、殺陣とかやらしたらきっと映える。顔も、どかは嫌いだけど、きっと美人と言われる顔。でもね。渋谷さんは、台詞はろくに言えないのは許せるとしても、全く相手の台詞を受けられてない。あれじゃあ、いくら山本さんでも、自分の気持ちをグルグル自分の中で回していくしか(つまり<ナル>に走るしか)無いわけだよ。ほんっとにこの人、どかのなかではイマイチ。内田有紀なきいま、北区の看板女優なんだけど、なんでつかがこの人を重宝するのか、どかには全くわかんない。先方の事務所となにかあるんじゃないのー?って2chで疑われても仕方ないよな。だって、渋谷さんは客席にいかに自分の身体がきれいなのか見せることだけ考えてる。そんなのはファッションショーでやってくださいって話じゃん。

「問い2」についてもいっしょ。上司である伝兵衛から奪いたいって思えるほど、いい女じゃなかったから留吉クンもあまり燃えなかったんじゃないかなって思っちゃう。でも、こんな女だったら、伝兵衛もそりゃあ孤独にさいなまれるわけだ。

 水野 ではあなたは、私を許してくれますか。

 部長 なに。

 水野 一度でも慈しみ、愛してくれましたか。あなたを思えば思うほど、
    この胸は張り裂けそうでした(中略)。
    あの人なら、生まれ変わろうとする私を静かに見つめていて
    くれると思うのです。

 部長 私なりの努力はしたんです。

 水野 雨の中で私もずっと立っていました。
    「いつか、いつか僕が幸せにしてあげるから」と、
    肩に手を置かれるのを待っていました。
    でも、私はお父様に抱かれ、必死にすがり、
    よがり声をだし、その背中に爪を立てておりました。

 部長 ・・・父のことは申し訳なく思っております。

 水野 ・・・!!(つか「熱海殺人事件 蛍が帰ってくる日」より)

「熱海」名物の最後の浜辺のシーンに入る直前、水野と部長の最後の邂逅の場面、この部長の台詞のあと、水野は部長を殴るのだが、山本さんと渋谷さんだと、どうにも、その「殴り」に説得力がない。今回の水野の台詞からは全て「ああ、私って美しいでしょ」っていうあざとさが香ってくるし、部長は部長で「私なりの」とか「父のことは」とかイイ台詞が全て流れちゃう。寂しさにうちひしがれて泣いてしまうのはイイと思うの。でもね、その目は虚空を漂うのではなく、ちゃんと相手の目を見てないと。なんか「殴られてる俺って、かわいそうじゃない?」なんてイメージが出てしまうのは、それはそれで、ひとつの芝居としてはアリだと思うけど、天下の金看板「熱海」ではそれはナシだよ。そんなナルシスト、普通にその辺に転がってるって、だってどかもそうだし(あ・・・)。

でもそんな木村ナル伝兵衛も一瞬だけ、異様な狂気がほとばしった瞬間があった。パピヨンの後、水野が本当に去ってしまった後、山本伝兵衛の目が、異様にぎらつく。ぎらつくというか、<ナル>が行き過ぎて壊れてしまいそうな感じ?なんか触れたらすぐ崩れそうな、そんなナイーブな狂気が、稲妻のように北とぴあを満たしたね。はち切れる寸前の風船がなにかしらのすさまじさを帯びるように、あの瞬間だけは、伝兵衛、美しかった。それは、でも、水野が去ってから。やっぱ、ジャマだったんじゃないのぉ、彼女がぁ、と思う。

特定の約一名にかなり厳しめなレビューだけれど、もう一言だけ言うと、パピヨンのシーン。花束で容疑者をめった打ちにするこれも名物シーンでの、彼女のアクションは最低だった、腰がすわってなくてふらふらしてるから、せっかくの名物シーンが薄くなったね。もうA級戦犯。

総合的に見て、このチーム、それでも楽しめたと思う。「熱海」なすごさはないけれど、<ナル>伝兵衛は充分楽しめたし、岩崎さんと小川さんの掛け合いに関しては、ほぼ、完璧だった。舞台芸術としてみたときはこのあとの赤塚チーム(ひよこクラブ)よりもイイ出来だった。でもね、どかは、もう一度どちらを見るかと言われたら、迷わず「ひよこクラブ」と言うだろう。そこはもう一瞬で決断出来る。なぜか、それは詳しくは次に書くが、端的に言うと、それはちゃあんと「熱海」だったからだ。


2003年01月14日(火) つか「熱海殺人事件 蛍が帰ってくる日」(序論)

 (注:今回は何と言ってもテーマがつか、気合い入りまくりやから、)
 (  読むの大変やと思いますきっと、すんません        )

つか戯曲の金看板「熱海殺人事件」がたったの千円で見られるっていうんだから、こんな嬉しいことはないやねっ・・・。って無邪気に喜べるほど、どかも子供ではないんよね。芝居は、当たりはずれが大きいもん。でも、やっぱり金看板、期待はしてしまうどか。



今回のスケジュールでは北区の若手役者が三つのチームに分かれて、それぞれ同じ戯曲に挑戦するみたい。そのうちどかは二つをチョイス、それが山本哲也ひきいる「哲とそのロッカーたち」と赤塚篤紀ひきいる「ひよこクラブ」。王子駅前の北とぴあにて13時より、二連チャンで観劇。でも合計、二千円、うわ、映画と同じ値段やん、安っ!

つかの代表作である「熱海殺人事件」はいくつもバージョンがある。そのあとに続く副題でそれを区別するのね。たとえば「・・・モンテカルロイリュージョン」とか「・・・売春捜査官」とか「・・・サイコパス」とか。で、それぞれ基本構造は似てるけれどモチーフはかなり異なってくる。たとえば木村伝兵衛部長刑事が、ある作品ではバイセクシュアルだったり、別の作品では女性だったり、そしてマザコン中年だったときもあった。今回の「蛍が帰ってくる日」も数ある「熱海」のなかの一つのバージョン。ある意味、もっともスタンダードであるとされる、ど真ん中ストレート「熱海」。実はこの「蛍が・・・」、もともと違う通り名で呼ばれていた。それは「ザ・ロンゲストスプリング」。どかは2000年の夏に新宿でそれを観たことがあった。時の伝兵衛は、鈴木祐二。今は退団したけど当時のリーダーだった人だ。

しかしわざわざ副題が改名されたことでもわかるように、随所にリファインがかけられているのがやっぱり、つか。ほんっとにホンを固定しない人なんだよなあ。3年前のそれと比べると、遊びやギミックがかなり減り、ヘビーなエピソードが増えて、よりプレッシャーがきつくなっているのは間違いない。そんな数あるエピソード自体は、つかフリークからすればさほど目新しいもんでもなく、カレーヒ素混入事件もニッセイもミキハウスも阪神大震災もS少年猟奇殺人も、全部つか芝居で既知のもの。でもでも、それぞれかなり磨きがかけられていて、より、効果的に戯曲に落とし込まれていることが、強く印象に残る。たとえば「二代目はクリスチャン」の時に初めてこれらのエピソードが登場したけれど、あのときは完全に戯曲が良くも悪くも崩壊していた。でも、今回は、驚くべきことに、ちゃんとか細いながらも一本の線、通したもんな、すげー、つか。

かといって、この芝居、決して社会派の舞台ではない。一見そう見えるだろうけれど、告発劇でもないの。ここがつか芝居のキモだ。どれだけ実名バンバン出してジャーナリスティックな視点のエピソードが出ようとも、それが論理的に整合性があるかどうか、どこからどこまでが取材に基づくのか、もっとぶっちゃけて言ってしまえば、例えこのエピソードの1から10まで全部ハッタリだったとしても、それが問題ではないんよ、つか芝居では。

 (・・・じゃあ何が問題なのか?)

つかは劇作家として、この今という時代に強い危機感を抱いている。これまでの感覚からはとうてい理解出来ないような事件、猟奇殺人や無差別殺人、親殺し、子殺し、テロルに原発事故などが頻発する世の中で、人としてリアリティを持って幸せを求めることがどんどん困難になっていく、こんな時代。それでもつかは安易に幻想に逃避するのでもなく、諦観に堕落するのでもなく、この時代のリアリティをどこに求めるべきか毅然と身体を張って書いた戯曲こそが「蛍が帰ってくる日」なのだ。

いきおい「モンテ」などと比べても、救いのない沈痛な台詞が続き、それぞれのキャラクターが抱える闇はどこまでも深い。逆に言うと、それだけえげつない救いのない絶望を対比させることではじめて、人としての現代のリアリティを結晶させられる僅かな可能性が出てくるって・・・、そう、つかは考えてると思うの。だからあの「臓器密輸」のエピソードは「目的」ではないけれど「必然」には違いないんさっ。

つかに慣れてない人は「告発劇」で感性がせき止められて、それでその先の光に到達できない場合は、少なくないと、どかはこれまで知人といっしょに「つか」を観てきて思う。敢えて言っちゃうと、それはやっぱりつかの限界でもあるな。つかが間口の広い芝居ではないという一つのポイントはここにある。キャラメルや新感線、野田のそれとは明らかにテンションの違う開演前の客席、息苦しい狂気に満ちているのね。

それはともかくも、それだけ重い絶望から客席に対して「巻き込み力」を発動させなくちゃなこの芝居の役者たちには、ハンパ無いプレッシャーがかかってくるんね。僅かにあったギミックさえ外されて、暗転なしの2時間10分、五人の役者は逃げ場のない閉じられたサーキットで、生死をかけてアクセル・フルスロットルを余儀なくされる。このサーキットにおいてはスリップ転倒やハイサイドクラッシュは日常茶飯事、力の無い役者は目もあてられない惨状を呈してしまう(実際によくあるから困っちゃう)。でも、時々、最後までフルスロットルから栄光のゴールまでとぎれない精神と身体を持つ役者がいて、つか芝居のそんな人の台詞を浴びることは、何よりも幸せな快感を感じるんだな、どかわ。

これまで、古くは風間杜夫、柄本明、そして池田成志、筧利夫、山本亨、山崎銀之丞、阿部寛などそうそうたる濃いい面々がレコードタイムを記録してきたこの名うての高速サーキットに挑んだ、今回の2チームの木村伝兵衛、山本哲也と赤塚篤紀。彼らの衝撃から、次の話を進めたい。


2003年01月13日(月) Ecclesiastes 3:1 - 8

昨日の疲れがズゥンと腰にぶら下がってる。イイ意味でいろいろへこんだ日だったのもあるんやろか。

掃除して、洗濯して、本と資料読んで、食料買い出しに行って、チャリこいで、踊って、チャリこいで、ご飯作って、ルーティンをたんたんとこなして「充実」を待つ。

全てのことには時がある。「コレへトの手紙」だっけ、昨日チャペルで聞いたヤツ?つくづく、良くできた本だと思う、聖書って。


2003年01月12日(日) 結婚式@ICU礼拝堂

めいろうクンとゆかチャンのWEDDING!

昼過ぎ、久々に入ったチャペルはひんやりして気持ちいい。頭上高くそびえるパイプオルガンの音色、賛美歌、聖書、揺らめくキャンドル、厳かな誓約。ポール・ジョンソン牧師の英語による祈祷が明快に響く。かつて、およそこの地球上にあって「美」とは、神の専有物であった時代があった。全ての要素とルールが、たった一つのベクトルに沿ったときに現出する説得力の、何と強いことだろうか。ICUを卒業したのであれば、一度はここで挙式したいなと、結婚も出来ないぷーのくせにしんみり、みりりなどか。




このガッコはプロテスタント。そやさかい、チャペルの内装もシンプルかつ簡素。でも、だからこそ、そのむかし、哲学者・森有正も弾いてたこのパイプオルガンの音色は冴える・・・。無料でこれを聞けるのは実はラッキーなんちゃうかな。それ考えると日曜日の礼拝とか顔出すんはアリなんかなあ、なんて。ポール牧師の軽妙なウィットも冴えて、明るいけど重たくない、厳かやけどうっとうしくない、そんなすてきな雰囲気に。すばらしい、ほんまに。

で。何とはなくライスシャワーな展開。この辺から、懐かしい顔ぶれとの会話が始まる。なんつったって、新郎と同期で第一男子寮にいたどか。さらに新婦は元民舞でかつ第二女子寮。もう、見渡せば200人近い顔見知りがぎっしり。さっきのチャペルでの「儀式」の魔力に半分やられてたどかはもう、めまいが「タイムスリップ?」。わけわからん・・・

その後「学食横」のホールでティーパーティ。立食形式でわいわいがやがや。どかは実はここで友人代表のスピーチをするかもだったんやけど、
  
  しゃべるんはかんにんやー、代わりに踊るからー

とぉ、いうわけでぇ・・・どら、さえゴン、ななチンにヘルプを頼んでどか、舞うはこびとなる。珍しく、緊張する。やっぱりなあ。普段どんな公演でもさして緊張せえへんのは、ちゃんと稽古してるっていうのもあるけど、基本的に「自分のため」だけに踊るから。「ひとのため」に踊るっていうのは、あんましやれへんようにしてるから、いざとなると、緊張するぅ。しかも、昨日のリハで、扇、ポロッポロ落としてたしぃ。あー、どないしよぉ。アナウンスが入り、入場!第一(男子寮)の連中が呆気にとられたり、喝采してくれたり、ヤジが飛んできたり(やっぱりね)。

・・・果たして。

何とか落とさへんかったあ、良かったー。一回、扇が手につかんくて、ヤバかった!思わず苦笑いが出てしまって、情けない(あそこで笑わんかったらバレへんかったのにい、とこの後、数人から言われる)。でもめいろうもゆかチャンも、喜んでくれたし、そのために衣装を付けたんだから、いいのー、これでー。

そして二次会、吉祥寺でバカ騒ぎ。ほんっとににぎやかやったなあ、ほぼ全員顔見知り。会いたかった先輩(あび氏、ながと氏、TJ、ムッチー、てっチャン、なかた氏等など)に会えたし、懐かしい同期(さだ氏、かずまん、きょうすけ)や後輩(いとちん、ちす、おかそう、はやし、かねこ等など)にも会えたし、夕方の緊張で疲労困憊やったけど良かったあ。とくにながと氏が、どかに優しかったのがビックリ。嬉しかったなあ。お子さん、おめでとうございますっ。

さらに三次会。かないサンとたくろうと三人で喫茶店で。尊敬する二人の話を聞きながら、落ち込みつつ励まされて、たくさん笑って刺激受けて、自分のベクトルを微調整。この二人には、心底、かなわないかもって思う。どかの弱点を過不足無く見抜く洞察。それをズバッと言ってくれるのは、優しさだあねえ、本当に。こんど、また、学部のころのよおに、めいろうを入れて、四人で鍋したいなあと心底思う。そして、いつか来るそのときのために、どかはもう一段、いいオトコになっていなくちゃだわ。


2003年01月11日(土) 民舞新年会と、木枯らし紋次郎

早起きして朝の9時20分、誰もいないジムに着く。ストレッチして待つこと10分。師匠、登場。「課題演目」を最初から通していく。まだ、段取りを追うことでやっぱしいっぱいいっぱい。そんなのは神楽じゃない、ただの運動。できるだけ柔軟に精神と身体をスポンジにして、神楽拍子を染み込ませて。

そのあと八幡やら、三番叟を、かっちり踊る。少しずつ、身体が戻ってきたぞぉ。不安は左膝。違和感がくすぶり続けてる。やばいなあ。ギリギリの綱渡り。落っこちないようにしないとね。

ところで最近、舞がいいなあってつとに思うのは、ともチンとどら。やっぱりいっしょに踊ってる人が階段を上っていくのを見るのは、気持ちいいもんやなあ。

そんなこんなで、お昼。いったん、家に戻って時計の電池交換に吉祥寺へ。しかし「メンバーズカード」が無いとダメですと、言われる。めんどくさいぞ、ブライトリング!仕方なく後日に後回し。腕時計の無い生活って、なにげに不安。気持ち悪いな。

で、夜、ななチン家にて民舞新年会。ななチンファミリー総出で、民舞の連中をもてなしてくれて、恐縮。料理、すっごい美味しかったあ。しかし・・・。先方の親御さんに「木枯らし紋次郎の中村敦夫に似てるよね」と言われたどか。びっみょー!どか的には昔の「市川雷蔵」って言われたいんやけどなー。

  あっしにはかかわりのねえことでござんす・・・

といいつつ、ついつい悪がはびこるのを見過ごせず「かかわって」しまうお決まりのパターン。

  どーこかでーだれかーがーまってーいるー♪

という歌がついて、次の土地へとさすらう股旅三度笠。火がついたような爆笑がまやまや嬢を先陣にドッと・・・。どかのイメージっていったい。むー、こうなったら。「DOKA'S DIARY」やめにして「紋次郎旅日記」にしよかな、タイトルぅ(誰も止めなさそうなんが、辛いな)。


2003年01月10日(金) 野島伸司「高校教師('03)」第1話

第1話「禁断の愛、再び」

やあっと、待ちに待った第1話!

導入部の、雛(上戸彩)がグラウンドで倒れるシーンのVFXがあまりにチャチくてあせった「おいおい・・・」。ところがこれは、すぐに仮病だったと判明するので、もしかしたら「嘘くさい狂言の演技」を「嘘くさいCG」でメタ的に表すことを狙ったんかいねえ(・・・そんなはずない)。そもそもどかの期待値はハンパなく高いので、へんなところで緊張してしまう。

やっぱり連ドラの第1話は顔見せ的プロットにならざるを得ないのは仕方ないんやけど。学年主任の藤村先生(京本政樹)、やはり楽しい。彼が話すだけで笑ってしまうどか。

  君を見ていると、10年前のある男を思い出すよ・・・
  (第1話「禁断の愛、再び)

って、あざとく前作とのリンクをつけようとする台詞も、藤村先生が言うのなら仕方ないなって感じ。こんなん、他の役者が言ってたらそっこう冷めるけどなあ。

上戸彩、まずまずの出だし。演技、上滑りしてへんよっ。ソニンの演技は(自粛)。蒼井優、この娘にそんな小悪魔キャラを押しつけても・・・と思った。でも、いきなし水着で郁己(藤木直人)にキス!「おいおい、のじまぁ!(なぜか悪態)」。そして体育教師の村松先生があの、NILON100℃の大倉孝二さん。大倉さんといえば、アクマ(INピンポン)でありカビ人間(INダブリンの鐘つきカビ人間)であり春ひまわりさん(IN人間風車)。やっぱり、舞台俳優がフレームに入ると、ピッと締まる感じ、いいっす。

前作では女生徒の繭(桜井幸子)が抱える重たい秘密に相対する羽村(真田広之)、という構図だったのが、今回は逆に。重たい秘密は郁己が抱えて、それに雛がどう関わっていくのかってのがきっと、ポイント。そしてその「秘密」は第1話ですでに、大きく暗示されたの。その「秘密」を抱えたまま途方に暮れる本心と、鉄面皮の教師づら。振幅の大きな演技を、小手先ではなく真っ向から取り組んでるのが、伝わる、イイ感じ。さすが野島ドラマで主役を張るひとやなあ、見直したー。

第1話のラスト、やっぱり美しい。夜の雨の公園、ドカンの中、違う筒に入って会話をかわす郁己と雛は、あまりにはかなく、デリケートでさわったら壊してしまいそうな関係。お互いが接点を求めつつ、それでも二人は別の世界にいるということをビジュアルで鮮やかに映しとる。しかも、ロマンティックに。やー、やられた・・・。前作では「先生と教師」という対比をフルに活用して導入部を盛り上げたけれど、今作は、その禁断のインパクトに頼ってない、それがきっと、いいこと。

 雛  また元の平凡な女の子に戻る、それはいいの
    自分がひとつだけ、秘密を持てれば
    だけど、そのたったひとつの思い出を…
 
 郁己 相手が憶えてないのは…寂しい?
 
 雛  よかった、憶えてくれてたなら (第1話「禁断の愛、再び」)


2003年01月09日(木) 野島伸司「高校教師('93)」2

  真田広之の「高校教師」って知ってる?

っていまの民舞の現役の子に聞いたら「聞いたことはあるけれど見たことはないですね」って。そやろなあ。もう10年も前の話やもん、こんなドラマ、小学生がまじまじ見てたらちょっと引くな、さすがのどかも。そこいくと、OBOGに聞くと、さすがに「見てた見てた」ってゆう人がけっこういて、安心などか(というかジェネレーションギャップで何を安心するのだ私)。で、よくそのあと話題にのぼるんが「ラストシーンについて」。

あの「ラストシーン」は確かに印象的だった。小指を赤い糸で繋いだ二人が、座席でぐったり。「死んでんの?生きてんの?どないなったん彼らはあ?」という疑問があとを引く、悪くいえば釈然としない、良くいえば余韻を残した演出だった。野島伸司自身はインタビューであのシーンの解釈について「見た人がそれぞれ決めればいい」と言ってた。でもこの脚本家のことばは、きっと「続編」を作りたがってたTBSへの配慮をみせたものだとどかは思ってる。

  だって、どう見ても、あれは死んでたやん二人とも。

「ラストシーン」の最後のカットは、二人の席横の車窓の風景。でも窓は結露であんまし見通しがきかない。その結露の窓に「何か」が指で書いてあって、でも窓の向こうも明るくて、乱反射のためにその「何か」が光ってわからない。何やろか?って視聴者が思った瞬間、列車はトンネルの中に入り、その窓に書いてあった「絵」が浮かび上がる。それはかつて、二人がお互いに交わした記号。幸せの象徴である、つがいの猫の絵。このわずか数秒の演出に、その昔どかはしびれた。凄すぎる。

トンネルという<暗闇=死>の世界に入ることで初めて、二人の愛は完全な形で成就することができたの・・・なんて解釈は、字面にするとあまりにも直裁的でくだらない。視聴者はただ、あのフッと浮かび上がった二匹の猫に涙をするだけでいい。そのとき、それだけをしていれば、自分の心のなかになにかが引っかかって残ってくもん。

・・・

たとえば生徒と先生という壁、たとえば年齢差という壁、たとえば家柄・ステータスという壁、たとえば近親相姦という忌みへの壁。真田広之はそういったいちいちに傷つき、おののき、逡巡しながらも、桜井幸子とともに一つ一つ乗り越えていく。「愛」という曖昧な概念は、壁・障害があって初めて成立するかのように、だんだん浮き彫りにされていくテーマ。そして真田・桜井の二人の「愛」への彷徨に対するカウンターパートとして、京本政樹演じる英語教師の存在がある。

京本の女性への歪んだ執着は、当初、レイプなどの事件に即して、忌まわしい感情として視聴者の前に現れるが、だんだん、その「歪みかたの純粋さ」という奇妙な説得力が展開される。野島伸司が脚本家としてもっとも非凡な才能を見せるくだり。赤井英和演じる体育教師にボコボコに殴られる京本の台詞の一部・・・

  僕は何も悪いことはしてないのに…
  悪いのは、僕を愛さない女たちじゃないか
  愛されることばかり求める女たちじゃないか!
  僕はただ、誰かに愛されたかっただけなんだ…(第9話「禁断の愛を越えて」)

そして、最終話、この禁断の愛の物語に幕を下ろす、有名な真田のモノローグ。

  僕は今、本当の自分がなんなのか分かったような気がする
  いや、僕だけじゃなく人は皆
  恐怖も、怒りも悲しみもない
  まして名誉や、地位や、すべての有形無形の物への執着もない
  ただそこにたった一人からの、永遠に愛し、
  愛されることの息吹を感じていたい

  そう…ただそれだけの
  無邪気な子供に過ぎなかったんだと…(最終話「永遠の眠りの中で」)

この類似!京本は決してただの変態の悪役ではないんよ。むしろ「愛」という曖昧模糊としたイメージへの肉迫を試みた勇者の一人としても、とらえることが可能だったんさ。もう一方の勇者である真田と桜井は、21世紀を見ることなく玉砕した。そして・・・赤井英和にボコられながらも、京本は生きながらえ、そして「高校教師('03)」に再び降臨する。

これが、あしたから始まる、すでに傑作であることが宿命づけられているドラマで、どかが京本政樹に注目する理由。


2003年01月08日(水) 見送りと、芸能研舞初め

朝から早起き、うー二時間も寝てへん。ふー。と、うじうじ言いながら、三鷹発の成田エキスプレスに乗って一路空港へ。




ねこばすクンが中国に三ヶ月ばかし旅行に行くので、見送りに来る。いーなー、旅行。あー、アラスカが懐かしー。と、思いつつコーヒーを飲んで、見送る。BGMはハイロウズの「見送り」。気をつけて行ってきてください。

帰りはエキスプレスに乗らず、のんびりのんびり揺られて。席で爆睡。なんだか、会社員時代の朝の総武線を思い出した。うー。もぉヤッ。

その後、芸能研の舞初めにむかう。いきなし身体を酷使はすまい。とココロに決めていたのにもかかわらず、三番叟と鳥舞を一回ずつ、八幡を二回、フルで通したあとに「課題演目」。んー、ひだりひざ、持つのだろうか?ときどきミシミシ言うんだよなあ。やばし。

「課題演目」、きょうは後半のクズシを通す。フリは大体入っている。我ながら、あんなに長くてこみ入った手を良く覚えてるなあと、いまさらながら、びっくし。まだ全然あかんけど、でももしかして「全然」っつぅほどでもないんかも。とりあえずひざの疲れをとろう。

チャンネルをTBSにあわせると頻繁に流れてるのは「高校教師」の宣伝。最近知った新事実、蒼井優も出演するらしい。おぉ、蒼井優、リハウスガール。どこまでどかのツボ(?)を突いたら気が済むのだ、TBS!


2003年01月07日(火) 野島伸司「高校教師('93)」1

この冬、一番の注目ドラマは間違いなく、TBS金曜10時の「高校教師」。野島伸司の伝説のホンが新作でよみがえるだけでも振り切れるくらいレッドゾーンなどか。それにかててくわえて、主演・上戸彩。だめだ、もう・・・(バタン)。

それに先駆けて、TBSが去年の暮れ、夕方の時間帯を使ってちょうど10年前のあるドラマを再放送してた。平均視聴率21.9%、最高視聴率33.O%(ビデオリサーチ関東:ドラマ不況のいまはとても有り得ない高いポイント)を記録した、桜井幸子・真田広之主演「高校教師」。それまでに「101回目のプロポーズ」や「愛という名のもとに」など、CX(フジ)系列でヒットを飛ばしてはいたけれど、まだ「ブーム」と言われるような社会現象にはなっていなかった1993年初頭。電撃的にCXからTBSへと移って世に送った「高校教師」をきっかけに、「人間失格」「未成年」という、世に名高い「TBS三部作」を放ち、「野島ブーム」という社会現象を巻き起こす。この再放送されたドラマは、そんなムーブメントの先鞭だったのね。

どかの中でも「高校教師('93)」はまぎれもなく傑作な位置づけ、前に日記にも書いた「ランキング」でも<東関脇>なのさ。「S.O.S.」や「美しい人」には劣るものの「ひとつ屋根のした」や「リップスティック」よりは上位。「本当に良いモノは、回数に耐えうる」というイイ見本で、若干ディテールに古さが見えたりするものの、21世紀にも通用するインパクト。うーん、好き。ことしの「高校教師('03)」を観るまえに、復習しとこ。と思って、ぼぉっと観ることにした。

リチャード・ドーキンスという生物学者の「利己的な遺伝子」が基底音として全編に響いていく。その説に基づいて真田演じる生物教師・羽村は<愛>というあいまいな概念を、どんどん破壊していく。

  コウテイペンギンは、仲間を生け贄にすることで、
  アザラシに対する安全を確保する。

  カマキリの雌は交尾をする前に、すきあらばと、
  雄の頭をかみ切って、それを食べてしまう。

そんなエピソードから、羽村は<母性愛>さえも、美しい無条件の気持ちではなく、利己的な幻想に如かないという結論を導く・・・

・・・衝撃っす。

疲れる日常、会社や学校が終わって、さあ一時の現実逃避、甘く酸っぱい恋物語を観ましょうよ、ってテレビのチャンネルを合わせた世の多くの視聴者に対して、炸裂するライトカウンター。「現実の生活がもう、すでに充分大変なのに、なんでドラマでまで辛い重い気持ちにならなあかんの?」ってどかの知り合いがゆってた気がする。

・・・でもリアリティって重いものやん、もともと。

つかこうへいが暑苦しくて重たいのとおんなじ意味で、野島伸司は冷たくて重たい。でも野島伸司も、つかと同じく、めちゃくちゃロマンティストだと思う。はんぱな軽いロマンチストじゃあなくて、本気で純粋なロマンティスト。だから「はんぱ」とか「軽い」それをとうてい認められなくて、許せなくて、だからそんな軽薄な輩に対するカウンターパンチをドラマ前半からバンバン決めていくのだ。しかし、そのパンチは自分の身体もどんどん傷つけていく諸刃の刃で。どんどん自身で削っていく、自身の理想(ロマン)がドラマの最終回までに果たして少しでも残っているのか。いくらかでも残っていればそれこそが理想(ロマン)だけど、もしかしたら何も残らないんじゃないだろうかという不安、この脚本家の「不安」こそ、TBS三部作のころの野島ドラマに漂うリアリティの正体だと思う。

最近の野島さんてこの「不安」が薄れちゃうことが、中途半端な印象に繋がってると思うどか。「ゴールデンボウル」とか「フードファイト」とかそうやんな。でも実際に、この、

 <全てを否定しきった果てに、濾過され残ったモノを求める作戦>

で実際になにも残んなかったドラマがあってそれでおよび腰なのかな(これは「世紀末の歌」、かなり面白いドラマやったけど、本末転倒!)?

ドラマ終盤に向けて、どんどん濾過をかけていく真田広之と桜井幸子。脇役も全てがハマっていて、鉄壁の世界観を構築している。この濾過の構造が見えたら、きっと、どんなにえげつなく暗い野島ドラマにでも入っていけると思うんだけどな、みんな。


2003年01月06日(月) 民舞舞初め、イイ流れ

岩手に比べたら、ぜっっったいに暖かいはずやのになあ。と、ICUの滑走路でステディ号をこぎながら思う。しかし、東京も寒い。んん、寒いよぉ。

で、R-GYMに到着。怪我せんよぉに焦らんと、身体を一ヶ月後にむけて上手にもっていかなくては。でもいつも年始に初めて足拍子踏むときに思うんは、達人の踊りを見て興奮したところで、パッと自分が上手になるわけではないことな。

なまじ、良いイメージが頭にビビッドにあるだけに、なおさらこの現実の食い違いが痛いのねえ。とにかくでもあと、一ヶ月。

そうそうそ、今朝、附高時代の友人のすぅクンから連絡入ってびっくし。聞けば、正月に大阪で急遽同窓会があって、そこでたくチャンからどかの消息を聞いてくれたらしい。しかも、いま彼が就いてる仕事と言ったら!

んー、明らかにいま、イイ感じの流れが自分の周りにあるなあと思う。甘えないように、逃さないように、しっかり泳ぎましょう。


2003年01月05日(日) ぐでー

昨日は、Uターンラッシュのピークで、新幹線座れるやろか?

とかなり不安になりつつ、一旦花巻から盛岡までバックしてから早めに自由席乗車の列に並ぶ作戦。・・・成功!ゆっくり座れて、助かったー。途中からどんどん乗客が増えて、最終的には通路をほぼ埋め尽くすように立つ人々。はー、良かったあ。

で、一夜明けて、きょう、ぐでー。でも気持ちはリフレッシゥ。

なんだかんだで疲れてんのかな?岩手で撮りためた画像の処理が大変、でも、なんとか、見れるのが混じってて、ホ。おかげで昨日までの「舞初め日誌」シリーズはかなりゴージャスなものに。あんだけ画像載っけると、ダイヤルアップで見てくれる人は大変かも。ごめんなさい・・・








最後におまけ・・・










・・・雪の中の、不動明王。


2003年01月04日(土) 舞初めエピローグ(初詣・イギリス海岸・大沢温泉)

これは昨日の朝、すっかり晴れて、気分良く参集殿に舞初めのいい席確保に向かうときの、ショット二枚。





左は雪がうっすら積もった参道。木立が天高く伸びてるのが美しい。右が早池峰神社の本殿、左右の狛犬が寒そう・・・。最低気温は-12℃だったらしい。

さて、明けてきょうは下山して帰京するけど、その前にいつもいつも寄っている気持ちいい湯治場・大沢温泉に向かうことに。でも花巻駅についてまだ時間がかなり早いと言う話になり、急遽、宮沢賢治ゆかりのイギリス海岸を見に行こう!という運び。北上川の川辺に向かう・・・

ところが、賢治が一人物思いにふけったり、学生を連れて化石を探したりした「イギリス海岸」と呼ばれる有名な川辺は、既に北上川の川底に沈んでいるらしい・・・。水量の増加と、川の蛇行が原因って。はあ。ま、そもそも、冬のこんな寒空に訪ねたところで、雪の下に埋まって見えるモノも見えないんだけどね。んで、なぜか、こんなロマンチックな場所なのに、川の土手の下と上に別れて雪合戦を始めるヤツら。




土手の下にサルタ氏とコウちゃんにどか(左)、上にサエゴンとナナチン(右)、でも男性陣、情けなくも圧倒的に旗色悪し・・・。三人はかなり被弾してしまいずぶぬれに。




そんな俗世間の争いに厭世観を漂わせて、平和主義者が一人、かつての賢治のようにかつてのイギリス海岸を想像する(ようなフリ)の図がコレ。でも、まぶしい青空の下、見渡す限り真っ白な雪景色の中を、粛々と雄大に流れる北上川はダントツで美しかったのん。

さて、その後、バスを乗り継いで、名湯・大沢温泉に向かう。ちょい前にNHKの特集でも取り上げられた由緒正しい温泉。そしてここの名物は谷間の川沿いにひっそりひっそり露天風呂(混浴)。岩手に来るたんびにほとんど毎回ここに寄ってる気がするどか。だって、最高に気持ちいいんやもん、行かなもったいないし、他探して外れたらいややし。



おっと、セクスィショット。雪合戦で冷え切った身体を温めちゅうな戦士二人の後頭部。これ以外はとてもWEBには載っけられないっす・・・。このあと、小雨が降り始めて、それが雪に変わって・・・最高!あたま寒くて、からだぽかぽか。川のせせらぎが聞こえて、時々、川向こうの山の斜面で雪が崩れる音が・・・。これ以上のリラックスが、果たして存在するんやろか。しかし(何が?)、女性客はゼロ。

この後、五人で温泉卓球に興じる。どか、勝ち抜き戦全勝!はっはっはっ。ちょっと窪塚くんな気分などか(でもセコい打ち方だったという証言も)。



さて、これで舞初めエピローグはおしまい。あ、最後に。

どかの「初詣」は、一月三日の時ではなくその前日。どかは深夜-10℃を下回る参道をサルタ氏と二人でポチポチ歩いて本殿まで行ったの。その日の昼にタカシさんの舞に感じたような「漆黒の闇」に沈んで、お賽銭を入れて、かしわ手を打って、去年の報告をまずして、そんで今年の約束をしたんね。

ふと上を見上げると、降るような星空。専門のサルタ氏にいろいろ解説してもらって「天の川」を見て、嬉しくて。全ての音は山肌に凍り付いて遠くなり、木立の向こうに大きな大きなオリオン座が普段の五倍以上の供を連れて輝き、空気はどこまでも澄んで冷たく。そのとき、

  あ・・・わかった。

具体的に何がわかったのか、はっきり言葉にはでけへんけれど、でも。すごいめちゃくちゃ、何かがわかったんだ、そのとき。・・・本当に、何かが、わかったんだ。


2003年01月01日(水) あけましておめでとう

ついに2003年だあ。

きょうの夜、早速バスにのって岩手に向かう。
会社辞めたことだし「舞初め」行ってる場合じゃないだろう。
って思わないことも無かったんだけど、
でも今回だけは絶対行かなくちゃなのだ。

去年の1月2日に早池峰神社に初詣に行って、
そこでどかは約束したの。
そんで、その約束「ちゃんと果たしたました」って、
あの参道を上って報告しなくちゃなのだ。
今年だけは、行かなくちゃ。
それがどかの2003年の最初の責任。

というわけで、そろそろ家を出ます。

みなさん、ことしもよろしくお願いします。


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