un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2002年11月30日(土) 現実なんだね

昨日は夜遅く、会社の親しい同期や先輩、かまぽんやまるてぃん、
きたくん、ぶうちゃんや、かんかんが集まってくれて送別会。
例によって、いつも通り「ばかばなし」で盛り上がって楽しい。
でも、集まってくれて、みんなさりげに気を遣ってくれていて、
嬉しかった、すごく。

一夜明けてほわーっ。
と、思ってたら練習にちこくちこく、焦ってチャリこぐ。
昨夜は一滴もお酒を入れなかったから体調はそんなに悪くない。
なんか、視界がパステルに染まって浮世離れしてる感じ、変なの。

練習は最後、ちょろっと参加「課題演目」を少しだけ一人でちょこっと。

ご飯食べて、猿田氏が後輩のニューカマーくんといっしょに、
剣舞の練習するって言って泰山荘について行く。
紅葉に染まる奥まった林の奥、囲まれた芝生の中で青空のした、
フリスビーをやってるとだんだんパステルが解けてきた。
現実なんだねー、これがーって。


↑@泰山荘、剣舞の練習

来月いっぱい、自分にのんびりすることを許してあげることにする。
もちろん遊ぶわけではないけれど、でも、一度、弦を弛めてあげて、
それからチューニングしよう、年明けに。


2002年11月29日(金) JUST LIKE…

John Lennonの名曲を聴きながら出社。

本日付けをもって、どか、退職する。

おめでとう、私。


2002年11月28日(木) THE HIGH-LOWS "ANGEL BEETLE"

ハイロウズ7つ目のアルバム「ANGEL BEETLE」傑作っす。


↑これっす・・・

これまでの6つのアルバムの中でも一番スローなイメージ、
ハイロウズファンの間でも「駄作」だと言い切る人がいるのは、
初めてとちゃうかなあ、でもね、好き、
どかは前作「TIKI-POTO」こそ、結構危なかった気がするな。
そりゃあ前作には「14才」や「迷路」「フルコート」など、
圧倒的な名曲が含まれていたけれどアルバムとして見たら今作はとても良いの。
以下、シングルカットされてない曲で特にすごいのを抽出して。

2 ななの少し上に
目立たないかも知れないけれど大好き、大好き、大好きなヒロトの曲!
抽象的で感覚的なイメージの言葉の連なりはまるで現代詩、
でもそこには難解な足かせ的思索はなく、あくまで爽快なロックンロール。
ライブでマーシーとヒロトが近寄って「ワンツースリーフォー」って
息を合わせて歌い出すのが、ほんっとにかわいい、かっこいい。

4 アメリカ魂
音楽雑誌などではライターがまず取り上げる一曲、マーシー作。
スプリングスティーンのパロディでかつ、アメリカの帝国主義を皮肉ってる。
でもライブでは、政治的なアジテーションとしてこの曲は決して鳴らなくて、
ただアメリカを肴に、バカ盛り上がりして・・・って感じ。
その詞とライブの二律背反こそにリアリティがある気がする、ってのは深読み?
でも演奏は抜群にカッコイイし、名曲。

5 毛虫
ヒロト作、これ、ぜったい惣一郎が気に入るだろうなと思った。
うぉうぉうぉう♪のコーラスがめちゃくちゃかわいいっ!
かなりエフェクトがかかった、でも明るくてメロウな不思議な曲、
かわいくてかわいくて仕方ないけどでもそこはかとなくペーソスも。
麻薬的にあのコーラスは継続的な思索を分断してしまう、気づくと口ずさんじゃう。

7 マミー
どかをライブで圧倒した、マーシーのスローナンバー。
これも抽象的な、でもイメージが圧倒的に広がる言葉が続く詞じゃなくて、詩みたい。
生と死の間のリアリティを、ペーソスとユーモアを交えて。
ライブではもしかしたらなかなかやってくんないかもしれないけど、
でも、是非、ライブでこそ聴きたい静かな名曲。

9 Born To Be Pooh
ヒロト作、スローでひたすらかわいい、もう笑ってしまうくらい。
Pooh、というのはもちろん「無職な人」ではなくハチミツが好きな彼のこと。
でもちゃあんと真面目に、ヒロトのエッセンスが入ってるロックに違いないっす。

11 つき指
マーシー作、すごいグルーブ感で盛り上がっていくガレージロック、
でも詞は深くて深くて。
全部断片的なイメージを喚起する単語なんだけど、ちゃんと考えると分かる。
これって戦時中、徴兵にとられた「プロ野球選手」の歌だ、
それこそ「昭和18年」に「ラバウル」で亡くなった方の。
んんー、それを想像力のなかでリアリティを生成させる曲作り、
怖いくらい冴えてると思う、マーシー・・・。

13 ecstasy
美しいサビのコーラスと、これもイメージの広がり方が秀逸な歌詞のヒロト作。
「ななの少し上」とこの曲は、ハイロウズ・ヒロトの作詞術の到達点を示してるな。
才能ということばは軽々しく使うべきじゃないと思うけど、でも、これが才能だ。

・・・以上、ともかく「捨て曲」がいっさいなく、平均点がすさまじく高い14曲。
演奏のスピードが落ちてもテンションが落ちない、かつ、
最近ちまたのゆるーい「私小説ロック」なんかまとめてポイッな、
詩情と勇敢と哀切と決意、完成度の高さ。
怖いよ、ヒロト&マーシー・・・
こんなすごいん作っちゃったら、畳の上では死ねないよ、怖いくらいやわ。


2002年11月27日(水) THE HIGH-LOWS @SHIBUYA-AX 2DAYS (2)

朝、昨日の筋肉痛がけさ、うずく、足と首、うう。
でも夕方が近づくにつれてだんだん痛みが薄れてテンション上昇、おし・・・


↑SHIBUYA-AXのコインロッカーは外、激戦に備えて薄着になるソルジャー達

二日目のセットリストはこれ。
予想通りやった、きょうは、昨日やんなかった新譜の曲をやった。

1.一人で大人 一人で子供
2.曇天
3.Too Late To Die
4.俺たちに明日は無い
5.アメリカ魂
6.つき指
7.マミー
8.ななの少し上に
9.ecstasy
10.青春
11.ハスキー(欲望という名の戦車)
12.千年メダル
13.罪と罰
14.いかすぜOK
15.俺軍、暁の出撃
16.相談天国
17.不死身のエレキマン
18.真夜中レーザーガン
アンコール
19.毛虫
20.スーパーソニックジェットボーイ
21.ミサイルマン

今夜は昨日と同じくらい前でバーの前(ラッキー♪)で、
でも反対側のマーシーサイドに陣取った。
二日目は昨日よりもずっと冷静に観られるかな、音楽を聴こう。
って思ってたんやけど、1.のイントロでその決意は崩壊するどか。
この曲のサビのヒロトの声の響きは、もう、無敵だ。
勇敢さと哀切とを同時に鳴らすことのできるヴォーカリスト。

6.のイントロがカッコ良すぎる、まいった、すごいうねる感じ。
でも「つき指」の歌詞ってかなり実は重たい事実を織り込んでるんね
(昭和18年ラバウル・・・)。

そしてきょうのどか的ベストプレイは次の7.「マミー」。
これはハイロ史上最もスローなナンバーかも知れない<生と死>がテーマな曲。

どかがハイロウズのファンをやっていて本当に良かったなーと思ったのは、
この「マミー」に入ったとき、それまで陶酔と絢爛のモッシュ・ダイブにまみれたフロアーが、
ピタッと足を止めてまるで沈黙のスタンディングオベーションのように、
シーンと静かに耳を傾けた瞬間。
どかが心配したのは勘違いしたアホが手拍子とか打ち始めたらどおしよぉ。
ってことやったけど、素晴らしい、ハイロファン、
つい一分前の状況がにわかに信じられないくらいシーンって!
誠実な空間で鳴らされたこの曲は、詩的で抽象的なイメージの言葉が続く歌詞だけど、
リズムセクションにギターが乗ってヒロトの声でその言葉が響くと、
なんでだか頭の認識機能をすっ飛ばして直接すぅっと涙がこぼれる。
明らかにブルハとは異質な、次の次元に突入しているのだ、この人達は。
ただのテンションバカ、と思ってる世の人たちにあの空気を吸わしてやりたい。

そしてまたフロアーが震動を始める。
例によって10.から13.までの記憶があいまいなどか。
そして14.の途中で完全にヒューズがとんでしまい、どかの足は止まってしまう。
ま、15.16.とか18.19.は楽しいけどどかの中でのランクで言えば、
やっぱり10.11.12.がベストオブベストだから、悔い無し、
体力温存なんてせえへんくて正解や正解。

二日目でいろいろ分かったことの一つ、ライティング(LIGHTING)の妙。
昨日のベース側から見てて分からんかったけど、
フロントの三人に対して上から丸くピンで抜いてるんやけど、
その当て方がベース寄り上方から斜めに抜いてるのね。
と、言う事はギター側にいたどかからはヒロトとか調くんの顔が影になるんよ。
これが、もう、めちゃくちゃクールでクールで。
例えばジャニーズとかやったら影が出来ないように四方から光を当てるだろう。
光の部分と影の部分をあえて作っているのが、憎いくらい効果があった、どかには。


2002年11月26日(火) THE HIGH-LOWS @SHIBUYA-AX 2DAYS (1)

・・・カリスマという言葉の真の意味を知る・・・

ついにやって来た、ハイロウズのライブ!!
本当はICU祭初日に亜細亜大学学園祭のライブに行くつもりがチケ取れず。
明日が発売日のニューアルバム「angel beetle」をきょう、手に入れて、
すぐさまiBookくんでMP3に変換、iPodくんに投入して聞きながら井の頭線に乗る。
したら下北沢で乗ってきた兄ちゃんが座席のどかに話しかけてきて、

  兄ちゃん「あれ、それニューアルバムですよね(どかが見てた歌詞カードを指して)、
    きょう、ライブっすか?」
  どか「うん、そう。
    自分も、アックス、行くん?」

と、期せずしてハイロ話に花が咲く。
その兄ちゃんは前作の「HOTEL TIKI-POTO」が最高っ!て言ってたけど、
どかは「RELAXIN'」や「バームクーヘン」が好きでそういうと、
「ああ、僕はその辺、いまいちなんすよね」って彼、言ってた。
へえ、やっぱり同じハイロフリークでも感じ方がいろいろあるんねえ、面白い。
そしてどかは今度の新譜、最高だと思う、ほんっとに面白い、最高!


↑開場前、嵐の前に薄暮に隠れるSHIBUYA-AX・・・

SHIBUYA-AXに着く、ロッカーに荷物をぶち込む、入場、場所取り、
真ん中より前めのベース側のバーの前を取れた、ラッキー!
オールスタンディングのモッシュの波もこれで少し乗りこなしやすいぞぉ♪
久々に聞く「GO! HIGH-LOWS GO!」の手拍子も懐かしい、
そして客電が落ちて客席沸騰、ついにバンドが登場する!
・・・セットリストは以下の通り(でも酸欠だし途中記憶飛んだから自信無し)。

1 .Too Late To Die
2 .曇天
3 .俺軍、暁の出撃
4 .罪と罰
5 .いかすぜOK
6 .アメリカ魂
7 .千年メダル
8 .日曜日よりの使者
9 .ななの少し上に
10.マミー
11.毛虫
12.一人で大人 一人で子供
13.青春
14.ハスキー(欲望という名の戦車)
15.相談天国
16.不死身のエレキマン
17.ミサイルマン
アンコール
18.俺たちに明日は無い
19.スーパーソニックジェットボーイ
20.真夜中レーザーガン

やっぱ、スタンディングのライブハウス、ここがハイロウズの居場所だ。
市民会館や公会堂とは別次元のフロアーの凝集度、3曲目からダイブが本格化。
新曲をもっとがんがん続けるかと思ったけど、定番の曲が織り交ぜられて嬉しいどか。
というか、もう、何を書けばいいのか、もはや語るべき事はなにもない・・・
一曲目の「Too Late To Die」のイントロからフロアーとどかは溶けて個体から液体へ。
そして「千年メダル」や「青春」「ハスキー」のイントロが始まった瞬間、
液体は一瞬で沸点に達し気化して狭いAXの空間を満たしていく。
新曲の「ななの少し上に(これがどかは本当にお気に入り!)」や、
「マミー」「毛虫」を歌い終わるたびに、ヒロトがホッとした顔をしてMCで、

  ヒロト「キンチョウしたよ〜」

と言うのがすっごいかわいくて格好良くて、横でマーシーが笑ってて、最高っ。
今まで何回もハイロウズのライブに足を運んだけど、今夜の盛り上がりは、
今まででダントツ一番だった、何が起こったのだろうか、
確かにセットリストは理想的な並びで非の打ち所がないくらい。
演奏も、調くんのベースと大ちゃんのドラムが水際立って良かった!
縦乗りでがんがんジャンプ、声からしてどかも歌った、耳はガンガンでも気持ちいい。

「青春」から「ハスキー」と続いた瞬間、記憶がマジでとんだどか。
月並みな言い方やけど、ハイロウズのライブは、
どかが日常を生き抜くために、必要不可欠やねん、ホンマ。


2002年11月25日(月) G1ジャパンカップ

昨日(11/24)のレース、昼下がりに府中に向かう。
やっぱりWINDS(場外馬券売り場)じゃなくて、
競馬場に足を運ばないと感じ取れないものがあると思う、どか。

どかはもうメインレースのみに没頭するが、
ねこばす氏は目を皿にして競馬新聞の他のレースも見る。
海外から実力馬を招聘して行うジャパンカップは、
オリンピックみたいなものかなあ。
日本代表馬のジャングルポケットに乗り込むのは武豊さま、
ということはどかの馬券は決まったようなもの、必殺武流し・・・
に、行かなかったのですわ、今回。
一年を通して"HORSE RACE"を見てきて思うのは、
やっぱり三歳馬の輝きというのは眩しい、ということだ。
四歳以上はもう「古馬」というくくりになってしまう。
この事実を一つ取ってみても、三歳馬の特権性は明らかだ。

三歳馬の王者決定戦、東京優駿(ダービー)、どかは五月に大好きな馬に巡り会った。
武が乗ったタニノギムレットだ、すごい華のある馬だった。
ああ、この馬を追いかけてこれからはレースを見ていこう。
って思ったもの、やっと出会えた「どかの馬」。
でもね、ギムレットは夏、故障してそのまま引退しちゃったんね。
哀しかった。
で、ダービーで最後までギムレットを追いつめたシンボリクリスエス。
この馬に、どかはギムレットの華を託してみようと思ったんね。
漆黒の大きくて迫力ある馬体、三歳馬にして今レース第一人気。

馬単は<クリスエス→ジャンポケ>のみを買って、あとは三連複をちょこっと。
シンボリクリスエス、鞍上ペリエ騎手、
ターフに姿を現したときの喝采はすごかった。


↑ジャパンカップ、スタートの瞬間!

しかして。

何と前日のジャパンカップダート(G1)に引き続いて大波乱・・・
イタリアの自他共に認める世界最高ジョッキー、
デットーリが乗るファルブラウが来た!
二着はサラファンで、何と日本勢は惨敗をきしちゃう。

ちえーっ。

クリスエスは最後追い込むも三着止まり、ジャンポケは五着が精一杯。
もーすこし伸びると思ったけどなあ、惜しい、クリスエス。
なんか外国馬と外人騎手に美味しいところ全部持ってかれて、
府中のスタンドも心なしか憔悴気味だったな。


2002年11月24日(日) 青年団「東京ノート」

G1レース「ジャパンカップ」については後ほど、また、書く(書きたくないけど、ふん)。

府中の東京競馬場から木場の東京都現代美術館に向かう、待ちに待った青年団の代表作、観る。
劇場ではなく美術館で芝居を打つ試みの理由は、この戯曲の設定が「美術館のホール」だから。
総合的にみてすごい意欲的でエキサイティングな取り組みに違いなく、
実際、壮麗な建物の階段や渡り廊下をそのまま利用したステージは、感動的ですらあった。
オリザさんはこれで岸田國士戯曲賞を取った、ずーっとどかはこれを観たかった。


↑東京都現代美術館(通称MOT)のエントランスホールのディスプレイ

設定は近未来、ヨーロッパでは戦争が激しくなっていて、彼の地の美術館より、
巨匠の名作が災禍を逃れるために日本の美術館にどんどん入ってきている。
舞台となる美術館も例外ではなく、大挙貸し出された作品を使い「フェルメール展」を開く。
その美術館の待合いホール、いくつかベンチが設置されてそこを訪れる人々の会話をただ、聞く。
それだけの戯曲、BGM無し、効果音無し、スポットライト無し、じみぃな会話劇、沈黙が痛い。
最近のオリザ戯曲の作風と比べるとさらに平板度が極まっていることに気づく、
潔すぎるほどの「静かな演劇」、聞き取れないささやき。
そんな断片的に聞き取れる対話から浮かび上がってくる、詩情、詩情としか、言えないもの。
どかはもう青年団一流のこの作劇法については全面的に信頼してしまっている。
つかの独白や鴻上の群唱と同じくらい、平田の同時多発会話のリアリティを疑わない、でも。
でもどかにとっては、オリザの作劇法のかなたから浮かび上がる詩情こそ、
この劇団から離れられない第一要因なのなー。

他の劇作家と比べてもかなり多作なのに、戯曲による出来不出来があまり無いオリザさん。
それでもこの戯曲は他に優れて傑作であるとどかは思った。
それはアイロニーの巧みさ、台詞に織り込まれるイメージの広がり方が素晴らしすぎるから。
例えばその最たるメタ・キーワードが「フェルメール」である。
さすがはオリザ様で、一応美術史で学部を卒業したどかにも、
全く破綻が見えない水際だったフェルメール評を台詞に織り込んでくるんね。

「フェルメールに出てくる登場人物は窓際で外を向いて立っているのは何故か?」
「フェルメールが絵を描く際に利用したカメラ・オブ・スクーラが象徴するものは?」
「フェルメールと同時代に活躍したガリレオ・ガリレイ、その共通項は一体何か?」

学芸員が美術館を訪れたある女性に向かって説明するそうした内容のいちいちが、
全て青年団の舞台の本質を合わせ鏡のように鮮やかに浮き彫りにしていく。
暗箱をのぞき込む画家の哀しさはすなわち、この舞台を観ている私たちの、さらに、
この戯曲を書いた平田オリザの哀しさでもあるんねー。

どかは水泡のように浮かんでは消える幾つもの対話を聞きながら、
人は人の輪郭から逃れられないという真理の哀しさを想う。
登場人物の立場の相違から生まれるかすかな摩擦熱が、一つの淡い藍色を落とす。
別の対話からはこれも淡い、うぐいす色が生まれ、それぞれが染み渡っていき重なったところで、
さらに美しい別の色彩が生まれる、どかの心の中でどんどん綺麗な織りが広がっていく・・・

有名なラストの「逆にらめっこ」、どかは元からこのシーンを知っていたのに、
役者の台詞の寂しい響きと切ない表情にほろりと来た、うう。

  私たちが望遠鏡で宇宙を眺める事はできるけれど、
  望遠鏡の向こう側からこちらを観ているとは限らない。

劇中の学芸員の台詞、んんん、深い。


2002年11月23日(土) 扉座「いちご畑よ永遠に」

紀伊国屋サザンシアターにてネコバスくんとソワレ観劇、雨、冷たし。
演劇系メーリングリストではそんなに高評価ではなかったし、期待もそこそこに。
私がわるうございました横内さま(扉座主宰・演出脚本)。
先週の舞台をはるかに越える衝撃に打ちのめされる。

ジョンレノンの生い立ちから殺されるまでを順を追って再現するという、
ひねりもスパイスもないベタな構成、ただベタなだけに劇団のちからわざが炸裂した。
横内謙介さんはつかや野田と違って役者を育てるのはとても上手みたい。
若手も上手だしベテランはさすが、世代の切れ目も見えないので安心させる、それってすごいな。

前半部分は、恵まれない境遇とひねくれたどうしようもない「くず」としてのジョンが、
延々ベタに再現されて、さすがのどかも「ヤバいんちゃうん?」と不安になる。
役者は抜群に巧いけれども、いわゆる学芸会チックな展開なのだなあ、恥ずかしく。
でもこの「恥ずかし」というネガティブな感情すら計算して喚起しているのだ、横内さんは。
この「危険な橋」を観客に渡らせた後で、一見優しいほわーっとしたイメージの劇団は、
あまりに鮮烈で協力なカウンターを用意していた・・・

それは「音楽」、楽器の生演奏。

二度目の出会いで邂逅したポールとジョン、
たどたどしくジョンが運命の相方にギターを披露する、曲はエルビス・・・

  "CAN'T HELP FALLING IN LOVE"

一瞬、呆然、突然どかの涙腺が壊れる、なにこれ?
そもそもレノンがテーマの一つで楽器を舞台上に持ち込むのもギリ反則のベタベタやん?
でもあっけなくどかは持ってかれた全部、あの瞬間から以降は。
「音楽って」改めて思う「ホンマすごい、しゃれにならん」。
ハイロウズのライブ以外でそれを心底思い知ることになるとは思わんかった。
そしてこの舞台はクライマックスに向けて加速していく・・・

脚本はやはり非凡に違いない、「ジョン様万歳」ストーリーにしなかったのがいいな。
「天才ジョンレノン」の弱い部分やマイナス面をはっきりと映しとり、
かつその溢れる「才能」の残酷さを描ききっているのがすごい。
つまり、ジョンの「ラブアンドピース」は世界の人々を幸せにしたかも知れないが、
身近の人を不幸のどん底に落とし込んだという事実、それがこの戯曲の肝だ。
その「身近な人」とは最初の妻、シンシアパウエル、山田まりやが演じる(大健闘!)。

天使の少年はそのシンシアを近くに見ていて、やりきれずジョンに直訴するも相手にされず。
その少年が後見役の先輩天使に突っかかる。

  少年「天使なんて、所詮、何にもできないじゃないか、助けたい人も助けられない!」
  先輩「確かに天使は無力だ、私たちの手はわずかに人より温かいだけだ・・・
    でも・・・でも諦めるなよ!」

この「天使」という言葉を「音楽」と置き換えてみると、ああ、そんな感じやな。
「音楽」は誰も救いはしない、でもそれは少しだけ温かく、
聞く人自身の「化学変化」のきっかけになる、かも、かも。
ラスト、天使の少年にシンシアが「それでもジョンと出会った事、後悔しないわ」。
そしてその彼女を迎えるようにバンドセットにビートルズ、そして脇から全ての役者が、
楽器を携えて出てくる、合奏、合唱、反則やっちゅうねんこれわー・・・

  "HAPPY CHRISTMAS (WAR IS OVER)"

ジョンがギターを弾き、シンシアがその前で歌う、すごい、いい顔をしていたのー。



↑"HAPPY CHRISTMAS" in 新宿タイムズスクエア&紀伊国屋サザンシアター


2002年11月22日(金) 同じ鞄

きょう、自転車こいでるとき、結構寒かった。
マフラー巻いて手袋してたのに。

ウーサブッ・・・

ってマフラーに口を埋めてつぶやいたときふと、
昔のことを思い出した。
自分の中で一番寒かった記憶。

それはアラスカではない。
アラスカは寒いのではなくて冷たい記憶だ。
寒かったのは、ヨーク。
冬の北部イングランドの寒さは、ちょっとどうかと思うくらい。

ヨークの南の外れ、ホルゲイトのホストファミリーの家を出て、
ミクルゲイトバーの前で左に折れて、
シティウォールを右に見ながらそれに沿って右折、
したら左手にヨーク駅が見えてくる・・・
そのあたりの車道を駆け抜けていくときの記憶。

ホストファミリーから借りた赤いマウンテンバイクで、
今日着てたのと同じコートに同じマフラー、
同じ鞄を肩から後ろに回してさげて、
大学の寮にいる友達を訪ねていくときの記憶。

実はその訪ねていく友達のことを、
どかは脇目もふれない程まっすぐに気に入っていて、
でも相手が同じ気持ちでいてくれるという期待が怖くて怖くて、
今こいでいるペダルから、一瞬自分の意志が抜け落ちて、
すうっと空っぽになったシーン、
左手には過ぎ去るヨーク駅、
右手には中世の香り残すシティウォールが延々続く、
車もまばらな曇天の薄闇に染まりつつ、
ヨークミンスターの鐘の音を遠くに聞いたあのとき。

・・・あのころの自転車よりも良い自転車を今こぎながら思い出した。
あのときの寒さは、とてつもないくらい鋭く身体を削っていたのだ。
7年前の空っぽのどかは削られていく自分すら自覚できなくて、
薄闇に染まっていったのな。


2002年11月21日(木) RUPプロデュース 「透明人間の蒸気」<4>

透明人間と盲目の少女の恋物語。
この戯曲のテーマがこれだけであれば、
決して再演という運びにはならなかったであろう。
「熱海殺人事件」「蒲田行進曲」といった戯曲、
または「贋作・桜の森の満開の下」といった戯曲がなぜ、
十年余の時を越えて再演を迎えるのか、否、再演したいと演出家に思わせるのか。
それは単なる刹那的な愛憎劇を越える、本質的なものをそれぞれ照射しているからだ。

今回の場合であれば透明人間となったアキラを追いつめるのが、
果たして誰なのかを考えてみれば明らかだ
:「八百万の神々の亡霊」並びに「昭和天皇の軍隊」である。
日本帝国軍人より「肌を無くしてしまった後も生き続けるその存在」は、
天皇の唯一絶対性を犯してしまうほどの危うい超越だとされて追われるアキラ。
翻って過去からの刺客、八百万の神々の軍隊もアキラをスサノオと呼び追いつめる。
綿々と連なる皇家の血筋に挟み撃ちされ追いつめられるアキラを、
「私の神様」と慕うケラは命を賭してかばい守ろうとする。
ケラ自身が心から忌み嫌ってきた「嘘」までつきとおして、
心が痛く引き裂かれても、朗々と既に逃げたアキラは「ここにいる」と宣言する。

・・・んー、すごい。
天皇の軍隊に追いつめられた彼女が守っているのは「実体」のない「神」で、
彼女はそれを守るために哀しいまでに嘘をつき続ける、
その嘘を「皇家」が責めるというすさまじいアイロニーの上に、
あのエキサイティングでロマンティックなラストシーンは裏打ちされていたのだ。
これを近代から現代にかけての天皇にまつわるエピソードへの痛烈な皮肉とせず、
なにをアイロニーと呼べばよいのだろう。
こんなに理屈っぽい、イデオロギー満載の、お利口さんなテーマを掲げつつも、
野田は絶対、直接それを語ろうとはしないのだ、ここがミソだ。

こんなに重層的で象徴的な表現は、唯一、劇場の舞台においてのみ可能である。
これをドラマや映画でやっても恋物語ともう一つの「テーマ」を繋ぐもの、
リアリティと呼べるかも知れないものを現出するのは困難である。
一つの恋愛と、昭和の構造的悲劇とは、心理的観念的にかなりの距離があるからだ。
それを同日に、否、同時に現出させるためには例えば、
筧利夫のあの香気溢れる声の響きや、小西真奈美の美しい身体が俊敏に倒れる様が、
演劇を演劇たらしめる肉体芸術の圧倒的リアリティがあって初めて可能だったのだ。
めくるめくような詩情溢れる野田戯曲の言葉の連なりを、
たたみかけるような圧倒的速度の台詞に変える事の出来る役者たちが、
この観念的大ジャンプを成し遂げるための助走としてアンサンブルを獲得する。
それが理想の野田戯曲のあり方なのだろう。

・・・ここまで書いておいてひっくり返すのも何だけど、
今回の舞台がその助走で必要な推力を手に入れられたかと言えば疑問だ。
何せ、筧は野田とは相性が悪いし、演出も野田ではないのだから。
だからこの舞台では、恋物語に比べてその「本質」が少し浮いちゃたんだと思う。
演出とキャスティングの不備でアンサンブルが達成できなかったからだ。
ま、野田戯曲は野田演出で、筧以外の役者を使うのがベストなのでしょう。
ってか、筧のスケジュールをおさえられたんやったら何故につか芝居をやらんー?
あああああ、もったいなあああああいいいいい、次は何年先だか?

そしてそのとき、筧の身体はまだ、敏捷に動くのだろうか・・・
テレビなんて出てる場合じゃ無いのにぃぃぃ。

んなわけでこの舞台のMVPは小西真奈美ちゃんでした。
恋人の姿も見えない、言葉も信用出来ない、でもでもセンティメントには堕さない
「強い無垢」に、とにかくやられました、参りました。

ハイ、降参。


2002年11月20日(水) RUPプロデュース 「透明人間の蒸気」<3>

以前にどこかで書いたかも知れないが、役者・筧利夫と野田秀樹の戯曲は、
きわめて相性が悪い気がしていた、どか的に。
VTRでだけど「贋作・罪と罰」を観たときに、あまりにもこの稀代の立役者が、
冴えなさっぷりを露呈していたので、どか自身ヤダになってしまうくらい。
でも、今回の青山では、それほどどか自身ヤダにならなかったのは何故か。
演出が野田じゃなかったからだ・・・

野田の舞台を語るキーワードの一つに「アンサンブル」がある。
野田秀樹は贅沢で多彩な役者を「駒」として使って、
総体として上質のエンターテイメントを達成する事をその主眼としている。
それは堤真一だろうが、唐沢寿明だろうが関係なく、もう「駒」なのだ。
唯一の「駒」じゃないトリックスターとして舞台に上がる例外は自分だけ。
という、恐るべし唯我独尊演劇が夢の遊眠社でありNODAMAPなのだ。
この残酷なまでの割り切った演出は、もちろん責めを負う性質のものではない。
ただ、つかの優しさとは対極にあるのは間違いない。
ともかく野田は「アンサンブル」。

筧はしかし、アンサンブルを作るのはとても苦手な役者だ。
それは役者としては弱点といえるかも知れないが、筧は駒向きではない。
何故、つかの伝説の傑作「飛龍伝」が三度もリバイバルされたのか。
何故それほど熱狂的な支持を獲得する事が出来たのか。
何故つかはインタビューの中で下記のコメントを残したのか。

  あの筧君の「飛龍伝」を観なかった人は一生の不幸だとさえ、
  僕は思っているんです(戯曲「新・幕末純情伝」巻末インタビュー)。

それはつかこうへいがひたすら筧を立てたからだ。
筧首相、筧大統領、筧教皇さまの魅力を引き出すためだけに、
口立てで脚本を変えていったからだ、そしてつかのその演出に筧は応えきった。
今回演出したのはRUPの岡村さん、つか贔屓の人だ
(野田のことももちろん好きなんだろうけれど)。
有り余ってるお金をいらんことばっかしに使う演出をして、今回、
二時間で納めるべき芝居を二時間二十分までおしてしまった、
この二十分という時間こそが、全ていらんことをして芝居を滞留させてしまった、
岡村さんの演出する才能の足りなさだと思っている、どかは、厳しいけど、でもそう
(どかがセゾン劇場で観た「新・幕末純情伝」も同じような演出だったもん)。
しかしながら筧と小西に対してつけた演出だけは、良かった。
筧王様で、かなり自由にやりたいようにやらせたんだと思う、
「贋作・罪と罰」みたいな痛々しい筧ではなかったもんね、とにかく。

研ぎ澄まされたセリフ術や磨き抜かれた敏捷な体さばきは、
少し、まだ戻ってない気がする、本調子ではない。
けれども、そもそも積んでいるエンジンがその辺の端役とは比べものにならない。
デリンジャー銃のようなセリフ回しに宿る、克己と誠実。
顔のでかさにも増して空気を染め上げていく大きく広がるオーラ。
ああ、テレビ漬けでダシを取られた後のガラになっちゃった訳じゃないのだ。
ふざけたときの愛嬌と、まじめになったときの誠実さの振幅が、圧倒的に大きい。

舞台上に桁違いのパースペクティヴを実現する筧の激情の疾走に、
観客はぐいぐい引きづられていってしまう、手が痛いけど、
でもこの筧をつかんでしまった左手は離したくない、離せない。
この人ならば絶対最後は気持ちの良い場所に絶対連れて行ってくれる。
そんな確信を筧は観客に持たせてくれるから、だから辛くても引きづられていく。
結婚式の車の後ろの空き缶みたいに、痛くて辛くて、でも。
でも、ハッピーエンドにたどり着くと信じて、引きづられていくのだ(まだ続く)。


2002年11月19日(火) RUPプロデュース 「透明人間の蒸気」<2>

役者はやはり良かった、いろいろ議論を呼ぶキャスティングだった、筧以外も。

例えばスタジオライフ出身の青木隆敏は、初演時に野田が演じたサイババ先生に。
「ザ・耽美」の代名詞的な美少年集団スタジオライフと野田のスピード、
そりゃあ摩擦が起きるのは当たり前で、
その摩擦についてプロパー野田マニアは厳しく評価するだろう。
でもどかは確かにベストだとは思わなかったけれどあの摩擦、
美少年があくせくもがく様は美しくて好きだな、とても(おやじか?)。

そして北区からの刺客、武田義晴と赤塚篤紀の二人。
武田さんは抜擢されてのらくろ二等兵役、代名詞のハスキーボイスが炸裂し、
安定感抜群だなあ、でもこの人「長嶋茂雄殺人事件」でのキレた演技も良かった。
目立たないけれど、バイプレイヤーとしてはかなり高いレベルにあるなあ。
そして元木村伝兵衛部長刑事の赤塚くん、こんかい下っ端の「その他大勢」。
ああ、伝兵衛までやった男が一歩外に出れば「その他大勢」。
これが現実なのなー、「北区」の。
でも赤塚くん「その他大勢」の中では一番たくさんセリフもらってたし、
一人だけつか節だったけど、さほど浮いてなかったしどかは嬉しかったよ。
何よりももらった役をまっとうに身体を張って臨んでいるところに、
数少ないセリフをつか節で朗々と青山劇場に響かせたのが、
快感やった、ごっつい(マニアだなあ私)。
このくらいのバランスで「新・飛龍伝」もやれば良かったのに、あっくん。

さて、小西真奈美だ、「北区」の卒業生。
三年前の「蒲田行進曲@青山劇場」以来、舞台で久々に観たけど、
あのころよりもぐぅんとパワーアップしていた、力強く、文字そのままに。
現「北区」のヒロイン渋谷亜希は論外、最低だと思うけれど、
前「北区」ヒロインの内田有紀と比べても全然小西が良いと思う。
弱々しい傷がつくのを恐れている薄っぺらい「イノセント」ではなく、
小西の「イノセント」は身体を張って前につんのめって、それで痛い思いをしても、
涙をこらえてまた裸足で駆け出していくそんな真っ白さだ、
まさに今回の盲目のヘレン・ケラ役はふさわしい、ベストマッチだと思う。
野田子飼いの姫の(ごめんどかも好きだけど)深津絵里と比べても、
小西の前つんのめってます的テンションは買えると思うすごく。
盲目の少女は足の裏で世界を感じる、その感覚だけを信じる。
そして唯一盲目のその瞳に映ることができた肌を失ったアキラ(筧)に対して、

  言葉は信じられないよ!
  言葉は神様と違って、目に見えないもの!

という叫びは、その響かせ方は本当に秀逸だった
(実はこのシーンの筧の受けの演技はもっとすごかったのだが)。
この終盤の決めセリフをあの音色で響かせるためだけに、
彼女のここまでの演技はあったのだ、あの体当たりの無垢なテンションは。
さらにクライマックスに向けて小西の長ゼリがたたみかけるように続く、
まるでつか芝居のような演出だ。
破綻をきたした「無垢」が放つ稲妻が劇場を満たしていく。
ここだけは今回の演出家・岡村さんを評価したい、でもここだけだったけど。
小西はたった一人で筧の存在感に立ち向かった。
青木も頑張ってもがいたけど早々に振り切られてしまい、
他のキャストは端からついていけず、でも小西だけだ。
小西があのハイテンション(野田風ではなくつか風)で駆け抜けたおかげで、
80年代の小劇場ブームを収束させた、時代を背負った才能、
筧利夫がかろうじて、この世に繋ぎ止められていたのだ。

そして。

そして、筧が舞台に帰ってきた(続く)。


2002年11月18日(月) 反省

こんなことではだめだ。

全然、あかん、最低。

Syrup16gが鼓膜を削る。

反省する、絶対こんなことは、もうしない。


2002年11月17日(日) RUPプロデュース 「透明人間の蒸気」<1> + α

  The Kiss of an Invisible Man -透明人間の蒸気-

80年代に鴻上の第三舞台と共に一世を風靡した劇団夢の遊眠社の、
しかも初期に書かれた野田秀樹の脚本。
そして、今回この舞台が話題を呼ぶ最大の目玉は<主演・筧利夫>である。
「ララバイまたは百年の子守歌」以来、三年ぶりに、
どかの最大のヒーローが舞台に帰ってきたんねやっと、やっと。
ヒロインにつかが北区で手塩にかけて育てた無垢、小西真奈美がクレジット。
演出が野田じゃないことを差し引いてもさー、
とりあえずこの舞台を無視する力はいまのどかにはなかったのー。
青山劇場にてマチネ、席は前目のなかなかイイところ、
青山の厚い緞帳が、すぅっと上がっていく・・・

・・・緞帳が下りる、号泣。
だめだ、やばい、ツボに来たかなり、やだなあこれに泣かされるのん。

んー、まだ少しまとまってないのな、も少し時間が欲しいなあ。
でも、脚本はかなりいいのは間違いない、個人的には去年の国立劇場で上演した、
名作の誉れ高い「贋作・桜の森の満開の下(これも遊眠社時代の脚本)」を、
凌駕していると思われる、はるかに・・・



↑開場前、時間をつぶした青山ブックセンター(傘がクリストみたくきれい)

ん、もすこし落ち着いてからもう一度書こう、これは。
んじゃあ、代わりに昨日の画像でも触れた「おうまさん」について
(何が「代わり」なんだか)。

  G1・マイルチャンピオンシップ

@京都競馬場である、どかに相性がいいはずの、淀のターフ。
んー予想はほんとに訳わかんなかったけど、春の安田記念を勝った、
アドマイヤコジーン(1番人気)から馬単で流してみたんね、今回。
からめたのは鞍上武豊のモノポライザー、ラムタラの息子メイショウラムセス、
藤田騎乗のグラスワールド、そして蛯名騎乗のトウカイポイント。
トウカイは、ぎりぎりまで迷って今朝、馬券売り場で急遽加えた。
蛯名なら11番人気でも何とかするかもしれんと思った。

・・・したら、一等、着たよ蛯名!
唖然、ああああああ、馬連にしとけばーっ、
と思ったが二着がどかノーマークのエイシンプレンストンだったので、
大外れじゃん、どっちみち、あーあ。
格好いいなあ蛯名、んー惚れそう思わず。
三連複もそんなわけでエイシンを外したため全てアウト。
万馬券だもんな、馬連が。
三連複にいたっては、37万馬券、これとった人、震えただろうなあ。
ってか、コジーンよ、どないやねんおいっ。

というわけでアップダウンの激しい一日だった、芝居と筧のレビューは後日。


2002年11月16日(土) ♪tattara,

相変わらず体調はイマイチくんで、昨日の夜は眠れなかった。
朝、それでも少し楽になったのでステディ号に乗りこぎ出す、9:05am。
iPodくんを一曲リピートかけて道すがら聴いていたのは、
宇多田ヒカル「traveling」、なぜかスピードがどんどん上がる。

ジムについて、すぐ白い千早に袖を通し「課題演目」を一人始める。
心を静めて落ち着いて、できるだけ抑え気味に、淡々と。
だんだん鼓動が高鳴っていく、腰がきぅっと回転する、
膝が少し悲鳴を上げる、それをなだめながらすぅっと重心を下げる。
「シホウジョウド」「クジノテ」があまりしっくり来ないなあ、
「オノヅカイ」と「ヨセアシ」はちょいスムーズに身体がさばけてる、ような。
ネリの後半は抑えがだんだん効かなくて身体がほどけていく、
難しいのは身体を鼓舞することではなく身体を抑制すること。
ただし縮こまったりしたら元も子もないし。
・・・終了、うん、まあ、へたっぴちゃんだね、ここからだ。

ぽつぽつ集まりだしたメンバー、どかも千早を脱いでさんさに合流、
何も考えずに輪について動く、というかとりあえずクーリングダウン、的。
輪は最後までそんなに大きくならない、予想通りだけど。

鳥舞、海苔姫と合わせる、相変わらずまだ、左の膝がおかしい。
なんでやろ、これ?
全くあかんことはないけど、今までと違って少し意識を回す事を要求される。
んんん、どこかでなにか、ずらしてしまったんやろか、
と思いつつ、海苔姫の手をすこし直していく空いた時間。

三番叟、真ん中で踊る、ヤダなんだけど、本当わ真ん中って。
身体が重いなりに自分の出来る範囲のことを一つ一つ、
かたしていきながら足を踏む、そこそこイイ感じな気がする。
昔は力を抜いたら、それは即いいかげんな踊り方になったけど、
最近は力を抜いた後でいろいろまだやれる事が残っている感覚、
だから力をスッと抜く事が怖くなくなったんね、きっと。
空いた時間、ともともが来たので八幡の脚を見る。

その後再び三番叟、どかはここまででかなりヒゥヒゥ喉が言うので、
ぼぉっとするフリをしつつみんなの三番叟を見学、師匠しんどそう。
あんまり無理せんとってくださいよぅ。
・・・で、そうこうしてるうちにタイムアップ、となる。

学食で昼食のスパイシーチキンを食べつつ、猿田氏に「フリスビーやろうぜ」、
と誘われるが、ちょっと疲れちゃったのでごめんなさいと、断って、
VERA祭の時に着た衣装にアイロンをあて戻してステディ号に乗る。
iPodくんは再びリピートリピートで、
tattara, tattara, tattara・・・・



↑どかのiPodくん(5ギガ初期モデル)と、明日の作戦図


2002年11月15日(金) ニゥス

風邪の咳、ようやく引いてきた感じ、やれやれ。
そやから練習はひさびさに拍子踏んでやるって意気込んで。
VERA祭で綾子舞を踊ってた子が、ジムにいてビックリ。
おー、久々のニューカマーだあ、でも今回きりかな?
鳥舞、三番叟、八幡、水無月までだーっと通した。

鳥舞、しんどかったなあ、なんでだか、気持ちの悪い汗が、
ざーっと流れてきて、少し焦った。
久々に踊ったからだと思うんだけどな。

でも八幡は、そのウォーミングアップの甲斐あってか、
身体が軽快にうごくうごく、おーすごーい。
ま、ずいぶん踊ってなかったから、身体のバネがたまってたし、
あたりまえなんだけど。

あー。
一つビッグニゥスが飛び込んできたっ。
来年1月スタートのドラマ、すごいぞう、コレわ、ドカ的に。

なんと野島伸司脚本の伝説の名作「高校教師」が復活するっ。
前作とは全く別の脚本になるって言うこと。
これだけでも大興奮(どか的には)なんだけど、
重要なのはヒロインが、なんとなんとなあんとぉ、

  上戸 彩 !!!!!!!!!!!!!!!!!

いぃぃやっほっぉぉぉう!!!!!!!!
だめだ、今からもう待ちきれないよお、見たいぃ


2002年11月14日(木) ヘタクソ

なんだか勝手な文章を長々書いていて、なおのこと、
本当に勝手だと思うのだが、最近、
自分の文章がヤダになってた、のん。
それこそ「癖」が自分で自分に鼻につくって言うか、
自分自身の輪郭線、シルエットがイヤと言うほど、
明らかになって。
と言うか、自分の「限界」やね、それはきっと。

「手錠」をかけられた上で、自分の愛しい人と向き合って、

  あなたをこの腕にかき抱きたいのですが、
  私には出来ない。
  私に出来るのはこれだけです
 (つか「熱海殺人事件モンテカルロイリュージョン」)。

と言いながら右手を差し出して握手しかできない。
そんな阿部寛の気持ちだな、これは(・・・わかりにくい?)。
じゃあ、もっとマシな文書を書けよ、ばか。
という話なのだが、多分、この「手錠」は、
もっとどかくんが成長しないと、大きくならないと、
長期的に頑張ってベストを尽くしていかないと、
ダメだな、だってきっと人間的なもんやもんなー。

もっともっとベストを尽くすぞぉ、おー。

と、職場で電卓叩きながら思ってたのはどか。
でも、計算ミスはしなかった、ホ。


2002年11月13日(水) 「型」と「個性」

きょうは芸能研の稽古、どかは大事をとっておとなしく見学、太鼓とか。
咳がなかなか抜けないのー、ちっ。
「自己満足」ということがなんか日記に頻出しているが、
踊りのなかの「自己満足」ってなんでしょう、て。

例えば、幕から出て一通り踊って幕に引っ込んで、拍手が鳴りやみません。
でも、自分ではイマイチ、だったらそれはやっぱりイマイチなんね。
師匠が幕裏に来て「なかなかいいじゃない」と褒めてくれます。
でも、自分ではイマイチ、だったらそれはやっぱりイマイチなんよ。

じゃあじゃあ。

例えば、幕から出て一通り踊って幕に引っ込んで、拍手が鳴りやみません。
自分ではなかなか踊れたんちゃうんコレって手応えを感じて嬉かっても、
師匠が幕裏に来て「どかくん、あそこいまいちだったねえ」って言ったら、
じゃあそれはどうなのか?
ゆるーい、程度のひくーい「自己満足」で行くならば、
例え師匠が何を言おうと自分が良ければそれでいい、とするかも。
でもどかはそんなんやだ、やだなんね、そんなんは。
どかは師匠のことを全面的に信頼しているので「ああ、まだあかんねえ」
と素直にうなだれて指摘を受けるでしょう・・・

以下、ふかーい自戒の念を込めて綴るのだが、
どかが練習してる踊りや舞には決まった「型」というものがある。
「型」というのは、誤解を恐れずに言うと、舞い手が誰であろうが、
最終的にはみんな、全く、同じ動きになるはずなのだ、
ぱっと見て全く区別がつかないほど、似通ってくるはずなのだ。
それをちょっと自分に自信が出てきた甘ったれた「自己満足」くんは、
「これが自分の個性で自分の踊りなんだからこれでいいもんね」なんて言う。

アホか、と言いたい。
「個性」と「癖」を、一緒にすんなよ、おいっ、と言いたい。

個性だの、味だの、オーラだの、空気だの、そんなんはね、
踊り始めたばっかしのうぬぼれくんなんかには、
そうそう身に付かないものなんだよ、そもそもが。
あくまで「型」をしっかりしっかり丁寧にトレースして、
「格好良く踊りたいエゴ」だの「見てくれを気にする気持ち」だのが、
薄れて溶け出すくらい、トレースする事に専念して初めて、
「個性」だの「味」だのがうっすら、ほのかに、にじむんだと思う。
でもそれまでにはきっと10年単位の時間がかかるのは間違いないのな。

どかの「自己満足」というのは、その「型」にまず向けられている。
どかという「自分」がいて、神楽の各演目の「型」があって、
それだけの世界、きわめて冷たい、温度の無い世界。
そこには、他人の目が入る必要はないし、他人の賞賛が入る必要もないし、
他人の拍手が入る必要もないのだ、はなから、全く。
そういう意味ではすごいエゴイスティックだし、自分勝手だし、
まさしく「自己満足」という言葉以外に、
ふさわしい言葉が見つからない気がするんね・・・
だからどかの出演を見に来てくれた友人とかには、すごい、
毎回毎回感謝の気持ちでいっぱいでいっぱいで。
こんな超個人的なエゴの行為をただ傍観してもらうだけ。
どかは見に来てくれた人を楽しませようとか、感銘を与えたいなんて、
一瞬の刹那にも感じる事はしたくないからしないもの。
だからこそ、来てくれる人には感謝の気持ちが尽きない、うんそう。

と、言う事をぼぉっと太鼓をたたきながら思っていたどかだった。


2002年11月12日(火) ヒロトとインタビュー(2)

さて、昨日の日記は前振りで、このタイトルで書きたかったのは、
すごい珍しいことに、今回、すごい良いヒロトのインタビューがあったんね、
奇跡的、とさえ言えると思った。
その奇跡のインタビューをとったのは「ロッキンオン」「スヌーザー」ではなく、
某バリバリ提灯持ち雑誌の「音楽と○」(自主規制)だったのがいかにもで。
というのは、多分ヒロトとかマーシーはほんまに「怖がりの子供」やから、
志高く自らのスタンスを明示しているインタビュアーから、
ある意味真剣勝負を挑まれると、どうしても意地になってはぐらかしにかかるんね。
でも、提灯持ちの太鼓持ち(謎)が相手でひたすら受けに回ってくれて、
なんでもハイハイと聞くだけマシーンが相手だと
(どかはこんなインタビュアーは普段のシチュエーションなら最低だと思うけど)、
ヒロトはそのガードを下げて少し、本音までいかないけど新しい言葉が零れちゃう、
・・・わずかな可能性がでてくるゆうことなんよね、それが今回。

去年の秋かな、かまぽんと一緒に赤坂BLITZのライブに行ったとき、
彼がぽつり呟いたのは「ハイロウズの歌詞は、いつも少し、痛い」だった。
そう、ヒロトの言葉はいつも、痛い。
つかこうへいの言葉とおんなじように、気持ちいいけれど痛いのだ。
けっして直接私たちを責めたりはしないバンドだけれど、
でもヒロトの真っ直ぐ上を見続ける歌詞を聴いて私たちは勝手に、
自らを振り返ってしまう、そんなに真っ直ぐ空の青さを目に納める事の出来なくなった、
そんな嘘の混じってしまった自分のコンパスのゆがみを思ってしまう。
ヒロトの言葉を自分の真ん中まで届けられるよう、
きちんと心の扉が開く事が出来たヒトほど、
そのときの痛みはひりひり、きりきり、耐えきれないほど増していくだろう。
でもね、一度自分のそのゆがみを知ってしまえば、
一度そのコンパスのねじれを認めてしまえば、
そこからまたスタート出来るという喜びがちゃんと用意されている。
ううん、違う、ハイロウズとヒロトはそんなの用意なんかしない
(彼らはステージ上で自分勝手に音楽をならすだけだ)。
用意するのはあくまで、自分、全部、自分。
ヒロトは勝手に歌う。
私たちは勝手に喜びを持つ。
ステージとフロアーでまなざしは決して交差しない。
全ての視線は真っ直ぐ上を向き、BLITZの天井を貫き、
曇天を越えて、夜空の果て、なにかぴかぴか光るものを見据えてるだけだ。

  楽しけりゃいいんだもん。自分の人生だもん。お客さんのための人生じゃない。
  人間における満足は自己満足以外にないんだから。自己満足が全てなんだよ。
  (「音楽と人」12月号より)

このセリフを「脳天気だ」などと、決して、片づけてはならない。
「ああイノセントだね」などと、決して、評することをしてはならない。
こんな「厳しい真実」をあっけらかんと口に出してしまうこの人の、
なんと哀しい美しさだろう、この真実を言語化していくまでの彼の時間を思うと、
どかは涙が流れて仕方がない。
無造作にそんなことを言うのは一人の人間の尊厳に対する、失礼と言うものだ。

膝小僧を抱えていたのは、決して幼い子供ではない。
その膝のあいだのうつろな目は、何も見えていないわけじゃないのだ。

このあとに続くヒロト流「好きこそものの上手なれ」という格言の解釈は、
ここに書けないほど壮絶を極めてて、どかは震えるくらい怖くて、辛くて。
でも、嬉しくて。
「でも嬉しくて」とまだここに書ける自分でいられたことが、自分でとても嬉しい。
そう、まだ、どかは、ハイロウズが好きだ。
そうやって胸を張れる自分でいられることが、どれだけ自分の誇りになるのだろう。


2002年11月11日(月) ヒロトとインタビュー(1)

以前に演劇界では真の批評がまだ形成されていないと書いた。
芝居関連の雑誌も本当に数えるほどしかなく、
そしてその雑誌の記事も決して品質は高くなく「提灯持ち」な
レベルにしかないのが現実である。
それに比べると、音楽雑誌の中には批評を志すものが、
数はやはり限りなく少ないが、ある。
どかの中では「ロッキンオン」と「スヌーザー」が、
編集者やインタビュアーが自らの立場をアーティストの作品に
きちんと対峙させた上で文章を紡いでいるので好感が持てる。
しかし、ハイロウズの記事となると、とたんに難しくなる。
なぜならば、ヒロトとマーシーが無類の「インタビュー嫌い」だからだ。
特に昨年までの「ロッキンオン」にてのインタビューは、
全く双方の会話がかみ合わず、行間から気まずい雰囲気が滲み出てくるくらい、
はー。

ヒロトとマーシー、特にヒロトだけど、
なぜここまでインタビュー嫌いになってしまったのか、
それは時折指摘されてきたように「ブルーハーツ」という
伝説のバンドにおいての経験が彼をそこまで
「追い込んでしまった」という説がある。
甲本浩人という一人の人間の真実と、ヒロトという天才ボーカルの偶像が、
著しくずれてしまったことが、どれほど深い傷を内面に残したのか。
言葉にして自分の精神を語る事は、マイナスにこそなれ、
決してプラスには働かなかったという苦い経験則が、
かつての「ブルーハーツ」ボーカル・ヒロトの中にあるとすれば、
現在「ハイロウズ」ボーカル・ヒロトの姿勢もかなりうなずける部分がある。

新譜を完成させてインタビューを受けるアーティストはたいがい、
今回の作品のポイントは何なのか、どこに成長の跡があるのか、
そういったことをわかりやすく、新しい言葉に落とそうと試みる(ことが多い)。
しかしハイロウズの面々は、新譜を前にしても、

  いやーいつもと同じだよ。

  何も変わらんよ、デビュー当時からね。

  そんな難しい事言われてもわかんねーや。

  目指すゴールなんて無い、強いて言えば、歌ったその瞬間がもうゴールだよ。

などと、編集者泣かせのコメントをずららっと羅列してそれで
インタビューは終了、こんなじゃ決して、
この雑誌を読んでじゃあハイロ聴くかって思うヒトは出てこないし、
レコード会社も、もすこし営業的に大人になって欲しいなあと、
アーチストサイドに要求しているかもしれん。
だって「ロッキンオン」の表紙を飾れるということは、
新譜のセールスにとって、最大の効果を上げる絶好の機会だのにね・・・
でもそう、ここなのだ、ポイントは。

ハイロウズは、聴く側のことなんか全く気にしない人たちなのだ。
だから、誤解を恐れずに言えば、ハイロウズはエンターテイメントですらなく、
究極の自己満足を実践していると言える。
彼らはステージ上で歌う、楽器を鳴らす、音を合わせる、音楽を作る、
けれども、その先のこと、例えば自らのメッセージを伝えるということには、
無関心と言ってもイイくらい無頓着なのだ。
自分たちは自分たちの信じるようにステージ上で気持ちよくなるだけ、
それを誰がどんなふうに喜ぼうが、蔑もうが、気になんかしない。
そこに彼らの子供じみた恐怖心があることをどかは否定しない、
ある意味、コミュニケーションによる価値の共有を否定し、
閉じられた世界にひきこもって怖がってる、またブルハの時みたくいたぶられるのを、
おそれている、膝小僧を抱えた小さな少年のイメージだもんね。

でもこの子供じみた逃避が徹底しているからこそ、
ステージ上ではそれが裏返しになり爆発するのだ。

  砂上の楼閣も空中に放り出してみれば美しい箱庭になる(平田オリザ)

つまりそういうことなのだろう。


2002年11月09日(土) Rd.16 SPAIN/Valencia(続)

モータースポーツはシーズン終了間際から、来シーズンの契約が大きなトピック。
良い成績を残しているライダーはまだしも不調のシーズンを送ったライダーは、
自分の乗るマシンを確保するために、タフな期間を送る事を要求される。
そして原田とて、例外ではなかったのだ。

原田の今期在籍したチームは来期、RC211Vを一台走らせることを発表した。
ホンダのワークスチームではないサテライトのチームで、そんなに余裕はないのだ。
そして、ヤマハのエース、ビアッジがこのチームへの移籍が決定した。
チーム自体は、原田を放出するつもりは無いと宣言するも、
事実上原田が、MOTO-GPクラスで走る望みは絶たれていたのだ。

寂しい引退会見では、あの「デビル」原田が涙に暮れるシーンがあった。

  憧れのNSR500にも乗る事ができたし、このチームには満足していた。
  ただ、今までとは違うということは分かっていたが、
  自分の思うようにマシンのセッティングを進められなかったのは辛かった。

このコメントの真意は、今までワークスのエースライダーとして、
自分が勝つためのマシン作りを進められたのに、
サテライトチームではそれができなかったという心情告白だ。
原田は自分が勝つためにはどこまでも自分を追い込んでいく。
その代わり、周囲にも万全のサポートを常に要求してきた。
この「勝利のスパイラル」が崩れたから原田はマシンを降りる決意をしたのだ。
はっきり言って、原田の実績があればまだまだ現役でGPライダーは続けられる。
GP250クラスならイイチームにも入れるだろうし彼の人気は日本以外では、
きわめて高いのだ、依然、いまでも。
それは原田のオフィシャルページでも彼は語っていて・・・

  自らの精神的、肉体的衰えが原因ではなく、勝つための体制を整えられないこと。
  そんな体制で現役を続ける事に意義を見いだせなかった。

自分は、勝つために、走る。
言葉にしてしまったときの、何と軽く響いてしまうことだろう・・・

でもねー、どかの中であの会見で一番感動的だったのは「憧れのNSR500にも・・・」。
ああ、この人は、本当にホンダで走りたかったんだなあ。
子供みたいな憧れが、ずーっと彼の中で息づいていたんだ。
なのに、ホンダは・・・

どこまでも成熟した大人の「確信」とどこまでも無邪気な子供の「憧憬」、
その美しいバランスの綱渡りの果てに見せたあの涙。
どかが最も敬愛したスポーツ選手が、ついに去っていく。
でも「精神の輝き」が裏打ちした思い出は色褪せることは、無い、ぞぉ。

そうそう、第十六戦、いまいちつまんなかった。
バロスくん、大張り切り、ロッシ先生詰め切れず、そんだけ。

Moto-GP Rd.16 SPAIN/Valencia
1位:アレックス・バロス HONDA
2位:ヴァレンティーノ・ロッシ HONDA
3位:マックス・ビアッジ YAMAHA


2002年11月08日(金) Rd.16 SPAIN/Valencia

最終戦は再びスペイン。
そしてレースよりも何よりも、どかの心に響いたのは、

 原田哲也、引退

このニュースだ・・・・茫然自失失失。
ああ、そうなんやー・・・

93年、原田は全日本チャンプの肩書きを持ちGP250ccクラスに参戦し、
その年にワールドチャンピオンまで一気に上りつめる、デビューイヤーにだ。
それまでコンチネンタルサーカスでは日本人は揶揄させる対象だった。
曰くファクトリーやスポンサーの後ろ盾があるから実力も無いのにGPを走る。
そんな風に見ていた欧州プレスの度肝を抜く、才能の発露だった。
ちなみに次の年にはGP125ccで坂田和人がチャンピオンになり、
この世代は日本人ライダー第一次黄金期を創出したと言える。

GPライダー原田哲也のどかが考える特徴はこんな感じだった。
1:タイトで切れ味抜群のシュアーなライディング。
2:冷静沈着、頭脳明晰、レース中の駆け引きは天才的でドッグファイトにめっぽう強い。
3:マシンのセッティング能力がきわめて高い。
4:明確なライバルがその時々に存在し、関係は激烈だった。
5:完璧主義者、自分にも他人にも要求度がきわめて高い。
・・・・こんなところかな。
彼はデビューイヤーをヤマハで戦うのだが、明らかにエンジンパワーの劣るTZ250Mで、
ホンダのモンスターNSR250を打ち負かしていく様は快感だった
(原田はホンダファンで本当はNSRに乗りたかったのだ、
 それをバカなホンダはさして才能のない岡田を優先してしまい、
 あたら天才の芽を危うく摘んでしまうところだったのだ、
 このサブストーリーが当時の原田ファンを熱狂させたのは言うまでもない)。
彼のマシンはコーナリングマシン、直線ではNSRのスリップについて、
そして勝負はいつもコーナー、このレースプランに沿ってマシンはセッティングされる。
マシンの力量を、知恵と技術と勇気で覆していく原田の姿に、
だんだんコンチネンタルサーカスは気づく・・・

また原田はライバルにも恵まれていた、それはいつもイタリア人。
ロリス・カピロッシ、そしてマックス・ビアッジとのバトルは、今でも語りぐさだ。
ロリスは93年の最終戦まで王者を競い合った相手であり、
その後原田のチャンプを卑劣な「故意の接触事故」で奪ったこともGP界では有名。
またマックスとのライバル関係も熾烈で、アプリリアのエースである彼に負けた後、

  ビアッジに勝てないのではない、アプリリアに勝てないのだ。

と言う名セリフは当時のGPプレスを痺れさせた。
マシンのパワー任せで走るのではなく、
知恵と技術と勇気で走ってきた原田のセリフだからこそ、
負け犬の遠吠えではなく、リアリティを持ってGPフリークの心に響く言葉になったのだ。
ライバルライダーが常にイタリア人であったにもかかわらず、
そんな原田の求道的な姿勢はイタリア人にも熱烈に認められて、
カピロッシなんかよりもずっと人気があったのだ、彼地イタリアでさえ、原田は。
もちろんイタリアのみならず、ヨーロッパ全土で知名度はきわめて高く、
さらに日本人で初めて、他国のファクトリーのエースライダーにもなった。

原田哲也は、GPに携わる全てのヒトの考え方を整え直した。
エンジンパワー至上主義ではなく、もっと他に戦う余地があることを、
そしてそれは精神の領域に拠るのだということを、
全ての関係者、フリーク、プレスに知らしめたのだ。
どかは原田がチャンピオンを決めた93年最終戦を見ながら、
涙が止まらなかった。
それはこの希有な天才の精神があまりに美しくかっこ良く、
そしてあまりに凛としていたからだ。
あのレースを観た人生と観なかった人生は変わってくる、
そないに思わせるくらい、彼のパッシングは絶対的ななにかを漂わせてたんよ。


2002年11月07日(木) 邂逅

一人で生きていけるという強い信念をまず持つこと
 → FIRST STEP

そしてそれを木っ端微塵に砕ききること
 → SECOND STEP

憎むべき → 「正論」

 → 一度邂逅したら、ヒトは二度と失うことは無い。

そして →
「言葉は想いにいつも、足りない」・・・


2002年11月06日(水) THE HIGH-LOWS "一人で大人 一人で子供"

ハイロウズの先行シングル第二弾、早速聴く聴く聴く。
おおおおおおおお、来た来た来た来たあ!
疲弊気味の身体にジィインと響くロックンロール、ロックだ。



1「一人で大人 一人で子供」作詞作曲・真島昌利

もっとバキバキのロックナンバーかと思いきや、違った。
ミディアムスローな、ガレージっぽいテイスト、
でもそれでテンションが低いかと言うと全然っそうじゃない。
童謡パワフルバージョンちっくなヒロトのボーカルも、
ダルでギィウーって弾き方のマーシーのギターも、
鉄壁のリズム隊も全部、一つの焦点にバチッと合ってて
全くぶれないことの強さ美しさ。
間奏にフルートっぽい管楽器が入っていたりして意外で楽しい。
そしてそこからピアノが一本入ってボーカルが乗る。
んでドラムが入り、ベースが入り、ギターが乗る、ああああ、
みんなで音を鳴らして一緒に合わせることへの、
原始的な喜びに溢れてるんだよね、これわ。
歌詞も、シンプルで短くて、難解な言葉も遣わず、
でも直接的で力強くて優しくて、温かい。
どうしたんだろう、マーシー、ソングライティング絶好調やん。
怖いくらい、切れてる、冴えてる、すごいな、すごいよ。
「曇天」も凄かったしこれも、バンドで音として鳴らしたときの
凝集力と解放力と、つまりそれらを足して出てくるグルーブが、
とても心地よい、イイ感じ・・・

2「俺たちに明日は無い」作詞作曲・甲本ヒロト

こっちはいわゆるハイロウズ風のバキバキロックチューン。
でもどこか、今までとは違う、自在にシフトチェンジをする自由げ。
日常の映画を観ている情景から、一気にテンション上昇な、
歌詞の風景、ヒロト節の言い回しが相変わらず快感などか。
マーシーの歌詞が例えば西部・西口の148kmストレートだとすると、
ヒロトの歌詞は引退した阪神・星野の85kmのスローカーブだ。
ぱっと見は全然違うけれど、その威力、リアリティはどちらも、
ハッとさせるくらい高いのな。

ヒロトは天才肌で、マーシーは秀才だとよく言われる。
どかはずーっと、ヒロト派で通してきた(マーシー派に対して)。
マーシーの作風は感情の爆発の中に、
理知で磨いたナイフを潜ませるところ、攻撃的という意味ではなく、
冴え冴えとした情景描写や言い回しで一瞬にして、
とりまく世界を転回させてしまう快感がある。
そしてマーシーは常にあるクオリティを外さず「捨て曲」を作らない。
わかりやすく言うと「TRAIN-TRAIN」はマーシー作なのだ。

そして「情熱の薔薇」はかつてのヒロト作だ。
この天使系ボーカルはムラがあって「捨て曲」も少し、ある
(ごめんなさい、でも、そう)。
マーシーがフォアボールを出さない局面で死球や暴投になっちゃう、
そないにお茶目なところがヒロトの特徴、でもね。
ヒロトはマーシーがねらっても投げられないギリギリのインハイを、
例のスローカーブで抜くことがあるのだな、時折、それがすごい。
天真爛漫ときどき哀切系楽曲を作らせると右にでるものはいない。
そしてどかはそんな全ての時間を止めてしまうヒロトの曲を
ライブで聴けるほどの快感を越えるそれは思いつかない、ほど。

・・・ところが最近、マーシーがヒロトに迫ってる気がする。
理知のナイフの代わりにからだ丸ごとそこに飛び込んでくるみたいな。
そんな体を張った切実さが真っ直ぐさがすごい効果を出してる。
演奏のニュアンスがだんだん変わってきて、
なおさらそれがクローズアップされてきた、気がする。

ハイロウズはいよいよツアーを開始する、
どんどん加速度が増しているっ、どないすんねん、どか!


2002年11月02日(土) 祭前夜

松本のポルコ・ロッソは祭り当日に上京するとの情報。
よって、きょう予定されていたどかの演目のリハは中止に。
それはどかにとっては好都合でできるだけ体力の消耗を抑えたい構えだし。

というわけでジムに出向くけれども、他のみんなの衣装を整えたり、
道具立てを手伝ったり横からアドバイスという名のちゃちゃを入れたり。
でもきょう、衣装をつけさせた三番叟は目を見張った。
それはもちろん、いろいろケチをつけようと思えばできるのだけど、
そんなことより、なんというか、身体全体のまとまりがあった。
手や足が身体の真ん中に連動していた、間の取り方も太鼓から外れなかった。
そして、神楽っぽかった、それはべつに普通のことなんだけど、
このジムでその普通のことが達成されるのがどれだけ大変な事なのか、
三番叟を観ながらあらためて思い出していた、そう、これが普通。
普通が大変なんだきっと、がんばってきたもんね、この子は。
エディンが幕の横で口をポカンと呆気にとられてたのも頷ける。
よし、どかもちゃんと、しよう。

明日は晴れるらしい。
去年のICU祭のさんさは天気にたたられてかなり厳しかったから、
普通にバカ山の前で踊れるのがとても楽しい、普通に。
普通のなんと難しい事だろう、全体的に、局所的に。
その後、デジカメでいろいろ遊ぶ。
結果分かったのは、上戸彩はかわいいという事だった。
仮説は、かくして裏付けが取れたのであった(Q.E.D.)。


2002年11月01日(金) おばか

上戸彩のシングルをレンタルしてくる。
聞く。
あのね、いいの別に、
かわいいから、それでいいの。
・・・いいのぉ!

でも、いいなあ、上戸彩。
金八先生第六シリーズに出てたんだよな、
ほぼヒロイン扱いで、一躍有名になったヤツ。

うし。
イケポンに借りっぱの金八先生第五シリーズ、
観ていこうっ!
でも長いんだよなあこれ、
どやって時間作ろっかな?


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