un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2002年10月31日(木) 営業終了

お茶の水駅前のミスドが、
潰れた。
三鷹駅前のバス停の前のモスも、
潰れた。
どちらも、
思い出がたくさん詰まってた店だったのに。

シンクロニシティとはつまり、
それを認知する感性と、
それを納得する意志だ。
感性と意志が揃わないと、
ただの偶然の一致で終わる。

さあ、秋がもう終わろうとしている。
大好きな、勝負をかけた秋が終わろうとしている。
もう、立ち止まれない。

  さあ、夢の中のカーニバルの始まりです。
  この夢を醒ますために、そして最後のカーニバルを開くために。
  アキレス腱は伸ばしましたか。
  深い深い絶望の暗黒の中を走って走って走り抜くのです。
  絶望に悩むのではなく、絶望に生きるために
  (鴻上尚史著「ハッシャ・バイ」)。

・・・それを納得する、意志だ。


2002年10月30日(水) 貯金

仕事が終わって中央線に駆け乗り、三鷹にとんぼ返り。
一旦うちに戻って着替えてから、チャリで芸文に向かう。
今夜の芸能研はずいぶん人数が少なくてコアな時間になった。

鳥舞、三番叟、八幡をみっちりみっちりやる。
疲労がたまっているので適度に力を抜きながら、
あんまし踏みすぎないように注意をしつつ。
咳がなかなか止まらんかったり、するのが少しめんどくさい。
秋に入ってからしっかり足拍子を踏み込んできてるから、
少々休憩を入れても、貯金で何とかなるという確信がある。
だからぼちぼち、行くさ。

そして山向こうから宿敵が帰ってきたら、対決すればいいのだし。
焦らない、焦らない。


2002年10月29日(火) Rd.15 AUSTRALIA/Phillip Is.

実は山形行きの前日、あまねとぶうと、
やいのやいの言いながらVTRで観たレース。
フィリップアイランドは世界最良の二輪レースコース。
起伏の多い美しい丘陵地で海を望める風光明媚な環境、
ときおりレースシーンを海鳥が遮ったり、
激しいバトルの向こうに綺麗な瑪瑙色の海が見えたり。
そしてコースレイアウトは中速、高速コーナーが中心に組み合わされた、
左回りの高速サーキット、いいなあ、全てが。

バロスとロッシのマッチレースになる、というより、
やはりロッシの独壇場なレースだった、んー。
一見バロスとロッシのドッグファイトに見えるのだが、
バロスのテールに張り付いたロッシは余裕たっぷりで、
いつでもどこでも抜ける構え、でも抜かない、一番簡単に、
ロス無く、リスクも犯さないで済む頭脳的な抜き方を探る。
前を向いてアクセルを全開にするしかできない孤独なブラジリアンは、
背中越しにそのイヤな余裕を感じつつ、でも、一度チャンプを前に出すと、
着いていけないのが分かっているから絶望にまみれながらギリギリのブレーキング。
こんなシーンはGPで時折観られるけれど、前を走るライダーの心理を考えると、
胃が痛くなる気持ち、キングコブラに睨まれたケロヨン?

その出口無しなバトルが動き出すきっかけは、周回遅れのマッコイ。
リアタイヤを交換して周回遅れとなったマッコイは「見かけ上の」三位として、
このバトルに参戦する、そこからレースが動く。
オージーライダーのマッコイには、このコースは地元、
全ての細かい機微を知り尽くした上で持ち前の派手なドリフト走行で、
二位のチャンプをつついていく。
ロッシにとってみれば、周回遅れとはいえプレイヤーがひとり増えることは、
潜在的リスクが三倍以上になるということ、このオージーの登場が、
バロスの延命措置に終止符を自動的に打つ
:ロッシが中速コーナーのツッコミであっさり前に出て、その後スパート。
バロスも最後のシフトアップを試み、ギリギリまでラップをあげて追走。
マッコイは何故か楽しそうにドリフトしつつ楽にバロスについて行く・・・

決着は微妙かと思われたが予想を覆して明らかに激しく着いた。
最終ラップ、インをがちがちに固めたロッシの進入コースの、
さらにインを突いたバロスが、クリッピングにも着けずコースをクロスしてオーバーラン。
結構笑ける映像だった、あまねもぶうも同時に突っ込む「おーい」。
やー何が何でも抜きたかったんだろうな、スカしたイタリアンを。
その後先考えない突っ走り方がとても、かあいい、バロスくん。
明らかにいまのGPの中心選手になりつつあるなあ。

今回もロッシの横綱相撲と、バロスの突貫坊やが堪能できる、良いレースだった。

Moto-GP Rd.15 AUSTRALIA/Phillip Island
1位:ヴァレンティーノ・ロッシ HONDA
2位:アレックス・バロス HONDA
3位:宇川徹 HONDA


2002年10月25日(金) 再会

松本のぶう氏、山形遠征のためにいったん上京、どかんちに逗留。
YORKに一緒に行ったあまねと合流、久しぶりに夕食を一緒にする。
この三人で会うのって、ごっつい久しぶり、何年ぶりかしら。

っていうか、あまねの状況の変化にことごとく驚くも「あんまし、変わらんねえ」、
って言ったら「いや、君も変わってないよ」って。
ぶうも変わってないのは一目瞭然だし、ああ「変わらない変われない」三人なのかな。
でも、三人とも実はそれぞれ判っている。
「全く変わらない」ということは有り得なくて「変わっていない」とすれば、
それは意志の力。
自分の中で守りたい部分を守ってきたそれぞれの努力への表彰の乾杯だ。

その後二人はどかんちに来て少しだけ飲んで、うだうだ。
確かに・・・YORKにいた頃の雰囲気、感じ、そんなのが戻ってくるみたい。
軽いめまいがするような(飲み過ぎではなく、あくまで)。
そんなのでOASISの1st.とか聞いちゃうからもう、ぐるぐる。

でも、そんなにイヤな気はしない。
だってそれぞれが過去にすがってる訳ではなく、
それとの距離感を冷静に把握して楽しめるくらいには大人になったからだ。
・・・だと思う。
・・・だよね?
・・・うん。
気のおけなかった友人と久々に会って、ああ、まだ気がおけないねと確認する事は、
何よりも喜ばしい事だとどかは思う、きっと孔子だって賛成するはずだ。
あっという間に日付が変わって、
ぶうは割と早くにダウンしてぐーぐー軽イビキをかいていて、
それを尻目にあまねと二人うだうだを続けていたら・・・
・・・あ、そうだ、今日わたしってばドライバーやんか!
ごほごほ。

でもね、この時間はね、必要だったんだってばさ。
神かけて(孔子にかけて)誓うんさ、うん。


2002年10月24日(木) 精神の構え

佐瀬稔の文章は、松本大洋の作画に似ている。
世代も違うし分野も違う、扱うテーマも全く違うように見える。
でも、どかはどちらの表現様式も、磨き抜かれた強さがあると思う。

佐瀬稔はフリーランスのジャーナリスト、そしてスポーツライターの草分け。
以前にも触れたが、その対象として扱うジャンルは、登山家とボクサー・・・

  5年の間に、試合場の後楽園ホールに若い男性客が目立って増えている。
  彼らは、危険が襲ってくる方へあえて身を投げてパンチをかわし、
  必殺の右ストレートに名誉と自尊をかける同世代の精神の構えに、
  心からの共感を表現した。
  洗練の技巧を支える勇気を賞賛した。
  だからこそ、逆転KO勝ちのあとは涙を流した
 (佐瀬稔著「彼らの誇りと勇気について」)。

これは高橋直人というかつて80年代後半から90年代初めにかけて活躍した、
不世出の「天才」を扱った作品の一節だ、とことん非凡だと思う。
佐瀬さんは決してボクシングについてのみを語ろうとしているのではない。
登山についてのみを解きあかそうとしているのではない。
もっと先の、普遍に存在している「精神」のあり方について書いているのだ。

佐瀬さんはK-1には見向きもしなかった。
晩年、スポーツノンフィクションが徐々に人気を博す時勢が訪れたときも、
淡々と、登山というマイナーな分野にこだわって物し続けた。

つまり・・・そういうことだ。


2002年10月22日(火) どかのトレンド

今朝は寒かったなあ。
なんか、一気にもう、冬な。
冬物、ださなくちゃだわ。

脈絡なく、最近のどかのトレンド。

<最近聴くアルバム>
1 : Syrup 16g 「coup d'Etat」
2 : 七尾旅人「Heavenly Punk Adagio」
3 : THE HIGH-LOWS「Relaxin' with THE HIGH-LOWS」

<最近のアロマ調合>
ラベンダー1滴 + マンデリン2滴 + ネロリ1滴

<最近のお気に入り>
1 : 上戸 彩
2 : 上戸 彩
3 : 上戸 彩

<最近観てるドラマ>
CX系 三谷幸喜作「HR」

<最近観直した映画>
1 : スペーストラベラーズ
2 : クレイマークレイマー

・・・なんかよく分からんな。
まあ、そんな、感じ。


2002年10月21日(月) 遊◎機械/全自動シアター 「THE CLUB OF ALICE」2

「あのときもし、こうしていれば」と自分を振り返る瞬間は誰にだってある。
ちなみにつかこうへいが「熱海殺人事件」というタイトルで、
いくつもバージョンを重ねて役者をかえて上演してきたのは、
この瞬間に発生したそれぞれの「後悔」をヒトがいかに乗り越えていくのか。
それを常に役者の身体で世間に示したかったからに過ぎない。

鴻上尚史は10年間封印公演の「ファントム・ペイン」において、
劇作家という職業の宿命とも言えるこのヘビーな主題に、
往年の戦友である役者たちとまっこうから挑んだ。
そこでヒトはその時々で歩みが近づいては離れていく、
離れていく間際、閉まろうとする電車のドア、
一歩踏み出してホームに降りて彼女のその腕を取っていたら・・・
鴻上は既に「失われたもの」に触れる術がもう無い事を、
いま嘆き続けるのはしばし辞めようと優しく説いた。

  あのときあの瞬間にホームに降りていたとしたらどうなったか・・・
  もしそうしていたら、今ごろ「失われたもの」はどう過ごしているだろう・・・

触れる権利は無くしたかも知れないが想像する権利は無くしたわけじゃない。
想像力こそが、絶望の淵に瀕したヒトたちの穏やかな救いなのだと、鴻上は説いた。
さて、高泉と白井はどういう結論を出したのだろう。

鴻上と比べて高泉の戯曲では「痛み」がより身体的に迫ってくる。
孤独について常に思い悩み、それに対して繰り言を述べ続ける浅野温子(アタシ)は、
皮膚がひきつるような痛みを体現する。
そしてその「痛み」は、自分を責める後悔と周囲を呪う怨嗟とがぶつかる衝撃。
そして狂騒のワンダーランドの果てでアタシを待っているのは・・・
「漠然とした希望」だ。

  もしかしたら、またいい出会いがあるかも知れないし・・・
  もしかしたら、またいいことが起こるかも知れない、し・・・

このアタシの台詞は周りに向けられているのではなく、アタシ自身への言葉。
後悔と怨嗟の無限のスパイラルを断ち切るシンプルで淡い希望。
この希望を心の底から肯定する事が出来れば、既にそこは絶望の淵じゃないよ・・・
この台詞に到達するまでにてっていしてアタシの中の「衝撃」を描き出したので、
この最後のアタシの台詞は印象的。
後悔してるからって他人におもねる「妥協」はヤだし、
後悔してるからって「孤独」がいいのって開き直る嘘もイヤ。
でも「希望」くらいはもっていてもいいでしょ、ね?
という感じかな、遊◎機械。

第三舞台にしても遊◎機械にしても、多かれ少なかれニュアンスが後ろ向きに見える。
でも、実は決してそうじゃない。
鴻上は「想像しろ」とは言ったが過去の思い出に「沈潜しろ」とは言っていない。
あくまで、今という時と平行するパラレルワールドをイメージしてみよう。
そう言っているのだ。
高泉&白井にしたって「希望」を抱いて引きこもりなさいとは言っていない。
そのささやかな「希望」とともに、さあ、外に出て行きましょう(しんどいけど)。
と言っているのだ。

そう考えると前向きな戯曲で、でも実は戯曲自体が前向きなのではない。
「ファントム・ペイン」の最後の長野里美のモノローグの明るい響き、
もしくは「THE CLUB OF ALICE」の最後のアタシに向けられた登場人物の祝福、
「おめでとう」という口々に発せられる響き。
それらが紙一重で戯曲を絶望から救っている事がすごいことなのであって、
それが優れた芝居の優れている所以なのであって、
どかが劇場に足を運ぶのがなかなか辞められない原因だ。


↑雨の青山円形劇場・エントランス(暗いっすね)


2002年10月20日(日) G1菊花賞

 (ああああ!)

府中のグランドスタンドでオーロラビジョンを注視していた競馬ファン全てが、
一瞬にして凍り付いた、声にならないどよめき、喉がふるわない叫び。
どかが全てを認識するまでに必要とした時間は2秒、
いや、実はもっと短かったのだろう。
そうであって欲しくないと念じたその2秒は、
本当はもう事実がそうであることを直感で判っていた上で、
子どものエスケープのように想像力の逃避行へ駆けた時間。2002年9月20日、秋の京都のG1レース、
栄えある五つの「クラシック」レースの一つで、三冠レースのトリである「菊花賞」。
大本命の一番人気、今春の皐月賞を制したノーリーズンに騎乗した武豊が、
落馬した・・・

・・・折しも強く降り始めた雨は、京都の淀レースコースのターフを鈍く光らせる。
どかはこの日、それまでのレースで細かく二つの馬券を獲っていた。
ちなみにどちらも武さまがらみの馬連、きょうも怖いくらい、武さま強ひ。
でも、これは誓って言うが、菊花賞前に少し、どかはイヤな予感がしてた。

  あまりにも強い、強すぎる・・・


↑スタート直前のオーロラビジョン・・・

府中の雨も強くなる、スタート直前、スタンドが奇妙に静まっていく、
風が冷たい、シャツも濡れてきた、でも、足が動かない、
全ての神経はオーロラビジョンの向こう、スタート直後、一斉に向かって右へ地面を移動していく馬群、
刹那、なにか小さい黒い固まりが向かって左の地面に弾きとばされた。
いや、そう見えるのは馬群自体がこの地上の常識を逸した加速度がついたからで、
実際はその黒いかたまりはその場に留まってもんどりうったのだ。
その「弾かれる」イメージはあまりにも、不吉なイメージ。
村上春樹の短編の中の「かえるくんとみみずくん」の「みみずくん」なイメージ、
とにかく不吉で、気味が悪くて、一瞬でイヤな気分になる・・・
そして、長い長いどかの2秒に終止符を打って、実況のアナウンサーが叫んだ。

  ノーリーズン、武豊、落馬ーっ、落馬ですノーリーズンッ!!

あとのことはもうよく覚えてない、あっという間にレースは終わった。
でもどかの馬券はスタート直後にすでにただの紙切れに変わり果てており、
それ以上に深い深い喪失感につつまれていたどかは、ただ呆然と帰路につく。
ゴール後、一時審議が入り、ノーリーズンの落馬についての調査が入るが、
結局、不正な妨害や故意の事象があったわけではないと判明し、
そして、秋のG1の勝ち馬券(馬連)が「10万馬券」となった。
大荒れに荒れたレース、10番人気と16番人気が
連対(一着と二着に入る)したんだから、
そりゃあすごい倍率になるさね。
もしかしたらこのレースを生で見ていなかった人はその倍率の凄さに、
競馬というドラマの享楽を見るのかも知れない。
でも、あのレースを体験したヒトは、少なくともどかにとっては、
「菊花賞」は享楽ではなく喪失だった。


2002年10月19日(土) 遊◎機械/全自動シアター 「THE CLUB OF ALICE」

夕闇に沈む宮益坂を上り、小雨に煙る青山通りを進む、青山円形劇場に到着。
鴻上尚史の第三舞台と同じ早稲田演研出身、同時期にデビュー、
以来18年間もの長きに渡って劇団という枠組みで走り続けた希有な集団の、
これが「最終公演:THE LAST SHOW」、なつなつと観劇。
前売りが取れず当日券の列に並んで待って最前列の補助席をゲット。

青山円形劇場の構造をフルに活用して360度ぐるりと囲んだ客席の真ん中に、
舞台として設置された三層構造の無国籍風の建造物。
最前列からだと二階や三階の役者をかなり見上げる状態になり、
時には姿が完全に見切れてしまって声しか聞こえなかったり。
でも役者は大体下のフロアにいて、至近距離(1m以内)で白井さんや高泉さん、
そしてゲストの浅野温子をまじまじと見る事ができたのはエキサイティングだった。

そう、主演は浅野温子で、主人公の「アタシ」にキャスティング、
中年でひとりぼっちの冴えない女性の役。
看板女優であり劇作家の高泉敦子は、
アタシに忘れられた本の中から現れた「アリス」であり、
アタシを伴ってワンダーランドを道行きしていくトリックスター。
看板役者であり演出の主宰・白井晃はそのワンダーランド中の
うらぶれたクラブの客であり、アタシにアタシと向き合う事を導く存在。

どかが遊◎機械が好きな第一の理由は役者としての高泉さんと白井さんだ。
自分の劇団に所属してかつ、卓越した演技力を見せるその安心感は類を見ない。
全幅の信頼を寄せてしまう。
高泉さんの軽快なフットワークと子どもから老人までを軽々演じきる想像力、
そしてあまりにも魅力的に響くその声。
白井さんの声も深く響いてかっこいいし、キレの良いダンス、
かわいい面とクールな面を自在に出し入れする大人の色気、きゃー(?)。
浅野温子も、大健闘していると思う。
もともと発声のいい女優で演技も芯が定まっているから舞台向き、うん、良い。
そんな浅野温子のアタシが「孤独」と「妥協」の狭間で苦しむのが今回のストーリー。

話は少し飛ぶが、遊◎機械と第三舞台は時代も出自も同じだけあって、
舞台もかなり重なり合う部分があるとどかは思う。
例えばテーマはどちらも「自分探しの旅」という趣がある。
ストーリーも写実的にリアリスティックでは決して無く、
どちらも観客にある種の「ジャンプ」を要求するという点でも同じだ。
けれども「ジャンプ」の構造が違うとどかは思う。
鴻上さんはストーリーのラストで大きいジャンプ台を設置しておいて、
そこにたどり着くまでは観客を役者にひっぱらせて精一杯助走させる。
それに対して高泉さんの書く戯曲は幕を開いたとたん、
絶え間なく中っくらいのハードル台が次々用意されていて、
それを高泉さんと白井さんの軽快なスキップにつられて跳ねてくの。

「ジャンプ」とはつまり、ストーリーに飛躍があり(語られない言葉があり)、
そこを観客の想像力で補っていくシーンやセリフの間のこと。
ジャンプがたくさんあると、やっぱり少しくたびれるんだけど、
遊◎機械は第三舞台と違ってクライマックスがかなり優しい着地なんだな、いつも。
飛びっぱなしの第三舞台と違って。

劇中、アタシをワンダーランドに連れてきたアリスが言う。

  私はヒトリが嫌いじゃないもの、好きでヒトリでいるのよ。
  (妥協するくらいなら孤独を選ぶわよ)

それに対してうらぶれたクラブの客たちは次のようなメッセージを提示する。

  ヒトリぼっちがイヤだってゆっても原因は身勝手にあるんじゃないか。
  (孤独から逃れたかったら妥協は必須でしょ、ね)

この二つのメッセージに挟まれたアタシの「痛み」は、
とても現代的でリアリティのあるものだと、どかは思うのだ(続く)。


2002年10月18日(金) 過渡期

・・・なんだと思う、今は。
総合的に、全体的に、精神的に、個人的に。

ただそれを自分で認識できたからと言って、
何かが楽になったり救われる訳じゃない。

・・・さて、腹式呼吸だ、すう、はあ。
大丈夫、大丈夫。


2002年10月17日(木) Rd.14 MALAYSIA/Sepang (続)

その後、再度ロッシが歯ぁ食いしばってバロスの前に出て二位。
でもかなり後ろのブラジル人が気になるらしく、しきりに振り返る様子が気になる。
そうこうしているとレースも終盤、タイヤもたれてきてるのに、
彼らは頻繁に水平バンジーを繰り返す(コーナーへのレイトブレーキングね)。
だってMOTO-GPの4ストのマシンで直線は最高時速310km出てるのさ。
そこから第一コーナークリッピングで時速80kmまで落とすんだけど、
その減速はたかだか2秒程でやっちゃうんだよ、彼らは。
ただでさえぎりぎり危険なタイトロープの綱渡りなのに、
彼らはさらにできるだけブレーキを遅らせる、
マシンを横に倒してもまだブレーキで後輪がロックしている・・・
アホだなあ、と思う、ヒトじゃないもう、あれは。
でも、だからこそ。
だからこそ、GPのドッグファイトよりもエキサイティングなシーンはまず無いだろう。
日本人ライダーが表彰台に来なくても、面白いレースはやはり、面白いのだ。

さて、調子の良いYZR-M1だが、マレーシアよりついに中野真矢が乗り始めた。
そしてそして、何と、ニューマシンでいきなり6位入賞!
これは各国のプレスがこぞって称えた快挙である。
もともと250ccのレースでは大ちゃんの最強のライバルとして、
煌めく才能を見せた「王子(これはどかとミミちゃんの間の彼の愛称)」だし、
GPのプレス諸氏もみんなどこかで彼のことを気にしていたらしい。
やーでも、マシンさえあれば最前線でフロントを張れるタマであることを証明したんだ、
彼わ!
王子、がんばれー。

ホンダの最強マシンRC211Vは直線では相変わらず最速を誇るものの、
ブレーキングの挙動の不安定さは看過できないレベルになりつつあり、
YZR-M1はストレートでのピークパワーはホンダエンジンに譲る物の、
コーナリングの安定性はやはりヤマハフレームの十八番か、素晴らしい。
そしてラップタイムが近づいてくれば、レースを決めるギリギリのポイントでは、
やはり安定性がものを言い始めるだろう。
ホンダがこの先、何の対処もしないとすると(有り得ないが)、
レイニーやローソン時代のようにヤマハがGPを主導するようになるのかも。

・・・いずれにしても、マレーシアはひさびさに溜飲を下げる内容のレースで楽しかったの。

Moto-GP Rd.14 MALAYSIA/Sepang
1位:マックス・ビアッジ YAMAHA
2位:ヴァレンティーノ・ロッシ HONDA
3位:アレックス・バロス HONDA


2002年10月16日(水) Rd.14 MALAYSIA/Sepang

やっぱり王者・ロッシもヒトの子だったんだなあとホッとする。
すでに自分はチャンピオンになったんだから別にしゃかりきになんなくても、
来シーズンに向けて新規の案件を試したり落ち着いて事故無く走ればいいのに。
でも、ロッシくんはいつでも一番になりたいらしい。
もちろん、それはスポーツマンシップとしてとても評価されるべき姿勢だ。
でも、いまのロッシくんのそれはスポーツマンシップみたいく大人な感じではなく、
負けず嫌いの少年の意地っ張りな感じ、でもどかは、好ましくて好き、かわいい。
GP史上二人目の125cc/250cc/500cc全クラス制覇を成し遂げた偉人と言っても、
まだ若干23歳だもんなあ、だから彼の凄さは少しも減らない。

前の日記で書いたように、ロッシくんが天才大治郎に、
ライバル心を猛烈に燃やしているという噂が流れていた。
そしてそれはどうやら本当だったらしい、
ただし今の対抗意識は先のモテギで勝ったバロスに対してだった。
No.1ファクトリー・ホンダのエースとして、
No.1マシンのRC211Vに最も長く乗ってきたライダーとして、
ニューマシンでいきなり自分を負かしてしまったブラジル人ライダーは、
とうてい認めることのできない存在だったのだろう。
この、あまりにも若いプライド、強烈な自意識、不安定な激情。
これらが今回のマレーシアのレースの、通低音となって響いていった・・・
ひさびさの激しいドッグファイト、面白かった!

大ちゃんは予選三番手、しかし転倒のダメージが残っていたことと、
まだRC211Vのクラッチの違和感が除けてないらしく、
コーナーへのツッコミがトップクラスのライダーについて行かれない。
ビアッジ・バロス・ロッシ・宇川から徐々に置いて行かれる。

ビアッジが調子が良い。
来期RC211Vに乗ることがほぼ決定した後で、
YZR-M1とのマッチングが俄然素晴らしいなあ、皮肉なことに。
そしてコース幅が広い、
この四輪F1用のコースはビアッジのライディングにとてもあっている気がする。
複合カーブも多くてスムースなライン取りをモットーとするイタリア人は、
トップに躍り出ると安定して予選並みのラップタイムを刻み、レースをリードする。

宇川くんは、もう、脇役なので、他のライダーの合間をふわふわ。
まあ、当たり前だけど、このグループでは最下位の四位に沈んでくれて、ありがと。

さて、ロッシとバロスのバトルだ。
YZR-M1の安定性と旋回性がかなりの好評判を獲得してきたのに対し、
王者RC211Vのブレーキングの挙動が全体的にだんだん不安定になってきた。
そしてその中でももっともいま、
不安定なコーナーへのツッコミをしているのがロッシだ。
あれで転ばずにコントロールしていること自体驚きで、エキサイティングとしか言えない。
もう本当に毎週毎週、マシンをほぼ真横に向けてリーンさせていく姿は正気の沙汰ではない。
そしてバロスも名うてのレイトブレーキングの名手、
ラップタイムが近ければおそらく最もドッグファイトに強いライダー。
まず最初にやらかしたのはバロスだ。
ロッシのインにレッドカードぎりぎりに飛び込み、ロッシが外にはじき飛ばされる。
それに怒ったロッシがすぐ次のコーナーでバロスのインにこれもレッドカード的に突っ込む。
ってか、両方、どう考えても、危なすぎ、ブレーキ遅すぎ。
いったんはバロスの前にでるチャンプもラインに着けず、立ち上がりでふくらみ、
ラインを交差してバロスが立ち上がってまた前にでる・・・

うああああ、すげええええ(珍しく続く)!!


2002年10月15日(火) 秋華賞(おまけ)

体調悪い、ごほ。
せっかくだから、日曜日の補足。
どかは京都のレースには相性がいいみたい。
春に獲ったG1も天皇賞だったし。
うん、京都の淀にどかは強い、そういうことにしておこう。

下は、一緒に府中に行ったネコバス氏よりのメッセージ。
・・・でもヤツも、きっちり勝ってんだよな。
さすがどかの馬券の師匠。


2002年10月14日(月) Rd.13 PACIFIC GP/Motegi

妙な話で、世界GPは全16レースあり、そのうち日本では何故か2レース開催される。
まあスペインは3レースも開催されるので日本だけの待遇ではないのだけれど
(日本はファクトリー、スペインは圧倒的なファンの熱気がそれぞれ原因だろう)。
さて、今回は緒戦の鈴鹿に引き続き二回目の日本、茂木(もてぎ)。
このコース、嫌い、面白くない、こちゃこちゃ、ストップアンドゴーで。

大治郎はなんとポール獲得!
しかし・・・リタイア、はあ。
マシントラブルっぽい、ついてないなあ、ほんまに。
そして今回よりRC211Vを与えられたブラジルの英雄、バロスがその分まで激走。
ロッシを相手に互角以上の走りを見せた。
初めてじゃないかな、ロッシと互角にバトルをして、
まあ、チャンプがミスをしたとはいえ、負かしてトップをとったんは。
しかもニューマシン、初レース。
ああ、大治郎にこれをやってもらいたかったなあ。
確かにバロスはイイ選手。
名うてのベテランだし、ブラジルの英雄だし
(レース界ではそれこそアイルトン・セナ以来の彼地の英雄)、
宇川やロバーツやジャックに比べたらそりゃあ好きだけど。
んー、あのライディングスタイルがなー。
でも、今回は、快挙だ、うん、偉い(葛藤多いな・・・)。

そしてバロスの勝利に隠れてしまうが、ロリス・カピロッシ。
未だにNSR500を与えられて、非力なマシンにまたがる孤独なヒール。
そう今まで、カピはGP界きってのヒールだった。
あの、忌まわしい原田のチャンピオンを略奪した故意の接触事故を待たず、
常になにか、ずるくてクリーンじゃないイメージを引きずっていた。
しかし、いま、カピはMOTO-GPでもっとも輝いているヒーローだ。
4スト勢にただ一人、2ストのマシンで互角に渡り合うイタリアの孤高。
このレースも、バロス、ロッシ、大ちゃん(途中リタイア)と、
四人でトップグループを形成し最後までそのペースをキープしたのだ。
それにつかれない4ストのライダーなんてざらだし、
さらに同じ2ストに乗っているライダーはもっともっと後方にあえいでいる。
カピだけが、非力な状況で誰よりもハードなアタックを繰り返し、
気合いと要領で名誉ある表彰台を勝ち取った、かっこいいなあ。

カピロッシは来期、ドゥカティに乗るという。
んー、エディ・ローソンがカジバでキャリアの最後を迎えたように、
カピもチャレンジングなチームでレース界に貢献するのか、かっこいいなあ。

にしてもつまんないサーキット。
次はマレーシア、そしてその次がオーストラリア、フィリップアイランド!
フィリップアイランドはファンドレンテ、ドニントンと並んで、
世界最良の二輪レースコース。
待ち遠しいな、待ち遠しいな。

Moto-GP Rd.13 PACIFIC GP/Motegi
1位:アレックス・バロス HONDA
2位:ヴァレンティーノ・ロッシ HONDA
3位:ロリス・カピロッシ HONDA


2002年10月13日(日) G1秋華賞

京都競馬場で開催される牝馬三歳三冠の最後のレース。
どかは改装中の東京競馬場(府中)に向かった、秋晴れの空。
いくら目の前でレースが見られないといっても、やはり新宿のウィンズよりも、
日なたの下、馬場内の芝生でぼけぼけ競馬新聞をチェックしたり、
メインスタンドからターフの向こうにオーロラビジョンでレースを追うほうが、
どれだけ健康的で気持ちが良いだろう。

メインは京都第11レース「秋華賞」、大本命は武豊騎乗ファインモーション。

ユウキャラットやチャペルコンサート等の今年の春になじみのある馬をおさえ、
さらに蛯名騎乗で対抗一番手のサクラヴィクトリアをからめる。
いつも通り<馬連>で買おうかと思ったけど、新方式の<馬単>、
さらにこれも新式の馬券<三連複>に挑戦してみることにする。

 馬連:一着二着を「組み合わせ」で当てる
 馬単:一着二着を「順列」で当てる
 三連複:一着二着三着を「組み合わせ」で当てる

要するに馬単や三連複はかなり獲るのが難しい馬券でその代わり、
オッズも高くつくということになる。
さて、レースだ。
あ、下の写真はえもやんのデジカメを借りて撮ったの。
メインレース発走の時刻が近づきぞろぞろ馬券売り場からスタンドに出てくる猛者たち。



もう、ファインモーションが別次元のレースをした。
スタート直後から位置どりがさりげなく上手い。
コーナーを立ち上がるときは三番手なのだが、
何というのだろう、迫力、必然、
そこから先の直線で誰よりも速くスパートするであろう予感、
というより確信がイメージとして一瞬に伝わってきた
(かつて神戸製鋼のイアン・ウィリアムスが独走80メートルトライをとる直前、
 誰もがその後に起きる奇跡を具体的に映像化してイメージしたように?)。
かくしてそのイメージ通り、直線半ばにはもう二馬身のリード、
ゴールの時点では三馬身半のリード、
武豊はやるべき仕事をしてやるべき走りをさせて、
プロのジョッキーであることを証明した。
馬自体の強さに圧倒されて呆然としたのはこれが初めてだ。
去年にはダートの怪物、クロフネがいたが、どかは彼とは会えなかった。
でもファインモーションと会えたことは本当に良かったなあとひとりごちた。
なんだろ、サンプラスのテニスのゲームや、GPのロッシの独走逃げ切り、
ボクシングのデラホーヤがKOを決めた試合を間に当たりしたような衝撃。

さて、馬券は馬単も三連複も、むふ、獲っちった、へへ。
馬単はまあ、本命(サクラヴィクトリア:三番人気)だったのでやれやれだけれど、
会心は三連複。
三着の安藤騎乗のシアリアスバイオ(七番人気)をおさえていたのが、
えらい、どかぴんっ。


2002年10月12日(土) 日本総合悲劇協会「業音」2

松尾スズキにとって、芝居は明らかにイデオロギーである。
この作家にはとめども尽きせぬメッセージがあって、
そういう意味ではわりと「古い」タイプの劇作家であると思う。
「業音」というタイトルはもちろん「轟音」とかけられている。
そして昨今、もっともえげつない「轟音」とは何だろうと考える。
そんなの、だって、一つしかないでしょう・・・
9.11に、ツインタワーが崩落した瞬間の、あの「音」だ。
あの「音」がどこから来て、どこに行くのか。
それをこのぬるーい劇作家が作家なりにとらえて再構成したのがこの戯曲だ。
そして実際、ほんのわずか数秒だが、荻野目慶子が劇中、
松尾から虐待を受けている間、映写されたのは9.11の例のシーンだった。

売れない芸能人「荻野目慶子」が車を運転中に携帯メールをしていて、
運転を誤って歩道に乗り上げ松尾の妻、志摩を轢いてしまう・・・
この冒頭のエピソードが、どこから来ているのか(何故起こったのか)、
そしてどこにたどり着くのか(何を示唆しているのか)を追っていく。
救いようのないエゴと貧困のせめぎ合いの中で(実に暗示的なのだが)、
「神が存在する必然性」という問いが実にくだらないエピソードの中で焦点となる。
売春、性病、恐喝、詐欺、性交・・・・
あらゆる下劣なエピソードが軽妙な笑いに包まれて放射されていく。
それは例えば「聖戦」だとか「戦争」であるとか、
大仰なイメージからは100万光年もかけ離れた陳腐なイメージ。

  でもそんな「ぬるい」現実なんだよ、所詮これも。
  どうせ「ぬるい」くせにそんな大げさな「言葉」でダマさんでくださいよ・・・

かつ・・・

  「ジハード」だの何だの、ヒトの存在を超越したところでえらそぶってるけど、
  所詮全部、人間があがきもがいて生きてるのが偉いんすよ、分かってんのん?

そんな感じ?
そして松尾はこの一連のエピソード<エゴと貧困の必然>を、
食物連鎖のそれに例えて、その頂点に位置する人間も所詮排泄物を処理してもらうんだ、と。
その志摩の決めの台詞を踏まえた上で戯曲のクライマックス、
すべての「業」の落としどころ、集約されるところを、
主演女優の「お尻の穴」だと高らかに宣言するのな。
文字にするのも憚れるくらい、ハレンチで下劣なあのクライマックスは、
でも、逆説的に、高い理想をたたえた志のある素晴らしいシーンであるとも言えるのだ。

松尾スズキはそんな彼にとっての精一杯のメッセージを掲げるに当たり、
いつものレベルでバカをやっていたのでは「恥ずかしい」と思ったのだろう。
だから精一杯、自虐的に、バカを徹底して「手段」として行ったのだ。
だから冷静に判断すると、大人計画スタイルが微妙に崩れているし、
いつもの冴え冴えとした笑いのセンスも切れが薄れているところがある。
「過激な下品」の合間に見えたそんな劇作家の「隙」、それは焦燥と倦怠だと思うのだが、
そこがどかはこの舞台への唯一のとっかかりで救いに見えた。

芝居は「イデオロギー」だ、誰が何と言おうと。


2002年10月11日(金) 日本総合悲劇協会「業音」

略して「にっそーひ」。
これは今をときめく劇団、大人計画主宰の松尾スズキの
プロデュース公演のユニットである。
青山の草月ホールでネコバスくんとソワレ観劇。
劇団公演では無いので、看板役者の一人でありサブカル界のプリンス、
現在メディアの寵児である宮藤官九郎は出演せず。
しかし片桐はいりと荻野目慶子という二人の「生ける凶器」が出演。
そもそもこのプロデュース公演を打つ理由というのは、
荻野目慶子を舞台に上げたかった松尾様の悲願に拠るらしい。

しかして、荻野目慶子。
先週あたりからワイドショーを賑わせている「女の業」そのものな彼女を、
舞台で生で観るのは少し怖いのな、「うわ、観ちゃったよ、どしよ」的な怖さ。
しかも、彼女を脱がせるという荒技を軽々やってしまう松尾様。

  薄っぺらい人並みな良識の徒は、歯ぁ磨いてさっさと寝てくださいね。
  ほらほら、目、つぶれますよ、汚いでしょ私ら。

と、ほくそ笑んでいるかのよう、人生を下から観るのはつかこうへいと一緒だけど、
つかは下から上を見るのだが、松尾は下からそのまま下を見るのだね、なるほど。
下から上を見上げるのは、骨が折れる作業。
首も痛いし目もつかれるし、自分もみじめになってくるし、嫉妬もあるし。
そんな骨の折れる作業だからこそドラマツルギーは生まれ、
つかは役者の「熱さ」でこのドラマツルギーを裏打ちしていく。
では、松尾の場合は、何をもって舞台を成立せしめるのか。

つかが例えば各種「熱海」における浜辺のシーン、続くパピヨンのシーンで、
どん底から一気に至高の極みにまで舞台を引き上げる魔法を、
松尾スズキは忌み嫌い、徹底して排除する。
いや「魔法」自体を厭っているのではなく、
「魔法」を成立させる必要条件であるところの「熱さ」が大嫌いなのだ
(なぜなら、彼はシャイだから、基本的に舞台で叫びたくない)。
世界の下から下をどんどん連鎖で辿っていく、
そこにはいっさいの救いは見えてこない、
だれもその位置に満足はしていないけれど、
だれもその位置から脱出したいのだけれど、
みんながみんな「ぬるい」から出て行かれない。
「ぬるくてぬるくて」それがだんだん麻薬的に舞台を染め上げていき、
ジャンキーとなった役者と観客はボォっと軽妙な笑いにつつまれた「地獄」を巡る。
この「地獄」の艱難辛苦のジェットコースターに乗せられる観客のなかに、
もういいよ、お腹いっぱいだよ、偽善ぶった私らが悪かったよ、
と思わず役者に頭を下げそうになる観客のなかに初めてドラマツルギーは生まれる。

つまりこうだ。
ぬるくてぬるくて、人生だめだめで、そろそろガンバロっかな、
なんて今更思うのはこれまでぬるかった自分に申し訳ないから、
捨てるの忘れた不燃ゴミの山に埋もれて今日も人生ボイコット。
でもその不燃ゴミはたまっていくとどうなるの?的な。
その不燃ゴミの象徴としての、春樹風に言うと「アイロニー」としての、
主演女優、荻野目慶子なわけだ。
もう、キャスティングの時点でこれはノーベル賞ものでしょう(続く)。


2002年10月10日(木) 村上春樹「海辺のカフカ」2

今夜は吉祥寺で北海道に転勤になったタケダさんの送別会。
前の部署の社員OBや現役、アルバイトのみんなが勢揃いした。
上はどかの五つ上の代のヒトから下はどかの三つ下の代のヒトまで。
やー、人徳だなあ・・・
まじめに仕事をされるとこんな良いことも巡ってくるんだなあ。

それはそうと「海辺のカフカ」のはなし。
村上春樹の作家としてのターニングポイントは幾つかあると思う。
どかはそれが契機なのかは分からないけれど、
「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という本にまとめられた、
臨床心理学の泰斗との対談は欠かせない一つの契機だと思う。
そこでは「阪神淡路大震災」や「地下鉄サリン事件」についての対話があり、
作家自身の葛藤と決意が、当代一の聞き手により引き出されていた。
かつて絶望という名のブルーに瀕し「やれやれ」と呟いて、
涙を流して立ちすくみつつ消極的に状況を受け入れてきた、
「洗練された構成と軽妙な文体」の作家はかくして、
そこに確かにあるブルーから目を離さず見つめて正対し、
困惑と決意の狭間で揺れながらもひるまない断固たる意志を獲得した。

一世を風靡した、自らの代名詞たる「洗練された構成と軽妙な文体」を捨ててまで、
作家はこの作業をたゆまず続けてきた。
 「スプートニクの恋人」
 「ねじまき鳥クロニクル」
 「神の子どもたちはみな踊る」
などはこの作業に伴う困難を読者がたどれる貴重な軌跡だ。
ある意味、村上春樹は、ちょっと下世話な物言いと、
無骨でざらついた文体を厭わなくなっていった。
「海辺のカフカ」もどこかごつごつしていてへこみがあるイメージで、
例えれば「高麗青磁」のような隙間無い高密度の美ではなく、
「志野焼」のようなあえて残された隙間に奥行きを感じさせる美かな。

これまでどかがいくつか目にした「カフカ」についての書評のなかで、
やはり河合隼雄のそれが最も説得力があったような気がする
(雑誌「ダ・ヴィンチ」収録)。
臨床心理学者はこの小説は、
対立するいくつもの二項の狭間に成立していると指摘する。
どかなりにそれをふまえて考えてみると、
狭間にあるものとは例えば
「橋」「大島さん」「海辺」「一五才という年齢」
「生き霊」「山小屋」「ロードスター」などなど、
こういったキーとなるアイテムは全て何かしらの狭間に浮いている、
「アイロニー」としてのブイなのだ。

田村カフカくんは父親との狭間に浮いている「呪い」という名のブイを、
みずから履行しそれを終わらせてしまいたいと願う。
しかし、三つの呪いを完遂したように見えてもまだ、
田村カフカくんは自由になれない。
気ままに揺れているように見えて決して自由ではない「ブイ」のように。


2002年10月09日(水) 村上春樹「海辺のカフカ」1

ついに読み終える、ひさびさに読書が一日の中で一番の比重を持つ最近だった。
まだ、うまく自分のなかで消化できていないので、あまり、書けない。
村上春樹はいつも、レビューらしきものをまとめようとすると大変だ。
また、今回の長編に関しては既に現時点で雑誌で特集が多く組まれており、
著名な方々の書評もいくつか流れているのでなおのこと書くのがしんどい。

だから「カフカシリーズその1」の今回は周辺事項をつらつらと。

まずこれはどかの他のレビューにも言えることだけれど、
ネタバレはがんがんしてしまうので、読まれる方は注意していただきたい。
無意識のうちに、なるたけ、ネタバレしないよう心がけていた節があるけれど、
なにぶんか細い無意識のことで、だいたいにおいてネタバレはあるみたい。

第二に、どかの周辺には村上春樹のファンはかなり多いのだが、
その友人の中でも、どかがこの人は一番ディープな「春樹読み」だ。
と認める会社の先輩にメールで感想を伺ってみた。
したら彼は、

  まずこれだけの作家が、なお自らのスタイルを壊して高みに昇ろうとする、
  そのことに敬意を表したい。
  作品自体への評価はまだちょっと消化できていないから無理。
  傑作かも知れないし、駄作かも知れない。
  けれども作家にとっての契機となる作品である気はする。
  イメージとして近いのは「ダンスダンスダンス」だと思う。

とのことで、はあはあ、ナルホドォという感じ。
どかの中では「スプートニク」や「世界の終わりと・・」や、
「ねじまき鳥」や「羊を巡る冒険」のエッセンスが、
あらたな角度から照射されて一つのイメージになった感じがする。
それはバラバラっぽくなく、一つの凝集したカオス的なイメージ。

第三に、どかはこれを読みながらずぅっと意識していた他の作家の作品がある。
それは、小説ではなく、漫画なのだけれど、
<岡崎京子「リバーズ・エッジ」>。
そして岡崎と村上という二人の天才のアプローチの違いについて、
ぼぉっと想いを巡らせるのが楽しかった、すごく。
日本の女流漫画史上、究極の到達点を示す
「リバーズ・エッジ」のテーマは帯にも明記された<愛と暴力>。
「カフカ」のそれと重なるテーマは、しかし全く違う手法で
(それは漫画と小説という違いではなく、もっと本質的な語りの問題)、
それぞれ比類無き輝きを持つに至っているのだ。

最後に、どかはこのタイミングでこの小説に出会えた自分の運の強さを、
とても誇りに思っている。
通常、はやり物には背を向けて、悪態をつくのが決まりのどかでも、
村上春樹がどれほどメジャーでミーハーで売れっこ作家だとしても、
「海辺のカフカ」は、どかにとって、とても大切な宝物だ。
「世界の終わりと・・」が、かつてどかの留学生活を、
芯から支えた宝物であるのと同じ意味合いで。


2002年10月08日(火) ベストセラー

「海辺のカフカ」もうすぐ読み終える予定。
本当に面白いと思う。
何でもない普通の情景描写なのに、なぜか戦慄が走る。
これはもう、他の作家では起こりえない体験。
きっとすごい部数が売れていて、
すごい人数がこの本を読み進めていて、
同じような、でも微妙にちがう感情を喚起されているんだろうな、
日本全国で。
きっと、この瞬間に限れば「聖書」や「般若心経」などを、
遙かにしのぐ「読まれ率」なのだろう、この本は。
そういう意味では、よしもとばななも、江國香織も、
町田康も、辻仁成も、池澤夏樹も、かなわない。

どかは帰りの電車とわずかな昼休みにのみ、
ページを進めるのでとても読むのが遅いらしい。
どかの周りの友人や先輩はもう、おおかた読み終わっている。
どかにネタばらしをしたくてしたくてたまらんらしい。

「じゃかあしい、だまってえ!」

それはそうと、今朝のJRのダイヤの乱れはひどかった。
総武線もあおりを食って、どかは運良く座れたからよかったものの、
あれで立ちんぼやったらまずまちがいなく、倒れてたな、うん。

でも、帰りのダイヤは普通。
また、すこしずつ、読み進めていく。
実際のどかの置かれた状況とシンクロしていく。
今夜は阿佐ヶ谷で一瞬、ウルっときたが我慢我慢。


2002年10月07日(月) ダウナー

体調、悪し
(踊りの調子は良いのだけれど、なかなか)。
気温が上がったり下がったりするからだ、まったく。

気管支のけだるさをひきずって、かけずりまわって。

獲得アイテムと遭遇イベント。
掃除機withネコバス氏。
次回の出演依頼のミーティングwith師匠&ドラ。

うう。
気ばかり焦ってしまう。
でも、ここまできたら焦っても仕方ないのか。

カウントダウン、ダウンだよ、カウント君。


2002年10月06日(日) 楽園幻想

今朝は、昨日の疲れがどっちゃり到着して、
あと、なんやかやで少し、イライラ。

・・・いろいろ、大変だった、きょうは。
全部、自業自得というのが泣ける。
曲がり角にさしかかるというのは、きっと、
そういうことなのだろう。
イニシエーションというのは、
バカ山でかつて情けなかったのを思い出せば、
きっとそういうことなのだろう。


2002年10月05日(土) 民舞出演・国際協力フェスティバル @日比谷公園特設ステージ

日本各地のNGO団体が日比谷公園に集まってお祭りーっ。
というイベントなのかな、よく分かんないけれど、
このフェスティバルの実行委員の一人がナツナツの友人で、
彼女が民舞に出演依頼を持ち込んでくれる。
そんで、ややすったもんだがあって、演目を決め、出演する。

まずは、反省。
太鼓のしごきと帯を忘れたのはどかの責任です。
ほんま、すんません。
衣装フォローしてくれた親方、ごめんなさい、ありがとう。
衣装フォローしてくれたモヂ、ごめんなさい、ありがとう。
本番中、太鼓のしごきが外れたのも、多分、どかの責任です。
フォローしてくれた師匠、親方、すんません、ありがとう。

ま、そんなわけで、どかはことさらここに自分の感想を書く資格すら、
危うい気がしないでもないんだけれど、
これは"DOKA'S DIARY"なんだし、いいや、好き勝手。
と、日頃のストイックなポリシーはうっちゃっておいて、
感想を書いてみる(「ヒトに厳しく、自分に優しく」?)。

感想。
気持ちよかった。
以上。

補足。
狭さは逆に、楽しかった。
以上。

一番印象に残ったこと。
テントで旅芸人みたいにこせこせ着替えたこと、
なんだか、昔の民舞に戻ったみたいで懐かしかった。
以上。


2002年10月04日(金) ひみちゅ

そうは言っても「じこちゅー」という表現はやっぱり語弊がある。
自分の踊りたいように踊っていて、そこに進歩があるのか、なんて。

だからあ、それは半端な「じこちゅー」なんだってばさ。
他人の目というより「自らを客観視する」なんてことは、
そんなの、当たり前も当たり前、言わずもがななことであって、
ことさら騒ぎ立てて言うほどのことじゃない。
そんな気分で7年間、踊ってきて8年目。

今夜も少しだけ、稽古に顔を出す。
ここんとこの練習で意識しているのはすごいシンプルなこと。
たった二つの点だけを、外さないように常に意識している。
少しずつ、うまく馴染むようになってきた、よしよし。
その二つが何かは、ひみちゅ。

にしても、八幡は、すごくいい演目だ。

その後、みんぶのみんなと食事、かつその後、
ネコバス氏とその友人であるところのホシ君と飲み。
ホシ君、ナイスガイだった、どかの実家の近くに下宿してるし。
会社にも、ガッコにも、どかの交遊範囲にはあんまいないタイプ。
あ、強いて言えばハルに似てるか、でも楽しかった。


2002年10月03日(木) 北極星と黄色い声援

例えば以前は、全然衣装なんて着けなくてもかまわない。
って思っていた。
自分はヒトに見てもらうために踊るのではないし、
自分はヒトに認められるために踊るのではない。
自分はじぶんで踊りたいのだから踊るのだし、
そこには他人の目が無くてはいけないなどとは思わない。

・・・こういうと必ず反論があって、
そんな「じこちゅー」でいいのかって・・・
でも、どかは思うに中途半端な「じこちゅー」ならいざ知らず、
本当にぴかぴかに磨き上げた正真正銘の「じこちゅー」なら、
それなりに存在してても許されるのでは無いか。
どこで自分のゴールを設定するのか、
そもそもゴールは設定すべきものなのか。
北極星を頼りに北に北に航海を進める夜の大海原の筏のイメージ?
別に、北極星があればいいのであってそこに、
「どかさーん、応援してるわーん」なんて黄色い声援がいるのか。
なんて。

でも、最近は、衣装を着けて踊りたいという気持ちが強くなってきた。
それは別に、見られたい、認められたいという欲求ではない。
でも、衣装の「束縛」を克服したい。
というフィジカルな壁への挑戦欲というのでも無いみたい。
なんやろ?
うまく言われへんけど。
でも、衣装着けて見たいと思う、少しね。

そんなわけで次の土曜日は楽しみだったりしている。


2002年10月02日(水) いまは

早めに会社あがって、三鷹に戻ってきてメイロウと、
その奥さんであるところのユカちゃんと食事、ユカちゃん久しぶりー。
二人とも同じくらいの驚異の推進力を持っている、
ちょっとかっこいい、魅力的なカップル。

以前の知り合いと会うのは楽しいものだけれど、
時々胸が苦しくなったりするものだ。
どうしても昔話が盛り上がってしまうし、
昔の知り合いが今どうしてるかという話以外に、
先にはなかなか対話が進まないからだ。
かえって、あかの他人、よりも。

今夜は、違った、そうはならなかった。
過去の話と、現在の話、そして未来の話がどんどん展開して、
安易なセンチメントに堕ちていかないから。

でも、きょうは、何度か弱音が口の端をノックする。
コンコン。
コンコン。
視線が下がってくる、カラヤンが辛い。

それでもいまは、いまはどかは前に向いて歩かなくちゃ。
止まっちゃダメだ、歩かなくちゃ。
朝には、卑小さが沁み渡っている自分をふとんの中に発見して、
夜には、骨の髄より滴り落ちる疲労をこぼさないよう電車に揺られ、
それでもなお、均質の時間に浸されて損なわれていくものを、
慎重に選び取って守んなくちゃ、
ふっと新しい風が吹く、異質の時間にまで、運ばなきゃ。


2002年10月01日(火) ん・・・

台風直撃、満員の中央線の中、
片手で村上春樹を読みながら、
ゆらゆら、ぎしぎし。

あー。
もぉ10月かぁ。
会社では異動という、
スペシャルイベントがある日。
半年、経ったんだな、アラスカから。

 まだ、思い出せる?

 ・・・ん、大丈夫。

夜空を真っ赤に染め上げる、
奇跡のブレークアップ。

 ・・・大丈夫。
 私は、あれに遭遇したんだ、
 大丈夫。


どか |mailhomepage

My追加