un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2002年08月30日(金) シンクロニシティ

仕事が終わった後、前の職場でバイトしていたおーかわと飲んだ。
彼女は本当に人生前向きに生きていて、偉いなあと思う、素直に。
仕事の話とか私生活の話とか聞いていてもなんだかいつも視線が上向きで、
聞いていて気持ちがいい、すごく。
まー、自分の最近を顧みつつ、
彼女には刺激を受けまくって帰った。
高校時代のある友人と久しぶりに話がしたいなあとか思っていたら、
電話がなり、おーかわから、

  聞いてくださいよ!
  いま、駅で○○さんに会っちゃったんですよ!

って報告が入る。
○○さんというのは、今日の飲みでもテーマの一つにのぼった方で、
ヤツにとってごっつい大切で大きい存在のうちの社員。
もうずいぶん会ってもないし話もしてないし、
という唯一彼女の話の中で明るくないテーマだったんだけど、
それがいきなりその日の夜偶然バッタリ。

あーあるんだよねーそーゆーことー。

と、思っていたら再び電話が鳴り

  おー、どかー?
  元気ー?
  いまどこよー?

って高校時代の親友、タクちゃんから電話が!
さすがに、しばし唖然、うまく口がきけんかった。
興奮してたけど話がまとまんなくて、
メアドだけ教えてもらって電話切ったけど、
あーびっくりしたー。

でもこういうことを声高らかに謳いあげると、また違ったことになる。
だからこんな「偶然の幸せ」に巡り会ったときは、
じつはこれは「偶然なんかじゃないんよね」って心の中で呟いて、
それでさりげなくその儚い明かりを消さないように、
ぎぅって抱きしめることがせいぜいできること。

オカルトに陥らず、「現実主義」に片寄らず、
美しく綱渡りをしていくコツはそんなところだと思う。


2002年08月29日(木) よしもとばなな 「王国 その1アンドロメダハイツ」

「吉本ばなな」改め「よしもとばなな」の第一作は、
作家の処女作の「キッチン」に迫る最高傑作の一つとなった。

どかは、吉本ばななは大好きな作家の一人だけれど
(もっと言うと三本の指に入る作家だけれど)、
実はもう下り坂のヒトだよなと、尊大かつ失礼ながら思っていた。
キャリアの最高点が処女作に来てしまい「TSUGUMI」でもう一度がんばったけど、
あとは自ら持つ不偏のテーマを文章に落とすことが辛そうで、
それが分かったから読んでいても時々辛かった(「アムリタ」とか)。
いつぐらいからだろう。
その下向きのベクトルが上向きになったのは。
「ひな菊の人生」や「ハードボイルド/ハードラック」くらいかな。
また面白くなってくるのかもと、期待する流れが起こった。
そして今作だ、完全復活、よしもとばなな、面白かった!

「キッチン」にいろんな意味で似ている作品だと思う。
でもあの一世を風靡した作品よりもすべてのポイントで進化している。
文体も、あの「ヘタウマ」という言葉で形容された文体から、
全く変わってないように見えながら実は、凄い変わった。
言葉一つ一つが徹底的に吟味されており、流れを阻害せず、
かつイメージをより広げるような言葉がさりげなく綴られている。
その徹底的な校正の跡をほとんど残さないのも、また気持ちが良いし。
テーマも、処女作と比べると確実に一歩前に進んだことがしれる。

「キッチン」の主人公みかげにとっての<キッチン>は、
「王国」の主人公雫石にとっての<サボテン>だし、
みかげにとっての<料理>は雫石にとっての<お茶>だし。
しかし白眉は次の点。
みかげにとっての<雄一くん>は雫石にとっての<楓>、
そして<真一郎くん>なのだ・・・

「キッチン」では主人公の辛いときに寄り添う<同志>として雄一くんが登場するが、
彼は後に<恋人>としての存在にもなる。
しかし今作において作家はあくまで<同志>と<恋人>を丹念に分ける作業を行う。

  楓は私と永遠のきょうだい、友達でもあり、師でもある。
  楓は私の運命の一部なのだ(「王国」よしもとばなな)。

どかはあくまでこの二つの要素を混同せずに分ける文脈に、
よしもとばななの作家としての底力を感じた。
だって、それ、一緒にした方が簡単に本、売れるもの、至極簡単に。
そのほうが一時の感情に押しつぶされて辛い(辛がってる)ヒトを、
慰めて包み込む作品に仕上がるもの。
それは突拍子もない例えだけど「ザ・ブルーハーツ的優しさ」だ。
でもよしもとばななは甲本ヒロトが辿った道を行くかのように、
辛い逡巡の道をなぞり「ザ・ハイロウズ的透明さ」を手に入れた。
その「透明さ」は汚れのない真っ白さという意味ではなく、
冬の寒い朝の身体に差し込むような空気の純度、
木々の葉っぱを取り去って本当の姿を浮き彫りにしていく厳しさ、
それの裏返しに見えてくる(見えてくるヒトには)優しさ。
そして本当の本当は、
こういう「優しさ」をデビュー以降ずぅっと書こうとしていたのだけれど、
筆が追いつかずにその手前で止まってしまいその先を匂わせるにとどまっていたのが、
吉本ばななだったというのがどかの印象で、
それがよしもとばななはいろんな辛い経験や修行を経て、
ついにそこに直接手が届くところまで来たんだなあという。
それがこの傑作を読んだ後の感想だった。

  あの小さな願いは空の上に届いて、
  どこかにそして至る所に存在する大きな力を少し動かしたに違いない。
  冬の空にうずまく冷たい風が星をまたたかせるように、
  私の願いが矢のように空を渡って、聞き届けられたのだ
  (「王国」よしもとばなな)。

・・・一人の作家を信頼しついてきて良かったと思える。


2002年08月28日(水) 古畑 vs ・・・

きょうは上出来、だった仕事。
隣の先輩にまた小言を頂いたが、あんまし自分では痛くないことだったので、
平気さ、全然。
というか、水曜日のくせに、忙しくて大変だったけど、ま、良し。

そういえば昨日の日記で書き忘れたこと。
途中からだったけど気になってたドラマを夜、見た。

TBS系「明智小五郎対怪人二十面相」。
田村正和が明智さんで、北野武が二十面相。
それに脇を固めたのが古畑シリーズでおなじみの
三谷幸喜主宰「東京サンシャインボーイズ」の元劇団員だったから、
やっぱし気になる。

ヒロイン役の宮沢りえが足を引っ張ってたのは同情するけど、
でも、イマイチだったな、なんだか。
だって「明智対怪人」じゃあなくて、
なんか「古畑任三郎対タケちゃんマン」やったもん。
ま、それはそれとしても、時折挟まれるCGがチャチ過ぎやった。
なんで日本人ってこんなにCG、ヘタクソなんやろ?
”ATTACK OF THE CLONES”見たあとやからかな、もう、
貧しいCGは実写でやる金をけちろうとしてるとしか思えないから、
もう、悲しくなってしまう。
あれ?
でも?
「ピンポン」のさりげないCGは凄いはまってたのになあ。
CGやるにしても時間とお金をかけなくちゃってことなんかな?

江戸川乱歩はいくつか読んだけど大昔で、
またかっちり読み直したいなと思う。
だから今回のドラマも、原作の雰囲気とどうなのかとか、
全然わからへんかったけど、唯一、
どかの中で比較対照となるものがそー言えばある。
一年ちょい前に観に行った舞台だ。

いかに世界の北野でも、近藤正臣と比べられては適うべくもないか・・・
でもCGとかカメラのアップとかパンとかフレームワークに頼らなくても、
そんな技術とはかけ離れた生身の肉体だけでも、
いかにリアリティをこの世に現出させられるのか。

安っぽいクライマックスの爆破シーンを観ながら、
わずかな火薬すら使わなかったあの舞台を思い出していたドカだった。

というわけで久々に過去のレビュー、アップしました(→扉座「アゲイン」)。


2002年08月27日(火) ああしんど

午前中に、しばらくなかった「オオポカ」をやらかす。
相手先は韓国のとあるメガバンク、金額も大きかった。
実損が出たわけではないけど、何となく班内の雰囲気がピリピリ。
私の胃もキリキリ。

・・・仕事、終了。
今までで一番大変だった、この日は。
茫洋として暮れていく夕刻の明かり、節操なく染み込む暗くない夜。

そんな良くない一日の、良いこと二つ。

ひとつ、今呼んでるよしもとばななの新作が、かなり面白いこと。

もひとつ、帰宅してメールを開けたら先輩のすごい良い知らせが。

その知らせを自分のこと見たくごっつい喜べた、
そんな自分をまだ、ほめてあげられて。
そこまで来てやっと、今日はなんとか、生き延びられたんだなと実感。
物理的即物的意味ではなく、もっと別のレベルでサバイヴできたんだな、って。


2002年08月26日(月) \400とキゥと静かな系

行きつけの銭湯に行く。
週末、ばたばたしてて洗濯もでけへんかったし、
コインランドリーもついでになったから。
銭湯、気持ちいいー。
さいこー、いうことなーし。

いろんなヒトが入ってきてまたそれも飽きない。
今夜は彫り物を見ちゃってそれはちょっとビックリやったけど。
でも\400で、あそこまで極楽気分を味わっていいのかしらん。

部屋に戻ってビール、キゥ。
・・・仕事のことがリセットでき・・・たような気になる瞬間。
こんなふうな才能なら、どかは結構いいとこいけると思う。
ささやかな自分の世界、うすーい壁を周りに張って、そこでほんわか。
そんな才能なら、あるかもしれない。

そんなときに流す最近のBGMは割と静かな系で、次の二つ。

1:七尾旅人「HEAVENLY PUNK ADAGIO」
2:レイ・ハラカミ「RED CURB」

次のハイロウズの新譜とツアーまでは、静かな系でスゥっとしてよー。
そんでそんで、踊れるときに、きちんと踊ることにしましょう。

うん、それがいいわ。


2002年08月25日(日) ゴールデンエイジ

夜、新宿の「かりゆし」っていう沖縄料理屋さんへ向かう。
サークルのOBのとよぷく氏が帰省してて、彼を囲もう。
という、OBのクワジィ氏の企画に乗っからせていただく形。
昨日の練習にとよぷく氏は来てたらしいのだけれど、
ドカは出られなくてでも是非、昔世話になった先輩に会いたくて。
でも行ってみたらメンバー、濃かったああああ。
つまり、親方、猿田彦氏、ガッシィ、クワジィ、とよぷく氏、そして私。
往年の(ごめんなさい)黄金世代が一同に会す感じ、これであと、
山の神氏がいたら・・・こっゆぅー。

練習に行かれんくてごっつい残念やったけど、しかもブウも上京してて、ひえ。
だけど、それを埋め合わせてあまりあるくらい、楽しかった。
そうそう、この、感じ。
昔の、このサークル・・・
これがただの郷愁に駆られた懐古主義な集まりやったら、
ちょっとかっこわるいけれど、それぞれがみんなが身体張っていたたた、
でもやっぱりかっきー・・・からOKだと思う。

話題は何かなあ。
「盛者必衰の理」と「スルタンのハーレム形成法」について?
猿田彦氏が爆発してた、最初から。
それをガッシィと親方が厳しくつっこみを入れて、
クワジィが楽しくチャチャ入れて、
とよぷく氏が「なんやそら」ってゆう無茶なまとめ方をして、
どかが横でケタケタ笑っている・・・
はずやったんやけど、いつの間にか土俵に引きずりあげられて・・・
だーかーらー、どかはもう、王様の座から降りたんだってばさー!

みんなそれぞれ、何かしら自分のなかに一本筋の通っている人たちだから。
だからふざけた話をしていても、空しいだけで「あーあ」で終わらない。
あくまでバカっぽく大笑いしてんだけど、でも。
かすかにちゃあんと次に繋がっていく感じ。
あと、今日のメンバーってばみんな、神楽を、「ちゃんと」踊るヒトばっかだった。

・・・なるほどねー。

いつもは苦手な沖縄料理も、この店のは美味しかった。
「ろ○ーる」のって、決して旨くないのな、ゴーヤチャンプルー。
すごいたくさん笑って、すごいたくさん嬉しかった、
でもさりげない新宿の夜だった。


2002年08月24日(土) 大阪にて

しばらく会わない親戚に久々に会う。
久々だからみんな、どかにたいしてどこか優しい。
これが大阪にずっといたら違うんだろうな、やっぱ。

通夜にしろ葬儀にしろ、あんまし嫌いではない。
それは当然悲しいし、寂しいし、辛いけれど、
「悲しい」とか「寂しい」って決してネガティブな感情ではない、し。
好きな理由は何となくみんなが同じ気持ちを持ってそこにいるから。
これだけなんだけど。
でもそのピンッとした凛々しい雰囲気は、
不謹慎で恐縮だし語弊がありそうだし、まあいいか、好き。

別件だけど叔父の車の助手席に乗った。
メルセデスベンツS600L。
ベンツの中でも一番(文字通り一番)高価で\1,600万の車。
やーすごかったー。
っていうか、マーチ君とベンツ。
両方運転するとdriveという動詞になるが、
同じ動詞でくくってしまってええんかいな?
っていうくらい根本的に違う経験だった。

その後、父親に新大阪の駅までホンダS2000で送ってもらう。
ああ、これもまた違う経験だ。
マーチ君とも、ベンツとも。
地面をダイレクトに滑っていく感じ、
エンジンの動きを身体で実感する感じ。
どかはこれが、一番好き。

また、今度、ゆっくり帰ろうと思った。
大阪はやっぱし、落ち着く。
大阪弁も一気にナチュラルに戻るし。


2002年08月23日(金) 帰省

訃報が届く。
予期せず、大阪に帰る。

明日の練習、楽しみだったんだけどな。
と、言ってる場合じゃない、とっても。

朝、忌引休暇の申請を出して、
っていうか、もう申請出すのめんどくさくて、
サボりにしてやろうかと思ったけど、
ヒトとしてそれはどうかと思ったので連絡して。

大阪に着いてすぐ、通夜会場に直行、ようやく祖母と会う。

最後に会ったのはいつだったかな。
分からない。
最後に別れたとき、笑ってたかな。
・・・うん、ちゃんと笑って別れてた。
・・・良かった。


2002年08月22日(木) 町田康「きれぎれ」

芥川賞受賞作、読み終える。
確実に強度の増した文体と、破滅的に広がっていく妄想という名のイメージ。
この人はどこまでいくのだろう?

要するに一人の男の友人が絵描きで「何たら」という賞を受賞、
その男はそれが妬ましくて自分もやってやろうと奮起するのだが、
まず画材を買うお金が無く、当のライバルに無心に行く、が。
というのがプロットらしきもので、
でも実際の小説はもっと煩雑なイメージがひしめいている。
ちらっと呼んだことのある、ジェームス・ジョイスの作品みたい、と思ったり。

  あの残像を青空に。
  描こう。

  ストーリーが必要なんだけれども、すべては青空が基調だ、
  この青空を俺は感じていたい(共に「きれぎれ」町田康)。

自らはベクトルの向上を望むのだけれど、それが一向に叶わない。
というかむしろ、周りから見ると自分の没落を意図しているようにしか、
まるで見えないっぷりのスピードで堕落。
堕落していく自らを含めた俗世から見上げた青空(=精神世界?)は、
一瞬美しく、すべてを包み込んでベクトルを変えてくれるかと思いきや、
主人公はこの後、猛烈にしっぺ返しを食らってまた、落ちる。
その後精神世界での救いを懇願しイメージの世界をさまよい歩くも、
紆余曲折あって俗世への志向を結局は諦めて呑まざるを得なくなる、が・・・

  川。
  その川の畔に大観覧車。
  土手の上の道路を走る自動車の前ガラスに反射する光が、
  クラクションの音が、
  排気ガスの香りがここまで、
  こんな嘘の神社にまで届いている。
  あすこには水がある。
  言葉がある(「きれぎれ」町田康)。

怒濤のような煩雑かつ熾烈な言葉を連ねたイメージ世界の果てに、
この転向を用意するすばらしい戦略。
主人公と同一化したこの作家の特異な文体の効果は、
読者を否応なく真っ暗闇のジェットコースターに巻き込んでいくこと。
巻き込まれた読者はもう自らの意志や感覚や感想とは無関係に、
横溢する町田の言葉の雨を飲み干さなければならない。
それはとても辛いこと、というか、途中で読み終えずにやめるヒト、
結構いると思う、このヒトの作品は。
でも。
作家への信頼があればそのジェットコースターは決して途中で
レールが切れていないことが分かる。
安全バーにしがみつきつつ、目は閉じないで暗闇の向こう、
黒く光るその一点を見据えられる。
実際、このすべての希望と思われた「大観覧車」は、
近づいてみるとチンケな子供だましの代物なのだが、
それでもその観覧車の下で、男は現実世界にかろうじて踏みとどまる。
イメージは暴走し、妄想は破裂し、下降没落破滅へのベクトルは止まらないが、
それを極めつつ、極まりつつ、でも外見はつくろいつつ。

最初からネガティブなスタート地点に立っていて、
後ろ向きへ猛ダッシュをかました作家のクライマックスは、
そこに「立ち止まる」だけで果てしない上昇気流を生むほどのマジックを含んでる。

江國や仁成のそれとは100万光年も離れた読書体験だ、これは。
疲れるけれど、も。


2002年08月21日(水) ちゃんと

今週は職場、きっついなあ。
きついきつい・・・
でも夜は久しぶりの芸能研の練習、歯ぁ食いしばってぇ・・・

で三鷹駅を降りて、自宅によってスーツを脱いで、
チャリ(名前、もう決めなくちゃ)に乗って三鷹芸文、地下へ。

鳥舞二回、三番叟一回、で課題演目。
ブラッシュアップが必要だ。
四月以降、ずぅっと身体も気持も大変だけどさ、
ちゃんときちんと、足をまっすぐ下ろすだけ。
腰、腰を入れなくちゃ。

「鳥舞」と「三番叟」が気持ちいい、面白い。
というか、難しい。
でも何回踊っても踊れた気がしないのは何故だろう。

久しぶりに「課題演目」最後まで通した。
だんだん、忘れてた細かい手、微妙な間合いを思い出してきた。
やる気の高まり、尋常じゃない。
うん。


2002年08月20日(火) 無限じゃないから

ヒトがヒトを拒否するとき、もしくは拒絶するとき、
「する」ヒトと「された」ヒト。
どちらがより辛いかと言えば、それはもちろん「された」ヒトだ。

でも時々、独りよがりのバカがいて、
「いやあ、やっぱこっちのが辛いんだよなー」とか、
「相手の気持ちを思うとやりきれないっすよ」とか、
アホなことを言ったりする、アホか。
こんなアホは嫌い。

断じて、断頭台にかけられても、誓って言うが、
「された」ヒトより「する」ヒトが辛いことなんて有り得ない。

何故か。

それはヒトの想像力は無限ではないからだ。
想像力はその人の努力と才能と訓練次第で、
確かにどんどん広がりはする。
しかし、それは無限ではない。

これが理由だ。

「される」ヒトにはだから、第三者がガンバレって言うことも憚れる。
でも憚りながらであれば「ガンバレ」
って言っても許されるかもしれない。

この「かもしれない」だけが救い。

「ガンバレ・・・」


2002年08月19日(月) 西原理恵子「ぼくんち」

読まなくちゃ読まなくちゃ。
とずぅっと思っていてなかなか読み切れなかった。
彼女の他の作品は持っていたし、
最近の「サイバラ茸」も1と2両方持ってた。
ようやっと、西原理恵子の代表作、堪能することができた。

話は脱線するが、サイバラでどかが思い出すのは、
部活の先輩、クリゾウさんのことで、
彼は本当にサイバラを愛して止まなかった。
クリゾウさんはなかなか起伏に富んだ人生を送っていて、
今は岡山県の山奥で家具をこしらえながら生きてる。
でもそこにたどり着くまで何度も境遇を変え、
引っ越しを繰り返したけれど、
他の本は処分してもこれだけは手放せないと、
残していたのが「ぼくんち」だった。

クリゾウさんはどかと最も長く連れ添ったダンスパートナーで、
「八幡」を何回も何回も一緒に稽古して本番を踏んだ。
ドカが大学四年の夏休みは、どこにも旅行など行かず、
週に三回一日三時間、
ひたすら一緒に「八幡」を踊り続けた。
どかのキャリアの中で一番数多く、
足拍子を踏んだ季節だったと思う、あの夏は。
ジムに来る部員はほかに一人かせいぜい二人で、
でもマンネリなんて全然関係なくてたっくさん汗かいて。
それでその後、お好み焼きやナスバターをつつきつつ、
ゑびすビールでキュッと乾杯。
週に一回くらいのペースでその店に通ったけど、
やっぱりマンネリなんて関係なくて。

クリゾウさんは理屈っぽかった、とにかく。
またとにかく皮肉屋さんで、斜に構えてるところがあって、
ヒトが良い気分になってると必ず脇にスッとよってきて、
ボソッと痛いところに押しピンを刺してきたりする(慣れるけど)。
頭は良くて東大くんなんてやったりもしてた。
踊りは・・・すごい華があったわけでは無かった。
拍子や間の取り方も独特で、肩も少し堅かった。
でも、すっごい真面目で練習も毎回ひたむきに来てて、
堅実に、重心や腰を大事に踊るところが、
どかには凄いかっこよく見えた、特に「三番叟」。
部活でももっと華やかに派手に踊れる舞手は何人かいるけれど、
あんなに説得力に満ちた神楽はあんまし見ない、感じ。

大学四年の秋、どかは師匠にある演目を教えてください。
と、サカイ駅前の「天狗」で頭を下げた、
でもその演目はどかの頭なんか、
最近のマクドの値段ぐらいに下げても下げたりないくらい畏れ多い、
ほんとに「100年早い」と言われても仕方ない演目だった。
でも卒業を目前に控えて、さらに今よりも3倍程自信家だったどかは、
強くお願いしたが「早すぎる」とかなりキツイ口調で一蹴された
(あのころは師匠もまだまだ怖かった、いま優しいけど)。
かなり険悪なムードが漂い駆けたその時、
同席していた、クリゾウさんがボソッと口を開いた。

「まあ、どかも可哀想なところがあるんですよ、
 先輩はかなり上のヒトばかりだし、
 近い学年で同じように踊れるのもいない。
 それで少し、自分の位置というのが見えづらいというのもあるんですよね」

冷静かつ、沈着かつ、正確な意見。
でもそのときのどかにとっては、優しくて優しくて、
胸にしみる助け船だった。
思いもしなかったクリゾウさんそのものの科白を聞いて、
ドカはもうビックリしてしまって、
人前で涙があふれて止められなかった、「天狗」で泣くとは・・・
「ぼくんち」の3巻を読みながら泣いてて、
その涙の味があの4年前の涙のそれに似ていた。
「クリゾウさんはサイバラのエッセンスをきちんと呼吸している:冷静と情け」
これがクリゾウさんへのどかが贈れる最高のほめ言葉だと思う。


2002年08月18日(日) フキコシミツルとロイヤル室内バレエ団 「フキコシ・ソロ・アクト・ライブ」

三茶のシアタートラム、ネコバス氏とマチネ観劇。
「ロイヤル室内バレエ団」つってもこれは、
元「ワハハ本舗」出身の吹越満の一人芝居で。
芝居、なんだろな、コントに近いけど、
でもコントと芝居の境界って微妙で楽しい(「ワハハ」自体その境界)。
例えば今、最もチケットをとるのが難しいお笑い「ラーメンズ」は、
コントを限りなく芝居に近づけたもので、
この一人芝居は舞台役者・吹越さんが限りなく芝居をコントに近づけたもの。
でも、これは芝居だと思うんやな、ドカは。

吹越さんで思い出すのは野田芝居の「Right Eye」と「贋作・罪と罰」。
とくに「贋作」が面白かったなあ。
筧利夫と野田秀樹はとても相性が悪く、やはり「贋作」でも筧さんはイマイチで、
で吹越さんが主役の筧さんを食うくらいの身体のキレで熱演してた。
筧さんの狙いすました身体ではなく、少しはずした不条理な身体。
そしてそれは今回の一人芝居でも炸裂した・・・
笑ったよお、もう、ホンマにい。

のっけの「顔面ネタ」にはイマイチ乗り切れなかったが、
「双子の兄弟ネタ」はもう、本当に大好き!
役者の身体を前方より複数のライトで照射し、
舞台後方のスクリーンにシルエットを二体映す芸なんだけど、
本当に良く練られてて、時折の下ネタも楽しくて。
というか、観てるヒトはあんまし意識しないだろけど、
あれは役者、すごいきついと思う。
だって野田が言うところの「スローモーション」で20分くらいもたすんやもん。
できません、普通の鍛え方の身体では、あれわ。
そんなキツサをおくびにも出さないで、嗚呼。
次、中盤らへんにあったネコバス氏お気に入りの「手ネタ」。
スクリーンに映された「手」の形が何の動作なのか、
クイズの回答者になった吹越さんが悩みつつ当てていくという「芸」。
パントマイムが冴えてたなあ、楽しい。
あと終盤の「鬼ネタ」も好きー。
これは何のことはない「カフカ的不条理変身一人芝居」なんだけど。
息子の学芸会を見に行きたいリーマン親父が、
なぜか鬼になったり、桃太郎になったり、
豚になったり、蠅男になったり、一寸法師になったりする、
そんなのをデリンジャー銃のような早台詞と、
機敏なモーションで見せる「芸」。
これも凄いなあ、役者だなあと思う、少し筧さんチック。
もうずっと台詞を言いつつ身体を移して20分間、
少しもキツサを顔には出さず、すげーカッキー。
たくさん大笑いもしたんだけど、見とれてる時間も多かった気がする。
引き込まれた、あのスピードを支える不条理な身体に。
「芸」だ「芸」。

結構「デジタルビデオ実況」
とかスクリーンやら、
小道具を使っての一人芝居なんだけど、
それが決して逃げには見えない(野田の「2001人芝居」のように)。
なぜなら、吹越さんはちゃんと身体を張ってるからだ。
吹越さんのは「ネタ」じゃない、だからこれはお笑いじゃない。
お笑いを下に見るわけではなくて、質の違いで。
あれを「ネタ」と呼ぶのは違和感がある。
研ぎ澄まされた身体、あくまで身体を張って練り上げた「芸」を見せる、
でも見てる人に感心させるのではなく、あくまで笑いをきっちり取る。
決してキツサを表に出さないからそれが出来る。
「芸」だよなあ。
たっくさん、気持ちの良い笑い方が出来た、うん。

その後吉祥寺で、ごっつい美味しい串カツを食べる。
幸せー、おいしー、わーい。
今日は、良い日だ。
こんな良い日もあるんだ、たまには。
ガンバロウ、いろいろ。


2002年08月17日(土) マグリット展@Bunkamura

疲れが結構極限までたまっていたらしい、
昼過ぎまで体動かず。
なんとか布団から抜け出して、顔洗ってシャツを羽織って、
渋谷を目指して井の頭線に乗った。
Bunkamuraザ・ミュージアムに着く、なんと入場券に並んでる。
はああ、並ぶのキラーイ。
でも7分くらいで入れる、なんだ、大したこと無い。
一昨年のフェルメール展in大阪で、ドカは三時間半並んださ
(思い出したくもないけど)。

さて、マグリット。
ドカは実はあんまし好みではない、マグリット。
でも日本人にはすごい人気がある気がする、ヨーロッパの人たちと比べても。
マグリットの嫌いなところは、かなりドカの中で明確でつまり、
「ギャラリーにクイズをしかけてくるその横柄な態度が嫌い」だ、はっきり言えば。
別にシュールレアリスムが嫌いなわけではなくむしろ好きで、
ダリもミロもエルンストもクレーも、
マグリットと同じベルギーの巨匠デルヴォーなんかごっつい好き。
逆に言うと、マグリットだけが引っかかるのだ。

でも人気が出るのもよく分かる、だって誰にも分かりやすいものな「分かりにくさ」が。
絵に全然興味の無いヒトだって、マグリットの絵の前に立てば、
何が書いてあるかは分かる、直接的な意味で。
さらに、そこには何か隠された画家の意図があることも簡単に分かる。
というか、その意図を観る者に押しつけてくることこそが彼の芸術だものな。
好きな人はそれを押しつけられても平気で、
絵の前でボォっとクイズを解くことが楽しいのだろうが、
そもそも絵画ってそういうものなん?
そんなんただの記号、もしくは符牒でしかないやんか。
もちろん優秀なルネサンスやマニエリスムの作品にはそのような符牒がちりばめられている。
が、それは二次的な付随的な要素であって、それを取り払っても作品として成り立つからこそ、
400年の月日を超えて今日にまで生き残っているんやと思う。
でもマグリットは違う。
謎解きを「手段」ではなくもう「目的」としてとらえている。
画家自身は「見る人がいろいろな思念を巡らせてくれれば良い、正解は無い」
なんて言ってるけど、嘘だと思う、やっぱり。
それほどにカンバスの上に彼が敷いたレールは深遠だけど明確だから・・・

デルヴォーとマグリットの違い。
たとえば「死」という概念。
それをマグリットは「棺桶」で描く。
デルヴォーはそれを「骸骨」で描く。
たとえ稚拙でも、後者が好き。
前者はドカにはあざとく感じられて仕方がない。

展覧会自体はすごい良いと思う。
マグリットの二流作しかないのかなと思ってたら、結構良いのが来ていた。
昔ベルギーの王立美術館で観た懐かしいのもあった。
二つだけ、そんな「マグ嫌い」なドカでもジンっとくるのがあった。
やっぱり「空と雲」を使うのは反則だよな、この人の専売特許ではあるのだけれど。
ごめん、訂正しよう、
「マグリットも、時々、すごく、良い」。


2002年08月16日(金) アフリカ象

会社にいてさあこれからまた残業。
っておもってたら、社内放送。

「明日、日本テレビ系列で24時間テレビが放送されます。
 私たち・・・は、共催として・・・、カードで募金しませう」

自分がアフリカ象やったら、あの長い鼻で笑ってやりたい、ケッ。

「自分は安全な船の上にいて、溺れている人に向けて浮き輪を投げる人を見ると、
 私は吐き気がするんですよ(野島伸司「この世の果て」)」

そんなに会社の名前で募金させたかったら、まずたまってる個人債権、
手放したらええんちゃうんかいな、ホンマ説得力の無い。
自分がアフリカ象やったら、自分の牙を折って象牙細工を配ろかな、きっといい金になる。
でもどかはヒトだから、それはやんない、募金もしない、
少なくとも日テレにはやんない。

ボロぞうきんのようにくたびれて帰宅して、
ボォっとして、少しうたた寝して、あ、そうだ。
と、思ってビデオでつかこうへいの「二等兵物語」を観る。
これはドカは生で観てないから、レビューを書く資格が無いので書かない。
でも、少し、いろんな「偽善」にまつわる、それは自分も含めてなんだけど、
それが晴れて気持ちよくなった。
ある意味、北区つかこうへい劇団の黄金時代がここにあるんだろうなあ。
スター未満の駒揃い、ダンスがすばらしく切れが良い。
従軍慰安婦と二等兵との恋物語in満州。
偽善を拒否することへの、つかなりの方法論、泣けないけど、面白かった。


2002年08月15日(木) 群唱

平田オリザと青年団の代名詞が「同時多発会話」だとすれば、
鴻上尚史と第三舞台の代名詞であるのが「群唱」。

先の台詞はクライマックスの群唱の最初の箇所。
鴻上は大海原を埋め尽くす白波を何千と駆けていく白兎のイメージを投影し、
あとを続けていく・・・

  ・・・母なる海が荒れれば荒れるほど、
  ごうごうと続く高速道路が叫べば叫ぶほど、
  目覚めるための助走の速度は増していく。
  やがては生まれては消えた何十億という白兎のうちに、
  よるべなき大空へと辿り着くひとつが、現れるだろう
 (鴻上尚史「ハッシャ・バイ」)。

・・・今朝、起きて思った。
チャリの名前、白兎でいっかな・・・

会社から、ぼろぞうきんのようにくたびれて帰ってきて、
iBookくんをいじってたら、MP3はあかんかったけど、
メールのアドレス帳は復活した、
こうして、途絶えない助走も、あるのだ。


2002年08月14日(水) 寝る前に一つだけ

なんだか、目が悪くなりつつある気がする。
電車の吊り広告の小さい字がかすむ。
目だけは良かったんだけどな、
代わりにだって運は生まれたときから悪かったし(BY大山金太郎)。
仕事のせいだ、絶対。
あんな細かい数字を延々ディスプレイに見てたら、
そら、サンコンさんでも視力落ちるっちゅうねん(暴言多謝)。
会計の基礎知識がないことが、悔やまれる、
結局イメージの有無がスピードを分けるのな、
スピードが遅くて焦ると、精度が落ちてくる、あとはもうネガティブスパ・・・

北海道に戻った「教授」より、メールを頂く、かなり嬉しかった。
「教授」といっても前の部署の上司なんだけど。
アトリウムで一緒にデカダン談義をしてたころを思い出して、
ずいぶん遠いところにきちゃったなあと思う。
疲れやら感傷やら・・・
でも、まだ、大丈夫さ、自分のベクトルは傷ついては、いない。
鴻上尚史に好きなせりふは、たっくさんあるけれど、寝る前に一つだけ読んだ。

  その時私は、私の人生を終わらせるために、真っ白な砂浜に立っていた。
  海に向かい膝を濡らし歩き出す私に、もう一人の私がこう告げた。
  今日私はあの人に会いに行こう。
  この街からあの人の住む街に戻ろう。
  そして、はっきりと伝えよう。
  私が私であるために必要なその言葉を。
  そう決心する私の思いを高速道路の騒音は見事なほど美しく砕き尽くす
  (鴻上尚史「ハッシャ・バイ」)。


2002年08月13日(火) リストア

昼下がりの駿河台、あるコーヒーショップにて。
外は風が、強い。

 A:はいアップルサポートセンターです、
  トラブルについてお伺いいたします。

 D:あのですね、実は誤って再インストールしてしまって・・・

 A:・・・待ってください?
  ということは、それでバージョンダウンしてしまったのですか?

 D:ええ、そうなんですよぉ。

 A:おかしいですねえ、
  再インストール時にはバージョンダウンの上書きはしないよう
  プログラムされているのですが・・・

 D:はあ。
  すいません(なぜ、あやまる、私よ)。

 A:そうなるともうあとは・・・

 D:え、リ、リストアっすか?

 A:ええ、それが一番安全で確実かと・・・

 D:だってデータとか全部とぶじゃないですかあ。
  ヤなんですよね、あれ、前もしたんですが。

 A:ええ、ドカ様のその履歴も残っています・・・ただこの場合は・・・

 D:(ため息)わかりました。

と、いうわけで、帰宅後まずAPPLEのWEBサービスの".mac"に接続、
ダウンロードの処理を進める。
その後、リストア実施!
しかしそれが悪夢の始まりだった。

リストアがなぜか途中で中断してしまい、
その後はうんともすんとも言わへん。
最初からリストアやり直そうとしても、システムディスクがなぜか、
ハードディスクを認識できず、路頭に迷う。
何でやあああ。
またこの子(注:iBookくんのこと)を、
里子(注:修理のこと)に出すのんかああ、いややそんなんん!
と声にならない悲鳴で充ち満ちた部屋で一人、

自らがiBookくんの付属品となって格闘奉仕すること一時間。
埒があかない・・・

一時間半後、半ばあきらめて絶望に泳いでいたら突然、
奇跡的にリストア再開!

二時間後リストア終了、iBookくん復活!
すぐに音楽ファイルとメールを戻す、はずが、戻らへんん。
ああ、500個のMP3ファイルと、
たくさんのメアドが無くなったあああ。


2002年08月12日(月) またグズる

つかれたー、うー・・・
残業したくないっつーのに、一時間半もミーティング。
だから二時間以上もの残業が必然に。
なんか、おかしい気がする。

世間はお盆らしい。
何だか、懐かしい響き。
最後にお盆を大阪で過ごしたんなんて、
いったい、何年前になるんやろ?
総武線も、中央線も、神田駿河台も、どことなく人口密度が低め。
快適だけど、少しむなしかったり。

またiBookくんの調子がおかしい。
五日ほど前にいきなし"OS X"が起動ディスクとして機能しなくなった。
それでいろいろ試したけれど何だかいつも"OS 9"ばかり立ち上がって、
結局データを全てチャラにしてもいいやくらいの覚悟で"OS X"を
再度インストールしてみたら、データもちゃんと残ってて、あ、ええんちゃうのん。
と、思ったのもつかの間、それまで"OS X"を10.1.5に、
バージョンアップしていたのが当然再インストールのせいで10.1.2になる。
そのせいでiTunes3という音楽ソフトが起動しなくなり、
あわてて再度10.1.5にバージョンアップしようとしたらそれが、全く無理。
「このディスクにはマウントできません」だって。
そんなわけでいま、全くMP3が聞けず、すなわちiPodくんが拗ね拗ねで、
そんなこんなで、どかぽんも気持ち悪い日々。
たぶん、以前に"OS X"の10.1.5をダウンロードしたときのログが残ってて、
そのログのせいできっとマウントできなくなってるんだろうな
(・・・そうか?)。

いずれにしても、手詰まり。
明日アップルコールセンターに電話しよっかな。
でもさあ、会社残業で、19時までに帰ってこられへん。
したら昼休みにしか電話でけへんけど、そしたらiBookくんにさわりつつ対処でけへん。
したら、会社にこの子を連れてくか、という話やけど・・・

それはヤなの。


2002年08月11日(日) 野島伸司「この世の果て」追記

要するに第四話が、このドラマのハイライトだと思っていたどかから、
最終話がやはりこのドラマのハイライトなんだと気づくどかにしてしまった私の経験を、
肯定できるかどうかなんだろうな。
肯定できる?

・・・

「この世の果て」に辿り着かないで、その場所のことすら知らないで幸せになって、
年老いていくことのなんと魅力的なことだろう。
そんなナルシスティックな独りよがりと背中合わせ、際どいな、でも・・・。

・・・そういえば、野島伸司ってば、いわゆる「愛を超えたところのもの」を
テーマにすることが少なくない気がする。
直接的に、近い視点で書かれた脚本としては「101回目のプロポーズ」や「美しい人」、
「リップスティック」が挙げられると思う。
「101回目」では浅野温子が「求める愛ではなく受け入れる愛」に気づいていく話だし、
「美しい人」では大沢たかおが自らの「求める愛」に焼き尽くされ平穏の境地に達するし。
「リップスティック」では再び三上博史が広末涼子をパートナーに、
「自己愛」の克服を目指すストーリーだ(ごくごく、簡単に言えば)。

そのテーマの表出形態が最も美しく結晶しているのが「この世の果て」である、
というどかの気持ちは、全てを通して二回観た今でも変わらない。
全てのキャストが素晴らしくかみ合っているというのも一つのポイントだけど。

ちょっとメインとは外れた視点だけど、トヨエツ、ラヴーッ!
もう、めちゃくちゃかっこいい。
このドラマ、ヒーローの三上博史がボロボロに堕ちていく格好悪さの権化なだけに、
脇のトヨエツの格好良さが青天井で上り詰めていく。

  ぼくは一度に十人の男とつきあえる女より、
  一人の男と十年つきあえる女が好みでね(第五話「愛だけを信じて」)。

まりあ 助けてくれたの?どうして?
神谷  インコ、もらったからな。
まりあ ブルーは出店で800円だよ。2,000万もしない。
神谷  値段は買い手が決めるものだ。他人にはつまらんもんでも。
    おまえは自分で思うよりずっといい女だ(第十一話「愛する者の死」)・・・

  哀れな奴だ。お前は一生後悔して生きるだろう。世の中には星の数ほどの女がいる。
  しかしその中に、お前のために命さえ差し出すような女は他に一人もいない。
        <涙を流す士郎>
  お前は、お前が犯した罪と失ったものの大きさに苦しみつづけるんだ。
  たとえまた生まれ変わったとしても。未来永劫に(最終話「未来を君に捧げる」)。

ラーヴーッ!!
くぅあっこいいー!
やっぱりトヨエツはワキにつくのが良い。
絶対、それが、良いよ。

最後におまけ。
ドカの中の「勝手に野島どらまランキング」。

東横綱:「この世の果て」   西横綱:「未成年」
東大関:「美しい人」     西大関:「ストロベリーオンザショートケーキ」
東関脇:「高校教師」     西関脇:「ひとつ屋根の下」
小結:「リップスティック」      「人間失格」etc・・・


2002年08月09日(金) 野島伸司「この世の果て」4

最終話、観終える、しばし、呆ける。
4年前の自分は、何も、分かっていなかった。
いや「何も」というのは違うな、少なくともこのドラマには、
何か特別なものがあると気付けたことだけは、評価できる。
4年前のどかの観終えた瞬間の感想はこうだった、すなわち、

「恋愛は何でもありなんだ、理由なんて、求められない」。

これを総て観てこの結論しか得られなかったかつての自分が、
耐えられないくらい幼いと思う。
いまのどかなら一言で感想を求められたなら、こう言うだろう、

「唯一の例外を除いて愛は愛のみで存在し得ない」。

・・・

相手に何かを求める愛は、それ自体「自己愛」を含んでいる。
「優しさ」が至上の価値とされたバブル前夜、
「プラトニックラブ」が標語となった世紀末、
野島は巷にあまりにもやすく溢れる「愛」を一掃するため、このドラマを世に問うた。
つまり「愛」は生やさしいものではなく「君たち」が「愛」と語る物は全て、
ほかの付属物に補われてようやく体裁を保てる不完全な精神なのだ、と。
その付属品がつまり「馬」であり「孔雀」であり「虎」であり「羊」だったのだ
(ここで言う「羊」とは、自分が愛されたいという欲求を含んでいる)・・・
そんな巷にあふれる「愛」と呼ばれる物を否定しきった後に、
野島は自らの「愛」を定義し得たかというと、それは適わなかったというしかない。
そのベクトルを追求し続けることをその旨とされた登場人物達は、
みな、つぎつぎと壊れていってしまうのが、このドラマのプロットだ。
砂田なな(桜井幸子)を一途に思う三浦純(大浦龍宇一)は投獄され、
ルミ(横山めぐみ)を一途に慕っていた仁(松田勝)は自ら両目をえぐらざるを得ない。
そして、まりあも・・・
盲目のななを救う代償として法外な金額をまりあに要求した眼科医吉田も、
その人生に闇を抱えて生きてきたことが最終話に明かされる。
彼は植物人間と化した妻と20年暮らしてきたというエピソードだ。

  これが私に与えられた運命なんだ。人間は愛だけで生きるんじゃない。
  運命を受け入れて生きるとき、より穏やかな幸せを掴めるかもしれません。
  もうこれで何かにもがき苦しむことも無い(最終話「未来を君に捧げる」)・・・

このサブキャラクターの一言の重みに、4年前の自分は気づくことができなかった。
その後の自分の経験と、価値観の推移によって初めて、今だからやっと、
「この世の果て」と言われる場所がどういう場所なのか分かった。
それはやはり、唯一の安息地である箱船から、
漆黒の海原に身を投げるとき初めて出現する場所。
「愛」という精神が無力化するその向こうに、
「運命」という黒く鈍く光る物質に身を委ねる場所。

「無償の愛」、まりあは文字通り聖母をそのイメージに背負い、
第十一話で覚醒剤中毒となった士郎くんの身体をベッドに縛り付け(磔のイエスのように)、
体を張って禁断症状の著しい彼を更生させようとする。
バックに流れる賛美歌、その美しい響きとは対極にある、むごい映像、叫び声、断末魔。
運命、この世の果て・・・

  この世界では、もう僕は自意識に苦しむ事も、
  失った何かを取り戻そうと苛立つ事も・・・
  まりあ、僕は君を失うことで君を取り戻したんだ(最終話「未来を君に捧げる」)。

なるほど、あー、そうかー。
やっと、分かったよ、そうかあ。
「愛が愛のみで存在し得るのは、それが消えていくこの世の果てでのみ、だけ」。


2002年08月08日(木) 癒し?

・・・だめだ。

きょうは少し、自分が、嫌いになった。
だめだ、だめだめ。

・・・

ミケランジェロのピエタ、どかが今まで見た彫刻の中でベスト。
バチカンで、防弾ガラスの中に守られている白亜の奇跡。

癒し?

ううん、違うな。
自分の現実を突き詰めてくる「精神」だ。
いたいいたい。


2002年08月07日(水) 町田康「夫婦茶碗」

きょうの午前中は散々だった。
昨日の夕方作った資料が主任に褒められて「へへん」といい気になっていたからだろうか、
いや、違う(反語)。

会社を早めに上がって、でも芸能研の稽古も無いしなとふてくされる五秒前、
思い立って三鷹市市民センターのプールに泳ぎに行く。
これでも幼少の砌、五年間ほどスイミングスクールに通っていたもんじゃよ、ほ、ほ、ほ。
と、余裕かましてたらこれが結構、大変、
まあ、某ホームページの「雑記」に刺激されたわけとちゃうんやけど、
600メートルばかし泳いで上がる、気持ちいい疲労感。
どうして泳ぎ終わった後、バスタオルにくるまると、幸せな安堵感に包まれるのだろう?

こういう生活を送っていれば、自分の輪郭が明確になる、あやふやに、堕ちない・・・
堕ちると言えば某ドラマの士郎くんだが二日前読了した小説も凄まじい堕ちッぷりだった。

町田康、その昔は、町田町蔵という通り名で「INU」というバンドのボーカルだった。
と、言うと先だってミポリンと結婚しやがった某作家とかぶるところがあるかもしれないが、
どかの中では雲泥の差で、町田康は凄いヒトだと思う(ということはジンセイは、略)。
最近の小説は、一人称で書かれる物が増えてきた、というかほとんどそればっかり。
別にそれを否定するのではなく、
他人との距離感そのものが文学として成立するテーマな時代だから当たり前。
町田康は、いや、町田節はその一人称を徹底的に推し進めたところに、
まるで奇跡のように存在する結晶。
いや「奇跡」とか「結晶」とかきれい目な言葉を弄すると、
あまりにも即物的な町田フレーズからはかけ離れたイメージになる。
とにかく、主人公が、下司なのだ。

人並みのスタート地点からどこまでヒトとして品格をおとしていくことが出来るのか。
読みながら、さすがにむかむかしてくるところもあった、が、
それは月並みで安っぽい小市民的な「良心」の悲鳴であり、
そんな安っぽいもの、薄っぺらいものを、総からげに引っぺがそうというのが町田節だ。
「夫婦茶碗」ともう一つ「人間の屑(←まんまやん)」という中編二つを読み終わって、
この感触、グルグル感、虚脱感は前に読んだ何かに似てるなと思った。
さっき、プールから上がってそれがハタと思い当たった、ドストエフスキーだ。
ドストエフスキーの「白痴」や「カラマーゾフ」を読み終えたときの感覚にそっくり。
確かにあのロシアの小説の登場人物も、どんどん堕ちて行くし、それを神も救えない。
という絶望を展開部で提示し、それを物語のグルグルで盛り上げていく力業、
そう、それは「ちからわざ」の感覚だ。

実際「夫婦茶碗」にしろ「人間の屑」にしろ、
「ロープなしバンジー」というかそれって
「フリーフォール、でも油圧のフォローなしよ」的なエグイ堕落の果てに、
幻でも夢でも狂気でも何でもいいからと力業で持ち込むカタルシスは、
特筆に値する、専売特許としてもいいくらいの快感である。
「夫婦茶碗」のラストは部屋で涙ぐんだし、
「人間の屑」のラストは総武線に揺られながら総毛立った。

  それにしても敵は多勢である。
  自分は、平家十万の軍勢を蹴散らした、
  旭将軍木曾義仲の火牛の計の逸話を連想しながら、
  「わぎゅう。僕は和牛だ」と絶叫し、
  セーフティを押し込んでライフルをフルオートでぶっ放しながら突撃していった
  (「人間の屑」より)。

おいおい、芥川賞が泣くやん・・・
でも、あなたの「力」を信仰します。


2002年08月06日(火) 野島伸司「この世の果て」3

第七話まで観る。
そろそろ、士郎くん、腐ってくる。
士郎が部屋を飛び出した後の呆けたまりあの顔が、痛い。
四つのうち、どれを連れて船に乗るかという話。
第四話のラストのモノローグ、士郎はこう呟く。

  過去を捨てる、この痛みを、愛しいまりあ。
  君に未来をあげられる。喜びが消してくれる。
  ただの男としての僕は今、君と生きていくんだ(第四話「流血の運命」)。

<ただの男として>というのは文字通り、馬もクジャクも虎も羊も供とせず、
船には乗らず、まりあのいる海に飛び込むという覚悟を語っている。
この覚悟は、後の展開をふまえたとしてもそれ自体、とても美しいものだと思う。
そして普通の脚本家なら、このあたりでドラマを最終回におとして、
キレイにまとめるのだろう、ちゃんと盛り上がりもあるし
(というか並のドラマの12回分を凌駕するほどのインパクトが第四話までですでにある)。
しかし上っ面のきれい事をそのままにしておかないのが野島伸司の作家としての業だ。
この突き詰め方は劇作家ならつかこうへいや、文筆家なら町田康などに通じる物がある。
そしてその業は当然ながら壮絶な痛みを観る物に強要していく。
やわな「良識」や「品格」などをすべて蹴散らす剛速球の「痛み」だ。

実際士郎は類い希なピアニストの指とともに「仕事」を失い、
名家の出である妻とともに「金」を失ったところが、
第五話が始まった時点での士郎くんの現在地だった。
しかしまだ、捨てていないものが物が残っていて、
野島はそれをまず奪いにかかる:つまりそれは「プライド」と「愛」だ。

虎に象徴させられた「プライド」は実は士郎君のなかで簡単にあっけなく崩壊していく。
疲労と屈辱と嫉妬と虚栄のなかで、三上博史の美しい顔はどんどん「ドロ」にまみれていく。
自分は奈々の手術費をまりあと一緒に稼ぐはずだったのに、
結局ひも同然の暮らしに堕ちている。
さらにまりあを通じて自分の職の世話をしてくれた神谷(豊川悦司)と彼女の仲を疑い、
酷い言葉でまりあを詰ってしまう。
そんな士郎に対しても、全く反論したり責めたりしないで、
哀しげに微笑んで黙すまりあの自分を観るまなざしが耐えられない。

  高村士郎の、この指を、元通り動けるようにしてくれよ。
  早く!
  元通りにしてくれよ。
  この指を、この指を・・・
  おれの指を返してくれよう!
  返して・・・
  返して・・・
  おまえが、おれの人生、狂わせたんだよ(第六話「引き裂かれた姉妹」)!

これ以上に下司なセリフはそうそう無いだろう。
士郎くんはここにいたって「プライド」だけではなく「愛」も投げ捨てることになる。
それは最初「船に乗らない」と宣言した彼のお望みの場所、
しかし自らの「言葉」を実際に生きるのがどれほど過酷か、どれほど痛いのか、
そしてその痛みはまたしても言葉ではなく、呆けたまりあの顔に見るのだ。
もはやまりあは泣くこともしない。
ぼやーっと歪むその顔を見てたら小林秀雄の一節を思い出した。

  かなしみは疾走する。
  そのスピードには涙も追いつけない。
  涙にまみれるには、彼のかなしさはあまりにも美しすぎる(小林秀雄「モーツァルト」)。


2002年08月05日(月) ピンポン(映画)補足

どかはねっからの大洋ファンだから、この映画を大洋の原作を読んでないヒトが観たら、
いったいどんな感想になるのか、とても知りたかったりする。
以下、補足。

スマイル役のARATA氏、彼以上にスマイルにハマる俳優はいないだろうくらい、ハマりすぎ。
陰を持たせた瞳と押し殺したときの強さのバランスが絶妙。
でも、ARATAって誰?とか思ってたら経歴観てああっと思う。
映画「ワンダフルライフ」に出てたんだ、あのじみーな、でもどか的にツボに来た映画。
ああ、なるほどねー、そうかー・・・
アクマ役の大倉さん、美味しいなあ、良いシーンあるもんね。
普通に好演。
チャイナ役のサム・リー、格好良かったある意味、一番。
ネコバス氏お気に入りの一品。
中村獅童、うーん、顔は迫力満点やったけれど、ガタイが・・・
ドラゴンの凄みを顔のみで出そうとカメラワークも凝ってたけれど、隠しきれず、華奢な身体。
おしいな、でも、満足、顔は怖い。
バタフライジョー役、竹中直人、さすが。
数少ない、原作から離れたキャラ作りをしていた、というかいつもの竹中さん。
もすこしトーンを落としてくれないとARATA氏が辛いかなあ。
ババア役の夏木マリ、この映画中一番議論を呼びそうなキャスティング。
なにせ原作とはあまりにかけ離れたイメージ。
それを、竹中直人とは反対に、夏木さんは頑張って原作風にイメージを寄せていったが・・・
どかはでも好き、妙なフェロモンが出ていて、結局ババアの息子が映画ではカットされてて、
彼女一人でペコを独り立ちさせなくちゃなんだから、
妙な色気ぐらいないとやってられへんやろう(力関係的にね)。
そしてそして、主役様、ペコ役の窪塚洋介。
どかもこれを映画でやるのであれば、ペコは窪塚くんしかいないと思った。
というか、実はどかは恥ずかしながら、窪塚くんラブだし、
野島ドラマで頑張ってたし、あの宇宙人的な演技はウマくはないけど、
でもワン・アンド・オンリーなんだから、それが「華」というものに繋がる可能性もあるし、
好き。
オババとの絡みもスマイルとの絡みも、普通に好演してた。
聞くと、彼も大洋ファンらしい(ちなみにクドカン様も)。

ああ、そうかあ、と思う。
みんな松本大洋が大好きだから、あんなほのぼのとした良い雰囲気が漂っているんだ。
たしかに最新のVFXは盛り込まれているんだけれど、
スタッフキャスト全員の原作へのリスペクトがこの映画のリアリティを方向付けしているんだ。

窪塚ペコとARATAスマイルは本当に微笑ましい。
DVDが出たら買っちゃうかもと思うくらい、良い。
大洋フリークのどかだから、かなり辛口で観ていたつもりだけど、
確かに至らないところもあるけど、このほほえましさがすべてを相殺してくれるのさ。


2002年08月04日(日) ピンポン(映画)

ネコバス氏と鑑賞、ってか昨日の"ATTACK OF THE CLONES"の10倍混んでた(当社比)。
ってか、整理券30分並んでようやく立ち見できるという惨状、
でも運良く座って観れてうれちかった、でもでも汗だくだく一丁(吉野屋風)。

松本大洋原作の「ピンポン」の映画化。
監督はあの「タイタニック」のVFXチームに参加した曽利文彦、脚本は劇団大人計画所属の「時の人」宮藤官九郎。
キャストは窪塚くんやARATA、大倉さん(元カビ人間)、中村獅童、サム・リー、
竹中直人、夏木マリ、松尾スズキと荒川良々(二人とも大人計画)など。
あと、主題歌がスーパーカーっていう・・・
何だろ、サブカルチャーオールスターズ的な安易なプロダクションだなあ。
と冷めた視線もぬぐえなかったのはあるんだけれども。
でもでもね、やっぱり大洋作品を宮藤さんが書くゆうのは、
ごっつい魅力的、たとえ、あざとい映像に打ちのめされても後悔しないもんって意気込みで、
整理券の列に並んだんよね。

そしてそして。

評価は・・・「あらびっくり、すごいやないの」的な感動。
映画として独自の世界を目指すのではなく、あくまで原作コミックに忠実にあろうとした、
スタッフキャスト全員の「謙虚さ」の勝利だと思う。

宮藤さん、大変だったんだろうなあ、これを原作に書けって言われてもなあ。
だって、すでに完成された世界、圧倒的な強度を持つネーム達。
宮藤さんの持ち味である軽妙なセリフの応酬をねじ込む隙間なんてこれっぽっちもないもんな。
コマ割、構成もそう。
原作そのまんまなショットが繋げられていく、んだけれど、それが決して陳腐ではない。
そう、漫画まんまなんやったら、映画わざわざ観ることないやん・・・とはならない出来の良さ。
「謙虚さ」というのはつまりこう。
原作コミックにプラスアルファでいろいろ付け加えて・・・という傲慢さではなく、
原作を出来るだけそのまま、削らざるを得ないところも作品のエッセンスに傷が付かないよう、
慎重に慎重に、そぎ落とせるところを落としていく作業。
そうこの作品は「引き算」に徹したからこれほど凛々しく瑞々しい後味になったんだと思う。

そもそも「ピンポン」はスポコンものでは無い。
「スラムダンク」はまっとうなスポコンで、「タッチ」はスポコンに近いけれどそうではない。
その意味において「ピンポン」は同じスマートな感じではあっても、
「ピンポン」はスポコンではない。
それはテーマの違い。
「ピンポン」は何もペコがいみじくも言った、

  この星で一等賞になりたいの、卓球でオレは!
  そんだけ!

というセリフを汗と努力で裏付けしていくことがメインテーマではない。

  ヒーロー参上、ヒーロー参上、ヒーロー参上。

というスマイルのつぶやきにこそ作品のエッセンスがあって、
ペコがドラゴンから1ゲームを取ったときのピンポン仮面のポーズ、
このポーズだけで大洋作品からのファンが泣けるかどうか。
それがこの映画の最大の評価のポイントだろう。

昨日はちょびっと泣いた、今日はボロ泣き。
昨日のスケールは果てしなく広く、今日のスケールは"274cm X 152cm"。
でもあのピンポン仮面の決めポーズはライトセイバーを構えたヨーダより、かっこいい・・・


2002年08月03日(土) STAR WARS : EPISODE2

惣一郎と新宿に観に行く。

ちなみにその後は親方・エディン、さらに遅れてセバスが合流し、
吉祥寺でエンドレスでデカダンに遊び呆ける(ボーリング&ビリヤード&カラオケ・・・)。
それはまた別の話なので、ね、セバス?

実は8/1にカマポンとマルチンから熱烈に勧められたのであった「絶対おもろいからっ」と。
ふぅん、でもマルチンが映画褒めるのも珍しいしね。
とそこそこ期待しつつ映画館に入った、果たして、感動。
おもろいっ!!

EPISODE1もきっちり映画館で観たんやけど、あれはつまらなくはないけれど・・・
というレベルだった。
映像はキレイだしナタリーポートマンはラブーッだしレースのシーンは盛り上がるけれど、
何だろうな、物語が希薄だった気がするのな、前作は。
アナキン・スカイウォーカー君もまだ幼いし、やんちゃでかわいいけど・・・
でも、物語が無かった。

特殊効果だけではリアリティは出せないという自明の事実を、
きっちりふまえたのが「2」だと思う。
アナキン君が恋をし、母を亡くし、挫折をし、冒険をし、そして愛に目覚める。
という一連の心理描写がとても丁寧に細やかにフォローしてくれるので、
それを取り巻くVFXが相乗効果でより美しく映えていく、ポジティブスパイラル。

アナキン君の中でフォースのダークサイドが少しずつ首を擡げてくる感触が生々しくて、
でもそれって、人間やったら当然の感情で、
それを理性で無理矢理おしこめんのなんか、できるかいな、そんなもん。
と思いつつ、でもああ、それに飲み込まれてしもたらあかんあかんと、
アナキン君を心配しつつ、観客を退屈させないノンストップのジェットコースターな二時間。
ほんっとにスケールが大きくて、
最後のバトルドルイドにジェダイ騎士団が囲まれるシーンは、
圧巻だ、かっこいい。
それもほとんどがVFXなんだけれど、でも、
ジェダイ一人一人の個性をきっちり作り込んでいるから、
「つくりもん」が嘘っぽくならずに、むしろ「ほんまもん」ぽくなっていく。
ジョージ・ルーカスはVFX以外のところで魔法を使っているのだ。
にしても・・・

アナキン君のココロの闇を描き出すためには、
ここまで大きく「宇宙」を展開せざるを得ないのだ。
それほどに、恋や愛や慕情やその他きれいな感情の裏側に茫々と広がるエリアは深遠だ。
それを言葉ではなく、映像で表現すること、第一級の仕事だと思う。

さて普段から、映画に対して芝居の優位性をどかは信じているし、さらに言えば、
ハリウッドって、アンチ巨人的な感情もありつつ、その陳腐な予定調和がどかは大嫌い。
なんだけれども、さすがにこれを否定する勇気はどかには無いな。
だっておもろいもん、エンターテイメントとして、めちゃくちゃ高いレベルやと思う。
思わず、パンフ、買っちったよぅ、てへ。

あ、でも親方やエディンってスターウォーズシリーズ、全く観てないって言ってた。
信じられへんかった、そんな人がいるのか(バカにしやがってー、ちえ)。
でも同じく今まで観てなかった惣一郎も楽しんでいたから、
やっぱりエンタメとして完成度が高い本作なのだ。


2002年08月02日(金) 野島伸司「この世の果て」2

初めて観たのは1997年の8月。
明確に覚えている、あの夏は今までで一番過酷で、一番切なく、特別な季節だったから。
第六話まで観たが、あのときの衝撃の大きさがそのままはよみがえらない。
でも、あのときとはまた違った見方ができるようになってきたんだと思う。

  世界が滅んで船が一艘あるの。
  自分のほかに、うまと、くじゃくと、とらと、ひつじ。
  その中から一つだけ選んで乗せていいとしたら。
  あなたはどれを選ぶ?(第一話「雨のシンデレラ」)

主人公まりあ(鈴木保奈美)の盲目の妹、奈々(桜井幸子)が最初につぶやく質問。
このセリフの後に実はこれは心理テストで、
自分が一番大切にしているものは何かがわかるのだと続く。
とっさに視聴者も自分ならどれかな・・・と答えを用意して続くシーンを固唾をのんで見守る。

・・・・・・

まりあは一旦は奈々に向かって答えを述べ、奈々は「ああ、お姉ちゃんは<愛情>をとるのね」と喜ぶ。
ちなみに奈々は<プライド>だったとも。
しかしまりあの真の答えは違ったのだ、そして士郎(三上博史)と奇しくも合致した、
この彼女の答えこそがこのドラマのテーマを象徴している。

・・・・・・

それぞれが象徴しているものは実は次の通りだという。
うまは<仕事>。
くじゃくは<お金>。
とらは<プライド>。
ひつじは<愛>
(ちなみにどかは5年前、迷わずひつじを選んだ)。
そして、一旦「ひつじ」と答えたまりあが本当に選んだ答えは、
士郎がまりあに伝えたそれと同じだったのだ。

  世界が滅んだら・・・?
  ・・・きっと、僕は・・・
  僕は、船に、乗らない(第一話「雨のシンデレラ」)。

この答えを最初に提示しておいて、野島が残りの11話でした仕事は、
ひたすらそれの裏付けを言葉に拠らずに見せていくことだった。
もちろんドラマだから最低限の言葉は尽くされる。
尽くされるんだけれど、他の野島ドラマのように
(例えば「101回目のプロポーズ」や「未成年」のように)、
印象的な長セリフを決め所で入れてくるのではなく、ひたすら映像への指向性。
これが「この世の果て」をどかの野島ドラマランキングにおいて、
不動の首位を保ち続けている最大の要因だ。
そしてこの指向性がもっとも美しく結晶するのが第四話のラストなのだが、
そこに至るまでにこの「流れ」に乗っていくためのよすがとなるセリフが挿まれていた。
まりあに奈々の違法的な手術の費用として法外な金額を要求する医者のセリフ。

  私はね、自分は安全な船の上にいて、浮き輪を投げるような人間は嫌いなんです。
  一度でいい、助けようとして溺れて死ぬ人間を見てみたい。
  自分が死ぬのが分かっていて、そうする人間をね(第二話「目の見えぬ純愛」)。


2002年08月01日(木) だのだの

今夜は久しぶりにオーソリセンター同期四人で吉祥寺で飲んだ。
つまりカマポン・マルチン・ドカ・クロッペの四人のこと。
EN屋という少しキレイげな飲み屋、男四人で窓際の良い席に座って、
何気に囲まれてて個室げなロマンチック、カマドカマルの三人俯いてため息「もったいない」。
なんておバカな三人を冷静なクロッペが冷ややかにでも温かく(?)観察する構図、やれやれ。

外は夕立だか何だかでビカビカ光って凄い雰囲気。
そんな中、四人で「異動」だの「結婚」だの「音楽」だの「映画」だの「仕事」だの、
「恋人」だの「後輩」だの「浮気」だの「遊興」だの「先輩」だの「将来」だので盛り上がる。
面白かったな、いろいろ。
うちらの代はやっぱり変わり者が集まってることを、それぞれかみしめる。
変人だけどみんな仕事はしっかりできる(やろうとすれば)、頭いいんよな、きっと、みんな。

あっという間に時間は過ぎてお開きに。
でも久々に大声で笑った気がする、気持ちよかった。


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