un capodoglio d'avorio
2002年03月23日(土) |
いのうえひでのり「天保十二年のシェイクスピア」2 |
<続き>
大きなぐるぐるうねる物語の中で、それは運命という言葉で言い換えられるかも知れないけれど、 人は自分の人生しか生きてゆかれないし、いろいろ見えてる気になってはいるけれど、 実は本当に自分の周囲しか見えていないから、ベストの選択というのは最初から不可能な仕組み。 でもそれぞれが自分の居場所で権謀術数をこらしてみたり、恋人に精一杯プロポーズしたり、 妻を愛人に頼んで殺してみたり、金に目がくらみ樽の中で溺れ死んだり、 それが結果として物語を前に押し出す燃料だし、物語も彼等のいちいちに華の瞬間を準備していく。
ラストには、本当にみ〜んな死んでしまうのだけれど、不思議と暗い気持ちにならず、 生き生きとした彼等の表情が目に残っている。
そこに選択の余地がありそうで全くない、絶望のレールの上をひた走っていたとしても、 そのジェットコースターに身体をはって乗っていることが、 きっといいことなんだ。
あ、もう一人の主演・沢口靖子の印象がほとんどないのは身体を張ってないからかな。
観にいって・・・うん、まあ、良かったかな。 井上ひさしの「こまつ座」に行きたいと思った。 それがとりあえず、どかの中で次につながりそうな点だ。
2002年03月22日(金) |
いのうえひでのり「天保十二年のシェイクスピア」1 |
演劇界における今年度上半期の屈指の大イベントであるこの舞台。 プレス発表の内容からして「お祭りだなあ」と思っていたけれど見終わったら尚更、 「お祭りやん、ほんまに」と頷かざるを得ない、悪い意味でも。 大御所の井上ひさしの脚本を、第三舞台の鴻上尚史が企画監修し、新感線のいのうえひでのりが演出。 このスタッフ陣で既にもう訳が分かんないくらいなのだが、さらにキャストはと言うと、圧倒!
劇団☆新感線の金看板・古田新太 / 大人計画のエース・阿部サダヲ / 第三舞台の飛び道具・池田成志 / つか子飼いの激情・山本亨 / 鴻上や野田で活躍・西牟田恵・・・ そして何と主演に劇団キャラメルボックスのプリンス・上川隆也!! このキャスト表を前にして、高揚しない小劇場ファンがいるとしたら、もはやモグリだ。 上川は凄いという噂を聞いていてもキャラメルは嫌いだし、古田は好きだけれど新感線嫌いだし、 脇を固める新感線メンバーには嫌気がさすし、なにより生演奏といのうえ演出と聞いて、 鼻の奥がすっぱくなるくらい苦手な構えだったのだが、 この豪華絢爛なメインキャスト陣ならきっと絶望から救ってくれる。 そう信じて観に行った。
ストーリー。 もはや書けません、凄すぎる。 初演は74年、若かりし井上ひさしが4時間半の脚本に詰め込んだ、シェークスピアの作品37本。 今回はそれの縮訳版だけれどそれでも3時間。 主人公の上川は「リチャード?世」がモデルの極悪人「佐渡の三世次」。 彼を縦軸に「マクベス」やら「ハムレット」やら「ロミオとジュリエット」やらの モデルや名場面が横糸としてからんでくる。 そう書くとなんだか収拾がつかなくてバラバラな印象だけど、 話としてまとまっているのが、井上ひさしの天才だ。 ほんっっとに、脚本は面白かった。 物語がぐるぐる渦を巻いてうねって大波になって・・・
じゃあ何が引っ掛かったかと言って、生演奏のバンドの連中。 もう最っ低だった。 「お前らシャシャリ出て来んなよ、邪魔やねんほんま」と何度呟いたことか。 つかや鴻上もでかい音楽は使うけれど、バンドのメンバーを舞台に上げたりはしない。 だって舞台は役者が唯一、華として輝ける可能性のある場所。 そこを奪うような演出家が、役者を大切にしているとはとても思えない、 結局、有形無形の自己顕示欲の発露でしかないのではないか? 演出自体はこの大変な脚本になかなか肉迫してるしてる、と思えただけに尚のこと腹立たしかった。
シェークスピアの全作品を下敷きにしているだけあって、 次から次へと盛り上がりがきて、どんどん人が死んでいく。 そうしてたくさんの屍を超えて自らの壮絶な死へと駆け上がっていく三世次だが、 う〜ん、プリンス上川くん少し力不足だと思う。 信じられないくらいきれいな声と美しいお顔、敏捷な身のこなし。 あぁ、この人はスターさんなんだなあと心底感心したけれど、 悪人は無理だよ、きれいすぎるもん。 成志が三世次やれば良かったのになあ、彼のあの下司なハイテンションを爆発させれば良いのに。 成志と山本の使い方は、まあもろ贔屓目だけれ、ちょっともったいなさ過ぎる気がした。 古田はさすが幕兵衛(マクベス)を好演していて、 西牟田恵を殺す絡みの場面(ベッドシーン?)は彼女の鬼気迫る演技との摩擦で凄まじいテンションだった。 このシーンと、三世次が磔にされるラストシーンだけは、いい演出だと素直に思った。 「俺には天馬が必要だ!」という科白も胸に刺さる。
<後半に続く>
2002年03月21日(木) |
チャルトリスキ・コレクション展@横浜美術館 |
この絵のことは学生時代から知っていたが、生涯、見られないだろうなと思っていた。 クラクフというワルシャワから電車で3時間もかかるポーランドの田舎町にはたどり着けない。 そう覚悟していたのだ。 逆に言うとそこまで明確に意識せざるを得ないほど存在感のある作品だった。
"Lady with an Ermine" by Leonardo da Vinci レオナルド・ダ・ウ゛ィンチ「白貂を抱く貴婦人」
ディエゴ・べラスケス/ヨハネス・フェルメール/エドワード・マネ/エゴン・シーレ、 そういった最もどかが好きな画家たちの中にあって、それでもレオナルドはなお、 絶対であり、至高であり、永遠であり、融解であり、凍結。
例えばウィーンのウ゛ェルベデール宮にあるシーレの名品「死と乙女」の前では、 どかはヒリヒリするような自意識の引きつりを、目よりももっと奥の場所で感じる。 それは痛み。 自分の輪郭を浮き立たせ、自分の周囲をフィルムのネガのように反転させ、 そうして気持ちが収束していき自らのまん中で小さなコアとなっていくのが分かる時間の経過。 それが私の「シーレ体験」。
レオナルドはそれとは全く違う体験である。 絵を見ていたはずの自分が、そこでは消滅していく。 温かい感動(それは例えばべラスケスの歴史画の前に立ったとき)もなく、 静かな酩酊(それは例えばフェルメールの室内画の前に立ったとき)もなく、 切ない共感(それは例えばシーレの自画像の前に立ったとき)もなく、 知的な快楽(それは例えばマネの人物画の前に立ったとき)もなく、 あらゆる感情の流れはそこからきれいに削除されて空っぽな自分がまず残り、 だんだん自分の輪郭が展示室いっぱいに拡散していく。
横浜美術館でも最初は、眼球はせわしくカンバスの細部を丹念に追っていた。 当時のミラノ宮廷で流行したスペイン風の衣装。 解剖学の知識に裏づけされた説得力に満ちた白貂を抱く右手。 その腕に抱かれて唯一鑑賞者と眼差しを合わせる機敏そうな貂。 当時のはやりであると思わせる、じつは奇抜なヘアスタイル。 そういったディテールをつぶさに追ってはいくのだけれど、それで何かを印象を持つのでは無く、 そこにそうしてあるものを、正しくそうであると認識していく。 ただ認識していく中でだんだん自分が自分で無くなっていき、焦点はカンバス表面からカンバスの少し奥、 そしてそのイリュージョンの中へと移っていく。 そう、正しくそれがそうであると認識することだけでもう、十分なのだ。
レオナルドは、ただ「リアル」なのだ。 でも人類は、このレオナルドが500年も前に達成した「リアル」についに追い付けなかっただけなのだ。 よく誤解する人がいるが「リアルな絵」イコール「写実的な細密画」と捉えたり。 全然違う。 そんなことを言えば「写真」が一番写実的でそれは人の手が及ばない領域の精密さをほこるかも知れない。 そうじゃなくて、写実的なのが「リアル」なのでは無くて、 それは例えばオーロラのブレークアップに接してその余りの浮き世離れした現象に、 恐怖と感動がないまぜになっていた自分が気付いたら涙をながしていたりすること。 例えばつかこうへい原作の「犬を使う女」で山崎銀之丞演じる村川が、 ヒロインをかばいながら壮絶に死んでいくシーンの長科白に、 最初は「何発銃弾受けたら死ぬんやお前は」と笑いつつも気付いたら人目を憚らず号泣しているときとか。 表層的な類似性や近似性なんかではなく、 大切なのは何の解釈も注釈も挟まずに、そこに確かに自分以外の何かがあると信じられること。
2002年03月20日(水) |
蜷川幸雄「身毒丸ファイナル」 |
マヤマヤ氏に取ってもらったマチネのチケット、嬉しい。 白石加代子と藤原竜也のコンビでの上演はこれが最後らしい、だから「ファイナル」。 「パンドラ」以降、蜷川アレルギーにかかっていたどかは、克服を目指す (でもとにかく目当ては主演の二人、当然!)。
ストーリー、寺山修司のいかがわしさ爆発!の継母と子供の恋物語。 幼い時に母を失くした身毒丸が、父親の再婚相手である撫子に猛反発。 父親は家族愛というより世間体で再婚を決め「円満な」家庭の障害になる身毒を詰る。 家庭の円環を自分が乱したくないと嘆き、良き「母」を目指して殊更優しくつとめる撫子、 身毒はその「母」に手をあげて、家から飛び出していく。 ところが実はそんな猛反発する二人の態度は水面下で渦巻く情念の発露だった・・・
さて、いろいろあるけれどどかは結局この「身毒丸」を肯定している。
蜷川演出はしょっぱなから炸裂していた。 グラインダーで鉄パイプを削り、その火花を四つ、浮き廊下から舞台に降らす。 そこにぼんやりと浮かび上がる、明治大正期の和風バロック世界。 その後も物量力技演出は炸裂していく・・・が、以前に抱いたほどの違和感は感じない。 寺山原作のこの脚本と相性がいいのだろう、確かに同じ「過剰な」脚本でも野田と寺山は違うし。 ところでというか当然というか観劇中、演出家蜷川の存在を僕は片時も忘れられなかった。 主役はキャストではなく、俺だ!的な演出なんだよな、やっぱし (つかは違う、自分は黒子、出てこないのだ)。
藤原竜也は巧かった、決して二十歳だとは思えないくらい、きれいな芝居をする。 イノセントと言ってもいいかもしれないが、彼の美しい裸身も含めて、 一つのイメージに集約されている、ピュアだ。 でもな、どかはもっと凄みとリアリティとドロドロを彼に期待してたんだけれどな。 そりゃあ、ジャニーズ風情の「似非ピュア」とは一線を画してたけどさあ。 なんだか新劇みたい、っていうかプチ内野聖陽みたい、人気はでるだろうけどさあ、これからもっと。 でもキレカッタなあ、彼の裸。 コクーン中の女性が唾をコクンと飲む音が聞こえた気がしたもの(あざといぜ、蜷川)。
でも蜷川も藤原もそれぞれ良かったけれどでもそれはどかのまん中まで到達する加速度は無かった。 しかし、圧巻、白石加代子。 彼女は一体、なんなのだ、もののけか? と、言うくらい凄みとリアリティとドロドロを出していた。 彼女が話しはじめた瞬間、蜷川演出がすごい邪魔に思えたもの。 「いいところなんだから邪魔するな」って。 蜷川の物量作戦も藤原のピュアさも丸めてポイっな感じで、 現実感が極めて薄い寺山原作を舞台上に成立させる加速度を一人でつけてしまった。 藤原の尻をたたいて折檻する場面、あの形相。 もののけだ、この人。 つかの「寝盗られ宗介」でレイ子役をした藤山直美が自分の中で圧倒的だったけれど、 あの大女優藤山に匹敵するなあ、これは。 イデオロギーは無いけれど、「見せ物小屋」としての劇場という一つの理想を、 完璧に具現化したプロダクションだと思う、ここでなら蜷川も寺山も藤原も必然性がある。 支えているのは一人の女優だ。
ちなみに、ラストの演出はあざとさの度が過ぎて最低だと思う。 何度あれを使う気だろう、彼は。 でもでも観にいけて良かった、いい経験だよ掛け値無しで。 おおきにねマヤマヤ氏。
休日出勤。 きょうの職場は地獄が予想されたのだが、 思った程では無かった。 昼休み、中華を食べた後で、Apple Support Centre に電話。 iTunesさんの疾病について相談する。 iTunesのフォルダーをとりあえず全て削除せよとのこと。 部屋に戻ってきてとりもなおさず削除削除で、再起動。 おぉ、iTunesさん復活! 全て消えてしまった音楽データ、 さあまた読み込みましょう♪ と、Super Furry Animals から読み込み始めたとたん、 15秒でフリーズ。
・・・・・・
なんどかやけくそで再起動し、各種CDやDVDを試すが、 全て数秒でフリーズする。
だめだあ・・・
相性悪いんかなぁ。 さすがに滅入ってきた。 またリストアしなくちゃなのか、情けない。 何にも新規でソフトをインストールしてないというにっ。 かろうじて何とか、IEは起動できたので、この日記を作成。
でも、もうやだになっちゃったよ、私は。
ウツウツウツ・・・
今週はいろいろ大変だった。 12日と13日は特に。
なんだか異様に疲れが抜けない。 きょうも練習が終わって昼下がりに部屋に戻って、 いつのまにか4時間爆睡。 なんか、しんどい〜。
さらに、さっき、 iBookくんに入っている純正の音楽ソフト、 iTunesさんが壊れたみたい。 曲のデータが出ない。 ハードディスク、大丈夫かなあ?
あー、もう、マックはやっぱ不安定だあ。 もー、もー。
ウツウツ。
<キャラメルボックス> 西川浩幸は上手いと思う。 上川隆也はかっこいいと思う。 あと細見大輔は高校の2こ上の先輩。 でもあの徹底的にマーケティングを繰り返したと思われる、 最大公約数ルールに則った恥ずかしいストーリーは、ヤダ。
<劇団☆新感線> 古田新太は最強の舞台役者の一人。 羽野晶紀も舞台ではあくまで美しかった。 右近健一の濃いぃ歌声とキャラは捨てがたい。 でもあのオバカなノリと勧善懲悪で陳腐なストーリー、 趣味の悪い轟音ライブ演奏はひんしゅく、観た後むなし。
演劇ブックの2001年チャートでも、上位4つがこの↑二つの劇団の公演。 シーンを引っ張る超人気劇団だが、どかはだめ。 役者が良くても、やっぱりだめ。
<むやみにジャニーズを引っ張るRUP> 例外はある。 2年前と3年前に上演した「蒲田行進曲」だ。 けれどもそれ以外のジャニーズを引っ張ったRUPは全部だめ。 去年の三宅も佐藤アツヒロも坂本も全部、舞台ではイマイチ。 プロデューサーのあざとさが極まって気持ち悪い。
<蜷川演出> これは「パンドラの鐘」の演出を観たときの拒否反応。 先に野田版を観ちゃったからかもしれない。 これみよがしに重くて「質よりも量で勝負!」的な発想に基づく盛大な舞台効果。 お腹いっぱい。 でもそれしか観てないから、まだ決めつけは良く無い。 評判のいい「身毒丸」を今度観にいける(やった♪)ので、 そこで蜷川アレルギー克服をめざす。
なんだか、すさんでるな。 でも自分の意見には責任を持ってます。 ご意見などはメールでどうぞ。
2002年03月14日(木) |
青年団「S高原から」 |
恒例の青年団若手公演で、そのため山内健司さんや平田陽子さんなどの「達人」は出演せず。 けれどもどかは、そのクオリティに関しては一切の不安を抱かない、なぜならオリザ演出だから。 千秋楽だったため超満員の駒場アゴラ劇場、客入れがこの劇団にしては珍しく、おす。
ストーリー、堀辰雄の「風立ちぬ」とトーマスマンの「魔の山」を足して2で割った感じ。 ようするに、あるサナトリウムのある談話室のある一日を切り取って描写しただけの舞台。
若手中心のキャスティングで、ところどころ「ふん?」って小首を傾げたくなったが、 でも全然平気、芝居の流れは淀まない。 大庭裕介さんは上手いなあ、あと島田曜蔵さんはもう、専売特許の反則だあれは(観た人は分かる)。
サナトリウムに入院する人たちは少しずつ、「下の人たち」とずれてくる。 それは患者も職員も医者も等しく、ずれてくる。 「死」との距離感がだんだんあやふやになってきて、微妙なデリカシーが段々失せてきて、 「下の人たち」に対してある種の優越感は抱くけれど、でも「下」に降りていく勇気は出ない。 なんだか、この辺のモラトリアム具合は前回の「冒険王」とかなりかぶってくるな、確かに。 「冒険王」と異なるのはどこだろう? それはきっと<死(絶望)>との距離間だ。 つまり「冒険王」においては<絶望>は遠く離れた故国、日本にあった。 イスタンブールの安宿で日本人旅行者たちは、避けられないその<絶望>に気付きつつも、 「何となく」目の前の危険に立ち向かうことで忘れるふりをすることに成功していた (失敗していた人もいたけれど)。 でも今回のサナトリウムでは、みんな、誰も<死>を忘れることは出来ていない、 忘れるふりにも、挑戦はするが皆、失敗してしまうのだ、これはかなり観ていて痛い。
誤解が無いように断っておくと「痛い」と言ったからといって、別にやすいメロドラマのように、 涙涙の修羅場や、医者の足下にすがりつくシーンがあるわけではない。 ならばそれはどのようなシーンで明らかになるのか、今回の「S高原から」では3人の患者がそれぞれ、 大切な人と静かに決別していくシーンにおいて極まっていく。 画家の患者は自分の余命幾許も無いのを知って「今はこの娘のデッサンをしてるんだ」と、 フィアンセに偽悪的に別れを告げる。 ある患者は恋人の女友達を通じて「待てなくなって他の男と結婚する」という報告を聞く。 そしてまた別の患者は、面会室で「眠りこけた」まま知り合いが一人一人退場していく中、 静かに暗転、閉幕を迎えてしまう (個人的にこの演出はオリザにしてはあざといなと思うが、オリザがたまにうつあざとい演出は、 他ならぬオリザなんだから仕方ない、と思いつつ毎回泣きそうになってしまう・・・)。
こんな印象的なシーンを、声を決して荒げず、涙も決して見せず、 派手な照明も音楽も一切使わないで、響きのきれいな高山植物の名詞や涙を隠す乾いた笑顔で、 ひっそりと紡いでいくのだ。 これでチケット\1,500ー、安いでしょう!
オリザがパンフに書いていた。 「ソウル市民」は<火山の火口でダンスを踊っているような芝居>で、 「S高原から」は<死火山の山頂でそれでもダンスを踊り続ける人々の芝居>だと。 そう、どかの中でベストの青年団は「ソウル市民1919」だ。 でもこのサナトリウムの愛しい患者たちも、あの美しい朝鮮人小間使と同じくらい印象的だった。
つか、頑張ってくれ。 オリザの冷たい説得力を吹き飛ばすテンションを「モンテカルロ」で見してくれ、お願い。
シロはかつて言った。
人のこといっぱい傷つけたり、ウソついたりした時ね。 シロ、神さまにいっぱい謝んのね。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 もうしません。 もうしません。 シロ、謝んだけど、きっとダメだな。 だって、もっといっぱい傷つけたりウソついたりしてるしな。 きっと神さまは怒ってんな。 <松本大洋「鉄コン筋クリート」>
きょうネコバスくんと青年団の「S高原から」千秋楽で観る。 この感想は明日改めて、書く。
そしてこの日は、絶対忘れない、死んでも。 でも・・・
ごめんなさい。 ごめんなさい。 もうしません。 もうしません。
・・・きっとダメだな。
拝啓めぐみ様。 夜勤明けでふらふらとした帰り途、 まぶしい朝日を浴びて輝く白梅を見ていたら、 あなたの透き通る肌を思い出しました。 まぶしく輝く小田急バスを見ていたら、 ほのかに赤く染まるあなたの頬を思い出しました。 あなたはピアノをお弾きになられるとか。 私はあなたのピアノの鍵盤になりたい。
・・・駄目だ、わたし。
きょうは13日のミニ興行に向けて最後の調整。 まずまず身体が動いてきてネリの足拍子もなんとなくしっくりしっくり、 少しだけ安心、ホッとする。 久々にさふぁいあが来ていて、どら、 のりのりと少し「民俗芸能」への接し方について話す。 けっこう真面目な話になったなあ。 さふぁいあのまとまった意見を初めて聞いた気がして、なんだか嬉しかった。
「ふうん、そんなことを思っていたんだ」
一応、いまどかがどういう気持ちで練習に望んでいるか、 これからどこを目指したいかを喋っちゃった。 早まったかな。 ま、いいか。 深刻に捉え過ぎるって指摘を受けて、それはそう思うって応えた。 でも、僕はそこに突き詰められる余地があるのならば、 出来る限りの力を持ってそこを進みたい。 そうしないと見えてこないものがあるならば、 自分にしか見ることのできないものがあるならば、 どれだけ苦労しても傷ついても、不意に傷つけてしまっても、 絶対、ひかないんだ。 まあ、これから毎日実際にやることは決まってる。 その日までは、きちんと足拍子を踏むこと、それだけ。 それだけさ。
2002年03月10日(日) |
第10回森林たくみ塾展@紀伊國屋書店新宿本店 |
昨晩深夜25時30分ごろ、くりふ氏到着、我が部屋に逗留。 今朝7時45分頃、自身の卒業作品を会場に搬入するためくりふ氏出陣。 8時30分、オーソリセンター所長より電話入る。 「今夜の夜勤に入る人が熱でダウン、すまんが入ってくれないか?」 4秒考えて快諾、もともと遅番出勤が夜勤に変更。
上記経緯でくりふ氏の作品を見にいく時間をつくることが出来たので行ってきた。
森林たくみ塾とは飛騨高山にあるオークビレッジという木工家具職人集団の中で、 職人見習の若者へ技術精神を注入するいわば養成機関。 と、言えば聞こえは好いけれど、くりふ氏よりつとに聞くところによると、 実情は・・・らしい(自主規制)。 そんな予備知識を貯えた上、幸運にも解説者くりふ氏の案内で会場に赴いた。
結論から言うと、とてもいい刺激を受けることが出来た! 身内贔屓かも知れないけれど、くりふ氏の「書斎机」はとても魅力的に映った。 それはただの書斎机では無かった。 まずでかい。 全幅は160cmもあって奥行きと高さはそれぞれ70cmを超える。 これだけの質量の天然木が目の前にあるとそれだけで荘厳な感じがするから不思議だ。 さらにその切り抜かれた天板の中央部を持ち上げて前方斜め奥にスライドさせると、 そこには、ああ、パワーブックがっ。 右下の引き出しを開けるとそこにはそのまま印刷できる状態のプリンタがっ。 つまりこれは「自然」と"PC DEVICE"の共生がテーマかのよう。 その天板がスゥっと(このスゥッがポイント、決してガタンと直裁的に落ちてゆかない)、 天板が消えてプラットフォームが現れる様は、まるでホワイトベース。 さすが、ガンダム世代、参りました。 所詮エゥーゴのアーガマは連邦軍の白馬にはかないません(やや不明)。
でも一番どかが感じ入ったのは、ここまで自分の理想を明確にイメージし、 かつそれを実際の材料に落とし込んでいくそのエネルギー。 それって、別に家具造りに限らず全ての日常のシーンにおいて、 みんながみんな四苦八苦するところ。 「う〜ん、すげー、かっきー」 と、一人でいつまでもパワーブックを出撃させていたどかでした。
でもこんなに力作なのに、オークビレッジとたくみ塾はこの机に値段をつけなかった。 「理由は?」と聞くとくりふ氏は自嘲ぎみに、 「塗りが甘いことと、机にマッチする椅子を用意して展示できなかったこと」 と応えた。 わけわかんない、オークビレッジ。 確かにパッと聞くとそれは素晴らしい理想主義だが、ズレてるよ。 理想と言うのは多かれ少なかれ押し付けがましい性格を持つのは仕様がないし、 純粋にそれに殉じようと踏ん張るとバランスはどんどん危うくなって、 廻りの人間は少しずつ振り落とされていってしまう。 「せめてたくみ塾の展示会に足を運ぶ人は、パトロンになるかもしれんし、頑張って拾おう」 ってスタッフは思ったのかもしれんが、 まる二年間「○○働き」させてきた一人の塾生を振り落としてしまって後で、 一体誰をその理想で拾えると思っているんでしょう。
でもでもさ、そんないろんな憤りやご満悦や欺瞞や犠牲や蹉跌が渦巻く会場で、 あくまで涼しい顔をして机は佇んでいたよ。 何かを創造するということの、何と説得力に満ちていることだろう。 値段が付いてない値札を最後に見つめて 「23万円だったら買う!」 と呟いて夜勤に向かった。
TRICK2、最初から見れんかった。 あああ、どうして忘れてたんだろう。 のうのうと湯舟につかって鼻歌を歌ってたら 「ハッ」 と気付いてバスタオル一枚で部屋までダッシュかまして、 テレビつけたら半分終わってた、しううん(一部誇張あり)。
途中から見たけど、ストーリーは相変わらずチープ。 なんだか、TRICK1のころからお話自体はかなり薄かったが、 2になってそれに拍車がかかってるような。 ま、プロットがTRICKシリーズの魅力では無いのだけれど。
小橋めぐみ、ラブーッ!! やっぱり、なんだか、好き。 「デリケートで繊細な演技」ができなくて、 大味でざっくりしてるのが、いい。 目が時々怪しく光る、それもいい、ある種のしたたかさと逞しさを感じる、好き。 きっとまだあの目の光り方を自分でコントロールできてないんだろうな。 それがコントロールできて、もうひとまわり芯(身体ではない!)が太くなれば、 つか芝居のヒロインをやらせてみたいっっ!と思った。 仲間由紀恵のあの愛くるしいおめめもいいけれど、 小橋めぐみ、きぅ(やっぱり意味不明)。 最後、仲間由紀恵においつめられていくめぐみっち(きぅ)は、 ありがちな「儚いデリケートさ」に逃げ込むのではなく、 それをみじんも感じさせない打たれ強い演技をしていた。 惜しいな、スポットのゲストで終わるのは、惜しいよテレ朝さん。
きょうは職場で研修をやる。 疲れた〜・・・
なぜだか5人受講者がいた内の3人までが個人的な知り合い。 特にそのうちの一人が私の親友の友人で、 全然違う方向からうちに応募したみたいだけど、 あまりの偶然にびっくりびっくり。 話してみてもなかなか楽しかったしなあ。
さて、それはそれとして、やっぱり・・・・ 疲れたあ・・・
研修の仕方、変えようかな、自分で喋り過ぎるんだよな。 受講者には好評だったからまあ、良いのだが。
「やっぱり、遅いっ」 うちの"8M ADSL"くんは遅すぎるっ! さっきもー、NTT地域IP網のー、「フレッツスクウェア」ってゆうー、 サイトに行ってさあー、スピード計ってみたらさあー・・・
「平均速度360kbps」
だってさー・・・ 夜勤中にゲンちゃんとかエモヤンにちょっと聞いたら、それはないっしょ。 っていう話だしー。 と、言うことで憤懣やる方無し状態のどかはNTT116に電話をかけてみた。
「はいNTTです」
「あのーADSLの通信速度について聞きたいんですがあ」
「はい(予想していたかの様に)、思ったほど速くない、ということでしょうか?」
「え、ええ、まあそうなんですがあ、8Mなのに360kbpsしか出ないんですよぉ」
「ええあの、フレッツADSLというのは必ず8Mというスピードを 保証するサービスではございませんで(まにゅあるぅって感じの言い方)・・・」
「(ちょっとムカついて)でも雑誌とか見るとNTTのフレッツADSL8Mで平均1600kbpsって 書いてあったんですけど、それより遥かに劣るんですけど」
「それは雑誌が間違ってます(キッパリ)」
「(何故かおびえて)あのー、本当にこの地域でこのスピードが妥当か見てもらえませんか?」
「どちらにお住まいですか?」
「国分寺市○○町ですが」
「ああ、○○町は注意地域に指定されておりまして、NTTの支局から遠く離れているため、 スピードはあがらない可能性が高いですね」
「(なんでその話を契約んときに話さへんねん、ぼけっ) ああ、そうなんですね、将来この地域が速くなる可能性はあるんでしょうか?」
「中継点を増やす計画は一切ありませんので、速くなることはございません(何故か尊大に)」
「(怒りを通り越して)あのう、1.5Mに代えた方がいいということですか」
「そうですね」
「分かりました、検討してみます、どうもありがとうございました」
っていうかさあ、クレームって入ってないんかなあ、こんな応対で。 職業柄か何故か、すこし親身になって心配したどかだった。 でも、憤懣やる方無し。
2002年03月05日(火) |
江國香織「流しのしたの骨」 |
ずっと借りていた本、昨日の深夜3時に職場でようやく読み終える。 ストーリーは父・母・長女・次女・三女・長男と1匹をつつむ 「たくさんの平穏」と「わずかな緊張」の日常が3女の視点から描写される「家族」のお話。 どかは吉本ばななが大好きで「つぐみ」は大好きな作品の一つだがこれは江國香織の「つぐみ」だと思った。 でも、辛くなったときに読み返すのは元祖「つぐみ」なんだろうな。
4姉妹のキャラクター付けが絶妙に上手でこの作品はもうそれだけとすら言える。 「つぐみ」との関連で言えばキャラクターのイメージが、 「そよちゃん」プラス「こと子」=「まりあ」で 「しま子ちゃん」プラス「律」=「つぐみ」だと思う。 この公式が頭に浮かんだ時、スゥっとこの小説が描こうとする、 「生」の実際と「死」の香りが目の前に具体的に立ち上がってくる気がした。 特に「つぐみ」のエッセンスを受け継ぐ次女(しま子ちゃん)と長男(律)のエピソードが好きだった。
去年の夏から江國は結構まとめて読んできたが、特にらぶーっにはならなかった(気配はあったが)理由は何だろう。 「冷静と情熱の間」をふまえた上であえて言うと、江國にクライマックスは存在しない。 あの大ヒット作品は江國の作品の中ではかなりドラマチックな展開に違い無いが、 辻仁成の全てが揺れている描写と比べると彼女の特性がいかにステイブルかが分かる。 ・・・というか苦手なんだろうな「ドラマチック」が。 それは別に江國香織という作家の欠点ではもちろん無いし、 どかもだからといって彼女への評価が高まらないのではない。 実際辻よりは数倍小説書くの上手だと思うし、じっさい当世一番人気の売れっ子作家だし。 例えば芝居、ドラマチック「つか芝居」もステイブルな「青年団」もどかは両方大好き。 だからそういうところでどかは作家を差別しない。
問題は文体にあるんだと思う。 例えば村上春樹や吉本ばななの文体が明快に個性的だが、 江國の文体も巧妙だがやはりかなり個性的だ。 硬質で瀟洒で体言止めを多用、端正でいつもどこか緊張している感じで、 「キザ」と言ってもいいかもしれない。
着替えてお茶をいれる母の横にがん首をそろえて、律と私は母が口をきるのを待った。 うす桃色の萩焼の急須から、ほとほとと音をたてて落ちる玄米茶。
こういう部分を読むと「ああ、いかにも江國」という感じで、 少し鼻白む思いがどうしてもしてしまうほどの、強烈な自意識。 一方たまに「あ、これはいいかも」と思う描写にも出会える。
自分の生まれた月だからか、私は二月という月が好きだ。なんといっても他の月より短いのがいい。 毎年いつの間にか過ぎてしまうなところもいいし、正しく寒くて安心な感じがする。冬の最後の月。
やはりこの体言止めは限りなくナルシスティック、 でもでもどかも二月は好きだしこの表現も好き。 だから紙一重なんだと思う、彼女のセンスは嫌いではないが、 あまりにも強力に彼女のエゴを反映した「客観描写」はどかのエゴと中途半端に近い為、 流して読むのも難しくて集中して読み込むとひっかかりを感じてしまう。 頁をめくる度に微妙なレベルで緊張を軽く感じているような、気分。
紙一重で自分のベストには入ってこない作家、江國香織。 でも、気になるからもすこし読んでいくかもしれない。
きょうは得意技「即上がり」失敗、仕事も残ったまま、バスに乗る。 でもやっぱり気になって練習後、職場に戻って資料を作成することに決める。 実質30分、惣一郎とクズシの稽古、その後すぐに着替えて、 ナツナツのエントリーシートを読ませてもらう。 現役さんが衣装を整理しているのをしり目に職場へとんぼ返りして、 20時前、資料作成再開。
夕食は同期のクロと (あ、クロって愛称羨ましいな、松本大洋の鉄コン筋クリートみたい)。 最初小篭包の「ハルピン」に行こうって話してたけど改装で夢破れ、 斜向いの「ラヴィータ」というこぎれいなイタめし屋さんへ。 そこそこの値段で美味しかったのでまた行きたいなと思った。 雰囲気も静かで気持ちいいし。 でも、あんましお客さん入って無かった、大丈夫かなあ。 カルボナーラ、水臭くなくて美味しかった♪ クロの最近の幸せとそれにまつわる苦労話について聞いてるうちに、 少し切なくなる、しうん。
ネコバスくんと合流、コーヒーを飲む。 が、スタバにリュックを忘れてしまう! いつになったら治るんだろう、このおっちょこちょい。 リュックを取りに走ってる間いろいろ考えた、 内容物の何が戻らなかったら一番辛いかな、と。 iPod?SUICA?お守り? と考えていく内に次の二つが一番いたい、と気づく。 つまり、リュックそれ自体と、足に馴染んだ穴の空いた白足袋だ。
2002年03月03日(日) |
ひなまつりセンチメンタル |
きょうは月例会、ぶうと二人してジムへ向かう。 ・・・あああああ「鞍馬」雑く踏んでしまったああ、 駄目だ、あんなことやってたら、知らず知らず、 りきんでたんやろなあ、未熟やな、ほんまにわたくしも。 師匠に注意されへんかったんが不思議なくらい、 あ、ついに諦められたか!?。 ぶうは相変わらずヘリコプターだった(一部の人以外、意味不明)。 すごいな踊れて一ヶ月に一回なのにな、奴は。
ぶうを見送って夕食とったあと、久々にカラオケに行く。 今夜のテーマは 「ひなまつりセンチメンタルスペシャル!」となる。 そういうことでどか自身のセットリストは以下の通り。 1「エピローグ」チャゲ 2「これから」大江千里 3「悲しいね」渡辺美里 4「デイドリームビリーバー」タイマーズ 5「悲しみよこんにちは」斉藤由貴 6「ダイヤモンド」プリンセスプリンセス 7「ROSE」BETTE MIDLER
あ、「ガラスの十代」も「仮面舞踏会」も「抱きしめてTONIGHT」も 「雨上がりの夜空に」も「大阪で生まれた女」も歌ってへん! でも、なんか、気持ち良かったからいいか。 みんなには?がなかなか好評、確かに隠れた名曲、切なし。
「なんか、気持ち良かった」では済まないのはきょうの「鞍馬」。 反省して次に修正すべし、おー。
きょうは長野から「みんぶの魔人ぶう」が上京。 いま僕の横でラグチェアーにもたれながら、 「恋の空騒ぎ」を見て大笑いして、 「NHK爆笑オンエアバトル」を見て大笑いして、 あくびもしてる。 いいなあ、彼はやはりすごい、和むな。
ぶうくんはどかの足りないところをたくさん持っていて、 たくさんカッキー瞬間がある。 でも、一番カッキーのは彼自身がそのカッキー瞬間に対して無自覚なところだ。 多分、ここでどかがこう書いても、彼はきっと無自覚に自分を保てるんだろうな、尊敬。
それはそうと小橋めぐみ、らぶーっ。 なんだか、気になってきた。 またいつもの病気かな、胸が苦しい。 来週のTRICK2が今から待ち遠しい。 らぶーっっ! キュゥゥゥ(意味不明)!!
まだぶうくんはおおらかに笑ってる。 「ハァッハァッハア!」お前は水戸黄門か。 駄目だ、キュゥゥゥなどかとは違い過ぎる。 格の差を感じるなあ、印籠・・・
2002年03月01日(金) |
「武田百合子風」日記 |
「富士日記」は大好きだったな、そんな風に書けるかしら。
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得意技「定時即上がり」を見事に成功させてバスに飛び乗り、練習に向かう。 いやあ我ながらきょうの「キレ」はすごかったな、びっくり。 実質45分間の練習になったけど、それでも何とか確保することができて良かった。
武蔵境北口の香味亭で牛挽肉茄子カレーを食べる、普通に美味しい。 "iPod"でレディオヘッドを聞きつつ、 "iPod"でブロック崩しをしながら帰宅し、 途中父さんと久々に携帯で話す。
帰宅してお風呂に入り、録画をセットしていたTRICK2を結局リアルタイムで見る。 仲間由紀恵、可愛い、らぶらぶ、ちょ−好き。 阿部寛、可愛い、らぶらぶ、モンテカルロ楽しみ。 生瀬勝久、すごい、らぶらぶ、テレビドラマでこのテンションはもはや奇跡。 あと今回スポットで出演の小橋めぐみ、何か気になる、らぶ、何か好きかも。 TRICK2は前作のTRICK1のが絶対面白いのだが、 けれどもレギュラーの生瀬さんやスポットで出演する小劇場出身の役者さんたちが楽しい (今回はちょい違うが)。 来週も見ようっと。
友人から電話 「なんだかイントネーションが大阪だ」 と指摘を受ける。 ・・・理由は明白なり。
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ああ、失敗。 武田百合子は「得意技」なんて単語、絶対使わない。 武田百合子は「らぶらぶ」なんて単語、化けて出ても使わない。 駄目だ、私・・・ 身の程を知ります。
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