un capodoglio d'avorio
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2001年10月18日(木) 遊◎機械/全自動シアター 「ラ・ヴィータ」

三軒茶屋の世田谷パブリックシアターにて観劇。
遊◎機械/全自動シアターの代表作で初演は1991年、今回は再々演である。

ストーリー。
死を目前にした一人の男が自らの人生の意味を問おうとすると、
彼をかつてよく知る、既に死んだ人物達が現れる。
彼への批判賛美同情叱責、様々な言葉を浴びせては消えるその人物達の中に、
やがて幼少期の自分も現れる。
自分を静かに見つめ直していく先にようやく男は、生と死を受け入れていく・・・

舞台美術と照明が、今まで観たことがないくらい、とにかく美しかった。
宙に浮かび交差する渡り廊下が、薄いブルーのライトに照らしだされる。
生と死の境界線という曖昧な設定を、見事に具現化した空間だった。

高泉淳子はどかが最も信頼している舞台女優、とにかくうまいなあという感じ。
過不足なくバンカーからピン近くに寄せてくるイメージだけど、決して息苦しくなく安心してみてられる。
僕が遊◎機械を観にいくのは高泉さんを眺めにいきたいからかも知れない。
今回も主人公の男をたしなめるような存在の母親と、男の幼少期の少年の二役をつとめる、
うますぎ。
劇団主宰の白井晃が主人公の男性を演じる、この人も安心して観ていられる。
周囲に掻き乱されて狼狽する感じがコミカルで楽しいし、
シリアスなシーンにギャップを超えてあっさり引き込んでくれるのはさすが。
でも、台詞、ちょっとすんなり入ってこなかったなあ、なんで?

パンフを読みながら、少し考えたら分かった気がした。
分かりにくい台詞もきっと、演出者(=白井さんなんだけど)の意図するところなのかもしれない。
「死」というものをコーディネイトしようともがく主人公の、
その努力の結果としてのラストシーンを見るのでは無く、
その何とかコーディネイトしようともがいている男自体を観せたかったのではないか。
つまり観客ー役者のメタレベルに存在する白井さんという一人の演出家の努力にこそ、
観客は拍手を送るべきだったのかもしれない。
だって台詞はあまりにも観念的だし、ある意味「型にはまった」言い回しも多かった気がするもの。
そう考えると、この舞台はすぅっと入ってくる気がする。
そうかあ「死」というのはそこまで逆接的にメタレベルから描くことしかできないのかあ。

という感想は観た後にじっと考えて得られたもので、
観ている最中はひたすら奇麗な照明に浮かぶ高泉さんに夢中だったどかだったのだけれど。


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