un capodoglio d'avorio
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2001年05月02日(水) 扉座「アゲイン」

紀伊国屋サザンシアターにてソワレ観劇、同伴は惣一郎氏。
これが<初・扉座>体験だったどか、
でも横内脚本は以前に大学の劇団公演で見たことがあった
(確か「フォーティンブラス」)。
劇団主宰の横内謙介はよく「書く科白が美しい」と評される。
それはそう、
確かにこの人の科白は「美しい」。
例えばつかの科白は時に汚いし、鴻上の科白は純粋真っ直ぐ。
野田秀樹は遊びと詩情をミックスした科白。
野田のそれは「美しい」と言っても良いかもしれない瞬間があるが、
でも、例の言葉遊びや速度感に紛れている観客には「グルグル感」が強くなる。
横内の科白は違う、リアルタイムで劇場にいて「ほぉっ・・・」
と、その科白があまりに自然な佇まいに綺麗なのでため息をつきなくなる。
端的に言えばつか鴻上野田の御大たちのそれみたく、
劇場に滲み出る劇作家の自意識が破裂するまでには大きくないということだ。

いやー、久々に泣いた舞台だ。
惣一郎もすごい良かったって言ってた。

この作品のプロットは、今は昔に年老いた怪人二十面相、
気力も衰え昔のぎらついた魅力を感じさせなくなった彼が、
再び明智小五郎や、親父になった「少年探偵団」と対決するという話。
もう過去の異形の者と成り果てた二十面相の部下たちも、
「旦那様」の復活に狂喜乱舞するが、
昔のような心きれいな「少年」はもうどこにもいなくて、
今の「少年」は自分に閉じこもり何かあるとすぐにキレて・・・
その現実に敢然と立ち向かう怪人二十面相!
を、近藤正臣が演じたのである、ひえーすごい。

これが、近藤さん、もうめちゃくちゃ男前で、かっきーったらないわなのだ。
ほんっとに格好良かった、もちろんほら「あの」近藤さんだから、
演技「クッサー」って印象になるんかなって覚悟していったら、全然。
気取った見栄も、せりふ回しも、立ち姿も、蝶ネクタイも、
マントも、シルクハットも、「ハッハッハッハッ・・」という笑い声も。
絵に描いたように美しい。
そして彼の口から語られる言葉がまた、もう・・・
それは懐古趣味のセンチメントによる切なさ?
・・・そうだろうか?
確かにクライマックス前まではその響きだったかもしれない。

輝く瞳と小さな勇気を持った少年と対決することが生き甲斐だった、
そう語る二十面相のポリシーは確かに21世紀にはそぐわない。
しかし二十面相はもう一度立ち上がり「夕暮れの街角」へと旅立つ。

対決という名の「他者との価値観のすりあわせ」を避け、
それぞれの価値観の中に閉じこもるだけの現代、
それに絶望しつつ、センチメントに瀕しつつなお、
再び対決を志向するまでの大きい飛躍を繋ぐのは何だろう?

それは横内のくさくないリアリティのある美しいせりふと、
扉座劇団員らのすばらしいバイプレーヤーぶり、
そして近藤正臣の演技にかける「美意識」だ。

どん底まで舞台上と観客席を落としつつ、
微かな、でもしっかり明かりを残すことが、扉座の特色。
つかこうへいはどん底から一気に至高の極みに引き上げるため、
物語を破綻させて長台詞を使う。

つかみたく無茶はしない扉座だが、それでも決して「妥協」に墜さないところが、
ごっつい好きだ、でも不思議。
だって一歩踏み外せば、キャラメルボックスみたいにただクサイダケ。
そんなのになるところをホントに髪一重で救われているのは奇跡みたいなんだもん。


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