浪漫のカケラもありゃしねえっ!
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2004年12月31日(金) 津波

Tsunami・・・。
他人事と思えぬ地名が被災地の中にある。
愛するバンドがアジアの地を訪れてライブをしていたのは、3ヶ月ほど前のことだ。彼らのライブを楽しんだファン達の中にも被災した人はいるだろう。
オフィシャルHPに、赤十字へのチャリティ募金のリンクがはられているのを目にする。

一般ニュースのページを見ても、俳優やサッカー選手達、クリスマス休暇をとっていた人々の名がニュースに現れる。
F1ニュースのページへ行く。津波の当日にロリー・バーンやジャン・トッドがその国々にいたのを知る。(ジャン・トッドがミシェル・ヨーと付き合ってたというニュースをついでに知って驚いたりしたけどさ。)
アジアでのGPの前後、F1関係者が訪れたというニュースのあったリゾート地もあるから、不安はあった。フェラーリ移籍前、ロリーはダイビングスクールを経営するために引退すると言ってた人だ。奥さんはタイ人である。
彼らは無事だったったらしいが、心臓は冷える。

音楽ニュースのページに行く。あるバンドのメンバーがいまだ行方不明というニュースを目にする。これは愛する人たちだったかもしれない、と複雑な気持ちにかられる。自分の身勝手さに唇を噛む。

神戸の震災から何年もたって復興はなったように見えるけど、家や家族を失った人々は苦しい生活をしてる。新潟の地震。水没した豊岡。周辺の観光地もまた客を減らしてしまっている。地域全体が何年も苦しむことになる。

天災は、それだけでは終わらない。これから疫病もはやる。生活の地盤を根こそぎにされた人々は多い。
一番長く苦しむのは、一番弱い立場にいる人達なんだよな。

義援金についてのページを探してみた。
スマトラ島沖地震・津波 義援金受付先


2004年12月12日(日) ライブ中に射殺事件/ヒトがヒトを傷つけるとき

最初、TVニュースの半分くらいを聞き取りそこねた。米でライブ中に銃の乱射事件、わかったのはそれだけだった。
いったい何があったのかチェックしにいき、・・・血が凍った。
Dimebag Darrell、ライブ中に射殺
いくつかのニュースサイトをチェックしてみた。容疑者はパンテラのファンでもあり、一方彼らが自分の曲を盗んだという妄想をもっていたようだ。こちらのブロブでは、事件の詳細/ミュージシャンの追悼メッセージなど訳してはります。

私はファンではない。パンテラやダメージプランのライブを体験したことはない。ずいぶん昔にパンテラのプロモビデオやインタビューを目にしたくらいだ。けれど…そんな悲劇に見舞われたファンのショックは胸に迫る。彼らの悲しみを思って、泣いたよ。
ライブにどんな思いを抱えてファンが足を運び、どんな熱情をもってアーティストを迎えるのか。それを知る者なら、ライブのさなかにこんな事件が起こったことに、ショックを受けずにはいられない。愛しい音を生み出してくれるアーティストと、同じ時を生き同じ大気を呼吸する。バンドの成長や成熟を見守り、ともに生きることを実感するライブの喜び。ああ、目の前でその人が失われてしまうなんて、誰が望むものか!

過去にもミュージシャンが撃たれたり刺されたりする事件があったな。人はさまざまなファンタジーを自分の中に育て、時にはそれが妄想の域に達することがある。誰かを全能の神あつかいすること、彼らの言動に信念ない裏切り者あつかいすること。愛情としては両極端だけど、英雄崇拝の裏返しだよ。崇拝する英雄、強く才能ある人々、彼らと自分との合一化を望んでるように思えるんだ。そうして自分自身の鎧のようにその才能の威光をまとい、その強さを借りようとしてるようにも思えるのさ。

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誰かを怒るとき暴力をふるうとき、ヒトは相手をコントロールしたい。支配力を及ぼしたい。その相手が才能や名声を持つとき、怒りや暴力をぶつける自分は相手よりもっと強く価値ある存在だ、と実感したいだけなんだ。
言葉の暴力だって同じさ。相手を傷つける能力のある自分は強い。自分は正しいからどんな手段を使って相手を傷つけてもいい。正義の名の下に(あるいは、愛の名の下に)ガツンとやってへこませてやる。大声で何度も繰り返し言えば、相手のバカさがみんなにもわかる。そんな妄想は、けっこう誰でも持ってるもんだよな。
ヒトの痛みを想像する能力のないヤツは、自分のやっていることの醜さを客観視する能力のないヤツは、なぜヒトに自分が愛されないのかを理解できない。哀れな生き物だね。

誰かを傷つけようとする自分、能力を誇示しようとしてる自分に気づいて、醜さを感じることがある。醜い行為にげんなりして、結果的にコントロールされる羽目になってる自分を感じることもある。うえっぷ。
この前ひどく醜い行為をぶつけられたとき、「素晴らしい!」を連発して友人をあきれさせてしまった。自分の中にこみ上げる憎しみや怒りをひとひねりして、ソイツの愚かさを笑い飛ばしたかった。ソイツと同じ醜さの中にに引きずり込まれたくなかった。試練は自分をきっと豊かにしてくれると思えば、「素晴らしい!」そう言って笑える。
ふむ、興味深い。オレは醜さがよほど嫌いらしいよ。
ヒトを憎んだり妬んだり怒り狂ったり、そんなときどんな醜い顔をしてるか、自分じゃ気がつかないもんだ。いつまでもそんな顔で暮らすのはぞっとする。
自分の中には、怒りや憎しみが存在してる。嫉妬や自己顕示欲や怠惰さや、ありとあらゆる醜さが渦巻いてる。それを転がしひねりまわし、どうやったらそれをオモロく昇華できるか楽しめるか、考え始める。攻撃に対する反撃よりはるかに強い拒否の表現は、冷笑や無視だってさ。
オモロく楽しく生きるのが、オレの反撃かもね。


2004年12月05日(日) 「イノセンス」が日本SF大賞ですかい

日本SF大賞のニュースを見に行ったら、矢野徹さん(特別賞)が死去されたのを知ったのがけっこうショック。この人の翻訳で、ずいぶんたくさん小説を読んでるはず。黒丸尚さんが亡くなったとき、ウィリアム・ギブソン作品の翻訳の印象はかわった。翻訳家は海外作家の世界を道案内してくれる。旅慣れた道連れを失う悲しさだ。

日本SF大賞では、以前「童夢」「エヴァンゲリオン」など、コミック/アニメ作品が受賞したことがある。「イノセンス」…ふむ、これはアリかなあ。
この作品自体のSF色。そして、押井作品の海外での評価に対する、国内の反応。これだけSF色の強い難解な作品のことが、ワイドショーなんかでも取り上げられたっつーのがね。

予告編が流れた瞬間、ああ、バドーだ、これは「攻殻機動隊」の世界に間違いないと、わずかに興奮したのを覚えている。わずかに、というのは、私は「攻殻機動隊」原作コミックのファンなので、映画「攻殻機動隊/ゴースト・イン・ザ・シェル」でははなはだしくネタばれしたうえ主人公のあまりにも静的/厭世的なたたずまいに戸惑いを覚えたからだ。
恐れていたことだが、「イノセンス」鑑賞中もまた、しまった、ネタばれしちまったよ、あのエピソードやんか!と、頭を抱えることになる。それをどのような膨らまし方で見せてもらえるか、鑑賞の観点がそこにシフトすることになってしまった。
しかたない。原作つきの映画というのは、忠実すぎては物足りないと思われ、アレンジしすぎれば世界観が違うと批判を浴びる。そういう運命だ。
脚注の解説うんちくまでオタク心をそそって楽しい原作コミック、脚注がほしくなるよな難解な引用や台詞に満ちた映画作品、どちらを先に見ても楽しめるとは思ったけどさ。

ネタばれしても、アニメーションやコミック作品には強みがある。ただの線や色彩の濃淡という記号に過ぎないものが、人体を世界を模し、骨を肉を歴史を生活の匂いを、痛みを怒りを悲しみを、感情移入しうる対象を構築してしまう。ヒトの感覚が、それを動きのあるもの、感情をもつ肉体、と認識してしまう、その瞬間を絵として切り取り選ぶセンス。それを描き演出する技術。ただの線ただの面が世界を構築する、簡略された線がヒトの想像力に働きかけ、そこに描かれた以上の実体を脳内に構築させる。絵という表現手段そのものが、ヒトを驚嘆させるパワーを持つのだと、私は信じている。

押井守監督作品は「うる星やつら」TVシリーズからのおつきあいだ。「うる星やつら/ビューティフルドリーマー」「アヴァロン」・・・夢(仮想空間)の現実への侵食。この人の興味の焦点はそこにあるのだろうか。
「アヴァロン」、物語世界のトーンとタッチは「ゴースト・イン・ザ・シェル」を連想させる。「アヴァロン」の世界を描くには、人体という実体、量感をもった肉体が必要だったのだろう。けれど、実写映画は演技者がいかにヒトの目を吸引する効果を持つかにもかかっている。ヒトはヒトに注目する。ヒトの身なりやたたずまい、表情やしぐさがあらわす感情の動きや性格。ヒトはそこから大量の情報を得る。「アヴァロン」には、その情報が、私自身の感情を動かし魅了させるほどには効果的に放射されなかったと思う。

「イノセンス」もまた、人物の表情という情報量は少ない。この表情の乏しさは、人と人形、現実と仮想現実、その差異の少なさを強調し幻惑させる意図があるからだろう。「ゴースト・イン・ザ・シェル」を見ていれば感情移入の度合いが深くなるだろうが、それなしで単体として味わうには困惑する部分が多かろうし、ちっと地味な印象もある。
描かれる物語世界、仮想現実世界の過剰なまでの情報量。次々と繰り出される、この過剰さに圧倒される感覚は快感だ。そこに、人体/人形の持つ魅力や魔性、ヒトの形に似せた創造物(物語の中のキャラもそうだが)の痛々しさ哀しさがもっと伝わりやすい形を持っていれば、と思う。

マンガやジャパニメーションは、難解になりがちなSF作品世界をも吸収し、エンターテインメントと両立させて発展してきた。それを見て育った世代が作り手となり、次の世代を育てた。
「マトリックス」「ゴースト・イン・ザ・シェル」「イノセンス」に、P.K.ディックやウィリアム・ギブソン達の世界を連想する人も多いだろう。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」が「ブレードランナー」を生み、このカルトムービーがサイバーパンクを生む。「攻殻機動隊」や「銃夢」は、サイバーパンクの影響が色濃い。そして、「ゴースト・イン・ザ・シェル」が「マトリックス」に影響を与えたのは有名な話だ。すでに押井作品に影響をうけた作り手は存在する。
「イノセンス」は、そのような流れを踏まえ、成熟した読み手となった大人へ、物語の構造を作品世界を味わえと、読み解くことを要求する物語。そんな印象もある。

「ゴースト・イン・ザ・シェル」「イノセンス」、SFファンとしてアニメファンとして興奮を感じる作品なのだが、それゆえにもうひとつ起爆力がほしかった。
極限までサイボーグ化されたボディの中のゴースト。「ゴースト・イン・ザ・シェル」の言葉は物語は、ヒトを興奮させる。だが、この物語の骨格とセリフは、原作コミックがもっていた秀逸さだ。
「イノセンス」ではより押井色が強まった印象だが、アニメーション2作品の、人形めいた表情に、静かにしか語られない登場人物たちの胸のうちに、痛みを覚えるほど感情移入をするのは、なかなか難しいことだった。

画面の隅々まで散りばめられた過剰な情報量、人と人を模した存在との境界線の揺らぎ。そのような物語世界を描いた先駆者といえば、「ブレードランナー」が思い浮かぶ。
わずか4年で死にゆくレプリカント、ロイ・バッティ。あのキャラクターの持つ存在感、絶望、悲しみ、痛み、それがあの映画にどのような魔力をもたらしたか。
印象的なキャラクターがみせるひとつの表情、それは言葉で叙述することが不可能な情報を、受け手の脳内にもたらす。その表情ひとつに、打ちのめされるような痛みを感じ、いつまでも忘れがたい余韻を胸に抱く。そんな体験を、いくつの映画で、いくつのコミック作品で、感じたことだろう。何年経っても、そのシーンを忘れることはない。

最新技術や風俗描写は、作った次の瞬間には時代遅れになってしまいがちだ。時を越えて古びないでいられるのは、ヒトの心をとらえるもの。強い骨格と世界観を持った物語。そして、忘れがたい鮮烈さを持ったキャラクターだ。
10年、20年の後、「イノセンス」は、「ゴースト・イン・ザ・シェル」「マトリックス」は、どのようにとらえられるだろう。私たちが最近見ている映画はどうだろう。時を越えても、古びないでいられるだろうか。


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