あたろーの日記
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2004年10月31日(日) 神田古本まつり

 旧暦9月18日。
 イラクで拘束されていた日本人青年の遺体が発見された。首を切断された無惨な姿。息子を失い、またその痛ましい最後に心を痛めるご家族の苦しみの大きさは計り知れない。
 イラクが今どんな状況なのか知識も情報も持たず、自分の目で確かめたい、と、無鉄砲に飛び込んで行ってしまった彼、その好奇心や行動力や、祖母を懸命に介護したというやさしさを持った彼なのだから、人生にいろんな可能性を秘めていたんじゃないかと思う。命ならばいかなる人の命も大切だけれど、彼もまた惜しい人だったんだとつくづく思います。一所に安住せず、常に、今と違う自分を求め続けていく生き方、フリーターやバックパッカーといった言葉に大人は顔をしかめがちだけれど、自分自身を模索する方法のひとつだと考えれば、若者の生き方にもっと多様性を認めて欲しい、そんな風にも思います。
 拘束が伝えられた当初は、なんてバカなことしたんだ、という思いが強かったのですが、それから約4日間、いろんな報道を見ているうちに、特にご家族の姿やコメントに接するうちに、拘束された青年の人柄や生き方が分かってきて、好感を持ちました。生きて解放されて、今度はしっかりいろいろ学んでから、あの行動力を活かして欲しかったのに、残念です。
 拘束して殺害した武装勢力の非情さにはぞっとします。同じ人間のやることではないと思う。・・・けれど、イラクと周辺国にいるわけでなく、平和な日本にいながらマスコミの情報からしかイラクのことを知らない日本人は、かの地で一体何が起きているのか、詳しいことや本当のことはほとんど知らないのではないかと思う。私も含めて。危ない地域に軽い気持ちで飛び込んでいき殺されてしまった青年を無知だ軽率だと批判するのはもっともなことだけど、同じくらい、平和な国にいる私たちも無知なんじゃないかと、そんな気がします。・・ほんとうに、1日も早く、イラクに平和が訪れることを祈ります。

 昨日今日と、神田古本まつりに行きました。台風や地震で被災している地域が多いのに、なんだか申し訳ない気がしたのですが、1年で最も楽しみにしている数日間なので、我慢できず神保町へ。
 昨日の土曜はあいにくの雨。すずらん通り、さくら通り、靖国通り、それから三省堂建物外、岩波ホール周りのワゴンセールは中止。中止と分かっていても足が向いて、東京堂書店の軒下など、一部でかろうじてやっているワゴンを見たり、恒例のキーマカレーの屋台にて昼食。その後古書会館に行く。こちらは人が多い。『江戸深川情緒の研究』(深川区史編纂会編)が3000円。嬉しくて泣きそうになり、しっかり抱きしめて会計に行く。次に三省堂の1階特設会場でのワゴンセール。凄い人。一通り見て回るも、今ひとつ欲しい本がなく、そのまま三省堂書店で古本じゃないフロアにて、文庫本を購入。『滑稽漫画館』(宮武外骨・河出文庫)、『神秘家列伝』(水木しげる・角川ソフィア文庫)、『江戸商売図会』(三谷一馬・中公文庫)。よく考えたらどれも絵ものばかりだ。三谷一馬氏の中公文庫のシリーズはこれで5冊とも入手。江戸時代の史料から忠実に再現して筆を起こした風俗画は、何度見ても飽きないし、貴重な資料でもあります。こういう仕事をしてくれた三谷氏に感謝。
 そして今日は、早朝の激しい雷雨で目が覚めました。5時台から布団の中でごろごろしながらラジオをつけていたら、イラクで遺体発見のニュース。暗い気持ちでいつの間にか二度寝。起きたら雨が上がっていました。午前中家のことあれこれやって、お昼頃に神保町へ。今日は予定通りイベント行われています。どの通りにも人があふれ、ワゴンに群がっています。まずは岩波ホール周辺のワゴン。ここで、『日本浄土教成立史の研究』(井上光貞・山川出版社)が2000円。え、いいの?という気持ちで抱きしめる。他に『三田村鳶魚全集第七巻』(中央公論社)が500円。鳶魚は去年の古本まつりから、ちょぼちょぼと集めてます。全巻一揃で買っちゃった方が安いのかな、とも思うぎりぎりの線で。次に『洒落本・人情本・滑稽本』『黄表紙・川柳・狂歌』(日本古典文学全集・小学館)が各600円。次に靖国通り、さくら通り、すずらん通りと見て回る。お目当てのひとつ、すずらん通りの、各出版社ブース。出版社1つにつきワゴン1〜2つくらい使って、傷があったり汚れていたりする(といっても程度はさほど悪くないし、中身は定価のものと当然同じ)本を安く、とっても安く売っています。地方出版のコーナーなんだけど何故かあったフレグランスジャーナル社の『アロマテラピー事典』(パトリシア・デービス)と『スピリットとアロマテラピー』(ガブリエル・モージェイ)がなんと定価の7割引。前者の定価が7200円で後者が3000円だから、合わせて3000円で購入!どこに汚れが?と思ったら背表紙がちょっと破れていたり、皺寄っていたりの程度。この2冊、とても欲しかったんです。ジュンク堂で見て、欲しい、と思ったんですが、正直、プロでもないのにアロマテラピーの本に万単位使う気になれなかったのです。でも、欲しかった。これだけでも今日行った甲斐があります。気をよくして次。筑摩書房があった。ここで、書店の店頭ではもう見かけることの出来ないちくま文庫、ちくま学芸文庫のタイトルがワゴン一杯に。しかも、汚れ(ほんの少し)があるため「B」のスタンプが小さく押されて、すべて半額。ここでも泣くほど嬉しかったのは『都名所図会』が1〜5巻まであったこと。これ、品切れでどこにも売ってないんですよね。『江戸名所図会』はあるのに。『都名所図会』5冊で半額の3000円。筑摩書房の文庫本は高めなので、嬉しいです。おまけに布製のブックカバーと中身無地の文庫本型メモ帳(「月のノオト」)をつけてくれました。それから歴史書懇話会のワゴンで、『第三江戸時代漫筆 盗み・ばくち』(石井良助・明石書店)これ、1860円が400円。ここもおまけに『日本史地図』(児玉幸多・吉川弘文館)をつけてくれました。実はこれの大きい版を買おうと思っていたので、ちょうどよかったです。ここまでまわると、もう足腰痛くて、特に腰痛がひどくなってきました。荷物が重いのと、体調的に腰が痛くなり始めていた時だったので、ひーひー言いながらそれでももうちょっと、と歩き、靖国通りに戻ってから村山書店店頭にて、岩波文庫端本につき100円、という段ボールの中から、『柳多留』(岩波文庫)の二、三の2冊をそれぞれ100円で購入。最後に三省堂書店建物裏側でのワゴンセールと、1階の特設会場でのセールを見て、ここで燃料切れ。
 昨日の雨に続き今日も雨という予報だったので、どうなることかと思ったのですが、満足のいく収穫でした。


2004年10月29日(金) 政府の対応?

 旧暦9月16日。
 イラクで武装勢力に香田さんが拘束されている事件に言及して、小泉総理が「自衛隊は撤退しない」と断固とした言い方をした。翌日にはイラクで活動する自衛隊の派遣期間延長についての政府原案が昨日明らかに。期間延長に加えて、隊員50人を増員とのこと。 
 拘束犯達の神経を逆なでするようなことを、48時間という期限の中で、まったく無神経に主張している小泉総理、政府。信じられないくらい、マヌケで、冷たい。小泉総理が自衛隊撤退拒否したという記事は、イラク国内で発行されている多くの新聞でも取り上げられており、日本政府の対応は関心を寄せられているそうです。

 武装勢力がビデオで提示したタイムリミットは過ぎたけれど、無事に生きていると信じたいです。


2004年10月27日(水) 少し嬉しいニュースと・・

 旧暦9月14日。
 92時間ぶりに土砂崩れの現場から救出された2歳の男の子。昨日、母親と親子3人で乗っていたと思われる車が土砂の中から発見されたとニュースで知ったとき、生存しているなんて考えも浮かばなかった。あんな土砂と大きな岩石が車を押しつぶしたのに、それでも生きていたなんて、凄い。運の強さと、同じ車に乗っていて亡くなってしまったお母さんの想い、のおかげなんだろうか。土曜から、地震関連のニュースで消沈していた被災地の人や被災地以外の人達にも、はじめて明るい知らせが届いた、と思った。

 イラクで24歳の日本人青年が武装勢力に拘束され、48時間以内に自衛隊を撤退させなければ首を切る、という内容のビデオが流された。
 なんで、今こんな時期にイラクに?と、思う。この前人質にされた高遠さんら5人とはまったく事情が違う。人道支援でも、ジャーナリストでもない。しかも外国人が次々と誘拐され、殺害されている今。。世界のいろんな国を見て見聞を広げて、自分自身についても考えたい、というのは理解できるけれど、それはいつも自分の命を自分で守るしかないという覚悟の元で行うべきで、今回周囲の人達の反対を押し切って安易にイラクに入ってしまい、こうなってしまたのは、本人も悔やまれても悔やみきれないのではないか。
 私は自衛隊イラク派遣には今もやっぱり反対だけど、今回の武装勢力側の要求に応える形で政府が撤退させるのは、なかなか難しいのではと思う。自衛隊を撤退させてくれれば一番いいけれど、米国の顔色を窺いながら飼い犬のようについていくだけの日本には、それは不可能だし。自衛隊撤退するしないは、日本が決めることではなくて、アメリカが決めることになっているようなものだし。
 もちろん拘束した武装勢力に非があるわけですが、拘束されたほうにも今回は非があった。ただ、今回の拘束で、あの、バカバカしいまるで他人事意識の人質バッシングが再燃するのはやめて欲しいと思う。
 希望は少ないかも知れないけれど、彼が解放されることを願っています。それから、政府、マスコミによる過剰なバッシング(家族も含めて)にならないようにと思います。本人や、ご家族の気持ちになって考えれば、そこまでする気にはなれないだろうけど。


2004年10月26日(火) 新潟地震

 旧暦9月13日。
 被災地の長岡市在住で、まだ連絡のつかない知人がいることが分かり、心配です。別の知人が何度も電話しているのですが、「使われていない」のアナウンスが繰り返されるばかりだそう。本当に使われていないのではないらしいです。被災地で商店を経営している知人に電話したらやはり「使われていない」とのアナウンスだった、という話も聞いたので。連絡がつかなくても、別の場所に避難していたりするのならよいし、元気であって欲しいです。私もメールや電話してみます。・・・それにしても、母子3人が行方不明で、土砂崩れの現場で車が発見されたというニュースは胸が痛みますね。家路を急ぐ車の中で、親子3人、直前までどんな様子だったのか、想像すると、幸せな車内を思い描くことが出来るのに、まさか、そこを地震と土砂と大きな岩が襲うなんて、あまりにも残酷で。。もしかしたら、まだ発見されてはいないけれど、そういう形で亡くなっている人達が他にいるのではと思うと、いたたまれないですね。明日明け方は冷え込んで、雪も降るかもしれないとのこと。いくら雪と寒さには慣れているとはいえ、今はどれほどつらいことか。
 
 私がまだ母のお腹にすらいなかった頃、昭和39年に、新潟地震というのがありました。震源は日本海の粟島沖、マグニチュード7.5。当時新潟市にいた母は専門学校の寮の階段で激しい揺れを感じ、立っていられず手すりにしがみついていたそうです。液状化現象、津波もあったとのことです。私の叔母が住んでいた新潟市の県営アパートは根元から横倒しになったそうです。
 今回の地震は、その新潟地震よりもひどい、と、当時を知る人が言っていました。次第におさまってきたとはいえ、まだ余震も続いているようだし、これから雨も油断できないし、寒さも襲ってくるし、被災地の状況は厳しいばかりですが、もうこれ以上犠牲者が出ないで、着実に復興に向けて好転して欲しいと願っています。


2004年10月25日(月) 一刻も早い復興を願います

 旧暦9月12日。
 夜実家に電話してみた。ライフライン、家屋等に被害がなく、通常通りの生活をおくれている実家のほうでも、余震が多く、揺れも結構あるので、さすがに家族も精神的に疲れ切った様子。不便な避難生活をおくっている地域の方々の疲労はその何倍にもなるんだろうな。テレビ、新聞を見ていると、あまりにも悲惨な状況に、こちらも涙が出てくる。なにか私のような人間でも役に立てることがあるだろうか。東京でもできるボランティア。新潟県人会でなにかやっているだろうかと探してみるけれど、まだないみたい。。。
 山古志村の人達、気の毒だ。住み慣れた村が突然ズタズタになってしまい、ほとんど着の身着のまま離れるしかないとは。豪雪地帯のため、帰れるのは早くて来春とのこと。その後も元通りに住めるのかどうか。自然災害だから仕方ないとはいえ、あまりにも残酷すぎる。
 台風は来なくなったけど、被災地は今夜雨だそう。これ以上被害が大きくならないようにと願うばかり。どうしてここまで自然は無情なんだろう。
 帰省する時、新幹線で群馬県境から長いトンネルをいくつか通って、冬は太平洋側の晴れた雪のない群馬から、トンネルを抜けるとまさに雪国。夏は一面の青い稲。そして八海山をはじめとして周りに連なる山々。あの風景が、ふるさとに還ってきたんだなあって一番実感する風景なのですが、そこが今どうなっているか考えると、つらいです。避難所暮らしをしている人達はもっともっとつらい立場なのに、自分は甘いな、とも思うのですが・・・。ふるさとの山河は、頭の中に美しく焼き付いているままに、元の姿を取り戻して欲しいです。。


2004年10月24日(日) 地震・2

 旧暦9月11日。
 1日中携帯電話のテレビかラジオをつけっぱなしにしていました。
 地震から一夜明けて、悲しいことに、やはり甚大な被害が映像で明らかになっていくにつれて、自然災害の恐ろしさを感じざるを得ませんでした。十日町の知人宅は奇跡的に損壊を免れ、ご家族も無事だと母から聞きました。しかし、ニュースでも伝えられているように、電気水道ガスは止まり、不便な状態とのこと。また、同じく震源地の川口町の隣、堀之内町に住む別の知人の家の中は家具も生活用具もぐちゃぐちゃで足の踏み場もない状態とのことです。それでも幸いだったのは、昨日が土曜日で、多くの家庭に男手があったことらしいです。地震発生時から家族が一緒に行動できたのは心強かったとの話。・・・私の実家のある市は、避難世帯もほんのわずかあるくらいで、市民生活は日常となんら変わらず不便なく続けられているそうですが、余震、それも震度5や4、3の揺れも度重なるので、揺れが始まる度に身構えたり、火の元の確認をしたり、落ち着かないと母が電話で言っていました。
 今回の地震が冬だったらさらに被害は大きくなっていたのではと思うとゾッとします。新潟では石油ストーブや石油ファンヒーターを使う家が多いのです。しかも、寒いので居間の他に子供部屋など部屋ごとに暖房器具があるので、震度6の地震が来たら、各器具に安全装置がついているとはいえ、想像するだけで恐ろしいです。
 避難所で不便な暮らしを強いられている被災者の方達、ほんとに気の毒です。台風24号も日本列島に来る可能性もあるようだし、山間部はすでに朝晩冷え込む季節だし。これから厳しい季節になる前に、なんとか落ち着いた生活が取り戻せますようにと願うばかりです。


2004年10月23日(土) 地震

 旧暦9月10日。
 ちょうど外出中で、人形町の本屋にいたのですが、東京でも突然揺れ。これは、どこかで大きな地震かも、と、携帯電話のテレビでニュースを確認。で、新潟の実家のほうだったのでびっくりして、取りあえず電話。なかなか繋がらなかったのですが、なんとかまずは実家に繋がると、小学生の姪っ子が元気に「はい、○○です」と出た。なんだ大丈夫みたい、と思いながら「地震大丈夫だった?」と聞くと、私からの電話だと分かったとたん、姪っ子が電話口でわんわん泣き出した。「どうしたの?」と聞いても「怖いよー」と言うだけであとは泣き続けて会話にならない。同居している祖父母(私の親)がちょうど同窓会で佐渡に渡っていて、新潟県中越に近い方の実家には弟夫婦とその子供達だけ。いつもより家族が少ない上に、震度6なんて大きな揺れが突然だから、びっくりして怖くなるのも当然か。幸い実家の方にはさほどの被害はなく、両親も今夜中に佐渡から急ぎ帰ってくることになったので、一安心。
 新潟市には妹家族がいます。こちらも地震直後は電話がなかなか繋がらない。よほどの緊急以外は電話を使わないように、と、ニュースで言っているけれど、幼い子供のいる家族の安否が気になって仕方ないので、やっぱり電話してしまう。自宅や妹、旦那さんの携帯電話に順繰りに電話してみる。何度もかけてようやく妹に繋がる。こちらは、住まいが古い建物ゆえ、壁に少しヒビが入ってしまったので、近くの旦那さんの実家に一家で取りあえず非難して様子見、とのこと。保育園児の姪っ子が電話口に出たら、何言ってるか全く分からない。今日は七五三で着物着て神社に行ってきたので、綺麗なおべべ着た興奮と、地震の興奮とで、相当はしゃいでいる。・・・まあ、怪我とかなくてよかったです。
 それにしても、今年は水害に台風に、地震に。。。全国的に災害が多いけれど、新潟県の中越地方は7月の水害と今日の地震で、ほんとにひどい。
 十日町には知り合いも住んでいて、この夏帰省した時、蕎麦を食べに行った際、立ち寄ったのですが、大丈夫かなあ。明日の朝、明るくなったら被害の状況がもっとはっきりするのだろうけれど、どんな感じなのか、心配な夜です。
 


2004年10月22日(金) 視力が落ちたー

 旧暦9月9日。
 昨日は日記さぼっちゃいました。すいません。
 今週は時々頭痛気味。仕事中、自宅で、パソコンの画面を見ていると頭がズキズキ痛む。風邪が治りきってないのかなあ。それとも目の疲れかな。このところまた一気に視力が落ちた。コンタクトしているのに、ちょっと離れた字が読めない。がーん。あと、頭痛の原因として考えられるのは、肩と首のコリ。カバンの中にいつもいろんなものを詰め込んで重くなっている、それを肩からぶら下げて、あるいは背中に背負っているものだから、痛い痛い。おそらく、このうちのひとつだけでなくて、全部が合わさって、頭痛の原因になっているんじゃないかと推測。仕事では否が応でも長時間パソコンの画面を見ていなければならないので、自宅ではなるべくパソコンは控えよう・・・と言っても、今やパソコンなしでは生きられない。ニュースのチェック、外出前の交通機関、路線図のチェック、天気予報、外出先の下調べ、そのほかとにかくありとあらゆることをネットで調べまくる毎日。便利になったけれど、その分身体を悪くしているような。
 いやーそれにしても、ほんとに視力悪くなったなー。
 コンタクト取ったら裸眼で0.01なんでございます。これ以上どう悪くなるっていうんだろう。。ユーウツだー。


2004年10月20日(水) もうすぐ台風

 旧暦9月7日。
 台風が来るとのことなので、定時で退社してきました。帰りの地下鉄は、台風の前に帰宅を急ぐ人達で、朝のラッシュ以上にギュウギュウ詰め。途中の駅で乗り込めない人も多い位でした。各地で被害が出ていますね。生き埋めだなんて気の毒。今年はほんとに台風被害が大きいですね。。
 日記を書いている今は21時半。東京はこれから、特に夜中から未明にかけて暴風雨になるとのこと。まだそんなに風はなくて、雨が時折強くなったりしながら降り続けています。
 しかし、今年はホントに台風が多いですね。しかももう10月なのに。
 今夜は早めに寝ます。明日交通機関乱れてないといいな。


2004年10月19日(火) 来年の手帳のリフィル

 旧暦9月6日。 
 帰宅途中に文具店に寄って、来年用のシステム手帳のリフィルを購入。
 手帳とかメモ帳なるものが大好きなんだけど今ひとつ使いこなせてない私であります。毎年この時期になると文具店には新しい手帳がずらっと並ぶ。それを見ると、あれこれ目移りしてしまい、どれを買うかなかなか決まらない・・・のですが、使い始めて2年目になる皮のシステム手帳をかなり気に入っているので、これがボロボロになるまで、何年でも使い続けたいと思っています。なので、今年もリフィルのみの購入・・・と、これがなかなか決まらない。私の場合、毎日予定をぎっしり書き込むほどではない、だけど、土日はスペースが欲しい、なおかつ、原則として予定は見開き1ヶ月でぱっと見れるようにしたいので、それに合うようなものを発見して、購入しました。
 それと、予定を書き込むための見開き1ヶ月のリフィルとは別に、見開き1週間で、自己管理をするためのリフィルも欲しいな、と、探したのですが、思い描くものがなかったので、薄い方眼が入ったリフィルを1袋買いました。ここに、同じ文具店にあった「マンダラ手帳」の中身を真似て、自分で枠を手書きしてオリジナルのリフィルを作ってみようと思います。あ、パソコンで作ってもいいんですよね。どうしようかな。だいたいのレイアウトとしては、見開き2ページを、上中下3列ずつ、計9つの升目に分割して、真ん中の升目にその週の目標とか、どんな1週間にしたいか、などを書き込み、周りをぐるっと月から日曜までの曜日を割り当て、最後の右下の升目はその週のまとめとか、反省とか、次週に向けてやり残したことなどを書きます。それぞれの週には、予定を中心に入れるのではなくて、例えば英会話勉強している場合はテキストの何章をやったとか、読みたい本のタイトルや読んだ本の簡単な記録とか、どこそこの図書館で何時間とか、見た映画などのタイトルとか、自分自身の精神的な成長をつかめるような計画と記録を書きます。一応そんな風に考えているのですが、もうちょっと考えてみようっと。
 自己管理、ほんとにきちんとやらないとやばいんじゃないか、と、焦り始めてます。いい歳して、自分の1日1日をしっかり管理できてないような気がして。日々ドタバタして忙しいようでいて、自分の人生が自分の思い描く形にはほど遠いままのような気がして。。。思い通りにならない人生を楽しむという柔軟性とは別の次元で、やっぱり自分で、こうしたいなあ・実現できるといいなあ、っていうのは持っていたほうがいいですよね。それと、それを少しでも現実のものとしていく計画力と実行力と、自分を管理する能力も。頭の中でそう考えるだけでなく、自分と自分の毎日を作っていく道具として、もっと手帳を活用しないといけないかな、と考え始めています。自分を律するということが私の最も苦手とすることなんですが、それではいけないですよね。
 とりあえず、うーん、うーん、リフィル、自分のライフスタイルに合わせて手作りしてみます。


2004年10月18日(月) イラク戦争の現実は伝えられているんだろうか?

 旧暦9月5日。
 また台風なんだ、しかも2個続けて?「トカゲ」って名前は可愛いけど、超大型らしい。このところ、ちゃんと自転車通勤できなくて、つまらない。体力もかなり落ちてるし。身体すごく重くなったぞ。やばい。

 アメリカのイラク攻撃が始まった直後に人間の楯としてイラクに行き、その後も取材のために何度か現地に滞在したジャーナリストの志葉玲さんのホームページは、大手マスコミのニュースなどよりもはるかに現実に近い情報を与えてくれるし、いろいろ考えさせてくれるので、ちょくちょく見に行きますジャーナリスト志葉玲のホームページ・シバレイオンラインこと戦争をめぐる情報となると、100%正しい情報だけを流す情報源なんてありえない、と思うので、その情報の出所がどいう立場にいるのかどうかを常に念頭に置きながらチェックして見聞きしなきゃいけない、と思います。それも踏まえて、この志葉さんのサイトも読んでいるのですが、いつも、私たちが知らなくてはならない筈のことを、大手新聞やマスコミが教えてくれない、そういう大切なことを、若い感性を持ったジャーナリストの視点で捉えて、私たちに伝えてくれている、と思います。特にブログには、もっと多くの人が読むべき大切な情報が書かれていると思います。
 「人質作戦のレクチャー」を読んでなるほど、と思いました。イラクで反米武装勢力(とは限らない例外もあるような気がします)が外国人を人質に取って、次々と殺害していく、これはとうてい許されることではないけれど、イラクでは米軍が、反米武装勢力のメンバーの家族である女性達を拘束し、性的虐待を行っている、という側面は、日本のマスコミではほとんど無視されています。反米武装勢力が外国人を誘拐し、殺害をほのめかすと、各国のマスコミが大々的に報じて誘拐した側を非難するけれど、実はアメリカもイラクの人達に対して同じようなことを行っているのだということは忘れられているどころか、現地の人達以外は知ろうとしない。例えばある日突然よその国の兵士達が自分の家族を連れ去って、虐待や尋問を繰り返したとしたら、自分たちと同じ立場の人達が外国人を誘拐して殺害したとしても、「当然だ、目には目を、歯には歯をだ」としか思えないんじゃないか。
 米軍によるイラク女性虐待のことも、劣化ウランの被害のことも、米軍の誤爆によって殺されたり怪我をしたりした子供達のことも、マスコミは伝えようとしない。なんか、このごろ、どのニュース見ても、どの新聞見ても、イラクで行われている戦争(戦争はまだ終わっていない)なのに、イラクの人達はマスコミの流す情報の中にはいなくて、どこかに置き去りにされているような気がします。
 一番辛い立場にいる人達の姿を伝えようとしないメディアって、なんの役に立つんだろう?って、凄く疑問に思います。


2004年10月17日(日) 手作りの季節だ

 旧暦9月4日。
 東京は1ヶ月ぶりの晴れの日曜日だったそうです。
 朝起きて、窓いっぱいに広がる青空に大コーフン。早速飛び起き、布団を干して、青空に見とれながら朝のコーヒー。向かいの屋根で、子猫たちがじゃれ合っている。部屋の中から大きなアクションとニャーニャーの鳴き声とで、なんとか彼らの気を引こうとする。「ん?」と、動きを止めてこちらを凝視したのは、親猫のほう。警戒心が強くなっているようです。子猫触りたいよぅ〜。
 いてもたっても居られなくて、昼前には布団を引っ込めて、さっさと外出。池袋の「キンカ堂」へ。あ、その前に、「キンカ堂」そばの「ラーメン花月」に寄ってしまった。西荻窪に住んでいたときたまに食べに行ったあのにんにくとんこつラーメンを食べたくなって、つい。。。で、日曜の昼間だというに、あそこは頼めばニンニクを丸ごと3個、絞り器と一緒に無料でつけてくれるので、それもつい。。。おかげであとの買い物中、なるべく人と話さないように、心がけていました。
 「キンカ堂」は生地とか毛糸とか手芸用品の大型店です。以前荻窪の駅前にもあったんだけど、なくなってしまった。だから、西荻窪住人の頃は、もっぱら隣の吉祥寺の「ユザワヤ」に買いに行ってました。「ユザワヤ」大好きだったんだけどな。手芸材料のほか、文具や絵画道具、書道用品も充実していたので、1日いても飽きませんでした。園芸コーナーもあったので、野菜の苗も買いに行ったなあ。・・・昨年転居してから遠くて足が向いてません。その代わり、池袋の「キンカ堂」に出かけていきます。といっても、ここ1〜2年位は、ほとんどまともに手芸してなかったなあ。せいぜい自宅用のイージーな巻きスカート作ったり、雑巾縫ったり、簾に細工(へんな飾りつけた)したりする程度でした。なんか、手作りすることにまで気が回らなかった、って感じ。
 が、秋になったせいか、ここに来てムクムクと手作りしたくなってきました。毎年秋になると、編みたい縫いたい病が始まるんですが、昨年は引っ越したばかりでそれどころじゃなかった。よって、今年は昨年の分も爆発寸前です。・・・あ、いや、爆発したんですね。なので、今日、布と毛糸を買ってきました。
 と書いてくると、日記を読まれた方は私がさぞ器用で、いろんなものを縫ったり編んだりするんだろう、と、お思い(え?思わない?)になるかと不安になるのですが、はっきり言って間違いです。私はもの凄い不器用なんです。スカート縫えば、裏は縫い目がガタガタ。セーターなんて、編み上げたことありません。身頃編んで行って、袖ぐりのあたりでパタと手が止まってそれっきり。せいぜいマフラーか帽子、膝掛けくらいしか編めません。加えて恐ろしいほどの面倒くさがり屋。なので、最近スカートはもっぱら型紙不要直線建ち直線縫いの巻きスカートなんですね。だいたい、作り方の本の通りに作るのが出来なくて、面倒な部分を自己流にすっぽかし、手を抜き、そんなことしてるうちにまともな作り方から外れていくのです。マフラーとか帽子っていうのは、あまりにも単純で外れようがないから出来るのです。
 子供の頃、母が編み物や裁縫、刺繍をよくやっていたので、気がつくと母のそばで自分もちくちくなにか縫ったりしていました。その割りにはぜんぜん上達してないのですが。相変わらず自己流で、好き勝手やってます。でも、それなりに完成したときは凄く嬉しいし、作っている間も、いろいろ考え事したり夢中になったり、結構充実してるんですよね。
 というわけで、今年の秋も、また懲りずにマフラーと帽子と巻きスカート作ります。
 あ、今日は池袋に行ってしまったのですが、私の住んでいる所は日暮里の繊維問屋街にも近いんですよね。今度はそちらにも足を伸ばしてみます。「トマト」っていう、とっても安い生地屋さんがあるそうで、とても楽しみです。


2004年10月16日(土) 着物

 旧暦9月3日。
 小唄のお稽古に行く。いつも自宅で練習する時(と言ってもさぼりっぱなし)は、部屋の窓を閉めて、指の先で軽くつま弾いて音が大きくならないように三味線を弾いているので、周囲に音が漏れる心配のない場所で弾けるのは貴重なのです。
 お稽古の合間の雑談で、着物の話に。
 私は着物を自分で着ることが出来ません。たまに小唄の関係で着せて貰うことがあっても、もうなされるがまま、棒立ちお任せ状態。着物だって借り物です。しかも、滅多に着ないから、トイレも食事も座るのも一仕事。お師匠さんはじめ姉弟子さん達は自分で着ることが出来る上、粋な着物を何枚も持っていて、素敵だなあ、私もあんな風に着こなせたらなあ、なんて、いつも思って入るんですけど。。。
 着物って、何代も受け継いでいくことができるんですよね。お師匠さん達を見ていると、「これは祖母の形見」「母の形見」「可愛がってくれた叔母さんの形見」とか言いながら、1枚1枚に、自分に繋がる大切な人達の思い出が込められているみたい。洋服だって大切に着れば、何代にも渡って引き継いでいくことは可能なんだろうけど、なかなかそうはいかない。流行というものも邪魔をするし。
 私の実家にも、祖母が持っていた着物が少しあるらしくて、冠婚葬祭くらいにしか着物を着ない母なので、いつか私か妹がその着物を貰うことになるんだと思うけど、はてさて、そうすると、その着物達、もっともっと出番が少なくなります。
 着物、もっと着てみたいな。今日見せて貰った着物の雑誌に、バティックなどアジアの布と日本の着物を組み合わせて着こなすなんてページもあった。合わせる帯で生きたり死んだりする着物の柄。はっとするほど引き締まって美しい日本の粋。せっかく日本に生まれたのに、日本人が着るようになってたかだか100年ちょっとしか経っていない洋服に身体を潜らせたまま、着物を知らずに生きるのは、なんと勿体ない話ではないか。
 でも、着物を自分で着るとなると、着付教室とか行かなきゃならないのでは?と思っていたら、みんな、そんな教室なんかには通ったことはないそう。見よう見まねでやっているうちに、なんとか着れるようになったとのこと。お師匠さんも言う。そもそも、昔の人達は着付け教室なんかには行かないで、普通に毎日着ていたんだから、軽い気持ちで着てみればいいのよ、と。あれこれ失敗しながら、自然に楽しく覚えていけばいいらしいです。周りに着物好きな人達がいるなんてありがたい話。これを機に、着物にもっと親しもうと思います。


2004年10月15日(金) 焼鳥屋

 旧暦8月2日。
 夜も遅くなったしどこにも寄らないでまっすぐ帰ろう・・・と、お腹空かせながら自転車漕いでいたら、自宅まであと10分足らず、というところで、新しい焼鳥屋発見。「あれ〜こんなところにこんな店あったっけ?」と、夕ご飯は結局焼き鳥になった。
 開店して1週間足らずだという、小綺麗な焼鳥屋さん。ここ1週間以上、雨のため自転車通勤していなかったので、駅までの道しか通っていなかった。よって、新しいお店が出来ていたなんて知らなかった。しかも焼鳥屋だ。
 お風呂上がりのすっぴんなもんで、お持ち帰りに焼き鳥買っていこうと思って中に入ったんだけれど、居心地良さそうだったので、店内に変更。ゆったりしたカウンターに、新しい木の匂い。30代と思われる若い店主のほか、男性女性1人ずつ、計3名で切り盛りしている。焼き鳥は決して安くはない。1本160円〜180円が中心なので、私がいつも行く一番近所の居酒屋の2倍の値段。焼き鳥の味はまあまあ。肉は美味しい。たれはもう少し甘めのほうが好みなんですが。。でも、ここ、ちょっとした一品料理が美味しい。ロースたたきとか胆さしとか。鶏肉を生で食べるなんて、自宅じゃとてもする勇気ないので、こういうお店があるとちょっと嬉しいです。しかも、鳥さしも胆さしも400円だから良心的だと思いました。日本酒も新潟のお酒、八海山や久保田、〆張鶴が筆頭にあって、嬉しくなりました。しかも八海山、久保田千寿が約1合550円だから、高くはないです。
 店主の男性は都内のあちこちの焼鳥屋さんで修行して、ようやく自分のお店を持ったそうです。女性1人で気楽に入れる焼鳥屋さんを目指して、小綺麗で気の利いた店にしていきたい、且つ焼き鳥に合うお酒の研究もしていきたいと、意欲まんまん。ワインも置いてあるとのこと、次回は焼き鳥とワインで行きたいと思います。・・・で、開店1週間経って、女性1人で来たお客は私が第1号とのことで・・・お店の方にしっかり顔を覚えて戴けましたm(_ _)m・・・女性1人で来てくれるお店にしたいので、こうやって1人で来てくれたお客さんがいて嬉しいと話してくださったのですが、私が普通の女性の基準になるかどうか怪しいところなので、ちょっと申し訳ないです。でも、ほんと、女性1人でも気兼ねなく呑める店です。店主ももちろんのこと、店員さん揃って話しやすいし、適当な距離感保ってくれるし、居心地良いです。
 開店したてなので今はまだ要領を掴みながら切り盛りしている、という感じですが、対応も丁寧だし、人柄も手伝って雰囲気がいいので、そのうちご近所さん達も常連になるんじゃないでしょうか。
 かく言う私も通いそうです。
 行きつけの呑み処、2つ目確保して、ほくほくしてます(^0^)


2004年10月14日(木) ささやかな毎日。

 旧暦9月1日。
 やっと旧暦の9月だ。

 また同じ話題ですみません。自殺した人達、今頃どんな気持ちで浮かばれないままうろついているのか、想像すると気の毒になってくる。
 会ったこともない人達のことのプライベートをとやかく言うのはよくないかもしれないけど、死ぬ気になれば、どんな仕事だってあるし、大学に失敗したなら別の道はいくらでもあるし、離婚は辛いしいろいろ理由はあるにせよ、なんとか生活して自分や子供のために生きていくことは出来ると思う。別に人より良い就職先とか進学先とか、立派な結婚生活とか、そんなことにこだわる必要ないよね。日本人の平均値に自分が合っていないからって、悲観することないと思う。失敗だらけでしんどくてもうどうしようもなく逃げ出したくても、そんな不器用で要領の悪い自分のことを、まあこういう奴だから、って大目に見てあげて、気長に生きていけばいいんじゃないかと思う。何が楽しくて、なんて思うかも知れないけど、楽しい毎日じゃなくても、日々生きていくことが生き物の仕事なんだから、それでいいのかもしれない。

 私なんか、すごくつまらない人間だって自分のこと思うんだけど、つまらないなりに人生営んでいこうと考えています。でも、自分のことをつまらない奴だって思うのは、周囲の人や世間の平均値と比べて見ているからであって、そもそもそんなの時代とともに流動的だし、基準がアテにならない・・・ですよね。・・・とにかく、ささやかな毎日を、ひとつずつ積み重ねていけばいいんじゃないかと思います。


2004年10月13日(水) ネット自殺

 旧暦8月30日。
 友人達とタイ料理を食べに行く。久々の辛い料理。
 笑い疲れた。
 ・・・ネットで仲間を募り集団自殺した人達についてのニュース見て、思う。やっぱり、なんか、すごく自分勝手じゃないかと。自分たちが死んだ後にどれだけ沢山の人が迷惑を被るかなんて、ぜんぜん考えてないんじゃないか。家族や警察はもちろん、レンタカー会社や自殺した土地に関わる人達とか。そこまで考えられないのかな。
 それと、誰かと一緒でないと行動できないのか、とも思ってしまう。自分の生死に関わる肝心な部分で、自分自身としっかり向き合うことができないのか。
 


2004年10月12日(火) 自分で死んじゃいけないと思う。

 旧暦8月29日。
 ネットで仲間を募って集団自殺する事件が頻発してる。死にたいなら勝手に死ねば?という冷めた気持ちと、どうして人生を途中で投げ出してしまったのか、他に道はなかったのか?という気持ちの両方が、ニュースを見ている私の中にある。私も、自殺が、現実の環境と自分自身のすべてから逃げる最も安易な方法であって、それがいつの間にか誘惑となって自分の足に絡まりついて離れなくなる、視野がどんどん狭くなり、自分の取るべき道がもうそれしかないとでもいうような思いに取り憑かれてしまって、毎日生きていることが苦しくてしようがない、という状況に陥ったこともある。今でも定期的に通院している。ただ、あまり薬に頼らない方向に、先生と話し合いながら進んでいる。カウンセラーの方々ともかなり突っ込んだ話をして、それを自分自身を深く見つめ直す材料にもしている。まだまだ自分の内面について、専門家の元に通う必要はあると思うけれど、少なくとも、自分で命を断つことなど、勿体ないし恐ろしくてもうとても考えられない。まだまだ生きてやりたいことが沢山あるし、たとえやりたいことがないとしても、毎日ささやかな生活を、楽しんだり苦しんだりしながら続けていくことが、自分にとってどれほど貴重なことなのか、自分がこの世に生を与えられたのはただひたすら生きていくためなのであって、それ以上でもそれ以下でもない、ということを知ったからだ。周囲の人達の助けも得ながら、そういう思いに至ることが出来た自分と、死を選んでしまった人達、きっと一時は同じ位置で同じ方向を見て悩んでいたのかもしれないのに、どこでどうして結果が異なってしまったんだろう、と、ニュースを見ていると、やっぱり最後は悔やまれる。見ず知らずの人達だけど、救うことが出来たであろう命、失われたのは残念だと思う。もし、死にたいという人がいたならば、自殺したいと思う自分が今正常な判断をしていないのだということに早く気づいて欲しい、と思う。正常な判断が出来ないのに、間違った判断に基づいて行動して取り返しのつかないことになるようでは、後で悔やんでも悔やみきれないのだから。
 
 少し話がずれるけれど、実は子供の頃から、たまに、ほんとにたまに、ふっと、あまり関わりを持ちたくない人達とコミットしてしまうことがあります。死んだ人、それも、自殺とか不慮の事故で亡くなった人達。ずいぶん前にもこの日記にちょっとだけ書いたことがあるのですが、寝ているときにいつの間にか布団の周りに集まっていて、血まみれの男の人が顔を覗き込んでいたり、「一緒に行こう」と言いながら首を絞められたりしたことも。テレビで見るような霊能者とか、そんな凄い能力はぜんぜんなく、私も意識などしていないのですが、意識していないからこそなのか、突然怖い思いをすることがたまにあります。たぶん、たまたまボケッとしている時に引き寄せてしまうんだと思います。一時期、いわゆる幽霊というのは、生きている私たちになにか訴えようとしているのだから、怖いものではない、と思うようにしていたのですが、よくよく考えると、怖い、というか、遭遇するこちら側も苦しいです。何故なら、幸福な死に方、というか、人生をまっとうして自分の人生に満足して死んでいった人達や、死を避けることの出来ない自分の運命の時だと受け入れて死んでいくことの出来た人達は、死んだら浄土とか極楽とか天国とか(呼び方は宗教によっていろいろあると思うけど)に行き、逆に地上に残ってふらふらさまよっているのは、自分が死んだことを受け入れられない、或いはこの世に未練がある、それから自分の生を無惨な形で断ち切ってしまった、そういう人達ではないか、という気がするからです。あ、そういうのは常識なのかな。やっぱり、私もそう思うのです。
 この世に生きていることは、楽もあるけど苦もある。そこから逃げようと自ら命を断てば、じゃあ楽な世界に行けるのかと言えば、まったくその逆で、中途半端な存在のまま、永遠に地上をさまよい続けなければならない、と思います。それがどんなに苦痛かは、何かを訴えるような苦しい表情で現れたりするのを見れば分かるような気がします。
 ・・・なんだか心霊相談みたいになっちゃった。幽霊とか信じない人してみれば、アホなこと言ってるな、ってなるのかな。でも、信じる信じないの問題でもないような気もするし。


2004年10月11日(月) 本を読むこと

 旧暦8月28日。
 故郷で所帯を持って子育てに忙しい妹との電話や携帯メールの話題は、最近はもっぱら時代小説の話。部屋が狭くなるので私が読み終えた本を何回か送ったのだけれど、その中に入っていた藤沢周平を読んで以来、彼女は熱狂的な時代小説ファンになってしまった。
「やっぱり時代小説が最高だよね」
とのことなのだけど、子育てで大変な時期のため、自分の欲しい本をどんどん買えるわけでないので、古本屋さんを覗いたり、図書館で借りたりしているのだそう。でも、そこは東京と違って、読みたい本を簡単に手にすることができずに(藤沢周平は図書館でも貸し出し中が多いらしい)ちょっと苦労しているみたい。
 そんなわけで、私が読み終えた本がある程度まとまったら、妹の元へ送ることにしています。といっても、時代小説で手元に置いて時々再読したい本も多いので、そういうものはいずれ再び送り返して貰うことにしています。本にしてみれば、私の部屋で長らく身動きせずじっと再びの出番を待つよりも、読むのを心待ちにしている妹の所に一旦出張して、妹や他に読みたい人に読んで貰ったりしたほうが、本冥利に尽きるというもの。で、いずれまた私の所に戻ってきてくれれば。いわば、まあ、巡回図書館みたいなものです。
 それに、母親である妹が本に夢中になっている姿は、子供に良い影響を与えると思うので、妹の読書環境を助けたい、なんて気持ちもあります。私が1人で本を読んでいるよりも、妹が家族のいる家で読むことのほうが、よっぽど価値がある、とも思うのです。
 どこで誰が書いていたか忘れたのですが、本を読まない親や先生が口をすっぱくして読書の大切さを説くよりも、幼い頃から親や先生など身近な大人が夢中になって本を読む姿のほうが、子供に説得力があるそうです。読書ってそんなに面白いものか、と、興味が沸くのだそうです。妹の子供達も、本好きに育って欲しいな、と願いながら、幼いうちに周囲の大人達が可能性の種を撒いてあげることの大切さを感じずにはいられません。


2004年10月10日(日) 深川江戸資料館

 旧暦8月27日。
 で、午前中うだうだしていたのですが、これではいかんと昼頃出かけていきました。深川江戸資料館。
 午前中から自転車でフラフラ近辺散策兼ねて行こうと思っていたのですが、あいにくの天気だったので、バスか電車にしようと、でも地下鉄だと地上の景色が見れないからつまらない、じゃあバスで、と思ったのですが、いくつかの路線乗り継いで、目的地まではちょっと時間かかりそう・・・なので結局地下鉄に。こんなものがありましてよ。「都営地下鉄秋のワンデーパス」、発売日は10月9日(土)〜11月23日(祝)までの土・日・祝日、で、大人500円、子供250円、発売日当日に限り有効で、都営地下鉄全線乗り降り自由でござあます。都営地下鉄の駅の窓口にてはじめにこれを購入して、私の場合、巣鴨から都営三田線、大江戸線を使って深川江戸資料館まで行き、帰りは都営新宿線でついつい神保町経由でしたので、全部都営線使用、500円の元は十分取れました。
 とくとく切符、探せばいろいろあるみたいで、こういうの利用しない手はないですよね。あと、例えば、「都バス1日乗車券」というのは500円で1日何度でも乗り放題だし、「都電・都バス・都営地下鉄1日乗車券」は700円。テレビでやってる「ぶらり旅」みたいなのが好きな人はこういうの使うといいですよね。かく言う私もこれからもっとこういうお得な切符を駆使しようと思います。あ、でも、普段自転車通勤なので、定期券買ってないというのも、休日出歩くのに割と不便ですね(笑)
 話を戻しますと、資料館の隣の霊巌寺、まずそこに立ち寄ってみました。この霊巌寺は、もと霊巌島にあったのを、明暦の大火後今の場所に移されたものだそうです。「江戸六地蔵」のひとつがここにあります(ひとつは巣鴨の真性寺)。で、なんといってもここには松平定信公のお墓。今私のマイブームが石川島の人足寄場なので、寄場を作った当時のご老中のお墓にもしっかりお参りしてきました。先日、松平定信の著した『宇下人言・修行録』(岩波文庫)を買ってみて、まだ読んでないですが、ちょっととっつきにくそうですが、まあ読む前に墓参り。これで少しは親近感湧いたかも。。。
 
 いよいよ深川江戸資料館に入りました(観覧料大人300円)。
 地下1階から地上2階までの吹き抜け空間に、江戸時代の深川の一部を想定して再現したものだそうです。再現してあるのは、八百屋、大店油屋、大店土蔵、町木戸、船宿2軒、舂米屋(つきまいや)、舂米屋の土蔵、長屋2棟、長屋木戸、長屋の厠と井戸と稲荷にゴミ捨て場、水茶屋、天麩羅の床見世、稲荷鮨屋台、火の見櫓、堀割端に猪牙(ちょき)舟です。どれも当時の実物大に、生活用具まで非常に丁寧に再現してありました。
 嬉しいことに、展示してある建物の中は靴を脱いで上がることもできるし、撮影も可能なので、みんな船宿や長屋の中に出たり入ったり、デジカメぶら下げてあちこちで写真撮ったり、私も結構長居して、デジカメで長屋の内部の細かい所まで撮影しまくり、船宿の番頭さんにでもなった気分で大きなそろばんの前に座ってみたり、長屋の住人になった気分で畳の上でくつろいだりしてました。展示室の中では時々猫の鳴き声がしたり、照明が変わって朝になったり夕方になったり雨が降ったりと、趣向が凝らされています。
 それにしても、長屋ってほんとに狭いですね。狭いというのは時代小説などを読んで知ってはいたけれど、実際に再現されたものを見て、頭で想像していた以上に狭いことにびっくりしました。当時の日本人は今に比べると平均身長が格段に低くて、全体的に小柄な人が多かったそうですが、それにしたって、あんな四畳半(といっても今のそれよりかなり狭く感じます)に夫婦と子供の3人家族とか、大変だ〜。1人暮らしでも、商売道具なんか置いたらとても狭い。生活用具も少ないし。
 上の写真は、左から、展示室概観、長屋の共同井戸と厠、展示室上から眺めた共同井戸と厠、船宿の1階にあった月見飾り、です。長屋の井戸、当時は水道なんてないので、長屋の住人達は井戸を共同で使っていたんですね。顔洗う、食事の支度(長屋の台所は超狭い)、洗濯等々。井戸端会議なんていうのは、井戸端に長屋のおかみさん達がしょっちゅう集まるから、そこで世間話に花が咲くことからきたんですね。
 あと、あの厠。。。中に入っているのが外から丸見え。。。昔通った保育園のトイレもあんなドアでした。でも、幼稚園児は皆小さいから、ドアの外から中を覗けるのは保母さんだけ。なので安心していたんですが。長屋の共同トイレは大人になってもあれだ。。。あれじゃあ音も丸聞こえ。現代は女性用トイレにも、ボタンを押すと水音が流れる「音姫」なんて洒落た名前の装置がくっついてたりするけど、長屋のトイレにはもちろんそんなものはなく。。。ひゃあ〜。激しくお腹壊してたりする時なんて、いったいどうするんだべー。例えば同じ長屋に好きな異性が住んでたりしたら、用足しに行くたびにキョロキョロあたり気にしてしまうよ。ああ、百年の恋もいっぺんに冷める長屋の厠。。。

 館内、1時間あれば十分見学できる位の小さな規模ですが、2時間でも3時間でも、長時間いてもぜんぜん飽きない気がします。しばらくしたらまた行こうっと。


2004年10月09日(土) 台風今と昔

 旧暦8月26日。
 と書いておきながら、今は翌日曜の朝です。台風一過の青空の下、自転車に乗って江戸散策に行ってこようと張り切って起きたのに。。。どんより曇り空です。雨が降ったりやんだりのようです。おまけに遠くでゴロゴロ雷の音もします。あーあ。でも昨日は1日閉じこもりっぱなしだったので、出かけたくてうずうずしてます。

 昨日の台風は凄かったですね。日中の激しい雨に躊躇したのですが、夕方台風の本体が来たらもっとひどくなるというので、15時の銭湯開店と同時にお風呂に入って(ざあざあ降りの中しっかり露天風呂〔注・屋根付き〕も堪能)、缶ビール買って帰ってきました。玄関のドアを開けようと鍵をいじっている間にもう雨脚が強まってきました。出かけるのがもうちょっと遅ければずぶぬれになるところでした。
 晩酌の肴作っているうちにどんどん風が強くなってきて、窓ガラスに雨がものすごい勢いで打ち付ける。とうとう雨戸も閉めました。子供の頃、ガソリンスタンドの自動洗車機に乗車したまま車ごと入れられて喜んでたことがあったけど、あんなんよりもっと凄かった。アパート全体がまるごと洗われているように、ザアーッ、ザアーッ、バシャーッ。おまけに建物も揺れる。思えば、新潟に住んでいた頃と東京に出てきてから合わせても、本格的に台風の襲来に遭ったのは少ないような気がします。子供の頃、凄い台風が来て、停電になって、ろうそくで夕ご飯食べた記憶があるのですが、台風で大変な目に遭ったのはせいぜいその程度だったような。。東日本では記録的な台風だとニュースでも言ってますが、まさにそうなんですね。台風をまともに何度も経験している沖縄や九州の人達に比べるとずいぶん慌てたりビビったり(ビビっていたのは私だけ?)。

 江戸時代に書かれた日記類の記録を読んでいると(結構笑えるし、面白いです)、「大風」「大嵐」「大雨」というのがよく出てきます。これは『武江年表』(ちくま学芸文庫)にあったのですが、

 (文政六年・1823年)八月十七日夜八時より南大風雨。所々人家を損す。怪我人・死亡の者多し。品川・高輪・鯨州辺大浪、家を没したる所、少なからず。
 (万延元年・1860年)七月二十二日より雨。二十四日朝より北大風雨、終日止まず。家屋を損じ、塀牆(かきね)を倒し、樹木を折り、海上には覆破漂蕩の船多かりしと聞こゆ。夜に入りて鎮る(所々に出水あり)。

 当時は旧暦だったので、2つとも今でいう秋の話なんだと思いますが、現代だったら、天気予報で、台風からのしめった風が流れ込み秋雨前線が活発化して、その後台風本体がやってくる、というしくみも分かるし、いつ頃風が強まりそうだという予測もつきますよね。でも昔はそうは行かなかったんですよね。ある時突然風雨が強くなる。あれよあれよという間に風速20メートル以上の暴風になって、家をなぎ倒し船を転覆させ、火事が起こったら一気に周囲に広まるし。いやはや、天気予報で天候の予測がつく現代人には、とても想像できない恐ろしい時代だったんですね。。と言っても、昔の人達はそんなこと露とも思ってなかっただろうけど。でも、今だったら、台風が来そうだから旅行は取りやめにしよう、ということもあるけれど、昔の人はそんなこと考えもせず、てくてくと出かけていった。もっとも、今の旅は万事交通機関に頼らなければできなくて、台風が来れば飛行機も新幹線も運休してしまう、だからまったく身動き取れなくなってしまうのですが、昔はそうでなかった?昔の人は自分の足で歩いてどこまでも行ったので、嵐が来れば宿場に飛び込み、民家で雨宿りさせてもらいながら、旅を進めたんですよね。現代では、連休明けには戻ってきて会社に行かなければ、とか、予定が狂ったら次の予定に響くという強迫観念がいつも頭の中にあるんだけれども、東海道をてくてく行く昔の人達の頭の中にはそういうのはあんまりなかったんだろうなあ(羨ましい。。。)。
 と思っていたら、ひとつ、ありました。船です。天気予報がなくてもマイペースで進められた(?)昔の旅、交通機関がマヒするという心配などとは無縁のように思っていましたら、船というものがありました。上の『武江年表』にも出ていますね、船が沢山転覆したり壊れたり漂流したと。しかし、台風のたびにそうだったんでしょうか。沖に出て台風が来てしまったらもう為す術なしのような気がしますものね。。。船乗りの人達は経験からなにか嵐を知らせるような自然のサインとかを知っていたんでしょうか?でなければとてもとても、私なんぞ昔の船には乗れません(-_-)
 


2004年10月08日(金) 『サライ』と『ラジオ深夜便』

 旧暦8月25日。
 台風が来る、東日本に上陸するとなるとこの10年で最も強い勢力だとのことなので、さっきベランダの植木鉢をビニル紐で固定したりしてました。雨も夜になって本降りになってきて、ベランダに顔出してるだけで頭びしょぬれ。晴れの日も束の間だったなあ。。
 明日は三味線のお稽古の予定だったのですが、中止になりました。だからってどこかに出かけるわけにもいかないので、家でじっとしてます。そういえば知り合いに明日結婚式挙げる人がいるんですけど、大変だなあ。仕事でどうしても外出しなきゃならない人も多いですよね。交通機関にも影響出そうだし。。。こないだの地震で地盤ゆるんでるところもありそうだし、雨続きですでに被害出てる地域もあるし、今度の台風で被害がさらに大きくならないようにと願うばかりです。

 今週木曜発売の雑誌『サライ』が池波正太郎特集だったのをキオスクで見て思わず買ってしまいました。実家に毎号届くので帰省すれば読める筈なのですが、とうていそれまで待ちきれませんです。次号は司馬遼太郎特集だそうなので、これも買わないと。。
 『サライ』ってもう創刊15周年なんですね。早いなあ。創刊当時私は学生で、書店に行くと女性誌コーナーよりおっさん雑誌コーナーをうろうろすることが多かったので(あ、今でも)、『サライ』にも当然、というか、すんごく惹かれて、それ以来のファンです。「ファンです」なんて、レトロな言い方だ(笑)
 最近、NHKラジオの『ラジオ深夜便』を聴きながら眠りにつくことが多いです。夜中過ぎに目が覚めてなかなか寝つけなくなったときもラジオつけていつの間にか寝入ったりします。『サライ』と『ラジオ深夜便』て、なんとなく共通点があるんですよね。読み始めると、聴き始めると、自分の中にしっくり入ってくる、決して押しつけがましくなく、説教臭くなく、読み手聞き手の側のリズムを崩すことなく、こちらとのちょうど良い距離を保ちながらも、長い間ずっと一本筋の通った姿勢で続いている雑誌、番組。それでいて深くて面白い。流行をあおったりセンセーショナルな情報に固執したりすることは決してしない。
 私がおばあちゃんになったときも『サライ』と『ラジオ深夜便』が続いていることを切に望みます(^_^)


2004年10月07日(木) 今更大義名分どうのこうの言ったって。

 旧暦8月24日。
 朝の空気がとても気持ちよかったです。でも夜はぐっと冷え込みますね。夏はどんどん遠ざかって・・・なのに、夜道を歩いていたら大きなゴキちゃんがもぞもぞしてた。ぎょっとしてひょいっと片足上げて避けて通る。足だけじゃなくて身体全体が反応したので、後ろを歩いている人には、いきなり踊り出したヘンな姉ちゃんに思えただろうな。だいたい苦手な人間にしか気がつかないのが悔しい。みんなどうしてそんなに普通に歩けるんだ?外歩いてるとゴキばっかりだよっ!!ほんと東京って怖いところだと思ふ。

 イラクに大量破壊兵器はなかったと今更言われてもね。戦争の大義名分が崩れたなんて今更弁解したってね。戦争始めたアメリカも追従した国も、それからそれを煽って読者や視聴者に偏った情報しか流さなかったマスコミにも責任重大、だけどたとえ責任取ったってたかが知れてる。もっとも戦争することに躍起になってたってことは要するに自分たちの立場を有利にもっていくことばかり考えてたってことだから、今になって戦争の大義名分が崩れようと、自分たちのこと守ることばかりで、これからもきっとちっとも反省しないだろうというのは目に見えてるし。
 今更イラク戦争が間違ってたなんて言っても、失われた大量の命は戻ってこない。家族や友人を失った悲しみが癒されるわけでもない。アメリカがイラクの国土に落とした大量の爆弾で汚染された大地がそう簡単に元に戻るわけではない。アメリカ初めイラクに兵を送っている国々の政治家達が支持率を気にしながら口先だけでイラク問題を語っても、殺された人達が戻ってくるわけではない。イラクからフセインを追い出したことだけでも意義深いなんて言う人もいるけど、あんなに国土をめちゃめちゃにされて沢山の命を奪われて、それでイラクの人達が納得しているとはとうてい思えない。戦争で命を失った人が沢山いるのに、戦争を仕掛けたり加担した国の政治家達が身綺麗にして美味しいものを食べてゴルフしたりしてる世の中って、狂っているのではないか?あまりにも理不尽ではないか?直接手を汚したわけではないけど、兵士達を使って多くの人の命を奪った殺人犯ではないの?殺人犯でないとしたらなんだろう?戦争が大量殺戮でないとしたらなんなのだろう?戦争をするということはそこまで背負い込む覚悟がいることだと思うけど、イラク戦争をしかけた国々の政治家達にそこまで考えて苦しみ抜いた形跡は全くなし。特にのほほんとなんの疑問もなしにアメリカ追従だけしていればよいという考えの小泉首相も福田官房長官、あまりにも脳天気すぎるよね。(イラクに大量破壊兵器が存在しなかったとの報告は)「非常に結構なこと」(福田官房長官)って、もっと他に言い方があるだろう、って怒りを感じました。あと、アメリカがイラクに攻撃した直後に、「イラク攻撃は正しい」と社説で声高にこの戦争の正当性を主張した読売新聞や、政府の顔色を窺いながら報道の使命を忘れたかのように情報を選んでかいつまんでしか流さなかったマスコミが、相変わらず上手に自分たちの立場を守るべく、世界的な世論の潮流にシフトしつつあるのも見逃したくない。自分たちの発した情報が、言葉が、イラクでの戦争を煽り、長引かせ、多くの犠牲者を産む遠因となったということをマスコミはもっと肝に銘じるべきではないか。
 とにかく、今更戦争の大義名分が崩れたとか、大量破壊兵器は実はなかったとか言っても、イラクで命を落とした人達が決して浮かばれるわけではないということを、安全な場所に生きている人間は(当然私も含めて)絶対忘れちゃいけないと思うのです。。


2004年10月06日(水) 石川島

 旧暦8月23日。
 今日もダウン、会社休んでしまった。明日は絶対休めない。連休前に片づけなきゃならないことも沢山あるんだし。甘えてはいけません。
 というわけで、今日も大人しくしていました。今、石川島の人足寄場のことを調べているのですが、思うような史料がなかなか見つからず、そろそろ別の図書館にも行かないとなあ、と思いつつ、先日大学の図書館でコピーしまくってきたものをごろごろしながら読んでいました。石川島の人足寄場は、江戸時代に、無宿者、のちには犯罪者も収容して手に職をつけさせたりした授産施設で、かの有名な火付盗賊改方長官の長谷川平蔵が松平定信に進言して創設したそうなのですが、池波正太郎の『鬼平犯科帳』には石川島のことはほとんど出てこないのが残念。でも石川島人足寄場を題材にした時代小説は松本清張とかも書いてるし、他にもありそうなので探してみよう。。それとは別に、やっぱり史料にもあたらないと。人足寄場というものを調べるときに、面白いというか大変というか、でもいろんなアプローチが出来てありがたいというか・・・近世史、刑法、社会福祉、労働問題、差別問題、などなど、ひとつの分野にとらわれないでいろんな分野で資料を見いだすことが出来るので、結構奥深いような気がします。
 こんなん日記に書いてもつまらないかな、ごめんなさい。でも今ほんとうに頭の中が寄場のことでいっぱいで、寝ても覚めても寄場寄場寄場です(-_-;)・・・寄席にも惹かれるのですが。
 何ヶ月か前に自転車で散策したみたいに、また近々佃島あたりまで行ってみよう。今度は石川島人足寄場跡にも足をのばしてみたいな。
 矯正図書館なんていうのもあるんですね!ここにも行かなきゃ。。。と思ったら平日しかやってない。。。近いうちに会社休んで行かなきゃ。。

 ・・・と、ここまで書いてお腹痛くなったのでトイレに入ったのですが、同じアパートの住人のお兄ちゃんがドタドタと外階段を下りていく時にすんごく揺れた。こんなにドタドタドシンドシン揺らすな〜っと思っていたらなかなかやまない。
 地震だった。。。うん、我が家は震度4でした。たぶん私が東京に来てから一番揺れた。びびりました。トイレに行くのが数秒遅れていたら、腰が抜けてきっと大変なことになっていました。


2004年10月05日(火) 本当に怖いもの

 旧暦8月22日。
 体調崩して会社休んでました。さすがに大人しくしてるしかありませんでした。寒いし、雨もやまない。こんなに本格的に何日も降り続く雨って久しぶりのような気がします。で、とうとう暖房器具出しました。ハロゲンヒーター。
 早稲田青空古本祭、行きたかったんだけどな、もう無理です。日曜からずっと雨続きなので、諦めます。その代わり、神田のほうは絶対行きます。
 今日はずっと自宅にいたけど、昼間はサイレンが異様に鳴り響くし、ニュースではあちこちで物騒な事件報じてるし、嫌な天気だし、なんかどんよりした1日だった。。広島で女子高校生刺殺。やりきれないよなあ。最近ほんとに凶悪犯罪が多くなったな。この前もぞっとするような事件がいくつかあったはずなのに、記憶が曖昧になってしまうほど、次から次へと犯罪ばかり。それも、これが人間の仕業?とでも言いたくなるような恐ろしい事件ばかり。
 幽霊や妖怪よりも、本当に怖いのは人間なんだとよく言われるけど、まさにそうだよな。


2004年10月04日(月) うんち風呂

 旧暦8月21日。
 寒い。つい先週まではまだ暑さが残っていて、時々扇風機をつけていたと記憶しているけど、もう寒い。今度は暖房が欲しい。そういやもう10月なのに私の部屋なんで扇風機が出ているのか。あと、それ以前に服がない。気がついたら夏物なんて着れなくなっていた(当たり前かあ)。だいたい洒落気がないもんだから、夏の終わりに秋に着る服の計画立てて買い物する習性がない。ないもんだから、ある朝寒さに震えながら起きて、そういや服は何を着ればいいんだ、と慌てる。いかん。これじゃだめだ。なんのために女やってるんだろう。反省。女と生まれたからにはお洒落も楽しまなければいけない。・・・先にダイエットしなきゃね。最近ぐぐっと太った。私ってこんなに太るタイプだったんだと恐れおののいている。自慢じゃないけど小中高とガリガリだったんだ。ご飯3杯食べてもガリガリちゃんだったのだ。それが今じゃ、食べた分しっかり身に付く。それどころか、食べたつもりないのに溜まる。どこで何がどう狂ったのか分からない。けど、たったひとつ言える確かなことは、「今年は食欲の秋は私には来ない」であります。
 しかし。
 恐ろしいことに、冬に向かって身体は脂肪を欲している。
 言い訳ではなく。
 ・・・冬眠してしまいたい。
 そうすれば早春にガリガリに痩せた熊のようになって出てこれるはず。

 昨日の話。
 土日はあんまり好きでない愛想の悪くて掃除の行き届かない銭湯に行く。なぜならいつも行く立派な設備の銭湯は子連れ家族のレジャーランドと化してしまうからだ。 
 で、昨日雨の中震えながら銭湯に行き、湯船の熱い湯に浸かってそれなりに極楽気分でいたのですが。
 側に浸かっていたおばちゃんがいきなり「ガバッ」と立ち上がると、湯桶を持ってきて、湯に浮いていた何かをすくい上げた。・・・小さな茶色いかたまり。も、もしやゴキ!?湯あか??
「ちょっとっ!」(周囲の顔なじみの常連さん達に向かって)
「なになに?」とみんな寄ってくる。
「えっ、なにそれ」
「○○○・・・」(私にはよく聞こえない)
「ええええ〜っ、やだ!ほんと!?」
「うそーっ」
「あらほんと!やっだーっ」
「番台に言った方がいいわね」
「もちろんよっ」
と、みんな怒っている。
「なんですか?」と私も聞くが、はぐらかしてなかなか教えてくれない。
それでもようやくその中の1人のおばさんが教えてくれた。
「う、ん、ち」
 声を失う私。
 え・・・・
 私まだ湯船に浸かってます。。。ひゃー。
「だーいじょーぶよー、死にゃーしないわよー」
と、1人おばさんが湯船にどっかんと浸かった。
「あたしやだー」「あたしももう入らないわ」「見ちゃったからねえ、知らなきゃよかったんだけどねえ」
・・・私はしばらく湯船に突っ立ったまま、身の振り方を考えた。
「仕上げにこっち入って上がります。。。」
「そうね、そうしたほうがいいわよ」
と言われて、隣の色つきの別の湯船に入り直した。

 むかしむかし私がまだ小学校低学年の頃、妹と弟と、自宅でビニールプールに入って水遊びをしていた。
 と、ぷかっと何か見慣れぬ・・・いや、見慣れた茶色い物体が、いきなりプールの真ん中に出現した。
「ぎゃーっ」と私と妹が外に飛び出した。
弟の奴、プールの水でお腹冷やして、そのまんまその場で出しちまったんであります。
 ビニールプールに浮いたうんちなら子供の遊び場でよくありそうだけど、銭湯で再び遭遇するとは思わなんだ。


2004年10月03日(日) 『南十字星』

 旧暦8月20日。
 すいません、日記さぼっちゃって。週末はいろんな人生経験されて一本筋のぴーんと張った方々にお会いできて、自分の浅はかさに恥ずかしいやら、気が引き締まるやら、とてもいい機会でした。まじに、私って自分に甘いな、毎日愚痴ばっかり言ってるな、って反省したのですが、雨の日曜日、寒くて縮こまりながらパソコンの前でだらだら始めてしまい。。。この日記、昼までに書き終えて午後は用事片づけます。
 
 昨日、生まれて初めて劇団四季のミュージカルを観ました。「南十字星」です。2階の前方の席だったので、ステージの奥行き含め全体を見渡すことが出来て、最高でした。ミュージカルって、実は小学生の頃学校に来てくれた小さな劇団の人達の巡回公演以来です。テレビでは何回か観てはいると思うのですが、あんまり記憶もなくて。。
 こんな超初心者の私が行って驚いたのは、幕が上がって音楽がすごく響くこと。凄い音響効果だなあ、と思っていたら、ステージの手前で指揮棒を振る指揮者の姿が。いやー知りませんでした、ステージの真下で本物のオーケストラが実際に演奏してたんだ!てっきりテープかなんかを流すもんだとばかり思っていた私(^^;)驚きのあまりぶっとんでしまった。あと、出演者の人達の声量にも度肝を抜かれた。踊りにも感動した。舞台がインドネシアということもあり、インドネシアの民族舞踊もふんだんに。これにも圧倒された。ひゃー!劇団四季ってこんなに凄いものだったんだー!
 ストーリーはかなりシリアス。太平洋戦争でインドネシアに出征し、現地で敗戦を迎え、やがて連合軍による戦犯裁判でBC級戦犯として身に覚えのない罪を着せられ現地で絞首刑となったある日本人青年。彼は十分な調査も審理もなされない不条理な判決を静かに受け入れ、絞首台に上っていく。戦争という状況下で、自分の運命に逆らわないことが歴史の中で自分が果たすべき役割なのだと悟った名もない青年の死。登場人物は実在ではないけれど、史実を元に作られた話だそうです。A級戦犯というと巣鴨プリズンとか城山三郎の『落日燃ゆ』とかでピンとくるのですが、BC級戦犯について詳しく語られることは少ない。きちんとした裁判でなく、無実のまま刑を施行された例も少なくないと言います。そういう形で死んでいった主人公の青年を通して、考えさせられることが多かったです。BC級戦犯のことや、ストーリーの重要な要素であるインドネシアの独立運動のことも、恥ずかしながらきちんと分かっていなかったのですが、そういうことに疎くても舞台では硬派な部分もしっかり説明がなされていて、最後まで引き込まれっぱなしでした。
 舞台には神が宿る、なんてよく言われますが、本当にそうなんですね。オープニング、幕が上がった瞬間から、ピーンと張りつめた空気、エネルギーの凝縮と放出、静と動、ステージのどこかに俳優さんと舞台装置だけではないなにかが絶対いるんだ、そういう感じがひしひしと伝わってきました。劇団四季でも、宝塚でも、歌舞伎でも、どんな舞台でも、通い続ける観客はきっとそれを知っているんだな、それに惹かれて来るんだなって、自分も納得。で、それを作り出すのが、出演者や舞台を作り上げる人達の努力なんだって思いました。舞台を見に行くというのは、作る人達の気迫やエネルギーを貰うことでもあるのかも。
 ・・・BC級戦犯や南方戦線について、手に入る本から読みたくなりました。


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