あたろーの日記
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2004年09月30日(木) なんとか。

 旧暦8月17日。
 なんとか9月の半期決算乗り切れそうです。。ホッ。
 だけどミスしてそうでびくびく者。
 行き帰りの電車で『あかね雲』(山本一力・文春文庫)を読んでいるのですが、すごく面白いです。読み終えたら感想書きます。


2004年09月28日(火) ねむー

 旧暦8月15日。
 今日明日と仕事で帰りが遅くなりますですので日記書けないカモです。。
 半期決算なんだけど、仕事終わるか不安。。。
 台風一過の週末までなんとかこぎ着けるぞぅ。


2004年09月27日(月) 便利になったなあ図書館。

 旧暦8月14日。
 「努力、努力・・・」を自分に言い聞かせないと実行できない私。今日も暗示掛けながらもぞもぞ動き回っていた。進歩あったかどうだか。。。そんなこと繰り返しながらおばあさんになっていくんだきっと(笑)。
 大学の図書館の貸し出し業務が機械化されていてびっくりした。いつものように窓口に借りたい本を持っていったら、「あちらの機械でお願いします」と言われた。「?」と思いながら近づいてみると、コピー機大の自動貸出機なる装置。カード読み取り口に学生証を差し込んで、画面に従い図書を台に乗せる。と、図書についてるバーコードシールをスキャナで読み込んで(たぶんそういう仕組み)、最後に脇からジジジーっと、レシートみたいな白い紙が出てきて、そこにご利用明細とあり、書名著者名貸し出し期日が印字されている。ふぅん。と、感心してしまった。出てきた利用明細、取っておけば借りた記録にもなるからいいかな、と思ったけど、感熱紙だからだめかも。
 近年図書館が昔と比べると格段に使いやすくなっているなあ。多くの公立図書館で、蔵書検索をインターネットでできるようになっている。だからよく行く都立中央図書館などは、出かける前に自宅のパソコンで蔵書を予め調べて、請求番号までメモしていけば時間を有効に使える。この便利さを知ってしまうと、資料探しが楽になる。
 コピー機もしかり。コピー機のない時代の人は大学ノートに手書きで必死に書き写したそうだけど。。今はそれをしなくていい、なんとありがたいことでせう。
 なのに、なのに、こんなに便利になってきた図書館なのに、なんで大学の図書館は閑散としているのかいな。もったいないよおお。。


2004年09月26日(日) 頑張ろう。

 旧暦8月13日。
 1日家で過ごす。深川江戸資料館に行くか行くまいか迷いながら、空模様を見て、結局出かけないことに決めた。同じアパートのお兄ちゃんの目覚まし時計は、7時57分から9時半まで鳴り続けた。それを耳にしながら近くのコンビニに新聞を買いに行く。
 読売新聞に「ハリー・ポッター」邦訳版で有名になった静山社の社長である松岡佑子さんのインタビューが乗っていた。「物事の成功の度合いは、かけた時間に比例する」
 倒産寸前の小さな出版社をここまで有名にした方だからこそ、言える言葉なんだろうと思う。そういう人の台詞にはずしりと現実感が漂っている。
 最近、「努力」とか「頑張る」ということが悪いことのように言われることが多いような気がする。例えば、自分の能力以上のことを引き受けて頑張りすぎた挙げ句、メンタルな面でしんどい思いをするならそれはあんまりよくないことだろうとは思うけど、それを逆手に取って、「努力」や「頑張る」が、流行遅れのように言われることもあって、それは納得できない。地べたに短い足を踏ん張って歯を食いしばるようなイメージ、昔から日本人に備わっていた悪しき性質、とでもいうような。
 だけど努力とか頑張ることって、自分に対して自分が取る態度のことじゃないかと思う。自分の中にある理想とか目標に対しての、自分なりの答え、方法。くじけそうになったときや落ち込んだとき、自分を後押しするもの。自分の思う理想があるのに、それが実現出来なかったとき、それに向けて努力したのかしなかったのかによって、同じ結果でも満足度はぜんぜん違うと思う。努力するとか頑張るとかいうのは、結局は自分自身に対するエールなんですよね、自分自身との対話というか。。
 かく言う私なんですが、外に向けて「頑張っている」振りをするのがうまいだけで、実際はぜんぜん努力も頑張ってもいない。それで毎日自己嫌悪の日々です。
 しょうがない。亀さんだもの。って、そんな風に簡単に自分を諦めちゃいけないですよね。せめて明日の自分は今日より一歩前進するように、努力しなきゃいけないな、って思います。。


2004年09月25日(土) 珍豚シャン

 旧暦8月12日。
 久しぶりに小唄の稽古。夏の暑い間はお師匠さんも大変なのでお休みだったのですが、久々の稽古とはいえ、弟子たるもの、その間自宅でチントンシャンと練習すべきところ、私の場合は珍豚シャンでした。したがって、当然の因果でまったく上達してない。
 だけど、この頃、日本の昔の音色が耳に心地よくなってきた感じ。三味線の音、小唄の調べ、なんとなくだけど、しっくりくるようになってきたかも。三味線をつま弾きながら、頭ちょっとだけ?江戸時代にタイムスリップしてみたり。私の場合、小唄の稽古の熱心度は江戸への興味と連動してるような気がします。
 だから稽古中もわりとボーッとしてたり(半分江戸の街に出かけている)して、ぜんぜん上達しないんですよね。。。


2004年09月24日(金) 学校の図書館

 旧暦8月11日。
 今日から大学の後期授業開始。今回も週3日通うことに決めた。ただ、6時15分からの90分授業のみとし、あとは9時半閉館の図書館で過ごす予定。開架式で、歴史・民俗関係の資料も揃っている。県史も結構あるし、文学もある、事典辞典類も充実。大学の図書館にしては蔵書が少ないほうかもしれないけど、近所で静かで本が綺麗(利用が少ないのか、手垢にまみれてない・・・)なのはとてもありがたいです。江戸時代の面白い出来事があふれている『藤岡屋日記』なんか、日比谷図書館だと結構ボロボロだけど、ここだとほとんど誰も手にしたことないと思えるくらい綺麗です。あと、調べたいと思い立ったらすぐに行けることもいい。大学の授業を受けること、先生の貴重な話を伺えることもとても大切だし、同じくらい、私にとっては図書館に学生面して気楽に出入りし、調べたり借りたりできるのも嬉しいことです。ただ、願わくば、アメリカの図書館のように深夜まで開いてるとか、日本のいくつかの大学のように日曜も開館してたりするともっと嬉しいんだけどなぁ。
 ・・・だけど、いい加減いい歳過ぎた独りもんの女が、図書館に入り浸りってのもあんまり可愛くないな、とも思う。。ははは。まあいっか。
 


2004年09月23日(木) 平凡な休日が嬉しかった日

 旧暦8月10日。
 雨が降る降る、と天気予報が言っていたけど降らなかった。
 都電に乗って大塚駅前まで行き、レンタルビデオを返して本屋に寄って、大塚駅周辺の商店街をちょっと散策。でも、あんまり好きになれない雰囲気。街の特徴がつかめない。バラバラなイメージ。フーゾクの店が多すぎ。
北口を回ったけど、古本屋が見あたらない。安い飲食店は結構あるので、その点は巣鴨に勝るかな。自転車でどこかに行くときによく通る街なのだけど、駅前の本屋とレンタルビデオ屋以外はほとんど入らない。今度は南口も散策してみよう。まだまだ未知のエリアだ。
 で、その後巣鴨に戻って、地蔵通り商店街。今日はさすがに人出が多かった。伊勢屋で塩大福を買って、とげぬき地蔵のある高岩寺の境内で、文庫本めくりながら食べたり、お参りしたり、ボケーッとしたり。あとは商店街をふらふら、お店ひやかしたりしながら通り抜け、銭湯に入って、缶ビール買って、帰宅。落語聴きながら晩酌。いつも通りの休日。
 最近近所のおでぶアメショー見かけない。ほとんど毎日のように、軽トラックの上とか、車庫の入り口とかでごろごろしてたのに、とんとお姿拝見しない。どうしたんだろ。唯一頭をなでさせてくれる仲良し猫だったのに。もう10日位会ってない。。。
 
 


2004年09月22日(水) 彼の深い眠りは近所の平和な朝を壊す

 旧暦8月9日。
 同じアパートの隣ひとつおいた部屋の若いお兄ちゃんは、朝がめっぽう弱い。通常の弱さじゃない。夜更かししすぎるせいか分からないけど、とにかく起きない。彼がなかなか起きないのはご近所中みんな知ってる。
 毎朝決まった時間に、窓を開け放して寝ている彼の部屋から、ドラえもんのテーマ曲とドラえもんの声「起きろ」が交互に繰り返される目覚ましが鳴り始める。もの凄い大音響で。同じアパートの住人どころか、向こう3軒まで起こしてしまうようなでかさだ。
 が。
 部屋の主は起きない。
 目覚ましが鳴り始めてから10分20分で止まるのはまれだ。
 たいてい30分は鳴り続けるドラえもん目覚まし。
 平日は私の出勤時間まで鳴り続けるのでその後のことは分からないけど、休日は1時間鳴りっぱなしということもよくある。
 あの渦中によくもまあ眠り続けることができるもんだと、呆れを通り越して、一種の尊敬の念を覚える。と同時に、よくもまあご近所から苦情が来ないもないもんだと、不思議に思う。
 が。
 今朝、私が靴を履いていたら、誰かが表の外階段をどたどたと駆け上がってきて、お兄ちゃんの部屋の前で止まった。
 ドンドンドンドンドン
 階下の大家のおばちゃんだ。
「ちょっと起きなさいっ!!!」
 で起きるわけがない。
 と、大家さん、合い鍵で彼のドアを開けて、入り口の台所のシンクのステンレス部分をばんばん叩きながら、部屋の中に向かって叫び始める。
「起きなさいよっ!!!あんたの目覚ましで近所みんな起きちゃってるじゃないのっ!!なんでこんなでかい音であんた起きないのよっ!!!」
 バンバンバンッ!!!
「おーきーなーさーいーっ」
 バーーンバーーーンバアアアン!!!
 箒持ち出してそれで叩き始める。
 ボー然と側で見つめる私。
 ようやく目が覚めたらしい。
「早く止めなさいっ!周りがみんな迷惑してるのよっ」
 ノロノロと動き始めたらしい。それとも寝ぼけてるのか。なかなか目覚まし時計は止まらない。
「そんな遠いところに置いておくからすぐ止められないのよっ。もっとあんたの近くに置いときなさいよっ!!」
 うん、それがいい。近隣所のためには。
 彼にとってはそれじゃ困るんだろう、すぐ目覚まし止めて無意識のまま二度寝しちゃうんだろう、だけど、遠くに置いたって同じことだから、やっぱ、近くに置いといたほうがいいよ。
 やっと止まった。
 大家さんが駆け上がって来てから5分。朝の空気の中に静寂が戻ってきた。
 ヨレヨレになって私の横を通り過ぎる大家さんに、私は言った。
「羨ましいです、あんなに眠りが深いなんて。わたしは眠りが浅くて・・・」
 まじ、羨ましいよ。彼は夢も見ないんだろうなあ。
 けど、地震が来てみんな飛び起きても、彼は起きないだろうと考えると、ちと怖い。
 夜中過ぎですが、今お兄ちゃんが帰ってきました。が、自転車止めたところで携帯電話に着信があったようで、外でゲラゲラ笑いながら話し続けています。
 早く部屋に入って寝なさい。。。
 


2004年09月21日(火) もう遭いたくない。

 旧暦8月8日。
 蒸し暑い夏もそろそろ終わりのはず。。。で、ホッとしておりましたら、この前小指大のご、ごきが部屋にいて、ちょっとパニックに。私は病的にごきが怖いので、遭遇しないよう注意してはいたのですが。ショックでした。
 これまでサニタケのホウ酸団子とコンバットを置き、台所と部屋の両方にゴキジェットを1本ずつ置いてましたが、今日、コンバットの強力なものと、ホイホイ(入ってるとこ見るの怖いけど)と、待ち伏せなんとかっていうごきの出そうな所に予め散布しておく缶の殺虫剤もプラスしました。ホイホイは直接触りたくないので、ガムテープで屋根にビニル紐を付けて、捨てる時のことも考えました。
 で、奴ら(って書くといっぱいいそうな気がするから)じゃなくて敵は夜型なので、遭遇率を少しでも減らすために、私は明日から完全朝型に切り替えます。もっと早起きになります。できるか不安だけど、夜起きてて敵に合うより何倍もマシです。どうか私が寝てる間に罠のどれかに引っかかって昇天してくれ。
 これから寒くなる一方ですね。たのみます、どんどん寒くなってください。そして敵の動きを封じてください。間違っても暖冬なんぞにはならないで。
 それにしても、狭い部屋に待ち伏せ殺虫剤なんぞ撒いてしまったから、臭いです。私までくたばってしまわないか、ちと心配。
 では、もう寝ます。


2004年09月20日(月) 『江戸の町は骨だらけ』

 旧暦8月7日。
 敬老の日につき、東京都内の多くの銭湯では、65歳以上の方は無料。あたくしは平日はちょっと設備の整った立派な銭湯に行くんでありますが、休日はそこが家族連れによってレジャーランド化するために、混雑を避けて自宅からちょっと離れた小さな銭湯に行きます。そこがまた汚い。古いけど手入れの行き届いた銭湯は沢山ある、けど、そこは古くて汚い。お湯も臭い。おまけに店の人が恐ろしく無愛想。こちらが「こんばんは」と言って目の前に小銭を置いていっても知らん顔。これでよく商売になるなあと思いきや、混雑しないのをいいことに、やっぱり愛用する年輩の方々も多いようで。かくいうあたくしも、休日の夜の一杯の食材をスーパーで買って帰る前に入るにちょうどいい場所にあるために、この銭湯を利用し続ける次第なのです。
 今日も暑かった。夕方一っ風呂浴びて、早いうちに酔わない程度にちょいと一杯やって(だったら飲まない方がましだけど)、と思って行きたくないけど汚いほうの銭湯に行った。今日はやけに混んでる。そっか、敬老の日か、どうりでおばあちゃん達が多いわけだ。。。と、上がって身体拭いて服来て頭梳かして。。。暑い、やけに暑い、なんでこんなに暑いのだ。。と思っていたら。周囲のおばあちゃんとおばちゃん達の会話。「あっついね」「ほんと暑いね。こんなに暑いのにクーラーつけないんだね」「今日はタダの日だからつけないんじゃないの」「そうなんだね、ここはそうするだろうね。タダの客にはクーラーつけちゃくれないんだわね」「あたし言ってこようか」「いいよ、やめなよ、言ったってどうせつけちゃくれないわよ」「そうよね、ここはそういうとこだよね、それにしてもあっついね」
 おーい!あたくしはタダの客じゃないぞおおおっっ。そうじゃなくっても、敬老の日にこんな蒸し風呂に入れるなんざ、ふてえ風呂屋だよ。まったくサービス精神ってのがないよ。それにしてもなんだね、あたくしだけじゃなくって、他のお客さんもこの風呂屋のことあんまり良く思っちゃいないんだね。それ知っただけでも今日は満足だよ。・・・風呂上がりなのに早々に汗がにじんできたので急いで出てきました。
 と、悪口になっちゃいましたが、あの銭湯がなんとか続いているのは、近くに混雑する立派な銭湯があるからなんですね。しかし、いつまでもつものやら。。。
 だけど、そこの脱衣所で交わされる近所のおばちゃん達の会話、面白くて好きです。地蔵通り商店街の話題とか、ナニゲに聞いてたりします。。

 『江戸の町は骨だらけ』(鈴木理生・ちくま学芸文庫)を読む。江戸が大きくなるたびに、江戸城の周囲にあった寺院は移転させらるも、上っ面だけの寺院移転で墓地はそのまま、骨は地下に眠ったまま。よって後世、寺もないのに何故こんな所から人骨が、と、皇居周辺を掘り起こしては驚く現代人。他にも寺院に伴う墓地が沿岸の埋め立て地で果たす意外な役割、等、なるほど目から鱗面白いことが指摘されてあります。しかし、寺院と骨の関係にとどめておいても十分濃い内容になったと思われるのですが、筆者の言いたいことは他にも沢山あって、たとえば日本人の死体観とか、旅人が閉鎖的な地域に果たしたある役割とか、神仏習合とか、また都市伝説とか・・・それぞれに追求していけばゆうに1冊の本が出来上がるようなテーマを本書に詰め込みすぎてしまったために、どれも消化不良のまま。。。で、読む側としては、その点についてもっと書いて欲しい、と願うことしきりです。しかし近世考古学の成果を取り入れながら、江戸の都市空間を「骨」を追うことで掘り下げたり表出させたり。。そういえば江戸の町で死体はどうしてたの?という素朴な疑問を持って読み始める読者に、そこから出発していろんな視点を与えてくれる、面白い本だなあと思いました。


2004年09月19日(日) つづき『山姥』

 旧暦8月6日。
 少し飲んでいるので毒舌ですが。
 昨日に引き続き、『山姥』(坂東眞砂子・新潮文庫)を読む。下巻はクライマックス。上巻に比べて人物の心情を緻密には描ききれていない印象。それよりも、衝撃のエンディングに向けて、場面がコロコロと変化して、文章を読む前に映像が頭の中に生まれて、それが先回りして読み手を待っているような感覚。それがいいのか悪いのかは私には分からないけれど、面白い目が離せない退屈しない、と思いながら、どんどんページをめくるも、同じ作品なのに上巻とは質が異なっていると感じるのはどうしてか。思うに作者も書きながらどんどん夢中になって、急いて、上から何か得体の知れない力に操られるように書き進めて行ったのでは。。。そう思わせるほど、クライマックスは一気に盛り上がり、めくるめく大団円(?)となる。上巻で見られた手の込んだ書き込みと異なり、下巻では何かに操られるように進んでいく物語。「物語」の力を感じ取りたければ是非『山姥』をお勧めします。
 昨日は映像と小説の異なることを生意気にも蘊蓄たれましたが、作者も、読み手である私も、どうしようもなく映像世代なのだと感じざるを得なかったです。上手く表現できないのですが。。。
 『イノセンス』のDVDが今月半ばに発売されたので、購入。スタンダード版でも4000円近くというのはちと痛い。しかも、自分がアニメのDVDなぞ買うというのが信じられないです。アニメって子供の見るもんだとばかり思っていたので。と言いつつ、この日記書き終えたらDVD見ます。
 ちなみに昨日、日記を書く前に、お酒をチビチビ飲みながら『夢』(黒澤明監督)を見てたんですが、ごめんなさい途中でやめてしまった。『どん底』とか『七人の侍』とか、黒澤監督の映画は好きなんですが、この『夢』はどうしても最後まで見れない。映像は綺麗だと思うんだけど(でも緊張感のないカメラワーク所々不満)どうしてあんなに退屈な映画作っちゃったんだろうって思う。。。お酒飲みながら見ててもつまらなくて消してしまう位だから、映画館で見ていたら私爆睡しちゃうかも。ここまで無礼なこと言えちゃうのは私が映画の素人だから?だけど、ホントにつまらないよ。。。「こんな夢を見た」で始まる個々のエピソード、監督が何かを伝えんとしているのだろうけれど、やはり、それが夢の中の出来事なのだと最初から知らされているのはつまらない。されど、レンタル代が勿体ないから明日最後まで見ます。


2004年09月18日(土) 『山姥』

 旧暦8月5日。
 今朝起きたら10時だった。
 何がきっかけでこんなに寝坊助になったのかと、愕然とする。
 だけど、まあ、1日好きなことしてたので満足と言えば満足な休日でした。『山姥』(坂東眞砂子・新潮文庫)を読む。上下巻の、今日は上巻。以前同作品でこの著者が直木賞を受賞した直後、母からハードカバーを借りて読んだものの、あまり身を入れて読めなかった。でも、今日再読してみて、この作者のあまりの非凡な才能に驚いてしまった。他の作品が映画化されたりして、土俗的な作品を書くホラー作家というイメージが強い。どうもねちっこくて読む気がしないのだけれど、で、この『山姥』もねちっこさはあるんだけど、この坂東眞砂子という人は、読者をぐいぐい作品の中に引き摺り込んでしまう筆力を持った作家だと脱帽せずにいられない。7年ほど前だったかに初めて読んだ頃に比べて、自分が主人公の涼之助はじめ他の登場人物にぐんと親近感を持って作品の中に入り込めることに気がつき、驚いた。特に、涼之助と、てるの夫鍵蔵。登場人物の心の綾を巧みに拾い上げて紙面に描き出し、そして作者は緻密に伏線を張り巡らせて、クライマックスへと読者を導く。
 けれど、この作者の他の作品を読もうという気になれないのは、私にとって損なのだろうか。どうも、彼女の現代物にはそそられない。他の作品を読んでいないのに言うのは間違っていると思うけど、おどろおどろしさも『山姥』が限界だ。簡単に映画化できるような小説には惹かれない(奢った言い方かも知れないけど、この点は譲れません)。映像には映像の良さがあるし、小説には言葉を紡ぐことによって出来上がる世界がある。『山姥』には言葉でしか表現のしようがない独特の闇がある。読み手の中で、他人による映像化を拒むような、ある種の独占欲に似た気持ちも、優れた小説は引き出すことが出来るのだと思う。自分が好きで夢中になった小説が映画化されると聞いたとき、腹が立つか、待ってましたと喜ぶか。。。作者と読み手との間に、映像を司る他の人間が入り込む余地のないような小説、書く側と読む側との間だけに繋がる太い線、たとえ実力のある映画監督であっても、読み手の中に出現した小説の世界を超える映画を作るのは至難の業ではないか。
 ・・・と話がどんどん逸れていることを承知で続けるのですが、要は、小説を原作としたいい映画やテレビドラマは沢山ある。。けれど、映像は映像、で、映像だけではその小説の作者の言わんとしたことを拾い尽くすのは不可能だと思うのです。映像の醍醐味もあるけれど、やはり、紙に書かれた小説には小説の良さがある、文字を追うことでしか得られない興奮がある、と思うのです。映画と小説はあくまで別物だと思うのです。と、ここまで書いて気がついた。坂東眞砂子作品、映画化された物も含めて、じゃあ、読んでみなきゃいかんがな。

 
 
 
 


2004年09月17日(金) 丸善行ってきましたが。

 旧暦8月4日。
 今朝起きたら9時でした。
 眠りが浅いせいか夜中明け方よく目が覚めるので、いつも腕時計をしたまま寝るのですが、夢の中で仕事しててしかも今日忘れてはいけない仕事だったのをうっかり忘れて慌てる夢で、起きたら夢だったのでほっとして腕時計を見たら9時だった。。。んで、「なんだよ6時が9時に見えら」と笑った瞬間凍りつきましたです。結局夢の中でも慌てて、現実でも慌てる羽目になった本日。。
 しかし、遅く出社した分残業しっかりやらねばと思いながらチコチコとキーボード叩いていたにもかかわらず、どうも懸案事項の丸善が気になって気になって仕方がない。連休に行くと混んでいそうだし、自分も長居してしまいそう、ならば平日の夜行って、閉店とともに否が応でも追い出されるほうが、自分のためにもなる。本屋に入ると買う買わないにかかわらず、だらだらうろうろ居座ってしまい、あとで思い返すとその時間本読んでいた方がよっぽど為になったのではと後悔することも多いので、なるべくなら休日は避けたい(ただし神田などの古本屋めぐりは別)。しかし、自分はこの3連休、丸善に行かずに耐えきれるだろうか・・・・と、逡巡した結果、7時半に会社を飛び出して、丸の内は新しく出来た丸善に行きました。
 新しいビル、オアゾ(エスペラント語らしいです)の1〜4階を占める「日本最大級の」書店だそうで、9時の閉店(これはありがたい!)1時間前、金曜だけあって、仕事帰りのスーツ姿の人達が多かったです。白を基調としたアカデミックな内装、どことなく洗練された印象。14日に開店したばかりとあって、エスカレーターですれ違う人みんな、キョロキョロしてるところが面白かったです(自分も)。今日は、まず4階の文具売り場をザッと見て、3階の文庫本コーナーに行きました。文具は日本橋の丸善の地下にある文具売り場と商品の顔ぶれはほとんど同じ、だけど、百貨店の文具フロアのようにお洒落な感じ。万年筆とか、卓上小物とか、革製品とか、腕時計。文具売り場で私がウキウキして必ず覗くのはノート類と原稿用紙のコーナー。・・・普通。が、ノートはツバメの大学ノートもしっかりあるし、モールスキンもロディア(メモパッド)もあるし、あとメーカーは分からないけど使い勝手の良さそうな洒落た表紙の洋物ノートもありました。原稿用紙は普通だった。丸善の原稿用紙は実用本位で選べば使いやすいんだけど、ちと高い。高いというのは今のところ愛用しているコクヨ製と比べてるだけなので、私の感覚はアテにならないです。相馬屋や山田屋製よりは安いので。でも、丸善の原稿用紙のどこが好きかって言うと、升目が薄いところです。あと、紙自体も薄い。これで今出回っているサイズよりもう一回り小さいのがあれば、多少高くても丸善にするんだけどなあ。ちなみに原稿用紙が揃っているのは、銀座の伊東屋です。ブラブラと見本がぶら下げてあって、探しやすいです。・・・と言いつつ、いつも最後は好みのものを探しあぐねてコクヨに落ち着く。。
 えーと・・・何の話だったか忘れてはいけない、本屋の話でした。
 3階の文庫本コーナーに行きました。
 ここは、狭いなあ。いや、大きい部類に入るんだろうけど、新宿の紀伊国屋、池袋のジュンク堂には完全に負ける。しかも、本棚が異様に高い。これは文庫本コーナーに限らず、この新しくできた丸善全体に言えるんだけど、本棚が高すぎます。上のほうにある本、当然手が届かないし、それどころか、背表紙が見えない。視力の悪い私が言うのもなんですけど、だいたい本屋来る人は細かい字読み過ぎて近眼になってる人が多いんだから(?)あんなに遠い本の題名なんて見えないです。しかも、字が小さいのに加えて、上の方だと天井の電灯が反射して尚更見えづらいことも。さらにさらに、たとえ運良く上の棚の背表紙が読めたとして、それでその本を手にしたくなったとしても、売り場に置いてある脚立に昇ってそれを取るのは、ちょっと怖いです。特にスカートの女性なんて困るよ。脚立じゃなきゃ取れない位置に本を置いてある本屋は多いけど、あそこまで本棚が高いのはちょっとないです。それから、書棚と書棚の間隔がとても狭い。お客さん二人背中合わせにそれぞれ前にある書棚の本見てたら、その間を通るのは難しい。「すみません」と一声掛けなきゃならないくらい狭い。ジュンク堂池袋店のゆったりした文庫本コーナーに馴れてしまうと、こちらの丸善の狭さは落ち着かない。その点、同じ東京駅近くの八重洲ブックセンターの文庫本売り場のほうがまだましです。書棚も低いので本探しやすいし。まあ、それだけ詰め込んであるわけで、数がある分、探している本が見つかる可能性もあります。が、今日見た文庫本コーナーについて言えば、ゆっくり本棚を巡るお客さんの立場にはなってないです。そこが大きな不満。
 と、文句たらたら並べてるくせに、しっかり3冊買ってきました。んでもって、またしばらくしたら行くと思います。だけどだけど、文庫本コーナー、なんとかしてくれよ〜!!


2004年09月16日(木) 丸善

旧暦8月3日。
 あと1日で連休。連休があると思うと少し、いやどどーんと気が楽。連休はなんにも予定入れてません。それが最高の贅沢です。この本とあの本を読もうとか、あっこら辺までちゃりん歩(チャリで散歩)しよう、とか、そんな程度に頭の中で計画立てて朝早起きするのが好きな休日の過ごし方です。ただ、こういう休みは朝早起きしないとあっという間に終わってしまうので寝起きが肝心なのだ(当然前日の深酒は厳禁)。
 丸の内に新しくできた丸善に行ってみたいんだけど、この連休含めしばらくは混雑しそうなので、躊躇してます。それに、行けば行ったで長居してしまいそうだし、何冊か買ってしまいそうだし。。。今自宅にはまだ読んでない積ん読状態の本が沢山あるので、しばらく買うのは控えようと思っているのですが(無理そう)。
さらに、もうすぐ神保町の古本市もあるので、資金溜とかないと。
 でも行ってみたいよなあ丸善。巣鴨から乗り換えナシで簡単に行ける大型書店がまた増えましたです。
 ほっほっほ。すっごく嬉しい。。。
しかし読むのが遅いのに買う量だけ多いのは自慢にならない。。けど、世の中にはそういう仲間が多いらしいです。ほっ。


2004年09月15日(水) 父親の記者会見

 旧暦8月2日。
 小山市の幼い兄弟の事件だけど。。。
 兄弟の父親の会見見て、殺された兄弟がつくづく気の毒に思えた。
 貧乏も、両親が離婚するのも、仕方のないことだし、世の中には複雑で苦労の多い家庭が沢山ある。だけど、どういう状況になったって、子供にとって最後まで頼りになる、愛情を掛けてくれるのは親なんですよね。首から下だけ映った父親の会見を見ていると、あのお父さんならやる気さえあれば親子3人アパート借りて慎ましく暮らせる位の稼ぎは得られたんじゃないかと思った。そういう発想はなかったのかな。事情はいろいろあるかもしれないけど、だけど、記者会見の発言聞いていると、自分の都合の良いようにしか喋っていない。二人を殺した容疑者はもちろん悪いし許すことは出来ないけど、この父親もほとんど同罪ではないか、とまで思えてしまった。。。
 


2004年09月14日(火) 命の重み?

 旧暦8月1日。
 栃木の事件。幼い兄弟の無事を祈る誰もが、もしかしたら二人はすでに殺されてしまったのかもしれない、と悪い予感を感じながらも、でもひょっとすると無事で発見されるのでは、と微かな期待を抱いていたのでは。。だけど、悪い予感のほうが現実になってしまった。あどけない二人の写真を見ていると、あんな可愛い幼児に暴行を加えて川に投げ落とした犯人の心理が信じられず、ぞっとする。
 実際に手を掛けて殺した容疑者だけでなく、二人が虐待されていたことを知りながら、結局こんな結果にしてしまった周囲の大人達にももちろん責任がある。生活力のない父親のもとに幼児二人がいるのに、母親は?祖父母は?児童相談所は?虐待を受けたことがはっきりしているのに、どうして彼らが容疑者の所に再び同居することになったの?誰もまともな環境で彼らを育ててあげることができないのに、どうして産んだの?
 豊かでいろんな物に囲まれてなんでも揃っている日本のどこかで、狭い家の中で、人知れず虐待に耐えている子供がいるのだと思うと、いたたまれない。
 この世に無駄な命などひとつとてないのに。
 池田小事件の宅間死刑囚の死刑執行と、この幼い兄弟の死と・・・命についてさまざまに考えざるを得ない。


2004年09月13日(月) お囃子

 旧暦7月29日。
 早く机に向かいたくて急いで帰ってきたのに、近所のマンションの屋上で大音響の東京音頭。。この週末から毎晩テープに合わせて太鼓の練習してるらしい。。。太鼓の上手い下手は分からないけど、まあとにかくウルサイ。昨日自分が自宅でお酒飲んでる時はちょうどいいや雰囲気出て、って思ったけど、今夜のようにちょいべんきょーしようと帰宅してこれだとすんごく頭クル(-_-)せめて音もう少し小さくしてくれい。とか、屋内で練習できないのかい?お囃子というのは、風に乗ってどこからともなく聞こえてくるのがよいのであって、近くでのべつまくなしにドンドコやられっぱなしではまいってしまいます。あーあ。まさかお祭りまで毎晩これが続くのか知らん。花火同様、9時になったらやめてよね。・・・と思ったら9時。で静かになった。ほぅ。。
 
 祭りの季節ですねぇ。このあたりどんなお祭りがあるのかまだ把握してないのですが、今年はどこかのお祭りに行って、ふらふらと雰囲気に飲まれて来ようかなぁ。賑やかなお囃子に、色とりどりの光。そういや昔のお祭りって、今みたいに電気なんてないからたいまつとか提灯の灯りだったんですよね。そっちのほうがんあか風情があるなぁ。現代もたまにはそういう昔の灯りで、音は拡声器なんて使わないでやってみたら面白いんでないかな、と思うけど、そんなわけには行かないだろうな、物騒だもの。
 タイムマシンに乗って江戸時代頃の村の祭りに行ってみたい気分です。

 ところで栃木の幼い兄弟。ひどい話だ。生きてるんだよね?きっと二人でどこかうろついているんだよね?早く見つけてあげて欲しい。
 人の家庭の事情にとやかく言えないけど、被害者の親も加害者も、どっちもどっちという感じ。子供に愛情掛けられないんだったら産むなよ、と言いたい。最近幼児虐待のニュース耳にする度にそう思う。あと、子供は自分の一部だと思っている親も信じられない。自分の一部を切り取って出来たと思ってるから、自分の意のままにしようとする。思い通りにならないと虐待する。そうじゃなくて、子供はれっきとした人格を持った1人の人間なのに。親の身体から細胞分裂して出来たのではなくて、たまたまその両親を通り道にしてこの世界に生まれてきただけなんだと思う。だからいくら赤ん坊だって子供だって、大人と同等。そんなことも分からない人間に子供を産む資格なんてない。


2004年09月12日(日) 猫に睨まれる

 旧暦7月28日。
 
 青空が広がっていて涼しい風が吹いてくる。今の季節が最高に過ごしやすい。最近日曜の朝はふらふらとコンビニまで新聞を買いに行く。平日はインターネットでニュースをチェックするけど、やっぱり、朝ゆっくり新聞を読むほうが休日の気分になるので。。
 途中、車庫の屋根に寝ころんでいる猫に下から声を掛ける。と、ギロリと睨み返された。高いところにいる猫は強気だ。だいたい私みたいに猫に構って貰いたくて猫撫で声で呼びかける輩なんかは特に扱いがひどい。完全にバカにする。別にえさをくれるわけでもなし、涼しい寝床を提供するわけでもなし、ただの通りすがりのくせして手土産も持たずに遊んで貰いたがる人間なもんで、声を掛けられた猫がよほど暇をもてあましていていっちょ相手してやるかな、という気にでもならない限り、上から邪魔そうな顔で見下ろされるだけであります。

 夏目漱石の『吾輩は猫である』まだ読み終わりません。毎日チビチビと読んでいますがようやく半分。これ、面白いのか面白くないのか、正直言って分かりません。以前読んだとき、確か頭に入らないまま取りあえずなんとか読み通したような記憶があるのですが、改めて、今回はじっくり読もうと思ったけれど。。。しんどい。。。(^_^;)面白い箇所も結構あるし、くすりと笑ってしまう時もあるのですが、この分厚さ、いや、つまらない訳じゃないんですが、実を言うと、早く読了して次の本に行きたくて、心のどこかでイライラしながら読んでしまってます。。気分的にはまる時はどんどん進むのですが、乗らないと数ページで閉じてしまって。。今、『御宿かわせみ』(平岩弓枝・文春文庫)と『半七捕物帳』(岡本綺堂・光文社文庫)も同時に読み進めているのですが、当然ながら、それらのほうが読みやすくて話のテンポが良いので、どうしてもそちらを開いてしまうのです。ああこれではいけません。。一度読み始めた本を最後まで読む習慣をつけなければ。
 『吾輩は猫である』、決してつまらない訳じゃないのですが(なんつったって文豪夏目漱石だ)、・・・しかし、読むのがしんどいとは、私の読書力が乏しいのであります。反省。


2004年09月11日(土) 911

 旧暦7月27日。
 久しぶりに会った友人達と遅くまで飲んでいました。よって、土曜の日記を日曜の朝書いています(最近これが多い?)。
 
 昨日は9月11日だった。
 夜のニュースを見ていて、NYの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んでしまう事故があって、その直後の中継映像を見ていたら、もう1機が飛び込んできた。そこで初めて、アナウンサーも、テレビを見ているこちらも、事故ではなくてテロなのだと気がついて、慄然となった。あれからもう3年も経ったんだ。
 3年の間に、同時テロ以外にも、信じられないような出来事が次々と起こって、たとえ日本に住んでいたって、今日と同じような平穏な日が明日も続くとは限らないのではないか、と思うようになった。
 テロという言葉が日常用語化し、今日もどこかで大勢の人達が亡くなっているという事実に、地球全体がどんよりとした黒雲に覆われているようなイメージが消えない。
 テロで家族を失った人達の悲しみや苦しみを考えると、じゃあどうすればよいの目には目を歯には歯をしかないじゃないか、とも思うこともあるけれど、それでもやはり、暴力がものを言う世の中にしてはいけないという気がする。この3年の間、大きな軍事力をもつ国々が、軍事力の行使と対話と、どちらをより多く行ってきたか。対話なんてしてるところをついぞ見たことも聞いたこともないような気がする。。。
 戦争は良くない子供をはじめとする弱い立場の人達が犠牲となる、なんて言うのは綺麗事だと言う人もいるけれど、それは戦争の現実を知らない者の言えることだと思う。戦場で子供を失ったり、親を失ったり、自分の身体を失ったり、住むところを失ったり、大切なものを失ったりした人は、心底戦争なんてこりごりだと思うに決まっている。世の中の問題を戦争で解決すべきだと考える人は、まず、自分と家族を連れて戦場に乗り込んでから、そう言うべきだと思う。「戦争反対」を叫ぶばかりではあまりにも幼稚だという意見もあるけれど、戦争に反対する理由の根本は、やっぱり、犠牲となる人達への思いだ。
 同時多発テロから3年、結局、復讐の重ね合いで、犠牲者は増えるばかり。世界中の多くの人達が、こんな世の中はもうこりごりだと思っているのに、アメリカ人はまた戦争好きな大統領を選ぼうとしているらしい。<米大統領選>外国世論は圧倒的にケリー支持(毎日新聞9月9日)
 ちょっと感情的な言い方かも知れないけど、アメリカ人の大国意識とか、強い国意識ってつくづく嫌になるな。


2004年09月10日(金) 嘘つき鏡

 旧暦7月26日。
 お風呂上がりに近所の居酒屋で飲む。
 同じく1人で来ていたおばちゃんと意気投合。時代小説の話とか、戦争直後の巣鴨の様子とか、エルヴィス・プレスリーとか細木数子とか。戦争が終わってラジオから流れてきたプレスリーのインパクトは、その後のビートルズの比ではない、とのこと。うん、プレスリーは凄い。プレスリーは格好いい。ああいうカリスマ性のある歌い手はもう登場しないんだろうか?
 
 同じ職場で働く女性が、「ここのトイレの全身鏡って、細く見えますよね」と言う。なぬ?「他の人も言ってますよ、実際より細めに見えるんです。そういう鏡ってあるんですよ、洋服屋さんの全身鏡によく使われているんです」
 だそうなのだ。洋服屋さんでは、実物より細く見える鏡を置いて、試着してみて自分がほっそり見えるのに気を良くしてもらい、さらには購買意欲も高めて貰おう、という魂胆があるらしい。
 がーん。
 なんと。
 そんな。
 真実とは異なるものを映す鏡があるとは。
 この世で一番正直なのは鏡のはずではないか?
 それが、鏡が、嘘をつくとは。
 グリム兄弟も真っ青、「白雪姫」のお話は成り立たなくなってしまうではないか。
 じゃあなんだ?今まで毎日会社でトイレに行くたびに、トイレ出口の全身鏡に映る自分の姿に、細くなっただのお腹が凹んできただのといちいち喜んでいた私は、鏡にだまされていたということになるのだろうか?
 そんな。
 ひどい。
 一歩譲って、洋服屋さんが、お客が少しでも細く見える鏡を置くのは仕方ないとして、オフィスビルのトイレにそういう鏡を取り付けたビル側の意図は一体何なのだ?それが一体何の役に立つというのだ??
 し、しかし。
 やはり解せない。
 どこに置く鏡であろうとも、鏡たるもの、真実を映さずして何を映すというのだ。。。


2004年09月09日(木) 目黒のさんま

 旧暦7月25日。
 朝晩が涼しくて、日中青空の雲も高い。秋なんだ秋なんだ、と、すこぶる嬉しくなる。と、さんまが食べたくなって、今夜はさんま。窓を開けて、匂いをご近所にまき散らしてさんま焼く。ご近所猫達にこれみよがし・・じゃなくて、これ嗅げよがしにさんまだー(相手はまぐろ食べてたりして)。それと、ビール。ああ、何故今日が金曜でないのだ。明日まだ仕事があるでないの。
 落語に「目黒のさんま」という噺(はなし)がある。
 昔、殿様が家来を連れて遠乗りに出かけ、目黒(当時はまだ田んぼや畑ばかりでした)でちょうどお腹が空いたときに、さんまを焼く匂いが漂ってきた。そこで、さんまを焼いているお百姓さんに頼んで、さんまなる魚を初めて食べさせて貰ったお殿様。当時、さんまは下魚(げうお)と言って、庶民の魚。とてもとても、お殿様が食されるような魚ではない。ところが、お百姓さんの焼いた黒こげのさんまのあの脂の乗った旨さが忘れられない殿様。お城へ帰ってもさんまが食べたくて食べたくて仕方がない。そんなある日、ご親戚からお呼ばれになって、お食事はお好きなものをなんなりと、と言われた殿様、これはラッキー、と、早速さんまをご注文。ところが、言われた側でもさんまの調理の仕方など分からない。家来に聞いて、なるほど、と、日本橋は魚河岸で最上等のさんまを仕入れ、脂が多すぎてはお身体に毒であるからと、十分に蒸し上げて、小骨も綺麗に抜き取って、さんまのだしがらになったようなものをお殿様に提供した。
 「これが、さんまか?」「御意にござります」「さようか、やけに白いが・・・さんまとはもっと黒こげではなかったか?」「いえいえ、さんまに間違いございません」「さようか・・どれどれ、確かにこれはさんまの匂いじゃ」と、さんまに箸をつける殿様、しかし、脂分の全くないさんま、ぱさぱさとしてぜんぜん美味しくありません。「・・・して、このさんま、どこのさんまじゃ?」「ははー、日本橋魚河岸より取り寄せましてござりまする」「あっ、それはいかん、さんまは目黒に限る」
 ・・・という噺です。
 庶民に生まれたことが幸せだと気づかせてくれるアイテム。
 それが、さんま。
 
 して、なんと、こんなお祭りがあるのでござりまする。
 第9回 目黒のさんま祭り
 知らなかったなー。今年ですでに9回目なのですね。秋の空の下でさんまを食し、寄席を聴く。いいじゃあないですか。いいなあ。しかも、さんま食べ放題って書いてありますよ。さんま食べ放題って、お殿様に羨ましがられますね(・・・でも。いくらなんでも限度があるよなあ)。
 と、ここまで書いたところで、何故か雷が鳴っている。あらら。また。
 
 


2004年09月08日(水) 水上勉氏死去

 旧暦7月24日。
 作家の水上勉氏が亡くなった。
 お若い時から病弱で、のち、心筋梗塞や脳梗塞も患われたが、それも乗り越え、小説のほかに随筆や対談、さらに独特の柔らかい画風で四季折々の野菜などを描いたりと、きっとこの方はいつまでもお元気で、四季の風情を楽しみながら静かな景色の中暮らしておられるのだろうと思っていたのだけれど・・・もう85歳におなりだったんですね。
 存命の日本人作家では最も尊敬する方でした。日本海側の冬の厳しさと海の波荒さを知っている作家だけに、とても親近感もありました。
 『金閣炎上』『越後つついし親不知・はなれ瞽女おりん』『土を喰う日々』(いずれも新潮文庫)・・・特に好きな水上作品です。『金閣炎上』は、三島由紀夫の『金閣寺』よりも好きです。三島由紀夫とは視点が違うのですが、較べてしまう。水上勉の『金閣炎上』のほうが、個人的には、ずしりときます。
 それから、女性の心を丁寧に描く作家でもありました。『越後つついし親不知・はなれ瞽女おりん』、哀しい物語ですが、哀しい人生を背負った女性の生き様を、心の綾を大切に描き、表現してあります。
 『土を喰う日々』、子供の頃、禅寺で覚えた精進料理をベースに、軽井沢の仕事場の一角に畑を作り、野菜を育て、包丁を握り、四季を食す。そのつれづれを書いた随筆で、読みながら、自分もいつかこんな暮らしがしたい、と思わせる。。。
 尊敬する作家、などと言っておきながら、実はまだまだ読んでいない水上作品が沢山あります。この秋は水上勉も読もう。。
 好きな作家が亡くなるのは悲しいです。
 ご冥福をお祈りします。


2004年09月07日(火) 註釈をどう読むか・・・なーんて。

 旧暦7月23日。
 江戸川乱歩の話題を昨日書いたけれど、春陽堂の装幀が好きだと言ったけれど、実は家には春陽堂の乱歩は3冊しかありません。江戸川乱歩の作品は、春陽堂のほか、光文社文庫、創元推理文庫(初版当時の挿絵入り)、角川文庫などにあって、それぞれ特徴的な作りなので、好みで選ぶと宜しくてよ。かく言うあたくしもこの秋冬は乱歩を集中的に読もうかと・・・今密かに乱歩ブームなのですね。夏目漱石もブームのような気がするけど。。この前会社で本に詳しい人から教えられたのですが、夏目漱石ならちくま文庫が読みやすいらしい。というのも、註釈が、巻末ではなくて、それぞれのページの端っこについているからだそうです。本屋さんの店頭で確認したら、確かにそうなっていました。だけど、新潮文庫のえんじ色の背表紙はおなじみだし、岩波文庫の装幀や文字の感じが好きだし、ということで、悩みましたが岩波の漱石を今片っ端から読もうと抱きついているところです。先月買った『吾輩は猫である』を読んでいます。漱石再読中。10代20代、そして30代では、同じ本でも読み方が異なるので、我ながら面白いと思います(自分のことが)。
 ところで章末や巻末についている註釈を、本文を読んでいる間どうチェックするか。。。です。私は結構せっかちなところがあって、小説を読んでいる時は、なるべく註は見ないようにしています。いちいち後ろのページをめくってページ番号を探すのも面倒くさいし、せっかく良いテンポで読んでいたものを中断するのも嫌なので。一応、註釈がやたらと多い本は、註釈のページに付箋を貼って、見たいときはすぐ飛べるようにはしてあるのですが、本文を読んでいる間はほとんど見ません。その代わり、一息ついたときなどに、ざぁっと註のページに目を通して、なんとなく、位の感じでどんな説明が書かれているかを認識しておきます。
 小説と違って、学術的(と言ったって、難しい本は読めませんが)な本の場合は、註釈の助けを借りないと前に進めない場合もあるので、逆に逐一ページをめくって確認します。ただ、註釈が引用文献の説明だったりすることもあるので、本文を読む前に、一応、章ごとの註釈にざっと目を通して、本文を読みながら確認すべき註釈があるかどうか、検討をつけておく、というやり方もします。
 最近本ネタが多いなあ。。。
 


2004年09月06日(月) 江戸川乱歩

 旧暦7月22日。
 立教学院創立130周年記念で「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」というのをやっていて、乱歩の土蔵を特別公開という滅多にない機会に、絶対行こうと決めていたのに、すっかり忘れていた。先日池袋のジュンク堂に行った折、チラシをみつけて店内で思わず叫び声を上げてしまった。。特別公開の期間をすっかり忘れてしっかり帰省しておりました。あーあ。悔やんでも悔やみきれない。江戸川乱歩の土蔵は憧れのひとつ。仕方がない。時々この頁を見てマヌケな自分を慰めるとします。書斎訪問・江戸川乱歩の土蔵(神保町.com)
 江戸川乱歩と初めて出会ったのは小学校の図書館。怪人二十面相だったかな。それからテレビドラマ。子供は見てはいけないと親に叱られたような記憶が。それと、一番印象に残ったのは高階良子の漫画「ドクターGの島」。これが江戸川乱歩の「孤島の鬼」を下敷きにしたものだった。これは先に漫画を読んで、そっちのほうに完全に取り憑かれてしまい、高階良子の絵がどうも頭から離れない。十代の多感な年頃に「ドクターGの島」はすっごくインパクトを与えてくれた。
 今書店では光文社文庫版の江戸川乱歩シリーズが平積みされているけど、私は春陽堂書店版のほうが好きです。黒を基調に多賀新のおどろおどろした銅版画が表紙を飾っていて、怪しげですごく好きです。カバーつけないととても人前では読めないのですが。。。
 


2004年09月05日(日) ラジオ。「銀河鉄道の夜」。

 旧暦7月21日。
 ラジオ云々屁理屈書いてしまったのですが、民放ラジオにも耳に心地よい番組は沢山あるのです。間の取り方が上手い語り手だったり、心の準備なくとも耳にすんなり入って留まってくれる音楽をさりげなく流してくれたり、そういう番組は探せばいくらでもありそうなので、探してみようっと。
 新潟の実家にいた中高生の頃、自室のラジオの感度がやけに良くて、ダイヤルをゆっくりゆっくり回していると、平壌放送(今思うとそうだった)や、韓国の歌謡番組や、ロシア語の放送が聞こえたりして、訳判らないままドキドキした。スピーカーに耳を近づけながらひたすらゆっくりダイヤルを回し続けると、「ツートンツートン」とか「ピー・・・ピー・・・」とか規則的な信号も受信するし、どこの国の言葉か判らないような不思議な言葉も耳にする。面白がってしばらく聴いていると、いきなり終わって無音になったり、前回聴いたラジオ局をまた聴こうと同じ周波数に目盛りを合わせるのに、雑音だけで全く何も聞こえない、ということもあった。もしかしたら聴いてはいけない局を突き止めてしまうのでは、と、ちょっとしたスパイみたいな気分にもなったりして。どこかの国の、秘密の地下組織が人々を喚起するために時々周波数を変えて番組を流したりしてるかも、とか、それから、宇宙人はどの周波数でメッセージを送ってくるのだろうか、なんて、無知もいいとこだけどちょっと考えてみたりもした。目には見えないけど、自分の周りにはいろんな電波が飛び回っていて、それをラジオ受信機が拾うんだと思うと、すごく神秘的でもあった。今でもそう思う。
 もしかしたら、ラジオはテレビより奥深いんじゃないか、という気がする。そんなわけで、感度の良いラジオが無性に欲しくなってきました。。。宇宙人のメッセージも受信できるような。

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んでいた。新潮文庫版をもっていたのだけど、先日ちくま文庫版を買って、旧仮名遣いで読んだ。やはり近代文学は原文に近い旧仮名遣いで読んだ方が味わい深いような気がする。
 もう何回読んだか判らないけど、結末も知っているけど、また読みたくなって、で、最初から最後まで泣いてしまう。胸の上部がつかえて、悲しい気持ちになりながら、ジョバンニやカムパネルラが愛おしくて、二人の気持ちになりきって、読んでいく。「夢」を利用した話は好きではないけれど、これだけは特別だと思う。こんなに美しい話が他にあるだろうか。これほど哀しくて、幻想的でな物語はないと思う。いつの間にか、自分もジョバンニと一緒に車窓の外を眺めている。そして、ジョバンニは自分のことだと思ってしまう。
 
 そういえば、ラジオと、「銀河鉄道の夜」は、どことなく共通点があるような気がする。ないと言えばないんだけど、あると言えばある。上手く言葉にできないのだけど、うーん、なんと言うか、ノスタルジーか、神秘か、目に見えない周波数を拾う旅、とでも言うのか。。
 


2004年09月04日(土) マイブーム・ラジオ

 旧暦7月20日。
 土曜の日記を日曜の朝書いています。
 昨夜は雷が鳴っていたので、パソコンの電源を落として、コンセント抜いていました。機械には弱いのですが、雷はよくないと以前教えられたのでゴロゴロ鳴ると律儀にパソコン閉じてます。
 土日の過ごし方で今一番好きなのは、早朝から起きて、すっぴん顔ぼさぼさ頭で近所のコンビニに行き新聞を1紙か2紙買って来て、朝食食べながら読み、あとひたすら本を読む1日を過ごし、夕方銭湯に行き、風呂上がりにスーパーや八百屋を覗いて今夜の食材とお酒を仕入れて、帰宅後さっさと料理して、パソコンの前にお酒と一緒に並べて、あとはのんびり、ネットで落語を聴いたり、ラジオをつけたり、軽い読み物をめくったり、という、超自分勝手でお気楽な1日です。一応名誉のために付け足しますと、もちろん掃除洗濯もしなきゃならないので合間合間にちょこちょこ動いてはいます。だけど、概して、申し訳ないくらいぐうたらな時間を過ごします。。。外出したらしたでそれも楽しいし、時々どこか行こうという気にもなるんだけど、翌日なんにも予定がないという夜は、うきうきして頑張って早寝してしまう(笑)。
 
 ラジオなんてすっかり昔のメディアになってしまったと思っていたら、気がついたら最近再びよく聴くようになっている。実をいうと私がテレビ嫌いなのは、面白い番組がないのもあるけれど、どういう番組であれ一旦テレビをつけると結局自分が見入ってしまって、その間他のことが手につかない、そのくせ見終わった後、疲労感の他はほとんど何も残らないという、ただテレビに身を委ねて終わる状況が嫌いだからでもあります。その点ラジオは「ながら」が出来る。ただ、昔の自分と違って、最近どうやら音楽番組に食指が動かなくなってきた。音楽が嫌いになったわけではないのだけれど、昔(10代20代)は家にいる時しじゅう音楽をつけていたはずなのに、今は「あれを聴こう」と思った時にCDを引っ張り出す程度。むしろ耳が静かなほうがよくて、あれほど聴いたFMの音楽番組もつける気がしない。若くて賑やかなDJの声も耳障りに思えて(偏屈になったかなー)、今ラジオをつけるとほとんどNHKラジオ第1を聴いています。昔は一番つまらないと思っていたんだけどなぁ。今では一番落ち着けて面白いと思えます(笑)。年配のアナウンサーが多くて、さすがNHK、語り口も聞きやすくて安心して耳を傾けていられるし、テレビのアナウンサーと違って華やかさがないのがかえって魅力です。朗読や落語の番組もよく聴くし、最後まで聴いていられないけれど「ラジオ深夜便」もいいですよね。
 とうの昔に亡くなった祖母が、1人暮らしの家でいつもラジオを聴いていました。テレビは壊れて音だけしか聞こえなくても平気だったらしいけれど、ラジオは大切にしていた。子供心に、どうして音楽も流さなくて語りだけの番組に聴き入っているのか、不思議でした。
 今私が使っているラジオは、もう何年も前に買ったSONYのオヤジラジオ(?)です。通勤時に背広の胸ポケットに入るくらいの大きさ。あ、オヤジラジオじゃなくて、通勤ラジオ、って言うんでしたっけ?それです。購入した動機は、通勤時間に電車でラジオ講座を聴くことだったのですが、そんな目的も見失い。。。いや、それもまたいつか始めましょう、いつか。。
 ふと思いました。テレビは綺麗なタレントさんを画面に出せば、番組の質うんぬんより取りあえず視聴者を引き寄せることができる、映像の引力を利用すれば番組を作る側がちょっと手抜きしようがなんとか「もつ」わけですが、ラジオはそうはいかない。映像の助けがない分、聴く側をどれだけ飽きさせないか、惹きつけておけるか、番組を制作する側の質が問われるのではないかと。そもそも聴く側が、映像でものを言うテレビ番組と同じものをラジオにはハナから求めていないし、テレビとは比べものにならないくらい様々なシチュエーションで聴いている上に、どちらかというとテレビほど番組編成に変化を求めていないので、制作側はなかなか大変だなあという気がします。それから、私の偏見なのかもしれないですが、外見よりも語り手としての教育をしっかり受けているアナウンサーが多いNHK第1が、一番心落ち着けて聴けるのかなぁ。。


2004年09月03日(金) 暴力がものを言う時代

 旧暦7月19日。
 言葉の代わりに暴力がものを言う時代になってしまったような気がする。
 対話なんてなんの役にも立たない、そういう哀しく恐ろしい世の中になってしまった。
 暴力で解決することをまず第一に選ぶ人間という生き物は、これからも繁栄する価値があるのだろうかと疑問に思ってしまう。
 
 


2004年09月02日(木) お笑い垂れ流しテレビ。。。

 旧暦7月18日。
 ロシアの学校占拠はひどい。大勢の子供達を人質にとってなんになるのか。こういう事件が多発する時代に生きているというのは、自分にとってどういう意味を持つのか。意味なんてないのかもしれないし、あるのかもしれないし。別に自分になにか出来ると思っているからそう考えているのではないけれど、けれど、日本のテレビ番組の脳天気さはいったい何だ?と、呆れる。どこ回してもバラエティ番組だらけ。タレントが叫んで、会場で大笑い。って、そういう番組が悪いっていうわけじゃないけど、テレビ番組って、ほんとにほとんど面白くない。シリアスな番組やお堅い番組を増やせと言っているわけじゃないけど、番組を作る側の熱意がぜんぜん伝わってこない画面ばかり。7月にテレビつき携帯電話買ったけど、これで十分やんけ。
 他の国ではこの瞬間にも沢山の人が殺されたり怪我をしたり恐ろしい思いを味わっているのに、日本ではテレビからいつも同じ顔ぶれがギャーギャーわめいてお笑い垂れ流し。じゃあどうすればいいのかと問われるとうまく返答できないんだけど・・・。だけど、今の日本って何かが欠けているような気がして。。世の中そういうもんかな、とも思うんですけどね。。。
 今日はちょっと毒舌ですみません。


2004年09月01日(水) 宮沢賢治

 旧暦7月17日。
 日中はまだまだ暑いけれど、朝の涼しさにほっとする。
 
 人間のもつ技術の進化は一体何のためなんだろうと不思議に思う。
 どんなに科学が進歩しても医療技術が進んでも世界が狭くなってコミュニケーション手段が増えても、いつもどこかで戦争が行われているんだな。。政治家はテロや戦争の種をまき、せっせと水をやって育ててるんだな、という感じがする。そのくせ、戦争や暴力沙汰の好きな政治家はいつも安全な場所で自分がいかに正しいかをわめくばかりで、一方芽が出て育った土地では弱い立場の人達がいつも犠牲になる。人間ってほんとうに暴力沙汰が好きなんだなあと呆れる。自分も人間だけど。
 戦争のない世の中なんて理想論に過ぎないという意見もあるかもしれないけれど、人間は自分の持ち物ばかり進化させて、自分自身はまったく進化させてこなかった。そんなバカな話ってあるんだろうか?実際そうなんだよね、今。こんな安全な日本にいながら悲観的になってたって仕方がないのかもしれないけれど、人間に生まれた自分が恥ずかしい。そう思う時だってある。
 
 宮沢賢治の詩を読みたくなって、さっき本棚をゴソゴソやっていた。昔買った新潮文庫の詩集は、今出ている同じ新潮文庫の詩集と違うようだ。最近思うに、たとえ文庫本でも、作品が書かれた当時の仮名遣いで読みたい。「いた」と「ゐた」では後者のほうが味わい深い。漢字もしかりで、なるべく作家が選んだのと同じ漢字で読みたい。簡略化された漢字よりも、多少読みづらくてもよいから、文字の意味、言葉の意味のひとつひとつにつまずいて、ひっかかって、そうして楽しみながら読んでいきたい。そうは言っても、10代20代の頃の私だったら、読みやすい現代仮名遣いのものを選んでいたので、若い読者がすんなり読みに入るためには今風にするもの必要なことだとは思う。幸いにも、著名な作家の作品はいろんな出版社がそれぞれ文庫として出してもいるので、旧仮名遣いを尊重する出版社のものを選ぶ自由があるので、嬉しいです。
 知人に、宮沢賢治の詩の朗読会を続けている詩人がいて、彼らの詩の読み方は、私のもつ宮沢賢治のイメージと異なっていて、初めて聴いた時とても新鮮だった。腹の奥底から絞り出すような叫び声と、宮沢賢治の詩がどうしても結びつかないけれど、きっと、宮沢賢治の詩は、読む人それぞれのものとして、読み手の内部に取り込まれることが可能なのだと思う。
 
 宮沢賢治は何度も何度も転びながら、言葉を噛み砕いて、少し読んで、ぼうっとして、またちょっと読んで、またぼうっとして、を繰り返しながら読むのが好きです。
 
 


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