あたろーの日記
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2003年05月31日(土) 一歩一歩

 昨日の金曜は、ごき騒動に始まり、月末業務でずっとどたばたしてましたが、まあ、どたばたするのも嫌いじゃないんですね、きっと私って。
 IT関係の会社で派遣社員として庶務や経理的な業務をしているのですが、仕事の内容は私に合うものじゃござあせん、まったく。威張れることじゃないのですが、事務的な仕事はまったくできません。毎日職場の人に迷惑かけまくりですね。そもそも、フロアを慌てて走り回ってること自体、迷惑行為だわね。すんませんな。
 ・・・そんな私を見て、職場の何人かの人が心配してくれます。とってもありがたい。その人達のほうこそ、ハードな仕事なのに。
 でも、今の職場も、これまでの職場も、不思議なことに、結構楽しんでる自分がいたりするのです。いろんな仕事した(アルバイトも含めて)けど、どれも、何かしら自分のためになってるような気がするし、毎日の通勤電車や職場、いろんなシチュエーションで自分が思うこと、考えること、見ること、すべてが今とこの先の自分を作り出す素になるから、どんな些細な経験も私にとっては大切。テレビすら見ないアナログ人間の私がIT業界にちょこんと居候させてもらってるのもミスマッチな構図だけど、私にとってぜんぜん無駄なこととは思えないです。生活費を稼ぐためと、普通の会社というものの世界を覗くために派遣社員になったけど、それだけでなく、いろんな意味で今の生活が将来私にもたらしてくれるものは大きいと思ってます。それこそ、地下鉄での通勤から、社員食堂のごはんの味や、職場の窓から見える風景、ちっちゃな瞬間のちっちゃな感覚を自分の中に噛みしめながら毎日大切に過ごしていけば、それが自分の生み出すものになにかしら影響を与えてくれるはず、と思っています。自分の生み出すもの・・・たとえそれが、誰かに送る葉書の片隅に描いた小さなイラストであっても、また、コーヒーを飲みながら書き留めた短い一編の詩であっても。
 それに、一口にIT業界といっても、いろんな人がいるんですよね。どんな職場でもそうですが、どの人もみんな個性的。人間ってみんなオリジナルなんですよね。不思議なくらいオリジナル。街を歩いていても、電車に乗っていても、会社に行っても、人って面白い。どの人も興味深い。人の数だけいろんな日常、いろんな人生があって、どんな人の毎日も同じくらい重みがあって、その一端を知るのが楽しいです。いろんな人との会話も、話を聞くのも。会社と飲み屋(特に焼き鳥屋)は、いろんな大勢の人を垣間見ることができるから、私にとってはとてもありがたい場所です。
 でもほんとは都会って自分には似合わない。やっぱりいつか、数年後には、自然の中に住みたいです。だからこそ、今東京にいるうちに、30代前半の今のうちに(あ、もう半ば??いや、まだ前半!)見て聞いて感じて読んで、できるだけ吸収しておきたいんですよね。

 昨日(金曜)は仕事を終えてから、新宿にある画材専門店の「世界堂」に寄って絵の具の欲しかった色をちょこっと買って、それから自宅の最寄り駅のそばの、いつもの焼き鳥屋さんへ。
 金曜にしては運良くカウンター席が空いていたので、そこに座ってポン酒を熱燗で頼んで、あとはいつもの好きな串物を。
 さすがに疲れてちょっと眠くて、今日は文庫本開く気力もないかもー。頬杖ついて、ぼけーっといろいろ考えてる。死なせちゃったごきのこと、買ってきた色をどう使おうか、とか、ホームページそろそろちゃんと手を加えないとなーとか(笑)。実は今ちょっと計画していることがあるのでその段取りとか・・・無理かなー、でもやってみないと分からないもんねーなんて思ってみたり。
 ひとしきり思い巡らせてから、葉書大の小さいスケッチブック取り出して、目の前の焼き鳥をスケッチし始めた。ええと、今日はつくね。まるまるまるぅ。まるがみっつ。でもつるつるの球体じゃないよ、つくねの質感。おこげ、おこげも。次に、しいたけを注文。え?もうないの?じゃあ、しし唐。しし唐描きたいから。。え?しし唐もないの??んー、じゃあしょうがない、また鴨ねぎ。
描いてるうちに食べたくなるので、先っちょのほうから描いていって、描いた部分から食べていく(笑)。
 鴨ねぎを描き終えてスケッチブックを閉じたら、隣の席のサラリーマン風のお兄さんが「いかがですか?」と言ってポン酒を注いできた。・・・はぁ、ありがたく頂く。感じの悪い人ではなさそうだし。なんでも、その、さっきからスケッチブックに焼き鳥描いてるのを不思議に思って観察してたらしいです。そりゃそうだわなー、自分でも変わってると自覚はしてます。でも、目の前にあると描きたくなるんだもんね。いちいち人目を気にしてたら人生勿体ないこと沢山逃しちゃうもんなんであるよ。
 私1人で飲みに行くときは誰にも邪魔されずに好き勝手やってるのが主義なので、最初はちょっとこっちも警戒してたんだけど、話してるうちにだんだん面白くなって、絵の話から映画や街並みの話とか、いろんな方向に話題が発展していって楽しくなった。焼き鳥屋を閉店で追い出されて(まただ)、もう1軒行って話を続けた。
 私の鞄も訳の分からないものごちゃごちゃと入ってる(ガラクタが多い)のですが、その人の鞄もぱんぱんで、本とか書類らしきものが沢山詰まってるなーと思ったら、どうりで、大学で建築関係のセンセだそうです。しかも、頂いた名刺見たら、私の母校でした(笑)。私も卒業して残って事務としてしばらく働いたこともあり、妙に話が通じるところがあって、ウケた。滅茶苦茶ウケました。
 ヘンなところで変わった友達ができましたです。相手もそう思ってるでしょうな。
 あとでネットでお名前検索したら、新進気鋭の研究者なんですね。気さくな方だったので、ちとびびりましたです。

 ☆☆☆
 
 私の大好きな方が、もうすぐ大事な「舞台」にあがるとのこと。その準備に励んでいらっしゃる。ほんとうに頭が下がります。その人が頑張っているから、私も頑張ろうという気になる。着々と、一歩一歩。
 頑張ってください。応援しています。
 


2003年05月30日(金) ごきちゃんがおみえになりました。

 木曜日の夜、サイトの日記を更新して、さて、お布団ひいて寝よっかな、と椅子からおりて、目がテン。。
 フローリングの上にぽつーんと。。。
 アーモンドチョコが転がってる???
 
 んなわけないだろぉぉぉっ!
 アーモンドチョコなんて最近食べた覚えないって!
 
 アーモンドチョコ(に見えた物体)がすすすっと動きだした!
 
 何を隠そう(隠してないか)、大大大のごきぶり嫌いの私であります。
 その苦手さ加減は尋常じゃありません。
 ごきぶりを見ると気が動転してパニック状態。
 東京に住み着いて14年近くですが、ごきぶりに絡む笑うに笑えない(笑うしかない)エピソードは数知れず。
 大家さんとこに駆け込んだ、見ず知らずの通行人に助けを求めた、電話口で友達に叫んだ、職場で奇声を発して同僚を震え上がらせた、掃除機で吸い込んだ、遺体を片付けるのに手間取って会社を2時間遅刻した、怖くて友達の家に泊めてもらった、とっさにバケツをかぶせてしまいかえって後始末に困った、1匹殺すのに殺虫剤まるまる1本使った、自分で撒いた殺虫剤に滑って転んだ・・・等々。。。
 蛇大丈夫、蜘蛛も手づかみできる、とかげ大好き。なのに、ごきぶりだけはもう病的にだめ。。。姿を見ただけで失神しそう。。
 
 そのごきぶりが、家の中に数年ぶりに現れたのです。しかも、大物。
 昨年アパートのドアの前に1匹うろついていてパニくったけど、部屋の中には出なかったから、今年は油断してました。ホウ酸だんごまだ新しいの置いてなかった!
 
 ところがです。 
 なんか、私、成長したみたいです。
 結構冷静でした(あくまで私のレベルでの話ですよ!)。
 キッチンにゴキジェットプロ(殺虫剤)を取りに戻ったらその間に逃げられてしまうと思って、とっさに、そばにあったタオルをひっつかんで、床の上のごきをばたばた叩きました。叩きながら、不思議なんですが、「ごめんねごめんねごめんねー」って思ってたんです。「こんな姿に生まれてきたお前が悪いのよ、ごめんねー」って。一生懸命タオル振り回してたら、ごきにもろに素手でぶつかってしまった(ーー*)。でも、怖いんだけど、それ以上に哀しい気持ちが大きくなって、ごきぶりを殺そうとしている自分がひどい奴に思えてきちゃった。
 でも、ごきにはそんな気持ちが通じるわけもなく、もう必死にぐるぐる逃げ回って、とうとうタオル攻撃から逃れてどこかに隠れてしまったので、私もそこでようやく立ち上がって、ゴキジェットプロを持ってきて、再び臨戦態勢。おっしゃいくぞいっ!
 ・・・せっかく早く寝ようと思ったのにさ。ちっ。

 そろりそろりと奴が出てきた。
 シューッ!!!
 逃げる逃げるまた逃げる。
 床がぎとぎと。。。ああやっぱり。。
 が。
 敵もさるもの。
 物陰に上手く入り込んで姿が見えなくなった。
 
 積んである本とかどかして探そうか、と思ったのだけど、私やっぱり成長したんですねー、これからどったばった探して騒いでどうする、って思って、あきらめて寝ることにしました。っていうか、昼間の仕事の疲れとかもあったので、もう休む時間だな、と思ったのですね。
 以前の私なら、でかいごきのいる部屋で眠るなんて、ぞっとしてできなかったのですが、ほんとに冷静になったんだなぁ、とかなり自分が誇らしく思えましたです。
 でも、布団の上に横になったら夜中ごきも一緒に寝に来ると困るので、布団は出さずに、椅子に座って机に突っ伏して寝ることに。
 ゴキジェットを傍らに、キッチンも、トイレも、部屋も、明かり全部つけたままです。敵は夜行性だもんねぇ。。
 でも、夜行性でない私は、こうこうと明かりのついた部屋ではなかなか寝付けない。しかも、部屋のすみでちょっとでもかさっと音がすると、立ち上がってゴキジェット持って様子を見に行く。時計の針の音までしまいにはごきの立てる物音に思えてしまって。。ぅぅ、これでは寝れないじゃないか。。しかも、翌日は月末業務で仕事やることいっぱいあるので、会社を休むわけには行かない。徹夜になっても出勤せねば。
 そんなこんなでまあ、結局なんとかちょっとは眠ることができたのですが、なにせ机の上に顔をうずめてですので、寝心地最悪(仕事中にこれができれば最高、の体勢なんですけどね)、身体も痛い。しかも5時前に目が覚めて、それからぼーっとぼーっとしてました。
 
 前夜最後に見たときに、ごきには殺虫剤を大量に浴びせたはず。ならば、もしかしたらすでに昇天してる可能性大。。。と思った私は、出勤前に、ご遺体を捜してお片づけをしといたほうが、今日1日の自分の精神衛生上よろしいんじゃないかと思い、目星を付けた場所をごそごそ動かしましたら。。。
 いた。
 ひっくり返って。
 念のためも1回、ゴキジェットをシューっとかける。
 動かない。
 ・・・お亡くなりになってますな。・・・死亡推定時刻、午前1時半。
 こいつ、ようやっとの思いでここにもぐり込んで、息絶えたんだ。
 ・・・気の毒に。
 それにしてもでかい。。。

 ストッキングのパッケージの厚紙を使って、ご遺体を引き上げる作業に取り掛かる。
 が、仏様が殺虫剤のお陰でつるつるすべってうまくすくえません。
 10分位四苦八苦。
 やば。電車遅れる。・・・でも、でも、ここでこのまま放置して会社に行ったら、仕事しながらずっと、部屋に置きっぱなしのごきの遺体のことを考えて憂鬱になってしまう。それだけは避けたい。
 ・・・そんなことやってるうちに、なんとか引き上げ成功。
 で、ほんとは燃えないごみの収集日だったんですが、袋に入れて、出しちゃいました。ごめん。ごきちゃん。成仏してm(_ _;)m

 ぼーっとした頭で出勤して、ぼーぼーっとした頭と1日戦っておりました。睡眠時間2時間はきついで。私には。
 会社でみんなに具合悪いのかと心配され・・・そのたびにごきが出たのだと説明して、いや、聞かれなくてもごきの話をしまくり。
 
 それにしても、私、ほんとうに強くなりました。
 


2003年05月29日(木) SARS

 マスク買っておいたほうがいいのかなぁ。。。
 と、最近ふと考えたりするんだけど、結局遠い世界の出来事のようで、自分には関係ないことのように思えてしまう。
 旅行会社の倒産など、いろんな面に影響も出てるから、だんだん実感わいてきた、というのが正直なところ。
 SARS、日本にも入ってくるのかなぁ。

 これだけいろんな国、特にすぐ近くの中国や台湾で感染者が広まって大騒ぎになっているから、日本にも感染者が出るのは時間の問題だろうと覚悟したのも最初のうち、今はもう、日本はこのままずっと安全なんじゃないかっていう気もしちゃう。でも、いくら島国とはいえ、これだけ海外との行き来が多い今の日本に、SARSが入ってこないのもこれまた不思議なことのような気もしてしまう。衛生事情が違うとか言われるけれど、東京に住んで電車に乗ったり街を歩いたりしていると、こんな人ごみに感染者が1人でも混ざっていたらみんなすぐ感染してもおかしくないんじゃないかって思ったりして。東京はどこに行っても人人人だしなぁ(`_'+)
 先日SARSに感染した台湾の男性が関西をまわって大騒ぎになったけど、似たようなことがこれから先再び起こらないとも限らないし。

 職場で、知り合いがSARSにも効果のある特殊なマスクを注文したら売り切れでなかなか手に入らないという話を聞いた。予定していた海外行きを取りやめた人も。SARSが日本に入ってきたら、あんなぎゅうぎゅう詰めの通勤電車には乗れないから会社を休むという人も。。。へらへら笑って聞いていて、ふと、笑い事じゃないかも、と思ったら、私は「感染したかも、って一番最初に騒ぎ出し、一番最後にも騒ぐくせに結局ぴんぴんしてるタイプだから大丈夫」と言われてしもうた。さすが、周囲の方々はよく分かってらっしゃる。
 必要以上に騒いではいけないんだろうけれど、いざとなったらやっぱり怖い。
 地球上には人間の未知のウィルスがまだまだ沢山存在するそうだ。
 こういうことはこれから先まだまだ十分起こり得るわけで。。。
 
 ・・・それにしても、隔離され、手の施しようもなく亡くなっていく人達の無念さを思うと、胸が痛みます。。。


2003年05月28日(水) 宗教について思うこと。

 2日間日記をさぼってしまいました。
 スミマセン。
 
 土曜の夜から胃がむかむかして、眠れない眠れない。頭がんがんがん。
 それがずっと続いて、気持ち悪くなって、月曜火曜ととうとう会社を休んじゃいました。いつもは布団に入ると(布団に入らなくても)あっという間に眠りについてしまうのですが、ここ数日どうも眠れない。やっとこさ寝ると、旅客機が墜落したりといやぁな夢ばっかり見ちゃう。
 ・・・暴飲暴食気をつけます。
  
 そのつもりだったのですが、今夜会社で懇親会があって、グラスに注がれたビールの泡を見ていたらついつい・・・ごくごくと。。。お料理も沢山あったのでついつい・・・ばくばくと。。。
  ・・・暴飲暴食気をつけます。

 
 会社でちょっと宗教の話題が出て、その話題とは直接関係ないんだけど、私も最近頻繁に宗教について考えているのでございました。。

 先のイラクでの戦争とか、最近の白装束集団(あれも宗教が絡んでいるらしいですか?)とか、はたまたオウム真理教とか、宗教について考えざるを得ないことがいろいろ出てきて、その度に、宗教と個人の結びつきについて思ってきたのですが。。。
 
 宗教について思うことはいろいろあるのですが、そのひとつに、宗教は「縁」なんだなあ、というのがあります。最近ようやくそのことに気づきました。あたり前といえばあたり前なのかもしれないですが。
 なにも別に特定の宗教に帰依しなければならないということはないし、クリスマスを祝い初詣に出かけるのも一向構わないと思うし、無神論者であってもそれは全然オーケーだと思います。ただ、人が、特定の宗教に惹かれるとき、あるいは帰依するとき、まさにそれは「縁」なんだなあ、という感じ。
 私は仏教の中の浄土宗という宗派の教えの柔らかさ、奥深さが自分にしっくりくるし、また惹かれてもいるので、関係する本を読んでみたり、浄土宗のお坊様から頂いた念珠を大切に身につけたりしているのですが、そのきっかけは自分でも不思議な、まさに縁だと思います。誰から勧められたのでもなく、誘われたのでもなく、自然な形でゆっくり自分の中に浸透していったような気がします。たまたまそれが浄土宗であったけれど、もしかしたら真言宗や曹洞宗、浄土真宗といった他の宗派にご縁があったというのもあり得るだろうし、もしかしたらそれが神道であったかもしれないし、はたまたキリスト教であったかもしれない。たぶんどの宗教であっても、自分がその只中に入れば、それが自分にとって一番しっくり来る教えになるのかもしれないです。ただ、自分がそこに惹かれる、あるいはその教えとするところが自分に合うと気がつくのは、まさに縁かなあと。
 だから、世界中にいろんな宗教があるけれども、きっとどれもみな同じくらい最高のものなんだと思います。どの宗教が劣っていて、どの教えが一番正しいとか、そういう風に比べるのもおかしいかな、と。
 例えば仏教の視点から見ると、イスラム教はとても好戦的に思えるかもしれないけれど、それはイスラム教が生まれた土地が、多くの民族が四方八方から入り込んできて自分達が生きるために苦労せざるを得ないという背景を持つというのも理由のひとつだし、それはマホメットの時代から現代に至るまでやっぱり状況は変わってないということも考慮に入れないといけないのかなあ、と思います。イスラム教に帰依する人達にとってはイスラム教が最高のものだし、それはそれで間違っていることではないと思います。
 いろんな宗教がいろんな土地で、いろんな時代に生まれて、さまざまな人達がそれぞれの宗教に心を寄せる・・・これはまさにその人のいる土地、時代、育った環境、経験した事柄、そのほか諸々の事情と、宗教との「縁」なのだなあ、という気がします。
 
 だから、私は浄土宗が好きだけれど、家族や周囲の人にそれを勧めたり、ことさら強調することはしないつもりです。実家は親鸞さんの浄土真宗だから、お盆に帰省したときや親族の集まるもろもろのしきたりは浄土真宗のやり方に従うだろうし。たとえキリスト教徒の友達がいたとしても、仏教とキリスト教の教えの優劣を論議するのはナンセンスだと思うし。イスラム教徒の友達ができたらそれもオーケーで楽しそうだし。近所に新興宗教の団体があっても、全然構わないし。

 ただ、宗教というのは、あくまで個人の心の中の問題であるような気がするから、他人、あるいは他人の生活(感情とか、財産の類も)に危害を及ぼすようなものであってはならないと思います。
 どんな教えであってもその人達が信じたいならまったく構わないし、どれが間違っているかなんて判断を下す権利はこの世の誰も持っていないのだから、どういう教義が存在しようといいんじゃないかと思うのですが、その宗教が人の脅威になるようであれば、それはもう心の枠組みを超えてしまっているという点で、宗教からは外れてしまうんじゃないかなあという気がするのです。

 ちょっと理屈っぽくこね回してみました。。
 長く書き過ぎですねー。
 もう寝ますー。
 
 


2003年05月25日(日) ブルー

 青が好き。
 海の色、空の色、宇宙の色。
 ヒマラヤの青いケシの花。クレマチス。
 コバルトブルー、ウルトラマリン、インディゴ。

 そういえば、青い色の食べ物はなかなかない。
 「青菜」は実際は緑色だし。
 赤も黄も緑も黒も茶も白も全部食べ物の色にあるけれど、青は思い浮かばないなあ。。しいて言えば青かびのチーズくらいかなあ。あとはカクテルに青いのがあったような気がするけど。。
 
 青って不思議な色だと思う。
 海も空もヒマラヤの青いケシも、人の手の届かないところで。。。
 青いバラは園芸家の夢でもあるし。。
 迂闊に近づくとぐいっと引き込まれて、元いた場所に戻れない所まで連れて行かれそうな色だ。群青色の日本海で泳いでいたとき、岩場の間ではっとするようなコバルトブルーの部分があって、それがとても怖かった。そこに得体の知れない何かが潜んでいるような気がして。
 でも、青はその冷たさの中に空間の広がりを感じさせて、どこまでも神聖で壮大な気持ちにさせてくれる。
 朝起きて、頭上に青がないと、どんより曇っていると、なんだか落ち着かない。雲間から青空が覗くのを心待ちにしてしまう。
 
 パレットの上で青を混ぜているときが幸せ。
 人の手の届かない色を小さなパレットの上に乗せている。
 小さな絵の中に、青が生まれる瞬間が幸せ。
 


2003年05月24日(土) 気をつけましょう

 膝が痛いよぅ〜。
 
 昨夜会社の歓迎会で(幹事のくせに)飲みすぎて、二次会にも出て帰宅の電車に乗った時にはすでに午前様。
 で、ようやく自宅近くまで来たと思ったら、平らなアスファルトの上でこけた。
 平らなところでつまずいたり足首ひねったりするのは日常茶飯事(歩くのがヘタなのですね、基本的に)だけど、そんときは思いっきり前にころんだ。
 どって〜ん。。。
 しかも、深夜営業のスーパーのまん前だ。
 店の前にずらっと山積みされてる果物に気を取られてたんだろうか、私。
 いってぇ・・・(ーー*)
 小学生みたいな転び方だ。。。
 
 よろめきながら立ち上がり、スカートをぱんぱんはたく。
 ・・・げ。
 膝が血だらけ。。。
 
 まだ膝がひりひりします。
 とっても久しぶりにマキロンも塗りました。

 皆さんも飲んだ後は気をつけてください。


2003年05月22日(木) 似たもの同士

 帰宅する電車の中で笑いをこらえるのに必死だった。
 っていうか、顔は完全に笑っていた。

 地下鉄の階段降りてすぐの、一番端の車両の一番階段よりのドアの横に立った。発車を知らせるベルが鳴って、「ドアが閉まりまーす」とアナウンス。
 そしたらたたたっと階段をものすごい勢いで駆け下りてきたおじさんがいる。あ、なんとかドア閉まる直前に乗り込めるかな、と思って見ていたら、ドアの手前1メートルほどの位置でおじさん何か落とした!かちゃーん。
 。。。諦めるだろう。
 と思っていたらさにあらず。
 おじさん、あたふたきょろきょろ床を見回して落としたものを半分手探りで探した。
 携帯電話!うわー壊れてないよね!?
 と赤の他人の私まで心配してしもうた。
 が。
 おじさん、携帯をばっと掴むと、完全に立ち上がっていたらとうてい間に合わないと悟ったらしく、腰をほぼ直角に曲げて半ばかがんだ姿勢のまま、電車に対して斜め45度の角度、肩から閉まりかけたドアに突進してきた!
 うわっうわっーーー!
 思わず後ずさりする私。
 周囲もみんな退いた。
 しかも、ドアの脇に立ってボー然と見ている私と目が合うと、おじさんは「やったるで、見ときな」ってな感じで私ににやりと笑いかけたんでアル。
 やらんでいいーーっ!
 ほぼ自分の体の幅くらいしか開いてないドアから、おじさんは車両の中に弾丸のように飛び込んで、一気に反対側のドアまですべるように進んでぶつかった。
 で、あっけにとられている私の横まで戻ってきて、再び目が合うと、照れくさそうに「な、成功したろ?」とでも言いたげにまたにやりと笑った(照れ隠しもかなりあったかと思ふ)。
 だ、だめだ。
 ふ、吹き出しそうだ。。。
 思わずおじさんに背を向けて声を立てずに必死に笑った。
 もう滅茶苦茶可笑しかった。。。

 でも、私も人のこと笑えないんである。
 だって、昨日の朝、それと似たことやったんだもん。
 朝、地下鉄の改札を通ろうとしたら下のホームから発車のベルが聞こえた。
 急いで階段を飛び飛び飛びで駆け下りる!
 改札通っている時にベルが鳴っても、1秒2秒で明暗は分かれるけれど、間に合う確率もないことはないので、一応必死に駆け下りる。
 最後の1段まで来た時に、今にも閉まりそうな一番手前の車両のドアの前で、駅員さんがもうこれ以上乗せないよーってな感じで腕をドアの前に伸ばして人をさえぎるポーズをしてた。
 ・・・・ばっばかやってんじゃねえええっ!!あぶないだろーーー!!
 って。
 私はその時ほんとに心の中でそう叫びました。
 だって、通常そこまで来れば閉まる直前のドアに十分間に合う位置だったんだもん。
 ・・・その後、私は韋駄天のごとく車両に駆け寄り、「すいませーんすいませーん」を連呼しながら、腕を伸ばして通せんぼしている駅員さんのその腕をばっと払いのけてしまったm(_ _;)m
 駅員さんとの一瞬の摩擦がアダになって、スピードが落ち、ドアが半分閉まりかけたけど、そこにだだだっと飛び込んでしまった。
 腰が挟まれて、なんとか電車の中に入り込んで、ドアがびっくりして一瞬開いたスキに車両の外に置き去りになっていた片足を引っ込めた。
 満員電車なのに、私の周囲の人達は退いていた。
 空間が出来ていた。
 その間ずっと「すいませんすいません」を連呼し、ドアが完全に閉まって電車がそろりそろり動き出しても、ホームでボー然とこちらを見ている駅員さんに何度も頭を下げて、その後振り返って周囲の人達に「すいませんすいません」と言ってくるくる回った。
 ・・・吹き出している人がいた。。。
 その後しばらくドア側を向いて私は石になりました。

 今日のおじさんに、私は昨日の自分を見たのでした。
 駅員さん、ほんとうにごめんなさい。
 もう、しませんm(_ _)m
 
 


2003年05月21日(水) 「感じることば」

 昨日、今なんていう本を読んでいるのか問われたんだけど、ほんとは正直に答えるのがとても勿体ないような本を読んでいる。
 誰にも教えたくないような、秘密にしておきたいような本。
 読み終えるのを少しでも遅らせたくて、言葉のひとつひとつをかみしめながら読み進めている本。
 たぶんまた本棚から取り出しては、時々ページをめくるであろう本。

 黒川伊保子という方の「感じることば 情緒をめぐる思考の実験」(2003年筑摩書房)という随筆集。
 私も本屋で書名に惹かれて手に取るまでこの方のことを知らなかったのですが、略歴を転記します。
 「1959年生まれ。奈良女子大学理学部物理学科卒業後、コンピュータメーカーでAI研究に携わり、ロボットの情緒を追究。ことばの不思議や、情緒の謎をビジネスに活かすコンサルタントとして活躍中。音相システム研究所主任研究員」
 このような経歴・興味の持ち主の書かれる随筆ってどんな感じなんだろう、と思ったのですが、店頭でちょっと読んでみたら、一気にその文章の魅力に引き込まれてしまったのです。
 染色家である志村ふくみさんの書かれる随筆がとても好きなのですが、黒川伊保子という方の書かれる文章も、志村ふくみさんの文章を読むときと同じくらいに、独特の世界と言葉の美しさを感じさせてくれます。志村ふくみさんとはまた違った雰囲気なのですが、文章を以ってして人を酔わしめることが出来る書き手はなかなかいないのではないかと思いますが、その数少ない中の1人ではないかと思うのです。私の思い浮かぶ限りでは、作家の古井由吉、川端康成、この方々も、言葉に対する感覚がとても繊細で滑らかであるような気がします。そういう感覚って意図してできるものではなく、言葉を発する前、文章を書く以前の、その人固有のものの感じ方から来るものだから、他人が真似しようとしても、それっぽいのは出来るけどほんとのところは近づけないんじゃないかなあ。羨ましいなあ。。

 「感じることば」で黒川さんは、やはりご自分の研究テーマである言葉のもつ「音相」についていろいろ示唆的なことを書かれている。どれもはっとさせられ、深く納得できる。こんな切り口もあったのだ、と驚かされる。文章を読み、言葉のひとつひとつを追っていくそのさなかに、他の書き手の文章では刺激されない脳のある部分が開化していくようで、心地よい。
 うーん、もしかしたら、この本の与えてくれる本当の快楽を享受できるのは、男性ではなく圧倒的に女性かもしれないです。
 「愛」と「ことば」とのとても密接な関係について、非常に示唆的。
 で、彼女の愛する男性と彼女のやりとりがとても静謐で、それでいて情感がこもっていて、いいなあと思う。
 でも、言葉に対して敏感な男性なら、同じく、いいなあ、と思うかも。。
 
 ほんとは人に教えたくないんだけどこっそり耳打ちしたい本、でしたー。
 


2003年05月20日(火) いのち

 あ〜ぁ。
 失敗ばかりだぁよぉ。。
 経理課の人に迷惑かけちゃうぅょ。。。
 酒もザルだけど仕事もザルなんである。
 どっちもよくない。

 ☆☆☆
 
 昨日の続き。。
 
 だから、人生に行き止まりなんてたぶんないんだと思う。
 生きるのが苦しいほどつらい経験をすることもあるけれど、それで人生を自分で終わらせてしまいたいと思うこともあるけれど、自分がこのつかの間の命を祝うために生かされているのだと思えば、まあなんとかまた生き続けてみようか、って思いなおすこともできるんじゃないかな、と。。
 
 そうこうしているうちにその人は、誰もがうらやむような盛大な幸せを手に入れる代わりに、毎日のささやかな日常の一こまや、人の心との触れ合いの中に、自分だけの幸せを見出す能力をいつのまにか身につけていくんじゃないかという気がするのです。。。
 
 なんか最近自ら自分の命に手をかけてしまう人が多いですよね。。
 無駄な命なんて、この世にひとつもないのになぁ。。。
 


2003年05月19日(月) 人生は祝祭

 人の人生に成功も失敗もないと思う、たぶん。
 世の中はやっぱり不公平に出来ていて、運に恵まれる人と、まったくついてない人生を送る人がいることも事実、たぶん。
 
 本屋さんには自己啓発書があふれ、「運」だの「成功」だの「奇跡」だの、そんな言葉で人生を後押ししようとするけれど、それらも一時のカンフル剤にはなれども、実際の人生そんなに甘くない。

 でも、たぶん、人の人生は長い長い祝祭だから、せいぜい、一生懸命楽しんでみる。泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだり、そうやって、長いお祭りを精一杯味わってみる。
 
 お祭りを見物する人達がいなくても構わない。他人のお祭りよりつまらなくても気にしない。
 賑やかでも明るくても派手でも、地味でも単調でもどん底でも、どれもみんなそれぞれの祝祭。
 長いようでいて、つかの間のお祭り騒ぎ。

 だから精一杯生きてみる。

 ☆☆☆
 
 「人生はつかの間のお祭り騒ぎ」って、誰かが言っていたような。。
 


2003年05月18日(日) 焼き鳥屋が好きな訳

 今日は、胃がむかむかする〜と思いながら10時過ぎにゆっくり起きたのでした。
 ・・・机の上のパソコンの横に、プリンの空容器が。。。
 思い出した。
 私昨夜、駅前の焼き鳥屋で焼き鳥食べながらポン酒しこたま呑んで、11:30PMの閉店(土曜は早く閉まるのです)で追い出されて、なんだかいい気分になってラーメン屋に入って無料のトッピングでにんにく3個すりつぶして入れて食べて、そのあとコンビニで買ったプリン食べながらあたろー日記書いてたんだ。。
 あわててパソコンの電源入れて、酔っ払いながら書いた日記をチェック。
 ああやっぱり。
 句読点が中黒丸になってるし。
 ああしてこうしてみたいなことつらつら書いちゃってるし。
 あきれちゃうわね。
 しかも、おかげさまで今日は1日にんにく臭かったです。
 しかもしかも、はっきり言って食べすぎだっちゅうの。
 だいたい夜中過ぎてラーメンとプリン食べるかぁ。。。
 自己嫌悪。

 駅前の焼き鳥屋さんで呑む時は、運がよければカウンターの一番端っこの席に座れる。最近よく行くほうの店は、特に私と相性が良いのか、行くと大抵端のほうの席が空いている。昨夜も「ちょっと待っててね、今ちょうど空くところだから」って言われてラッキーだった。
 昔はちょっと理屈っぽい本持ってって、読みながら呑んでたけど、最近は人間がまるくなったのか、開けた気分で呑みに行く。
 それでもやっぱりいちいち話しかけられるのがあまり好きでないので、端っこの席、店全体の雰囲気を見渡せるところに座って、山頭火の句集や、俵万智さんの書いた短歌関係の文庫本など、お酒の似合いそうな、ちょっと情緒のある文を読む。小説じゃなくて、短歌や俳句なのは、一句一句ゆっくり味わうのとお酒を呑むペースがちょうど合っているから。それからたまに、スケッチブック開いてスケッチしてる。葉書大の小さなスケッチブック。そこに2Bの7mmの芯が入ったシャープペンシルでスケッチ。昨夜は目の前の焼き鳥スケッチしてた。端の席だとあまり覗かれないので気がラク。おなかぐぅぐぅなので、我慢しきれなくなってひと切れふた切れと串から消えていく。。。ああモデルが消えていく。。
 スケッチしながら周囲の会話を何気なく聞いている。
 焼き鳥屋というのはとっても不思議な交流空間で、1人で来てカウンターに座っているおじさんたち、いつの間にか見ず知らずが顔見知りになったりして、互いの境遇(会社や家族の愚痴とか・・・)を慰めあったり、あまり身元をばらしてない分かえって強がらずに済むのか、正直な心情を相手に吐露してたりして、人それぞれの人生ドラマがカウンターのあちこちで語られてる、そんな雑多で奥深い場所だったりする。大勢で行ってわいわい騒ぐ居酒屋とはまた違う感じ。
 たぶんそういう場のもつ雰囲気が、私にとっても、心地いいんだと思う。
 
 
 


2003年05月17日(土) 銀ぶら

 すいません今かなり酔った頭で書いていますm(_ _)m
 
 今日は心地よい1日だった。
 銀座伊東屋に行き、館内をくまなく見て回る。
 1階のレターセット売場から上階の画材売場まで。さらに別館の紙、和紙売場も。
 でもって原稿用紙とシャーペンの芯とシステム手帳のリフィルを購入。
 目が弱く疲れやすいので原稿用紙の罫線は薄い色のものを使うようにしている。テー・エスのものがお気に入り。増寿屋の原稿用紙も少し持っているけど、ちょっと高めなのでおいそれと使えない。ということで、テー・エスかコクヨのものが多い。でも、原稿用紙は需要が多くないと製造中止にしてしまうメーカーも多い。お願いだからこれはもう製造中止になんてしないでテー・エスさん。
 
 伊東屋を閉店で追い出されて、美味しいコーヒーとクロワッサンが食べたくて銀座をうろつく。で、教文館(本)につい吸い込まれて。。文庫を2冊買ってしまう。
 
 教文館を出ると、デパートの前でサックスの演奏をしている人がいたので、スケッチしながらしばらく聴いていた。
 初期のソニー・ロリンズみたいにカッコイイ演奏だった。
 
 で、コーヒー、クロワッサンのお店なかったので、結局地元にもどっていつもの焼き鳥屋さんと、その後にラーメンやさんに入ったのでした。
  
 ねむ。。

  


2003年05月16日(金) 一寸先は闇。

 友達と美味しい料理を食べて、お酒をちょっと呑んで、おしゃべりしてげらげら笑って、ほろ酔い加減で帰ってきて、駅からバスに乗った。
 バスのスピードが遅くなった。そんなに道路が混んでる時間帯じゃないのに。道路わきの歩道に人が何人も集まっていて、こちらを見ている。後部座席から後ろを振り返った。
 
 道路の真ん中に、人が大の字になって倒れていた。ひしゃげた自転車が投げ出されていて、そばに車が1台止まっていた。
 。。。一気に酔いから醒めて、さあっと血の気が引いた。

 人の人生の一寸先はやっぱり闇。
 手探りで、懐中電灯を自分で照らしながら、歩いていく。
 眠りにつく前に、今日も自分に1日がもたらされたことを、ありがたく思う。
 そして、明日もまた訪れるであろう今日のつづきに感謝する。
 

 
 


2003年05月15日(木)

 雨の日は泣きたい気分になる。
 子供の頃から。。。

 静まりかえった家の中にいて雨音を聴いているのは嫌いではないのに、その雨の中を歩いていると、いつしか胸がふさがったような痛みを感じて、喉元が締め付けられていく。
 なかなか片付けられない仕事を無理やり切り上げて、夜遅く、眠るためだけの部屋に帰っていく。
 少しでも早く、と、バスを降り、近道を行く。
 人ひとり通れる位の細い道。アスファルトの所々に小さな窪みがあって、雨水が溜まっている。サンダルの足に、道の両脇に群生するヨモギやポピーが軽く触れるだけで、葉先の水滴が飛び散ってしまう。とうとうつま先が濡れて、なんだかみじめな気分で歩いている。
 傘をさして歩くと、普段の自分より身の丈が大きくなって、うっかりすると頭上を覆うバラの枝を揺らしてしまう。終わりかけた赤い大輪のバラが、傘の端にぶつかり、雨水を頬に当ててくる。
 音もなく降る5月の雨は、それでも冷たくて、夜帰宅の道をいたわってはくれない。
 そんな風に思いながら歩いていると、心臓の周りの薄くてもろい覆いが、オブラートが溶けるように流れてしまって、むき出しになった心が表面に浮き上がってしまう。雨水は、人の心に物理的に作用する。
 
 ***

 雨を好きになろうと決めている。
 角川の「季寄せ」をめくってみる。
 
 春の雨、春時雨、菜種梅雨、花の雨、春驟雨(はるしうう)、夏の雨、緑雨、青時雨、青葉時雨、卯の花腐し(うのはなくたし)、走り梅雨、迎へ梅雨、五月雨(さつきあめ)、虎が雨・・・
 
 春と夏の雨につけられたさまざまな名前のほんの一部。。
 雨にもいろんな種類がある。今日降っている雨はなんの雨かとほんの少しだけ思い巡らすだけでも、雨を親しく感じるかもしれないと。。。

 それでも気分が沈んでしまう時は。
 この雨雲は、2日前にはかの人の、昨日はあの人の頭上に、今降っている雨と同じ雨を降らせたのだと、思ってみたり。
 
 
 
 
 
 


2003年05月14日(水) もうちょっと起きていたいなあ。

 ねむぅ。。い。。

 私のいる職場はとても勉強熱心な人が多い。
 次から次へと新しい情報や知識がもたらされる業界なので、ぼけっとしてるとどんどん置いてかれちゃう。みんな通常業務が終わった後にさらに集まって勉強会したり、資格取得のため互いに切磋琢磨し合ったり、ほんとよくやるなあと敬服。私なんざ半分睡魔と闘いながら残業だもんね。。

 プライベートでも勉強熱心な方々に触発されて、私も自分なりのテーマをもっともっと追求していこうと・・・思いつつ、眠い。
 でも欲を言えば、もうちょっとだけでいいから、時間欲しいなあ。
 1日24時間は少ないよー。
 時間の使い方が下手なんだろうな。
 でももう少し起きてる時間が欲しいー。
 寝ます。


2003年05月13日(火) 写真付き切手

 記念切手が好きで、ちょこちょこ郵便局に買いに行く。
 でも整理ベタなのでコレクションはしない。我が家に手紙を下さる方々が皆いつも素敵な切手を貼ってくださってそれがとても嬉しいので、こちらから出す時も楽しんで切手を選んでいる。封筒や葉書の図柄や、季節の花、風物詩、またその方との間で話題になったものにちなんだ切手など、切手箱の蓋を開けてあれこれ悩むのがとても楽しい。
 幸い会社帰りに少し遠回りすれば、他の郵便局より記念切手を沢山置いてある東京中央郵便局に行くこともできるのです。いろんな種類を少しずつ、送る相手をイメージしながら選ぶのも楽しいものです。
 
 ところで、最近東京中央郵便局に行くたびに解せないもの(^^)
 あの、「写真付き切手」というのはどうなんでせうか???
http://www.post.japanpost.jp/whats_new/2003/topics/picture_stamp/index.html
 いや、別に悪いってんじゃなくて、一体どういう人があれを使うのかと。。。
 目ざとい私はそれが出た当初から「なんじゃこれは?」とその切手を作る機械の周りをうろついたりしたのですが、結局1シートも作ってません。
 「写真付き切手」というのは、まあ、要するにプリクラの切手版みたいなものらしく、記念切手の下に自分のお気に入りの写真(自分の顔とか)をくっつけて、それを切手として使うものらしいです。シートにくっついている記念切手は、それ単体で売ってもいる記念切手で、そこにおまけみたいに写真をつけるようなものです。写真だけでは切手として機能しない。あくまで記念切手の下に写真をつなげた形で使うのだそうです。
 うーん。。。。 
 で。。
 その写真には一体どういう類のものを使ったらよいのでせうか?
 まず、独身女性だったら自分の住所を書いた封筒に自分の顔写真を堂々と貼るなんてオソロシイ真似しないよなあ。。。(してる人いたらスミマセン)。それは別に独身じゃなくても同じだろうなあ。。子供や赤ちゃんの写真もしないだろうなあ。。だって、「この住所にはこういう顔の子がいます」って宣伝しているようなものだもの。郵便やさんを疑っているわけじゃないし、受け取る相手が顔見知りということは多いけど、万が一自分の顔付き手紙が郵便局と受取人以外の手に渡った場合を考えると、このご時世、うかつに顔シール貼った封筒なんて出せないなあ。。となると、ペットの写真?それは結構楽しめるかも。でも、フツーに写真を同封すればいいじゃん、と思う人もいるだろうし。
 というわけで、私なりにその「写真付き切手」の使い道をいろいろ考えてみた。。。。けれど。
 あんまりいいアイデアが浮かばなかった。
 せいぜい何かの督促状くらいか。。
 コワーイコワーイ取立人の顔写真を切手にくっつけて出せば、受け取った方はビビらずにはいられないだろうし。。あんまりいい使い道とは思えないけど。
 他に考えてみたんだけど、ほんとに何にも浮かばなかった。
 もしかしたら、柔軟な頭の人達はいい使い道を考え出してぺたぺた活用してるかもしれないですね。
 かく言う私も写真付き切手に惹かれているんでしょうな。こんなに気になるってコトは。。
 うーん。でも。実家のテッチャン(秋田犬)の顔切手の下につけてもなあ。だから何?って笑われそうだなや。
 あれを使っている人達は一体どういう風に使っているのでしょうか??


2003年05月12日(月) メモ帳の話なんだなこれが。

 大したことではないようでいて、結構大したことだったりする、メモ帳のことだったりするんだなこれが。
 
 スケジュール管理用のシステム手帳とは別に、一応いつもメモ帳を持ち歩いているけれど、しょっちゅう開いて何やかやと書き込む時期と、メモを取るという行為自体すっかり頭にない時期、波が交互にやってくる、まったく一貫性がない私です。
 これではいかんと最近思って、メモ帳にメモるという行為を今一度見直しつつあります。
 仕事中は電話メモとか何かの締め切り程度はメモるんだけど、社会人を10年もやってるくせに、いまだに上手なメモ、スケジュール管理が出来ていない。だもので、大事な仕事をよく忘れて、それが他の業務にも連鎖して結局は何もかも上手くさばけなかったりする。これはいかんと思い、最近机の上にいろいろ書き込める大きめのスケジュール管理用カレンダーを置いて、提出物の締め切りなんか以外にも、ちょっとした備忘録代わりになんでも書き込んじゃえ、と思ったのだが、気がついたらトレードマークの河童のイラストを余白に書いてしまっていた。まったくなってない。
 ・・・ちなみにプライベート用のシステム手帳にも河童ちゃんがあちこち出没する。余白についいたずら書きをする癖は、学生時代から変わっておりませなんだ。・・・あ、いや、高校時代の世界史の教科書のダビデ像の写真に、ビキニを着せて友達に見せていたその精神は、いまだに失われておらんのですな。
 あれ?なんの話だったっけ?そうそう、メモ帳。。。
 
 いろんな人のメモ術(「術」なんだなこれがやっぱり)を紹介する雑誌の特集とか、サイト、本などをよく見るのだけれど、メモっていうのは何も綺麗にとる必要なんてないんですよね。とにかく、書く書く、書く。「メモ魔」と呼ばれる人はその日食べたものまで細かく書く。さすがにそれは出来ない(学生時代やっていたけど・・・ダイエット用に)。根がずぼらな私なので。
 予定や忘れてはいけないことを書き込むスケジュール帳は別に持っているわけだから、メモ帳なんてわざわざ必要ないと言ってしまえばそれもそうなんですが。でも、メモ帳はそういったものと違う部分で、ヒトの脳の可能性を引き出してくれるツールとして、とっても有益なんじゃないかと思います。まあ、私がそんな風に知ったようなことを言うのもみんな、メモ活用術なるものを教えてくれている多くのサイトや本から知識を得たからなのですが。・・・でも、ちょっとは実感としてあるかも。
 
 私が毎日持ち歩いているのは、KOKUYOの「SKETCH BOOK」と書いてあるいわゆる「野帳」「フィールドノート」です。1冊150円で、私の手のひらよりちょっと大きいくらいの大きさで、表紙は深緑の、厚いもの。中身は薄い3mm方眼紙です。これは、学生時代に発掘していたときの必需品で、さすが野帳だけあって、土だらけの作業ズボンのポケットから汚い手で取り出していろいろ書き込んでも、ちょっと位の雨の日でも、中身はちゃんと守られていて重宝しました。発掘以外でも野外調査、測量などをしている人達はみんなこれを使っているんじゃないかと思います。実際、これと同じシリーズで出ている「LEVEL BOOK」「TRANSIT」なんかは完全に測量用です。それ以来、メモ帳はほとんどずっとこれを使ってます。途中ちょっと浮気してみたけど、私にはこれが一番合うみたい。すぐこれに戻ります。方眼が薄いので、無視してその上にでかでかと字を書いたりイラスト書いたり。最近始めた短歌や俳句を考えるとき、思いついた言葉を書き並べていって、それを組み合わせてひとつのイメージを作り上げていったり、小説のネタにふと思いついたことを書き込んだり、コーヒーショップで隣の席の人達の会話でふと耳に入ってくるものがあったら書き留めたり、本を読んでいてピンとくるものを書き写したり、誰かと会話していて「これは」と思うことを書き留めたり、あとはぼけーっとしている時、何気に開いて無駄な落書きをしてみたり。。。
 先日お酒の席で、ある方が口にされたことにピンと来て、これは書き留めておかなきゃ、と慌ててバッグからメモ帳を取り出してふと隣を見たら、隣の方も同じようにメモ帳を開いていて、あーさすがだな、と思いました。男性はうらやましいです。スーツの胸ポケットからスッとメモ帳を取り出せる。その点女性はバッグを開ける手間があるからスマートじゃない。でも、メモ帳を自然に使いこなしている人は男女関係なく、いいなあ、と思う。。アンテナの広さ、情報に対する敏感さ、発想を逃さない俊敏さ・・・年齢に関係なく、メモ帳を上手く利用している人は、こういった感覚を保ち続けて年季がいけばいくほど、蓄積されるものも多くなっていくのだなあ、と思います。私もそれを目指して。。。
 最近、本屋ではメモ帳を片手に回ることに。
 「あ、この本面白そう、読みたいけど、今日は別の本を探しているからこれはいつかまた」とか「今は興味ないけど、いつか読みたくなるかも」という本のタイトルはすかさずメモることにした。特に新書や文庫は新しいものが次から次へと出て、新書はブームもあるらしく、いろんな出版社からシリーズがいろいろ出ているので、気になるタイトルがあっても、時間が経つと、それが岩波新書だったか、中公新書だったか、はたまた平凡社新書だったかも分からなくなってしまう。だもので、メモる時は「書名・著者・シリーズ名」あとはシリーズの中のその本の番号(背表紙についている奴です)も書き込んでおくと重宝するかも。なにせ文庫や新書は回転(?)が早く、数年経つともう絶版とか売り切れというのも少なくないようなので、ほんとは店頭で見かけて「読みたい・・・かもしれない」と思ったときが旬なのかもしれませんが。
 で、本屋で本命の本を探しながら、その時目についてピンと来た本のタイトルとかをメモっておいて、あとで暇な時にメモ帳をぱらぱらめくっていると、本屋でメモった書名から新たなインスピレーションが湧いたり、思わぬときにその本が必要になったりするので、結構おすすめの方法です。何より、私は優柔不断なもので、本屋で1冊の本を探してあちこちうろつくのに加えて、あーでもないこーでもないといろいろ手に取って結局1冊も買わないで出てくる(爆)というとんでもない時間の無駄もしょっちゅうやらかしているので、そういうことも減らそうとしているわけであります。
 
 メモ帳っていうのは、人に見せるもんではないので、とにかくその時その時ぶつかったり浮かんだりしたコトをちょこまか書いたり、一見意味もない言葉の羅列でも、全然構わないんじゃないかと思います。大事なのは後からぱらぱらめくっているうちに、そこに書かれたことから発想の次の段階に自然と進んだり、あらたなインスピレーションが浮かんだりする可能性があるかどうか、かと。。
 なんか偉そうに書きまくってしまった。。。
 メモ帳の使い方、人それぞれなので、他の人がどうしてるのかとっても気になります。いい情報があったらよろしくですー。
 
 


2003年05月11日(日) まんまと利用されたし

 5月に入って、住宅街の家々からあふれる花々が、なお一層賑やかになった。
 最近はオールドローズが人気のようで、塀のあちら側から道路に向けて大輪の派手なバラがぽんぽんと顔を見せているのをよく目にする。今、道を歩いていてどこからか甘い少し官能的な香りがすると思ったら、たいていハゴロモジャスミンがどこかの家の塀に絡みついて白い小さな花をぎっしりつけているかと思う。ビオラの咲いたテラコッタ。クレマチス。
 ローズマリーをはじめ、ハーブは今が一番元気なシーズンで、青々とした葉を上へ上へと伸ばし始めている。植え替えの終わったキッチンハーブたちが、柔らかい土の上で活き活きしているのを眺めながら、夕暮れの住宅街を歩いていく。
 月桂樹の葉も勢いを増して、花の終わった桜の木も、ハナミズキも、いよいよ緑を街にあふれかえらせている。
 
 以前は花を沢山あふれさせている家が好きではなかった。
 ガーデニングブームとやらで、雑誌で見るような派手でカラフルな庭が幾つも並んでいると、どの家も画一的で個性がないような気がして。近所に建売の全く形の同じ家が2軒並んでいて、入居時期も同じなら幼い子供がいるのも同じ、挙句、植える花も花の多さも植木鉢の趣味も、庭においてある小人の置物まで、何から何まで同じ、というのがあって、通るたびに隣家の主婦同士競い合っているのを見せつけられているようで、なんだかあんまり気分がよくなかった。花を愛しているのか、見栄を愛しているのかよく分からん、なんて思ったりして。
 そういう雑誌から抜け出てきたような庭よりも、植物に好き放題伸びてもらうような遊びのある庭が好きで、それは今も変わらないけれど、ただ、最近、庭というものに対して自分なりに見方がちょっと変わってきたかも。
 
 なんて言ってもべつに偉そうな哲学がそこにあるわけじゃない。
 ただ、庭というのはほんとは人間のためにあるんじゃなくて、植物のために存在している空間なんじゃないかということだけだ。
 人間同士が競い合おうと、見栄えを気にしようと、園芸雑誌にお金を掛けようと、それは植物達の知ったことじゃない。
 土をひっくり返して柔らかくするのも、虫や病気と戦うのも、ホースを引っ張り出してきて朝夕水やりするのも、どれもこれもみんな植物たちのためであって、庭の所有者達のためではない。
 家の中やオフィスの観葉植物も、一見人間のために置かれているようであるけれど。
 
 人間は森林を破壊し、自然の形を変え、地球環境をどんどん取り返しのつかない方向に持っていこうとしているけれど、一方で、都市では植物達が自分達の生き残りをかけて人間をうまく利用しているような気がする。もちろん、都市の緑は、地球のほかの場所で失われていく緑の量にとうてい及ばないけれど。
 隣家の花壇に負けじとせっせと種を蒔く主婦は、きっとその辺りの綺麗な花々に、仲間を増やす魔法を掛けられているんだと思う。浅草のほおずき市や朝顔市に集まって大事そうに植木鉢を抱えて帰る人達は、ほおずきや朝顔たちの種の保存のために、まんまと吸い寄せられている人達に違いない。
 かく言う私も、育てたバジルでバジリコスパゲティを作るのを楽しみに、ヨダレをたらしながら水遣りしているけれど、ほんとは狭いベランダを彼らに占領されながらうきうきしている、まったく彼らにとっては都合のよい人間なんである。

 夕暮れの住宅街を歩いていて、ふと顔を見上げると、道路に沿ってずっと先までも、両側の家々から緑や色とりどりの花が道に向かってあふれかえっていて、彼らの種の保存に私達がまったくうまく利用されているものだなあと今更ながらに感心した。
 要は、庭は人それぞれ好き勝手でいいんだということなんだけれど。
 どうせ人間は植物に利用されているのだから、喜んで彼らのお役に立てればそれでいっかあ、と思う。
 隣家と競い合う庭、派手派手花ばっかり庭、それもまた植物達の意思であるわけだし、まぁ、なんでもいっかあ、てな気分。

 。。。つけたし。
 さっきここまで書いたところで喉が渇いて無性に缶ジュースが飲みたくなって、近所の自販機まで120円握り締めて買いに行った。がしかし、お金を飲み込んだきり、自販機からジュースが出てこない。自販機というものはフィフティフィフティだと思っていたのに。頭にきたのでふんだんに蹴ったり叩いたりしていたら、通りかかったおまわりさんにたしなめられた。
 飲めないとなるとなおさら喉が渇く。甘い味のついた冷たい飲み物がどうしても飲みたいのだ。仕方なく自宅に戻り小銭入れをスエットのポッケにつっこんで今度は近所のコンビニに行った。
 そこは運悪くお酒も扱っているコンビニだったので、結局缶入りソルティードッグを買ってきました。ちゃんちゃん。
 
 


2003年05月10日(土) 筆記具

 文房具が好きで、文房具屋さんを覗くとわくわくする。
 この性分は子供の頃から変わらない。
 
 高校生の頃、新潮文庫の「文房具 知識と使いこなし」(市浦 潤著/S61)という本を買って、そこで初めて東京に「伊東屋」という大きな文房具屋があることを知った。上京して1人暮らしを始めると早速地図を片手に銀座へ出かけていき、地下鉄の出口から恐る恐る地上を見回し、大きな赤いクリップを探した。東京というところは、銀座みたいなお洒落な大人の街に文房具のデパートが紛れ込んでいる、ほんとうに訳の分からない土地だ、と思ったりした。
 伊東屋なら、1日中いても飽きない。

 中学に入学するお祝いに、両親からPILOTの万年筆、ボールペン、シャープペンのセットを買ってもらった。赤い軸と金の金具で出来ていて、ほんとうは黒が欲しかったのだけれど、お店の人に「女の子用には赤いセットになっています」と言われしぶしぶ、それでも一番シックなものを選んだ。けれど、買ったその場でお店のおじさんが、器用な手つきで1本1本に私の名前を彫り込んでくれたので、使う前からそれらは私だけのものになった。自分だけのものになったと思ったら、急にいとおしく思えて、夜眠るときも枕元にケースごと置いて、まだ見ぬ教室でこの3本を使っている自分を想像したりした。
 使い始めてみると、どれも私の手の大きさにぴったりで、使えば使うほど手放せなくなった。
 万年筆もボールペンも、ペン先をダメにしたり、中のバネを壊したりして、やがて使えなくなった。シャーペンは大学入学後もしばらく使っていたけれど、やっぱり劣化してしまい、今は3本とも、机の引き出しに眠っている。
 時々そっと引っ張りだしては、軸に彫られた自分の名前を眺めたり、何年も使い続けて手に馴染んだシャープペンシルの感触を思い出すように握ってみたりする。20年分の私を知っている筆記具たちだ。

 パソコンが生活の大部分に入り込んでくるようになって、こうしてキーボードを叩く回数が増えるにつれ、筆記具の大切さを忘れてしまうんだろうか、とも思ったけれど、今はむしろ昔よりも、書くための道具に対するこだわりが増したような気がする。
 「書く」という行為の大切さ、大切さといってもそれをどう説明したらよいのか分からないけれど、自分が自分であるために、ヒトがヒトであるために、細い棒状の道具を使って書く、ということが、捨てがたく魅力的な行為なんじゃないかと思いながら、書いている。

 ただ、人間にとって基本的な道具のひとつである筆記具の世界もやはり大量生産や流行の時代で、ちょっと前に買い求めて使っているうちに気に入ったので同じものをまた買おうと探すと、すでに生産されていない、ということもよくあるので油断できない。
 今気に入って使っているシャープペンは、5年ほど前に東急ハンズで買ったPILOTの製図用のシンプルなものなのだけれど、今同じものはハンズには置かれていない。たった5年なのに。芯の太さが0.7ミリで、軸先への細り加減が、中学入学祝いに買ってもらったくだんのシャープペンと同じで、私の手にはとても使いやすい。他の文具店で見つけたら買いだめしておこうと目論んでいるけれど。。
 
 鉛筆の魅力もまた捨てがたい。
 ほんとうは、その日使う鉛筆を小刀で1本すつ削ってから書き始める、という儀式めいた行為を大切にしていきたい。けれど、こうどたばたした毎日だと、なかなかそうはいかなくて。それでも、鉛筆1ダース買ってきた日には、1本1本を切り出しで削って机の上に置いていく、その時間は私にとってとても大切な時間だ。気がつくと、12本全部削ってしまっている。
 鉛筆は、冒頭の市浦潤さんの著作で知ったカランダッシュやステッドラー、ファーバーカステル社のものにもはまったし、とくにカステル社の鉛筆の深い緑色に金字の軸がとても好きなのだけど、今は三菱のユニのBが自分の筆圧に一番しっくりくるような気がして、もっぱらそれ。日本語にはひらがなという柔らかい文字が含まれるから、鉛筆の芯も柔らかめのものが書きやすいようで、そうなると、外国製のものはどうも硬め。その点三菱のユニは、日本語の文章を書くために作られた鉛筆のような気がして、とても使いやすい。・・・これはあくまで私の感想なのだけれど。
 
 万年筆は、鉛筆やシャープペンシルのように気軽に買える値段ではないので、まだ、私はこれ、というものを手にしていない。
 私によく手紙を下さる年上の方に、万年筆を気分によって使い分けている、という方がいる。その万年筆のブランドがその方の風格に合ったものだったので、なるほどと思った。万年筆だけは、使う人を選ぶアイテムなんじゃないかという気がしている。その方から頂く手紙のインク色の微妙な違いで、今回はどちらのメーカーのものを使われたのかな、と勝手に想像して楽しんでいる。こんな若輩に下さる手紙に、歴史あるブランドの万年筆を使ってくださる、それだけでもう、受け取るこちらも少し大人になったような気分がして、嬉しい。・・・諸先輩方から影響されて、手紙は万年筆で書くようになった。
 ただ、私が使っている万年筆はそれでも気負わず買える安いもの。ちょっと前までは使い捨ての200円や、高くて1000円のものを使っていた。けれど、どうもしっくりこない。いつか買おうと思っているメーカーのものがあるから、それまでの辛抱と思ってはいたけれど、しょっちゅう使うとなると、ちょっとは使い心地にこだわりたくて、文房具店を覗くたびに万年筆売場をうろついてみたりもした。
 で、最近ようやく見つけたのが、ペリカンの子供向け万年筆。
 ペリカンの万年筆は定評があるし、憧れるけれど、これはその子供向けに作られた、入門用万年筆。赤、紺、緑、黄と軸色カラフルで、1500円。私はちょっと素材が異なるグレーを選んだので、2000円だった。2000円の万年筆とあなどるなかれ、で、子供用でもしっかりしたものが作られているあたりは日本とちょっと違うそこはさすがドイツ、握りやすいグリップ、軸の太さ、軽さ、書き味、どれも二重丸だと思う。デザインもシンプルだし、インクのカートリッジは勿論ペリカンのほかの万年筆と同じものが使えるから、ふだん持ち歩いてコーヒーショップで手紙を書く、という私の日常にすでになくてはならない存在になりつつある。私がこれをみつけたのは伊東屋。ちょっと前の日経新聞にも紹介されていたとのこと。当分はこれでいこうと思う。

 実は、いつか、モンブランのマイスターシュテュックを買おうとずいぶん前から決めている。
 私みたいな人間がそんなものを欲しいなんて、ひどく生意気なんだけれども。でも、それを買うのはもっとずっと先の話。自分があることを成し遂げたその時に記念に1本買い求めようと思っている。それが何年先、何十年先のことになるか分からないけれど、自分の中のそんな取り決めを守るのもまた愉しいかな、と思う。そもそも、今の私にはマイスターシュテュックはまだまだ似合わない。
 百貨店に行くと、万年筆売場が別格に扱われていて、まるで宝飾品売場のような気品が漂っていて、ちょっと足がすくむ。
 いつかモンブランのコーナーで、万年筆のカタログを頂いてきた。
 ヘミングウェイやアガサ・クリスティといった文豪にちなんだ限定品の万年筆もあって、ため息もの。銀の蛇にルビーの目。いつか欲しい。けれども、その時はもう手に入らない幻の万年筆。芸術品だな、と思う。。
 万年筆売り場では、その場にふさわしい客ではないような身の縮まる思いのする私だけれど、一度使い始めたらおそらく一生付き合い続けるであろうアイテムだけに、いつかこの娘も上客になるだろう、くらいの温かい目で接してくれる店員さんがいるところが、とても有難い。
 
 
 
 
 

 


2003年05月09日(金) 淡〜い思い出。。

 夢を見た。
 懐かしい感じのする淡い夢だった。
 
 私は、高校1年の時に好きだった美術部の先輩と、夢の中でなにやら楽しそうに話していた。ただ話している夢だった。

 彼はもともと野球部員で甲子園にまで行ったのだけれど、3年になって美大への進学の準備のために、美術部にも顔を出していた。
 放課後、教室で友達とのおしゃべりしすぎてから慌てて美術室へ飛んで行き、そおっと教室のドアを開けると、部屋の片隅で彼がカンバスに向かってデッサンをしている。・・・そんな毎日だった。
 廊下ですれ違えば挨拶をする程度で、親しく話した記憶はない。
 田舎の女子高生で、恋愛というものに対する憧ればかりが大きく膨らんで、そのくせここ一番の行動力がなかった。でも、放課後、ほとんど人気のない美術室で油絵の具の匂いに囲まれながら、先輩と同じ空気を味わっていることに密かな喜びを感じていた。・・・そういう恋だった。うん、恋だったと思う。

 秋の文化祭で、先輩のクラスが発案して「ミス○○高校」というのを決めることになった。ぼけぇっとして全く垢抜けないのに、いつの間にかクラス代表に選ばれてしまっていた。だいたいミスコンなんてものが嫌いな上に、好きな先輩のクラスの教室に写真が貼られてしまうという。それが嫌で嫌で、彼のクラスメートがカメラを持って追いかけるのから逃れて、そっと美術室に隠れた。
 昼休みで、学校中文化祭の準備でなんだか舞い上がっていた時だったけれど、校舎の外れの美術室では、先輩が熱心にデッサンをする後ろ姿があった。ドアを開けたとき、心臓が飛び出すかと思った。
 彼は、私に軽く挨拶してくれて、またカンバスに向き直った。
 結局私の写真は彼のクラスに貼り出されることなく、ミスコンのクラス代表は友達がバトンタッチしてくれた。

 彼は現役で大学に合格し、美術の教師を目指して進学していった。
 特別親しくなったわけでもないし、たぶん私のことなんか1年生の部員3名のうちの1人、程度にしか思ってないだろうし、とまあ、そういう恋だった。最初からその人とどうこうなんて期待はぜんぜんしてない恋だった。
 
 彼が卒業して半年位たったある日、家族で夕食をしに、近くの町のレストランに出かけた。
 食事が終わるかな、という時、いつもさっさと席を立とうとする父が、珍しく、「パフェでも食べるか」と言い出した。
 食事どきは外でも厳格な父がそんな風に言ったものだから、私達子供は嬉しくなって、「うん食べる食べる!パフェ!」と何度も口にして喜んでいた。
 ・・・テーブルの傍らで、若い男性のウェイターさんがニコニコといつまでもこちらを見ていた。
 ・・・よく見たら、先輩だった。
 
 あれから先輩には会えずじまいだけれど、今はたぶん高校の美術教師もすっかり板について、たぶんたぶん、とうに結婚して子供もいるんじゃないかな。
 あの日レストランで思いがけない再会を果たして、初対面の両親と先輩が挨拶し合うのを見て、なんだかとっても不思議な気がした。
 美術室でも親しく話したことがない相手なのに、いきなり自分の家族を披露して、しかも自分の食べ物の嗜好までばらしちゃったような気分がした。
 恥ずかしくて、でも嬉しかった。

 ただ、先輩にはそれきりもう会うことはないだろうな、とは分かっていた。
 
 今朝起きて、どうして今頃先輩が夢に出てくるのかなあと、不思議に思っていた。
 もう、下のお名前すらしっかり忘れてしまったのに。

 ふと、気がついた。
 先輩の姓と同じ姓の人が、今、私の心の中に棲みついてしまっているのだと。
 たまたま、先輩と姓が同じだというだけで、他にはなんの共通点のない人だけれど。
 その男性と先輩の名字が同じだということにすら、気がついていなかったけれど。
 私の脳の記憶をつかさどる部分が、ちょっとだけ、甘酸っぱくて淡い恋の思い出を、引っ張り出してくれた。
 眠っている間に。
 
 あんな頃もあったんだな。
 
 

 
 
 


2003年05月08日(木) 不可思議な存在

 時々ふと、今いる場所に立ちすくみ、自分が何故ここにこうしているのだろうと、不思議に思うことはないですか?
 目の前にいる人の話を聞きながら、その人とともにいることの不思議さにはっとなることはありませんか?
 本屋の書棚の前を行ったり来たりしているうちに、自分がどうしてその題名の本を探しているのかと、我ながら不思議に思うことはありませんか?

 どれもこれも、その位置に来るまでの過程を振り返ってみて、それが自分でもうまく説明できないような見えない糸に操られてきたような、そんな不可思議さを感じることはありませんか?
 いうなれば、人の人生はみんな、不可思議な糸に引っ張られて進んでいく小舟のようなものなのかもしれないと、最近とくに思うのです。
 あの時この道を選んだ自分がいて、こちらの方向に歩いてきた人とぶつかって、あの角を曲がって、あそこで一休みして。自分の小さな一歩が、発した声が、視線を向けた先が、毎日の小さな出来事の積み重ねが、今自分のいる場所を導き出したのだと思うと、人それぞれにあるいろんな人生がそれこそどれもみな不可思議な輝きを放って見えてくるのです。結局今それぞれが立っている場所を選んだのはその人自身なのですが、そこへ来るまでの過程で、小さな選択を繰り返し繰り返ししてきたそれぞれの人の意思は、もとはどこから来たのだろうかと。。
 
 もしかしたら私達の存在自体が、不可思議なものなのかも。。と思ってしまいます。
 
 


2003年05月07日(水) とあるバーにて。。。

 和尚さん達に、大阪のとあるバーに連れて行っていただきました。
 アーリーアメリカンな雰囲気のこじんまりとしたバー。
 お客は私達3人のみ。その業界では知らない人はいないほどの超ベテランのマスターに、カウンターを挟んでお酒の世界の話をいろいろ聞かせていただきました。連れて行ってくださった和尚さん達の行きつけのお店で、和尚さん達も洋酒にはお詳しいので、ほとんど無知な私はどれを伺っても目から鱗状態。貴重なラム酒もいろいろ試させていただいて、滅多にない経験となりました。
 ひとしきり呑んで、心地よく酔いが回ってきたかなあ、という頃合に、和尚さんが「トイレが2階にあるけど、用がなくても行って来るといいよ」とおっしゃったので、これは何があるのだろう?と思いながら階段を上がってみました。
 木造の階段を上ってすぐの所にトイレはありました。その先は、以前はテーブル席があったのかな、というくらいのちょっとした部屋になっていて・・・。

 ・・・身体中のアルコールが、一気に血液から抜けていきました。

 部屋の片側の壁一面はガラス張りの陳列棚になっていて、そこにずらっと仏像が納まっていたのです。
 千手観音、不動明王、阿弥陀如来・・・十数躯の木彫りの、大人と等身大の仏様達が、目の前の私を見下ろしていたのです。
 素人の私にも、見事な腕の方が彫られ、そしてまた繊細な感覚の方が彩色されたのだということが分かりました。
 しばらく呆然と立ちすくみ、その場を離れることができませんでした。
 ・・・トイレに入ることも忘れるほどでした。

 階下に戻って聞いたところ、上の仏像はすべて目の前のマスターの手によるものと知って、再びびっくり。彫るのも彩色するのも、すべて仏像彫刻歴ウン十年カクテル歴ウン十年のマスターが1人で行われたそうです。
 同行の地元の和尚さんも、初めてそのお店にいらしてしこたま呑んで2階のトイレに行ったときは仰天なさって、身体中のアルコールがさあっと引いて阿弥陀様の前に棒立ちになり、「こりゃかなわん、ご本尊が寺で待っとる、今日はもう帰らなあかん」とそそくさとお寺にお帰りになったとか(笑)。
 ・・・バーに来て仏様に手を合わせる経験なんて、そう滅多にできるもんじゃあございません。。。
 
 バーのマスターって味と深みのある方が多いんだな、って思っていたのですが(そう沢山行ってないですが)、この意外性には心底驚きました。
 いろんな方がいるのですね。。。
 とってもディープな大阪を案内して頂きました。。

 


2003年05月06日(火) プチ弟子入り

 もっともっと滞在していたかったなあ。。
 
 伊勢の浄土宗のお寺に滞在して参りました。
 こんなに充実した気分になったのは生まれて初めてのような気がします。
 とにかく密度の濃い数日間でした。
 早朝のおつとめ、和尚さんと二人で静かな本堂でお経をあげて、一緒にご飯の支度をして、お掃除をして、1対1で法話をしていただいたり、浄土宗のお経や数珠やお焼香の仕方、作法について教えていただいたり、写経したり、法事に同席させていただいたり、散歩したり、それから毎晩夜中過ぎまで飲んで語り合ったり(笑)、ここにはとうてい書ききれないほど私にとって大切な時間を過ごさせていただきました。
 和尚さんの信頼されるお若い僧侶の方とも、お酒を囲んでとことんお話しました(でもまだ話し足りない)。とてもよい経験をさせていただきました。
 僧侶としての1日1日をとても大切にしていらっしゃる。質素で自分に厳しく、僧侶として自分がどう生きるべきかをとことん追究しようとなさっている、そういう和尚さんの姿勢に圧倒され、感銘を受け、少しでも近づきたいと、自分の毎日を省みました。また、和尚さんの貴重な時間を私に割いてくださって感謝してもしきれません。
 和尚さんも、お友達の和尚さんも、とことん読み、とことん語り合い、とことん行動して、僧侶としての勉強を毎日毎日続けていらっしゃる。ほんとうに頭が上がりません。僧侶の方がここまで勉強されているとは、失礼ながら夢にも思いませんでした。強く刺激を受け、触発されました。貴重なテーマもいただきました。
 僧侶になられる前の経歴も含め、考え方、懐の深さ、探究心、行動力、心のやさしさ、交流の広さ・・・と、人間として僧侶として、とんでもなく大物の方であるとの思いを強くしました。・・・あんまり褒めるとご本人に怒られそうですのでやめときます。とにかく、私が一番尊敬、また敬愛する方です。
 
 伊勢滞在の話、まだまだ、ここに書ききることはできません。
 というよりも、言葉に出してしまったら性質が変わってしまうのではないか、と思うほど、自分の中にさまざまなものが棲みついています。またうまく言葉で表現できないほど、自分の心の中を圧倒する何かが存在しています。それは、これから先の自分の生き方や、考え方、書くものにとても大きく影響するものであろうと思います。
 
 和尚さま、ありがとうございました。
 またよろしくお願いいたします。


2003年05月01日(木) ちょっと日記お休みします

 明日から5日まで、日記お休みしまぁす。。
 すんません。

 知り合いの和尚様のご厚意に甘えて、伊勢のお寺に滞在させていただきます。
 朝のお勤め(早起きできるかな?)覗かせて頂いたり、写経をしたり、法話を聞いたり、お掃除や食事作り手伝ったり、和尚様とお話したり、ぼけーっとしたり、境内や周辺お散歩したり、とにかく数日間そんな風に過ごしてみます。
 やっぱり毎日都会の喧騒の中にいると、ちょっと息が詰まっちゃいそう。
 たまに、静かな環境の中でジャブジャブ心の洗濯をしてみたいな。
 自分の中でじっくり考えたいことや、和尚様とお話したいことも山ほどあるので、この滞在は私にとってとても大切なものになりそうです。
 
 まだリュックに荷物詰め終わってない(泣)。
 早く寝なきゃ。。


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