あたろーの日記
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2003年03月30日(日) もし、桜の花が・・・

 湾岸戦争時にアメリカが使用し、今回のイラク攻撃でも再び落としているのではと懸念されている「劣化ウラン弾」が、環境に与える影響ってどれくらいなんだろうとネットで調べているうちに、ふと、CO2などの温室効果ガスの排出量の規制を取り決めた、地球温暖化防止のための「京都議定書」の批准を拒否し続けてきたアメリカと、今イラクを攻撃しているアメリカ、大きな原動力のひとつとして共和党政権の伝統的な支持母体である石油業界があるんだなあ、と気がついた。そんなことは周知の事実だとは思うけど。。
 ブッシュ政権は、大手石油企業との癒着はなはだしい政権だそうだ。大統領はじめ、多くの閣僚が石油利権に絡む人達とのこと。例えば石油会社ハリバートンのCEOを5年勤めた経験もあるチェイニー副大統領。また、9.11テロの直後から大統領にイラク攻撃を熱心に勧めたライス大統領補佐官も石油業界にかかわりが深いそうだ。政治家、特に外国の政治家の名前を覚えるのは苦手なんだけど、いろんなサイトや週刊誌をあっちこっちひっくり返して見ているうちに、だんだん理解できてきた。
 地球環境を守るためのルール作りに難癖つける国が戦争をするのはごもっともだと思った。
 戦争は最大の環境破壊だもの。
 湾岸戦争でアメリカがイラクに落とした劣化ウラン弾によって、今もイラクの土地と大気は放射能に汚染されている。
 またあの戦争の時にイラクがわざと火をつけた油田火災のせいで、近隣諸国の空がしばらく煤で曇ったりするなど多くの被害があったそうだ。
 http://skip.tbc-sendai.co.jp/tenki/diary2/20030325.html
 戦争では、双方の国それぞれ躍起になって地球環境を破壊し合う。
 それが、多くの人の命や人間以外の生命を奪ってしまう。ずっとずっと将来までも。

 夜、近所の道端にある大きな桜の樹の下に、しばらく立っていた。
 昼の日当たりのせいだろうか。
 いつのまにか、花が満開になっている。
 長い長い冬を耐えて、今こうしてようやく春を謳歌している無数の花の下で、自分が桜の樹の一部になったかのよう立ちつくす。
 この時が来るのを、桜も、自分も、1年間ずっと待っていたのだとしみじみ思いながら。
 花の精気は強い。
 人の心を高揚させ、そのあとすぐに哀しい気持ちにさせる。
 何故だか分からないけれど。
 
 でも。
 もし、自分が見上げている桜の花から、強い放射能が発せられていたら?
 自分の足元の土が、大気が、濃縮されたウランの影響を受けていたら?
 
 現実に、そういう土地が、どんどん作られているんだよね。。。
 


2003年03月29日(土) 「魂との対話」

 「魂との対話」(ゲーリー・ズーカフ著、坂本貢一訳/サンマーク出版)を読んでいます。今本屋さんで平積みされている本です。

 人間の世界で起こっている様々な現象は、パワーを外側のものだと認識していることがそもそもの原因だそう。外側のパワーというのは、例えば、軍隊やお金や所有物、地位など、特に物理的なものに起因する力。人は、外側のパワーを失うことを恐れ、それを保持し大きくし続けるために、他者の持つ外側のパワーを攻撃する。誰かがパワーを得れば、その一方で誰かがパワーを失う。外側のパワーとは、そういう均衡関係にあるそうです。そして、外側のパワーを求める人間の意識が、破壊と暴力を生んできたのだそう。
 
 しかし、真にパワーのある人というのは、外側のパワーではなく、内側のパワーが強い人なのだそうです。
 真のパワーは、「その根っこを、私たちという存在の『いちばん深い源』のなかに置いている」とズーカフ氏は述べています。それは、すべての生命に対する畏敬の念とつながっており、またすべての真のパワーはハートを経由して生まれるものであるとしています。
 真のパワーに溢れた人は、さまざまな形態の生命に対する畏敬の念を持っているために、他者やほかの存在に対して、自分がどのような態度をとればよいか、おのずと理解しているものだと言います。だから、迷いがない。けれども、その、真のパワーというものは、内側の、不可視の領域のものであるために、物理的なことに重点を置いた力学では弱いものと認識されてしまう。ガンジーの非暴力無抵抗主義や、裏切りを知りつつそれに甘んじて十字架にかけられたキリストこそ、真のパワーに溢れた存在だったけれど、彼らの示さんとしたことは、外側のパワーを求める世界においては顧みられることが少ない、というようなことがこの本の中に書かれてあります。

 この本(原題は「The Seat of the Soul」)は、アメリカで300万部以上売れるという「驚異的なロング・セラー」だそうです。
 まだ最後まで読んでいないのですが、ひとつひとつ、書かれていることを噛みしめながら、大切に読み進めていきたい本です。たぶん、この先何度か再読することになりそう。そういう本に巡り合う経験は嬉しいものです。

 こういった本がベストセラーになるということは、沢山の人達が、従来からある一般的な価値観に疑問を持ち始めている証拠であるような気もします。一般的な価値観というのは、今ある社会を動かしている根底に流れている価値観、とでもいうのでしょうか。
 私は、自分の内面と照らし合わせながら読むと同時に、どうしても、今イラクで起こっている事柄とつなげて読んでしまっています。
 で、私と同じような視点で読んでいる人も多いかもしれない、と思ったのでした。。


2003年03月28日(金) SAKURA

 吉野奏美(かなみ)というピアニストの「ANGEL HEART」というアルバムを聴いています。
 その中の「SAKURA」という曲を何度も何度も繰り返しかけています。
 美しくて、生命力に溢れていて、どこか物哀しい旋律。言葉で表現するのは不可能なのですが。。
 音楽を聴いて感動することができる環境に感謝しなければ。
 ・・・こんな世界につぼみを開いて咲いてくれた桜の花に感謝しなければ。

 実は、自分のこのサイトで偉そうに自分の考えを振りかざしていることに、時々ふと嫌気がさしたりしていました。
 戦争が始まる前はのんきな日常生活のあれこれをつづっていたのに、イラク攻撃開始の頃から急に自分の口調が変わって、強気なことばかりうだうだ書いて吠えまくってたのが、果たして一体なんの役に立つのかな、と疑問も感じたり。確かに戦争が始まったことに怒りや悲しみを感じて、自分にできる行動をしなければ、何かをやらなければ、と思ってきたし、これからもそれは続けたいけど。ただ、自分のやってること、例えばデモ行進に参加することとかをここに書いたりすることって、一体どんな意味があるんだろうと思ってしまったり。。これって一歩間違うとただの自己顕示欲の表れになってしまう。自分はこんなことやってるんだよっていう。。もちろん、人の命が関わっている戦争で、私としてはそんな気持ちはないつもりだけど、ただ純粋に、今自分の周りで起こっていることをネットの上でいろんな人に知ってもらいたいというつもりなのだけれど。
 でも、正直言うと、自分の日常生活をのんきに書いてきたサイトと違って、こういう戦争や政治という特殊でデリケートな問題を扱い始めると、ネット世界というものの力を私なりに理解しているつもりだから、ちょっと怖くなる。私、無責任なこと言ってないかな、とか、独りよがりかな、とか、誰かを傷つけてないかな、とか、沢山の人のひんしゅく買ってないかな、とか。。。

 そんな風に思って、ちょっと落ち込んでたら、友達からのメールに書いてあった。
 私のサイトを読んだことで、知らなかった戦争の側面などを知ることが出来た、って。。。
 ありがとう。誰かがそう言ってくれることがとてもありがたいです。
 そうか。。そうですよね。
 「知る」ということも、大切ですよね。
 戦争のいろんな面を、戦場にいる人達のことを、それから戦争に対してどういうリアクションがあるのかということを知ることって、とても大切なことですよね。
 その一部として私のサイトがお役に立てれば、と気がつきました。
 もちろん、私は知識があるわけではないので、毎日が学ぶことの連続です。馬鹿なこと書いているなあ、と思われることがあったら、お叱りください。
 
 
 昨日の日記に、「宗教って一体なんだろう」と書いてからも、ずっとそのことを考えていました。
 
 さっき帰宅したら、浄土宗のあるお寺の住職さまから、何冊かの本が届いていました。
 私が、直接「宗教ってなんですか?」と聞いてみたい、まさにその方からでした。
 熱心な信者でもなく、仏教というものの入り口をうろうろしているだけの屁理屈こきのひよっこの私に、いつも心のこもった温かい手紙やメールを下さる方です。今特にお忙しい時なのに、わざわざ包みを作って郵便局まで出掛けてくださったのですね。。それも、住職さまが私宛の郵便を出された時間私はまだ仕事中だったはず。それから何時間も後に書く日記の内容をご存知だったかのようにタイミングよくお送りくださって、ちょっと驚いてしまいました。
 宗教って何?、の答えが私に簡単に分かるとは思えません。でも、送って下さったものを読んでいるうちに、ちょっと、ほんのちょっとですが、何か見えるような気がします。。。
 今度お会いする時には質問攻めにするかもしれませんが、よろしくお願いいたします。。。


2003年03月27日(木) 宗教っていったいなんだろう。。。

 東京で桜が開花しました。
 夜、桜の木の上がちょっと賑やかだなと思ってよく見たら、いつの間にか咲いていました。
 花の季節がやってきたんですね。。。
 
 イラクの国花は、バラだそうです。
 「花はどこへいった」という歌を思い出します。。。
 
 350人の方の命が失われたという報告がありますね。
 命の尊さを、どうやったらあの大統領に理解してもらえるのだろう。。
 
 夜、日比谷公園までのピースパレードに参加していて、「南無妙法蓮華経」と唱え続けるお坊さん達の一団の後ろを歩きながら、宗教っていったいなんだろうって、ずっと考えていました。。
 宗教って、ほんとにいったいなんなの?
 神の名の下に、愛を語り、神の名の下に、人を殺す。
 たとえブッシュの言う神が他のキリスト教徒にとっての神と違う神であるとしても、長い人間の歴史の中で、神の名の下に何度も何度も戦争が繰り返されてきたのは事実。この戦争だって、どうしてもイスラム教徒とキリスト教徒の戦いという側面を意識してしまう。
 人間にとって、宗教ってなんですか?
 殺す人にとって、殺されていく人にとって、宗教って、なんですか?

 今日は友人ができました。
 パレードが終わって公園で一息ついているところに声をかけてきてくれた女性と、意気投合してお茶を飲みながら長い時間いろいろ話しました。
 話は尽きなくて、コーヒーショップの閉店で追い出されてしまったけど・・・。
 私は組織に属するのがどうも苦手なので、ピースパレードとかも1人で出掛けるのですが、同じように1人で来ている人と、ふとしたことから友達になるのはとても貴重でいい経験だと思いました。


2003年03月26日(水) 人が死んでいくだけ。

 今日もまた戦場で人が亡くなっていく。
 頭に包帯をぐるぐる巻かれて、「ママー」と泣き叫んでいたあの男の子は、今どうしているだろう。
 イラク軍の捕虜となり、怯えた目で自分の年齢を答えるのが精一杯の様子をテレビ映像で流されたあのアメリカ軍の女性兵士は、その後どうなったのだろう?
 イラク軍の捕虜となった米英軍の兵士何人かが、イラクの民衆の前で公開処刑された可能性がある、との報道がされている。
 アメリカは、捕虜の扱いを取り決めたジュネーブ条約に違反していると激しく非難しているけれど・・・。
 イラクの人達にとってみれば、自分の国に侵略してきた軍の兵士を自分達がどうしようと勝手、という感情があるだろうし。
 アメリカの真のねらいが、フセイン政権を倒して自分達を圧政から開放することではなくて、自分達の足元に豊富に眠る石油をぶんどることだということを、イラクの人達も、周辺のアラブ諸国もちゃんと知っている。イラクの軍事力を脅威だとする一方で、イスラエルに相変わらず武器を分け与え続けているということも。湾岸戦争は、クェートに石油がたっぷりあるからアメリカが躍起になった。湾岸戦争直後の混乱に乗じて、またアメリカの援護を期待して、イラク国内でいくつかフセイン政権打倒の動きが出たけれど、当時のアメリカはそれを見殺しにして、イラク軍に制圧させるままにしておいたといわれる。
 だからイラクの人達は、いくらフセインが独裁者でも、アメリカが自分達に本当に自由をもたらすために来たのだとは思っていないそうだ。
 そういう国の兵士達が自分達の住む街に無差別に爆弾を落とし(誤爆というが、誤爆が多すぎる)、仲間を殺していくのだから、捕まえた敵の兵士を自分達が始末するのは当然、と思ってしまっても非難できないような気がする。
 米英の兵士達をそういう悲惨な目に合わせたのは結局、イラク「侵攻」を指示した政治家達じゃないかって思う。。
 イラクの人達は、自分達の自由が、平和的な手段によってもたらされるほうを望んでいるのでは?
 
 たとえアメリカがこの戦争に勝利しても、アメリカが望むような形での戦後処理を、イラクの人達が納得するとはとうてい思えない。
 この戦争、アメリカには、勝っても負けても、なんのメリットもない。
 ただ毎日、人が死んでいくだけ。。。


2003年03月25日(火) 読売と朝日

 試写会で「デアデビル」(ベン・アフレック主演/4月日本公開予定)を観ました。
 昼は盲目の弁護士、夜は法の網を逃れた悪人を退治する「デアデビル」。スーパーマンやバットマン、スパイダーマンに連なるアメリカンヒーローコミックの映画化です。
 映画の中でベン演じるデアデビルは、自分が正義の名の下に暴力で制裁を加えることに疑問を抱き、苦悩し続けます。自分が裁くために襲い掛かった男の幼い息子がその光景を見て怯えて泣いています。。。
 映画の中で神父が言います。
 「復讐は復讐を呼び、憎しみは憎しみを引き寄せる」
 。。。今のブッシュ政権には苦悩する姿が見えないです。。

 日本を代表する二大新聞の社説が、今回のイラク攻撃について、見解や主張がまったく正反対。
 特に今日(25日)の社説は違いが顕著です。
 読売新聞は[イラク戦対応]「『正しい決断』と評価した世論」と題して、 声高に、この戦争の正当性と、ブッシュを支持する小泉政権に対する全面的な賛成を述べています。また以前から、「政治の最大の責任は、国の独立を確保し、国民の生命、財産を守ることである」として、そのためには巨大な軍事力を持つアメリカとの日米同盟のきずなを弱めるべきではないと強調しています。今こそ政治家は国益にかなった適切な判断をしなければならないと説いています。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20030324ig90.htm
 それに対して、朝日新聞は、「イラク戦争-きれいな戦争などない」と題して、イラク、米英軍双方の犠牲者がこれ以上増え続けることを危惧し、「それぞれの大義名分をはぎ取ってしまえば、戦争とは人と人が大規模に殺し合うことだ。 」と述べ、戦争回避に向けて協調し努力してきた国際社会を裏切る形で生まれたこの戦争を非難しています。朝日新聞の社説は、一貫して、戦争によって引き起こされる非人道的な事態を憂慮し、ブッシュ政権とそれを支持する小泉政権を厳しく糾弾し続けています。
http://www.asahi.com/paper/editorial20030325.html
 さらに毎日新聞は、開戦前から一貫して、アメリカ主導の国際政治のあり方に疑問を投げかける姿勢を崩していません。
http://www.mainichi.co.jp/eye/shasetsu/index.html

 朝日と読売の主義主張が従来からそれぞれに異なっているのは周知のことだけど。
 新聞って、読んでると「そう言われてみればそうだよなあ」ってな感じで妙に納得させる力があるような気がしてしまうんですが。。だからたぶん、購読している新聞の種類によって、人の見解もずいぶん違うんだろうなあって感じてしまったのでした。。
 私の場合(あくまで私の場合ですが)、読売新聞の社説はなんかたたみ掛けるように論理を展開させて押しまくっているようで、少し怖い。「国益」という言葉が出てくるのも、今はちょっと抵抗を感じてしまう。正直言って、書かれていることに素直に頷けない。。
 ・・・それに、なんだかとても重要な視点を欠いているような気がする。

 新聞の社説がその新聞に携わっている人すべての主張を代弁しているとは思わないけど、社説ってやっぱり新聞の顔だから、ということはきっと、掲載されているほかのいろんな記事も、各誌で書かれ方が異なっているんだろうなあって思います。見出しひとつとっても、そこに書かれている出来事が読者に与える印象は大きく異なってしまうし。見出しの文句、写真の選び方、取材した記者の視点によって、読み手に与える情報の中身が左右されてしまうし。それから時々各紙に載っている世論調査の数字なんかも、新聞によって全然違う。今回のイラク攻撃に関する世論調査の結果だって、読売と朝日では、まったく出てくる数字が異なっています。この違いは一体何?っていうくらい違っています。・・・あんまり考えたくないけど、ふと、「情報操作」という言葉が頭をよぎりったりして。。
 いや、もう、多かれ少なかれ、メディアはどれも作る側の視点によって情報を操作されているようなものですよね。テレビのニュースだって、決められた時間の枠組みの中でどのニュースを取り上げるかで、視聴者に伝わる情報は限られてしまうし。カメラの向いている方向で情報の中身も決まるし。
 だからやっぱり、ひとつのメディアに片寄らず、いろんなところから情報を多角的に得て、自分の視点がどこにあるかいつも把握しておかなきゃならないんじゃないかなあ、って、また偉そうに呟いております。
 ところでYahoo!のトップページ、イラク攻撃のニュース特集、もうさっさと真ん中から上の小さなスペースに移動させちゃったんですね。ちょっと不満。じゃなくて大いに不満。
 
 
 
 
 
 


2003年03月24日(月) 悲しい現実

 眼球が痛い。
 目の周りの筋肉がつっぱる。
 瞼の痙攣もまだ少し残る。
 会社でみんなに聞いたら、それって眼精疲労じゃないかと言われた。
 確かにそうだ。
 会社と自宅、毎日10時間以上はパソコンの画面に向かっている。
 瞼の痙攣が始まったのは、イラク攻撃で私の神経が昂ぶったからじゃなくて、パソコンによる目の酷使しすぎによるものらしい。
 眼精疲労も放っておくとよくないらしい。会社ではどうやらこれがもう半分職業病っぽくなっていて、視野の周りが黒っぽく見えるとか、瞼の痙攣しょっちゅうとか、そういう人だらけだ。よくない。パソコンは。
 とにかくこの目の痛みがひどくならないようにしないと。
 早くコンタクト外して目の上に冷たいもの乗せて横になりたい。
 
 結局、イラクのことより、今日は自分の目をずっと気にしていた。
 私って偽善者だ。
 同じ空の下で人が死んでいくというのに。
 しかも、明日は仕事帰りに映画の試写会に行く。アメリカ映画。
 イラク攻撃に抗議してアメリカ製品の不買運動をひとりでもやろうかと思ったけど、目の前にあるパソコンのOSもアメリカ製だと気がついたら、その気持ち、さっさと萎えた。パソコンがないともうお手上げ状態の私。
 どこに行っても何をしても、今の日本はアメリカ、アメリカ。
 マックも、スタバもアメリカ。IBMも、アメリカ。
 
 だけど、家に帰ってきてニュースのサイトを見ると、やっぱり思う。
 お願いだからもうこれ以上犠牲者を出さないで欲しい。
 殺さないで欲しい。
 怖がらせないで欲しい。
 やっぱり、アメリカはおかしいよ。
 ちょっと、感覚が狂ってるよ。

 まだそんなに外での反戦運動に参加してないけれど、何回か行った先々で、高校生や中学生がとても多いのに驚いた。
 まだちょっと幼さが顔に残る女子高生達が、大使館の前で一生懸命平和を求める声を上げて、みんなの前でマイクを持って意見も言っている。
 私が彼女達と同じくらいの頃は、自分のことしか考えてなかったと思う。
 大学生のときに湾岸戦争が起こったけれど、テレビで見ていてニュースキャスターの「まるでテレビゲームを見ているようです」という台詞をぼんやり聞きながら、「どこか遠くで起こっているテレビゲームのような戦争」を、暗闇の中で閃光が走る映像を、ただなんの実感もなく眺めていた。フセインはクェートに侵攻したんだからアメリカの驚異的な軍事力でこてんぱんにやられて当然、みたいに思っていたし。
 だけど、今、その時の自分をとても恥じている。
 当時、アメリカの最新鋭の兵器の威力をまるでショーのように見せられる裏側で、決して報道されることのなかった事実。
 米英軍がイラクに落とした「劣化ウラン弾」という兵器によって、今なお多くのイラクの子供達が、白血病や甲状腺がん、無脳症、肝臓障害などで苦しんでいるという恐ろしく悲しい現実。
 これは、フォトジャーナリストの森住卓さんのホームページの一部です。
 http://www.morizumi-pj.com/iraq3/friday/friday.html
 (↑この部分をコピーしてブラウザのアドレスのところに貼り付けて見てください)
 
 やっぱり、戦争によって最も犠牲になるのは、一番の弱者である子供たちだ。
 
 
 
 


2003年03月23日(日) GLAYのTAKUROさんの詩

 自分と違う意見の人の話を聞くのって大切なことだと思うし、それに対して自分が納得できなくても、相手の話の中から何かしら自分にとっての新しい視点をもたらすことも可能なので、人との議論の機会ってありがたいと思う。
 ただ、それも時と場合によりけりかもしれない。
 今回の戦争や反戦運動についてちょっとやりとりしていて、ふと、この人はもし、アメリカ軍の兵士のひとりが、「じゃあ俺の代わりにこれから戦場に行ってくれ」と軍服を渡してきたら果たしてどうするのかな、と思ってしまった。もしくは今イラクで実際に起こっているこんな状況↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030323-00000643-reu-int.view-000
に自分が居合わせたら、どう思うのかな、と考えてしまった。
 今、世界や日本のあちこちで起こっている反戦運動について、あまり好ましく思っていない人もいるんだなということは分かっているけれど、でも今はそのことをめぐって議論している場合ではないような気がする。別に反対意見あってしかり、だけれども、互いに言い合っている間にも、イラクでは子供達が犠牲になり、多くの市民が怯え、爆弾から逃げ惑っている。双方の兵士の命もこれ以上失ってもらいたくない。人の命を救う、そのことに、なんの論理が必要だろうか?
 ・・・もう、この戦争について人と議論するのはやめようと思う。なんだかとっても空しくなるもの。私の頭は難しい議論にはついていけないし。それに、考え方の違いはあっていいと思うけど、それを互いに認めさせようとしても、今はなんの役にも立たない。
 今私達がしなければならないことは、現実に起こっていることを直視することだと思う。そして、最善を求めていくことだと思う。

 なんかまた吠えてしまってすみません(私ってやっぱ相当理屈こき)。
 ここのところずっと吠えまくっているような気がします。
 そればかりでは読みに来て下さる方に申し訳ないので、少しでも何かお役に立てるものをと、トップページに今回の戦争や反戦関連のリンクページを貼り付けました。でも私のサイトよりもっと充実しているところが多いので、あんまり役に立たないかな。。それでも、今後ちょこちょこ増やしていきたいです。
 
 今日、いろんな反戦を訴えるサイトを見ていて、GLAYのTAKUROさんのサイトに掲載されている詩に胸が熱くなってしまいました。
 ほんとはここに全部掲載したいのですが、著作権に引っかかってしまうんでしょうか?というわけで、サイトのアドレスをお知らせします。
 「TAKURO-NO-WAR.jp」http://www.takuro-no-war.jp/(リンク集にも載せておきました)。
 GLAYというバンドの曲、ほとんど聴いたことがないのですが、シンプルな言葉で、とても説得力のある詩だなあと思いました。この詩の言うように、誰にも奪えない大切なものすべてを、戦争は奪ってしまうのだと、今、報道写真が伝える戦地の様子を見ていて思います。。。この詩を、ブッシュさんやブレアさんや小泉さんに見せてあげたい。
 
 


2003年03月22日(土) 祈りの力を信じたいです。

 米英軍は、重要な油田地帯を確保しつつ、バグダッドへの大規模な空爆を行っています。バグダッドでの市街戦も近いと言われています。
 イラクの子供達はどうしているでしょうか。
 母親達はどのような気持ちで子供達といるのでしょうか。
 もし市街戦になって、バグダッドの子供が武器を持って米英軍の兵士に向かってきたら、その子供の命はどうなるのでしょう?
 イラクの若者達はどうしているでしょうか?
 もしかしたらこの前まで、友人達と恋愛話に花を咲かせていたかもしれない私と同世代のバグダッドの女性達は、今、自分の背後に近づいてくる死への恐怖に怯えているはずです。。
 地球のどこかで、空襲に恐れおののきながら逃げ惑う人達がいるということは、世界中の人達にとって不幸な出来事です。人が殺し合うのはこの上なく悲惨なことです。。
 国の指導者達は自分の手でそれを行うことはありません。いつも身の安全を確保できる場所にいます。殺されるのは市民で、殺すのは兵士です。米英軍の兵士達が、この先、自分の人生の中で、この戦争のことを悔やまないということがあり得るでしょうか?
 
 アメリカ最大の映画の祭典であるアカデミー賞が予定通り開催されるとのことです。
 その理由として、主催者側は、「米国の文化や価値が世界中で脅威にさらされているとき、われわれ米国民と国の最高の時を映し出した業績をたたえることは、これまでにも増して大事なことと思う」(アカデミーのピアソン会長)と述べています。
 そのアカデミー賞、1986年の第59回の時に、作品賞や監督賞など計4部門を受賞したのは、世界中で多くの人に衝撃と感動を与えたあのオリバー・ストーン監督の「プラトーン」です。
 あの映画の精神が、アカデミー賞の中で今どのように位置づけられているのか、主催者が、またアメリカの映画人たちがこの戦争をどのような目で見ているのか、注目していきたいと思います。

 私ごとですが、2〜3日前から左上瞼がちょと痙攣するなあと思っていたら、今日はそれが頻繁に起こるようになってしまいました。痛みはないのですが。ネットで調べてみたら、ストレスが引き金になっている神経系統の病気の前触れかもしれないので、このまま痙攣が続くようなら早めに医者に行こうと思っています。イラクの子供達が死の恐怖にさらされている時に、やわな神経ですね。。。
 自分で言うのもなんですが、私は日常生活で怒りを感じることはあまりないほうだと思っています。人と人との触れ合い、日々のやり取りの中で、摩擦が起きたりするのは当然のことなので、いちいち気にしないことにしています。けれど、今回のこのイラク攻撃に対しては、今までになく神経を昂ぶられせています。それは私だけではないのですが、言葉では言い表せないほどの怒りを感じています。もしかしたらその感情が、気づかないうちに神経を圧迫させているのかもしれませんね。私以上にこの情勢を憂えている人はもっともっと沢山いるのに、こんなことを言うのは申し訳ないのですが。。
 そんなこともあって、今日は、自宅で静かにしています。
 もともと目が弱いので、あまりパソコン画面ばかり見ないように、静かな音楽をかけて、部屋の掃除をしたりして過ごしています。
 けれども、そんな風にしていても、やはりイラク情勢のことが頭から離れず、結局しょっちゅうパソコンの電源を入れてしまいます。そして、ネットのニュースで、バグダッドの空が真っ赤に燃えている様子を見るにつけ、怒りの気持ちで一杯になってしまいます。。
 
 しかし、怒りの感情というのは、こうして抱えててもあまりよいものだとは感じません。感情の持つエネルギーは、私達の認識よりもはるかに強いものだと思います。人が持つ感情は、その人のいる空間の空気の性質を変えます。人の感情、想いは、その場所だけでなく、距離も、時間も超えて、至る所へ飛んでいきます。憎しみや怒りの感情は、その人自身だけでなく、周囲の人や、遠くの人へも影響を与えます。それもあまりよい影響ではありません。逆に、愛に満ちた感情、想いは、その人や周りの人のいる空間を浄化します。そして、愛の感情のほうが強力で、より遠く、より広く飛んでいき、新しく愛を生み出し、惹きつけるものだと思っています。・・・人間の脳は、私達の認識よりもはるかに大きな能力を持っているものだと思います。また、私達の住む世界が、日常が、普段目に見えているものだけで組織されているのではないということも、事実だと私は感じます。。
 自分が感じた怒りを、イラクの、そして実際に戦場に行ってしまった米英の兵士の人達の命を救う方向への行動に転換して、これからも外に出て多くの仲間と平和を訴える目に見える活動をしていきたいと思います。
 と同時に、自分の心の中で、愛に溢れた想いを強く大きくして、それが遠い砂漠に送り届けられるようにいつも祈っていたい。
 多くの人々が、世界のいたる所で、祈っていると思います。
 愛に溢れた祈りの力を信じたいです。
 多くの人の、目に見える抗議と平和を訴える活動と、静かで力強い愛に満ちた祈りの力が、今の状況を必ず変えることができると信じたいです。
 

 


2003年03月21日(金) 世界中が平和を願っている。。。

 世界中で反戦運動が激しくなっています。
 ヨーロッパやアジアでも、イスラム諸国でも、そしてアメリカ本国でも。
 多くの国々で大規模な反米デモが行われています。。

 今日は芝公園から日比谷公園までのデモ行進「ピースウォーク」と、その後のアメリカ大使館前でのシュプレヒコールに参加してきました。
 私が大使館前に立つのは今日でまだ3回め、デモ行進に参加するのは初めてでしたが、反戦運動に加わる人達の数が日を追って増えていることをひしひしと肌で感じます。
 自分ひとりが動いたって別に何かが変わるわけじゃないけど、だけど何かせずにはいられない、何でもいいから自分にできること・・・と思ってぞくぞくと集まって来るんだと思います。私もそう。その気持ち、大切にしていきたいと思います。
 不思議なんだけど、同じ意識で、同じ目的で同じ場所に立っていると、見ず知らずの間柄でも自然と仲間意識が生まれてくるよう。繁華街や駅のホームで人ごみを歩いている時に感じるような居心地の悪さや、ピリピリ感はまったく感じられません。なにか頼みごとや聞きたいことがあっても、お互いさらりと話しかけられる。すぐに笑顔を交わすことができる。何回か同じ顔があると、ぐんと親近感も湧いてくるし。私も何人かの方から「昨日も来てたでしょう?」って声を掛けられました。私と同世代の人、おじさん、おばさん、大学生、高校生、中学生、そして小学生。。アメリカ人、韓国人、そしてイスラム圏からの人達。。みんな思いはひとつです。平和を求める気持ちはこの先もきっと変わりません。
 デモ行進、大使館前でのシュプレヒコール、テレビ局のカメラが常に何台か来ています。でも、本当に大使館前での抗議行動の真の姿を放映してくれているのでしょうか?大勢の人の「戦争反対」「NO BLOOD FOR OIL」という抗議の叫び声はリビングルームに届いているでしょうか?新聞は世論を正しく紙面に載せているでしょうか?例えばアメリカ大使館前で抗議の集会に参加しようと警官ともみ合いになり逮捕された人が、「過激派」と表現されていたニュースがありましたが、一体何を基準に過激派というのでしょう?逮捕者が出たということばかりが大袈裟に取り上げられて、大規模な抗議行動のことはさほど報道されてないのではないでしょうか。大使館前でシュプレヒコールをする400人が警官と睨み合う一幕もあり終止混乱した、という表現もありましたが、警官と睨み合い混乱していたのは正確には大使館前の400人ではなく、そこから数百メートル手前で行く手を警官と機動隊に阻まれて抗議していた一団の人達です。
 警察の方々はデモをする人達の安全のためにも大規模な警備体制で臨んでくれています。メディアの方々がいるから、平和を求める声がその場にいない人達にも伝わります。
 けれども、メディアが伝えていない、伝えようとしない部分も実際には多くあり、たとえ伝えられたとしても、脚色されたり、取材する人の主観によって内容が正確さを欠いたりすることも多々ある、ということを感じています。
 私の自宅のテレビは壊れていて、新聞も今は宅配してもらってません。だからインターネットで各新聞社、テレビ局のサイトをいろいろ回って読んでいます。またテレビ局のサイトでは、実際にテレビで放映したニュースをストリーミングで配信してくれるのでそれを観たりしています。なるべく1ヶ所のメディアに片寄らず、多くのメディアから情報を得て、自分なりにこの戦争について考えていきたいと思います。

 米英軍にとうとう死者が出てしまいました。イラクにも亡くなった人がいます。たとえ兵士でも、どんな信条を持っていても、同じ人間には変わりありませんよね。家族や、恋人や、親がいるはずです。。
 もし、私の愛する人が戦争に行って死んでしまったら、たとえ彼がその戦争に行くことを納得していたのだとしても、私は一生悲しみ続けると思います。アメリカでもイギリスでもイラクでも、どこの国に限らず、愛する人を失って絶望する人がいるならば、その痛みを分かち合って、そしてやっぱり二度と戦争は起こしてはいけない、と改めて強く願うに至るのです。。。


2003年03月20日(木) 米国大使館前シュプレヒコール

 こんな風に自分のサイトに戦争反対の意見を何度も書いたり、デモに参加したりすることについて、なに馬鹿なことやってるんだろう、とお考えの方もいらっしゃると思います。
 けれどこれが私のやり方です。
 どうしても戦争は許せないのです。
 人が人を殺す、そのことが許せないのです。
 この地球が、この環境が、あたかも人間だけのものであるかのような考え方も、間違っていると思うのです。
 多くの方がいろんな方法で反戦の意思表示をされていると思います。
 私も、私にできるやり方で、とにかく行動していきたいのです。
 本当は、今日のこのイラク攻撃のニュースを知って、怒りではらわたが煮えくり返る思いなのです。世界全体にとって、あまりにも悲しい出来事です。胸が締め付けられるほど苦しいのです。
 でも、その原因を作ったブッシュやアメリカを憎んだり、暴力的な行動に出て自分の主張を押し通そうとしたら、それこそブッシュやアメリカと全く同じ行動をとっていることになります。そもそもそんなことをしても状況は悪くなるばかりで根本的な解決には何も至らない。
 だから私は、出来る限りの署名をしたり、デモに参加して多くの仲間と声を上げたり、こうして自分のサイトにみんなの反戦運動の様子を写真や言葉で掲載してサイトを見てくださる方に情報として知ってもらったり、さらには自分の想いを日記に綴ったりしたいのです。
 自分と同じことを他の方々にもしろとは言いません。人それぞれ考え方は異なるし、平和の訴え方も違うと思います。平和を願う行動は他にもいろいろあると思います。自分が偉い人間だとも、凄いことをやっているとも思っていません。もっともっと多くの大変な活動を長く続けている人達が沢山います。私は、今の今、自分がしたいことをしているだけです。本当にすべての人の命が尊重され、地球環境が守られ、生きとし生けるものが大切にされる、そんな世の中になって欲しいから、自分なりのやりかたで行動しているだけなのです。そして自分のやっていることを自分のサイトで表現することによって、興味を持って見てくださる方々の参考になったり、草の根の記録としてネット上に存在できれば、と願うのです。
 私のサイトを見て誰かがパソコンの前で共感してくださった時、目には見えないけれどもそこで平和を願うネットワークがちゃんとつながるもんだと思っています。目には見えなくても、何かが一歩前に進むのではないかと思うのです。。。

 今日も仕事を終えて赤坂のアメリカ大使館に向かいました。
 まさかとは思ったのですが、地下鉄の溜池山王駅から地上に出る出口は、アメリカ大使館に一番近い出口を念のため避けました。あとから知ったのですが、大使館そばの地下鉄の出口は封鎖されて大使館に向かう人達は、そこで足止めを食らっていたそうです。
 地上には簡単に出ることができましたが、その後が少し大変でした。
 アメリカ大使館に続く道という道にはすべて警察官と機動隊が立っていて、大使館に向かおうという人達はそこから先へ通してもらえないのです。地下鉄の駅に一番近い大使館への道の入り口に立っていた警察官は、にこやかに「大使館に行かれる方は遠回りですが溜池のほうから回ってください」と示してくれたのですが、その通りに遠回りしていくと、次の路地に待ち構えていた別の警察官には「この先は通せません」と完全にシャットアウトされます。何組かの市民グループが警察官と押し問答をしています。その時警察官の1人が「何言ってるんだよ、他の人達はみんなもう何時間も前から来て(抗議)活動してるんだよ、あんたたちは今頃になってのこのこやってきて通してくれなんて虫が良すぎるだろう」と私達に言いました。・・・それを聞いた市民グループの人達も呆れたようでしたが、私も言葉を失いました。まったく話になりません。この警察官には何を言ってもたぶん無駄でしょう。・・・他の人達が警官とやり取りしている間にもしかしたら先に歩いていけるかもしれない、と思った矢先、目の前に20人位の機動隊の人達がやってきて、一気に道を封鎖してしまいました。
 武器など持たず、仕事帰りに職場の仲間達と通勤バッグ抱えたまま大使館前に寄って抗議の声を上げてこよう、という感じの何組かの市民グループがそこで諦めて来た道を引き返していきました。機動隊のほうを見て、首をかしげて「話にならない、これは一体なんなんだ」と呟く人もいました。
 私はもう少し別の道があるかもと思い、さらに遠回りしてみました。
 やはりいくつもの抗議グループがあちこちで警察官と機動隊に止められています。激しいやり取りも見えます。
 こういうときは、いかにも抗議に来ました、という様子は見せないほうがいいようです。プラカードを手にしていたり、2人以上のグループでは通るのも難しいようです。
 私は1人で、ただの通行人を装い、携帯電話でメールを打ちながら(実際は写真日記の文字を打っていました)、警察官と目を合わせないようにして運良く最後一番駅から遠くて警備の手薄だった道から大使館前にたどり着くことができました。警察官が他のグループを止めている脇を通ったとき「抗議に来たの?だったらこの先は通せないよ」と言っているのが聞こえました。
 おかしいと思いませんか?
 日本では言論の自由は保障されているのではないのですか?
 昨日はデモのための場所を確保して通行止めまでしてくれた警察の方が、今日はデモに参加するためにやってきた人達を大使館前まで行かせないように周りの道を封鎖しているのです。少しは予想していたのですが、やはり驚きました。
 
 ようやくたどり着いたアメリカ大使館前。
 昨日と同じ場所に、今夜は昨夜よりさらに多い人達がすでに集まっています。400人以上はいるでしょうか?昼間からずっといる人も多いようです。休日前夜ということもあるのでしょうか、また場所柄もあるのでしょうか、昨夜より、コートを着てブリーフケースを抱えたサラリーマンも多いような気がします。私と同じ位の仕事帰りとおぼしき女性も多いです。私と同じ位かそれより上の世代の方たちが圧倒的に多いかもしれません。小学生や幼稚園児を連れた家族連れも混ざっています。過激な行動を取りそうな人はまったく見えませんし、実際昨日も今日もそんな人に私は遭遇しませんでした。でも、私達の前にも脇にも、警察官が間隔を置いて立ち並び、時々機動隊が前の道路を列をなして横切っていきます。機動隊が向かった先からは、大勢の怒号が聞こえてきます。あとで知ったのですが、運良く大使館前に来ることができたのは私を含めほんの一部だけで、他に数千人規模の人達がそれぞれのグループで大使館前に集まる予定だったのに、周囲の道で止められてしまい、大使館に近づくことができず、警察官と言い合いや小競り合いになったりしていたそうです。
 どうしてですか??
 皆、なにも、大使館の建物に危害を加えたり過激な行動をとろう、危険なことをしようなどと思ってないことなど、集まった人達のいでたちを見れば分かるはず。沢山集まると暴動になるとでもいうのでしょうか?確かに大勢集まると将棋倒しなど何かと危険な事態は起こりうるとは思うのですが、皆少なくともブッシュ大統領よりは理性があって、何より平和を訴えたくて大使館前に集まってきているのです。大使館前でなければどこに行けば直接アメリカの役人に声が届くというのでしょうか?その場で立ったまま「戦争反対」「ストップウォー」と叫ぶことのどこがいけないのでしょうか?
 暴動を起こそうと集まった人達ではないのです。大使館に抗議したい人すべてを通して、大使館を取り囲んで抗議の声を上げるのを見守ればよいのではないですか?皆、1人1人の力では限度があるけれど、それが大勢になれば有効な力になると思ったから集まったのです。それなのに、規制されてしまいすべての人達が集まれないというのはどうしてでしょうか?
 これは明らかに言論の自由を奪う行為ではないでしょうか。。。
 
 警察官も公務員の職務を遂行しようと一生懸命なのは分かります。
 ほんとうは一緒に抗議の輪に加わりたい人だっていると思う。だからあそこに立っていた警察官個人個人を非難しているわけではないのです。人にはそれぞれに立場というものがあるから。
 ただ、自分の意見を訴えるために集まる人達を排除するということを、一体誰が決めたんだろう、と思います。
 自分の言いたいことを言うのに窮屈感を感じた夜でした。
 
 今夜はノンフィクション作家の吉岡忍さんも参加されていました。
 
 

 
 
 

 


 


2003年03月19日(水) アメリカ大使館に抗議に行きました。

 いかなる理由でも、戦争はしてはいけないのです。
 正義のための戦争など、ありえません。
 しょせん、戦争は殺し合いです。
 人が死にます。
 親を失う子供が増えます。
 子供を失う親が増えます。
 友を失う人が増えます。
 人種、民族、国、宗教、信条、主義主張などの違いは問題ではないのです。
 人の命はいかなる理由であれ、奪われてはならないのです。
 戦争によって多くの命が失われ、多くの子供達が飢餓に陥り、飢えてさらに命を落としていくのです。
 
 戦争によって人間以外のほかの多くの生物の命も奪われます。
 緑は色を失い、多くの生きもの達が行き場をなくします。
 大量の資源が破壊のために使われ、それが地球環境をさらに悪化させます。その後遺症は数年やそこいらで癒えるものではありません。
 
 報復は報復を生むだけです。
 憎しみは憎しみを引きつけます。
 戦争によって誰かが愛する人を失って悲しんでいるのなら、世界中のどこにも平和は存在しないことになります。
 人間の脳は、武器を作り人を殺すことを考えるために発達したのではありません。
 もっと他の方法を探すために大きくなったのです。

 
 いてもたってもいられなくて、仕事が終わったら会社からそのままアメリカ大使館に行きました。
 誰かしらいるだろうと思っていたら、やはり、最初は50人ほどでしたが、大使館の門の前、道路を挟んで反対側の歩道に人のかたまりができていました。あとで聞いたところによると、赤坂警察署が付近の道路を通行止めにして、他の歩行者の邪魔にならないという条件で協力してくださっていたそうです。
 白い紙コップの中につまようじを通し、そこに小さなローソクを刺したものを頂き、ローソクに火をつけてもらう。私もライターを借りて、他の人のにつけて回る。
 みんな思い思いのプラカードを掲げて、声を合わせて大使館の建物に向かって叫ぶ。「ノーウォー」「ストップウォー」「ウィーウォントピース!」
お経を唱える人もいる。歌う人もいる。躍っている人もいる。みんなそれぞれの抗議のかたち。想いのかたち。
 紙コップのローソクが消えて次のローソクをつまようじに刺したら、そばにいる見知らぬ仲間の紙コップから、火を分けてもらう。ローソクとローソクを重ね合わせて、新しい小さな火がともる。・・・こんな風に、平和を祈る気持ちもつながっていけばいいのに。。。
 ふと、後ろを振り返ったら、最初は50人足らずだった仲間が、200人以上に膨れあがっていました。みんな、仕事を終えてから駆けつけたようです。
 年齢、性別を問わず、いろんな人がいました。
 20代、30代と思われる人が比較的多かったけど、それ以上の年代の方々もとても多かったです。

 やがて、この集まりの中心になっている「WORLD PEACE NOW JAPAN」のメンバーの挨拶。一昨日の夜中から6人で始めて、今日はこの規模になったのだから、凄いなと思いました。
 これから「人間の楯」としてイラクに向けて出発する若い男性がマイクを持って挨拶しました。どこからか誰かが「みんな彼とひとりずつ握手しようよ」と叫んだ。
 私の冷たくなった手。それに比べてこれからイラクに行くという彼の手は、とても温かかったです。「人間の楯」としてイラクにいることが果たして効果があるのかいろいろ議論されているようです。大切な命を無駄にしてしまうのではないかという危惧を私も持っています。・・・けれども、それが彼のやり方だし、信念で決めたことなのだから、今はもう応援するしかないと思いました。
 あの彼の温かい手のぬくもりがこの先もずっと続くよう、彼が生きて日本に帰って来れるよう、私は私に出来る形で平和を求めて行こう・・・でも、イラク攻撃が避けられない情勢になってきたことを考えると、「気をつけてね」と彼に声をかけるだけで、もう何かが喉元までこみ上げてきて、それ以上何も言えませんでした。
 薬害エイズ訴訟原告の川田龍平さんも参加されてました。
 彼の挨拶。「同じ過ちを二度と繰り返さないために」という言葉が強く印象に残っています。薬害エイズ問題も、戦争も、政府や官僚が人の命の重さを顧みず、まるでチェスの駒でもあるかのように扱うことによって、多くの罪もない人々の上に悲劇が降りかかるのです。
 私は18時半頃から20時過ぎまでいましたが、まだまだ皆残っているようです。中心になっている人達は大使館の前で寝泊りしているそうです。
 ・・今夜の様子は写真日記に少しですが掲載しました。

 明日はイラク攻撃が始まってしまうかもしれない日。
 仕事を終えたら、またアメリカ大使館に行きます。
 ブッシュ大統領まで声が届かなくても、こうして戦争に反対する人間がいることを示すために。
 
 それぞれのやり方でいいと思います。
 署名に参加する、地域の集まりに出る、家族をはじめとする周りの人と戦争について話をする、ブッシュ大統領や他の国や団体の首脳にメッセージをメールで送る、反戦の意味が込められたアイテムを持つ、そして、祈る、等。
 祈ることは大切だと思います。
 祈りの及ぼす作用はあまりにも過小評価されているきらいがありますが、祈りの力はとても強いと思います。
 
 平和のために祈る人がひとりでも増えて欲しいです。。

 
 
 
 
 


2003年03月18日(火) 戦争を止めるためにできること。

 戦争を止めるために、私達にもできることがあります。
 
 こうしてパソコンの前に座ったままでもそれは可能です。
 
 インターネット上で署名できるサイトが沢山あります。
 これはそのごく一部です。
「戦争をやめてほしい市民の署名活動」
 http://www.eeeweb.com/%7Esignature/
「イラク問題の平和的解決を求める日米市民のアピール」(署名は21日迄)
 http://homepage2.nifty.com/mekkie/statement_j/index.html

 ブッシュ大統領に直接メールを送る方法もあります。
 president@whitehouse.gov が大統領のメールアドレスです。
 subject(件名)に「No War!!」「Please Stop War!!」「Love and Peace!!」等と入力し、本文は名前と/JAPANだけでも構わないと思います。メールを送信すると、すぐにホワイトハウスから受信したという趣旨のメールが届きます。
 
 ここも参考になります。
「世界のリーダーにメッセージを!」
 http://www.eeeweb.com/~signature/iraq.htm
「この48時間にできること」
 http://www.worldpeacenow.jp/

 こういう方法もあります。
 
 “WORLD PEACE NOW”on 3/21(Fri.)
 3月21日(金)、13時に、東京港区芝公園23号地(東京タワーそば)に集合、13時30分からピースパレードが行われます。
 コースは2つ、愛宕通り〜外堀通り〜数寄屋橋〜鍛冶橋駐車場約3キロ1時間の「銀座コース」と、東京タワー〜桜田通り〜日比谷公園霞門 約2.5キロ45分の「大使館コース」です。途中抜けても、一部だけ参加でも構わないと思います。
 主催者(WORLD PEACE NOW 実行委員会)のサイトはこちらです。
 http://www.worldpeacenow.jp/
 私も参加します。
 
 個人の力はたかが知れています。
 けれど、個人の力がなければ、平和は実現しません。
 自分の可能な範囲で構わないと思います。
 1人より2人、2人より3人・・・です。


2003年03月17日(月) バレーボール

 。。。昨日の日記の最後にあんなこと書いちゃったものだから、ほんとに風邪を引いちまいました。
 頭と喉がちと痛みますな。
 昨日雨の中歩いてたからなぁ。反省。。
 まあいいや。昨日言ったように、自分の身体で実験してみます。

 今日は夕方雨が上がったので、また港区青山にある会社から新宿駅まで歩きました。これで何日めだろう。結構続いてるなあ。
 徒歩でだいたい30〜40分位かかりますが、会社の最寄り駅から新宿まで、地下鉄で行くと乗り換え含めて20分位なので、電車で行くのとたったの10分足らずしか差がないわけです。だったら、歩いたほうが健康のためにもいいし、ついでに電車賃も70円だけど安く上がる。足も鍛えたいし、冬の間にくっついた脂肪も落としたいし。ついでに歩くと脳に新鮮な酸素が入って、いろんなこと考えるのにちょうどよく頭が働くみたい。
 始めた頃は遠足気分だったけど、だんだん慣れてくると、そうたいした距離には感じなくなるから不思議です。
 通勤を兼ねてウォーキングというのは、やっぱりおすすめです!!

 で、さらに、先週から加えたのが、会社での階段のぼり(^^)。
 私の働いているフロアは8Fなんですが、日に1〜2回ほど、B2Fまで行く用があります。今まではエレベーターで行ってたんだけど、今はなるべく階段を上り下りしてます。8Fだけど地下階までだから、トータルで10階分の距離です。
 最初は戻ってくると膝が笑ってたけど、今はもう大丈夫。
 相変わらず呼吸は乱れてぜーはーぜーはーだけど。
 ・・・みんながしーんとして仕事まじめにやってる中で、ひとりで鼻息荒く肩呼吸してます。すんません。
 でも、これもおすすめですよん!

 なんかこんな風に自分の身体鍛えてると、中学の部活思い出します。
 中一の夏休み、バレー部、お盆以外は毎日あった練習に全部出て監督に褒められた。厳しい監督で有名だったから嬉しかったあ。・・・でも、自宅が学校から1分のところにあったから、サボりようがなかったのでした。あはは。
 。。。その夏休みのあと、転校してしまって、転校した先の学校で入ったバレー部は遊び半分でやってる練習(ゴメン)ですごくがっかりしちゃった。。。。「県大会で会おうね」と約束した前の学校の友達に手紙出すこともやめちゃった。しかも、前にいた中学のバレー部は、その後県大会で初優勝して強豪として知られるようになった。1年の夏に自分と一緒に玉拾いしたり炎天下の校庭10周とか走った仲間が県大会の決勝戦で活躍してるときに、私は別の学校の体育館の片隅で、ボール抱えて座り込んでおしゃべりばっかりしてる部員の仲間になって、内心しょぼくれてた。そのうち部活に出なくていい理由ができたので、だんだん顔出さなくなった。
 その後、バレーボールが嫌いになった。
 
 今思うと、あれはあれで、いい経験だったのかなって思う。
 
 

 


2003年03月16日(日) みずみずしい身体

「第3回世界水フォーラム」が、今日から京都・滋賀・大阪で始まりましたね。23日まで行われ、参加予定者は166ヶ国37機関から約1万人というからかなり大掛かりです。http://www.world.water-forum3.com/jp/index.htmlちなみにこのサイトでは、実際の会場からリアルタイムでフォーラムの様子が映像で配信されたりします。かなり充実したサイトです。
 フォーラムの分科会で、絶対この方も何か発表するだろうと思って名前を探したらやっぱりありました。
 「水からの伝言」の著者として有名な江本勝さん。http://www.hado.com/dengon.htm
 世界で初めて水の結晶を撮影することに成功して、今著作が日本だけでなく、世界のいろんな国々で売れているという・・・。
 日本のあちこちの川、それぞれに水の結晶の形が違うそうですね。
 上記のサイトでも一部見れるのですが、広島の西条市というところの湧き水と、東京品川区の水道水の結晶の美しさの違いは怖いくらいですね。・・・東京に住んでいるとこんな水毎日飲んでることになるんだと考えると。。。
 面白いなあと思ったのは、コップの水に「マザー・テレサ」と「ヒトラー」という文字をそれぞれ見せると、やはりそれぞれに結晶の形が異なってしまうということです。あと、水に聞かせる音楽の種類によっても違うし、「ムカツク」と「愛」という字を見せたときも結晶の形がまったく異なる変化を見せるそうです。以前テレビで見たときは、そんな馬鹿な、って一瞬思ったんですが。。
 
 ずいぶん前になりますが、ヒーリングについて詳しい方から、「ミネラルウォーターを飲むときに、ペットボトルをやさしく手で包むように持って、この水が美味しく身体のためになりますようにって思うと、ほんとうに水が美味しくなるよ」と教えてもらい、半信半疑でやり始めました。水だけでなく、お酒でも、薬でも、コーヒーでも、自分の手で包んで心の中で感謝しながら愛情を送るようにすると、ほんとに美味しくなるそうです。・・・やり始めたら習慣になって、実はしょっちゅうやってます。人前ではさりげなくですが。。。(^^)。味の違いはさあ、よく分かりませんが、たぶんしないよりは美味しくなってると思います(笑)。
 よく考えたら、これって、江本氏が著作でおっしゃってることと同じことなんですよね。
 水は波動を感じ取って、記憶する性質を持っているのではないかと思います。
 結晶の形の違いは、含まれるミネラルの量以外の要素が働いているのではと思います。
 
 人間の身体はその約70%が水分だと言われますよね。
 ということは、身体の中にある水の結晶が綺麗か汚いか、崩れていないか崩れているかでは、なにかしらやはり大きな影響があるんではないかと思ってしまいます。
 もちろん、飲み水を選ぶことも大切なのですが、ふと、自分の身体を水の入ったコップだとすると、身体の中の水にどういう波動が伝わるかで全然違うんじゃないかなとも思ったりします。
 クラシックやヒーリング音楽を聴いたり(私はロックも大好きなんですが・・・)、恨み言や不満を言うよりは楽しいことや嬉しいことのほうに気持ちを寄せてみたりして、心がどきどきして身体中の血が気持ちよく循環しているのを感じる時って、もしかしたら、身体の中の水の結晶が綺麗な形になっているのかもしれないなあ、なんて。。。
 よく、ネガティブな気持ちが病気を引き起こす、と言われますよね。一概にそう言いきれないケースも多いとは思いますが。
 もしかしたら、病気も、身体の中の水の綺麗さがある程度関係しているんじゃないかなあ、とも思います。病気が治りやすい人は、前向きな人が多いとも言われますが、ポジティブな気持ちがもしかしたら身体の中の水に影響を及ぼしているのではないでしょうか。
 
 ちょっと考えが飛躍しすぎですかね。。
 さぁ、どうなんでしょう。。今度風邪引いたとき、自分の身体で実験してみますね。
 
 
 


2003年03月15日(土) 書くということ。

 このサイトを作ったばかりの頃にもちらっと書いたのですが、実はプライベートで小説を書いてます。
 互いに切磋琢磨し合う仲間達や、作品を発表する場にも恵まれています。
 初めて物語らしきものを書いたのが小学4年生の時。それからずっと、程度の差はあれども、自分は一生書くという行為をやめないだろうと漠然とですが感じてきました。

 私はけっして饒舌ではありません。むしろその逆で、口下手なほう。・・・と言うと、普段私と接している人達は笑うかもしれません。どっちかというと社交的に思われるみたいだし、実際人前ではおしゃべりだし、誰とでも気軽に話すことができることはできるから。
 でも、ほんとは、話すのはあまり得意ではありません。口を動かしながら、頭の中では、自分が言いたいことが相手に上手く伝えられないことにいつも焦りを感じています。まず、言葉の順序が滅茶苦茶になってしまうし、主語と述語がよく逆になるし、ひとこと言ってから慌てて他の言葉を付け足すことも多いです。そういった単純な語順のミスもあるけど、基本的に考えるのがトロいので、ホントに言いたかったことは、会話がとうに終わった後で、1人になって考えてるときにようやく浮かんだりして、自己嫌悪に陥ることもしばしばです。くだらない駄洒落はぽんぽん飛び出すのにね(笑)。あ、駄洒落なんか考えてるから肝心なことが浮かんでこないのかな(^^)
 
 しばらくブランクがあってから、物語を書くということを再び始めた20代の中頃になって、やっと、自分には話すということよりも書くということのほうが性に合っているのではないかと気がつきました。
 目の前にはいないけれど、読んでくれる相手を想定しながら、ゆっくり考えながら、ひとつひとつ言葉を選んでいく。言葉のつながりが生み出す新たな文章が、本当に自分の言いたいことを表現しているか、じっくり読み直す。。。さらには、書いているうちに脳が活性化されるのか、書いたものが生き物のように呼吸を始めて、最初は想像していなかった話の展開がどんどん生まれていくこともあったりして。
 喋るということはとても大切なことだと思います。ただ、私の場合、書くことのほうが、自分自身に一番近い自分を出していける貴重な手段になっています。

 とても遅筆なので、ひとつの短編小説を書き上げるのにも結構時間を掛けるほうです。そのくせ、一作品完成すると、気が抜けたり、自信がなくなったりして、次の作品を書き始めるまでにさらに時間がかかります(笑)。
 これじゃいけないとは思うんですが。。
 前回短編・・というか掌編小説を書き上げたのがもう半年以上前になります。その後、自分で書いたものを読んで、ずいぶん落ち込んでしまいました。物語という形にしようとするあまり、本当に自分の表現したいことを綺麗に押入れに押し込めてしまったよう。見栄えにこだわるあまり、子供の足に合わないぎゅうぎゅうの靴を履かせてしまった母親のような気分でした。
 それから何度か、気を取り直して次の作品に取り掛かったのですが、やっぱり自信を失くしてしまい、書き出しては投げての連続。。。
 
 実を言うと、このホームページを作ったのは、そんな自分が、書き続けるという行為をやめないための隠れ処としてです。
 小説を書く仲間達は、私のこのホームページの存在を知りません。
 別に隠す必要はないのでしょうが、小説が書けない状態で、偉そうに毎日日記を書いている自分って、ほんとは好きではありません。
 でも、何かしら書き続けていないと、自分が自分でなくなっていくような大きな不安があるのです。それが、小説であっても、日記であっても。
 こうして、目に見えない読み手の方を想定して、毎日ワンテーマを決めて日記を書くという行為が、小説を書くことへのリハビリにもなっています。
 
 最近、ようやく、次の作品に本気で取り掛かる気持ちになってきました。
 なんて書くと、どんな凄い作品なんだろうって思う人もいるかもしれませんが、私のレベルはたいしたレベルではありません。
 でも、自分の中で、ひとつの作品を超える何かが次の作品に含まれていれば、自分の書く力は着実に進歩しているのだなと実感できます。残念ながら、そういう満足感はなかなか得られないのですが。たぶん、それは、作品を書いている最中の心の充実度と比例するのかもしれません。書くということに対する心構えとも関係しているのかもしれません。
 
 小説を再び書きたいという気持ちになった要因は、他にもあるのですが、やはりここに毎日こうして日記を書き続けてきたことも大きいと思います。
 目の前にはいないけれど、毎日読んでくださる方々がいるということが、ホームページを始めた当初は予想できなかったほど、自分にとって大きな励みになっています。
 プロの作家ではない私が小説を書くというのは、ごくごくプライベートな行為ですが、こういう半パブリックな場所が自分に与えられていることにとても感謝しています。
 毎日読んでくださって、ほんとうにありがとう。。


2003年03月14日(金) そういう会話を大切にしたいと思います。

 せっかくの土曜日なのに、眠りすぎました。
 今頃になって昨日の分の日記をここに書いております(^^;)

 昨夜は年下の女友達と二人で、渋谷で遅くまで呑んでいました。
 滅多にカクテルなんか飲まない私ですが、メニューに「夜桜」という名前のカクテルを見つけ、日本酒ベースと書いてあるのにつられて頼んでみました。
 薄桃色のカクテルの中に、ぼうっと光る、氷の形をしたプラスティックの透明の箱が入っていて、それがグラスの内側からカクテルの液体を幻想的に浮かび上がらせています。透明の箱の中には電池が入っていて、なんとかそれを開けて中を見てみようといじくりまわしたんですが、箱はなかなか開かず、残念。ふと思ったんですが、あれって、例えば、前に飲んだ人が、本物の氷と間違えて口に入れてべろべろ舐めちゃったのを、水でさっと洗ってまた次のお客に出すってことも十分あり得るんですよね。いや、それが悪いというわけじゃなくて、そうしないと勿体ないとは思うんですが、ロマンティックな気分で飲んでるカクテルの中の物体が、前の人の口から出てきたものの使いまわしだとしたら、いと興醒め。それから、グラスを口につけたとたんに、漏電して唇がしびれちゃったりしても、あな恐ろし。
 まあそういうことはないとは思いますが。
 お酒は美味しかったですよ。

 昨日話していて思ったんですが。。
 年齢とか育った環境とか価値観とかに関係なく、どちらかが必要としている情報をどちらかが持っていて、ふとしたきっかけで共通の話題で盛り上がるというのって、とても面白いもんだなあと。普段会社や近所で毎日のように顔を合わせていても、表面的に共通する話題では(仕事とか、その日の出来事とか)はしょっちゅう盛り上がっていても、互いの中のそれぞれにもっともっと深いところにある様々な分野の事柄が、ちょっとした一言で表面に登場して、リンクし合って、そこからまた話題が広がっていくのって、いつもあることとは限らないし、不思議だし、わくわくする。
 欲しいと思った情報は、その人にとってちょうどいい時機にちゃんと手に入るもんだと思う。インスピレーションを与えてくれたり、アドバイスをくれたり、導いてくれる人が、必ず現れるものだと思う。本やインターネットでの情報もしかり。街の中を歩いていて飛び込んでくる話題でも同じ。自分のアンテナをちゃんと磨いておけば。。
 目の前に広がっていく新しい世界や情報を、全部鵜呑みにする必要はないと思う。人の言うことをすべて受け入れる必要もないと思う。取捨選択するのは自分であって、その積み重ねこそが、その人自身の足元にちゃんとした基盤を作るから、自分の判断力は最初から信頼していったほうがいいと思う。たぶん、必要な情報は、自分に判断力が備わったからこそ入ってくるもんだとも思うし。
 私の言葉の中から、彼女が1%でも2%でも拾い上げて、その後の自分の役に立ててもらえるなら嬉しいし、私も彼女の言葉の中から、ピンときたものを大切に頭の中にしまっておく。
 そういう関係は、年齢や性別や環境を問わず、スリリングで面白いもんだと思います。
 
 
 
 
 


2003年03月13日(木) 平和ってそんなに難しいものなの?

 平和って、そんなに実現が難しいものなの??

 イラクへの武力行使、ブッシュ大統領はまだやる気満々なんだね。
 これだけ国際世論が平和的解決を望むほうに盛り上がっているのに、相変わらず強気。フランスをはじめとする安保理の国々も武力行使に反対しているのに。
 アメリカ国内でも、武力ではなく、平和的解決に尽力するようにと世論が盛り上がっているのになあ。
 ブッシュ大統領、アル・カイーダ一掃に乗り出したついでにイラクにも矛先向けたけど、もう今更後に退けないっていう感じ。。自分で作り出した正義の論理にがんじがらめになってる感じ。
 
 イラクや北朝鮮の現政権が、国内外で不条理なことをしているのは確かだろうし、このまま放っておいたら危険な事態を生じかねないというのも分かるけど、だからって武力行使に出るのは短絡的としか思えないんだけど。
 交渉に交渉を重ねて時間をかけて平和的に解決していくことって、そんなに無駄な手段なんだろうか。
 じっくり腰を据えて交渉している間にもミサイル作ったり問題はいろいろ起こってくるだろうけど、武力でそれを阻止することは、相手の国民を危機にさらすことになってしまう。アメリカともあろう大国の大統領なら、自国だけでなくほかのすべての国々の国民の命をも尊重してくれる人であって欲しい。
 最近よく思うんだけど、これだけインターネットが発達して世界中が蜘蛛の巣状の情報網でつながったり、航空機であちこちの地域に行く時間が短縮されたりして、世界ってどんどん狭くなってきてると、自分の国の伝統や文化を大切にしながら、他の国々とのいろんな面でのコラボレーションが、ネットの力でどんどん生まれていくような気がする。たとえば平和運動みたいな、人類の誰もが望む普遍的で恒久的な世界のあり方を求めていく活動だって、この先国境なんて関係なしに展開していくと思う。そうなってくるとますます、人の命に国や人種や宗教の違いなんて関係なくなってくると思う。そういった場合、政治家に求められるのは事態を多角的に、さまざまな視野を駆使して対処できる姿勢であって、ブッシュ大統領のように柔軟性のまったくない政治家は状況をややこしくするだけのような気がする。。
 それから日本の内閣みたいに、とりあえず自国の利益のためにアメリカを支持する態度を示しておきながら、今みたいにアメリカとイギリスが孤立しそうな状況になってきたら急に不安を感じてトーンが低くなるような姿勢も、これからの国際社会じゃとうてい通用しない、っていうか、もう相手にされないと思う。
 まあ、小泉首相は靖国問題をはじめいろんな問題でも、世論なんかぜんぜん興味ないみたいだから、国内での平和を望む声が聞こえてない可能性は大きいけど。
 恥ずかしいよね。
 日本は、過去の戦争の当事者だったのに、歴史を教訓としてまったく活かしきれてない。活かそうとしていない。
 こういう状況の時に、平和的な解決に向けて国際政治の上で活躍してもいいくらいなのにね。
 
 今日はちょっと辛らつです。偉そうにすいません。
 


2003年03月12日(水) 犯罪都市

 先日会社で駄洒落を言っているうちに、キラー・カーンの名前が出てきて、「誰だったっけ?」と思いネットで調べたら、そうそう、私が子供の頃活躍してたプロレスラーでした。てっきりモンゴルか中東の方かと思ってたんですが。
 今日コンビニで雑誌「ターザン」を立ち読みしてたら、偶然にもキラー・カーンについて書いてあった。
 !?キラー・カーンって、新潟県人だったんだね!
 し、知らなかった。。。
 しかも西蒲原郡出身だ。私も子供の頃住んだことがあります。
 新潟県出身のプロレスラーは、ジャイアント馬場さんしか知らなかった。
 というわけで、キラー・カーンのことが急に好きになりました。もうとっくの昔に引退しちゃってるけど。
 ちなみに小学生の頃は、ドリーとテリーのファンク兄弟が好きだった。
 特に弟のテリーのほう。
 今思い返すと、ファンク兄弟より、悪役だったブッチャーのほうがいい味出してたかも。でもすぐ凶器出して流血沙汰になるから、夕ご飯食べながら見てて家族みんな気持ち悪くなって、しょっちゅうチャンネル変えてた。あの頃はまだリモコンなんてなかったから、チャンネルつまみをがちゃがちゃ回して、画面が変わるたびに「止めろ」とか「そこはだめ」とか大騒ぎしてたな。

 。。。話は変わりますが。
 昨夜親友が「ひったくり」被害に遭ってしまったそうです。
 不幸中の幸いというか、怪我はなく、お財布や携帯電話は無事だったとのことですが、奪われたバッグにはほかに大切なものも入っていたようで。。
 そうですよね、怪我がなかったとはいえ、精神的な被害ははたで見るより大きいですよね。
 東京って、やっぱり住みづらい場所だなあって思う。
 上京して1人暮らし始めてからずっと、日中在宅しててもアパートの鍵はしっかりかけてるし、帰宅したときは、アパートに入っていくのを知らない人に見られないように周囲に目を配ってからアパートに入るようにしています。加えて、道を歩くときは、時々振り返ってどんな人が自分の後ろを歩いているか確認します。怪しげな男の人だったら、疑うようで申し訳ないけど、道の反対側に移動するか速足で遠ざかるか、こっちが足を止めて先に歩いてもらうようにします。
 妹が昔東京でスリ被害に遭ったこともあるし、友達の家も空き巣に入られてるし、私も夜帰宅する時、自宅の近くで警備にあたってたおまわりさんに「ここは最近危ないから」と注意されたこともあります。だから、東京で暮らしている限り、神経質にならざるを得ないです。。
 こんな風にしないと暮らせない東京って。。。
 他にもっと危険な都市は、世界中に沢山あるのでしょうけれど。。
 
 でも、年末帰省したとき、中に家族が在宅しているにもかかわらず、実家の玄関の鍵もかけられていてちょっと驚きました。
 もう、田舎だから安全というわけにはいかないんですね。
 
 玄関のドアも、勝手口のドアも、家中すべての窓も開け放って、風の通り道を作ってあげるような暮らしって、もうできないのかなあ。
 人の心まで風通しが悪くなっていくような気がする。。

 


2003年03月11日(火) インコのイン子

 今日はちゃんと新宿までたどり着けました。
 寒かったですけど。。
 空には雲がなくて、空気も澄んでいたような気がしたのですが、いかんせん寒い寒い(@_@;)
 立ち止まると寒さが増すので、とにかく歩き続けましたです。。

 帷子川のタマちゃん問題。
 タマちゃんを北の海へ返してあげようとする動物保護団体と、あくまでタマちゃんの意思を尊重してあまり刺激しないようにそっとしておこうという人達との間で、タマちゃんが揺れ動いてますね。
 どっちがいいんだろう。。
 どっちもタマちゃんに対して愛情があって言ってることだから、双方の言い分ももっともだと思うんだけど。。
 
 小学6年の卒業式を前にして、当時クラスで飼っていたインコのイン子ちゃんを卒業にあたってどうするか、道徳の時間を何時間も使ってみんなで話し合ったことがあったなあ。。
 ずっと鳥かごで育ってきたのに、今更外に放してもちゃんと生きていけないから、誰かが自宅に連れ帰って世話をするべきだ、という意見と、このまま一生鳥かごの中に閉じ込めておくのは可哀相だし、みんな卒業してクラスはなくなるんだから、これを機に自然の中に羽ばたかせてあげようって意見で、クラスは真っ二つに分かれて、先生が「とことん話し合いなさい」と時間を沢山くれた。
 みんなくたくたになるまで話し合って、最終的に鳥かごから出してあげることになった。
 卒業式の日、式を終えてみんな教室に戻ってきて、窓際に集まってイン子の鳥かごを開けて、旅立つのを見守った。
 まだ寒い3月。イン子はなかなか鳥かごから出ようとしない。入り口が開け放たれたのに、それがどういうことか分かってないみたいだった。
 やっぱり放すのはやめようよ、と誰かが言ったとき、イン子は窓枠にちょこんと乗って、それから勢いよくぴょーんと青空に羽ばたいていった。
 みんなが窓から見守っている中、イン子は近くの木の中に落下して、一瞬ヒヤッとさせたけど、またすぐ、こんどは慎重によろめきながら、あっちこっちの木に移動しつつ、だんだん遠ざかって行った。
 鳥かごの中でずっと過保護に育てられてきたイン子を、いきなり自然の中に飛び込ませることは少々無茶だったかもしれないけど、あのまま小さな鳥かごの中に一生閉じ込めておくのはもっと可哀相な気がした。
 広い空を自由に飛びまわって、食べ物を探して、好きなものを食べて、いろんなものを見て、危ない目にあったり、どきどきしたり、わくわくしたり。。鳥かごの中と、自然の中、どちらが長生きできる場所かは分からないけど、たとえ短い一生でも、自分の意思で自分の人生生きられる喜びをイン子が得られるなら、それが一番いいのじゃないかと思った。それに、もしかしたらパートナーや友達に出会えるかもしれない。羽根があるなら羽根で行ける範囲まで行動できるのがイン子のほんとうの幸せじゃないかなって思った。

 あの日から20年経つけど、3月になるとイン子のこと、必ず思い出します。実を言うと、あの時飛び立たせてあげたのと、かごの中で守ってあげるののどちらが良かったのか、自分でもはっきり結論は出ていません。
 でも、よろよろしながら一生懸命羽ばたこうとするイン子の姿が見えなくなるまで、みんなで「がんばれ」って声援を送っていたあの時間が、青空とまだ芽の吹かない木々の枝と、イン子の黄色い小さな身体が、昨日のことのように頭の中にこびりついています。
 イン子の寿命はとうの昔に尽きているだろうけど、私の中のイン子はまだ生きていて、私はその小鳥にまだ声援を送っている。
 私の中のイン子は、まだ飛ぶのがかなり下手。。
 
 
 


2003年03月10日(月) スミズミまで綺麗に。。。

 歩くのが好きなのとダイエットも兼ねて、仕事が終わったら歩ける距離まで歩いて帰宅することにしました。
 といっても先日のような青山から杉並までといった強行軍はせいぜい週に1回程度に抑えて(帰るとぐったりなので)、会社のある青山から新宿まで歩き、そこから電車に乗ることを続けようと思います。
 実は先週、新宿に向かっていたつもりなのに、いつの間にか四ッ谷駅についてしまった。。。一度新宿までたどりついたことがあるくせに、また新しい道を開拓したくなって前回と違う道を行ったのが間違いのもと。私は方向音痴なんであります。
 で、今日こそは、と思い張り切って会社を出発した。が、何故か原宿に流れ着いてしまいました。なんであたし竹下通り歩いてるんだろーって、不思議に思いましたです(^^;)。
 明日から地図帳持って歩きます。。。

 自然食品のお店で、「竹炭豆」というお菓子を見つけて買ってきました。
 小麦粉の焼き菓子の中に落花生が入ってる、よく見かけるお菓子なんだけど、真っ黒なの。丹波の黒豆みたい。もしくはうさぎのウ○チみたいな。
 「竹炭の微粉末を大粒落花生に巻込みました」と袋に書いてあります。
 一袋300円でした。
 「古来から『炭を食べる』民間の療法を活かしました」とも書いてあります。
 昔、おこげには発がん性物質が含まれていると聞いたけど、炭なんか食べて大丈夫なのかなあ、と心配に。。。でも、炭が肌の老廃物を吸いつけてくれると聞いて炭石鹸使ってるし、水道水の中の有害な物質も吸い寄せて水を綺麗にしてくれるので、もうずっと炭を入れた水をやかんに常備してる。それから炭をご飯炊くときに炊飯器に1本入れてるし、たまに玄米炊くときに圧力鍋にも入れてます。そうやって2ヶ月ほど使った炭は、今度は籐のみかんカゴに入れて部屋の空気の浄化に役立ててます。。。。というわけで炭の好きな私はついつい買ってしまったのでした。
 竹炭の粉末が、胃腸の中の余計なものを吸い取って一緒に身体の外に排出してくれるそうな。もしかしたらダイエットになるかもしれない♪もしかしたらお肌が綺麗になるかもしれない♪さらにさらに、身体の中にマイナスイオンだ〜、なあんて思ったのでした。。
 で、帰宅して夕食後、早速袋を開けて食べてみる。
 お、おいしい♪
 1日5粒にしよう、と思っていたのが。。。
 気がつくと袋の中身半分減ってました。
 げげげ。
 これはいかん。
 手が止まらない味。
 やめられないとまらない。。。
 これではダイエットどころか、高カロリーな落花生のお陰で恐ろしいことに。。
 ちなみに袋にはこんな注意書きも書いてあります。
 「尚、多く食べられますと、便が黒くなります。」
 
 明日の朝が怖いです。
 
 ヤフーなどのサーチエンジンで「竹炭豆」で検索すると沢山でてきますよ。興味のある方はどうぞ。これはおすすめかも(^^)。


2003年03月09日(日) ホリスティック医学

 「バイブレーショナル・メディスン」(リチャード・ガーバー著、上野圭一訳)教文社、という本を読んでいます。
 
 幼児の頃、予防接種を受けてショック状態になり、あの世に行きかけたそうです(両親談)。
 それが原因かどうかは分かりませんが、予防接種のたびに具合が悪くなってしまいます。学校でインフルエンザやツベルクリンの注射があるたびに人一倍落ち込んでました。具合悪くなる可能性が予め分かっているので、大抵最後に注射してもらったり、ベッドに横になって打ってもらったこともあります。今考えるとちょっと怖いことだけど、私の子供の頃はまだアレルギーを抱えてる子供に対しての理解が一般的でなかったような気がするし、1人だけ注射を受けないということに対する抵抗感もあったため、いつも不安を抱えながら予防接種の列に並んでいました。加えて何回も転校したため、校医さんや先生にそのたびに事情を説明しなければならず、話した内容の受け取り方も相手の認識もまちまちだったのでちょっと大変でした。校医さんに「大丈夫、たいして強くない注射だから」と言われ注射を打ってもらうと、数分後に真っ青な顔をして保健室のベッドに寝かせられていて、傍らでさっきの校医さんがこれまた青い顔をして私の腕にバンドを巻いて血圧を測っている、ということが何度もありました。
 きっかけは予防接種の薬物なのかもしれませんが、どうやら注射自体も身体が受け付けないらしく、歯科の麻酔も事情を話して量を加減して少しずつ打ってもらいます。麻酔事故があってはならないと先生も恐る恐るという感じなので、いつも申し訳ないと思ってしまいます。。
 さらには、血液検査の時の注射も駄目だったりして。情けない話なんですが、どうやら肌に針を刺すと反射的に具合が悪くなって貧血を起こしてしまうらしいです。
 そんなわけで、注射の時に具合が悪くなるのは精神的な問題だからどういう心構えでいたら倒れずに済むか、ということを真剣に考えたりしてました。翌日の楽しいイベントのことに頭を集中させたり、とにかく一生懸命空想の世界に飛んで行ったり(笑)、ほんと苦労しましたです。。
 でも、注射打たれたすぐ後に「今回は大丈夫だ」って確信しても、数分後にはやっぱりへなへなとなってしまう。
 そんな経緯から、いつしか、自分の身体と気持ちの密接なつながりに興味を持つようになりました。
 また、注射以外にも、抗生物質などの薬の中にも自分の身体に合わないものがあって、風邪薬で動悸が激しくなったりすることもあるので、現代医学を過信しないで自分の身体のことをある程度自分で守れるようにしないといけないなあ、なんて思うようになりました。
 
 「ホリスティック医学」という言葉があります。
 「ホリスティック」とは、ギリシア語から派生した言葉で、「全体の」とか「つながりのある」といった意味合いがあるそうです。
 「ホリスティック医学」というのは、簡単に言えば、単なる物質としての身体だけではなく、心、さらにはその人の霊性までをも含めて全体的に捉えていこうとする医学のことです。霊性というと心霊とか幽霊とかそういった方向に思われるかもしれませんが、そういう意味ではなく、人の存在の根源的なもの、と言ったらよいでしょうか、心の動きのように表面的にも自分で簡単に分かるものではなく、もっともっと深いところにあるものかと思います(私には上手く説明できないのですが)。現代医学だと、例えば病院でも内科、胃腸科、泌尿器科、眼科・・・等々、身体のパーツごとに診療科が分かれてますよね。さらには精神科、脳外科、心療内科も別個。それぞれにおいて精密機器による検査や治療。薬物投与。主に西洋医学に基盤を置いたやり方。
 もちろん、現代医学を否定するわけではありません。これはこれで大切だし、非常に有効な技術だと思います。ただ、「ホリスティック医学」というのはこういった西洋医学に根ざした現代医療とはちょっと違って、身体をパーツで捉えるのではなく、心や霊性といった一見目には見えないような部分とのつながりを含めて、また人間の自然治癒力をも重視しながらトータルに考えていこうとする立場にあります。
 身体中にある経絡を利用した鍼治療とか、インドのアーユルヴェーダ、今女性に人気の植物の精油を利用したアロマテラピー、リフレクソロジー、それから昔からある民間療法、また最近では「野口整体」も注目されてますよね。さらにはカウンセリングを中心に心理的な部分に不調の原因を探っていく心理療法とか、前世療法(これについては私は少し疑問があるのですが、一定の成果を上げていることは確かなようです)。クリスタルやフラワーレメディ(植物のエネルギーを水に転写したもの)やイルカなどによるいわゆるヒーリングと呼ばれるものもこのホリスティック医学に入ります。他にも沢山の治療法があるようです。。
 中には効果の怪しいものもあるだろうし、「プラシーボ効果」もあるようです。知識がないのに利用するとかえって危険なものもあると思います。一口に「ホリスティック医療」と言ってもとても沢山の種類が含まれます。
 なんかだらだらと書いてしまいましたが。。。
 
 自分の身体と心のつながりを考えているうちに、現代西洋医学と、伝統医学に根ざしたまたは影響を受けた「ホリスティック医学」の両方を、バランスよく組み合わせて利用したほうがいいかなあ、と思うようになりました。
 と言っても、現代西洋医学で自分に合わないものがあるのと同様に、ホリスティックな医療でも自分に合わないものもあるだろうし、手放しで受け入れるわけにはいかないものも多いと思います。飲み薬や病院を選ぶのと同様に、自分の目できちんと慎重に選んで利用しなければならないとも思います。人によって向き不向きもあるでしょうし。
 現代西洋医学では治らない、また原因不明といわれる身体の不調も、ホリスティック医学で解決できるケースも多いようです。当然逆もありますが。

 ホリスティック医学の入門的な著書としては、
 「癒す心、治る力」(アンドルー・ワイル著 上野圭一訳)角川書店
 「いのちの輝き」ロバート・C・フルフォード&ジーン・ストーン著 上野圭一訳)翔泳社
 が分かりやすくておすすめかと思います。
 
 冒頭に挙げた「バイブレーショナル・メディスン」は、情報量は多いのですが、その中のどれを肯定するかは読み手によってはっきり分かれるかも。


2003年03月08日(土) 山本達彦さんの音楽

 山本達彦さんのアルバムを繰り返し聴いています。
 
 中・高生の頃、私にとって「山達」といえば、山下達郎さんではなく、山本達彦さんでした(^^)友達が「山達」の話をしている中に私が入ると話がこんがらがった(笑)。
 初めて彼の音楽を耳にしたのはたしか小学6年生の時。
 誕生日に買ってもらったラジカセで毎日のようにFMを聞いていて、たまたまリクエストでかかった曲を耳にしていっぺんに好きになってしまいました。「摩天楼ブルース」というバラード。
 その頃デュラン・デュランやTOTOにも夢中になり始めてたけど、実は一番聴く時間が多かったのは山本達彦さんだったかも。
 おこづかいを貯めて初めて買ったLP(当時はLPだった!)は彼の「MUSIC」というアルバム。発売日に町のレコードやさんに飛んで行って大事に抱えて帰ってきたなあ(そういえばCDって大事に抱えて帰ってくるって感じじゃないよね)。今でも実家には、ブライアン・アダムスやU2のLPと一緒に、山本達彦さんのLPが何枚か残っているはず。。。レコードプレーヤーがないけど。毎日毎日それこそレコード擦り切れるほど聴いてて、あんまり音楽ばっかり聴いてるもんだから父にぶん殴られちゃったことも(笑)。それくらい好きだったんだけど、周りに山本達彦ファンは皆無で、ちょっと寂しかったです。でも、その分自分だけの宝物みたいなアーティストでした。
 でも、中学卒業、高校と進むにつれ、次第に洋物のロックに夢中になってしまって、いつのまにか山本達彦さんを聴かなくなってしまいました。
 
 大人になって東京で暮らすようになって、ある時ふと、CD屋さん(レコード屋さんでなくてCD屋さんになっちゃいましたね)の日本のアーティストの棚の前で懐かしい名前を見つけて1枚手にとったのがきっかけで、また山本達彦さんの音楽を聴くようになりました。
 といっても、聴くのはもっぱら私が10代だった80年代の曲ばかり。
 小中学生の頃、飽くことなく何百回も繰り返し聴いたものを、30代の今、また聴いてます。
 自分でもよく飽きないもんだなあと思うけど、彼の音楽って、ほんとに古くならないような気がする。。これは好きなアーティストだから贔屓目に見てるのかもしれませんが。
 
 ほとんどを自分で作曲し、ピアノを弾き、シルキーだけど甘すぎない優しい声で語るように歌うアーティストです。特にバラードはどれも聴いててじーんとくる曲ばかり。「摩天楼ブルース」「夜を抱きしめて」「神の消えた島」「STAY INNOCENT」「変わらぬ心」。。。今傍らでかけているアルバムがバラードばかりを集めたものなので、さっきからもうじーんじーんじーんってなってます。
 小学生の時から20年経ってもしんみり聴ける曲って、よく考えたら凄いですよね。でも、10代の頃と今では、歌詞に入り込む角度が全然違ってると思います。以前はメロディのほうに重点が行ってたけど、今は歌詞もじっくり心に入ってきます。山本達彦さんはあまり作詞はしないので売野雅勇さんや吉元由美さん、杉山政美さんといった売れっ子の作詞家の方達が詞を提供してるのですが、山本達彦さんの作曲ととても雰囲気が合っていて、どれも聴き応えのある曲ばかり。。
 私が彼の曲で一番好きなのは「紫陽花」という曲です。
 メロディも、歌詞も大好き。
 もう何千回聴いたか分からない。
 何千回、口ずさんだか分からない。
 。。。この歌にどれだけ勇気付けられ、心を癒してもらったか、分からない。
 それから、いつか、この歌詞のように生きている人と出会えたら・・・って思っています。

 ロマンティックな外見から、かつては「シティポップスの貴公子」なんて呼ばれてて、私はそれが嫌だったんだけど、テレビには滅多に出演しなかったし、自分の創作ペースを守り続けている堅実な姿勢も好きです。
 
 今度ライブに行ってみようかなあ。
 と思って調べたら、職場の近くのライブハウスでよくライブやってるらしいです。これは行かないわけにはいかないでしょう(^^;)
 
 ちなみに、山本達彦さん、すでに50歳近くです。
 うわー、そうでっか。。
 でも、ぜんぜん変わらない。
 外見も、歌声も、曲のイメージも、20年前とほとんど変わらない。
 これって、よく考えたら凄いことですよね、やっぱり。
 聴くほうはかなり変わったけど。。。
 まだ恋愛とか都会とかぜんぜん知らない頃、彼の歌から勝手に想像してときめいていたおませな少女は、今では焼き鳥とポン酒が好きな色気皆無のおばはん10歩手前(あくまでまだ10歩手前です)。でも山本達彦さんは変わってない。ほんとに凄い。
 彼を紹介したサイトです。
 http://www.warp-on-web.com/
 それから最近のアルバムがここで視聴できます。
 「紫陽花」も聴けます。
 http://www.cdjournal.com/indies/label/062.html
 
 今夜はもうしばらく彼のバラードに浸かってます。
 
 


2003年03月07日(金) カフェにて。

 時々、夕ご飯を外で済ませて、自宅近くの商店街の中にあるカフェのチェーン店で本を読みます。
 150円のコーヒーで2〜3時間居座る(笑)。
 店内がわりと広くてそう混んでないのでそんなわがままも許されるのです。
 半ば自分の第二の部屋と化してます。
 私と同じように読書してる人結構多いので、とても居心地がよいのです。
 BGMも静かで邪魔にならないし。

 周囲の会話もほとんど耳に入らないんだけど、時々ふと、本のページの上の文字を追うより、会話を追ってしまうこともあります。
 今日、隣のテーブルで話してた私と同じくらいの年代の男性二人組。
 どうやら今流行の「裏原」(裏原宿)系のお店の店長とデザイナー??
 ついつい聞き入ってしまう。。
 誰でも人生10年に1回は転機が訪れるんだって。
 その転機をどう活かすかは本人次第なんだって。。
 
 うん、そうだよなあ、って心の中で思った。
 
 たぶんほんとに誰にでも10年に1回は転機が訪れるんだと思う。
 でも、転機が訪れているのに気づかずに見過ごしてしまう人も多いのかも。。今が転機だって思うか否かは自分次第なのかな。

 って、そんな風に考えながら、本を読む振りして聞いてた。。
 いい話、聞かせてもらってありがと。


2003年03月06日(木) 桜の樹の痛み。

 桜が大好きです。

 気象庁の予想によると、桜の開花は今年も例年より早めになるらしいですね。東京は26日だとか。あと約3週間かぁ。
 でも、桜の樹の下を通りかかると、どこからともなく萌えるような香りがしてきませんか?裸の枝の先のほうで、沢山のつぼみが薄緑に色づいてきて、柔らかく膨らんできています。この時季まだ冬の冷え込みは残っているけれど、植物は着実に春の訪れに間に合うように準備を始めているようです。。
 染色家の志村ふくみさん曰く、美しい薄桃色を染色で出すには、桜の花びらではなく、花が咲く直前の桜の樹の皮を使うそうです。花びらで染めようとしても茶色になってしまうとのこと。すでに開いて移ろいゆくばかりの花ではなく、開花直前の樹の皮を剥いで煮出してそれで布を染めると、えもいわれぬような美しい桜色が生まれるそうです。。
 開花に向けて、表面では見えない樹の内部で、春の息吹の胎動が始まっているのですね。私達が目にする桜の花の色は、実はほんの一部分に過ぎないのですね。ほんとうは桜の樹全体があの妖艶な花の色をしているのだと思うと、桜の樹のけなげさひたむきさに圧倒される思いがします。
 
 今日本の平地にある桜のほとんどを占めるソメイヨシノは、江戸時代の終わりごろにオオシマザクラとエドヒガンの自然交配によって生まれた新しい品種だそうです。それが、花つきのよさや育てやすさから日本のあちこちに植えられるようになったとのこと。だから、西行や藤原定家の見た桜と私達が今目にするほとんどの桜は、全然違うんですね。
 ちなみに、ソメイヨシノは寿命が他の桜より短く、60年ほどだそうです。日本人の平均寿命より短いんですね。

 3年ほど前の4月の初めのこと。
 自宅の近所に空き地があって、草ぼうぼうの一角に、大きなソメイヨシノの樹がありました。
 毎年美しい花を沢山咲かせて、花の時季になると辺り一面の空気をその樹一本だけで変えてしまうほど存在感がありました。
 まだ寒さの残る朝も、仕事を終えて帰宅する夜の暗闇の中でも、空き地の中にぽつんと立つその桜の樹を見るとなんだかほっとして嬉しくなって、そばを通るのが楽しみでした。特に夜、暗い中でぼうっと浮き上がるような満開の花がとても幻想的で、このまま散らずに永遠に咲いていてくれればいいのに、って何度思ったことか。
 ところが、ある夜その空き地の脇を通りかかって、自分の目を疑いました。
 愕然としました。
 桜の樹が、根こそぎ倒されていたのです。
 その朝通ったときは、いよいよ花が満開になったなあと思って見ていたのに。
 大きな大きな桜の樹、花も満開だったのに。
 空き地には重機が入って、辺りの土も掘り起こされていました。。
 
 たった60年しか生きられない桜の樹を、どうしてわざわざ切り倒してしまったんでしょう。
 しかも厳しい冬の寒さに耐えて、ようやく満開の花を咲かせることが出来たその矢先に。
 せめて花が散り終わるまで待てなかったのか。
 人間とは、こうも非情で傲慢な生き物なのか。
 その時の怒りは今も忘れることは出来ません。
 
 空き地はあっという間にアスファルトで覆われて、駐車場になりました。
 ・・・駐車場にするなら、せめて桜の樹1本分のスペースを残して置いてあげること位出来ただろうに。
 桜の命を救うよりも、車1台分の駐車場代のほうが惜しかったのか。
 
 私の勝手な持論ですが、植物はひとつところに長く根付いている分、土地に残す残留思念のようなものが強く長く続くと思います。
 あれから3年経ったけれど、今でも駐車場のそばを通ると、あの桜の樹の痛みがそこに残っているような気がします。
 春が近づくと、アスファルトの上に満開の桜の樹の幻が浮かぶような気がします。
 
 
 
 


2003年03月05日(水) お疲れ様です。

 いやー眠いです。
 睡眠時間が少ないせいもあるけど、とにかくすぐ眠くなります。
 仕事中も眠い。
 会議中も眠い。
 濃い目のコーヒーと眠気覚ましガムを持って会議に臨んだのに、案の定すぐ睡魔が。。。(^^;)
 目の前の書類に眼を落としながら瞼も落ちてしまいました。
 時々はっと眼が覚める。
 ガムを一生懸命噛み噛みする。
 また瞼が重くナ〜ル。
 ・・・ふと周囲を見回すと、自分と同じような状態の人がちらほらと。。
 人が苦しんでいる様子を見ると、面白くなって眼が覚めてしまふ。
 あたしってなんて意地悪な性格なんでしょーか。

 帰りの電車でも爆睡してしまいました。
 今度は船を漕いだらしいです。
 
 そういえば、昨日観てもらった占い師さんが、私の手相を観て「あなたすごく疲れてるでしょう?」と言われたなあ。
 確かに疲れてるけど、今に始まったことでもないです。
 思えば大人になってからこのかた疲れてない時ってなかったのでは??
 というか、私だけでなく、今の日本人はみんないつでも疲れているような気がするんですが。。
 私なんかまだ軽いほうですよね。
 自分の生活の心配だけしてればいいお気楽な身分だし。
 なんか電車に乗ってても、会社にいても、どこに行っても、疲れた大人ばかり。身体も心も落ち着くことなくいつも何かしら不安を抱えて、何かしらやりかけの仕事を抱えて。
 一週間働いてやっと週末が来て休んでも、心から開放感を味わうことって少ないような気がする。
 中には休むこともできずに働き続ける人も。
 疲れがない状態ってどんな感覚なのかさえ忘れちゃったなあ。


2003年03月04日(火) 占いしてもらったじょー

 生まれて初めて占い師さんに占いしてもらいました。
 
 仕事終えて東京駅のほうまで行き、用事を済ませたら急にラーメン食べたくなって八重洲の地下街をうろついてたら、占いコーナーがあって、いつもなら気にも留めずに素通りするんだけど、占い師さん達がにこにこしてこちらを見ていたのでついついふらふらと・・・(笑)。
 実はタロット占いをたまにやります。
 中学生の頃だったか、お菓子の景品でタロットカードが当たったのがきっかけで始めました。ちょっとブランクがあったけど、大人になってからまたやってます。占いが、というより、タロットカードの図象そのものが好きなんですね。古今東西を問わず、人間の深層心理にあるシンボリックな図象を、いろんなアーティストが自分のインスピレーションを加味して一枚一枚のカードに仕上げている、その神秘性が好きです。好きな絵のタロットカードをめくったり眺めたりしているととても気持ちがいいです。少しずつ買い求めて、今13種類ほど持っています。まだ欲しいカードはあるけど、もうあんまり買わないつもり。。全部を使いこなせないから。
 自分で占いをするけれど、あんまり占いに凝ったりしないほうです。
 女性誌の占い特集号は滅多に買わないし、雑誌の占いページもいちいち見ない(っていうか、女性誌滅多に買わない)、テレビ見ないから朝の占いも見てないし。
 そもそも、占いの結果を気にしてしまいそうな性格だから、やたらめったら占ってもらわないようにしてます。占いで自分の行動を決めるのも好きじゃないし。自分で占うときは、気持ちに余裕のある時に、遊びのつもりでやります。切羽詰ったときはやらない。占いの結果に「ふうん」って余裕かましてられるような精神状態の時だけやります。しかも占い方はかなり自己流(笑)。
 以前テレビで、ある占い師さんの家庭の様子を放送していて、朝旦那さんの出勤前に占い師である奥さんが占いをしてその日の服装やら、食事内容を占いで決めていたのを見て、ぞっとしました。・・・そんなことまで占いに頼りたくはないですよね〜。
 。。話横道に逸れました、すいません。
 こんな私でも、最近何人かの友達が、「プロの占い師さんに見てもらってるよ〜」と言うのを聞いて、一度占ってもらいたいなあ、なんて思い始めてたのです。沢山の人を観ているプロの占い師さんに客観的に観てもらいたいっていう気がしてきたのです。今自分が立っている場所が気になったりもしているので。。
 そんな風に考えている矢先だったので、今日は目の合った占い師さんの前に恐る恐る座ったのでありました。
 
 料金と占い師さんの顔を確認して座ってから、はて、この占い師さんは一体何の占いをするのだったかいな、と思ったら、「四柱推命」と「手相」でした。まず、小さな紙に生年月日と名前と住んでいる区と職業を書いて、占ってもらいたいテーマを言います。・・・あ、ラーメン食べたくてうろうろしてたから、占ってもらいたいテーマなんて深く考えてなかった。。ということで、恋愛を中心とした総合運をお願いしました。
 四柱推命でいうと、私は長女星と長男星両方持っていて、あとひとつ男性を表わす星もあるそうです。なので、とっても心優しく(自分で言ってスイマセン)世話好きな長女らしいところもある一方、男っぽい部分も多くて、一度自分で決めたことは何が何でもやらないと気がすまないらしい。。顔に似合わずかなり気が強くて粘り強い性格とのことです。当たってるような気がしないでもない。。で、去年が後厄で大殺界で、今年と来年はとてもよいらしいです。特に来年結婚運が最高らしい。その次の年になると八方塞がりになるから、来年絶対結婚したほうがいいわよ、と言われました。えー、そりゃ早過ぎますですよ。まだ心の準備が整っておりませんもの。せめて2年後がいい。。だいいち相手はどこにおるんでせう(笑)。ちなみにパートナーとなる人は、私が男っぽい分、とっても温和で優しい人だとのこと。相性として最高なのは丑か蛇年の人なんだって。ふぅん・・・「心当たりない」と言ったらそれ以外の人でももちろん大丈夫よということでした。ほっ。で、結婚すると、どちらかのご先祖様の面倒をみることになるそうです。これは具体的にはどういうことかな?よく分からないけど、まあそのうち分かるでしょう。。あとは身体に関して、喉と消化器系が弱いでしょうと指摘されました。そうですな。実は以前甲状腺の検査に引っかかって精密検査になり、ここが弱点なので定期的にちゃんと検査を受けるようにと言われました。喉と気管支は風邪を引くと一番最初にやられます。お腹も弱いしね。当たってますなー。
 次は手相。すっごくいい手相をしていると褒められましたよん♪
 運命線も頭脳線も感情線も生命線もはっきり綺麗に伸びてるそうです。長生きするって〜。とっても愛情豊かで財運もあるらしい。ほほほ。今は財運ないですけど(実感)。
 あと、初めて聞いたのですが、両手に神秘十字というのがあるそうな。これがあるということはあなた直感力があるでしょー、と聞かれました。あーわりとそうかもしれないですな。地震予知できるもん(寝ているときだけ・笑)。宝くじは当たったためしありませんが。
 それから親指を初めとしてあちこちの指の第一関節に、仏心紋といわれる相が出ているそうです(以前これを仏眼相と言われたことがあるけど同じかな?)。これがある人はご先祖様に守られているんだって。
あ、なんか心当たりあったりする(^^;)バアちゃんの写真たまには綺麗に拭いてあげないとね。。
 占い師さん、60前後位のベテランという感じの女性で、とても温和な方でした。私の手相、とっても良いらしくて、何度も手のひらすりすりしてくれました(^^)。これまで素人の方が遊びで見てくれて「結婚が遅い〜!!」「縁遠い〜!!」「ここで病気する〜」なんて脅されたことしかなかったので、すんごく嬉しかったですよ。
 20分位観ていただいて、3,000円でした。
 これが安いか高いかと考えると。。。
 私の場合はその後気持ちよくなってるんるん鼻歌歌いながらラーメン食べるのも忘れて電車に乗って帰ってきちゃったくらいだから、安いものだと思いました。
 るんるん♪
 

 
 
 


2003年03月03日(月) お雛様と五円玉

 ひな祭りでしたね。
 
 昨年知り合いの方から作っていただいたちりめんの小さなお雛様、職場の机の上のお菓子の空き缶にしまっておいたのを先月出して、ちょこんと飾っていました。
 今朝同僚と話していて、冗談半分に「今日ちゃんと片付けなきゃ、忘れちゃうから午前中のうちにしまわなきゃ」なんて話していたのに、言ったそばから忘れて、とうとうお雛様を出しっぱなしにして帰ってきたのに気づいたのは、帰宅してだいぶたってからでした(笑)。
 早く(もう十分早くないけどね)結婚したいわけじゃないけど、縁遠くなるのは嫌だもん。

 今年の初詣に行ったとき、毎年入る参道の蕎麦屋さんの入り口のドアの前に、五円玉が落ちていました。
 どんどん降り積もっていく雪の下に隠れそうになっていたのを拾って、コートのポケットに入れました。
 今でもそれは大切にとってあります。
 その五円玉を拾ったとき、ふと、あ、今年は何かありそうだな、って思ったのでした。。

 結婚という形に特にこだわってはいないのですが、ご縁はほしいです。
 結婚式や、ウェディングドレスや、結婚指輪には興味はない、っていうか、そんな面倒くさいことはしたくないです(そう思う時点でもう縁遠いのかも・笑)。
 ただ、本当に心から一緒にいたい人と、小さな住まいでささやかな食卓を囲み、寝起きして、会話して、小さな菜園を作って暮らせればそれであとは何もいらないです。
 相手の考えていることに互いに興味を持ち、尊敬し合えて、一緒に内面を成長させていく毎日があれば、それで十分満足です。
 そして、周囲の人達とも、愛情あふれる交流ができれば、それが最高です。

 結構のほほんとしているように見えるのですが、本当にのほほ〜んとしています。
 いずれはそういう相手にめぐり合えるだろうと思って鷹揚に構えています。
 でも、構えているのと待っているのとは違います。
 いざ、ピンとくる出会いがあったら、自分から動かなければ意味がないと思っています。
 


2003年03月02日(日) シンクロニシティ

 シンクロニシティ。
 まるで何らかの意味があるかのように起こる偶然。
 
 偶然のように思えるけど、それはもしかしたら自分に対する何らかのメッセージを含んでいるのかもしれない、という気がする出来事って、たまにありますよね。
 例えば前日夢の中に出てきた人と翌日偶然会う、電話をかけようと思った相手から電話がかかってくる、本屋で手にした一冊の本を開いたら、偶然そのページに今悩んでいることに対するアドバイスが書かれていた・・・みたいな。。
 子供の頃は、そういう偶然があっても「不思議だねー、こんなこともあるんだねー」で終わっていたのですが、今はそれはただの偶然ではなく自分にとって必然なのではないか、と思うようにしています。
 世の中には不思議なことも沢山あるけど、その中にはちゃんと意味をなすものもあって、そこから重要なメッセージを受け取ることができるかどうかは自分次第かなあ、って思っています。そうなると不思議は不思議ではなくて、自分の人生における道路標識的なものかもしれないです。。
 
 数年前、アルバイト先を探しているとき、あるお店に惹き付けられて足が止まり、時給等の待遇がさほど良くないにもかかわらず働くことを決めてしまいました。自分でもどうしてか分からなかったのですが、とにかくしばらくこのお店で働いてみよう、と思ったのです。
 数日後、そのお店で働いているある女性と何気ない会話をしている時、互いの両親の実家の話になり、親の旧姓などやけに共通点が多いねと笑いながら話しているうちに、親同士の実家が1軒おいた近所だったことが分かりました。「?」と思ってそれぞれの親に確認したところ、彼女と私は血のつながった親戚同士だったのです。彼女は山陰地方で育ち、私は新潟県内で育ち、互いの接点は夏休みに行く佐渡の祖父母の家だったのですが、祖父母の家がそんなに近所だったにもかかわらず、顔を合わせたことがなかったので、東京で出会っても最初はまさか親戚同士だとは分からなかったのです。
 もし私がその店で働かなかったら、もし彼女とプライベートな話をしなかったら、互いの血がつながってるなんて最後まで知らずに働いてたんだと思うと、なんだかとても不思議な感じでした。
 その時、ご先祖さまってほんとに私達のことを見ているんだ、って実感しました。それぞれ地方から1人で出てきて暮らしてるので、心配したご先祖さまが同じ血縁同士、引き合わせたのかなあって、本気で思いました。笑う方もいるかもしれませんね。。
 でも、偶然が重なり合って、それが誰かとの出会いにつながるとき、その縁はもう偶然ではなくて、自分にとって意味のある必然なんじゃないかと思うのです。。
 そして、そういう出会いや出来事が自分の歩いていく先にぽつんぽつんと起こっている時、自分の進んでいる道は間違ってはいないんだな、っていう自信がもてるのです。
 ほんの小さな小さな自信ですが。。

 「シンクロニシティ」(F.D.ピート著/管啓次郎訳)朝日出版社1989年
 (サンマーク文庫からも出ているようです)
 。。。なかなか興味深い内容だと思います。
 


2003年03月01日(土) 手紙

 昨日今日と2日続けて丁寧なお手紙を受け取りました。
 
 昨日は手で書かれた手紙の良さを教えてくれた女友達。
 今日は旅先で出会い、示唆に富む話を聞かせてくれた方。
 
 手紙ってやっぱりいいものですね。
 リアルタイムで気持ちを伝えられるメールも便利だけど、手紙のよさはメールや電話とはまた違ったところにあるんだと思いました。
 手紙を下さった二人とも、私よりいくつも年上で、とても忙しいはずなのに、丁寧な字で気持ちのこもった文章を綴ってくださって、読んでいると自分の心が穏やかさで満たされていくのを感じます。
 メールと違って、手紙は書いた人のいる空間の一部も切り取って運んでくるのですね。
 封を開けた瞬間に、ほのかな香がする。
 自分も好きだからそれが何の香かすぐ分かる。
 その方が手紙をしたためて、便箋を折り、封をする瞬間が目の前に見えるようです。
 メールや電話に馴れてしまうと、手紙って面倒くさいんですよね。
 書こうと思っても便箋や封筒や切手が傍らにないことも多いし、封をして、ポストに入れるまでの間に時間がたって出しそびれてしまうことも。
 だからこそ、相手がその面倒なプロセスを自分への手紙に費やしてくれると思うと、とても嬉しくなってしまう。。。
 元来筆不精の私。
 書かなくては、と思いつつ、時間を逃して(ほんとうは怠慢なだけですね)延ばし延ばしにしてしまうことが多い。。なんて失礼な人間なんでしょう。
 手紙を待つ側のわくわくする気持ち。
 封を開け、便箋の上の手書きの文字をひとつひとつ丁寧に追っていく嬉しい瞬間の積み重ね。
 何百キロも離れた土地の、なかなか会う機会のない人の住む土地の匂い、その人の周りの空気の匂い。
 自分のために選んでくれた記念切手。
 自分がそんな喜びを感じることができたなら、相手にも同じ喜びを感じて欲しい。
 三十代にして、ようやくそのことに気づいた私です。
 毎日の習慣として手紙を書く時間も作ろうと思います。
 
 


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