ルルが治療の痛さから逃れるようにぼくの指を咬んだのが土曜日。 傷は右中指の腹側と左人差し指の腹と爪の横の3カ所。 消毒して市販の傷薬で処置し、包帯を替えながら連休を過ごしたのだけれど、一カ所だけがまったく治まらず逆に傷口がひろがりだしました。
これはまずい、ということで旧五番町(「夕霧楼」の舞台になった場所)近くの外科医へ。 老先生、経口の抗生物質で様子を見るかどうか迷ったあげく、切開することを決定。その場で処置してもらいました。
傷口は深く、先生曰く「切開して正解。こんなに深かったら薬では治らんよ」。 膿やら傷んだ組織を掃除し、傷口にガーゼを挟んで包帯で留められた。
猫による傷はよく洗浄し、「開放」しておかねばならないのだとか。 脱脂綿やらガーゼで無理矢理塞ぐと内へ内へとウイルスがこもっていくのだそうです。(そういえばまったく逆の事をしていました。) したがって処置の後も傷口は縫っていません。
それでも残りの2カ所は傷が浅かったので日曜日には塞がっていたのですけれどね。
明日、包帯交換。ガーゼを取るとき痛そうだなあ。だけど悪いところをとったのでほっとしています。
今日は火曜日なので「新冷血」を読み、病院の待合室では「ロンググッドバイ」を読んでいました。
村上春樹訳の「ロンググッドバイ」もいいです。 47ページに気になるところがあって全部ノートに抜き書き。
「自明のものとして見過ごされてよいことなどそこにはひとつもない」
という結びになるブロックなのだけれど、これこそチャンドラーの、村上春樹の作品の細部の一つ一つに感じる事であり、この作家たちの、本質のある一面を言い当てている言葉だと思うのです。
それは村上訳のギャツビーでも感じた事でした。
しかしつらつら考えるに、優れた小説はすべてそうなのかも知れませんね。 高村さんの作品もそうだし。
そうそう新訳としては人文書院からでたサルトルの「嘔吐」の新訳の評判がとてもいいので読んでみようと思います。 思うに現代の小説はここから出発した、ともいえるのではないでしょうか。
|