今更、なのだけれど、ぼくは自分が「本及び読書」へ傾いている事に気がついた。
きっかけは新しい「キョースマ」を読んでいたとき。 京都のライブハウスが細かく紹介してあって、拾得のテリーさんとか、磔磔の水島さんの健在な姿を写真でみて、ああ元気なんだ、と思うと同時に、ずいぶんああいう場所から遠いところに来てしまったな、と感じたのだった。
音楽のかかるところ、あるいはライヴハウスに沈潜していた頃が懐かしくなった。
いまはまったくいかない。 最後に行ったのは「にゅあん」さんのライヴ。木屋町のビルの二階にいった。
もちろん日常への「強制」はある。 夜は家から出られない。朝も早い。外に出られる時間は長くて二時間。 目が離せない存在がいるからだ。
本もCDもほとんどアマゾンで買う。 西大路の北部からは本屋もCDショップもすべて撤退したから。近所には何もない。
だから、というわけではない。 だから音楽のライヴを聴きに行かない、というわけではない。 本当にいきたかったら、二時間をやりくりしてなんとか聴きに行くだろう。
つまり「キョースマ」の京都のライヴスペースの記事を読んでいて、もうぼくが参加する場所じゃないんだ、と痛感したわけだ。 そんな自分に気がついたら、なっていた。意外だった。少し寂しい。
家でできること。 本を読むしかない。 そしてそれにどんどん嵌っていっている。 今日は荒川洋治の「黙読の山」を読み返した。
外に出なくてもこんなにすばらしい時間が手にはいる。 それが幸せだと感じられる自分が、嫌いではない。
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