毎朝の散歩で仁和寺の御影堂まで行く。御影堂とはこの大伽藍を開いた宗派、真言宗の開祖弘法大師(空海)をまつったお堂である。「御影」とはつまり「弘法大師の姿(の影)」のことだ。
朝の散歩は老犬ハナを連れ出すことから始まる。 朝起きて掃除をして、珈琲を淹れ、遺影の前に供えてからでかける。ハナが若い頃のように歩けないのですぐにかえってくる。それから猫四匹のいる部屋の掃除を済まし、一人で出かける。それが午前7時前。
コースは龍安寺、仁和寺、妙心寺と三つのお寺をまわる。時間が許せばそれぞれの境内を一周する。時間がなければふたつ、ひとつと一周する寺の数を減らす。ただし仁和寺の御影堂だけは必ずとおる。別に信者ではないのだが、通用口のすぐ横という、ちょっとよってみたくなるし、よれる場所にお堂があるので、ついよってしまう。よるとつい、頭をさげ手を合わせてしまう。
そういう「気」の場所に踏み込んでいるのだから、当然といえば当然だろう。(と、思う) 「何も願わない。ただ手を合わせる」これは本棚にある藤原新也さんの本のタイトルだけど、最初は文字通りそんな感覚だった。それがだんだん手を合わせている時間が長くなり、何かを願うようになった。しかしそれもおこがましい気がして、今は「朝の挨拶」をしている。
お堂の下で手を合わせる。前には賽銭箱があり木の階段があり、その上のお堂の戸は開かれていて、中が見える。昨日まではまるで神社のように丸い鏡がこちらに向けておいてあるのがわかっていた。なるほど自分自身に手を合わせるのか。自身の仏性を熾すのか、と勝手に思ってもいた。しかし今朝、その向こうが見えた。
それは「影」だった。「影」だけれど、剃髪した頭と両肩の線がはっきりわかった。瞬間、弘法大師がそこにいる、と感じた。たぶん奧には木像があるのだろう。まさに「御影」が見える仕掛けのなかにようやく「入った」のだ、と思った。 何故、今まで゜見えなかったのだろう。
その影を見てから、踵を返した。今までとは心が違っていた。
仁和寺の門が開くのが七時半。龍安寺が八時までは無料で庭園を歩くことができる。妙心寺は24時間いつでも通行可能。この時間の組み合わせに距離を考え、「御影堂に七時半過ぎ」だけを目印にして歩いている。(花が咲いたりしたらそこを優先する) 今朝は龍安寺をスルーしたので6000歩弱だった。
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