■「新潮」に連載されていた平野啓一郎「決壊」が上・下巻という体裁でリリースされた。彼の本はあっという間に売り切れる。(「京都」だからかどうかは不明) 今日も急いで近所の本屋さんにいったのだけれど売り切れていた。もっと大きな書店に行かなければいけない。
それだけ彼の本は注目されているのだろう。硬質の文体が好きな人も多いけれど、ぼくが彼の作品で好きなところは短編のスタイリッシュなところだった。スーパーリアリズムの画が見ているうちにとてつもなくシュールに見えてくるような感覚に似ている。
長編は「葬送」以来だ。「新潮」の連載では緊迫感が次第に高まり、いったいどうなるんだ、という気に何度もなった。 書く方もしんどいけれど、読む方もキツイ。だけど読み切ると何ともいえない感慨に包まれた。
よく作家の想像力が現実を先取りしていたりオーヴァー・ラップすることがあるけれど、「決壊」を読んでいた人は秋葉原の無差別殺傷事件にドキリとしたのではないだろうか。 通底するものを感じたのではないか。
雑誌の連載と「本」とではずいぶん違う。何としても「本」で読み切りたい。
だけど不思議なことがある。 これだけ売れているのにぼくの回りには彼の読者は一人もいない。 積極的に読む人もいない。以前に書いた村上春樹と同じだ。 「他者性」をこんな部分で意識するのかな。せざるをえないけれど。
時代は吉本隆明曰く「第二の敗戦」である。 バブル崩壊より酷い。働いても働いても生活は楽にならない。 収奪は徹底され、階級はゆっくりと固定化されていく。
そんな時代にネットは大きな意味を持っている。悪しき意味としても。 ネットにこうやって書いている以上、「決壊」は読まなければならない本だ。ここをどう生き抜くか。 ぼくは作品をどう書いていくのか。どう書くのか。どう書くのか。
蛇足 「幸せだとか不幸せだとか 基本的に間違ったコンセプト」 これは宇多田ヒカル「日曜日」に出てくるフレーズだけど、クールだよね。ぼくのテーゼはここに近い。
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