2008年05月09日(金) |
村上春樹インタヴュー(下)/ブヴァリア、ブヴァルディア |
京都新聞の集中連載も今日が最後。 昨日の感想として、「日本軍」「オウム」にまっすぐ繋がるのは「連合赤軍」と書いたら、まさにそれに類似することが村上さんの口から語られていました。
そう、小説家村上春樹も団塊の世代なんです。
記事を読んでいて、団塊の世代として、ここまで誠実に自らの世代を背負っていこうとしている人なんだ、と知りました。
ほとんどの「団塊の世代」が自己弁護、自己陶酔、あるいは忘却。 あるいは昔を懐かしみ、今の若い奴は…と語る。
むろん、そうではない人も知っています。 そんな人たちと村上さんとに共通する言葉も語られていました。 「おとしまえをつける」という言葉です。 その言葉を見つけた時「村上春樹」という物語を村上春樹が生きていくんだなと、そのことに意識的でありつづけようとしているのだなと感じました。 いやわれわれ、案外意識していないんじゃないですかね。
さて「物語」こそ人を救う力がある、というテーゼ。 注意すべきは小説や詩ではない、ということ。 「物語」です。 (これはあとでも触れる河合隼雄さんとの対談のなかで、もっとくっきりと語られています。しかしそのことが「小説が死んだ」という主張に結びつくわけではありません)
村上さんがめざしている「総合小説」とは、いろいろな人の物語が並行して語られ、それが束になっていくように思いました。 当然「三人称でなければ書けません」となります。
三回に分けられたインタヴュー。昨日から併読をすべく本棚から『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)を取り出しました。
このインタヴューの「骨」の部分とさらに詳しい村上氏の「考え方」はすべてこの対談に書いてあります。あるいはこの対談の延長線上で、現在村上氏はものを考えています。すくなくともぼくにはそう思えました。
この対談がいかに村上春樹という小説家にとって大切なものだったか、ということでしょう。
昨日の感想で、ポール・オースターの方がよりシンクロニシティに対してオープンであるように書きましたが、シンクロに対してもっとオープンかつラディカルで説得力のある発言を河合隼雄さんがなさっていることに驚きました。
だから魂の底に降りていくことにたじろぐことはない。 自分で自分の小説がどうなるのかわからなくてもいい。 小説の中で説明不能なことがおきてもいい。
ただ…ただ問題は「身体性」を帯びているかどうか。 頭でっかちのシンクロはあり得ない。 そういう小説はつまらないし、支持されない。 それはわかります。具体的な考えと行動の中にこそそれは立ち現れ、そして共感される。 そして共時性こそが何かを前進させているのだ、ということです。
さてさて、春樹さんの新作のポイントは「恐怖」だそうです。 ほら「シンクロ」を感じている人、いるでしょう。
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