現代詩手帖8月号と詩学.2007.7/8号のふたつの詩誌の投稿作品の欄にに中村梨々さんの詩が取り上げられた。 複数いる選者の方が作品を選んでおられる。
詩に関する言及、分析はそれぞれの詩誌に詳しく、それも興味深い。 ぼくがこの方の詩を読みおえていつも感じるのは、こんなに言葉は自由なんだなあ、ということ。ここまでいけるんだな、と。 知らず知らずのうちに自分の感じる精神の流れに堰をつくったり、穴に流し込んでしまうところがぼくにはあって、それを壊しながら詩を書こうという気持と整合性を持たさなければ、という気持とのふたつがいつもせめぎ合っている。 だから中村さんのような詩に接すると、自由な言葉遣いがいつも羨ましいし、読んでいて自らが開かれていく感覚にもなる。 そんなふうに読ませてもらってきた。
感じることが感じることを呼び起こすような詩。起ち上がってくる詩の姿が水のように思える。自在で、変幻で、言葉の一つ一つが、その扉を開かれている詩。 水際立っている。つまり「いきもの」
ネットで詩を発表しつつ、お互い声を掛け合っては婦人公論に投稿をしてきた方なのだけれど、いよいよ「その人らしさ」が際立ってきたなと、感じた。 むろん「ぼくはぼくで」ということでもあるのだけれど。
詩の豊かさ、言葉の豊かさが、やわらかく溢れていくような彼女に比べ、ぼくは植物や石や金属に近づいていくような気がしている。 中村さんのような「やわらかさ」で、ぼくは詩を書けないとおもう。ぼくはモノの精神に触れていくことをテーマとしていく以外に道はないように気づかされたのだった。
作品はいくつか紹介されているけれど 現代詩手帖「空きカン、」が一番気に入っている。切なくて、言葉がおもしろくて。イメージの流れとして読んでもとてもおもしろかった。
●「現代詩手帖」で取り上げられた作品 「初夏」「空きカン、」 ●「詩学」で取り上げられた作品 「はちみつとはちみつでないものをつなぐ」 「あたしの左足は逃げ出したのだとおもう」
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