ここ数日間、風邪のために裏庭を放っておいたので、今日手入れをした。
バラの花がらを摘み取り、そのほかの植物の掃除をする。枝の細かな剪定はまた後日。
表の庭にまわる。 オクラの花が一日であっさりと散った。一日花なのだ。もう下から、やがて食卓にのぼるであろう小さな実が姿を現していた。
オクラの蕾は次々とできている。花はこれからしょっちゅう見ることができるだろう。
再び裏庭へ。 実はぼくは少々荒れた庭が好きだ。荒れ果てた庭を子細に検討し観察するのも大好きである。 壊れていく植物、腐敗し乾燥した植物をそれほど汚いものとは思えないのだ。それを観察するのも片づけるのも両方とも、数ある作業の中でも好きなほうである。
そして、必ずそこには自らの力で芽生え、成長をはじめている植物がある。それがあるから好きなのかもしれない。
人が植えたモノとは明らかに雰囲気が違う。 人が世話をかけたモノの方が色つやはいいんだけれども、自生しているモノには独特のしなやかさと緊張感がある。
そこでしか発芽できないというポイントから、まっすぐに成長のプロセスを確実にこなしてきているのだ。 外から環境を検討すれば明らかにあるレベル以上は無理だと分かるのだけれど、植物はそういう考え方をしない。 そういう未来を描かない。 その都度その都度の最善手を繰り出していく。花も実もその結果でしかない。
そういう姿勢が茎や芽の先端に感じられて、おもわず見入ってしまうのだ。
ところでオクラだけれど、必ず一つの穴に四粒ぐらいの種を一緒に蒔く。 四つとも発芽し成長するけれど、残すのは一本だけ。農家の方も同じやり方をすると思う。 そんなことをするんだったら最初から一粒だけでいいじゃないかと思うのだけど、一つだと発芽してもとても弱い。下手すると枯れてしまう。
人の手で間引くのだけれど、その時、他の粒がよってたかって一本を強くしているように見えるから不思議である。
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