京都新聞夕刊に、たぶん月に一度くらいの間隔で「詩歌の本棚」という現代詩の新刊評のコラムが掲載される。
今年、評者が河津聖恵さんにかわった。 河津さんの詩を興味深く読んできたのでこの評は欠かさず読んできた。
今回の評は骨に届いた。 気になったところをノートに書き抜いて、忘れないようにしようとおもった。
評は思想家イバン・イリイチのこんな言葉からはじまる。 『人に未来なんかない。人にあるのは希望だけだ』
それをどう解釈するかというと 『未来を予測すれば未来に引きずられる。 未来が予測できなければ不安の中でもがくだけだ。 いずれにしても人の現在は未来(という強迫観念)に食い荒らされている。 ならば私たちは希望によって現在を押し広げて未来を作るしかない』
ここでしばらく立ち止まってしまった。 このあと『詩もまた希望なのだ』と河津さんは宣言するのだが、このような力強い呼びかけは長らく聞くことがなかったようにおもえたからだ。
紹介された詩集は 『風を孕まず風となり』藤谷恵一郎 『撫順』山本万里 『ヨシコが燃えた』たかとう匡子
それぞれの詩句も紹介されていて、そのどれにも引きつけられた。特にたかとうさんの詩は凄かった。
『どこも赤い闇だ ヨシコの手をにぎりしめ 私は駆ける すぐ前にいたはずの 祖母と弟が見あたらない 高架沿いに 群衆の流れるままに 唇をむすんで逃げる』(「赤い闇」より)
鎮魂の詩である。 たかとうさんは神戸大空襲のさなかに妹を失い、戦後43年目にようやくその体験を詩にされた。 今回の詩集はその詩の収録された詩集と他作品をまとめたものだという。
他の方の詩もそうだけれども、語りづらいところから語り起こしていることがよくわかる。 見えたものを見えたものとして書く、無惨と絶望と慟哭がある。しかしそれでもなおそのなかに微かでも希望の痕跡をしるすことが出来るか、だろう。
河津さんはこう結んでおられる。 『戦争体験という自分史を詩で描くことはやさしい。 難しいのは戦争体験において詩を描くこと。 グローバルな戦場と化したこの世界へ、詩という希望を掲げることだ』
希望は日々の生活の中に見いだす以外、どこにもない。 しかし、そうだとしても現在の世界を『グローバルな戦場』と認識するところからしか、詩がはじまらない。 そうおもう。
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