明日の午前五時発送のメールマガジンと専用ブログの準備を済ます。 最近そのことを知った友人から、結構なストレスやね、といわれた。 だから準備を済ませたときの気分はいいものだよ、と答えた。
ここ二日ほど、車谷長吉「贋世捨人」の毒気に当てられてしまっていた。 凄まじい物語であり、凄まじき方である。 初出が三年前。三年が過ぎたからといって車谷長吉という人物がこの生き方を背負って立っていることに変わりはない。 「抜き身」で生きている人である。 物語に妙な触り方をするとさっと鮮血が噴き出しそうである。
到底、頷けぬ数々の文章があった。酷いと思った。惨いと思った。 それをもって糾弾する人もいるだろう。
しかしぼくは、この「私小説の極北」の手触りを大事にしたい。 なぜならこの小説は「対峙」してくれているからだ。 この小説に向かい合うときの自分の気持ちを大切にしたい。 強い反発と共感がないまぜになった感情がぼくにある。
なんて悲しい人なんだ。なんという因業なんだ、とおもう。 その気持が小説を通り抜けて 小説を書こうとする自分に対して刃を向けてくる。
だからぼくはぼくの過ちに否が応でも気づかされる。 自分の駄目さ加減を徹底的に突きつけられる。 だからぼくはこの本を大切にしたいと思う。
昔、友人に、おれは論理の人間としていきていくが、おまえはたぶん宗教的な人間として生きていくだろうといわれたことがある。
そうなっているな、と感じ始めた。 そういうようにしないと生きてこれなかった、というのが正直なところである。
論理的であることと宗教的であることは矛盾しない。 矛盾させてはいけない、とも思う。
「宗教的人間」という言葉がはからずも「贋世捨人」にも現れて、このことを思ったのだった。 「宗教的人間」と指されたのは車谷さんの弟さんであった。
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