| 2006年09月10日(日) |
「死顔」吉村昭 を読んで |
吉村昭さんの遺作「死顔」(「新潮」10月号)を読んだ。 作品は危篤状態の吉村さんの次兄様の容態の変化を中心に、親族の様子とご自身の気持ちを時間を辿りながら追っていく。かつてのお父様、ご兄弟の最期の姿もオーバーラップして描かれていく。
そして死は訪れる。その死に臨み、吉村さんは柩の中の「死顔」を見ようとしないことを旨としていた。いつの頃からか半ば「仕来り」のように行われている、一般会葬者を含めた柩を囲んでの「最期のお別れ」に否定的なのである。
…柩の中の死者は多かれ少なかれ病み衰えていて、それを眼にするのは礼を失している…(同書より)
ごく限られた血縁のみにすべきだという主張は、ご自身の血縁の死を語られた後の言葉だけに、説得力があった。思うに、死者を尊ぶ気持ちをどう持つかなのだろうけれど。
この作品が書かれた時点で吉村さんは自らの最期のありようを決めておられたのだと理解した。僕にとってこの作品は、近しい人の死を見つめながら、自らの最期について決意を静かに深めていくものとして読めたからだ。 幕末の蘭方医、佐藤泰然の例を引きながら …いたずらに命をながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬよう…(同書より) 同様のことを遺書にも記した、とある。 また、 …泰然の死は、医学者故に許される一種の自殺といえるが、賢明な自然死であることに変わりはない…(同書より) とも。
我々の誰もが老いと死について考えさせられるだろうし、必ず考えるときが来る。 読み終えて小さく「そうか」と思わず呟いていた。
ご冥福をお祈りします。
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