| 2006年07月11日(火) |
帰ってきた人、出て来た人 |
江藤淳「文学と私・戦後と私」を読む。 ことに「現代と漱石と私」のなかの「帰ってきた人」と「出て来た人」についての論に考えることが多かった。
「帰ってきた人」とは漱石のことである。 どこから帰ってきたのかというと、単にイギリスというだけではない。西洋というわけでもない。 <他人から遠く離れた場所、孤独な自己追求が何ものかをもたらすと信じられた場所>から帰ってきたのだという。 そして孤独な自己追求が狂気と死をもたらすしかないと噛みしめて帰ってきたのだ。
漱石に対してよくいわれる「個人主義」にしても、実現すべきものとしてではなく、「個人」としてしか生きられない近代人の寂しさに耐えようとする決意として理解されている。
他方「出て来た人」とは「近代文学を支えてきた作家の大多数」のことである。 <故郷のわずらわしい家族関係や因襲をふりきってひとりになり、そうすることによって自己を実現しようとした人々>のことだ。 この人たちには「孤」になる「個」の悲惨さは理解の外である。
もう少しきちんと引用しよう。
…彼らにとっては「自我の確立」という目標は、「芸術」のために、「近代」のために、あるいは日本人の精神の解放のために行われるべき大事業であった。彼らの現実の悲惨さ、道徳の不毛さは「芸術」のために、あるいは「革命」のためにという観念にさえぎられて、その心の視野に映じることがなかった。彼らは一言にしていえば自己追求に憑かれた人々であった。 もし明治以後の文学が「出て来た」作家によって支えられたとすれば、漱石は無言の批判者にあった。…
漱石は「個の解放」のその先にある問題点から出発して書き始めている、というのである。
「帰るべきところ」はどこなのか。そもそもそんなところはあるのか。 漱石であれば「坊っちゃん」が帰っていったところがすぐに思い浮かぶけれど、人は失われていく。
私としては、やはり無能者と自覚して、もはや逃げ場はどこにもないと観念することのように思う。 「無能者」を「ならずもの」と表現したのは漱石だった。 それが私だ、といったのが車谷長吉さんだった。
今、「帰ってきた人」として私の読書の視界に入ってきているのは遠藤周作である。
■メルマガ読者の方へ 磯田多佳、夏目漱石の交流については江藤淳「漱石の中の風景」にも詳しいです。 「文学と私・戦後と私」江藤淳(新潮文庫)所収。
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