多和田葉子の「無精卵」という小説を読んでいると 紙と万年筆をすぐに、目の前に置きたくなる。 主人公の女は、紙を文字で埋め尽くす作業を自ら<仕事>とよんで、毎日続けている。
『それは日記でも手紙でもない。詩や物語を書きたいと思ったことはない。 ただ文章を退屈せずに続けて書き連ねていきたいと思った。 書いているという状態をずっと続けること。 それだけが目的だった。』
この「無精卵」という小説自体がそういう成り立ちをしているのではないかと思わせる。
「書いていること」それ自体がどちらに向かうかわからない。 ただ続けることから生まれてくるものがある。それはぼくも経験している。 深く意識的であったかどうかは別として。
主人公は紙を文字で埋め尽くし(文字の執念のように)それを読み返さずにファイルする。 もちろん経済的になんの利益ももたらさない。 ただファイルが増えていくばかりである。
気がつけばぼくも同じことをしている。
万年筆を握り、押しつけるのではなく触れそうで触れないくらいのところを 紙に水平に移動していく…。
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