| 2006年05月05日(金) |
『「モーツァルトを聴きながら一日、小説を読んでいた」日』という日記 |
「モーツァルトを聴きながら一日、小説を読んでいた。」 と日記の一行目に書いたとする。 多和田葉子さんの小説を読んだあとだと、瞬間、嘘、と思えて、それからゆるゆるとその隙間のことを思い出してみようか、と思うのだった。 何かが欠落している気がして。
朝。 すばらしい晴天がひろがっていて、フルート協奏曲を聴きながら掃除をし、コナコーヒーを飲み、散歩に出た。 気温が急にあがったので、道端の雑草がよく伸び、いつものようにそれを食べたハナが、いつものように吐いた。 花壇の手入れをしようとして、「ねこぐるい」の女の人に捕まり猫の話を30分近くしてしまう。 猫たちのあいだをウロウロする。
昼。 風が強くなった。 オーボエ協奏曲を聴きながら小説を読みつづけ、そのまま寝てしまった。変な姿勢で寝ていたものだから目が醒めてから頸が痛い。まだモーツアルトは部屋に流れていて、そんなに長い時間寝たわけではないことを知る。
三時。 家のものとお茶にする。居間のモーツァルトは消される。 ドッグフードを買いに行き、本屋を覗く。 夕方、ハナの散歩。猫の相手。 花壇を点検。薔薇が次々と咲き始めている。
夜。 食事。テレビでナイター。お風呂。 みんなが部屋に退き、ひとりきりになって、ようやくモーツァルトを聴く。 ハナだけが横にいる。
京都新聞の平野啓一郎さんの連載コラム「現代考7」を読む。 こないだこの日記に書いた事と同様の問題意識が語られていた。 ブログの自分と仕事の自分という二分化した生活のあり方は、それでいいのか、と。
平野さんはブログを否定しているのではない。 『我々の社会は、ますますそうした功利主義的な観点からしか、人間を判断しなくなってきている。ある人の価値を、自分にとって有益であるかどうかで判断するのは卑しい態度である』と断じた上で
『しかし、その無益な部分とて我々自身であることには変わりがない。ブログは今、そうして社会から削ぎ落とされてしまいつつある人間の些細な感情や思考の受け皿になっている』という認識を示している。
そこから仕事の自分、友人といる自分、ブログの自分と使い分けている、という見方が出てくるのだが、ぼくが感じたのは 「自分自身の全体性の維持」ということ。 この社会の仕事の中では「何かを」欠落させた存在としてしか生きていけないのではないか。だからそれを補うものとしてほぼ本能的に「無益」な部分に人は向かうのではないか、ということである。無意識に、ともいえるかもしれない。 自分自身の全体性の恢復のための「無益」さ、というべきか。 平野さんは「ブログは、その無益さにこそ意味がある」という。
…「役に立つ人間であるということが、私には常に何かしらひどく醜悪なことと思われていた」… ボードレールのこの言葉を平野さんは考え続けているという。
「ツカエル人間」「ツカエナイ人間」という分け方をするらしいけれど、平野さんが言う「人間の大半は、世のためにも人のためにもならないものからなっている」という言葉は、そのとおりだと直感する。 だからこそ…というその先を考えている。
欠損する、欠落するとはどういう感覚なのか、まずはそこから意識的になるべきだろう。そういうことに意識的な小説は、ある。
こうして「モーツァルトを聴きながら一日、小説を読んでいた。」日が終わる。
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