| 2006年04月12日(水) |
「衒うな」という声がする |
心のどこかで、自分だけは…、と思っていないか。 ふいにそんな思いにとらわれた。 身近にいる癌患者をみているにもかかわらず、自分は癌ではないなどと…。
他人の災厄を傍観している余裕があるのかとも思う。 「傍観」。 当人の肉体に替われないのなら何をしたって傍観者だ。
さて。 辺見庸さんの「審問」読了。 辺見さんは脳出血でたおれ、その治療の過程で 癌が発見された。 優れた作家・記者であり時代に異議を唱え続ける人の、遺書ともとれる同書は様々な問いを投げかけてくる。 モノローグであり、自分自身との対話であるが故にその苛烈さに刮目してしまう。黙するほかない。
脳出血からの回復途上の辺見さんが真っ先に「記憶」として浮かんだ詩が、 紹介されていた。それはこんなフレーズである。
物言うな、 かさねてきた徒労のかずをかぞえるな 肉眼が見わけうるよりもさらに 事物をして分明あらしめるために。
(中村稔・「鵜原抄」 より)
「内側の眼」…果たして生きているだろうか。 「衒うな」という声が聞こえる。
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