生い立ちや生活の癖が読書の質も決めているのだろうか。 昨日ふとそんな事を思った。 「質」というのはどんな本が好きなのか、ということはもちろん そもそも何故本を読むのか、ということまでも含めての事である。
そんなふうに朝のうちに書き留めておいたのだけれど、午後本が届くと、そっちのけで読みはじめてしまった。 フリオ・リャマサーレス「黄色い雨」。 リディア・デイヴィス「ほとんど記憶のない女」は ぼくの読書経験では詩なのか小説なのか判断できない作品だった。 どちらともいえるし、どちらでもないともいえた。 フリオはスペインの作家である。経歴は詩人としてスタートし、ある時期から「散文に移行した」とある。 これは散文なのか。詩とも読めるし、小説とも読める。 訳はむろん原書のニュアンスに忠実なのだろうが、なんとも不思議な文体である。一章のほとんどの文末が推量の形であったりする。 異化作用がぼくに及ぶだろうという予感が膨れあがる。 日本語でできたぼくの世界がぐらぐらと揺れる。 ぼくには長い長い散文詩のようにも読めるのだ。
「詩と小説」のどちらでもあり、どちらでもない、ということと もう一つの関心事がぼくにはあって それは「日本文学と日本語文学」があるらしいということ。 リービ英雄、多和田葉子の本が読みたいと思い、多和田さんの本から注文したのだが、彼女の事を調べていてみつけた言葉だった。 とすると翻訳はどうなのだろうか。 翻訳の文体だという村上春樹さんは日本文学なのか日本語文学なのか。 「日本語文学」というのはドイツの多和田、アメリカ、台湾のリービというような 「もう一つの言語」を持つ人が意識的に日本語で書いた作品群だとして、それならば 在日外国人の書いたものも「日本語文学」なのか。「日本文学」ではないのか。 そんな問題意識がわけのわからないままに刻まれてしまった。
ただここのところ読んでいる外国文学の「翻訳」が刺激的で面白いのは事実なのだ。 そしてたぶん「日本語文学」も面白いはずだという予感がある。 こないだ読んだ伊藤比呂美の「詩」も見方を変えれば「日本語文学」とだっていえるのだ。
何故その本を手にとって読んでいるのか。 何故CDじゃなくて本なのか。 何故ギターを弾かずに本を読むのか。 何故絵を描かずに本を読むのか
たまたまそこにあったからだとしても、それでも「何故」読めてしまうのか。 顔を背けたり、くだらないとか、わからないとかいう理由で本を閉じる事は何故起きるのか。 何故くだらないと思うのか。何故難しいと思うのか。逆に何故面白いと思うのか。 「ほんとうに」おもしろいとはどういうことなのか。 おもしろい本だけ読んでいればそれでいいのか。
アタマの中が「何故」だらけになった。 そして「おもしろい」からまた本に向かおうとするのだった。 どっちみち読まないとわからない気がしたからだ。 しかしそこにも「何故」がずっと隠れている。 まるで「何故」と思うために読んでるようだ。 しかしおもしろいと「何故」を忘れてしまう。
本を閉じ、散歩に出て考えをめぐらせた。 読む時間があるから読むのだということ。 (え、だけど読む時間をつくっているんじゃないのか。) そして「読まないと書けない」ということも うすらうすら本当そうに思えてきた。 「書かないと読めない」かどうかはわからない。案外そうかもしれない。 だけどそれにしたって 何故なんだ。
何故書くのだろう。 すべては「物語」のためなのか。 今のところの答えはそこで止まっている。
|