伊藤比呂美「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起(1) 伊藤、日本に帰り、絶体絶命に陥る事」を読む。 これは「群像」で連載が始まったところだけれど、「新連載長編詩」とある。 どこが「詩」なのか、と思ったり感じたりする人もいるだろうと思う。だけどこれは「詩」である。 ぼくの好きな定義にヴァレリーの「詩は舞踏であり、散文は歩行である」というものがあるけれど、それに照らしても「詩」だと思う。 いろんな定義がある中で、書いた本人が「これは詩です」といえばそれは「詩」になる。それが最優先。まあそれを言ってしまえば身も蓋もないけれど。
この作品が何に一番近いかというと「日記」だと思う。 狭心症で入院中の旦那をアメリカに残し、日本に帰国した私。脳梗塞を発症した母を病院へ連日連れて行き、日本語より英語が達者な娘を抱え、さらに老人性うつ傾向の父もいる。そのどまんなかで「私」は大奮闘するのだ。
文中、日本語を英語の文法で書く部分が何度か登場するけれど、妙にリズムができておもしろい。今の日本人はこんな日本語を使っているんじゃないのかとさえ思える。
コンピューターが出てくる。これがなければこの人は何も書く事はできないだろうと切実に感じる。とにかく時間がない。 時間を節約しひねり出すにはパソコンしかあるまい。
そんなこんなで「苦闘」は最後の詩の数行のフレーズに辿り着くのだが、それがたまらない。 この連載詩はどこまでつづくだろう。ずっと読んでいきたい。
「声をなくして」永沢光夫(晶文社)を再び読み出す。この人は咽頭がんで声を失ったインタヴュアーである。前にもこの日記に書きました。
新宿二丁目での妻との生活、人々とのつながり、うめき、喘ぎ、罵詈雑言、感謝、諦め、励まし励まし励ましに満ちた文章の渦に巻き込まれる。これはエッセイといわれるのか、どうか。 これもまた「日記」といえる本である。
「ブライアン・イーノが哀しい」という台詞をここで読むとは思わなかった。とにかく生きること。苦闘の末にひねり出されるその言葉、最近のどの本よりも説得力があった。
ふたりとも「生きるための日記」なのだと思う。 「生きているもの」たちにこれ以上のエールはないだろう。
(「生きるための日記」は永沢さんの本の、帯のコピー。ずばりそのとおりだ)
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