散歩主義

2006年03月05日(日) 読書

作品に登場する「意匠」について。
そこから考えながらの読書がめぐっています。「群像」二月号の堂垣園江さんの「壁の住人」を読んでからのことでした。
「壁の住人」の舞台は中国。文革中に家族をぼろぼろにされ、天安門事件の時に大学生だったという経歴の主人公が登場します。他にも湖西省の少数民族苗族、そこへ旅する団塊の世代の、家族から疎外された日本人サラリーマン、辺境に滞在し続ける日本人女性、そして忽然と現れる老中国人たちの謎のジャズバンド(彼らこそが「壁の住人」なのですが)が登場します。

すべてぼくにとっては飛びつきたくなる素材です。というかそれぞれが小説のテーマとして十分な重さを持っています。で、筋やディテールは面白いのですよ。だけど村上春樹作品の井戸の底のような切迫感や壁をすりぬけるリアルな感覚、あるいは小川洋子作品のようなぞくりとする怖さまでは至らない。それはいったい何故だろう、原因はなんだろうなんだろうと考え続けていました。
 「壁の住人」は好きな作品なのです。風景の描写などとても好きなのです。だけどなにかがもう少しあれば、と生意気にも思ってしまったのです。

それは「皮膚感覚」なのかもしれないと思い至りました。同じ「群像二月号」に平野啓一郎さんの作品も掲載されています。今年、彼は短い小説をいろんな文芸誌に発表し、それらは連作を意識して書き続けていると、ご自身のサイトでも述べておられました。この号の作品もそれらのひとつでもあるのでしょう。その一連の今年の平野作品を読み直してみて顕著に感じる皮膚感覚や肉体感覚が堂垣さんの作品にもあるのだけれど、質が違うんです。いいとか悪いとかじゃなくて。
例えば「義足」という同じ素材の扱いでもここまで違うのか、と。

同時並行して吉行淳之介さんの作品も集中して読んで、吉行さんの作品にも皮膚感覚というか内臓感覚を強く感じていました。吉行、平野、堂垣そしてアメリカのリデイア・デイヴィスと読んでいて、つまりは視点をどこに置くかなんだと「痛感」したのでした。まさに「痛い」感覚をどこに置くか、というふうに。

リデイア・デイヴイスの「ほとんど記憶のない女」は詩なのか小説なのかわからない作品が並び、しかしそんなジャンルの線引きよりも作品の強烈さがすべてだと思える作品集。切れ味が凄い。一々書くことに自覚的に書かれる小説、あるいは詩、あるいはショートショート。田中小実昌さんを思い出しました。
吉行さんの作品は長編ではなくそれほど有名ではないけれど傑作揃いだと思う短編群を読んでいます。

あらためて書くまでのことでもないのですが、あたりまえのように選び取っている人称のこととか、方法論に関して自覚的な読みを試みています。

吉行さんの短編を読み続けることと、詩人、伊藤比呂美さんの「河原荒草」が我が家に到着するのを待っています。


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