散歩主義

2006年01月21日(土) 尖る

●婦人公論を読んで考える。
今年最初の詩のフォーラムが掲載されている号が届きました。
今回は「音函」に没頭していていい作品を応募できなかったのですが、気になったのは井坂さんがある投稿者に「詩集か詩誌か次のステップを考えなさい」とおっしゃっていること。この方はとても素敵な詩を書かれるかたで、注目していました。佳作、入選の常連でもあります。

井坂さんの言葉は、彼女のレベルならばもっと「上」を目指せ、ということだとぼくは思います。
ぼくは、このフォーラムは詩集をだしておられる方でもどんどん投稿されてくるレベルの高さを感じていたのですが、井坂さんから見ればやはり力のある方はさらに上を目指しなさい、ということなのですね。

彼女の詩はもはやこういうコンペティションの場にとどまっているものではないということでしょう。

以前ある詩人のかたが詩集を出した背景について、ある新人賞をもらったためにどこのコンペでも門前払いをくった、とおっしゃっておられました。それでもう自分の詩集を自分で出していくしかなくなったのだ、と。

編集者がついてくれて、本を作るということは生半可ではできません。自分に自信が持てずに投稿を続けるというのもあるし、他流試合というか、自分のレベルを知るための投稿もあると思います。
今回の自覚を促している評は厳しいようにも読めるけれど、喜ばしいことでもあるのでは。
井坂さんがひとりの「詩人」の誕生を告げたのだと思っています。
さて二冊の本をだし投稿を続けている私はまだまだ投稿を続けていきます。

●同じような文脈、というわけでもないのだけれど、週刊ポストに連載されている重松清さんの小説「なぎさの媚薬」にも、プロの小説家をめぐる話がこぼれだしています。これは主人公が駆け出しのフリーライターで小説家志望だったという説定だから当然といえば当然。

村上春樹さんのデヴュー直後に対する気持ちとか、フリーライターの先輩がいきなりサスペンス大賞を受賞して大作家になっていくエピソードには説得力を感じます。こういうふうに書く重松さんの「目線」を思います。

ぼくの同世代の文学部の連中はほとんど「風の歌を聴け」を読んでいませんでした。
「なぎさの媚薬」にでてくる『あんなの一発屋だよ』という台詞以前のことです。たぶん読まないまま歳をとった人が多いでしょうね。最近になって読み出したという人は多いかも。
あうあわないはあるし、好き嫌いもある。賞賛と反発もある。だけど読まなきゃわかんない。
ちなみにぼくの後輩には、熱狂的な村上春樹ファンが多いです。先輩には大嫌いという人が多い。

そんな「なぎさの媚薬」のなかで後年、大作家になっていく先輩のフリーライターの言葉が何度も登場します。それが「流されるなよ」という台詞。
書き出してみます。
……
「いいか、流されるなよ」
目先の仕事に流されるな。
フリーという気楽な立場に流されるな。
スキャンダルを追い続けるうちに、まっとうなオトナなら誰でも持っているはずの感覚が麻痺してくる。その慣れに流されるな…。
その先輩の言葉を噛みしめるようになったのは、三十を過ぎてからだった。
四十を過ぎると、噛みしめるのが辛くなった。五十を過ぎた今は、それを聞いたことも忘れてしまったふりをしていた。
(中略)
あのひとはフリーライターの仕事をただの一度も下積みだ愚痴ったことはなかったよな…。虚空に浮かぶまなざしになった今、初めて、気づいた。
……

若かりし頃の主人公は、記者生活十年のこの先輩に、あんたとは違うんだよ、とこっそり冷ややかに笑っていました。俺がその気になれば、今書いている長編小説が仕上がれば、あんたはもう先輩づらして忠告することなんてできないはずだ、と。
しかし、結果として当時のフリーライター仲間から作家になったのはその先輩ひとりでした。

この小説を読んでいて気づかされるのは、もちろん「流されるな」ということなんだけれど、じゃあどうするのかと考えた時に「尖る」という言葉が浮かんできました。

しかしその「尖る」というのは、世間に対して傲岸不遜なまでの自信を持つというのではなく、自分自身に向けてだということ。
「書くことなんてこんなもの」という気持ちがすこしでもでだしたら、それで終わりということでしょう。

そんなことを考えています。










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