最近、詩を声に出して読んでいる。 黙読(目読)ばかりの読書だったからずいぶん新鮮だ。
文庫本主義者は詩もいいけれど小説がいいよ、という。 NHKラジオではずっと小説の朗読番組が続いていて、ファンも多いそうだ。
彼女がいつも言うことなのだが、彼女が小説に目覚めたのは、高校時代(京都の堀川高校。一時期低迷していた京都の公立高校も最近ではかつての名門校が復活している。もちろん堀川高校もそうだ。彼女の在籍時には名門の名をほしいままにしていた) 国語の先生が毎時間、冒頭の10分程度を朗読の時間にあて、「罪と罰」を最初から最後まできっちりと読んでくれたからだという。 それで長編小説のおもしろさに目覚め、どんどん読んでいったんだという。たとえば「チボー家の人々」!! あのおそろしく長い小説を楽しんで読んだというのだから、たいした高校生だな。 そのクラスのどんなやんちゃな連中でもパール・バックの「大地」ぐらいは平気で読んでいたという。 いくら名門とはいえ、ぼくの頃とはずいぶん違う。
ぼくは彼女から6歳年下で、高校時代に本を読む暇があったら、レコードを聴いてた。 ラスコーリニコフとジミヘンか…。 高校時代の読書はとにかく二年間ぐらいキルケゴールに熱中してた程度。 日本文学は…やはり大江さんだった。 がんがん読み出すのはずっと後になってから。 とにかく音楽だった。
ところで 幾たびもの情報革命の進行に伴い、人間は飛躍的にすぐれた「道具」は得たけれども、そのぶん能力は著しく減少しているという推論がある。 たとえば世界に残された口承の歌や物語。それらはどれもおそろしく長い。 しかも文字で残っていない。しかし伝承者によって語り唄われるたびに、それは一言たりとも間違えることはないという。 おそらく太古の昔の人間はそういう力を持っていたのだろう。
だからその推論はパソコンやネットでスピードと新たなデータバンクを得た分、さらに能力の何かが欠落していきそうであると続く。
自分のことで恐縮だが、朗読した声を自分で聴くとあきらかに自分の中の何かが変わる。長く動いていなかった部分が、ごとんと音を立てて動き出しているような気分になるのだ。まるで小学生の頃のように。
なるべく声を出そう。なるべくエンピツを持とう、と思う。
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