| 2005年11月02日(水) |
脱・情報化社会へのまなざし |
京都新聞で一年間連載されてきた、佐藤卓己さん(京大助教授)の「時代を読む…メディア論から」が今日の朝刊で完結した。 この方の分析や理論は切れ味が鋭く、なんどか唸らされたこともある。わりと熱心に読んできた。
最終回はぼくが今ぼんやりと感じていることに通底するものがあり、「考える素材」として記事を切り抜き、折に触れては読み返して考えている。
最終回は「IT企業が先導(煽動)する情報化社会への向き合い方」がテーマである。 (この記事を読む背景として 情報化社会の、現に行き着いた先の一つを分析した「ひとりぼっちのボウリング」(R・パットナム)を読まねば、と思っている。それはアメリカにおける社会関係資本の衰退であり、もはやアメリカの健全な民主主義は危機に瀕しているという指摘だ。「社会関係資本」については「散歩主義」でも書いたことがあるけれど、それはホームパーティー、学校行事など他者とのコミュニケーションをはかる行為全般のことをいう。「ひとりぼっちのボウリング」とは、もはや仕事のあとや休日に仲間とボウリングをする習慣がアメリカから消え失せたことをさしている)
佐藤さんの分析をぼくなりにごく簡単にまとめると次のようになる。 『情報化社会においては市民が「無料」で「援助」しあって「交際」する共同体は危機に瀕している。(佐藤さんは電子メールのタイトルと本文に「無料」「特典」「援助」「交際」などが入ったメールを自動削除するように設定したという。受信数は激減した。)つまり、逆説的に捉えればこれらの言葉の無化がおきているということだ。つまり他者への一般的な信頼感が激減しているということになる。それは社会関係資本を減らすことになり、それが民主主義の危機を招いている』
つぎに線を引いて読み返している部分を書き出してみる。 『ITの発展により、個人はメディアが提示する無数の選択肢から自らの欲望に沿った情報を自由に入手することが可能になった。だが、選択そのものを自ら放棄しない限り、個人は特殊化、専門化した趣味の選択に膨大な時間費やさねばならない。さらに自分の選択を合理化するために、人々は「自分探し」に多大なエネルギーを注がねばならないのだが、それは自己喪失の不安に由来している。結局、情報化によって個人は学校や近隣共同体などの物理的空間の規制からは自由になったが、個人の行動規範はもはや共同体によっては担われず、すべては自己責任とみなされる。こうして個人が背負い込む自己責任が増大すれば、それに耐えきれず精神的に破綻するものも現れる。そのため誰もが国民文化と国民福祉に安住して、共通の歴史にアイデンティティーを保証されていたナショナリズムを懐かしく思い起こす時代が到来する』
で、こうした場合にジャーナリズムが果たす責任は大きいのだけれど、それは冷笑主義(シニシズム)しか生んでいない、と断じている。スキャンダリズムと自己利益追求を政治解釈の前提とするスタンスからは当然だろう、と。 ぼくはかなり批判的に読み込んでいるつもりだけれど、IT社会のある部分はすでに硬直化に直面しつつあるという漠然とした「いやな感じ」は持っていて、自らに置き換えていろいろと考えているのだった。
佐藤さんの結びの言葉はつぎのようなものだ。 『安易な処方箋は存在しない。しかし、地に足の着いた正確な報道とそれを熟慮し議論する市民が、IT革命で生まれることはないだろう。脱・工業化社会を夢見た私たちは、今から脱・情報化社会の準備をしておかねばならないのである』
偶然なのだろうけれど、ぼくには最近の文学がそういう状況を先鋭的に嗅ぎ取っているのではないかと思う節がある。それはやはり肉体と言葉の関連の中から浮かんでくるものだ。どうしても数量化されないアイデンティティーとしての「肉体」=「闇」を言葉で表出しようとしたもの。例えば町田康さんの「告白」や平野啓一郎さんの今年を通じて出し続けられている短編たち。あるいは若い作家達の切実さに満ちた作品。そして詩では藤井貞和さんだ。しかし、考えてみれば文学はいつだってそうだったんじゃないのかとも思う。 パソコンやネットを捨てろというのではない、むしろその上にたって先を見据えなければならない時代になりつつあるのだろう。
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