京都新聞文化欄で、インターネットや携帯電話で人間関係がどう変わっていくか、というテーマで論考をすすめている方の文章が掲載されていた。 筆者は柴内康文・同志社大学助教授。
この論点では、ともすればネガティヴにとらえる意見が目立つけれども、彼はむしろネットによって「再生される人間関係」というとらえ方をしている。 そのポジティヴさに、目をひかれた。
読んでみると、つまり、「社会関係資本」というくくりで見たときの人間関係というのは「もう、壊れている」という認識なんだな、と思った。
「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)とは何か。
引用する。 …人間関係が、それに基づく信頼が、社会の中にどれほど蓄積されているかを「社会関係資本」(ソーシャル・キャピタル)ととらえる見方が社会科学全体で広まりつつある。 その多寡によって、政治、経済、治安、教育、社会福祉等の格差が非常によく説明できることが知られている。 人間関係に富む地域は投票率が高く、失業率や犯罪率が低く、学力達成度が高く、死亡率が低い。資本金に富む企業の事業が成功しやすいがごとくである。…
そして、これがアメリカでは激減しているという指摘がある。社会的なハードな関係だけでなく、日常的なソフトな人間関係も衰退しているという指摘である。(たぶん日本もそうなのだろう。)
その原因としていくつかが挙げられている。労働時間の増大。居住の郊外化。そしてそれ以上に、娯楽の個人化、その最大のものとしてテレビが挙げられていた。
従って旧来の人間関係の結び方は急速な勢いで壊れつつあるという認識なのだ。そこに冒頭の新しいツールが登場する。 ネットと携帯だ。
この二つが人間関係の分断を促しているのか、それとも新しい関係のあり方を構築しているかは議論の分かれるところだろう。 筆者は後者を選んでいる。
ということは20世紀後半に寸断された人間関係を再生させるツールにネットも携帯もなりうるという主張なのだ。
ぼくは携帯をほとんど使用しない。ロードバイクで遠くに行くときの非常連絡用に使うぐらい。元々持たないし、持ちたくないほうだった。 一方、ネットには毎日何かしらの書き込みを続けているし、作品やメツセージを読み込んでもいる。 新しい人間関係のほとんどはネットによるものだ。
柴内さんの論考を読んでいると、「再生」に向かうしか道はないんじゃないか、という気がしてくる。後戻りはできないから。
まさに現在進行中の社会関係の中に我々は生きているわけで、仮に社会科学が証明しつつあるような、社会関係資本が「豊かな社会」の成り立ちに深く関わるのなら、もはやネットや携帯によって前に進むしかないと思うのだ。
そうなるとネットの端末の我々のディスプレイに時々現れる、「人間関係」に対しての悪意ある障害は粉微塵に粉砕されるのかもしれない。
何故ならこの文章でイメージしたのは、サーフィンのBig Waveなんだ。津波によく似ているけれど誰も殺さない、波。 乗ればハイになれる。ただし間違えると叩きつけられる大きな波。
あとはいかに「ボード」に乗るか、みんなで工夫することだよね。 柴内さんはそれを研究するとおっしゃっている。
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