毎月のことながら、21日頃になると、あ、婦人公論だな、と思います。 投稿をしているから、当然といえば当然ながら、振る舞いまでがぴりっとします。 自分の結果はもちろん、井坂洋子さんの「論評」が気になるもので。
詩を書く姿勢を「評」によって「しゃきっ」とさせて頂くことがなにより大変有り難く思っています。
今回の評もずんっ、と響いてきました。 大事なところを抜粋すると
… 詩はどこにあるのか。端的に言うと、人の思いや考えていることにあるのではなく、表現する段階で生まれてきます。その面白さのために書くのだと思うんです。あんまり簡単に書けたものは、これでいいのかと疑ってみる必要があるでしょう …
この前段として「表現の衝迫力」「緊密感」「一行を一行たらしめる美学」というキーワードが「失われていないか」という問いかけがあるのですが、「詩とは何か」と考えた時に、手放してはいけない意識だと思うのです。
今回はジャンの死を突き詰めて、一生忘れまいとする詩を書こうと思って書きました。ずいぶん個人的なものです。 この思いも、実は詩そのものとは関係ありません。
詩はその、表された言葉で読まれ、評価されるものです。今回応募した「雷」という詩が、ひとつの「風景」として読み手の方に受け止められたら幸いです。
「風景」。もちろんそのなかに人も犬も山も空もあるのです。その描写を通じて読み手にエモーショナルな心の動きがあれば、それこそが僕の詩です。
このことでも「文庫本主義者」とも少し話しましたが、結局、詩でなければ表現し得ないものを打ち出すべきだという結論になりました。 それはその通りなのです。 自分の中に、ひとつひとつ原則を決めて、そうやって書いてきているのも事実で、そのことを改めて強く意識しました。
なんのために、という問いは陳腐かもしれませんが、見失いたくないのは「自由」です。 好き勝手ではない「自由」。
また、書いていきます。
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