散歩主義

2004年10月22日(金) 「祈り」が書けるか、どうか。

大掃除の副産物というと怒られてしまいそうな発見をしました。
それは小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読むために購入した「新潮」2003年7月号の中にありました。

怠惰といってしまえばそれまでなんですが、小川さんの著作のためだけに購入したもので、ほかの記事は全く読まなかったんです…。
この本を読みたいという人がいて、その人に貸すためにぱらぱらと何気なくめくっていたら、後半の文芸評論で読むことを止められなくなってしまったのです。

井口時男「八十年代以降」…大江健三郎と中上健次(3) というのがそのタイトル。
興味深かったのはテキストと現実との往還に関しての論考と八十年代以降の文学の大きなテーマの一つである「宗教」についてでした。

むろん「70年代で私小説は終わった」とする説は小島信夫、古井由吉、そして大江健三郎の名をあげて「書きながら生きる人」としての性格を帯びた作家の存在そのものがそれを否定するとしていて、その先の論考なのですが。

ぼくなりに乱暴にまとめるとこうなります。

抑圧されたものの解放としての暴力、というテーマが60年代にあったとして、その暴力が、実は他者を巻き込んだ「事故=偶然」でもあったという切り返しのような証言、あるいは巻き込まれたものの理不尽な被害があった。それこそ疑いと暴露と敗北の70年代であったとします。
するとその「事故=偶然」の当事者たちはその意味を求めようとします。偶然に意味などないにもかかわらず。問えないものを問おうとする。その行き先は当然人にあらざるものになり、そこに「神」があらわれるわけです。

まさに象徴としての事件もありました。

「こちら側」と「あちら側」という分け方が文学にもあり、その代表ともいえるのが村上春樹だと思います。彼がこれほどに受け入れられるのは、やはりその欲求が社会にそれだけあるからでしょう。
だけど、それを突き詰めれば結局、オウムに行き着きます。

彼が「アンダーグラウンド」で懸命に取り組んだ誠実な姿勢はすばらしいと思うけれど、村上作品はそのタイトロープようなところにあるといってもいいのではないでしょうか。「アフターダーク」は違うと思いますけれど。

「こちら側」に懸命にとどまろうとする人、端的にぼくは「生活者」と呼びます。
「あちら側」に生活はありません。生活がないということは現実のこの世界はあり得ないということです。そして生きて「あちら側」にはいけるはもがない。
しかし、「あちら」にしか「説明」を求められないという「気持ち」もあるのは事実。
しかしそれでは苦悩が解けることはないと思うのです。

「あちら側」「こちら側」という二分法では、人の苦悩を解けやしないんじゃないだろうか。ぼくが、ものを書きながら直観的に思っていたのはそういうことだったんです。

井口氏は問います。
『「こちら側」は有限にして相対の世界だが「あちら側」は無限にして絶対である。無限にして絶対のものに関わる体験を崇高とよぶ。では、無限にして絶対なるものはあるのか(神は実在するのか)』

詳しい論考ははぶきますが、否定的弁証法による肯定、つまり「呈示できないものがあるということを呈示する」ということをのりこえて、人がたどり着くのは「境界」であるという説が登場します。「あちら」でも「こちら」でもない「境界」に人はたどり着くのだ、と。

ぼくがいちばん引っかかった箇所が次の言葉です。

『彼方というものはない。しかし芸術の限界には、奉献の所作がある。芸術を捧ぐ所作が、そしてそれによって芸術自身が自分の限界に触れる所作がある』
                …ジャン=リュック・ナンシー…

「奉献の所作」。これこそ「祈り」ではないでしょうか。

井口氏は語ります。
「祈りにおいて人間は自分自身の限界に触れ、自分自身を捧げるのだ。限界の彼方に?しかし<彼方というものはない>。あるのはただ、捧げる、という所作だけである。「彼方=あちら側」とは、この所作とともに、この所作のうちに生起する方向性に他ならない。だから祈りにおいて人は「彼方」に触れているのではない。人間の限界に触れているのであり、人間の限界において、限界に向けて、自分自身を差し出すのだ。祈りとは傲慢とは反対のもの、人間の究極の誠実であり究極の慎ましさである」

そしてその事の見える作品として、大江健三郎「静かな生活」「宙返り」「人生の親戚」をあげています。

しかし、この稿を読んで即座にぼくにひらめいたのは藤原新也さんの「何も願わないただ手をあわせる」に登場する遍路路のお寺にいた少女であり、「ぽろぽろをします」といってぶつぶつと語り出す、田中小実昌さんの父親が書かれていた「ポロポロ」でした。

何かに向けてではない。「その所作」が彼を、彼女を生かすのです。
「あちら側」にではなく、「あちら側」にむけた「私たち」でなく、例えば「宙返り」の最後では
『魂のことをする』といいます。それはそのまま小実昌さんの「ポロポロをします」に繋がっていくように思えて仕方がなかったのでした。


自分なりにものを書く、その姿勢を定める一つのポイントとしての「祈り」。
これはとても大事にしたいと改めて思いました。





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