散歩主義

2004年10月19日(火) 混沌が秩序に変わるとき…創造への覚え書き

今日は部屋中を大掃除しました。
迷惑そうなハナを隣の部屋に行かせて、本から原稿から自転車部品からベッドからジーンズまでなにからなにまで不要なものは全部棄てました。
おかげですっきりさわやか。スペースも広くとれました。

こういう時には、必ずあきれるような「もの」がでてきたりするんですが、まず本。あまりの「積ん読」のひどさにあきれました。読むことどころか買ったことさえ忘れていた本が何冊もあって、がっくり。頑張って読みます。

それともう一つは原稿やメモの多さ。半端じゃないです。とにかく書き直しが多いのと、ノートに書きつけておく、というのがもうここ10年以上の「癖」になっていて、それが山盛り。それをしばし読みふけっていました。

ほそぼそと詩を思い出したように書いていた頃のノートは詩以前のところで止まってしまっているし、黄ばんだ原稿用紙120枚の小説の原稿は力みしか見えない。
よくこれでめげずに書き続けててきたな、と妙に感心してました。

詩の原型になる走り書きは無数に近くあって、作品として実を結んだもののメモは廃棄しました。たとえば「光函」という詩の下書きは30通りぐらいありました。
ほかのも多くて、なんて非生産的なんだろうとあきれながらも、いつからかこのやり方に確信を持ちだしたことも思い出しました。

それは実際にぐにゃぐにゃとしたメモから作品ができあがるという経験から導き出されたものもありますが、自分では歌人の河野裕子さんの
「うまくなってから、では遅すぎる」という言葉を読んだときから確信を持ったと思っていたのです。

ところがこれが情けないことに、自分で頭にすり込むほど読んだある新聞の切り抜きのことを完全に忘れていたんです。今日、それが古いノートのなかから出てきました。
この「忘れていた」ということが今日の最大のミステリーですが、「今日」というタイミングで再び読めた幸運に感謝しました。

記事は1999年9月14日の京都新聞。「提言」というコラムで建築家の高松伸さんが書かれたものです。高松さんはそのユニークな建築物で京都を代表する建築家の一人といえる方です。京都大学教授でもありますね。

高松さんが書かれいたのは彼の「創造の流儀」についてでした。
曰く『創造とは秩序をつくりだすこと』である、と。

高松さんは紙と鉛筆のスケッチによって建築のアイデアをつくりだしていくのですが、一つの建築物に対して数百枚、数千枚の紙を費やすというのです。
しかも、それでアイデアが見つかるという保証はありません。

ところが、疲労困憊してその紙片の山に埋もれているとき、その中から青天の霹靂のごとく「それ」が生まれる、というのです。

引用すると
…私はその感じを「来る」としか言いようがないのであるが、まさしくそれは、探索の過程にまつわるすべての難問と呻吟を一気に解き放ち、ゆるぎなき秩序としてあらぬかなたからやって来るのだ。その証拠に、うず高く積もったそれまでのスケッチのどこを探そうと、到来したその秩序の片鱗さえ見つかることはない。…

ただ、ご本人も書いておられますが、最初の一枚にそれが「降臨」してくれればいいんですよね。ところが高松さんの場合はどうしても数百数千と描かねばならないそうなのです。
まったく、創造とは不経済であり、その苦闘と労働の堆積(それこそ混沌=カオスだと高松さんはおっしゃいます)から生まれるものこそ創造だとおっしゃいます。

そしてご自身の経験を裏打ちされるように二つの例をだされます。
一つがノーベル化学賞を受賞したI.プリコジンの「散逸構造理論」です。プリコジンはその著書「混沌からの秩序」の序文にこう書いています。

…平衡から遠く離れた系では、無秩序と混沌から『自己組織化』の過程を通じて秩序と組織が『自発的』に生じる可能性がある…

…液体は加熱し続けると、ある一点で一斉かつ唐突に、世にも美しい六角形の秩序を創造することは誰でも知っている。それは決して偶然ではなく、必然との共同によって起こる…

ここから高松さんは…秩序が生まれる必然的な可能性…ということに大いに励まされたのでした。「必然」ですからね。「かならず生まれる」可能性があるとうのですから。しかも『自発的に』です。
スケッチに「それ」が「立ち上がる」のです。
まるで高松さんの経験を裏打ちするような理論ですね。

もうひとつは画家で彫刻家のジャコメッティでした。
彼の創作の姿というものが、モデルを務めた男性の著書から伺えるのですが、単純なんです。つまり
…日々、描くこと。日々消すこと…なんですね。

したがって彼には完成作はなく、あるのは痕跡。断片的な秩序。
彼にとっての勇気とは「すでに描いた一切の細部を消すこと」だったといいます。
そのシジフォスのごとき苛酷な仕事を彼は延々と続けたのです。
ですから、創造とは秩序の建造に向けての倦むことのない労働そのものでもあるかもしれない、ともいえるのではないか、と。


今描いているこの稿の文脈を詩、あるいは小説に置き換えても同じ事はいえる、かつてのぼくはそう思ったのでした。
とにかく書くのです。「それ」が来るまで。

高松さんはこう励ましてくれます。

…それは働くこと。混沌(カオス)が高まり、絶望の澱が重く降り積もろうとも恐れずに働き続けること。厳密な科学の理論と苛酷な労働を生きた芸術家の日々が、励ましてくれている…と。

そして、たぶん形は今みえなくても「必ず来る」んだ、とぼくは信じたのでした。
とにかく続けること。ひょっとしたらその事こそすべてなのかもしれません。

…仕事すること、生きるために。
 生きること、仕事するために。
 よりよく生きるために…     ジャコメッティ
  


 < 過去  INDEX  未来 >


にしはら ただし [MAIL] [HOMEPAGE]