散歩主義

2004年09月20日(月) 円についてのシンクロニシティー

「アフターダーク」を読んで、ハービー・ハンコックのトーキョージャズ2004スペシャルユニットの演奏を聞いて、ずっと心がざわついていました。
理由はわかりません。わからないまま、本棚の隅に眠っていた本を引っ張り出して、任意のページをめくっていました。

それはシャーリー・マクレーンの「カミーノ」という本です。ぱらりと開いたページは、シャーリーが「理性の崖っぷちに読者を連れていく」から最後まで公開を迷ったという、後半部分。レムリアだとかアトランティスときいただけで、もう拒絶反応を起こす人もいるだろうけれど、それに関しての彼女の超常的、かつ率直な発言と体験が語られています。

このなかで彼女が述べていた事を簡単に言うと、あらゆる表現、生きかたを通して
わたし(たち)は本来の「ワンネス」に戻ろうとしているということ。つまり損なわれた自分の片割れを捜しているのだ、と。それは男と女、光と影などあらゆる二分化されたもの。もとは一つの完璧な円のような存在だったものなのだけれど、欠け落ち損なわれてしまったもの。今、それを繋ぐべく生きているのだ、と。
それは「わたし」と「わたしたち」の関係性にも重要な意味を持ちます。まるで「アフターダーク」にシンクロするように浮かんできたんだな、とその時は理解しました。

その「欠けた円」という発想は、今度発売されるミメイさん(田川未明さん)の「ミ・メデイア」におけるミメイさんとクミコさんの対談でも語られていて、(実は今、ゴザンスのサイトで立ち読みできます)
彼女達は表現の動機として、「欠けた円」としての自分に自覚的であるからこそ、表現に向かうのだと、述べています。これは大事な指摘だと思います。

さらに、何の気なしに読んだ紀貫之に関する文章で、彼が生まれ育った場所の性格上「姫」とよばれて育ったことを知りました。代表作で「ひらかな」を使って書かれた初めての書物「土佐日記」は女に化身して書かれています。しかしかれは、当時の詩歌が「おんなのなぐさみもの」だと非難し、漢詩を詠むべきだと主張もします。なんとも不思議な人物で「確かなものはなにもない」という思想が根底にあるのは確かなのですが、ぼくには彼が彼なりの「円」を繋ごうとしていたのではないかという気がしてならないのです。

そして、この日記を書いているときに見ていたパウル・クレーもそうでした。
彼の絵は徹底して単純な線に収斂していきます。それは子供の絵と精神障害者の絵から多大なインスパイアを受けています。
それはまさにどのようにも「統制も束縛もする事の出来ない絵」だったからです。
彼は無垢な魂の、描くべきスキルを持たない絵に、最高のスキルで「かたち」を与えたのです。そうすべきだということを知っていました。
これこそまさに「円」を繋ぐ作業です。

紀貫之もクレーも孤独です。シャーリーもクミコさんもミメイさんも、表現の場では孤独なのだと思います。
クレーの最晩年の言葉。
『わたしはこの世では理解されないだろう。なぜなら私の魂は、今だこの世に生まれざるもの、また死者のものとともにあるからだ』
紀貫之の有名な歌
『人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににおいける』
この二つに通い合うもの。その魂の自由さをこそ汲み取りたいと思います。






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